最終更新日 2025-09-04

黒田庄の戦い(1580)

天正八年、羽柴秀吉は黒田官兵衛に命じ、播磨に残る敵対勢力を掃討。官兵衛の故郷たる黒田庄の名を冠したこの戦いは、三木合戦後の播磨を完全に平定し、秀吉の中国攻めを盤石とした。

天正播磨終焉記:黒田庄の戦い(1580)と播州平定の最終局面

序章:黒田庄の戦いとは何か

天正8年(1580年)、播磨国(現在の兵庫県南西部)において「黒田庄の戦い」と呼ばれる軍事行動が発生した。これは、織田信長の命を受けた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による播磨平定事業の最終段階を飾る一連の戦闘であり、一般に知られる大規模な会戦とはその様相を異にする。「播磨再編の末期掃討戦」という位置づけは的確であるが、その実態は、約二年にわたる壮絶な籠城戦「三木合戦」の終結後に、なおも織田方に抵抗を続ける播磨国内の残存勢力を一掃するために行われた、戦略的な掃討作戦であった 1

この一連の軍事行動が、なぜ特定の戦場ではなく「黒田庄」の名を冠して記憶されているのか。その鍵を握るのが、秀吉の天才軍師としてこの播磨平定戦を実質的に主導した黒田官兵衛孝高(後の如水)の存在である。黒田庄(現在の兵庫県西脇市黒田庄町)は、官兵衛を輩出した黒田氏発祥の地とする有力な説が存在し、彼にとって深いゆかりのある土地であった 3 。秀吉軍が三木城攻めの際にこの地に陣を置いたという伝承も残っており 7 、この地が播磨平定作戦における重要な活動拠点であったことが窺える。したがって、「黒田庄の戦い」という呼称は、単一の戦闘を指す固有名詞というよりも、播磨平定の象徴的人物である黒田官兵衛の功績を顕彰し、彼が主導した最終掃討作戦全体を指す「戦役名」として捉えるのが最も事実に近い。

本報告書は、この「黒田庄の戦い」の実像を解明するため、まずその前提となる播磨の地政学的状況と、播磨平定戦の中核であった三木合戦の凄惨な実態を詳述する。その上で、三木城の落城から播磨の完全平定に至るまでの軍事プロセスを、関係者たちの人間ドラマを交えながら時系列に沿って再構築し、この戦役が織田信長の天下統一事業において果たした真の歴史的意義を明らかにするものである。


【表1】播磨平定戦 主要年表(1577年~1580年)

年月

主要な出来事

天正5年(1577年)10月

羽柴秀吉、織田信長の中国方面軍司令官として播磨入り。黒田官兵衛の進言により姫路城を本拠とする。

天正6年(1578年)2月

加古川評定での対立などを経て、東播磨の雄・別所長治が織田方から離反し、毛利方につく。

天正6年(1578年)3月

秀吉軍が三木城の包囲を開始。約二年に及ぶ「三木合戦」が始まる。

天正6年~7年

秀吉軍、兵糧攻め戦術を採用。神吉城、志方城など三木城の支城を次々と攻略し、包囲網を強化。

天正7年(1579年)

大村・平田の合戦にて、別所方の重臣・後藤基国が討死。

天正8年(1580年)1月17日

兵糧が尽き果てた三木城が開城。別所長治ら一族は城兵の助命を条件に自刃。

天正8年(1580年)1月下旬以降

**黒田庄の戦い(播磨末期掃討戦)**開始。秀吉軍、宇野氏が籠る長水山城など残存勢力の制圧へ。

天正8年(1580年)内

長水山城が落城。播磨国は完全に織田方の支配下に入る。


第一部:戦乱の播磨 ― 地政学的背景

第1章:織田と毛利の狭間で

天正年間初頭の播磨国は、統一された権力構造を欠き、中小の国人領主が群雄割拠する複雑な情勢下にあった。室町時代には守護・赤松氏がこの地を治めていたが、嘉吉の乱で宗家が一度滅亡し、再興後もその権威は失墜。一族や有力家臣が半ば独立した勢力として各地に割拠する状態が続いていた 2 。東播磨に勢力を張る別所氏、中播磨の御着城を本拠とする小寺氏、そして西播磨の龍野赤松氏などがその代表格であった。

