信濃上原城は、神官と武士の二面性を持つ諏訪氏の本拠。内紛と武田信玄の謀略により諏訪頼重が自刃し落城。武田氏の信濃経営拠点となるも、武田氏滅亡と共に廃城。現在は県史跡として、堀切や竪堀など戦国山城の遺構を良好に残す。
信濃国(現在の長野県)の戦国史を語る上で、諏訪湖の東南に位置する上原城は、決して避けて通ることのできない重要な舞台です。この城は、単なる一地方の城郭に留まらず、二つの大きな歴史的文脈において中心的な役割を担いました。一つは、古代より続く神聖な権威と武家の棟梁という二面性を持った名族・諏訪氏の栄枯盛衰を象徴する本拠地として。そしてもう一つは、甲斐の虎・武田信玄がその信濃統一事業の第一歩を記した、戦略的要衝としてです 1 。
本報告書は、利用者様が既にご存知の「諏訪氏の居城であり、武田信玄に攻められ開城した」という基本情報を出発点としながら、その背景にある複雑な人間関係、戦略的な意図、そして城郭そのものが持つ構造的な意味を深く掘り下げ、上原城の実像を多角的に解明することを目的とします。諏訪氏の内部事情から武田氏の侵攻戦略、さらには城の縄張り(設計)から廃城後の変遷に至るまで、あらゆる角度から徹底的に分析し、この城が戦国時代において果たした歴史的意義を明らかにします 3 。
上原城が築かれた諏訪盆地は、甲斐国へと通じる街道と、高遠・伊那方面へ抜ける杖突峠への道を扼する、交通の結節点に位置していました 5 。諏訪湖周辺の豊かな経済力を背景に、この地を制することは信濃経略において極めて重要な意味を持ちました 4 。城が置かれた金毘羅山からは、眼下に広がる諏訪盆地を一望でき、軍事拠点としての地理的優位性は明白でした 6 。この戦略的重要性こそが、諏訪氏にとっては守るべき生命線であり、武田氏にとっては奪うべき最初の標的となったのです。
以下に、本報告の理解を助けるため、上原城の基本情報を表にまとめます。
項目 |
詳細 |
名称 |
上原城(うえはらじょう) |
所在地 |
長野県茅野市ちの上原 金毘羅山 |
城郭形態 |
根小屋式山城 |
標高/比高 |
標高978m / 比高約180m |
築城年 |
文正元年(1466年)頃と伝わる 2 |
築城主 |
諏訪信満(すわ のぶみつ)と伝わる 8 |
主要城主 |
諏訪氏、板垣信方(武田氏城代) 8 |
廃城年 |
天正10年(1582年) 8 |
文化財指定 |
長野県指定史跡(名称:諏訪氏城跡) 1 |
主な遺構 |
曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀、物見岩、居館跡(板垣平) 6 |
上原城の歴史を理解する上で、その城主であった諏訪氏の極めて特異な性格をまず把握する必要があります。諏訪氏は、古代から信濃国一之宮である諏訪大社の上社における最高神官職「大祝(おおほうり)」を世襲してきた一族でした 2 。大祝は現人神(あらひとがみ)ともされる神聖な存在であり、この宗教的権威が、諏訪地方における諏訪氏の絶対的な支配力の源泉となっていました。しかし、時代が下るにつれて武士化が進み、神に仕える神官であると同時に、所領を支配する武士でもあるという、二元的な性格を持つに至ります 1 。
室町時代に入ると、この二元性は一族内に深刻な亀裂を生み出します。祭祀を司る神聖な「大祝家」と、世俗の権力を掌握し軍事を担う「惣領家」とに役割が分化し始めたのです 12 。当初は一つの家が担っていた二つの権威が分離し、それぞれが独自の権力基盤を持とうとした結果、一族内部での主導権争いが頻発するようになります。この構造的な対立こそが、上原城築城の遠因となるのです。
上原城の築城は、通説によれば文正元年(1466年)頃、惣領家の諏訪信満によって行われたとされています 2 。この時期の諏訪氏は、まさに内憂外患の渦中にありました。内部では前述の惣領家と大祝家との間で激しい権力闘争が繰り広げられ、外部では諏訪大社下社の大祝であった金刺(かなさし)氏との対立が先鋭化していました 2 。
この状況は、諏訪惣領家にとって、従来の居館であった諏訪大社上社前宮の神殿(ごうどの)が、もはや安全な拠点ではないことを意味していました 13 。神聖な祭祀の場は、政敵による襲撃や謀略の舞台となりうる危険な場所へと変貌していたのです。事実、文明15年(1483年)には、大祝が惣領家一族を神殿での酒宴に招き、酔わせて謀殺するという凄惨な事件も発生しています 10 。
