最終更新日 2025-08-22

万喜城

日本の戦国時代における万喜城の総合的考察 ― 房総の要衝、その興亡の軌跡

序章:房総の要衝、万喜城

房総半島の中央部、現在の上総国夷隅郡、今日の千葉県いすみ市万木に、戦国時代の動乱を体現するかの如く、一つの山城が存在した。その名は万喜城(まんぎじょう)。時に万木城、満喜城、あるいは万騎城とも記されるこの城は 1 、全国的な知名度こそ他の名城に譲るものの、房総の戦国史において極めて重要な戦略的役割を担った要衝であった。

本報告書は、この万喜城を単なる城跡としてではなく、戦国時代という激動の時代における地政学的力学の縮図として捉え、その歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。万喜城の歴史は、その城主であった上総土岐氏の興亡と分かち難く結びついている。そして土岐氏の運命は、当時の房総半島を二分した二大勢力、すなわち安房の里見氏と小田原の後北条氏との間で、いかにして生き残りを図るかという熾烈な闘争の物語そのものであった 2

本稿では、まず謎に包まれた万喜城の黎明期と、その主となった上総土岐氏の出自を探ることから始める。次に、房総屈指と評される城郭の構造を、地形と防御思想の観点から詳細に分析する。続く章では、里見氏との婚姻同盟から一転、後北条氏の最前線基地へと変貌を遂げた万喜城が、いかにして房総の覇権争いの渦中に身を投じていったかを、具体的な合戦の記録を基に検証する。そして、天下統一の奔流の中で、徳川四天王の一人、本多忠勝の前に落城し、土岐氏が滅亡するに至る過程を詳述する。最後に、落城後の城の意外な運命と、故城の名を姓として生き永らえた土岐氏末裔の驚くべき足跡を追跡し、万喜城が戦国史に刻んだ独自の意義を総括する。

第一章:万喜城の黎明と上総土岐氏の出自

万喜城の歴史を紐解く上で、その築城の経緯と、城主となった上総土岐氏の出自は、多くの謎と伝承に包まれている。これらを丹念に検証することは、城と一族が房総の地に根を下ろした背景を理解する上で不可欠である。

第一節:築城を巡る伝承と諸説の検討

万喜城の創始については、確固たる一次史料を欠き、複数の伝承と説が存在する。最も広く知られているのは、応永年間(1394年~1428年)に摂津国から移り住んだ土岐時政が築城したとする伝承である 1 。この説は、城主土岐氏の起源を室町時代初期にまで遡らせるもので、一族の由緒を強調する意図が窺える。

しかし、この応永年間築城説はあくまで伝承の域を出ず、築城者および正確な年代は不明であるのが実情である 1 。これに対し、より戦国期の実態に近い説として、元々は15世紀中頃に上総で勢力を有した上総武田氏によって築かれ、後に武田氏が衰退した際に土岐氏がこれを奪取し、本拠地として大改修を加えたという見方もある 2 。この説は、戦国時代によく見られる、新興勢力が旧勢力の拠点を奪い、自らの権力基盤として再利用する典型的なパターンに合致する。

史料上で土岐氏の活動が具体的に確認され始めるのは、明応年間(1492年~1501年)頃の土岐頼元の代からである。頼元は、後に上総土岐氏代々の菩提寺となる海雄寺を創建したとされており 1 、この時期には土岐氏が万喜の地で一定の勢力を確立していたことが示唆される。

これらの築城を巡る複数の説は、単なる歴史の曖昧さを示すものではない。むしろ、戦国時代の在地領主が自らの権威をいかにして構築しようとしたかを物語る。応永年間という古い時代に起源を求める伝承は、下剋上が常態化した時代において、自らの支配の正当性を「古くからの由緒」に求めようとする政治的意図の表れと解釈できる。一方で、武田氏からの奪取という説は、実力によって領地を拡大していく戦国領主の現実的な姿を反映している。おそらく、万喜城の歴史は、既存の小規模な砦を土岐氏が段階的に占拠し、自らの勢力拡大に伴って大規模な山城へと改修していった、という複合的な過程を経たものと考えるのが最も妥当であろう。

