最終更新日 2025-08-30

龍野城の戦い(1577~80)

天正五年、羽柴秀吉の播磨侵攻により龍野城は無血開城。上月城の悲劇を鑑みた若き城主・赤松広秀の決断は、一族存続の道を選んだ。播磨は三木合戦を経て平定され、秀吉の中国攻めの拠点となった。

天正播磨戦記:龍野城無血開城の真相と平定への道程(1577-1580)

序章:天下布武の奔流、播磨へ

天正五年(1577年)、織田信長の「天下布武」は最終段階を迎えつつあった。長年にわたる抗争の末、畿内はその手中にほぼ収まり、信長の視線は西、すなわち中国地方の覇者・毛利輝元へと注がれていた。しかし、その前にはなお二つの大きな障害が立ちはだかっていた。一つは、大坂湾に拠点を構え、信長に徹底抗戦を続ける石山本願寺。もう一つは、その本願寺を背後から経済的・軍事的に支援する毛利氏そのものである 1 。毛利水軍は瀬戸内海の制海権を握り、海路を通じて絶えず本願寺へ兵糧や弾薬を送り込み、信長の包囲網を形骸化させていた 3 。この膠着状態を打破しない限り、天下の平定は成し得ない。信長にとって、毛利との対決は不可避であり、そのための布石を打つことが喫緊の課題となっていた。

この壮大な戦略地図において、播磨国は決定的に重要な意味を持っていた。播磨は、京と西国を結ぶ大動脈・山陽道が貫通する交通の要衝である。織田方にとっては中国地方侵攻の足掛かりとなる橋頭堡であり、毛利方にとっては畿内への影響力を維持し、防衛線を構築するための最前線であった 4 。播磨を制する者が、西日本の覇権争いを制すると言っても過言ではなかった。特に、播磨・美作・備前の三国国境に位置する上月城のような拠点は、両陣営にとって一歩も譲れない戦略的要衝として、その価値を増していた 5

しかし、その播磨の内部は一枚岩ではなかった。守護大名・赤松氏の権威が失墜して以降、国内は置塩城の赤松義祐、御着城の小寺政職、そして三木城の別所長治という三大勢力を中心に、数多の国人領主が割拠する複雑な分裂状態にあった 3 。彼らは、東から圧力を強める織田と、西から影響力を及ぼす毛利という二大勢力の狭間で、自らの生き残りを賭けて絶えず揺れ動いていた 4 。天正三年(1575年)には、これら三大勢力が揃って上洛し、信長に拝謁して一度は織田方への恭順姿勢を見せたものの、その忠誠は盤石なものではなかった 6

このような状況下で、信長が中国方面軍総大将として羽柴秀吉を播磨へ派遣したことは、単なる領土拡大を目的とした軍事行動ではなかった。それは、石山本願寺の生命線である毛利からの補給路を陸路から断ち、毛利本国へ直接圧力をかけることで、「対毛利・対本願寺」という二正面作戦を打開するための、極めて高度な戦略行動だったのである。播磨平定は、本願寺を兵糧攻めにするための不可欠な一手であり、来るべき毛利との総力戦に向けた巨大な戦線の構築そのものであった。龍野城を巡る一連の出来事は、この天下の趨勢を決する壮大な戦いの一幕として、その幕を開けることになる。

第一章:羽柴秀吉、播磨入り ― 電光石火の進撃(1577年10月~12月初旬)

利用者が求める「リアルタイムな状態」を再現するため、羽柴秀吉の播磨侵攻から龍野城開城に至るまでの軍事行動を時系列で詳述する。その進撃速度と圧倒的な軍事力は、播磨の国衆に戦慄と動揺をもたらした。

天正5年10月:播磨への着陣と初期調略

天正五年(1577年)10月、織田信長より中国方面軍総大将に任じられた羽柴秀吉は、満を持して播磨国へと進軍した。秀吉は、当初から単なる力押しに頼るつもりはなかった。彼は、御着城主・小寺政職の家臣でありながら、早くから織田家の将来性を見抜いていた黒田官兵衛孝高の献策を全面的に受け入れる。官兵衛は自らの居城である姫路城を秀吉に差し出し、播磨攻略の拠点とすることを進言した 1 。これにより、秀吉は播磨の中心部に確固たる足場を築くことに成功し、ここを基点として東播磨から中播磨にかけての国衆に対し、巧みな調略を開始した。小寺氏や、名門の置塩赤松氏などが次々と秀吉の軍門に下り、播磨の東半分は大きな抵抗もなく織田方の支配下に入った 1