この播磨の政治的空白に目を付けたのが、畿内を席巻し天下布武を推し進める東の織田信長と、中国地方に覇を唱える西の毛利輝元である。両勢力の力が拮抗するにつれ、播磨はその地理的条件から、二大勢力が直接衝突するのを避けるための緩衝地帯としての戦略的重要性を帯びるようになった 2 。播磨の国人たちは、織田と毛利の双方に顔を向け、自家の存続を賭けた綱渡りの外交を強いられていた。

この膠着状態に大きな一石を投じたのが、姫路城主・小寺政職の家臣であった黒田官兵衛孝高である。官兵衛は、旧態依然とした地方勢力の論理に囚われず、天下の趨勢が織田信長にあることを見抜いていた 9 。彼は、毛利方への接近を主張する家中の意見を抑え、主君・政職を粘り強く説得。ついに小寺家を織田方への帰属へと導いた 10 。天正3年(1575年)、官兵衛は自ら信長に謁見し、その才覚を認められ、信長の愛刀「圧切長谷部」を賜るという破格の待遇を受ける 10 。これは、織田方が播磨平定における官兵衛の役割に大きな期待を寄せていたことの証左であった。

第2章:亀裂の序曲 ― 別所長治の離反

天正5年(1577年)10月、信長の命を受けた羽柴秀吉が、中国方面軍の総大将として播磨に進駐する。官兵衛は秀吉に自らの居城である姫路城を本拠地として提供し、二人三脚での播磨平定が開始された 10 。官兵衛の周到な根回しもあり、当初、播磨の国人たちの多くは織田方への臣従を受け入れ、平定は順調に進むかに見えた 2

しかし、この平定が極めて脆い基盤の上に成り立っていたことは、すぐに明らかとなる。秀吉のやり方は、伝統と格式を重んじる播磨の武士たちにとって、必ずしも受け入れやすいものではなかった。天正6年(1578年)2月、東播磨に最大の影響力を持つ三木城主・別所長治が、突如として織田方に反旗を翻し、毛利方へと寝返ったのである 2

離反の引き金は複合的であった。加古川城で行われた評定の場で、別所氏家臣の提案が秀吉に一蹴されたことによる面子の失墜、秀吉が別所方の城を一方的に破却したことへの不満などが直接的な原因として挙げられる 2 。さらに、赤松氏の支流という名門意識の強い別所氏にとって、出自の低い秀吉の麾下に入ることは屈辱であり、このままでは播磨一国が秀吉に奪われるだけだという危機感も高まっていた 2 。こうした不満に、毛利氏や、毛利に庇護されていた前将軍・足利義昭からの執拗な調略が加わり、長治は離反を決断した 2

別所氏の離反は、播磨全土に連鎖反応を引き起こした。彼の影響下にあった東播磨の諸勢力はもちろん、西播磨の宇野氏などもこれに同調し、織田方につきかけた播磨の情勢は一瞬にして覆る 2 。官兵衛の外交努力は水泡に帰し、秀吉は毛利氏との対決を前に、背後である播磨の再平定という困難な課題を突きつけられることになった。長治は三木城に籠城し、毛利の援軍を待つ策を取り、播磨の命運を賭けた二年間に及ぶ大戦の幕が切って落とされたのである。


