最終更新日 2025-09-01

鷲津砦の戦い(1560)

永禄三年、今川義元の大軍が尾張に侵攻。前哨戦たる鷲津砦は今川軍の猛攻に晒され、兵力劣勢の織田兵は奮戦し敵を足止め。その犠牲が信長に反撃の機を与え、桶狭間の奇跡へと繋がる。

鷲津砦の戦い(1560年)-桶狭間の序章、そのリアルタイム分析-

【表1:時系列表:鷲津砦の戦いと桶狭間の戦い当日の動き】

時刻(推定)

鷲津砦(織田方)

丸根砦(織田方)

清洲城・道中(織田信長)

沓掛城・桶狭間(今川義元)

5月19日 午前3時頃

今川軍(朝比奈泰朝隊)による攻撃開始。籠城戦を選択 1

今川軍(松平元康隊)による攻撃開始。打って出る戦術を選択 1

-

松平元康、朝比奈泰朝に両砦への攻撃を命令 3

午前4時頃

弓矢、鉄砲で応戦。激しい攻防が続く 1

佐久間盛重隊、砦外で激戦を展開 3

砦からの急報を受け、『敦盛』を舞い、わずか数騎で出陣 1

-

午前5時~7時頃

今川軍の火攻めにより、門扉や柵が炎上。防衛線が徐々に後退 5

織田方の防衛線が崩壊。守将・佐久間盛重討死 3

熱田神宮へ向け強行軍。道中で兵を集結させる 7

-

午前8時頃

守備兵の死傷者多数。陥落寸前の状態。

陥落。松平元康隊は戦後処理の後、大高城へ入城 2

熱田神宮に到着。両砦から立ち上る黒煙を目視で確認 3

沓掛城を出陣し、大高城方面へ本隊を進軍開始 3

午前10時頃

陥落。守将・飯尾定宗、織田秀敏ら討死 5

-

善照寺砦に到着。軍勢を整え、戦況を分析 3

行軍の途中、両砦陥落の吉報を受け上機嫌になる 1

正午~午後2時頃

-

-

豪雨に乗じ、中島砦を経由して今川本隊へ進軍 12

桶狭間山にて本隊を休息させる。油断が生じる 7

午後2時~4時頃

-

-

今川本隊に奇襲(または正面攻撃)を敢行。

織田軍の攻撃を受け本陣が混乱。今川義元討死 12


第一章:序章-尾張の緊張、決戦前夜

永禄三年(1560年)、日本の歴史を大きく転換させる戦いの舞台となった尾張国は、東からの巨大な圧力に晒されていた。駿河、遠江、三河の三国を支配下に置く「海道一の弓取り」、今川義元が、その強大な軍事力を以て尾張への侵攻を開始したのである。この動きは、後に「桶狭間の戦い」として知られる一連の軍事衝突の幕開けであり、その緒戦として極めて重要な意味を持つのが「鷲津砦の戦い」であった。

1-1. 今川義元の尾張侵攻戦略:上洛か、領土拡大か

今川義元が二万五千ともいわれる大軍を動員した目的については、長らく室町幕府の権威が失墜した京都へ上洛し、天下に号令するためであったという「上洛説」が定説として語られてきた 14 。しかし、近年の研究では、この壮大な目的論に疑問が呈され、より現実的かつ具体的な戦略目標があったとする見方が有力となっている 3

その核心は、尾張と三河の国境地帯における領土問題の最終的な解決である。当時、今川氏は三河国を実質的に支配下に置いていたが、その西側、尾張国内に食い込む形で存在する大高城や鳴海城といった拠点は、織田信長の築いた防衛網によって包囲され、兵站が脅かされる危険な状態にあった 3 。特に大高城は兵糧攻めに遭っており、その解放は今川方にとって喫緊の軍事課題であった 3

