最終更新日 2025-08-20

一宇治城

一宇治城は、薩摩の要衝に築かれ、島津氏の飛躍を支えた。伊集院氏との争奪戦、ザビエルとの会見など歴史の舞台となり、その堅固な構造は、戦国島津の揺籃の地として今に伝わる。

薩摩の要衝・一宇治城 ― 島津氏飛躍の礎となった城塞の全貌

序章:戦国島津の揺籃、一宇治城

日本の戦国史において、南九州に覇を唱えた島津氏の存在は特異な光彩を放っている。その強固な軍事力と独自の領国経営は、後の世に多くの研究と関心を集めてきた。しかし、その島津氏が地方の一豪族から戦国大名へと飛躍を遂げる過程において、決定的な役割を果たした一つの城郭の存在は、必ずしも広く知られているとは言えない。それが、薩摩国の中央部に位置した山城、「一宇治城(いちうじじょう)」である。

本報告書は、この一宇治城に焦点を当て、その歴史的価値を多角的に解明することを目的とする。一宇治城は単なる軍事拠点に留まらず、島津氏の権力構造の変遷、南九州の政治力学、さらには日本の対外交流史における重要な結節点として機能した。薩摩半島中央部の交通の要衝という地政学的な優位性から、この城は鎌倉時代以来、常に地域の覇権を巡る争奪の的となってきた 1 。特に戦国時代、島津一門の内訌と、その後の島津貴久による領国統一事業において、一宇治城は文字通り「揺籃の地」としての役割を果たしたのである 3

本報告では、鎌倉時代の創築から江戸時代初期の廃城に至るまでの歴史的変遷を追いながら、城郭の構造、関わった人物たちの動向、そして出土遺物が語る文化的な側面までを詳細に検証する。これにより、一宇治城が島津氏の飛躍の礎となり、戦国史に刻んだ深遠な意義を明らかにしていく。

第一章:城郭の黎明 ― 鎌倉・南北朝期における伊集院氏の拠点

第一節:創築と地理的環境

一宇治城の歴史は、鎌倉時代初期にまで遡る。伝承によれば、建久年間(1190年~1199年)、伊集院郡司であった紀四郎時清(或いは時治)によって創築されたとされる 3 。城は現在の鹿児島県日置市伊集院町に位置し、標高約144メートルの鉄丸山と呼ばれるシラス台地の地形を巧みに利用して築かれた 3 。その規模は東西約600メートル、南北約650メートルにも及ぶ広大なもので、三方が断崖絶壁という堅固な立地を誇る 3 。さらに城の東側から北縁にかけては神之川が流れ、これが自然の外堀として機能しており、まさに天然の要害と呼ぶにふさわしい構造であった 3

この地理的条件は、一宇治城に高い軍事的価値を与えた。薩摩半島の中央部に位置することから、交通の結節点として領内各地へのアクセスが容易であり、領国経営と軍事行動の両面において極めて重要な拠点となり得たのである 1

第二節:島津氏庶流・伊集院氏の時代

紀氏による創築の後、一宇治城は島津氏の一族である伊集院久兼(久親)が城主となり、以降、長きにわたり伊集院氏の拠点として発展を遂げる 3 。伊集院氏は、島津氏初代・忠久の曾孫である俊忠を祖とする庶流でありながら 8 、海外との交易などを通じて独自の経済力を蓄え、その勢力は次第に宗家である島津氏をも凌ぐと評されるほど強大なものとなっていった 2

この伊集院氏の勢力伸長を物語る上で、一宇治城の存在は決定的に重要である。彼らにとってこの城は、単なる居城ではなく、一族の権威と独立性を内外に示すための象徴的な存在であった。堅固な城郭の維持と拡張は、彼らの経済力と軍事力の直接的な現れであり、宗家に対して「単なる家臣ではない」という政治的なメッセージを発信し続ける装置でもあった。

その独立志向が最も顕著に表れたのが、南北朝の動乱期である。島津宗家が足利尊氏に与し北朝方として行動したのに対し、伊集院忠国は後醍醐天皇方の南朝に味方し、宗家と公然と対立した 7 。これは、伊集院氏が宗家とは異なる独自の政治判断を下す能力と意思を持っていたことの証左であり、一宇治城という強固な軍事基盤がその独立性を支えていたのである。