このような背景から、惣領家は自らの世俗的権力を物理的に防衛し、その権威を内外に示すための新たな拠点を必要としました。それが、防御力に優れた山城である上原城だったのです。つまり、上原城の築城は、単なる軍事拠点の構築という以上に、諏訪氏内部の「神官」と「武士」という二元的な権力構造が引き起こした深刻な内紛の直接的な産物であったと言えます。それは、神聖な権威から分離し、自立しようとする世俗権力の象徴でもあったのです。
内紛に揺れた諏訪氏でしたが、戦国時代に入ると「諏訪氏中興の祖」と称される諏訪頼満が登場し、事態は一変します。頼満は長年の宿敵であった下社の金刺氏を討滅して諏訪地方の再統一を成し遂げ、その勢力は隣国・甲斐にまで侵攻するほどに拡大しました 2 。
しかし、その甲斐国では武田信虎が国内統一を達成し、強力な戦国大名として台頭します。両者は激しく争いますが、やがて天文4年(1535年)、和睦が成立します 2 。頼満の死後、家督を継いだ孫の諏訪頼重は、この関係をさらに強化すべく、武田信虎の娘・禰々(ねね)を正室に迎えました 2 。天文10年(1541年)の海野平の戦いでは、頼重は信虎に味方して共に出陣しており、この時点では両家の同盟は有効に機能していました 2 。
一見すると、この婚姻同盟によって諏訪氏の地位は安泰になったかのように見えます。しかし、その基盤は、諏訪氏が長年抱えてきた内部の脆弱性の上に成り立っていました。この構造的弱点こそが、武田家の代替わりという、一つの外的要因によって容易に崩壊する危険性を内包していたのです。上原城の歴史は、築城の瞬間から、既に滅亡の種を宿していたと言えるのかもしれません。
天文10年(1541年)、甲斐国に激震が走ります。当主・武田信虎が、嫡男の晴信(後の信玄)によって駿河へ追放され、武田家の家督が強制的に交代させられたのです 4 。この事件は、単なる武田家内部の政変に留まらず、隣国・諏訪の運命を決定づける歴史的な転換点となりました。父・信虎が築いた諏訪氏との同盟関係を、晴信は意に介さなかったのです。
晴信は家督を継ぐと、信濃侵攻の最初の標的を、父の同盟相手である諏訪に定めました。しかし、彼は単に軍事力で攻め込むという短絡的な手段は取りませんでした。まず、諏訪惣領家に対して強い対抗意識を抱いていた庶流の高遠城主・高遠頼継や、かつて諏訪頼満に追われた諏訪下社の金刺氏と密かに連絡を取り、同盟を締結します 1 。これは、敵の内部対立を徹底的に利用し、軍事行動を起こす前に勝敗の趨勢を決するという、晴信の戦略思想を象徴する動きでした。
一方、上原城の諏訪頼重は、この水面下での動きを全く察知していませんでした。武田家との同盟は依然として有効であると信じ込み、天文11年(1542年)4月には信虎の娘・禰々との間に嫡男・寅王丸(とらおうまる)が誕生したばかりで、むしろ関係は盤石であるとさえ考えていた節があります 2 。この油断が、彼の命運を尽きさせることになります。
天文11年(1542年)6月、晴信は突如として大軍を率いて諏訪郡へ侵攻を開始します 10 。同盟破棄の通告もなかったこの奇襲に、諏訪方は完全に不意を突かれました。頼重が迎撃の兵を差し向けた矢先、今度は背後から高遠頼継の軍勢が杖突峠を越えて攻め寄せ、諏訪軍は挟撃される形となります 4 。甲斐一国と諏訪一郡では、その兵力差は歴然としていました 15 。
自軍が孤立無援の窮地に陥ったことを悟った頼重は、本拠地である上原城での籠城を断念します。彼は自ら城に火を放つと、北西に位置する支城・桑原城へと退却しました 10 。権威の象徴であった居城を自らの手で焼くという行為は、頼重の絶望の深さを物語っています。
桑原城に籠城したものの、兵の士気は上がらず、頼重は武田方から提示された和睦の勧告を受け入れ、降伏を決断します 15 。しかし、これは晴信の仕掛けた罠でした。身の安全を保障するという約束は反故にされ、頼重とその弟・頼高は甲府へ連行されると、7月21日、東光寺において自刃を強いられました 1 。これにより、古代から続いた名族・諏訪惣領家は、事実上滅亡の時を迎えたのです。上原城の攻略は、物理的に城を攻め落としたというよりも、周到な謀略と外交によって敵を政治的に無力化し、自壊させた戦いでした。
