黒田城(播磨)攻防(1577)
天正五年、羽柴秀吉は播磨福原城を攻略。黒田官兵衛の智略と秀吉の冷徹な戦略が融合し、播磨平定の試金石となった。この戦いは、その後の上月城攻防へと繋がり、官兵衛の評価を確立した。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
天正五年 播磨福原城攻防戦の詳報:黒田官兵衛の智略と羽柴秀吉の播磨平定戦略
序論:問いの再定義 — 「黒田城」から「福原城」へ
利用者様より提示された「黒田城(播磨)攻防(1577)」という合戦名は、天正5年(1577年)に播磨国で繰り広げられた羽柴秀吉軍の軍事行動を指し示すものと解釈される。この名称は、合戦で中心的な役割を果たした稀代の軍師・ 黒田官兵衛孝高 の名と、その活動の舞台となった播磨国という地名が結びついた、通称的表現であると考えられる。
史実を精査すると、播磨国には黒田氏発祥の地とされ、官兵衛の生誕伝承地でもある「黒田城」(兵庫県西脇市)が確かに存在する 1 。しかし、天正5年に羽柴秀吉の中国方面軍が関与する大規模な攻防戦がこの城で行われたことを示す信頼性の高い史料は見当たらない。
一方で、同年の天正5年11月、織田信長の命を受けて播磨に侵攻した羽柴秀吉軍が、黒田官兵衛と竹中半兵衛を先鋒部隊の指揮官として攻略した城郭が存在する。それが、播磨国佐用郡に位置する**福原城(別名:佐用城)**である 4 。この戦いは、秀吉による播磨平定の緒戦であり、黒田官兵衛が秀吉の麾下でその軍才を遺憾なく発揮した重要な合戦であった。
したがって、本報告書では、利用者様の真の関心事であると判断される「天正五年十一月、羽柴秀吉の播磨侵攻における福原城(佐用城)攻防戦」を主題とし、その戦略的背景、戦闘の時系列的展開、そして歴史的意義について、現存する複数の史料を比較分析しながら徹底的に詳述する。
第一部:合戦前夜 — 天正五年、播磨国の戦略的状況
1-1. 二大勢力の狭間で:織田と毛利の対立構造
天正5年(1577年)、織田信長による天下統一事業は最終段階に差し掛かり、畿内とその周辺地域をほぼ手中に収めていた。その次なる目標は、西国に一大勢力圏を築く中国地方の雄・毛利氏の打倒であり、両者の全面対決はもはや避けられない情勢にあった 7 。播磨国は、東の織田勢力と西の毛利勢力の版図が直接接触する最前線であり、両大国にとって極めて重要な戦略的緩衝地帯となっていた 8 。
この機を捉え、信長は同年10月、腹心の将である羽柴秀吉を中国方面軍の総司令官に任命し、播磨へと派遣した 9 。この軍事行動の主目的は、播磨に割拠する国衆(在地領主)を完全に織田方へ帰順させ、毛利攻めのための確固たる橋頭堡を築くことにあった。播磨の支配権を確立することは、毛利氏との決戦に向けた兵站線と前線基地を確保する上で不可欠だったのである。
1-2. 播磨国衆の葛藤と黒田官兵衛の選択
当時の播磨国は、守護大名であった赤松氏の権威が失墜し、御着城の小寺氏、三木城の別所氏、龍野城の赤松氏といった有力な国衆が群雄割拠する、政治的に不安定な状態にあった 11 。彼らは自家の存続を賭け、強大な織田と毛利の間で巧みな二股外交を展開し、日和見的な態度を取ることで乱世を乗り切ろうとしていた 9 。
このような複雑な情勢の中、小寺政職の家老であった黒田官兵衛孝高は、いち早く織田信長の革新性と将来性を見抜き、主君・政職に対して毛利氏ではなく織田方へ味方するよう強く進言した 12 。官兵衛の卓越した先見性と説得により、天正3年(1575年)には小寺政職が別所長治ら播磨の主要な国衆と共に上洛し、信長に謁見している 11 。
そして天正5年、秀吉が播磨に入国すると、官兵衛は自らの居城であり、播磨の中心に位置する姫路城を秀吉軍の本拠地として提供するという破格の決断を下す 7 。これは、単なる城の提供に留まらず、播磨平定という困難な事業に対する官兵衛の全面的な協力姿勢と、秀吉への揺るぎない忠誠心を示す象徴的な行動であった。