第二節:美濃源氏の名跡 ― 上総土岐氏の起源と系譜を巡る謎

万喜城主となった上総土岐氏は、清和源氏の名門であり、室町幕府において代々美濃国の守護職を務めた土岐氏の支流である 5 。桔梗紋を家紋とすることも、その出自を明確に示している 5 。彼らが上総の地に至った経緯は、本拠地である美濃での内紛に敗れた結果である可能性が高い 6 。戦国時代、宗家の家督争いや重臣の台頭によって、分家が故郷を離れて新たな活路を求める例は数多く見られる。上総土岐氏もまた、そうした時代の潮流の中で房総半島に流れ着いた一族であったと考えられる。

しかし、その具体的な系譜となると、史料によって記述が大きく異なり、極めて錯綜している。『房総里見氏の研究』などでは19代説が提唱される一方、3代説、5代説、9代説、15代説といった多様な系譜が伝えられており、決定的な定説は存在しない 11 。この系譜の混乱は、上総土岐氏のような地方国人衆に関する一次史料が乏しいことを物語ると同時に、彼らが自らの権威を高めるために系図を編纂・修飾した可能性をも示唆している。

戦国時代において、「美濃源氏土岐氏」という名跡は、たとえ故地を追われた一族であっても、非常に大きな政治的資本であった。それは他の在地領主に対して、自らの家格の高さと由緒の正しさを示す強力な武器となった。上総土岐氏は、この名門の血筋という無形の資産を最大限に活用し、婚姻政策や軍事行動を通じて、上総の地に新たな支配権を確立していったのである。彼らの物語は、故郷を失った名門庶流が、いかにして新たな土地で生き残り、勢力を築き上げていったかを示す、戦国時代の典型的な事例の一つと言えるだろう。

第二章:難攻不落の山城 ― 万喜城の構造と縄張り

万喜城は、房総半島における中世山城の到達点の一つと評価されるほど、その構造と防御設計において極めて高い完成度を誇る。天然の地形を最大限に活用し、高度な土木技術を駆使して築かれたこの城は、まさに難攻不落の要塞であった。

第一節:夷隅川を天然の要害とする立地

万喜城の最大の戦略的利点は、その卓越した立地にある。城は標高約80メートルの丘陵上に位置し、その北、東、西の三方を大きく蛇行する夷隅川が取り囲んでいる 2 。この川は、幅広で水深のある天然の巨大な外堀として機能し、敵軍の接近を根本的に阻害した。

城域は東西約500メートル、南北約800メートルに及ぶ広大なもので、主郭をはじめとする複数の主要な曲輪群で構成されていた 1 。この規模は、単なる臨時の砦ではなく、一帯を支配する国人領主の本拠地として、多くの兵員と物資を収容できる本格的な拠点であったことを示している。

第二節:曲輪、土塁、切岸 ― 房総屈指と評される防御施設の徹底分析

万喜城の防御施設は、房総の城郭に特徴的な土木技術を駆使し、極めて巧妙に設計されている。

曲輪配置と機能

城の中心部は、主郭(一の郭)、二の郭、三の郭など、複数の曲輪が連なる連郭式の構造を基本とする。発掘調査や縄張り図の分析によれば、二の郭付近に城主の居館や政務を執り行う建物が存在し、現在展望台が建つ「マス台」と呼ばれる土壇は、物見櫓が設置された櫓台であったと推定される 6。さらに北側の曲輪群には、城主一族や上級家臣の住居が配置されていたと考えられる 6。

切岸(きりぎし)

万喜城の防御構造を最も特徴づけるのは、徹底的に施された「切岸」である。これは、山の斜面を人工的に垂直近くまで削り落として絶壁を作り出す技術で、特に房総の城郭で発達したものである 11。万喜城ではこの技術が遺憾なく発揮されており、多くの斜面は岩盤が露出するほどの急峻な崖となっている。これにより、攻城兵はたとえ堀を越えても城壁に取り付くことが極めて困難であった 2。その見事な断崖は、現代においてもロープなしでの登攀は不可能とされ、当時の防御力の高さを物語っている 6。