諏訪頼重を排除した晴信は、当初の密約通り、宮川を境として諏訪郡を高遠頼継と分割統治します 2 。しかし、諏訪郡全域の支配を目論む頼継は、この分割統治に飽き足らず、同年9月、上原城に駐留していた武田の守備隊を追い払い、反旗を翻しました 4 。
この裏切りに対し、晴信は迅速かつ巧みな一手を打ちます。頼重の遺児である幼い寅王丸を名目上の旗頭として擁立し、「諏訪惣領家の正統な後継者を助ける」という大義名分を掲げたのです 2 。これにより、多くの諏訪旧臣を味方につけることに成功し、安国寺門前の戦いで高遠軍を撃破。頼継を高遠城へと敗走させました 2 。
この勝利によって、武田氏は諏訪郡全域を完全に掌握しました。上原城の落城から高遠頼継の鎮圧に至る一連の出来事は、戦国時代における「同盟」の脆さと、「家」の代替わりがもたらす外交関係の劇的な変化を浮き彫りにしています。信虎から晴信へという武田家内部の権力移行が、隣国である諏訪氏の運命を直接的に、そして悲劇的に決定づけたのです。これは、戦国大名という存在が、個人の資質と戦略によって、旧来の秩序や関係性をいかに容易に覆すことができたかを示す、重要な歴史的転換点と言えるでしょう。
諏訪郡全域を平定した武田晴信にとって、この地は信濃の他地域へ侵攻するための最重要拠点となりました 2 。晴信は、占領地の安定化と統治を確固たるものにするため、譜代の重臣筆頭である板垣信方を「諏訪郡代」として上原城に配置しました 8 。これにより、上原城は諏訪氏の居城から、武田氏による信濃経営の最前線基地へとその性格を大きく変えることになります。
板垣信方は、山麓にあった諏訪氏の居館に自らの屋敷を構えたと伝えられています。このことから、この一帯は後世「板垣平(いたがきだいら)」と呼ばれるようになりました 2 。近年の発掘調査では、板垣時代のものと考えられる屋敷跡の下層から、さらに古い時代の遺構も発見されており、信方が諏訪氏の居館を改修、あるいは増築して利用した可能性が高いことが示唆されています 20 。
板垣信方の統治下で、上原城は武田氏の信濃支配の拠点として機能しましたが、その中心的な地位は長くは続きませんでした。天文17年(1548年)、信方は北信濃の雄・村上義清との上田原の戦いで討死してしまいます 8 。その後、城代は弟の室住虎登、次いで長坂虎房へと引き継がれましたが、武田氏の諏訪統治戦略に大きな変化が訪れます 10 。
天文18年(1549年)、武田氏は諏訪湖の西岸、茶臼山に新たに高島城(後の高島城とは別の、いわゆる茶臼山城)を築城し、諏訪統治の政治的拠点をそちらへ移転させました 5 。この拠点移行は、武田氏の支配体制が、単なる軍事占領から恒久的な領域支配へと移行したことを明確に示しています。
上原城は、あくまで有事を想定した山城であり、防御には優れていましたが、広域支配のための行政や経済活動を行うには不便な立地でした。支配が安定期に入ると、より統治に適した場所へ政庁機能を移すことは、極めて合理的な判断でした。この上原城から高島城への拠点移行は、武田信玄の統治戦略が、敵の拠点を制圧する「点」の支配から、領域全体を効率的に治める「面」の支配へと質的に変化したことを示す物理的な証拠と言えます。この過程は、武田氏が単なる侵略者ではなく、占領地を自らの領国に組み込む高度な統治能力を持った「戦国大名」であったことを物語っています。政治の中心が移った後も、上原城は軍事的な支城として維持されたと考えられますが、その重要性は相対的に低下していきました。
上原城の構造は、戦国時代中期における山城の一つの典型を示しています。それは、山頂部に築かれた戦闘時の拠点「詰城(つめのしろ)」と、山麓に設けられた平時の居住・政務空間である「居館(きょかん)」が一体となった、「根小屋式山城(ねごやしきやまじろ)」と呼ばれる形式です 2 。
この構造は、権力者の役割の二面性を空間的に表現したものです。山上の詰城は、敵の攻撃を受けた際に立て籠もる最終防衛ラインであり、軍事的な権威の象徴です。一方、山麓の居館は、城主が日常生活を送り、家臣団を統率し、領地の統治を行う政治の中心でした 2 。上原城の構造を分析することは、この時代の「城」が単なる要塞ではなく、社会・経済活動の中心でもあったという、複合的な役割を理解する上で不可欠です。
上原城の詰城部分は、金毘羅山の山頂(標高978m)に築かれ、自然の地形を最大限に活用した巧妙な設計が見られます 7 。