福原城攻めは「播磨平定の試金石」であった
秀吉の播磨入りは、単なる軍事侵攻ではなく、態度を決めかねている播磨国衆に対する一種の「踏み絵」であった。多くの国衆が依然として織田と毛利を天秤にかけている中、西播磨の福原氏と、その主筋にあたる上月城主・赤松政範は、明確に毛利方として織田軍に抵抗の意思を示した。
このため、最初に牙を剥いた抵抗拠点である福原城を、いかに迅速かつ圧倒的な力で攻略するかは、他の国衆たちの去就に絶大な影響を与えることになる。この戦いは、秀吉軍の戦闘能力と、黒田官兵衛ら在地協力者の価値を播磨全土に示すための、いわば「見せしめ」としての意味合いを強く帯びていた。単なる掃討戦ではなく、播磨全体の趨勢を決める極めて重要な政治的・心理的意味を持つ戦いであり、この認識こそが、後に詳述する凄惨な戦後処理の背景を理解する鍵となるのである。
第二部:攻防の舞台と将帥 — 福原城と対峙する指揮官たち
2-1. 舞台分析:福原城(佐用城)の構造と防御能力
攻防の舞台となった福原城は、現在の兵庫県佐用郡佐用町に位置し、佐用川に面した比高約20メートルの丘陵上に築かれた平山城であった 5 。地理的には、西の上月城、南の高倉城、東の利神城といった城郭と連携し、赤松氏が西播磨に築いた防衛ネットワークの重要な一翼を担っていた 5 。
城の縄張り(設計)は、決して大規模ではないものの、要所を押さえた堅固な構造であったと推測される。主郭の背後(北側と西側)にはL字型に高い土塁が巡らされ、その外側には空堀が掘られていた 5 。主郭から堀切を隔てた西側にも曲輪が設けられ、斜面には帯曲輪のような段状の防御施設も確認できる 14 。南に佐用川を天然の堀とし、北に山を背負うという、中世城郭の典型的な防御地形を巧みに利用した城であった。
2-2. 将帥分析:両軍の指揮官
攻撃軍(羽柴軍)
-
総大将:羽柴秀吉
中国方面軍司令官として播磨平定全体の指揮を執った。この福原城攻めの時点では、南方の高倉山に本陣を構え、全軍を統括していた 16。 -
現場指揮官:黒田官兵衛孝高と竹中半兵衛重治
「両兵衛」と並び称される、秀吉が最も信頼を置く二人の軍師が、この緒戦の先鋒を任された 4。官兵衛は播磨の地理と国衆の人心に精通した案内役であり、卓越した戦術家でもあった。一方の半兵衛も、美濃斎藤氏の家臣時代からその智謀で名を馳せた当代随一の軍略家であった。この二人の起用は、秀吉がこの戦いをいかに重視していたかを示している。
守備軍(福原方)
-
城主:福原則尚(ふくはら のりひさ)
福原城主の名については、史料によって記述が異なり、錯綜が見られる。
- 福原則尚 説 :地元の伝承や『三日月町史』などの記録に見られる名前である 5 。赤松一門の出身で、毛利方の中核であった上月城主・赤松政範の妹を妻としていたとされ、この姻戚関係が、福原氏が毛利・宇喜多方として秀吉に抵抗する直接的な動機になったと考えられる 19 。
- 福原助就(ふくはら すけなり) 説 :黒田家の公式記録である『黒田家譜』に登場する名前である 5 。『黒田家譜』には、助就は下野国那須氏の一族で、もとは龍田太郎左衛門と名乗っていたという異説も記されており、その出自は謎に包まれている 20 。
この名前の不一致は、合戦の記録が誰の視点から、どのような意図で記されたかによって変化することを示す好例である。本報告書では、両説を併記しつつ、後の史料分析でその背景を考察する。
第三部:合戦詳報 — 福原城攻防、時系列による再構築
天正5年(1577年)11月27日 未明~午前:開戦
羽柴秀吉率いる本隊は、西播磨の最重要拠点である上月城攻略の足掛かりとして、福原城の南に位置する高倉山に本陣を敷いた 16 。秀吉は、主目標である上月城を攻めるに先立ち、その後背を脅かす可能性のある福原城の排除を最優先課題とした。そして、この重要な緒戦の指揮を、黒田官兵衛と竹中半兵衛の両名に命じたのである 4 。
