三崎城は、三浦半島最南端の要衝に位置する海城。鎌倉以来の名門・相模三浦氏の拠点であり、北条早雲との三年の死闘の末に落城し、三浦氏終焉の地となる。その後、後北条氏の水軍拠点として里見氏との海上覇権争いの最前線となった。今は市街地化が進むも、その歴史を伝える。
神奈川県三浦半島、その最南端に位置する三崎の地は、相模湾と江戸湾(現在の東京湾)という二つの重要な海域を結ぶ戦略的要衝である。この地に築かれた三崎城は、三崎港の良港を眼下に収め、対岸の房総半島、そして広大な相模灘を睨む断崖上の天然の要害に拠っていた 1 。その卓越した地勢的優位性から、三崎城は歴史の転換点において常に重要な役割を担うこととなる。
鎌倉時代以来、三浦半島を本拠とした名門武士団・相模三浦氏にとっては、一族の栄枯盛衰を共にした拠点であり、その強力な水軍を支える心臓部であった 3 。時代が下り、戦国の動乱が関東を覆うと、新興勢力である後北条氏の南方支配と水軍戦略を担う最重要拠点へと変貌を遂げ、房総の里見氏との間で繰り広げられた熾烈な海上覇権争いの最前線となった 3 。
本報告書は、この三崎城を主題とし、その起源とされる築城の謎から、相模三浦氏の終焉を告げた壮絶な攻防戦、後北条氏の関東支配を支えた戦略拠点としての機能、そして城郭としての役割を終え現代に至るまでの変遷を、現存する遺構や史料、地名に残る記憶から多角的に解き明かすものである。三崎城の歴史を紐解くことは、すなわち、中世から戦国、そして近世へと至る権力構造の変遷と、海をめぐる武士たちの興亡の物語を辿ることに他ならない。
三崎城の歴史は、三浦半島に深く根を張った三浦一族の歴史と不可分である。その起源は鎌倉時代に遡るとされ、戦国時代に至るまで、一族の盛衰と共にその役割を変化させていった。本章では、築城にまつわる伝承と、三浦氏の統治下における水軍基地としての初期の姿、そして本拠地であった新井城との関係性について考察する。
三崎城の正確な築城年代を特定する史料は現存しておらず、その起源は謎に包まれている 2 。しかし、古くから有力な伝承として語り継がれているのが、鎌倉時代後期における佐原盛時による築城説である 3 。この伝承を理解するためには、まず宝治元年(1247年)に起こった「宝治合戦」に触れる必要がある。この合戦で、鎌倉幕府の有力御家人であった三浦氏宗家は、執権・北条時頼との権力闘争に敗れ、滅亡の淵に立たされた 7 。
この三浦一族存亡の危機において、一族の命脈を保ったのが、三浦義明の末子・義連を祖とする支族の佐原氏であった 9 。佐原氏は宝治合戦において宗家に与せず、北条氏側に付いたことで存続を許されたと見られている 8 。合戦後、この佐原氏の系譜を引く佐原盛時が、北条氏の承認のもとで三浦氏の名跡を継ぎ、「相模三浦氏」として再興を果たす。三崎城の築城伝承は、この相模三浦氏の再興期と結びつけて語られる 11 。
この築城伝承は、単に城が建設されたという物理的な事実を伝える以上の、深い政治的含意を持つものと考えられる。宝治合戦を経て、北条氏の強力な影響下で御内人として再出発した相模三浦氏にとって、一族の故地である三浦半島に新たな拠点を築くという行為は、自らの支配権を物理的に確立すると同時に、内外に対して「我々こそが三浦氏の正統な後継者である」と宣言する象徴的な意味合いを帯びていた。つまり、佐原盛時の築城という物語は、新たな支配体制の正統性を三浦の地に根付かせるための、極めて重要な政治的象徴行為であった可能性が高い。それは、旧宗家への鎮魂と、新時代の幕開けを告げる狼煙でもあったと言えよう。
相模三浦氏は、鎌倉時代から強力な水軍を擁する「海の武士団」として知られており、三崎城もまた、その水軍の根拠地の一つとして機能していたと考えられている 3 。三崎港に面したその立地は、船団の停泊や出撃に最適な条件を備えていた 3 。