第二章:宗家の逆襲 ― 伊集院氏の没落と島津氏直轄化

第一節:伊集院頼久の乱

伊集院氏の権勢が頂点に達したのは、室町時代初期、七代当主・伊集院頼久の時代であった。応永十八年(1411年)、島津宗家七代当主・元久が後継者を定めぬまま急逝すると、頼久は自らの子(後の伊集院煕久)を宗家の後継者として擁立しようと画策する 7 。これは、一庶流による事実上の宗家乗っ取りの試みであり、伊集院氏の野心の極致であった。

しかし、この計画は元久の弟・島津久豊によって阻止される。家督を継いだ久豊に対し、頼久は公然と反旗を翻し、薩摩国を二分する大乱へと突入した。これが「伊集院頼久の乱」である 7 。頼久は反久豊勢力を巧みに結集し、一時は久豊の本拠地である鹿児島を急襲して清水城を焼き払うなど、宗家を大いに脅かした 7 。この反乱において、司令塔として機能したのが一宇治城であった。宗家の軍勢が一宇治城を攻めた際には、これを撃退しており、城の堅固さと伊集院氏の軍事力の高さが窺える 7

第二節:宝徳の政変と伊集院氏の終焉

伊集院頼久の乱は最終的に久豊によって鎮圧され、両者は和睦するものの、伊集院氏の潜在的な力は依然として宗家にとって大きな脅威であり続けた 7 。その脅威に終止符が打たれたのは、宝徳元年(1449年)のことである。

八代当主・伊集院煕久が、所領の所有権を巡る争いから、島津氏の庶流である町田高久を一宇治城内に呼び出して殺害するという事件を惹き起こした 7 。この軽率な行動は、宗家にとって伊集院氏排除の絶好の口実となった。島津宗家九代当主・島津忠国はこれを好機と捉え、直ちに大軍を編成して一宇治城を包囲した 7

翌宝徳二年(1450年)、追い詰められた煕久はついに城を放棄し、肥後国(現在の熊本県)へと逃亡する 2 。これにより、鎌倉時代から約250年にわたって続いた伊集院氏による一宇治城支配は、完全に終焉を迎えた。

この一連の出来事は、単なる一庶流の排除に留まるものではない。これは、島津宗家が領国内の有力庶家や国人の力を削ぎ、守護としての権力を強化していく「中央集権化」への重要な一里塚であった。薩摩の戦略的要衝である一宇治城を宗家が直接掌握したことは、他の庶流や国人に対する強力な牽制となり、宗家の権威を絶対的なものへと高める効果をもたらした。この事件によって、後の島津氏による薩摩統一支配の強固な基盤が築かれたのである。

第三章:覇権争奪の舞台 ― 薩州家・実久と伊作家・忠良の激突

第一節:島津家の内訌 ― 薩州家と伊作家

十五世紀末から十六世紀にかけて、島津宗家は当主の相次ぐ早世や内紛によって著しく弱体化した 12 。その権威が揺らぐ中、島津氏の有力な分家である薩州家(さっしゅうけ)と、伊作家(いざくけ)を継承した相州家(そうしゅうけ)が台頭し、家中の主導権を巡って激しく対立するようになる 7

当初、戦局を優位に進めたのは、分家筆頭格であった薩州家の当主・島津実久であった 14 。実久は宗家当主・島津勝久を傀儡として擁立し、薩摩の実権を掌握。伊集院氏の没落後、島津宗家の直轄地となっていた一宇治城も、この時期には実久の勢力下に置かれていた 7

第二節:一宇治城争奪戦

これに対し、島津勝久から家督を譲られる形で宗家の後継者となった島津貴久と、その後見人である父・忠良(後の日新斎)が実久に反旗を翻す。伊作家を基盤とする忠良・貴久父子と、薩州家の実久との抗争は、薩摩全土を巻き込む全面戦争へと発展した 12

この内訌において、一宇治城の領有は、どちらの派閥が薩摩の覇権を握っているかを示す「バロメーター」としての役割を果たした。城の支配権は、単なる軍事的優位性だけでなく、薩摩中央部を制圧し、正統な後継者としての地位を内外に宣言する極めて重要な政治的意味合いを持っていたのである。

戦局の転換点となったのは、天文五年(1536年)の出来事であった。島津忠良は、実久が一宇治城の守将として配置していた町田久用が城を留守にした隙を突き、1000余騎の兵を率いて城を急襲。電光石火の攻撃により、ついに一宇治城を攻略することに成功した 7

この勝利は決定的であった。薩摩中央部の要衝を失った実久は、その影響力を大きく削がれ、没落への道をたどることになる。一方で、一宇治城を手中に収めた忠良・貴久父子は、家督争いの主導権を完全に掌握し、島津家統一への大きな一歩を踏み出した。一宇治城の支配権の移動は、そのまま島津家内部の権力移行を象徴する出来事だったのである。