義元は、甲斐の武田氏、相模の北条氏との間に「甲相駿三国同盟」を成立させることで東方の安全を確保しており、全軍事力を西方の尾張へ集中投入できる万全の態勢を整えていた 18 。したがって、この大軍事行動は、天下取りという漠然とした野望の第一歩というよりも、まず国境地帯の織田勢力を駆逐し、最前線の拠点を確保・安定させることで、尾張への支配権を盤石にするための、極めて現実的な領土拡大政策の一環であったと解釈するのが妥当であろう 13 。この視点に立つとき、大高城を包囲する織田方の砦、すなわち鷲津砦と丸根砦の攻略が、義元の戦略において絶対的な最優先事項であったことが理解できる。

1-2. 織田信長の防衛網:挑発する「付け城」

対する織田信長は、今川方の拠点である大高城を無力化するため、その喉元に刃を突きつけるかのような大胆な防衛網を構築していた。それが、大高城を直接的に牽制・包囲するために築かれた丸根砦と鷲津砦である 6

地理的に見ると、鷲津砦は大高城の北東約700メートルの丘陵上に、丸根砦は東方約800メートルの位置に築かれていた 6 。この二つの砦は、今川方の最前線基地である大高城を頂点とする二等辺三角形の底辺を形成する配置にあり、相互に連携しながら大高城への補給路や城外との連絡を遮断する役割を担っていた 10 。これらの砦は単なる見張り台ではなく、土塁や堀といった防御設備を備えた本格的な平山城であり、大高と鳴海を結ぶ街道を見下ろす戦略的要衝に位置していた 17

信長のこの戦略は、単なる受動的な防御ではない。敵の重要拠点の目と鼻の先に新たな城砦を築くという行為そのものが、極めて攻撃的かつ挑発的な軍事行動である。信長は自らの居城である清洲城に籠城して敵を待ち受けるのではなく、敵の生命線である最前線基地の機能を麻痺させるための「楔」を打ち込んだ。これにより、今川義元に対して「この二つの砦を看過することはできず、まず攻略せざるを得ない」という状況を強制したのである。言い換えれば、信長は戦いの火蓋が切られる場所とタイミングを、ある程度自らの意図する方向へ誘導することに成功していた。鷲津砦と丸根砦は、防御拠点であると同時に、今川軍の行動を限定し、その力を削ぐための「おとり」兼「遅延装置」としての役割を運命づけられていた。

1-3. 両軍の将帥:運命を託された者たち

この運命の砦、鷲津砦の攻防には、両軍から選び抜かれた将帥が投入された。

攻撃側を指揮したのは、今川家の重臣である朝比奈泰朝(史料によっては泰能とも記される)である 17 。彼が率いた兵力は約2,000とされ、これは守備側の数倍に達する規模であった 5 。今川方が緒戦である前哨戦に、方面軍司令官クラスの重臣と大規模な兵力を投入したという事実は、この砦の攻略をいかに重要視していたかを物語っている。

一方、砦を守る織田方の主将は、飯尾定宗とその子・尚清(または信宗)であった 17 。飯尾定宗は、織田一族から飯尾氏の養子に入ったとされる人物であり、織田家にとって信頼の置ける譜代の将であった 24 。さらに、信長の大叔父にあたる織田秀敏も守将として名を連ねており、砦の守備兵力は約400から520名程度と伝えられている 1 。信長が自らの一族と重臣をこの危険な最前線に配置したことは、この砦が絶対に軽々に放棄してはならない重要拠点であるという認識の表れであり、将兵の士気を鼓舞する狙いもあったと考えられる。

しかし、その兵力差は実に4倍以上。鷲津砦の将兵たちは、開戦前から絶望的ともいえる籠城戦を覚悟せざるを得ない状況に置かれていたのである。

第二章:永禄三年五月十九日、夜明け前-戦端は開かれた(午前3時~午前5時頃)

尾張の地に立ち込める濃い夜霧が、やがて始まる血戦の匂いを隠しているかのような永禄三年五月十九日の未明。計算され尽くした今川軍の作戦が、静寂を破って実行に移された。

【表2:両軍の兵力比較:鷲津砦の戦い】

項目

攻撃側(今川軍)

防御側(織田軍)