この三崎城を語る上で欠かせないのが、北西約2キロメートルに位置する新井城の存在である 1 。従来の研究では、新井城が相模三浦氏の本城であり、三崎城はその支城として、特に水軍機能を担う役割を持っていたと解釈されてきた 1 。しかし近年、新たな視点が提示されている。それは、三浦氏の時代には、新井城と三崎城は明確に分離されておらず、半島先端部一帯に広がる一つの広大な城郭「三崎城」を構成していたという説である 3 。実際に、新井城の別名として「三崎城」が挙げられる史料も存在する 13 。
この「一体の城郭」という見方は、三浦氏の独創的な防衛思想を浮き彫りにする。三浦半島南西端は、「外引橋」や「内の引橋」と呼ばれる隘路によって本土と隔てられており、この橋を落とすことで半島全体を一つの巨大な要塞と化すことが可能であった 14 。この広大な要塞エリアの中に、政庁や居住区画としての機能を持つ「新井城」地区と、軍港や水軍基地としての機能を持つ「三崎城」地区が配置されていたと考えることは、極めて合理的である。この個別の「点」ではなく、半島全体を要塞化する「面」としての防衛システムこそが、後に攻め寄せる北条早雲の大軍を3年もの長きにわたって足止めさせる要因となったと考えられる。
この関係性は、城主の交代と共に変化する。三浦氏滅亡後にこの地を支配した北条氏は、より効率的な水軍運用と、対岸の里見氏への即応性を重視した。その結果、軍港機能に特化した海側の部分を独立させ、大規模に改修して新たな「三崎城」とし、旧来の政庁区画であった「新井城」の軍事的価値は相対的に低下したと推測される。両城の関係性の変遷は、在地領主の籠城拠点から、広域支配を目指す戦国大名の前方出撃基地へという、城の戦略思想そのものの変化を如実に物語っている。
戦国時代初期、伊豆から相模へと急速に勢力を拡大した伊勢盛時(後の北条早雲)の前に、関東の旧来の秩序は大きく揺らいでいた。この新たな時代の奔流に抗い、最後まで抵抗を続けたのが、三浦半島に拠る相模三浦氏であった。三崎城、そして新井城を舞台に繰り広げられた3年間にわたる壮絶な攻防戦は、鎌倉以来の名門・三浦氏の終焉を告げると共に、戦国大名・後北条氏による相模平定を決定づける画期となった。
早雲の相模侵攻に対し、三浦義同(道寸)は扇谷上杉氏らと結び抵抗を試みるが、次第に圧迫され、三浦半島へと追い詰められていく 14 。永正10年(1513年)の足利政氏の書状には「於三崎要害励戦功(三崎の要害に於いて戦功に励む)」との記述が見られ、この頃から両者の間で激しい戦闘が始まっていたことが窺える 2 。三浦義同とその子・義意(荒次郎)は、半島全体を要塞化した新井城・三崎城に籠り、徹底抗戦の構えを見せた。
この籠城戦は、実に3年もの長きに及んだ 12 。これは、三浦氏の抵抗がいかに頑強であったか、そして半島要塞がいかに堅固であったかを物語っている。しかし、外部からの援軍も途絶え、兵糧も尽き果てた永正15年(1518年)7月11日、ついに城は陥落する 5 。三浦義同・義意父子は、もはやこれまでと覚悟を決め、新井城内で家臣らと共に自刃し、ここに鎌倉以来の名門・相模三浦氏は滅亡した 4 。
落城の際、一部の城兵は三崎城から海路で対岸の城ヶ島へと脱出し、なおも抵抗を続けたと伝えられており、その抵抗の凄まじさが偲ばれる 14 。この戦いの記憶は、地域の地名にも深く刻み込まれている。新井城下の入り江が、討ち死にした三浦一族の血で油を流したように真っ黒に染まったことから「油壺」という地名が生まれたという伝承は、その悲劇性を今に伝えている 3 。一方で、三浦氏を滅ぼした後北条氏が、その後五代にわたってこの地に兵を置いたことから、三崎城一帯は「北条山」とも呼ばれるようになった 5 。
この新井城・三崎城をめぐる戦いは、単なる一地方の合戦に留まらない。それは、源頼朝の挙兵以来、土地と血縁に深く根差した伝統的権威を持つ中世的な在地領主(三浦氏)が、純粋な軍事力と領国経営能力を基盤とする新たな支配体制を構築しようとする戦国大名(北条氏)によって淘汰される、時代の大きな転換点を象徴する事件であった。3年という長期戦は、それを執拗に攻め続けた早雲の執念と、それを可能にした組織力の高さを証明するものであり、この勝利によって後北条氏は相模における旧来の秩序を完全に破壊し、中央集権的な大名領国制への道を切り開いたのである。