第四章:飛躍の拠点 ― 島津貴久の時代と城の最盛期

第一節:本拠地の移転と戦略的意図

一宇治城を奪取した後、島津貴久はさらなる戦略的決断を下す。天文十四年(1545年)、貴久は先祖代々の居城であった伊作城から、この一宇治城へと本拠を正式に移したのである 2 。伊作城は薩摩半島西端に位置し、領国全体の統治やさらなる勢力拡大を図る上では地理的に不便であった 2 。それに対し、薩摩中央部に位置する一宇治城は、領国経営と軍事展開の両面において圧倒的に有利な立地であった。この本拠地移転は、島津氏が守勢から攻勢へと戦略を大きく転換したことを意味する、画期的な出来事であった。

この城を新たな司令塔として、貴久は北郷氏や樺山氏といった有力分家の支持を着実に取り付け、薩摩・大隅・日向の三州太守としての地位を確立。長年の悲願であった島津家中の統一を成し遂げた 2 。一宇治城は、まさに戦国大名・島津氏が誕生した地となったのである。

第二節:若き英傑たちの揺籃

一宇治城が島津氏の歴史において特別な意味を持つもう一つの理由は、ここが後の九州を席巻する英傑たちを育んだ場所であることだ。貴久の子である島津義久、義弘、歳久、家久の四兄弟は、その幼少期から青年期にかけての多感な時期をこの城で過ごしたと伝えられている 3 。彼らの強靭な精神力や卓越した軍事思想が、この天然の要害に囲まれた環境で培われたことは想像に難くない。特に次男の義弘は、後年、息子・家久が平地に鹿児島城(鶴丸城)を築こうとした際に強く反対し、防御に優れたこの一宇治城を新たな本拠地として推薦したという逸話が残っている 2 。これは、戦国の修羅場をくぐり抜けてきた猛将の目から見ても、一宇治城がいかに優れた城郭であったかを物語っている。

第三節:歴史的会見の場 ― ザビエルとの邂逅

島津貴久の時代、一宇治城は日本の対外関係史においても重要な舞台となった。天文十八年(1549年)9月、薩摩に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは、一宇治城において島津貴久と会見し、日本で初めて公式にキリスト教の布教許可を得たとされている 1 。この歴史的な会見は、一宇治城が単なる地方の軍事拠点ではなく、国際的な交渉が行われる外交の舞台でもあったことを示している。現在、城跡にはこの会見を記念する碑が建てられており、その歴史的重要性を今に伝えている 3

貴久の時代、一宇治城はその役割を大きく変貌させた。それはもはや単なる軍事要塞ではなかった。領国経営を行う「政庁」として、次代を担う後継者を育む「館」として、そして国際的な外交交渉を行う「迎賓館」としての機能を併せ持つ、複合的な拠点へと昇華したのである。この多機能性こそ、島津氏が地方豪族から、高度な政治・外交能力を備えた戦国大名へと脱皮していく過程を象徴するものであった。

第五章:城郭の構造と発掘された遺物

第一節:縄張りの全貌 ― 群郭式山城

一宇治城は、単一の郭で構成される城ではなく、複数の郭が連携して一つの城塞群を形成する「群郭式山城」と呼ばれる複雑な構造を持っていた 1 。城の中心であり最も高い場所に位置する「神明城(しんめいじょう)」が本丸に相当し、その周囲に「伊作城」「釣瓶城(つるべじょう)」「中尾曲輪」「弓場城」「南之城」「上平城」など、大小三十余りの曲輪が巧みに配置されていた 1 。これらの曲輪群は、それぞれが独立した防御機能を持つと同時に、有機的に連携して城全体の防御力を高める設計となっていた。

現在、城跡は城山公園として整備されているが、往時の姿を偲ばせる遺構は今なお良好な状態で残存している。特に、敵の侵攻を阻むために掘られた巨大な空堀や、郭の周囲に築かれた土塁、斜面を削って急角度にした切岸などは、当時の高度な築城技術を雄弁に物語っている 1 。また、島津氏が入城してからは、大手口(正面玄関)が変更され、「犬之馬場」と呼ばれる広場が整備されたことも記録に残っている 19

曲輪名称

位置(推定)

規模・特徴

推定機能

典拠資料

神明城

城域中央・最高所

本丸に相当。展望台が設置。

城主の居館、最終防衛拠点、政務の中心。

1

伊作城

(縄張り図に基づく)