【表2】播磨平定戦における主要人物と所属勢力

勢力

主要人物

役職・立場

主な動向

織田方

織田信長

織田家当主

播磨平定を秀吉に命令。

羽柴秀吉

中国方面軍総大将

播磨平定戦の最高指揮官。

黒田官兵衛孝高

秀吉の軍監・小寺氏家臣

播磨の地理と人脈に精通し、平定戦を実質的に主導。

竹中半兵衛重治

秀吉の軍師

三木城への兵糧攻めを献策。合戦の最中に病没。

別所・毛利方

別所長治

三木城主

織田方から離反し、三木城に籠城。

別所吉親

長治の叔父

長治に離反を強く進言したとされる実力者。

後藤基国

別所氏家老

長治の離反を諌めたが、主君に従い奮戦し討死。

宇野政頼

長水山城主

別所氏に同調し、最後まで織田方に抵抗。

毛利輝元

毛利家当主

別所氏を支援し、織田軍と対峙。

その他

小寺政職

御着城主・官兵衛の主君

当初織田方に付くが、荒木村重の謀反に呼応し毛利方へ寝返る。


第二部:三木の干殺し ― 播磨平定戦の中核

第3章:秀吉の包囲網と官兵衛の戦略

三木城は、美嚢川と志染川に挟まれた丘陵地に築かれた天然の要害であり、力攻めでの攻略は至難の業であった。当初、秀吉は正攻法を試みるも、別所方の堅い守りと周辺の支城からの援軍に阻まれ、攻略は難航した 14 。ここで秀吉は、軍師・竹中半兵衛の献策を受け入れ、戦術を根本から転換する。それは、城を完全に包囲して兵糧の補給路を断ち、城内の兵士や領民を飢えさせて降伏に追い込む、非情かつ合理的な「兵糧攻め」であった 14

この「三木の干殺し」と呼ばれる作戦を遂行するため、秀吉はまず、三木城への補給拠点となっていた周辺の支城群の各個撃破に取り掛かった。天正6年(1578年)から7年にかけて、信長の嫡男・織田信忠率いる大軍も播磨に投入され、野口城、神吉城、志方城、魚住城、高砂城といった海沿いや街道沿いの重要拠点が次々と陥落していく 2 。これにより、毛利方が瀬戸内海から輸送してきた兵糧を三木城へ運び込む陸路は、徐々に寸断されていった。

支城の制圧と並行して、秀吉は三木城を物理的に孤立させるための壮大な土木工事に着手する。三木城を遠巻きに囲むように、南北約5キロメートル、東西約6キロメートルという広大な範囲に、40箇所以上にも及ぶ付城(攻撃・監視用の砦)を構築 8 。さらに、付城と付城の間を長大な土塁や堀、柵で連結し、蟻一匹這い出る隙もない厳重な包囲網を完成させた 15 。この大包囲網は、秀吉の卓越した築城技術と圧倒的な動員力を天下に示すものであった。

補給を完全に絶たれた三木城内は、地獄の様相を呈し始めた。籠城していたのは兵士だけでなく、別所氏を頼ってきた領民やその家族、浄土真宗の門徒など、非戦闘員を含む約7,500人にものぼった 2 。時が経つにつれ食料は底を突き、人々は草木の根や牛馬を食らい、やがては人肉に手を出すほどの惨状に陥ったと記録されている 8 。数千人が餓死し、城内は阿鼻叫喚の巷と化した。秀吉の兵糧攻めは、物理的な城だけでなく、籠城する人々の心をも確実に蝕んでいったのである。

第4章:ある忠臣の死 ― 後藤基国の奮戦と最期(天正7年)

この三木城の悲劇の中で、一人の忠臣がその命を散らした。別所氏の家老を務めていた後藤新左衛門基国(ごとう もとくに)である 18 。伝承によれば、基国は主君・別所長治が織田に叛くという重大な決断を下した際、天下の形勢を冷静に分析し、無謀な挙であるとしてこれを強く諌めたという 18 。しかし、その忠言は血気にはやる主君や他の重臣たちに聞き入れられることはなかった。主君の決定が覆らないと知るや、基国は自らの信念を胸に秘め、家老としての職務を全うすべく、最後まで別所家と運命を共にすることを決意した。