相模三浦氏の滅亡後、三崎城は新たな支配者である後北条氏の手に渡った。これにより、城の性格は大きく変貌を遂げる。在地領主の最後の砦から、広大な関東領国を経営する戦国大名の南方における最重要戦略拠点へ。特に対岸の房総半島に勢力を張る里見氏との海上覇権をめぐる攻防において、三崎城は後北条水軍の中核基地として、その真価を発揮することになる。
三浦氏を滅ぼした北条早雲は、三崎城が持つ軍事的重要性を即座に見抜き、大規模な改修に着手した 16 。その主たる目的は、東京湾を挟んで対峙する安房の里見氏への備えであった 3 。以後、三浦半島は後北条氏と里見氏による数十年にわたる攻防の最前線となり、時には三崎城や城ヶ島が里見水軍によって一時的に占拠されるなど、一進一退の激しい戦いが繰り広げられた 15 。この不安定な状況を最終的に収拾し、三浦半島における支配を盤石のものとしたのが、三代当主・北条氏康であった 3 。
後北条氏による三崎城の改修は、単なる防御施設の強化に留まるものではなかった。それは、城の戦略的性格を根本的に転換させるものであった。三浦氏にとって三崎城が自らの領地を守るための「籠城拠点(守る城)」であったのに対し、後北条氏にとっては、里見氏の領国である房総半島へ積極的に攻め込むための「出撃拠点(攻める城)」へと生まれ変わったのである。広大な関東領国の一部を預かる前方基地として、大規模な兵員や船団を集結させ、迅速に海上へ展開させる能力が付与された。実際に、後北条水軍が三崎城を拠点として房総半島へ渡海攻撃を仕掛けた記録は、この城が受動的な防衛拠点ではなく、能動的な攻撃拠点として機能していたことを明確に示している 15 。
後北条氏は水軍力の強化にも余念がなかった。旧三浦氏配下の水軍衆を「三崎十人衆」として再編・登用する一方で、紀州から海賊衆であり交易商人でもあった梶原景宗を招聘するなど、外部からの人材も積極的に活用した 1 。こうして整備された後北条水軍の司令部として、三崎城は浦賀城と共に江戸湾の制海権を確保する上で中心的な役割を果たした 9 。
三崎城の戦略的重要性の高さを最も雄弁に物語るのが、その城主の人選である。永禄10年(1567年)、四代当主・北条氏政は、実弟であり伊豆韮山城主でもあった北条氏規に三崎城主を兼任させた 18 。これは、戦国大名の支城統治としては破格の待遇であった。氏規は単なる武将ではなく、伊豆水軍を掌握し、後には豊臣秀吉との外交交渉も担う一門の重鎮である。彼が三崎城主を兼任するということは、伊豆と相模の水軍力が統合され、一体的に運用される体制が整ったことを意味する。これにより、後北条氏は駿河湾から相模湾、そして江戸湾口に至る広大な海域において、機動的な作戦展開が可能となった。この人事から、後北条氏が三崎城を、単なる対里見氏の最前線としてだけでなく、領国南部の海域全体を統括する水軍総司令部として位置づけていたことが強く示唆される。
驚くべきことに、三崎城は緊迫した軍事拠点であると同時に、後北条氏の当主たちが心身を休める静養地という、もう一つの顔を持っていた 3 。城ヶ島に近い風光明媚なこの地は、古くから景勝地として知られていた。鎌倉時代には源頼朝が数多くの桜を植えて花見を楽しんだとされ、その「桜の御所」跡は現在も本瑞寺としてその伝承を伝えている 1 。
この伝統を受け継ぐかのように、後北条氏の当主たちも平時には三崎を訪れていた。記録によれば、永正16年(1519年)には初代・早雲が、そして永禄8年(1565年)には三代・氏康がこの地を訪れている 3 。軍事的な最前線と、当主がくつろぐ静養地という二つの性格が同居していた事実は、後北条氏の領国経営が、軍事一辺倒の「剛」の側面だけでなく、領国の豊かさや文化を享受する「柔」の側面を併せ持っていたことを象徴している。特に、かつて敵地であり、激戦の末に獲得した三崎の地で当主が安穏と過ごす姿は、後北条氏の支配が盤石であることを内外に示す、巧みな政治的パフォーマンスでもあった。この「剛」と「柔」の使い分けは、後北条氏の成熟した統治スタイルを垣間見せる興味深い事例と言えるだろう。