11月:但馬・西播磨への多方面作戦

秀吉の戦略は、播磨一国に留まらなかった。彼は播磨の平定と並行して、11月上旬には軍の一部を北の但馬国へ派遣。毛利方であった山名氏の勢力下にあった岩洲城、竹田城を迅速に占領する 7 。これは、播磨の北側からの脅威を取り除き、背後の安全を確保することで、主力を西播磨攻略に集中させるための周到な布石であった。この動きと連動し、西播磨で毛利方に与する宇喜多直家の勢力圏である福原城への軍事的圧力を強めていった 7

12月1日~3日:福原城から上月城へ ― 殺戮による恫喝

西播磨への進撃路を確保するため、秀吉は11月28日、配下の竹中半兵衛と黒田官兵衛に福原城の攻略を命じた。両将の巧みな用兵により、福原城はわずか数日で陥落した(12月1日) 7

そして、運命の12月3日。秀吉軍は、播磨・美作国境の最重要拠点である上月城へ殺到した 6 。城主は「西播磨殿」と称された赤松政範。彼は毛利方として徹底抗戦の構えを見せたが、織田の大軍の前に衆寡敵せず、城は陥落。政範は自害し、家老の高島正澄も殉死した 9 。ここまでは戦国の常であるが、秀吉が下したその後の命令は、播磨全土を震撼させるものであった。秀吉は、城兵の降伏を一切許さず、捕らえた者たちの首をことごとく刎ねた。さらに、城内にいた女子供までも容赦なく処刑するという、凄惨な皆殺しを断行したのである 9

この上月城での虐殺は、単なる残虐行為ではなかった。それは、次に控える龍野城をはじめ、未だ去就を決めかねている西播磨の諸将に対する、計算され尽くした「戦略的恫喝」であった。秀吉は、抵抗勢力の象徴であった上月城を徹底的に破壊し、その惨状を喧伝することで、「降伏か、然らずんば殲滅か」という二者択一を無言のうちに突きつけたのである。この恐怖による心理戦は、軍事行動と一体となった高度な戦略であり、次に大軍が向かう龍野城の無血開城を演出するための、冷徹な舞台装置であったと言える。


表1:天正播磨平定戦 関連年表(1577-1580)

年月日

出来事

主要人物

場所

結果・意義

1577年10月

羽柴秀吉、播磨へ出陣。姫路城を拠点とする。

羽柴秀吉、黒田官兵衛

播磨国飾東郡

播磨平定戦の開始。東・中播磨の国衆が順次服従。

1577年11月上旬

但馬国の岩洲城、竹田城を占領。

秀吉軍

但馬国

播磨北方の安全を確保し、西播磨攻略に集中。

1577年12月1日

福原城が陥落。

竹中半兵衛、黒田官兵衛

播磨国佐用郡

西播磨への進撃路を確保。

1577年12月3日

第一次上月城の戦い。上月城が陥落。

羽柴秀吉、赤松政範

播磨国佐用郡

城主自害、城兵・女子供皆殺し。西播磨の国衆に恐怖を与える。

1577年12月5日頃

龍野城が無血開城。

赤松広秀、羽柴秀吉

播磨国揖東郡

赤松広秀は降伏。城主として蜂須賀正勝が入城。

1577年12月6日

秀吉、鵤庄惣中に判物を発給。

羽柴秀吉

播磨国揖保郡

軍事制圧と並行し、現地の統治体制掌握に着手。

1578年2月

別所長治が織田方から離反。

別所長治、羽柴秀吉

播磨国美嚢郡

三木合戦が勃発。播磨は再び大戦乱に。

1578年7月

神吉城、志方城が落城。

織田信忠軍

播磨国印南郡

三木城の支城が次々と陥落し、包囲網が狭まる。

1580年1月17日

三木城が落城。「三木の干殺し」終結。

羽柴秀吉、別所長治

播磨国美嚢郡

別所一族自害。播磨の反織田勢力の中核が壊滅。

1580年4月24日

英賀城が落城。

羽柴秀吉軍

播磨国飾西郡

毛利・本願寺と結んだ最後の拠点も陥落。

1580年5月10日

長水山城が落城。

羽柴秀吉軍

播磨国宍粟郡

播磨国の完全平定が完了。


第二章:龍野城、決断の刻 ― 無血開城の舞台裏(1577年12月5日前後)