総大将

今川義元

織田信長

部隊指揮官

朝比奈泰朝

飯尾定宗、織田秀敏、飯尾尚清

兵力

約2,000名 5

約400~520名 1

兵装(推定)

弓、槍、鉄砲、各種攻城具

弓、鉄砲、槍、刀剣

戦術目標

砦の迅速な陥落、大高城の解放

時間稼ぎ、今川軍先鋒の消耗

2-1. 今川軍、攻撃開始:静寂を破る鬨の声

午前3時頃、今川軍の精鋭、朝比奈泰朝率いる部隊が鷲津砦への攻撃を開始した 3 。この攻撃は、織田方にとっても全くの不意打ちではなかった。前日のうちに、今川軍が19日の朝、潮の満ち引きを計算に入れた上で砦を攻撃するであろうという確度の高い情報が、清洲城の信長のもとへもたらされていたのである 4

朝比奈隊は深夜のうちに音もなく砦を完全に包囲し、防御側が最も警戒を怠りやすい夜明け前の暗闇を突いて一斉に鬨の声を上げた 1 。この時間帯の選択には、明確な戦略的意図があった。第一に、視界の悪さを利用して、城壁からの反撃による損害を最小限に抑えつつ、攻城の準備を整えることができる。第二に、そしてこれが最も重要であるが、織田方の本隊が救援のために清洲城を出発する前に、電撃的に砦を陥落させることで、織田軍の連携を分断しようという狙いである。今川方の作戦計画は、この前哨戦をあくまで短期決戦で終わらせ、速やかに主目標である大高城の安全を確保することにあった。

2-2. 砦内の覚悟:籠城という選択

敵の鬨の声と押し寄せる気配を察知した鷲津砦の守備隊は、即座に防戦死守の態勢を固めた 1 。これは、絶望的な兵力差を前にして、砦の防御力を最大限に活用し、持久戦に持ち込むという極めて合理的な判断であった。

興味深いのは、ほぼ同時刻に松平元康(後の徳川家康)率いる別働隊の攻撃を受けた丸根砦の対応との明確な違いである。丸根砦を守る佐久間盛重は、敵の攻撃に対し、砦から打って出る積極的な野戦を選択した 1 。この戦術選択の分岐は、桶狭間の緒戦における重要なポイントである。

なぜ鷲津砦は籠城し、丸根砦は打って出たのか。その理由は複合的であったと考えられる。第一に、両砦の指揮官である飯尾定宗と佐久間盛重の将としての性格や戦術思想の違い。第二に、砦の構造や周囲の地形が、籠城に適していたか、あるいは野戦に有利であったかの違い。そして第三に、信長から与えられていた命令内容が異なっていた可能性である。

特に、鷲津砦が選択した徹底した籠城戦は、単に生き残るための消極的な選択ではなかった可能性が高い。それは、「時間を稼ぐ」という戦略的目的を最大化するための、極めて能動的な戦術であった。打って出て早期に玉砕してしまえば、敵の足止めはわずかな時間で終わってしまう。しかし、堅固な砦に立てこもって敵の攻撃を受け止め続ければ、たとえ最終的に陥落する運命にあったとしても、その過程で敵軍に多大な時間と労力、そして兵力の損耗を強いることができる。飯尾定宗らに与えられた真の任務は、砦を守り抜くこと以上に、主君・信長が反撃の準備を整えるための貴重な時間を、自らの命と引き換えに捻出することだったのかもしれない。

第三章:攻防の激化-炎と鬨の声(午前5時~午前8時頃)

夜が明け始め、東の空が白む頃、鷲津砦の攻防は熾烈を極めていた。圧倒的な兵力で押し寄せる今川軍に対し、織田方の守備兵は決死の抵抗を続けていたが、朝比奈泰朝は力押しだけではない、より効果的かつ残忍な戦術を選択する。