三崎城は、その戦略的重要性に見合うだけの、堅固かつ合理的な城郭構造を備えていた。市街地化が進んだ現代において、その全貌を完全に復元することは困難であるが、現存する遺構や地形、そして発掘調査の成果から、後北条氏の高度な築城技術の粋を集めた「海城」としての特質を読み解くことができる。
三崎城は、三崎港(北条湾)の入江を見下ろす、比高約25メートルの断崖絶壁上に築かれている 1 。海と断崖を天然の堀とし、陸側からの攻撃に備えるという、海城の典型的な立地条件を満たしている。城域は現在の三浦市役所、旧三崎中学校、市民体育館、そして三浦市慰霊堂が建つ一帯に広がっており、複数の曲輪が土塁と空堀によって複雑に区画された、連郭式の山城であったと推定される 18 。遺構の多くは開発によって失われたものの、今なお城跡の各所に、往時の堅城ぶりを偲ばせる痕跡が点在している 18 。
三崎城の縄張りは、自然地形を最大限に活用し、それを人工的な防御施設で補強するという、後北条氏の築城術の特徴を色濃く反映している。
発掘調査では、これらの構造物跡に加え、中国産の舶載陶磁器や国産の陶器、漆器などが出土しており、城内での武士たちの生活や、港を通じた交易活動の一端を垣間見ることができる 25 。
三崎城の特異性をより深く理解するためには、後北条氏が領内に築いた他の水軍城と比較することが有効である。後北条氏は、対峙する敵や地理的条件に応じて、水軍城の機能や構造を巧みに使い分けていた。以下の表は、三崎城、浦賀城、そして伊豆の長浜城を比較したものである。
城名 |
立地 |
主な役割・想定主敵 |
縄張り上の特徴 |
主な城主(後北条期) |
三崎城 |
相模国三浦半島南端(相模湾) |
房総里見氏への攻守の拠点。相模湾・江戸湾方面水軍の統括司令部。 |
断崖上の台地を利用。複数の曲輪を堀切で分断。港湾施設と一体化。 |
北条氏規(当主・氏政の弟) |
浦賀城 |
相模国三浦半島東端(江戸湾口) |
三崎城の支城。江戸湾への入口(浦賀水道)の監視。対里見氏の前線基地。 |
浦賀湾に面した高台。天然の堀切(谷)を活用。三崎城より小規模。 |
横須賀衆など(在地国人) |
長浜城(伊豆) |
伊豆国(駿河湾) |
武田水軍への備え。駿河湾の制海権確保。造船基地。 |
深い入江に面した山城。海と山にL字状に曲輪を配置。 |
北条氏の譜代家臣 |
この比較から、三崎城が持つ際立った地位が明らかになる。浦賀城が三崎城の支城と位置づけられ 9 、在地国人が城主であったのに対し、三崎城の城主は当主の実弟である北条氏規であった。また、対武田水軍を想定した長浜城が駿河湾という限定された海域を管轄していたのに対し、三崎城は相模湾と江戸湾という二大湾岸を睨む、より広域を統括する司令部としての性格を帯びていた。これらの事実から、三崎城が後北条氏の水軍戦略全体の中核をなす、最重要拠点であったことは疑いようがない。
五代100年にわたり関東に君臨した後北条氏であったが、天下統一を目指す豊臣秀吉との対立は避けられなかった。後北条氏の命運と共に、その南方における最重要拠点であった三崎城もまた、歴史の大きな転換点を迎えることになる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は20万を超える大軍を率いて小田原征伐を開始した。この時、三崎城主であった北条氏規は、自らの本拠地である伊豆韮山城に籠城して豊臣方と対峙した 18 。そのため、三崎城の守備は家老の山中上野介らに委ねられていた 18 。