天正7年(1579年)、三木城の包囲が続く中、羽柴軍との間で局地的な戦闘が頻発していた。その一つである「大村・平田の合戦」において、後藤基国は一隊を率いて出陣し、羽柴方の軍勢と激しく衝突した 18 。圧倒的な物量を誇る織田軍を相手に、基国は獅子奮迅の働きを見せるが、衆寡敵せず、ついに力尽き、壮絶な討死を遂げたのである。

基国の死は、三木合戦における数多の悲劇の一つであったが、それは同時に、日本の戦国史に名を残す一人の名将の運命を大きく左右する出来事となった。基国には、当時まだ8歳の幼い息子がいた。後の「槍の又兵衛」として知られる後藤基次である 18 。敵将として基国を討った側の総大将・秀吉の配下であり、基国の旧友でもあった黒田官兵衛は、戦乱の中で孤児となったこの少年を引き取り、自らの手で養育することを決意する 18 。敵味方という立場を超えたこの官兵衛の温情がなければ、後の黒田家を支え、大坂の陣でその武勇を天下に轟かせた名将・後藤又兵衛が生まれることはなかったかもしれない。一人の忠臣の死が、歴史の偶然と必然の糸を紡ぎ、次代へと続く新たな人間ドラマの序章となったのである。

第三部:黒田庄の戦い ― 終焉への道程(天正8年)

第5章:三木城、落つ ― 播磨の趨勢決す

年が明けて天正8年(1580年)1月、二年近くに及んだ三木城の籠城戦は、ついに最終局面を迎えた。食料は完全に尽き果て、城兵は飢餓によって戦う力さえ失っていた。この機を逃さず、秀吉は最後の総攻撃を開始する 15 。1月11日、別所長治の弟・友之が守る鷹尾山城と、叔父・賀相が籠る新城という、三木城にとって最後の防衛拠点であった二つの砦が、織田軍の猛攻の前に相次いで陥落した 16

もはや万策尽きたことを悟った別所長治に対し、織田方に降っていた叔父の別所重棟が降伏を説得する。1月15日、長治はついに降伏を決断。その条件は、自らの一族の命と引き換えに、飢えに苦しむ全ての城兵と領民の命を救うというものであった 16 。秀吉はこの条件を受け入れた。

1月17日、別所長治は、弟の友之、叔父の賀相ら一族と共に、最後の宴を開いた後、静かに自刃して果てた 8 。ここに播磨最大の名門・別所氏は滅亡し、「三木の干殺し」と後世に伝えられる壮絶な籠城戦は、ついに終結した。播磨の趨勢は、この日をもって完全に決したのである。

第6章:最後の抵抗 ― 播磨掃討戦のリアルタイム再現

三木城の開城は、播磨平定における最大の節目であったが、それは戦いの完全な終わりを意味するものではなかった。播磨国内には、別所氏に最後まで同調し、なおも織田への抵抗を続ける勢力が点在していた。その筆頭が、西播磨の宍粟郡に勢力を張る宇野氏であった。秀吉は、中国地方の毛利氏との本格的な対決を前に、後顧の憂いを断つ必要があった。

【天正8年1月下旬~】

三木城の戦後処理を終えた秀吉は、間髪入れずに軍を再編する。そして、播磨の地理と国人たちの内情に最も精通する黒田官兵衛を主将格とし、国内残敵の一掃を命じた。主たる攻略目標は、宇野政頼が籠る長水山城(現在の兵庫県宍粟市)に定められた 1。播磨平定の最終章、「黒田庄の戦い」と称される掃討作戦が開始される。

【天正8年2月~3月頃(推定)】

官兵衛率いる掃討軍は、姫路城あるいは三木城から西へ向けて進軍を開始した。彼らがまず目指したのは、長水山城の東に位置する聖山城であった。この城は、長水山城やその支城である篠ノ丸城を一望できる戦略的要衝であり、攻略のための前線基地として最適であった 1。官兵衛は、主目標に直接取り付く前に、まず周辺の拠点を確実に確保し、有利な態勢を築くという定石通りの戦術を展開した。聖山城は、おそらく大きな抵抗を受けることなく、速やかに秀吉軍の手に落ちたと考えられる。