3-1. 火攻めの実態:燃え盛る木造の砦

今川軍は、砦の門扉や防御の要である営柵(えいさく)に次々と火を放った 5 。戦国時代の城砦は、そのほとんどが木と土で造られており、火攻めは極めて効果的な攻城戦術であった 27 。一度火が放たれれば、乾燥した木材は瞬く間に燃え広がり、防御施設としての機能を失わせる。さらに、火攻めは物理的な破壊力以上に、守備兵の士気を根底から揺るがす強力な心理的効果を持っていた 27 。黒煙が視界を奪い、熱風が呼吸を苦しめ、味方が火に巻かれていく様は、兵士たちの戦意を著しく削いでいく。

朝比奈泰朝が選択した火攻めは、単なる brute force 攻撃ではない。それは、寡兵である織田方が頼みとする地形と防御施設の利を無力化するための、計算された戦術であった。火によって柵や門が焼き払われれば、そこが突破口となり、今川軍は自らの兵力差を直接的に活かせる白兵戦の舞台を、砦の内部に強制的に作り出すことができる。鷲津砦の地形は小高い丘であり、火の手が回れば守備兵は狭い郭(くるわ)の中に追い詰められ、逃げ場を失うことになる 29 。これは、籠城戦の前提そのものを覆す、極めて効果的な攻城術であった。炎は今川軍の最も強力な兵器として、鷲津砦の防衛線を内側から蝕んでいった。

3-2. 織田方の応戦:寡兵の意地

猛烈な火攻めと、波状攻撃を仕掛けてくる今川軍に対し、鷲津砦の守備兵は最後の意地を見せた。彼らは燃え盛る柵の内側から、弓と鉄砲で必死に応戦したのである 1 。特に鉄砲は、当時の最新兵器であり、その射程と威力は密集して押し寄せる敵兵に対して有効な打撃を与えたはずである。

しかし、攻め寄せる朝比奈勢は、損害を意に介さず、疲弊した部隊を後退させては新たな兵を投入する「新手を繰り出す」戦法で、執拗に攻め続けた 1 。これは兵力に勝る側が取り得る典型的な消耗戦の戦術であり、防御側の体力と弾薬を確実に削り取っていく。

それでもなお、織田方の抵抗は数時間にわたって続いた。これは、彼らが単なる玉砕覚悟の無謀な戦闘をしていたわけではないことを示している。弓矢や鉄砲による遠距離攻撃は、敵兵の接近を許さず、自らの損害を抑えながら効率的に敵を殺傷するための戦術である。彼らが持ちこたえた数時間は、そのまま今川軍の攻撃部隊が砦の攻略に費やした時間であり、その過程で相当数の兵士が死傷し、また生き残った者も著しく疲弊したことを意味する。この「時間稼ぎ」と「敵兵力の消耗」、これこそが、鷲津砦の守将たちが自らの命を賭して成し遂げた、桶狭間本戦へと繋がる最大の戦略的貢献であった。

第四章:清洲城の信長-煙を見つめて(午前4時~午前9時頃)

鷲津砦が炎と鬨の声に包まれていた頃、約12キロメートル離れた織田信長の本拠地・清洲城では、歴史の転換点となる決断が下されようとしていた。

4-1. 第一報と『敦盛』:計算された出陣

夜明け方、鷲津・丸根両砦が今川軍の攻撃を受けたという第一報が、伝令によって清洲城にもたらされた 1 。前夜の軍議では、圧倒的な兵力差を前に重臣たちが絶望し、信長も具体的な作戦を示さず世間話に終始したため、家臣たちは「運の末には、知恵の鏡も曇る」と信長を見限るかのような雰囲気に包まれていた 3

しかし、この急報を受けた信長の行動は、家臣たちの予想を完全に裏切るものであった。信長はやおら立ち上がると、能の一節である幸若舞『敦盛』を舞い始めた。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」。人の世の儚さを謡い終えると、信長は「法螺貝を吹け。具足をここに」と命じ、鎧を身に着けると、立ったまま湯漬けをかき込み、兜をかぶって出陣した 1 。この時、午前4時頃。夜がまだ明けきらぬうちの電撃的な出陣であった 3