同日 昼~午後:第一次攻撃と福原方の善戦
命令を受けた黒田・竹中隊は、直ちに福原城への攻撃を開始した。しかし、福原城の守備兵は少数ながらも士気高く、城に籠るだけでなく、城下へ討って出て羽柴軍を迎え撃つなど、激しい抵抗を見せた 18 。予想を上回る福原方の頑強な防戦に、当代随一の軍師とされた「両兵衛」が率いる先鋒部隊は苦戦を強いられた 4 。
この緒戦での苦戦は、単に福原方の士気の高さや城の防御機能が優れていたことを示すだけでなく、様々な勢力から構成された寄せ集めである秀吉軍の連携が、緒戦の段階ではまだ完全ではなかった可能性を示唆している。この予期せぬ抵抗があったからこそ、後の戦術転換、すなわち増援の要請と計略の導入が必要となり、戦いはより多角的で複雑な様相を呈することになった。
同日 夕刻~夜:戦局の転換
戦況が膠着状態に陥る中、蜂須賀正勝(小六)が率いる部隊が援軍として戦場に到着した 4 。蜂須賀隊の加勢により、攻撃側の兵力は増強され、兵士たちの士気も一気に高揚した。数的優位を確立した羽柴軍は、日没を待って総攻撃へと移行する。
同日 夜半~落城:総攻撃と二つの戦術
福原城を陥落させた戦術については、史料によって二つの異なる記述が残されている。
-
戦術A(『播州佐用軍記』の記述):陽動と挟撃
この記録によれば、羽柴軍は二手に分かれて攻撃を行った。まず、援軍の蜂須賀隊が城の裏手にあたる搦手(からめて)に回り込み、大量の鉄砲を撃ちかけて城兵の注意を引きつける陽動作戦を展開した 4。城内の守備兵力が搦手の対応に追われ、分散した隙を突いて、大手(正面)から黒田・竹中隊が満を持して総攻撃を仕掛けた。この挟撃により城主らを誘い出し、城を制圧したとされる 4。 -
戦術B(『黒田家譜』の記述):孫子の兵法「囲師必闕」
黒田家の公式記録では、この勝利は黒田官兵衛の智略によるものとされている。官兵衛は、孫子の兵法にある「囲師必闕(いしひっけつ)」、すなわち「敵を包囲する際には必ず一方の逃げ道を開けておけ」という策を秀吉に進言した 4。これは、敵兵を完全に包囲して絶望させ、死に物狂いの抵抗を招くのを避け、「ここからなら逃げられるかもしれない」という心理的な逃げ道を与えることで敵の戦意を挫く、高度な心理戦術である。しかし、地元の伝承によれば、この開けられたルートから逃げようとした城兵は、待ち伏せていた兵によってことごとく討ち取られたとされており、この計略が実際には敵を殲滅するための罠として機能した可能性も示唆されている 21。
落城の瞬間と城主の最期
城主の最期についても、史料によって大きく二つの説に分かれている。
- 討死説 :秀吉が戦後に発給した書状(下村文書)や『黒田家譜』では、城主は乱戦の中で討ち取られたと記されている 18 。特に『黒田家譜』は、城主・福原助就を討ち取ったのは、秀吉配下の平塚為広であったと、その功労者の名を具体的に記録している 5 。
- 自刃説 :一方、地元の伝承や『三日月町史』などの郷土史料では、城主・福原則尚は敗北を悟ると、自ら城に火を放って敵の手に渡るのを防ぎ、菩提寺である福円寺まで退いて一族郎党と共に自刃を遂げたと伝えられている 5 。その日は12月1日であったともされる 21 。
いずれの説が真実であったにせよ、複数の史料や伝承が一致して伝えているのは、落城時に城兵や城内にいた非戦闘員を含む者すべてが斬殺されるという、極めて凄惨な結末を迎えたという事実である 4 。
第四部:史料の交錯と分析 — 複数の記録から浮かび上がる実像
4-1. 史料間の矛盾点
福原城攻防戦の記録は、それを伝える史料によって細部が大きく異なっている。この矛盾点を整理し、比較検討することは、歴史の多角的な理解に不可欠である。主要な相違点は以下の通りである。
- 城主の名前 :福原則尚か、福原助就か。
- 攻撃戦術 :物理的な兵力による挟撃作戦か、官兵衛の智略による心理的な包囲作戦か。
- 城主の最期 :戦場での討死か、菩提寺での自刃か。