【同時期の黒田庄周辺の動向】

この掃討作戦の進軍路、あるいは兵站基地として重要な役割を果たしたのが、官兵衛の故郷である黒田庄周辺地域であった。東播磨と西播磨を結ぶ交通の結節点に位置するこの地は、軍勢の移動と物資の集積に都合が良かった。西脇市黒田庄町岡の極楽寺に残る「太閤の腰掛石」の伝承は、秀吉自身がこの地で采配を振るった可能性を示唆しており、この時期に秀吉軍の本隊あるいは分遣隊が駐留していたことを物語る貴重な傍証である 7。この地域で大規模な戦闘が行われたという記録はない。しかし、三木城を陥落させた秀吉の大軍が駐留し、示威行動を行うだけで、周辺の未だ去就を決めかねていた小豪族たちを帰順させるには十分な効果があったであろう。

【天正8年春~夏頃(推定)】

聖山城に拠点を確立した官兵衛の軍は、いよいよ長水山城への本格的な攻撃を開始する。宇野氏は、南北朝時代から続く名族であり、その居城である長水山城もまた、険しい地形を利用した堅固な山城であった。宇野政頼は、別所氏が滅んだ後もなお織田への抵抗を続け、最後の意地を見せた。しかし、三木城を二年かけて攻略した秀吉軍の士気と物量は圧倒的であった。奮闘も虚しく、長水山城は陥落。これにより、播磨国内における組織的な反織田勢力は完全に消滅した 1。この長水山城の落城をもって、「播磨の戦国時代は終焉となった」のである 1。

第7章:黒田庄の視点 ― 官兵衛ゆかりの地にて

この一連の掃討作戦が「黒田庄の戦い」と記憶されている背景には、軍事行動の実体以上に、この平定事業全体における黒田官兵衛の功績と、その象徴性が重視された結果であると考えられる。実際の最終決戦地は西播磨の長水山城であった。しかし、この戦役全体を俯瞰したとき、その中心には常に官兵衛の存在があった。

黒田庄には、黒田氏9代の居城であったと伝わる黒田城跡や、黒田家の略系図を所蔵する荘厳寺など、官兵衛のルーツを示す史跡が数多く残る 6 。官兵衛にとって、播磨平定は主君・織田信長への忠義であると同時に、自らの故郷を戦乱から解放する戦いでもあった。その最終段階を、自らの故郷の名を冠する作戦として指揮したことには、万感の思いがあったに違いない。播磨の国人たちの思惑に翻弄され、一時は主君にも裏切られ有岡城の土牢で死の淵を彷徨った官兵衛が、ついに故郷の完全平定を成し遂げた。これは、彼個人の苦難に満ちた戦いの終わりを告げる、象徴的な出来事でもあったのである。

第四部:戦後の新秩序と遺されたもの

第8章:播磨の再編と論功行賞

天正8年(1580年)、長水山城の落城をもって播磨の戦乱は完全に終結した。羽柴秀吉は、三木城を新たな拠点とし、播磨一国の支配体制を着々と固めていった 23 。戦後、秀吉は播磨平定の最大の功労者である黒田官兵衛に対し、本拠地として提供させていた姫路城を返還しようと申し出た。しかし、官兵衛はこれを固辞し、「姫路城は播州統治の適地であり、天下を狙う殿(秀吉)の本拠地にこそふさわしい」と進言した 11 。この逸話は、官兵衛が私的な恩賞よりも天下国家の戦略を優先する、稀代の戦略家であったことを如実に物語っている。また、二人の間に築かれた深い信頼関係を示すものとして、後世に語り継がれることとなった。

官兵衛の功績に対し、信長と秀吉は正当な評価をもって報いた。彼はまず揖東郡福井庄に一万石を与えられ 11 、後に播磨平定全体の功績を称えられて山崎(現在の兵庫県宍粟市)に一万石を加増された 24 。これにより、官兵衛は小寺氏の一家臣から、織田家の直臣たる一万石級の大名へと躍進を遂げたのである。