信長のこの一連の行動は、単なる感情の発露や死の覚悟の表明と見るべきではない。それは、絶望的な状況下で絶対的な指導者としての威厳と冷静さ、そして常人を超越したカリスマ性を示すための、高度に計算された政治的パフォーマンスであった。重臣たちの動揺と不信を一瞬にして掌握し、自らの指揮下に再び引き戻すための、強力な心理的装置として機能したのである。この劇的な出陣により、織田軍の士気は一気に高まった。

4-2. 熱田神宮にて:戦況の目視確認

清洲城を飛び出した信長に付き従ったのは、岩室長門守、長谷川橋介ら、わずか5、6騎の小姓衆のみであった 3 。主従は馬を駆り、午前8時頃、南方の熱田神宮に到着した 3 。道中で合流した兵を合わせても、その数はいまだ200名程度であったという 4

信長がこれほど少人数で先行したのは、単なる勇み足や性急さからではない。それは、断片的な情報しか伝えられない伝令に頼るのではなく、自らの目で直接戦況をリアルタイムで確認するための、極めて合理的な情報収集活動であった。熱田神宮の南、伊勢湾を見渡せる場所まで進むと、東の空に二筋の黒煙が立ち上っているのが見えた 3 。鷲津砦と丸根砦が燃えている、あるいは既に焼け落ちたことを示す紛れもない証拠であった 13

この「黒煙」こそが、信長にとって最も確実で最新の戦況報告であった。煙の色、勢い、方向から、砦がまだ持ちこたえているのか、それとも既に陥落したのか。そして、それを攻略した敵主力が今どこにいるのか。信長はこの視覚情報から、敵の次の行動をおおよそ推測できたはずである。この自らの目で確かめた情報こそが、後の善照寺砦への進出、そして桶狭間への突撃という、常識外れとも思える大胆な決断を下す上での、最も重要な根拠となったのである。

第五章:砦の陥落-飯尾定宗の最期(午前8時~午前10時頃)

信長が熱田の地から戦場の煙を見つめていた頃、鷲津砦では数時間にわたる死闘が、ついに終焉を迎えようとしていた。

5-1. 防衛線の崩壊と将帥の討死

夜明け前から続いた激戦は、守備側の体力と精神力を限界まで削り取っていた。今川軍の絶え間ない波状攻撃と、燃え盛る炎によって、砦の防御機能はほぼ失われ、守備兵は次々と討ち取られていった 5

ついに防衛線は完全に崩壊。守将であった飯尾定宗、その子・尚清、そして信長の大叔父・織田秀敏らは、乱戦の中で壮絶な討死を遂げた 11 。生き残ったわずかな兵士たちも、もはや戦線を維持できず、清洲方面へと敗走していった 5 。こうして、約5時間から7時間にわたる抵抗の末、鷲津砦は午前10時頃までに完全に陥落した 5

鷲津砦の将兵たちは、「砦を守り抜く」という戦術的目標を達成することはできなかった。しかし、彼らの犠牲は決して無駄ではなかった。4倍以上の敵を長時間にわたって足止めし、その先鋒部隊に多大な消耗を強いたという事実は、軍事的に見て驚異的な粘りであった。彼らがその命と引き換えに稼いだ数時間こそが、主君・信長に軍勢を集結させ、戦況を分析し、そして反撃の機会を掴むための、決定的な時間的価値を創出したのである。彼らの犠牲なくして、後の桶狭間の奇跡はあり得なかった。

5-2. 勝利の報告、慢心への序曲

鷲津砦、そして丸根砦の陥落という吉報は、ただちに今川義元の本隊のもとへ届けられた。この時、義元は本拠である沓掛城を出発し、大高城方面へ向けて本隊を進軍させている最中であった 1

この勝利の報告に、義元は大いに上機嫌になったと伝えられている 1 。彼の視点から見れば、尾張侵攻における最大の障害と目された、大高城を包囲する二つの忌々しい砦を、計画通りに、かつ迅速に排除できたことになる。これで大高城への道は開かれ、兵糧の搬入も完了した。作戦は順風満帆に進んでいる。この成功体験が、義元の心に致命的な油断と慢心を生じさせた。

