最終更新日 2025-08-23

下津井城

備前下津井城は、瀬戸内海の海上交通を扼する要衝。宇喜多秀家が築き、池田長政が大改修。近世城郭の先進技術を刻む。徳川幕府の西国監視拠点として機能するも、泰平の世となり廃城。

日本の戦国時代における下津井城の戦略的価値と歴史的変遷に関する総合的考察

第一章:序論-瀬戸内海の要衝、下津井城

岡山県倉敷市、児島半島の南西端に位置する下津井城跡は、今日、瀬戸大橋架橋記念公園の一画をなし、穏やかな備讃瀬戸の多島美と雄大な瀬戸大橋を眼下に望む、風光明媚な史跡公園として人々に親しまれている 1 。しかし、その静謐な現在の姿とは裏腹に、この丘陵はかつて、日本の大動脈たる瀬戸内海の海上交通路の喉元を扼する、極めて重要な軍事拠点であった。戦国時代の動乱から江戸時代初期の天下泰平へと至る、日本の歴史における一大転換期において、下津井城は時代の要請とともにその姿と役割を劇的に変えていったのである。

本報告書は、この下津井城を単なる一地方の城郭としてではなく、戦国大名、特に宇喜多氏と池田氏の興亡、そして豊臣政権から徳川幕府へと至る中央の権力構造の変化という、より広範な歴史的文脈の中に位置づけ、その戦略的価値と歴史的変遷を多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。宇喜多秀家によって築かれ、池田氏によって近世城郭へと大改修された下津井城は、なぜこの場所に必要とされ、いかなる意図をもってその堅固な姿を現出させ、そしてなぜ歴史の表舞台から姿を消すことになったのか。その築城から廃城に至るまでの生涯は、戦国という時代の終焉と近世という新たな時代の幕開けを象徴する、歴史の縮図そのものであると言えよう。

第二章:下津井城の戦略的価値-地政学的考察

第一節:瀬戸内海航路と児島半島-「海の喉元」を押さえる地

古代より瀬戸内海は、畿内と西国、さらには大陸とを結ぶ海上交通の大動脈であり、経済、文化、そして軍事を支える日本の生命線であった 3 。特に、大規模な兵員や兵糧、武器弾薬の輸送が勝敗を左右した戦国時代において、この広大な内海を安定的に航行できる兵站線を確保することは、西国支配、ひいては天下統一を目指す上で不可欠の要素であった 5

この瀬戸内海航路において、児島半島は極めて特異な地理的条件を備えていた。近世以前、この地域は本州から「藤戸の海峡」と呼ばれる海域で隔てられた「児島」という一つの島であり、多くの船舶は本州と児島の間の海峡を航行していた 3 。しかし、高梁川などの河川から流入する土砂の堆積作用により、室町時代頃からこの海峡の航行が次第に困難になると、主要航路は児島の南岸を大きく迂回するルートへと変更された 3 。この航路変更は、児島南西端に位置する下津井湊の戦略的価値を飛躍的に高める結果をもたらした。

下津井湊は、前方に位置する櫃石島などが天然の防波堤となり、風波を避けることができる良港であった 8 。複雑な潮流を持つ備讃瀬戸を航行する船舶にとって、潮の流れが変わるのを待つ「潮待ち」や、荒天を避けるための「風待ち」に最適な待避港として、古くからその重要性が認識されていた 3 。文安2年(1445年)の『兵庫北関入舩納帳』には、児島特産の塩や米穀類、干物などを積んだ下津井船が、年間32回も兵庫津に入港したことが記録されており、当時すでに瀬戸内海水運の重要な拠点として経済的に繁栄していたことが窺える 3 。この経済的基盤と地理的優位性が、戦国時代において下津井を軍事上の要衝へと変貌させる必然的な要因となったのである。

第二節:毛利・宇喜多の角逐と水軍の拠点-備前をめぐる制海権争い

戦国時代の中国地方は、村上水軍をはじめとする強力な海上戦力を擁し、瀬戸内海の制海権をほぼ手中に収めていた毛利氏の勢力圏にあった 9 。一方で、備前国においては浦上氏の家臣から台頭した宇喜多直家が勢力を拡大し、中国地方の勢力図は大きく塗り替えられようとしていた。

当初、宇喜多氏は毛利氏と同盟関係にあったが、天正7年(1579年)、直家は毛利氏から離反し、天下統一を進める織田信長と結んだ 12 。これにより、備前国、特に児島半島は、毛利氏と宇喜多氏(実質的には織田氏)の勢力が直接激突する最前線と化した 13 。毛利輝元は叔父の穂井田元清を児島に派遣し、麦飯山城(玉野市)などに拠点を築いて宇喜多方の両児山城と対峙させた 14 。天正10年(1582年)2月には、児島北岸の八浜で両軍が激突(八浜合戦)。この戦いで宇喜多方は総大将の宇喜多基家が討死するなど大きな損害を被り、毛利水軍の優位性を改めて痛感させられることとなった 16