- 主要な功労者 :黒田官兵衛と平塚為広の功績を強調する記録と、蜂須賀隊の役割を大きく記す記録がある。
4-2. 史料批判:なぜ記述は異なるのか
これらの記述の相違は、各史料が成立した背景や編纂者の意図を反映していると考えられる。
- 『黒田家譜』 :江戸時代に福岡藩(黒田藩)によって編纂された公式の家史である。そのため、藩祖である黒田官兵衛の智将としての側面、特に孫子の兵法を駆使するような高度な軍略家としてのイメージを際立たせ、その功績を最大化する意図が働いている可能性が高い。また、家臣である平塚為広の具体的な武功を記すことで、家臣団の由緒を飾る目的も含まれているだろう 5 。
- 『播州佐用軍記』 :地元で編纂された軍記物語であり、より地域に根差した伝承を反映している可能性がある。黒田家以外の武将、特に援軍として活躍した蜂須賀隊の役割を大きく記述している点はその表れと言える 4 。また、羽柴軍が「苦戦した」という記述は、敵将であった福原氏の名誉をある程度保ち、地元の英雄として記憶しようとする意識の現れかもしれない。
- 羽柴秀吉書状(下村文書など) :合戦直後に秀吉自身が戦果を報告した一次史料に最も近いものである。戦術の詳細は省かれていることが多いが、「城主を討ち取った」という簡潔な記述は、討死説を裏付ける有力な証拠となる 16 。
- 地元伝承(福円寺など) :地域の記憶として、人々の間で語り継がれてきた物語である。城主が菩提寺で潔く自刃したという筋書きは、悲劇の英雄として地域の人々が城主を記憶し、その霊を祀る過程で形成された可能性が考えられる 21 。
これらの史料間の相違点を以下の表にまとめる。
|
項目 |
『黒田家譜』 |
『播州佐用軍記』 |
羽柴秀吉書状 |
地元伝承 |
|
攻撃日 |
天正5年11月 |
天正5年11月27日 |
天正5年11月27日 |
天正5年11月27日 |
|
城主名 |
福原助就 |
(特定せず) |
「城主」 |
福原則尚 |
|
主要戦術 |
囲師必闕の計 |
鉄砲による陽動と挟撃 |
(記述なし) |
囲師必闕の計(殲滅戦) |
|
援軍の役割 |
(記述なし) |
蜂須賀隊が陽動を担当 |
(記述なし) |
(言及なし) |
|
城主の最期 |
平塚為広に討たれる |
(不明) |
討ち取る |
福円寺にて自刃 |
|
主要な功労者 |
黒田官兵衛、平塚為広 |
竹中・小寺隊、蜂須賀隊 |
(秀吉軍全体) |
黒田官兵衛 |
第五部:戦後の播磨と歴史的意義
5-1. 即時的影響:上月城攻略への道
福原城がわずか一日で陥落したことは、西播磨における毛利方の重要な拠点を一つ排除したことを意味する 21 。これにより、羽柴秀吉軍は後顧の憂いなく、主目標であった上月城の攻略に全戦力を集中させることが可能となった 14 。この意味で、福原城攻防戦は、この後に行われる第一次上月城の戦いの帰趨を決定づける、不可欠な前哨戦であった。
5-2. 播磨平定における位置づけ:見せしめとしての効果
福原城の徹底的な破壊と、城兵のみならず城内の者まで皆殺しにするという凄惨な戦後処理は、織田・羽柴軍に抵抗する者がどのような運命を辿るかを、態度を決めかねている播磨の国衆たちに強烈に見せつける「見せしめ」となった。
秀吉の軍勢にとって、播磨に点在する全ての城を一つ一つ力攻めで落としていく時間的・兵力的な余裕はなかった。そこで、最初の抵抗拠点である福原城を、圧倒的な武力で、かつ極めて残忍な形で制圧することにより、他の城の戦意を心理的に削ぐことを狙ったのである。これは物理的な勝利以上に、恐怖による支配を確立するという心理的な勝利を目的とした冷徹な戦略であった。この戦いの後、多くの国衆が戦わずして秀吉に降伏した背景には、この福原城での出来事が大きく影響していたと考えられる。
5-3. 黒田官兵衛の評価確立