気を良くした義元は、蒸し暑い気候の中での行軍に疲れた兵士たちを労うため、桶狭間山周辺の窪地で大休止を取ることを決断する 7 。これが、彼の運命を決定づける判断ミスとなった。つまり、鷲津砦の戦いは、物理的に今川軍の先鋒を疲弊させただけでなく、その「陥落」という情報自体が、敵の総大将の判断を致命的に誤らせる最大の要因となったのである。情報戦という観点から見れば、鷲津砦の壮絶な玉砕は、今川義元という大魚を釣り上げるための、最も効果的な撒き餌であったと言えよう。

第六章:戦略的考察-鷲津砦陥落が意味したもの

鷲津砦の戦いは、単独の戦闘として見れば、織田方の敗北であり、守備隊の全滅という悲劇的な結末を迎えた。しかし、桶狭間の戦いという大きな枠組みの中で捉え直した時、その戦略的価値は全く異なる様相を呈してくる。この前哨戦は、桶狭間本戦の単なる序章ではなく、その勝敗を決定づけた「原因」そのものであった。

6-1. 桶狭間本戦への連鎖

鷲津砦の攻防が、いかにして織田信長による歴史的な大逆転劇の舞台を整えたのか。その因果関係は、三つの側面に集約することができる。

第一に、**【時間的要因】**である。鷲津砦の守備隊が約5時間から7時間もの間、圧倒的な敵軍を足止めしたことによって、信長は軍勢を集結させ、戦況を冷静に分析し、そして最適な攻撃地点へと軍を移動させるための決定的な時間を得ることができた。もし砦が瞬時に陥落していれば、信長は準備が整わぬまま、無秩序な戦闘に巻き込まれていた可能性が高い。

第二に、**【物理的要因】**である。鷲津砦での激戦は、今川軍の先鋒部隊である朝比奈隊、そして丸根砦を攻めた松平隊を著しく疲弊させた。信長は後に、善照寺砦で兵士たちに檄を飛ばした際、「敵は(中略)鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり」と明確に指摘している 4 。これは、敵が前哨戦での消耗により、本来の戦闘能力を発揮できない状態にあることを見抜いていた証拠である。鷲津砦の抵抗が、今川軍の戦力を物理的に削いでいたのである。

第三に、そして最も重要なのが**【心理的要因】**である。鷲津砦の陥落という勝利の報は、今川義元に「織田方の主要な抵抗拠点はもはや存在しない」という誤った認識を植え付けた。これにより生じた慢心と油断が、大軍の将としてあるまじき、狭隘な窪地での不用意な休息という致命的な判断ミスに繋がった 1 。鷲津砦の陥落は、義元にとって勝利への確信を深める吉報であったが、同時にそれは、信長が仕掛けた罠へと誘い込むための弔鐘でもあった。

これら三つの要因が複雑に絡み合い、連鎖することで、織田信長が奇跡を起こすための完璧な舞台が整えられた。利用者様が当初お持ちであった「今川方が砦を陥落、信長は機を窺う」という認識は、この複雑な因果関係の表層を的確に捉えている。本報告書が明らかにしたのは、その深層にある「砦の陥落という出来事そのものが、信長の窺うべき『機』を能動的に創出した」という戦略的構造である。

6-2. 歴史のif:もし鷲津砦が持ちこたえていたら

歴史に「もし」は禁物であるが、思考実験として、鷲津砦の戦いが異なる結末を迎えていた場合を想定することは、その戦略的重要性を理解する上で有益である。

もし、鷲津砦がさらに数時間、あるいは半日以上持ちこたえていたとしたら、歴史は大きく変わっていた可能性がある。第一に、今川義元は桶狭間で休息を取ることなく、そのまま大高城へ入城していたかもしれない。そうなれば、信長に奇襲攻撃の機会は生まれず、堅固な城を拠点とする今川軍を相手に、織田方は長期的な籠城戦か、不利な野戦を強いられることになったであろう。