第9章:歴史の遺産

「黒田庄の戦い」が後世に残した影響は、播磨の政治体制の再編に留まらない。それは、一人の武将の数奇な運命を通じて、次代へと続く物語を紡ぎ出した。その武将こそ、後藤又兵衛基次である。

父・基国の死後、黒田官兵衛に引き取られた又兵衛は、官兵衛を実の父のように慕い、その薫陶を受けて文武両道に優れた武将へと成長した 18 。官兵衛の子・黒田長政の代になると、又兵衛はその類稀なる武勇をいかんなく発揮する。九州征伐や文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において数々の武功を挙げ、「黒田二十四騎」「黒田八虎」の一人に数えられる猛将として、その名を轟かせた 25

しかし、偉大な父・官兵衛が慶長9年(1604年)に世を去ると、主君である長政と又兵衛の関係は急速に悪化する。剛直で自尊心の高い又兵衛の性格と、父ほどの器量を持たなかった長政との間には、埋めがたい溝が生じていた 29 。慶長11年(1606年)、又兵衛はついに黒田家を出奔。長政はこれを許さず、他家への仕官を禁じる「奉公構」の措置を取ったため、又兵衛は長い浪人生活を余儀なくされる 26

播磨の戦乱が生んだ官兵衛と又兵衛の師弟関係は、世代交代と共に悲劇的な結末を迎えた。そして慶長19年(1614年)、豊臣家からの招きに応じた又兵衛は、大坂城に入城。かつて父が仕えた別所氏を滅ぼした豊臣家の、その最後の戦いにおいて、真田信繁(幸村)らと共に豊臣方の中核として徳川軍と戦うことになる。翌年の大坂夏の陣、道明寺の戦いにおいて、又兵衛は奮戦の末に壮絶な最期を遂げた 26 。播磨平定という歴史の大きな転換点は、黒田家に強力な武将をもたらしたが、それは同時に、官兵衛という偉大な調停者を失った後、新たな軋轢を生む火種ともなった。一つの歴史的事件がもたらす影響は、光と影の両面を持ち、時間と共にその様相を変えていくという複雑な真実を、後藤又兵衛の生涯は示している。

終章:総括

本報告書で詳述した「黒田庄の戦い」とは、天正8年(1580年)に播磨国で行われた、三木合戦に続く最終掃討戦役の総称である。その名称は、特定の戦場を指すものではなく、この播磨平定事業を終始一貫して主導した黒田官兵衛の功績と、彼の出自を象徴する呼称として理解すべきである。

この戦役の軍事的規模は、三木合戦に比べれば決して大きくはない。しかし、その戦略的意義は計り知れないものがあった。播磨の完全平定によって、羽柴秀吉はついに後顧の憂いを完全に断ち切り、織田家の西国経略における最重要課題であった毛利氏との全面対決に全戦力を集中させることが可能となった。この後に行われる鳥取城の兵糧攻めや、備中高松城の水攻めといった、秀吉の戦歴を飾る輝かしい勝利は、この播磨という盤石な前線基地なくしてはあり得なかった 11

結論として、「黒田庄の戦い」は、派手な大規模戦闘こそなかったものの、織田信長の天下統一事業において、畿内と中国地方を結ぶ最重要戦略拠点である播磨を完全に掌握し、その後の西国平定への道を切り拓いた、極めて重要な意味を持つ勝利であった。それは、戦国時代の終焉と、新たな統一政権の誕生へと続く、大きな歴史の転換点の一つとして記憶されるべきである。