上月城の悲劇からわずか二日後、秀吉率いる二万と号する大軍は揖保川の東岸にその姿を現した 10 。西播磨の要衝・龍野城は、天下統一の奔流が眼前に迫るという、絶体絶命の窮地に立たされた。この章では、戦闘ではなく、城内で行われたであろう意思決定のプロセスに焦点を当て、なぜ龍野城が無血開城という結論に至ったのか、その舞台裏を詳細に分析する。

龍野城と若き城主・赤松広秀

龍野城は、揖保川の西岸に聳える鶏籠山(けいろうさん)の山頂に築かれた、典型的な中世の山城であった 10 。天然の要害に守られた堅城であり、西播磨に覇を唱えた龍野赤松氏四代の拠点として、その威容を誇っていた 12 。しかし、この時、城を守る当主は赤松政秀の子、赤松広秀(弥三郎広英とも呼ばれる) 14 。その年齢は、わずか16歳であったとされる 6 。経験の浅い若き城主が、戦国史上屈指の将帥である羽柴秀吉と対峙するという、あまりにも過酷な状況であった。

眼下の敵軍と城内の評定

鶏籠山の物見から眼下を望んだ龍野城の将兵は、揖保川の対岸を埋め尽くす織田軍の旗指物を見て、言葉を失ったであろう。その数、二万。自軍の兵力とは比較にならない大軍勢である。さらに、彼らの耳には、つい二日前に近隣の上月城で何が起こったか、その凄惨な結末が届いていたはずである。女子供に至るまで皆殺しにされたという報は、単なる噂話ではなく、現実の脅威として城内の空気を支配したに違いない。

城内では、直ちに評定が開かれた。議題はただ一つ、抗戦か、降伏か。一部の血気にはやる武士は籠城戦を主張したかもしれない。しかし、家中の大勢を占めたのは、冷静に現実を見据える家老たちであったと考えられる。彼らが若き主君・広秀に進言した内容は、史料から推測するに、以下のようであっただろう。第一に、織田軍との兵力差は絶望的であり、まともに戦って勝ち目はないこと。第二に、上月城の末路が示す通り、抵抗すれば一族郎党の根切りは免れないこと。第三に、ここで無益な戦いを挑んで玉砕するよりも、降伏して主家(龍野赤松氏)の家名を存続させることこそが、当主の最大の務めであること 6 。これは、個人の武勇や名誉よりも、一族全体の存続を最優先する、戦国武家社会における極めて現実的な判断であった。

無血開城という名の戦略的決断

16歳の広秀にとって、父祖伝来の城を戦わずして明け渡すことは、断腸の思いであったに違いない。しかし、彼は家臣たちの進言を受け入れ、降伏という苦渋の決断を下した 10 。天正五年(1577年)12月5日前後、龍野城は城門を開き、羽柴秀吉の軍勢を迎え入れた。これにより、龍野赤松氏は滅亡の危機を回避したのである。

秀吉は、広秀の降伏を速やかに受け入れた。彼の目的は、西播磨の迅速な平定であり、無用な血を流すことは望んでいなかった。上月城での虐殺は、あくまで抵抗勢力への見せしめであった。広秀は、龍野城の南西約3.5kmに位置する平井郷佐江村の乙城(おとじょう)へと退去を命じられた 13 。そして、空き城となった龍野城には、秀吉の腹心中の腹心である蜂須賀正勝(小六)が新たな城主として入城した 12 。これは、播磨の旧来の支配体制を解体し、織田政権による直接支配体制をこの地に打ち立てるという、秀吉の明確な意思表示であった。

この軍事行動と並行して、秀吉は統治体制の構築にも迅速に着手している。開城の翌日とされる12月6日付で、秀吉は近隣の有力な荘園であった鵤庄(いかるがのしょう)の惣中(自治組織)に対し、信長の朱印状の権威を背景に、年貢の徴収などを徹底するよう命じる判物を発給している 19 。この事実は、秀吉が軍事制圧と民政掌握を車の両輪として、極めて効率的に平定作業を進めていたことを示す重要な証拠である。