-

副次的な郭、あるいは特定の家臣団の駐屯地か。

1

釣瓶城

(縄張り図に基づく)

井戸に関連する名称か。

水の手(水源)の確保・防衛拠点。

1

弓場城

(縄張り図に基づく)

-

弓の訓練場、あるいは弓兵部隊の駐屯地。

1

南之城

城域南部

-

南方からの攻撃に対する防御拠点。

1

上平城

(縄張り図に基づく)

-

複数の平坦地を持つ郭の一つ。兵の駐屯地。

1

中尾曲輪

(縄張り図に基づく)

尾根筋に位置する郭。

連絡通路、あるいは監視所。

1

犬之馬場

大手口付近

島津氏入城後に整備された平坦地。

兵馬の訓練、閲兵などが行われた広場。

19

第二節:出土遺物から見る城内の生活と文化

一宇治城跡の発掘調査では、当時の城主たちの生活や文化水準の高さ、そしてその国際性を物語る貴重な遺物が数多く発見されている。特に注目されるのは、中国産の天目碗や、青白磁渦巻文梅瓶といった高級な貿易陶磁器である 3 。これらの遺物は、城主が相当な富を有し、海外との交易に深く関与していたことを示している。

中でも白眉と言えるのが、龍の文様が描かれた朝鮮半島製の陶磁器「粉青沙器(ふんせいさき)」の壺の破片である 3 。粉青沙器は、十五世紀から十六世紀にかけて朝鮮半島で焼かれたもので、日本では「三島」の名で知られている 22 。この龍文様の粉青沙器は、日本国内では他に類例のない極めて希少な発見であり、当時の薩摩が、中央政府を介さず、朝鮮半島との間に独自の交易ルートを確立していた可能性を強く示唆する一級の考古学的資料である。

これらの出土遺物は、重要な事実を物語っている。すなわち、戦国時代の薩摩は、日本の中心である京都から遠く離れた「辺境」ではなく、東アジアの交易ネットワークに直接組み込まれた、独自の文化と経済力を持つ先進地域であったということである。一宇治城は、単に軍事的に強力なだけでなく、国際的な文物が活発に行き交う文化的な中心地でもあった。フランシスコ・ザビエルが、数ある日本の大名の中から島津貴久を選び、わざわざこの地を訪れた背景には、こうした薩摩の国際性と先進性があったと考えられる。

第六章:歴史的役割の終焉 ― 拠点移転から廃城まで

第一節:鹿児島内城への拠点移転

天文十九年(1550年)12月、島津家中の統一を果たし、名実ともに島津宗家当主となった貴久は、本拠地を沿岸部の鹿児島へと移し、内城(うちじょう、または御内)を築いた 1 。この拠点移転により、島津氏の政治的中心は鹿児島へと移り、一宇治城はその最重要拠点としての役割を終えることになった。

以降、一宇治城は薩摩藩の地方支配の拠点である「外城(とじょう)」の一つとして位置づけられ、地頭の管轄下に置かれた 2 。記録によれば、初代地頭は島津右衛門大夫孝久が、また永禄年間には町田久倍が地頭を務めたとされている 2

第二節:一国一城令と廃城

江戸時代に入ると、一宇治城の軍事的重要度はさらに低下した。慶長年間(1596年~1615年)以降には、城を日常的に整備・管理していたことを示す史料が見当たらなくなり、この頃には実質的には廃城に近い状態にあったと考えられている 2

そして慶長二十年(1615年)、江戸幕府が発令した「一国一城令」により、一宇治城は公式に廃城とされた 1 。これは、徳川幕府が諸大名の軍事力を削減し、全国支配を盤石にするために打ち出した政策の一環であった 25 。これにより、鎌倉時代から400年以上にわたって南九州の歴史の舞台であり続けた一宇治城は、その歴史に幕を下ろしたのである。

第三節:後世の評価

城としての役割を終えた後も、一宇治城が持つ軍事拠点としての価値は、戦国の気風を知る武将たちによって高く評価され続けた。その最も象徴的な例が、前述した島津義弘の逸話である。関ヶ原の戦いを経て、世が泰平へと向かう中、息子の家久が平地に鹿児島城(鶴丸城)の築城を進めた際、義弘は「守りに弱い」としてこれに反対し、代替地として山城である一宇治城を強く推薦した 2 。この逸話は、戦国乱世を生き抜いた百戦錬磨の将の目から見ても、一宇治城の防御機能がいかに傑出していたかを証明するものであり、城郭史におけるその価値を不朽のものとしている。