これらの防御施設は、大規模な石垣や天守を持たない土の城でありながら、当時の戦術を熟知した上で構築された、極めて実践的な防御システムであったことを物語っています。それは、敵の侵攻ルートを予測し、地形の利を活かして効果的に迎撃するという、合理的な設計思想の表れです。
金毘羅山の中腹、標高約845mの緩やかな斜面には、約1ヘクタール(10,000平方メートル)に及ぶ平坦地が広がっています。これが諏訪氏の居館跡であり、武田氏の統治時代に板垣信方が屋敷を構えたことから「板垣平」と呼ばれています 6 。ここは城主とその家族が平時に生活し、政務を執り行う場所でした。発掘調査によっても、複数の時代の建物跡などが確認されています 20 。
さらに、歴史資料『守矢頼実書留』の記述によれば、上原城の麓には周囲に堀を巡らせた「宿城(しゅくじょう)」または「町宿(まちやど)」と呼ばれる小規模な城下町が形成されていたことがわかっています 9 。この城下町は、古くから存在する諏訪大社上社の門前町と一体化し、諏訪氏が武田氏に滅ぼされるまでの約70年間にわたり、諏訪地方の政治・経済・文化の中心地として機能していました 11 。上原城は、山上の軍事施設と山麓の統治機構が一体となった、まさに中世の権力構造そのものを体現した城郭だったのです。
諏訪頼重の最期を巡る歴史の中で、一つの大きな謎として残されているのが、彼がなぜ本城である上原城を早々に放棄し、自ら火を放ってまで支城の桑原城へ退却したのか、という点です 22 。この一見不可解にも思える行動について、複数の観点から考察します。
桑原城は、上原城の北西約2kmに位置する支城であり、両城は一体となって諏訪惣領家の防衛網を形成していました 1 。しかし、桑原城の規模や構造が、上原城を格段に上回る堅固な要塞であったとは考えにくく、防御能力の優位性を退却の理由とするのは説得力に欠けます 22 。
より可能性が高い説として挙げられるのが、「退路確保説」です。上原城が諏訪盆地の東南に位置するのに対し、桑原城はやや西寄りにあります。これは、当時まだ武田氏と敵対していた小笠原氏などが勢力を持つ、信濃中・西部への脱出路を確保しやすい位置でした 27 。つまり、頼重は上原城での徹底抗戦を早々にあきらめ、桑原城を一時的な拠点として西へ脱出し、再起を図ることを期していたのではないか、という見方です。
しかし、この決断には戦略的な側面だけでなく、心理的な要因も大きく影響していたと考えられます。まず、血縁関係にある高遠頼継の裏切りは、頼重に計り知れない衝撃を与えたはずです。さらに、同盟相手であった武田の大軍に奇襲され、完全に包囲されるという絶望的な状況下で、正常な判断力を保ち、徹底抗戦の意志を維持することは極めて困難だったでしょう。上原城を自ら焼くという行為は、もはや拠点を守り抜く意志を喪失した、彼の絶望感の表れとも解釈できます。
この指導者の決断は、部隊の士気に致命的な影響を与えました。ある記録によれば、頼重が夜間に桑原城を抜け出した際、城の兵士たちはそれを「大将の逃亡」と誤解し、次々と離散してしまったと伝えられています 10 。
結論として、諏訪頼重の桑原城への退却は、単一の合理的な戦術判断というよりも、圧倒的な軍事的劣勢、政治的孤立、そして個人的な絶望が複合的に絡み合った末の、苦渋に満ちた選択であったと考えられます。「西への退路確保」という最後の望みに賭ける戦略的意図と、もはや戦意を維持できないという心理的要因が、この悲劇的な決断の根底にあったのではないでしょうか。
武田氏の信濃支配の拠点として、一定の役割を担い続けた上原城でしたが、その歴史は武田氏の終焉と共に幕を閉じます。天正10年(1582年)3月、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐によって武田氏が滅亡すると、上原城はその軍事拠点としての役目を終え、廃城となりました 1 。
麓にあった城下町もまた、その運命を共にします。江戸時代に入り、諏訪氏が諏訪藩の藩主として奇跡的な復帰を果たすと、政治の中心は諏訪湖畔に新たに築かれた壮麗な高島城(浮城)へと移されました。それに伴い、上原にあった町宿(城下町)も高島城下へ移転させられ、かつての政治経済の中心地は歴史の表舞台から静かに姿を消していったのです 9 。
城としての機能を完全に失った上原城跡ですが、江戸時代に入ると新たな役割を担うことになります。文化2年(1805年)、麓にある頼岳寺の十八世住職・尊応が、寺の鎮守神として四国の讃岐から金毘羅大権現を勧請し、城跡の三の郭があった場所に祀りました 3 。山の名前がもともと金毘羅山であったことも、この地に神社が置かれた理由の一つかもしれません 2 。