南側尾根の防御線

城の三方が川に守られているのに対し、唯一陸続きとなる南側の尾根は、城の最大の弱点となる可能性があった。しかし、万喜城の築城者はこの弱点を、逆に城の最強の防御線へと転化させた。尾根筋は人工的に細長く削られ、その両側を垂直の切岸とすることで、一本の巨大な土橋のような地形を作り出した。この尾根上には、敵の進軍を阻むための堀切(尾根を分断する空堀)が幾重にも設けられ、側面からの攻撃を不可能にする横堀も配置された。この延々と続く防御ラインは、「上総城郭版万里の長城」と評されるほど壮大かつ堅固なものであり 6、万喜城の縄張りが極めて高度な戦略思想に基づいて設計されていたことを示している。

これらの防御施設は、単独で機能するのではなく、腰曲輪(主要な曲輪の斜面に設けられた小規模な平場)や虎口(城門)などと有機的に連携し、多層的で死角のない防御網を形成していた。万喜城は、石垣を多用する西国の城とは異なり、土と地形を知り尽くした関東の築城技術の粋を集めた、土木工学の傑作と言えるだろう 14

第三節:発掘調査から浮かび上がる城内の実像

軍記物や伝承に描かれる万喜城の姿は、近年の考古学的調査によって、より具体的な実像を結びつつある。千葉県文化財センターや総南文化財センターによって行われた複数回の発掘調査は、城の歴史を物語る貴重な物証を我々に提供している 15

調査では、曲輪、溝、土坑、ピットといった中世城郭の基本的な遺構が確認された 15 。特筆すべきは、「米蔵跡」と推定される場所から大量の「焼米」が出土したことである 1 。これは、天正18年(1590年)の本多忠勝による攻城戦の際に、城が炎上し落城したという歴史的記述を裏付ける決定的な物証である。籠城戦の末に兵糧が焼失した情景をありありと想像させ、戦いの激しさを物語っている。

また、城内からは「かわらけ」と呼ばれる使い捨ての土器や、常滑焼の陶器片なども出土している 14 。これらの遺物は、城内で生活が営まれていたことを示すと同時に、その年代を16世紀、すなわち上総土岐氏が最も活発に活動した戦国時代後期に特定する上で重要な手がかりとなる。

このように、発掘調査によって得られた物理的な証拠は、文献史料の記述を補強し、時にはそれを修正する役割を果たす。焼米の発見は、万喜城の最期が壮絶なものであったことを証明し、出土した土器は、そこに生きた人々の日常と時代の息吹を伝えている。考古学の成果は、万喜城の歴史を地面の下から掘り起こし、より立体的で確かなものにしているのである。

第三章:房総三国志の中の万喜城 ― 里見・北条との攻防

戦国時代の房総半島は、安房から勢力を北上させる里見氏と、関東全域の支配を目指す小田原の後北条氏という二大勢力が激しく衝突する最前線であった。万喜城と城主土岐氏は、この巨大な権力の間で翻弄され、時には巧みな外交で、時には死闘を繰り広げながら、自らの存亡を賭けた戦いに身を投じていく。

第一節:里見氏との蜜月 ― 土岐為頼の婚姻外交

万喜城主としてその名が具体的に史料に現れる土岐為頼(「万喜少弼」の異名を持つ)の時代、土岐氏は当初、房総の雄・里見氏と緊密な同盟関係にあった 19 。この同盟を確固たるものにしたのが、為頼の娘と里見氏の当主・里見義堯との婚姻である 1 。この婚姻により、土岐為頼は里見義堯の舅となり、土岐氏は里見一門に準ずる極めて重要な地位を占めるに至った。

この時期、土岐氏は里見氏の主戦力として各地を転戦しており、土気の酒井氏や大多喜の正木氏と並び「里見の三羽烏」と称されることもあったという 3 。特に、上総の有力国人であった真里谷武田氏との抗争においては、里見軍の主力として活躍し、その勢力拡大に大きく貢献した 3 。為頼の娘は、後に父が里見氏を離反した後も義堯のもとに留まり続け、領民から「国母」として敬愛されたという逸話は、両家の結びつきが単なる政略に留まらない、深いものであったことを示唆している 19

第二節:第二次国府台合戦と路線転換 ― 後北条氏の最前線基地へ

この蜜月関係に終止符を打つ転機が、永禄7年(1564年)に訪れる。下総国府台(現在の千葉県市川市)において、里見義弘(義堯の子)率いる里見軍と、北条氏康・氏政父子の後北条軍が激突した「第二次国府台合戦」である。この戦いで里見軍は壊滅的な大敗を喫し、房総における勢力図は一変した 23