赤松広秀の降伏は、単なる敗北ではなかった。それは、「家」の存続を目的とした、若き当主による「戦略的転換」であった。この決断により、彼は秀吉の配下として生き残る道を得た。後に蜂須賀正勝の与力として備中高松城の戦いなどに従軍し、軍功を重ねることで、最終的には但馬竹田城主二万二千石の大名として復活を遂げるのである 6 。短期的な城の喪失と引き換えに、長期的な家の存続と自らの未来を確保したこの決断は、戦国の激動期を生き抜くための、冷静かつ現実的な政治判断であったと高く評価できる。

第三章:偽りの平穏 ― 播磨を揺るがす大反乱(1578年~1580年)

龍野城の無血開城と西播磨諸将の服従により、播磨国は一見、平定されたかに見えた。秀吉自身もそう判断し、天正五年(1577年)末には、一旦本拠地である近江・長浜城へと帰還している 7 。しかし、それは束の間の、そして偽りの平穏に過ぎなかった。播磨国衆の心は、依然として織田と毛利の間で激しく揺れ動いており、その潜在的な不満と不安は、やがて播磨全土を巻き込む大反乱へと発展する。利用者から指定された「1577~80年」という期間は、この龍野城開城後の大戦乱こそが、播磨平定戦の本番であったことを示唆している。

別所長治の離反と三木合戦の勃発

天正六年(1578年)2月、事態は急変する。播磨最大の勢力の一つであり、東播磨に広大な所領を持つ三木城主・別所長治が、叔父・別所吉親らの進言を容れ、突如として織田方から離反し、毛利方へと寝返ったのである。これに呼応するように、黒田官兵衛の主君であった御着城主・小寺政職をはじめ、一度は秀吉に恭順したはずの多くの国衆が雪崩を打って反旗を翻した 3 。播磨は、再び織田と毛利の巨大な代理戦争の舞台と化した。

報せを受けた秀吉は、急遽播磨へととんぼ返りし、反乱の鎮圧に乗り出す。こうして、播磨平定戦は第二段階、すなわち戦国史上でも有数の過酷な籠城戦として知られる「三木合戦」へと突入した。これはもはや、個別の城を攻略する戦いではない。三木城を中核とする播磨国衆の反織田連合そのものを、根絶やしにするための総力戦であった。

織田軍の総力投入と凄惨な消耗戦

事態を重く見た信長は、秀吉の後詰として、嫡男・織田信忠を総大将とする織田軍の主力を播磨へ派遣した。明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、佐久間信盛といった織田家の重臣たちが播磨に集結し、三木城の支城群に対する猛攻を開始する 21 。6月から7月にかけて、別所方の有力な拠点であった神吉城や志方城が、激しい攻防の末に次々と陥落。この戦いでは、織田方の部将・滝川一益が負傷するなど、抵抗は熾烈を極めた 21

この大乱の中、赤松広秀は秀吉配下の武将として、かつての同胞であった播磨の国衆と刃を交えるという、極めて皮肉な立場に置かれた。彼の具体的な動向を記す詳細な史料は乏しいが、秀吉軍の一員として三木城の包囲などに加わっていたことは間違いないだろう 15 。彼の目には、もし自らが龍野城で抵抗の道を選んでいたら、たどったであろう運命が、無残に滅んでいく同郷の武士たちの姿に重なって見えたかもしれない。

「三木の干殺し」と播磨の完全平定

支城を掃討し、三木城を完全に孤立させた秀吉は、力攻めではなく、彼の得意とする兵糧攻め、世に言う「三木の干殺し」へと戦術を転換した。三木城の周囲に幾重にも付城(包囲用の砦)を築き、兵糧の搬入路を完全に遮断。毛利方も海路や陸路から必死の補給作戦を試みるが、秀吉軍はこれをことごとく撃退し、城内との連絡を断ち切った 7

城内の飢餓は凄惨を極めた。『信長公記』によれば、城兵や領民は糠や牛馬を食い尽くし、やがて犬猫、鼠、ついには草の根や木の皮まで口にするに至ったという 7 。約二年にわたる地獄のような籠城戦の末、天正八年(1580年)1月、別所長治は城兵の命と引き換えに、一族と共に自害。ここに三木城は開城した。

三木城の落城後も、秀吉は手を緩めなかった。毛利・本願寺勢力との繋がりが深く、最後まで抵抗を続けていた播磨灘沿岸の英賀城を4月に攻略 3 。さらに5月には、山中の長水山城を陥落させ、ここに、足かけ三年に及んだ秀吉による播磨国の完全平定が、ようやく完了したのである 7