この一連の抗争を通じて、下津井湊は両勢力にとって、水軍の編成や補給を行うための兵船供給地として、その戦略的重要性を増していった 8 。児島をめぐる陸戦の勝敗が、結局のところ、海上からの補給と連携をいかに確保できるかにかかっていたからである。宇喜多氏にとって、毛利水軍の活動を牽制し、自らの水軍の恒久的な拠点を確保することは、備前支配を盤石にするための喫緊の課題であった。下津井城の築城は、こうした父・直家の代から続く毛利氏との熾烈な制海権争いの歴史的帰結であり、織田・豊臣という中央政権の強大な力を背景にして初めて可能となった、毛利氏の海洋支配への直接的な挑戦だったのである。それは、戦国時代の権力闘争が、単なる陸上の城の奪い合いから、海上交通網という兵站(ロジスティクス)の支配へと、その戦略の重点を移行させていったことを示す象徴的な出来事であった。

第三章:築城と城主の変遷-動乱の時代を生きた城

第一節:宇喜多秀家による創築-豊臣政権の西国支配戦略

下津井城の創築は、文禄年間(1592年~1596年)に、豊臣秀吉の五大老の一人として絶大な権勢を誇った宇喜多秀家によって行われたと伝えられている 2 。既存の小規模な砦を改修する形で築かれたこの城は、単なる宇喜多氏の領国支配のための支城という側面だけでは説明できない、より大きな国家的戦略の中に位置づけられていた。

この築城時期は、豊臣秀吉が主導した文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の期間と完全に一致する。宇喜多秀家は、この対外戦争において21歳の若さで日本軍の総司令官(元帥)に任じられ、1万人(うち水軍1千人)もの大軍を率いて朝鮮半島へ渡海した 21 。肥前名護屋から朝鮮半島に至る長大な海上輸送路の安全確保は、この戦争を遂行する上での生命線であった。下津井城は、備前支配の安定化と宿敵・毛利氏への備えという従来の目的に加え、朝鮮半島への兵員・物資を輸送する兵站線を確保・防衛するための、豊臣政権の国家的な軍事戦略の一環として築かれた水軍基地としての性格を色濃く帯びていたのである 22

初代城主には、宇喜多一族の浮田家久が入った 24 。この宇喜多時代の城の構造は、後の池田氏による大改修前の姿であり、石垣を多用した近世城郭とは異なり、土塁や堀切を中心とした、より中世的な砦に近いものであったと推定される。現在、三の丸の東に残る中出丸や東出丸といった曲輪群は、この宇喜多時代の縄張りの名残であると考えられている 1

第二節:関ヶ原後の権力移行-小早川氏と池田氏の入城

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いで西軍の主力部隊として奮戦した宇喜多秀家は、敗戦により改易され、八丈島へと流罪になった 19 。これにより、下津井城は戦勝者である徳川方の手に渡ることになる。

戦後、備前・美作50万石の領主となったのは、東軍勝利の立役者の一人、小早川秀秋であった。下津井城には、その重臣である平岡頼勝が城代として入った 2 。しかし、秀秋は慶長7年(1602年)に若くして急逝し、小早川家は世継ぎなく断絶。下津井城は再び主を失う 2

翌慶長8年(1603年)、徳川家康は、娘婿であり絶大な信頼を寄せていた姫路城主・池田輝政の次男・忠継を新たな岡山藩主とした。そして、下津井には輝政の実弟で播磨赤穂城代であった池田長政が3万2千石を与えられて入城した 2 。ここに、下津井城の歴史は新たな時代を迎えることとなる。

第三節:池田長政による大改修-徳川幕府の近世城郭へ

池田長政による下津井城の大改修は、単なる一藩の支城整備という規模を遥かに超えるものであった。これは、関ヶ原の戦いを経て天下人となった徳川家康が、依然として大坂城に豊臣秀頼が健在である状況下で、毛利氏や島津氏といった西国の有力外様大名を牽制・監視するための、国家的な戦略拠点として計画した一大事業であった 28 。その普請を、信頼厚い譜代格の池田氏に命じたのである。

普請奉行に任じられた池田長政は、江戸城や駿府城の普請でも功績を挙げた築城の名手であった 2 。彼は慶長8年(1603年)から4年の歳月をかけ、宇喜多時代の砦を、石垣を多用した堅固な近世城郭へと完全に造り変えた 2 。現在我々が目にする下津井城跡の姿は、この時の大改修によって完成されたものである。

改修工事は慶長12年(1607年)に完了したが、普請の総指揮を執った長政自身は、駿府城での役目を終えての帰途、伊勢国で病没し、完成した城の姿を見ることは叶わなかった 24 。この改修にあたっては、近隣の常山城が廃城となった際の資材が利用されたとの伝承も残されているが 28 、後述する考古学的調査の結果からは、この説は現在では否定的に捉えられている 31