この決定的な敗戦を目の当たりにした土岐為頼は、一族の存続を賭けた重大な決断を下す。すなわち、衰勢の著しい里見氏を見限り、関東の覇者としての地位を固めつつあった後北条氏へと帰属を転換したのである 1 。この路線転換は、戦国時代の国人領主が生き残るための極めて現実的かつ冷徹な判断であった。忠誠や信義といった観念よりも、時勢を読み、より強力な勢力に与することで自領と家名を保つという、戦国ならではの生存戦略の現れである。

この決断により、万喜城の戦略的価値は劇的に変化した。それまで里見氏の上総東部における重要拠点であった万喜城は、一夜にして後北条氏が里見氏を攻めるための最前線基地へとその役割を変えたのである 2 。特に、里見氏の重臣正木氏が拠る大多喜城とは目と鼻の先に位置しており、万喜城はまさに里見領に突き付けられた匕首(あいくち)となった。

第三節:繰り返される攻防 ― 正木氏との死闘と「万喜・長南合戦」

後北条方への寝返り以降、万喜城はかつての盟友であった里見・正木軍による執拗な攻撃に晒されることとなる 2 。しかし、城主の土岐為頼、そしてその後を継いだ子の頼春は、いずれも優れた将器の持ち主であり、万喜城の堅固な守りを存分に活かして、これらの攻撃をことごとく撃退した 3

特に、豊臣秀吉による小田原征伐の直前、天正16年(1588年)から天正18年(1590年)にかけて繰り広げられた里見氏による三度にわたる大規模な攻勢、通称「万喜・長南合戦」は、万喜城の防御力の高さを証明する戦いであった 1 。『上総国誌』などの記録によれば、天正18年正月、夜陰に乗じて万喜城に迫った大多喜城主・正木氏の軍勢を、土岐頼春は事前に察知し、刈谷の難所で待ち伏せてこれを撃破したという 26

これらの戦いにおいて、土岐氏の兵力は1000から1500騎程度と推定されており 1 、里見・正木連合軍に比べて劣勢であった可能性が高い。にもかかわらず勝利を重ねることができたのは、万喜城という要塞が「戦力の増幅器(フォース・マルチプライヤー)」として機能したからに他ならない。優れた城郭は、少数の兵力で多数の敵を食い止め、撃退することを可能にする。土岐氏の度重なる防衛成功は、卓越した将の指揮と、堅固な城郭の防御力が一体となった時に、いかに大きな力を発揮するかを示す好例である。この難攻不落の城の存在こそが、土岐氏が二大勢力の狭間で20年以上にわたり独立を保ち得た最大の要因であった。

第四章:落城と土岐氏の終焉 ― 小田原征伐の奔流

長きにわたり房総の地で武威を誇った万喜城と土岐氏であったが、その運命は、戦国時代の終わりを告げる天下統一の巨大な波によって、否応なく終焉へと導かれることとなる。

第一節:豊臣秀吉の関東侵攻と房総方面軍の動向

天正18年(1590年)、関白豊臣秀吉は、関東に覇を唱える後北条氏を討伐すべく、20万を超える空前の大軍を動員した 27 。この「小田原征伐」は、もはや一地方の勢力争いではなく、日本の統一を完成させるための最終戦争であった。

後北条氏の与力大名としてその支配下にあった上総土岐氏は、主家の命運を共にすべく、当主・土岐頼春が手勢を率いて小田原城の籠城軍に加わった 3 。この選択は、後北条氏への忠義を示すものであったが、同時に豊臣方との敵対を決定づけるものであり、土岐氏の滅亡を運命づけることとなった。

秀吉の戦略は、小田原城を大軍で包囲する一方、別働隊を関東各地に派遣して後北条氏の支城を各個撃破するというものであった。房総方面の平定を任されたのが、徳川家康の軍勢である。そして、その先鋒部隊を率いたのが、徳川四天王の一人に数えられる猛将・本多平八郎忠勝であった 1