この金毘羅神社の建立や参道の整備によって、三の郭周辺の遺構は一部改変を受けたとみられます 6 。しかし、一方でこの地が信仰の対象となったことで、城跡全体が大規模な開発から免れ、今日までその姿を留める一因となった側面も否定できません。現在も神社には、鳥居に掲げられた山号額や境内に残る石仏、本殿の仏具など、神道と仏教が融合していた神仏習合時代の名残が色濃く残されています 3 。
戦国の世が遠い過去となった現代において、上原城跡は、その歴史的価値が公的に認められています。支城であった桑原城跡と合わせて「諏訪氏城跡」として、昭和46年(1971年)に長野県の史跡に指定されました 1 。
現在の上原城跡は、戦国時代中期の山城の構造を良好に留める、極めて貴重な歴史遺産です。山頂へと続く道すがらに現れる巨大な堀切や、斜面を覆うように掘られた竪堀群、そして諏訪盆地を見下ろす物見岩は、訪れる者に往時の諏訪氏と武田氏の激しい攻防を雄弁に物語ります。
上原城の歴史は、神官と武士の二面性を持つ一地方豪族の盛衰、戦国大名の興隆とそれに伴う統治戦略の変遷、そして戦乱の記憶が信仰の場へと昇華されていく過程という、日本の歴史の縮図を内包しています。その地に残された土塁や空堀といった遺構を正しく読み解くことは、戦国という激動の時代を、そしてそこに生きた人々の営みを理解する上で、極めて重要な示唆を与えてくれるのです。
年代 |
主な出来事 |
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文正元年(1466年)頃 |
諏訪信満、上原城を築城したと伝わる 2 。 |
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文明15年(1483年) |
諏訪氏内部で大祝が惣領家を謀殺する事件が発生。内紛が続く 10 。 |
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永正15年(1518年) |
諏訪頼満、下社の金刺氏を攻め、諏訪地方を統一する 13 。 |
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天文4年(1535年) |
諏訪頼満、甲斐の武田信虎と和睦する 2 。 |
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天文10年(1541年) |
武田信虎が追放され、嫡男・晴信(信玄)が家督を相続する 4 。 |
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天文11年(1542年) |
6月: 武田晴信、諏訪へ侵攻を開始 10 。 |
7月: 諏訪頼重、上原城を焼き払い桑原城へ退却後、降伏 15。 |
7月21日: 頼重、甲府の東光寺で自刃。諏訪惣領家が事実上滅亡 12。 |
9月: 高遠頼継が反乱。武田軍がこれを鎮圧し、諏訪郡を完全掌握。板垣信方が諏訪郡代として上原城に入る 4。 |
天文17年(1548年) |
板垣信方、上田原の戦いで戦死する 8 。 |
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天文18年(1549年) |
武田氏、諏訪統治の拠点を新たに築いた高島城(茶臼山城)へ移す 9 。 |
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天正10年(1582年) |
織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田氏が滅亡。上原城は廃城となる 1 。 |
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文化2年(1805年) |
城跡の三の郭に金毘羅神社が勧請される 3 。 |
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昭和46年(1971年) |
「諏訪氏城跡」の一部として長野県史跡に指定される 6 。 |