第二に、膠着した戦況を見た信長が、野戦での決戦を諦め、清洲城での籠城を選択した可能性もある。そうなれば、兵力と兵站で優る今川軍が有利となり、尾張は時間をかけて今川の支配下に置かれていたかもしれない。

第三に、信長が砦の救援に固執し、主力軍を率いて平野部で今川の大軍と正面から激突していた可能性も否定できない。その場合、十倍近い兵力差の前に、織田軍は衆寡敵せず壊滅し、信長自身も討死していたであろう。

このように考えると、鷲津砦の「午前10時頃の陥落」というタイミングは、歴史の女神が信長に微笑んだかのような、絶妙なものであった。早すぎず、遅すぎず。敵を消耗させ、油断させるのに十分な時間抵抗し、そして信長が行動を起こす直前に陥落する。この完璧なタイミングこそが、歴史を桶狭間の奇跡へと導いた、極めて重要な分岐点であったと言えるのである。鷲津砦の将兵たちの死は、織田信長の天下布武への道を切り開く、尊い礎となったのであった。

引用文献

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  2. 尾張丸根砦 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/owarimarune.htm
  3. 桶狭間の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  4. 信長公記』「首巻」を読む 第39話「今川義元討死の事 - note https://note.com/senmi/n/nd7f28bfc3ed9
  5. 鷲津砦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B2%E6%B4%A5%E7%A0%A6
  6. 丸根砦跡 - スポット詳細 | KANSAI MaaS https://app.kansai-maas.jp/spots/11935
  7. 桶狭間の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7145/
  8. 大高城 鷲津砦 丸根砦 桶狭間古戦場公園 - 探検庭園 https://tankenteien.work/chubu/%E6%84%9B%E7%9F%A5/post-8026/
  9. 桶狭間合戦 ― 織田&今川の進軍ルート - 歴旅.こむ - ココログ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-87d8.html
  10. 桶狭間の戦い 大高城/鳴海城と5つの砦めぐり - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%80%80%E5%A4%A7%E9%AB%98%E5%9F%8E-%E9%B3%B4%E6%B5%B7%E5%9F%8E%E3%81%A8%EF%BC%95%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%A0%A6%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8A/
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  13. 奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/101738/
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  18. 今川義元は何をした人?「海道一の手腕と三国同盟で栄華を築くも桶狭間に倒れた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshimoto-imagawa
  19. 「桶狭間の戦い」が徳川家康の運命を分けた? 今川義元の討死のその後 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9598
  20. 尾張 鷲津砦-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/owari/washizu-toride/
  21. 鷲津砦跡 | 大高城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/184/memo/1764.html
  22. 丸根砦・鷲津砦 | あいち歴史観光 - 愛知県 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/place4.html
  23. 丸根砦・鷲津砦> ”桶狭間の戦い”前哨戦で”元康(後の家康)”等今川勢が織田勢を圧倒する! https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12777372520.html
  24. 武家家伝_飯尾氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/odaiio_k.html
  25. 桶狭間古戦場を歩く(ニ)丸根砦・鷲津砦・大高城|愛知観光 歴史と文学の旅 https://sirdaizine.com/travel/Okehazama2.html
  26. 【三河物語】桶狭間の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/historical-material/documents3/
  27. 合戦の種類 ~野戦・海戦・攻城戦~/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18695/
  28. 火を使った戦いの古戦場/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90473/
  29. 2016春、信長所縁の史跡・鷲津砦(1) - 名古屋 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11111852
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  31. [ID:227587] (桶狭間合戰の古跡) 鷲津砦 守將西軍織田信平等 東軍朝比奈泰能等に攻められ將飯尾定宗等戰死 : 資料情報 | 収蔵品データベース | 長野県立歴史館(文献史料) https://jmapps.ne.jp/npmh_bunken/det.html?data_id=227587
  32. 『信長公記』首巻を読む。 - note https://note.com/senmi/m/m1db1e45881f4
  33. 「信長公記」に見る桶狭間の真実とは http://yogokun.my.coocan.jp/okehazama.htm
  34. 【信長公記】桶狭間の戦い - 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/historical-material/documents1/