第二節:徳川四天王・本多忠勝の前に沈む

房総に進撃した本多忠勝の軍勢は、後北条方に属する諸城を次々と攻略していった。そしてその矛先は、北条方にとって上総東部の最重要拠点である万喜城に向けられた。

土岐氏が守る万喜城は、これまで幾度となく里見氏の猛攻を退けてきた難攻不落の要塞であった。しかし、相手は天下統一軍の中核をなす徳川の精鋭部隊である。その圧倒的な兵力と士気の前に、いかに堅固な万喜城といえども、抗しきることは不可能であった 1 。壮絶な攻防戦の末、万喜城はついに落城。城は炎に包まれ、城内に備蓄されていた兵糧米は黒く焼け焦げた 1 。この落城をもって、上総に割拠した戦国領主・土岐氏は滅亡した 1

万喜城の陥落は、土岐氏の戦術的失敗によるものではない。それは、国人領主たちが繰り広げてきた地域紛争の時代が、秀吉による天下統一という新たな戦争の次元の前に、完全に過去のものとなったことを象徴する出来事であった。

ここに、一つの興味深い逸話が残されている。攻め手の大将であった本多忠勝は、生涯無傷を誇った戦国屈指の勇将であったが、敵将であった故・土岐為頼の武勇を高く評価しており、落城後、召し抱えた土岐氏の旧臣たちに、しばしば「万木少弼どの」の武辺話を聞くことを好んだという 11 。勝者である忠勝が、滅ぼした相手に示したこの敬意は、土岐氏が侮れない実力を持った好敵手であったことの何よりの証左と言えるだろう。

表1:万喜城関連年表

年代(和暦/西暦)

出来事

主要人物・勢力

意義・特記事項

応永年間 (1394-1428)

摂津より土岐時政が移り築城したとの伝承が残る。

土岐時政

築城に関する最も古い伝承だが、確証はない。

明応年間 (1492-1501)

土岐頼元が活動し、菩提寺となる海雄寺を創建。

土岐頼元

史料上で確認できる土岐氏の初期の活動。

16世紀前半

土岐為頼、里見義堯の娘婿となり、里見氏と婚姻同盟を結ぶ。

土岐為頼、里見義堯

里見氏の有力な与力として、上総での勢力を固める。

永禄7年 (1564)

第二次国府台合戦で里見氏が大敗。これを機に後北条氏に鞍替えする。

土岐為頼、里見義弘、北条氏康

万喜城が里見氏に対する後北条氏の最前線基地となる。

天正11年 (1583)

土岐為頼が死去。子の頼春(義成)が家督を継承。

土岐為頼、土岐頼春

城主の交代。対里見氏の緊張関係は継続。

天正16-18年 (1588-90)

里見氏による三度の攻勢(万喜・長南合戦)をすべて撃退。

土岐頼春、正木氏

万喜城の堅固さと土岐氏の軍事的能力を証明。

天正18年 (1590)

小田原征伐で後北条方に与し、本多忠勝率いる徳川軍に攻められ落城。

土岐頼春、本多忠勝

上総土岐氏の滅亡。戦国時代の城としての役割を終える。

天正18-19年 (1590-91)

本多忠勝が大多喜城に移るまでの一時的な居城となる。

本多忠勝

近年の文書研究で判明した新事実。

天正19年 (1591)頃

本多忠勝が大多喜城へ本拠を完全に移し、廃城となる。

本多忠勝

城としての歴史に完全に幕を下ろす。

第五章:落城後 ― 本多忠勝の一時的居城から廃城へ

天正18年(1590年)の落城は、万喜城にとって戦国時代の終わりを意味したが、その歴史が即座に途絶えたわけではなかった。近年の研究は、城が廃墟となるまでの間に、徳川家康の関東支配体制構築の一翼を担うという、短くも重要な役割を果たしたことを明らかにしている。

第一節:新史料が示す空白の一年 ― 忠勝の万喜城在城

従来、万喜城は小田原征伐によって土岐氏が滅亡した直後に廃城になったと考えられてきた 21 。しかし、この通説は近年発見された文書史料によって覆されることとなった。その史料とは、他ならぬ本多忠勝自身が発給した書状である。

天正18年8月7日付で滝川忠征に宛てた書状の中で、忠勝は秀吉から上総万喜城を与えられたことを明確に記している 29 。この発見により、忠勝が房総に入封した後、直ちに大多喜城を本拠としたのではなく、まず万喜城を接収し、そこを一時的な居城としていたことが判明した 1 。この「空白の一年」とも言うべき期間の解明は、万喜城の歴史の最終章を書き換える重要な成果である。