豊臣軍の圧倒的な物量の前に、後北条氏の各支城は次々と陥落。そして、本城である小田原城が長期の籠城の末に開城・降伏すると、三崎城もそれに伴い開城した 15 。この戦役の際、城ヶ島にあった神宮寺の社殿が戦火によって焼失したという記録が残されており、三崎周辺も無傷ではなかったことが窺える 15 。後北条氏の滅亡という歴史的結末と共に、戦国時代の関東南方を守り続けた三崎城は、その軍事拠点としての長い歴史に幕を下ろし、廃城となった 3 。
後北条氏に代わって関東の支配者となった徳川家康は、三崎が持つ海上交通上の重要性を見逃さなかった。家康は、廃城となった三崎城跡に、徳川水軍を率いる将の一人であった向井正綱(将監)の屋敷を設け、船奉行に任じた 1 。これにより、三崎の地は、戦乱の世の軍事拠点から、江戸湾の海上警備や交易を担う平和な時代の行政拠点へと、その役割を大きく転換させた。
多くの山城が廃城後に山林へと還っていく中で、三崎城跡が地域の中心地としての機能を維持し続けたことは特筆に値する。これは、三崎城が単なる山中の軍事要塞ではなく、三崎港という経済活動の中心地と密接不可分な関係にあったことに起因する。城郭という軍事機能が不要になっても、港を中心とする町の行政機能は必要であり続けた。徳川幕府が旧城跡という象徴的な場所に船奉行の屋敷を置いたのは、この地の重要性を認識し、支配を円滑に進めるための合理的な選択であった。その後も三崎は、三浦半島および江戸内海の防備・交易の拠点として、明治維新に至るまでその重要性を保ち続けたのである 1 。
時代は下り、現代。かつて武士たちが駆け巡った城跡一帯は、三浦市役所、学校、市民体育館、そして住宅地となり、人々の暮らしの場へと姿を変えた 18 。往時の城郭の姿を直接的に示すものは、断片的に残る土塁や堀切の痕跡のみである 21 。
しかし、城の記憶は完全に消え去ったわけではない。旧三崎中学校と市民体育館の間には、城の歴史を伝える城址碑と解説板が設置され、訪れる人々にその存在を語りかけている 18 。また、城跡一帯は「三崎城跡」として埋蔵文化財包蔵地に指定されており、文化財保護法の下でその歴史的価値が保護されている 3 。史跡指定や公園としての積極的な整備はなされていないものの、市役所前の屈曲した坂道に大手口の面影を感じ、慰霊堂へ続く道に堀切の深さを体感することは今なお可能である 21 。
物理的な城郭は消滅したが、その場所が持つ「地域の中心」という機能は、向井氏の屋敷、そして現代の市役所へと形を変えながら継承されている。これは、歴史的な偶然ではなく、港町三崎の中心地として、この場所が持ち続けてきた地理的・歴史的な必然性の帰結と言えるだろう。
三崎城の歴史は、単なる一つの城の盛衰の物語ではない。それは、日本の権力構造の変遷を凝縮した、壮大な歴史の縮図である。鎌倉武士団の伝統を受け継ぐ在地領主・相模三浦氏の拠点として生まれ、広域支配を目指す新たな戦国大名・後北条氏の戦略拠点へと変貌を遂げたその軌跡は、中世から戦国へと至る時代のダイナミズムを体現している。
海と共に生まれ、海と共に生きた「海城」として、三崎城は日本の城郭史においても特異な存在である。三崎港という天然の良港を内包し、断崖絶壁という地形を最大限に活用したその縄張りは、後北条氏の合理的かつ高度な築城技術の証左に他ならない。そして、房総の里見氏との海上覇権争いにおいて果たした役割は、戦国時代の戦いが陸上だけでなく、海上においても熾烈を極めたことを我々に教えてくれる。
現代において、市街地化の波の中で遺構の多くは失われた。しかし、今なお残る巨大な土塁、地形に刻まれた堀切の痕跡、そして「北条山」や「油壺」といった地名は、かつてこの地で繰り広げられた武士たちの興亡の記憶を静かに語り継いでいる。これらの断片的な痕跡から、今はなき堅城の姿を想像し、その歴史的文脈を読み解く作業は、我々に歴史の深淵を覗き込む喜びを与えてくれる。三崎城は、過去の遺物であるだけでなく、地域のアイデンティティを形成し、未来へと語り継がれるべき貴重な歴史遺産なのである。