1577年の龍野城開城は、いわば「脅しによる表面的な服従」を得たに過ぎなかった。別所氏の反乱は、播磨国衆が織田の支配を本質的に受け入れていなかったことの証左である。秀吉は、この反乱を時間をかけて徹底的に叩き潰すことで、播磨の国衆に「織田への反逆は一族の滅亡を意味する」という教訓を骨の髄まで刻み込んだ。龍野城開城から三木合戦終結までの二段階のプロセスを経て初めて、播磨は織田家の中国侵攻における、揺るぎない後方基地へと変貌を遂げたのであった。

終章:平定後の播磨と龍野城の行方

三年にわたる戦乱の末に達成された播磨平定は、この地域の運命を、そして龍野城を巡る人々のその後の人生を大きく変えることになった。「龍野城の戦い」が歴史に与えた長期的影響を、播磨の再編、主要人物のその後、そして城自体の変遷という三つの視点から考察し、本報告書の結論としたい。

播磨の再編と豊臣政権の拠点化

平定後、播磨は完全に羽柴秀吉の支配下に置かれた。別所氏や小寺氏といった反抗した国衆はことごとく没落し、その所領は秀吉によって再分配された。秀吉は、黒田官兵衛から譲り受けた姫路城を自らの本拠地と定め、大規模な改修に着手。壮麗な天守閣を持つ近世城郭へと姿を変えた姫路城は、その後の中国・四国・九州方面への侵攻における巨大な軍事拠点として、豊臣政権の西国支配を象徴する存在となった。播磨は、もはや国衆が割拠する緩衝地帯ではなく、中央政権の直轄下にある戦略の前線基地へと、その性格を根本的に変えたのである。

主要人物たちのその後

  • 赤松広秀 : 龍野城を開城した若き城主は、秀吉の家臣として新たな道を歩み始めた。賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦い、四国征伐などに従軍し、着実に功績を重ねる。その忠勤が認められ、天正十三年(1585年)には但馬竹田城主として二万二千石を与えられた 6 。今日、「天空の城」として名高い竹田城の壮大な石垣群は、広秀の時代に整備されたものと伝えられている 6 。しかし、秀吉の死後、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して丹後田辺城を攻撃した後、東軍に寝返って鳥取城を攻めるという複雑な動きを見せる。その鳥取城攻めの際に城下を焼き払ったことを咎められ、戦後、徳川家康から切腹を命じられるという悲劇的な最期を遂げた 22 。彼の生涯は、旧来の名門出身者が、実力主義の新しい時代の波に翻弄されながらも必死に生き抜こうとした、戦国末期の国衆の典型的な姿を映し出している。
  • 蜂須賀正勝 : 秀吉の股肱の臣として龍野城主となった蜂須賀正勝は、その後も四国征伐などで重要な役割を果たした。しかし、天正十四年(1586年)、病によりこの世を去る 18 。龍野城はその後、福島正則といった豊臣恩顧の武将が城主を務め、西国支配の要の一つとして機能し続けた 12

龍野城の変遷と歴史的意義の総括

戦国時代、鶏籠山に築かれた山城としての龍野城(龍野古城)は、泰平の世が訪れると、その軍事的役割を終える。江戸時代に入り、脇坂安政が龍野藩主となると、城は山麓の平地に御殿を中心とした近世城郭として再建された 10 。山上の古城は廃城となり、新たな城は脇坂氏十代の居城として明治維新まで存続。その城下町は、醤油醸造業などで栄え、「播磨の小京都」と称される美しい町並みを形成した 24

結論として、天正五年(1577年)の龍野城無血開城は、単なる一城の攻防戦ではなかった。それは、秀吉の播磨平定戦における巧みな緒戦であり、その後の播磨、ひいては中国地方全体の運命を決定づける重要な一歩であった。この出来事は、播磨における「赤松氏の時代」の終わりと、「豊臣(羽柴)の時代」の始まりを告げる画期であった。それは、血縁や旧来の権威が絶対的な価値を持った中世的な国衆連合の時代の終焉と、中央集権的な織豊政権による実力支配という、新しい時代の到来を象徴する瞬間の縮図だったのである。武力と心理戦を巧みに組み合わせた秀吉の戦い方は、来るべき新しい時代の統治の形を予感させるものであり、龍野城の静かな開城は、日本の歴史が大きく転換する音を、確かに響かせていた。

引用文献

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