万喜城が最終的に廃城となったのは、忠勝が大多喜城を居城としていることが文書上で確認されるようになる天正19年(1591年)頃とみられている 1

第二節:大多喜城への拠点移行 ― 戦略的観点からの考察

では、なぜ本多忠勝は、最終的に万喜城ではなく大多喜城を本拠地として選んだのか。そして、なぜその移行期間に万喜城を一時的な居城とする必要があったのか。その理由は、徳川家康が忠勝に与えた戦略的任務と、近世城郭への移行という時代の要請から読み解くことができる。

家康の関東入封後、忠勝には上総国に10万石という広大な領地が与えられた。その最大の任務は、依然として安房国に勢力を保つ里見氏を牽制し、江戸の南方を固めることであった 31 。この戦略目的を達成するためには、単なる軍事拠点ではなく、領国経営の中心となる政治・経済機能を備えた新たな城郭が必要であった。

そこで忠勝が選んだのが、旧小田喜城の地、すなわち大多喜であった。彼はこの地に、近世大名の居城にふさわしい大規模な城郭を築き、その周囲に計画的な城下町を整備するという壮大な事業に着手した 31 。しかし、このような大規模な築城と都市開発は、当然ながら一朝一夕に完成するものではない。

ここに、万喜城を一時的に利用した理由が浮かび上がる。新領地に入った忠勝は、大多喜城の大改修が完了するまでの間、即座に利用可能な、そして軍事的に信頼できる指揮拠点を必要としていた。その条件に完璧に合致したのが、落城したばかりの万喜城であった。万喜城は、土岐氏によって築き上げられた堅固な防御施設を備えており、対里見氏の最前線に位置する戦略的要地でもある。いわば、戦国仕様の「即応性の高い軍事拠点」であった。

忠勝は、この万喜城の軍事的インフラを巧みに利用し、そこを足がかりとして領内の統治と対里見氏の睨みを効かせつつ、その背後で大多喜という新たな「政治経済拠点」の建設を進めたのである。この一連の動きは、戦国時代の「戦うための城」から、近世の「治めるための城」へと拠点の機能が移行していく過渡期の様子を如実に示しており、徳川政権による関東支配体制の構築が、いかに計画的かつ現実的に進められたかを物語る好例と言える。

第六章:上総土岐氏、その後の足跡

万喜城の落城と共に、戦国領主としての上総土岐氏の歴史は幕を閉じた。しかし、一族の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。城を失い、故地を追われた彼らのその後の軌跡は、戦国敗者の辿る過酷な運命と、それでもなお家名を繋ごうとする執念を物語っている。

第一節:城主・土岐頼春の行方

最後の城主となった土岐頼春の末路については、複数の説が伝えられており、判然としない。一説には、落城の際に城と運命を共にして自刃したとも言われる 2 。また別の伝承では、城を脱出し、小浜の海岸から小舟で常陸国、あるいは三河国へと落ち延び、そこで余生を送ったとも伝えられている 3 。いずれにせよ、房総の地における彼の消息は、落城と共に歴史の闇に消えた。

第二節:「万喜」姓を名乗り大垣戸田藩へ ― 末裔たちの軌跡

長らく不明とされてきた土岐頼春とその子孫の足跡に、一条の光を当てたのは、近世の史料に残された僅かな記述であった。『美濃明細記』や『美濃國諸舊記』に、「上総万喜道鐡の裔は、大垣戸田氏にあり」という一文が発見されたのである 5

この記述を手がかりとした郷土史家・清水春一氏らの研究により、驚くべき事実が明らかとなった。頼春の子孫は、かつての栄華の象徴であった「土岐」の姓を捨て、故城の名である「万喜(まき)」を新たな姓として名乗り、美濃大垣藩10万石の藩主・戸田氏に仕えていたのである 5

その軌跡は、以下のように辿ることができる。

  • 万喜道哲(まき どうてつ) : 頼春の子と目される人物。浪々の身となった後、戸田氏鉄の客分として召し抱えられ、摂津尼崎時代に三百俵の合力米を支給された。戸田氏の大垣移封に伴い、知行五百石を得、島原の乱に従軍した功により六百石に加増された 5
  • 万喜左近右衛門廉直(まき さこんえもん かどなお) : 道哲の同族。同じく戸田氏に仕えたが、島原の乱で討死し、「大垣三勇士」の一人と称えられた 5
  • 万喜治左衛門(まき じざえもん) : 廉直の継子。島原の乱に従軍後、三百石で戸田家に仕え続けた 5