終章:史跡としての現在と未来

廃城から約400年の時を経て、かつて数多の武士たちが駆け巡った一宇治城跡は、現在「城山公園」として整備され、市民の憩いの場として親しまれている 1 。本丸であった神明城跡に建てられた展望台からは、遠く桜島や霧島連山を望むことができ、訪れる人々に雄大な景色を提供している 1

しかし、その穏やかな公園の姿の下には、南九州の激動の歴史が深く刻まれている。良好な状態で残存する空堀や土塁といった遺構、フランシスコ・ザビエルとの歴史的会見の伝承、そして城主たちの国際性を物語る貴重な出土品の数々は、一宇治城が単なる過去の遺物ではなく、今なお歴史を語り続ける生きた証人であることを示している。

伊集院氏の栄華と没落、島津家の内訌、そして戦国大名への飛躍。一宇治城は、島津家の歴史、ひいては日本の戦国史、さらには東西交流史において、不変の価値を持つ極めて重要な史跡である。その歴史的意義を正しく理解し、後世へと伝えていくことは、現代に生きる我々に課せられた重要な責務と言えるだろう。

引用文献

  1. 一宇治城の見所と写真・100人城主の評価(鹿児島県日置市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1588/
  2. 一宇治城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%AE%87%E6%B2%BB%E5%9F%8E
  3. 一宇治城跡|鹿児島県日置市 https://www.city.hioki.kagoshima.jp/bunkazai/kurashi/kosodate-kyoiku/shakaikyoiku/bunkazai/ijuin/ichiuzizxyou.html
  4. 戦国島津氏をたどる|鹿児島県日置市 https://www.city.hioki.kagoshima.jp/bunkazai/kurashi/kosodate-kyoiku/shakaikyoiku/bunkazai/sengoku-shimazushi.html
  5. 一宇治城跡 日置市城山公園にある三州統一を目指す島津氏の本拠 ... https://haradaoffice.biz/ichiuji-jyo/
  6. 戦国島津氏ゆかりの地 - 南さつまの観光案内 http://www.m-satsuma.info/pg498.html
  7. 一宇治城(伊集院城)跡にのぼってきた、島津貴久の薩摩平定の ... https://rekishikomugae.net/entry/2021/06/29/102420
  8. 戦国時代の伊集院一族、島津貴久・島津義久の勢力拡大を支える - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2024/05/23/092332
  9. 武家家伝_伊集院氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/izyuin_k.html
  10. 一宇治城 https://my10.jp/kyushu/kagoshima/ichiuji-castle.php
  11. 薩摩 一宇治城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/satsuma/ichiuji-jyo/
  12. 薩摩・島津家の歴史 - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/shimadzu-history/
  13. 戦国時代の南九州、激動の16世紀(4)相州家の復権、島津忠良・島津貴久は南薩摩を平定 https://rekishikomugae.net/entry/2021/11/01/223153
  14. 島津氏の薩州家のこと【前編】 分家から本流になりかけるが…… - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2023/08/23/174654
  15. 「島津実久」分家出身の野心家。宗家の家督を狙い、忠良父子と激闘! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/103
  16. 島津忠良 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E8%89%AF
  17. 戦国大名島津氏の権力形成過程 : 島津貴久の家督継 承と官途拝領を中心に - 九州大学 https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4494688/025_p001.pdf
  18. 戦国時代の南九州、激動の16世紀(3)島津忠良の逆襲 https://rekishikomugae.net/entry/2021/10/25/165458
  19. 一宇治城/戦国の城を訪ねて https://oshiromeguri.net/ichiujijo.html
  20. きまぐれNEWSLINK:2022年4月下旬 - 考古学のおやつ/NEWSLINK http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/20224c.html
  21. Untitled - 日置市 https://www.city.hioki.kagoshima.jp/documents/9901/kyotu1008.pdf
  22. 粉青沙器掻落蓮池文扁壺(彫三島) - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/536171
  23. 鶏龍山(けいりゅうざん)とは|日本で人気の粉青沙器の種類や特徴 - 陶磁オンライン美術館 https://touji-gvm.com/gyeryongsan/
  24. 伊作城 一宇治城 市来鶴丸城 南郷城 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/kagosima/hiokisi.htm
  25. 一国一城令のもたらしたもの/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16936_tour_017/
  26. 一国一城令 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%9F%8E%E4%BB%A4