引用文献

  1. 守護赤松の時代から秀吉の播磨進攻までの9山城跡 https://www.nishiharima.jp/wp/wp-content/uploads/2020/07/dfa84619677774cd7fe80854dd5f7e35-1.pdf
  2. 三木合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%90%88%E6%88%A6
  3. 黒田官兵衛ゆかりの里、西脇 https://www.city.nishiwaki.lg.jp/kakukanogoannai/shichoukoushitsu/hisyokouhouka/kanbee/top.html
  4. 戦国播磨の英傑、黒田官兵衛 - 神戸・兵庫の郷土史Web研究館 https://kdskenkyu.saloon.jp/tale49kur.htm
  5. 官兵衛の里・西脇市 https://www.nishiwaki-kanko.jp/kanbee/pdf/kanbee_map.pdf
  6. 黒田官兵衛と西脇 https://www.nishiwaki-kanko.jp/kanbee/relation/index.html
  7. 「官兵衛の里・西脇市」の主張のために https://www.nishiwaki-kanko.jp/kanbee/pdf/kanbee_appeal.pdf
  8. 三木城 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/309/309shiro.pdf
  9. 二)織田方への帰順 - 播磨時報 https://www.h-jihou.jp/feature/kuroda_kanbee/1569/
  10. 黒田官兵衛(くろだ かんべえ) - 志士伝 https://shishiden.com/?p=94
  11. 黒田孝高 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
  12. 【解説:信長の戦い】三木合戦(1578~80、兵庫県三木市) 堅城の三木城、20か月に及ぶ兵糧攻め(三木の干殺し)の末に開城させる! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/179
  13. 大正6年創刊|播磨時報|(五)秀吉の播州征伐、始まる https://www.h-jihou.jp/feature/kuroda_kanbee/1576/
  14. 【三木合戦】三木城、ついに落ちる・・・ - 武楽衆 甲冑制作・レンタル https://murakushu.net/blog/2023/07/30/mikikassen_end/
  15. 三木合戦古戦場:兵庫県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/mikijo/
  16. 三木城跡及U付城跡群総合調查報告書 - concat https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/30/30618/22093_1_%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E5%8F%8A%E3%81%B3%E4%BB%98%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E7%BE%A4%E7%B7%8F%E5%90%88%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E7%B7%A8.pdf
  17. 【兵庫県】三木城の歴史 秀吉の三大城攻めのひとつ、「三木の干殺し」の舞台 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/976
  18. 後藤基国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E5%9B%BD
  19. 南山田城の見所と写真・100人城主の評価(兵庫県姫路市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2466/
  20. 黒田官兵衛はここで生まれた! - 紀行歴史遊学 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2021/09/%E9%BB%92%E7%94%B0.html
  21. 知っておきたい観光情報が盛りだくさん! - 黒田城 | 観光スポット | 【公式】兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ https://www.hyogo-tourism.jp/spot/514
  22. 黒田城の見所と写真・100人城主の評価(兵庫県西脇市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/542/
  23. 19.黒田官兵衛 ~戦国時代を生きぬいた三軍師 其の3 - 猩々の呟き http://shoujou2017.blogspot.com/2014/05/19.html
  24. 黒田官兵衛(黒田如水・黒田孝高)の歴史 - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38336/
  25. 人物紹介(無所属:後藤又兵衛) | 戦極姫3~天下を切り裂く光と影~ オフィシャルWEBサイト https://neo-unicorn.com/products/gesen18/sengoku3/char/other_matabee.html
  26. 後藤基次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
  27. 後藤基次(ごとうもとつぐ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1-65517
  28. 後藤基次(ごとう もとつぐ/後藤又兵衛) 拙者の履歴書 Vol.110~槍一筋、我が道を征く - note https://note.com/digitaljokers/n/n5f91d8ea0df6
  29. 黒田長政の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34588/
  30. 家康が利用を試みた後藤基次の「自尊心」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/33509
  31. #091「後藤又兵衛」 - あんまり役に立たない日本史 - Apple Podcast https://podcasts.apple.com/jp/podcast/091-%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%8F%88%E5%85%B5%E8%A1%9B/id1652596456?i=1000664781066
  32. 後藤基次(後藤又兵衛)|改訂新版・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=181