万喜氏はその後も代々戸田家に仕え、五代目の**万喜忠右衛門為信(まき ちゅうえもん ためのぶ)**まで続いたが、寛保3年(1743年)に彼が後継者なく没したことで、その家名は途絶えた 5

そしてこの物語には、感動的な後日談がある。為信が葬られたとされる大垣市荒尾の圓成寺は、第二次世界大戦の空襲で墓所の多くが破壊され、為信の墓石も行方不明となっていた。しかし、研究者の依頼を受けた住職の尽力により、戦後に集められた無数の無縁墓石の中から、ついに「万喜忠右衛門為信」の名が刻まれた墓石が発見されたのである 5

この発見は、上総土岐氏の末裔が、故城の名を誇りとして二百年近くにわたり武士としての家名を保ち続けたことを証明する、歴史の奇跡であった。一族が「土岐」という名門の姓ではなく、「万喜」という失われた城の名を名乗り続けたことは、彼らにとって万喜城がいかに大きな存在であったかを物語っている。城は滅び、領地は失われても、その名は子孫のアイデンティティとして生き続け、遠く離れた美濃の地で、静かにその歴史を現代に伝えていたのである。

終章:万喜城が戦国史に刻んだもの

上総国夷隅の丘陵にその痕跡を留める万喜城。その歴史は、一地方の城郭の興亡に留まらず、戦国時代という時代の本質を映し出す鏡である。

本報告書で詳述したように、万喜城の物語は、謎に満ちた黎明期から始まる。美濃源氏の名跡を継ぐ土岐氏が、いかにしてこの地に根を下ろしたのか。その過程は、戦国時代の領主たちが自らの権威を確立するために、いかに由緒と実力を使い分けたかを示している。

城郭構造の分析は、万喜城が単なる砦ではなく、地形を読み解き、土木技術を極限まで高めた、房総屈指の防御思想の結晶であったことを明らかにした。特に、南側尾根に施された長大な防御線は、石垣に頼らない関東の築城術の一つの到達点であり、この城が「難攻不落」と謳われた所以である。

そして、万喜城の歴史は、里見氏と後北条氏という二大勢力の狭間で揺れ動いた。土岐為頼による同盟相手の転換は、信義よりも生存を優先する戦国の非情な現実を体現する。この決断によって、万喜城は房総の地政学的な要衝としての役割を決定づけられ、繰り返される攻防戦の舞台となった。その数々の防衛成功は、優れた城郭がいかにして小勢力に大きな戦略的価値を与えたかを証明している。

しかし、その堅城も、豊臣秀吉による天下統一という巨大な奔流の前には抗う術もなかった。本多忠勝による落城は、地域紛争の時代の終わりと、新たな権力構造の到来を告げる象徴的な出来事であった。だが、城の物語はそこで終わらなかった。落城後、徳川四天王の手に渡り、関東支配の暫定拠点として最後の役割を果たしたという事実は、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムを垣間見せる。

さらに、城主一族が故城の名を姓として生き延び、遠く離れた地で武士としての誇りを保ち続けたという末裔の物語は、城が単なる建造物ではなく、人々の記憶とアイデンティティの拠り所であったことを我々に教えてくれる。

今日、万喜城跡は「万木城跡公園」として整備され、訪れる人々に静かにその過去を語りかけている 17 。天守閣を模した展望台からの眺めは、かつて城主が眼下に広がる領地と敵の動向を見据えたであろう視点を追体験させる。しかし、この城の真の価値は、華やかな復元建築物にあるのではない。今なお残る壮大な土塁、深く刻まれた堀切、そして岩盤を削り出した垂直の切岸こそが、戦国の世の厳しさと、そこに生きた人々の知恵と執念を最も雄弁に物語る、生きた歴史の証人なのである。万喜城は、戦国時代の国人領主とその拠点の典型として、日本の城郭史、ひいては戦国時代史の中に、確固たる一頁を刻んでいる。

引用文献

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