この戦いは、黒田官兵衛が秀吉の麾下で軍功を挙げた、初期の重要な事例となった。播磨の地理を熟知し、効果的な戦術(それが心理的な計略であれ、援軍の適切な活用であれ)を駆使して迅速な勝利に貢献したことで、秀吉軍における軍師としての彼の評価と信頼を不動のものとする、大きな一歩となったのである 12 。
総括
天正5年11月の福原城攻防戦は、単なる一地方城郭の攻防に留まるものではない。それは、織田信長の天下統一事業における中国方面攻略の序盤を飾り、播磨国衆の向背を決定づけた極めて重要な戦いであった。黒田官兵衛の卓越した智略と、羽柴秀吉の冷徹な戦略が融合し、圧倒的な武力と心理的恫喝をもって播磨平定への道を切り開いたのである。
史料によって戦闘の様相や城主の名が異なることは、この戦いが後世の記憶の中で、特に勝者である黒田家の歴史観によって再構築されていった過程を物語っている。しかし、どのような経緯を辿ったにせよ、この一日で決着した激戦が、その後の上月城を巡る織田・毛利両軍の死闘へと直結し、戦国時代末期の激動を象徴する一齣として、今日にその記憶を伝えていることは間違いない。
引用文献
- 黒田城跡(黒田庄町黒田) - 西脇市 https://www.city.nishiwaki.lg.jp/kakukanogoannai/shichoukoushitsu/hisyokouhouka/furusato/1362018391425.html
- 兵庫県の城跡巡り:黒田城跡、黒田官兵衛ゆかりの地を歩く (多可・西脇・加東) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11784172
- どうして西脇市が「黒田官兵衛の里」なの? https://www.city.nishiwaki.lg.jp/kakukanogoannai/shichoukoushitsu/hisyokouhouka/kanbee/reason.html
- 福原城(佐用城)と黒田官兵衛|お知らせ|佐用町 公式ホームページ ... https://www.town.sayo.lg.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=2237
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- BTG『大陸西遊記』~日本 兵庫県 三木の干殺し「秀吉の播磨侵攻作戦」~ https://www.iobtg.com/J.Miki.htm
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- 福原城(兵庫県佐用郡)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/5999
- 第126回:福原城(二兵衛により落とされた) - こにるのお城訪問記 - FC2 https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-132.html
- 播磨 福原城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/harima/fukuhara-jyo/
- 四)上月城の戦い - 播磨時報 https://www.h-jihou.jp/feature/kuroda_kanbee/1574/
- 上月城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/kouzuki/kouzuki.html
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- 赤松一族-上月城戦記 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_sen01.html
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