第四節:一国一城令と廃城-泰平の世における役割の終焉

元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、徳川幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布した。しかし、下津井城はこの法令の例外とされ、その後も存続を許された 30 。これは、豊臣氏滅亡後も、幕府が西国大名に対する軍事的な警戒を解いていなかったことを示す証左である。

池田長政の死後、城代は池田由之(慶長14年~)、池田忠継の重臣・荒尾成利(慶長18年~)、そして由之の子である池田由成(寛永9年~)へと引き継がれていった 20 。しかし、島原の乱(寛永14年)の鎮圧などを経て徳川幕府の支配体制が盤石となり、もはや大規模な軍事的脅威が存在しなくなると、下津井城の存在意義は薄れていった。

そして寛永16年(1639年)、ついに下津井城は廃城とされた 2 。最後の城代であった池田由成は、児島北部の天城(現・倉敷市藤戸町天城)に陣屋を構えて移転した 24 。これは、地域の支配体制が、戦時を前提とした「軍事拠点(城)」から、平時の統治を目的とした「行政拠点(陣屋)」へと完全に移行したことを象徴する出来事であった。

下津井城の築城から廃城に至る歴史は、日本の近世国家形成のプロセスにおける「軍事」「政治」「統治」という三つの段階を、その構造と運命によって体現している。特に、江戸初期の名君として知られる岡山藩主・池田光政の治世下で廃城が決定されたことは注目に値する 36 。これは、幕府の政策に従うという側面だけでなく、藩政においても、過大な軍事費を削減し、その資源を新田開発や教育といった内政充実に振り分けるという、質素倹約を旨とする「備前風」と呼ばれる統治理念への転換とも密接に関連していたと考えられる 39


表1:下津井城 関連年表

西暦(和暦)

下津井城の動向

国内の主要な出来事

関連人物

1592-96年(文禄年間)

宇喜多秀家が築城を開始。城主に浮田家久が入る 24

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)

豊臣秀吉、宇喜多秀家

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦いの結果、宇喜多氏が改易。小早川秀秋の支配下となり、平岡頼勝が城代となる 20

関ヶ原の戦い

徳川家康、宇喜多秀家、小早川秀秋

1602年(慶長7年)

小早川秀秋が死去し、小早川家が断絶 2

小早川秀秋

1603年(慶長8年)

池田忠継が岡山藩主となる。池田長政が3万2千石で入城し、城の大改修に着手 24

江戸幕府開府

徳川家康、池田輝政、池田長政

1607年(慶長12年)

城の改修が完了。普請奉行の池田長政は完成を見ずに死去 24

池田長政

1609年(慶長14年)

池田由之が城代となる 24

池田由之

1613年(慶長18年)

由之が明石城へ移る。荒尾成利が城代となる 20

荒尾成利

1615年(元和元年)

一国一城令が発布されるが、下津井城は存続を認められる 30

大坂夏の陣、豊臣氏滅亡

徳川秀忠

1632年(寛永9年)

池田由成が城代となる 24

岡山藩主として池田光政が入封

池田光政、池田由成

1639年(寛永16年)

一国一城令により廃城となる。城代の池田由成は天城陣屋へ移る 24

島原の乱(1637-38年)終結後

徳川家光、池田由成

1968年(昭和43年)

7月19日、岡山県指定史跡となる 1


第四章:城郭構造の徹底解剖-縄張りと防御思想

第一節:連郭式縄張りの特徴と各曲輪の機能

下津井城は、瀬戸内海に面した標高89メートルの独立丘陵の尾根筋に沿って築かれた、典型的な「連郭式平山城」である 19 。この縄張りは、東西に細長い地形を最大限に活用するための、極めて合理的かつ堅実な設計思想に基づいている。城郭は西側から、西の丸、馬場、二の丸、本丸、三の丸、中の丸、東の丸(東出丸)といった主要な曲輪が、ほぼ一直線に配置されている 24

各曲輪は、それぞれが独立した防御機能を持ちつつ、有機的に連携するよう設計されていた。

  • 本丸 : 城の中枢であり、城主の居館や政務の場が置かれたと考えられる。北西隅には天守台を備え、籠城戦における最後の拠点としての役割を担っていた 2
  • 二の丸 : 本丸の西側に隣接し、本丸を防衛するための最も重要な曲輪であった。南側斜面には城内最大規模の石垣が築かれ、防御の要をなしていた 29
  • 西の丸・馬場 : 城の西端に位置し、大手口(正面玄関)方面からの攻撃に対する第一の防御線であった。西の丸と二の丸の間には大規模な堀切が設けられ、敵の侵攻を食い止める。馬場は、平時においては兵士の訓練や馬の調練に使われた広場であったと推測される 2
  • 三の丸・中の丸・東の丸 : 本丸の東側に連なる曲輪群であり、城の東側からの攻撃に備える。これらの郭は、宇喜多氏による築城当初の遺構を含む可能性が指摘されており、下津井城が段階的に拡張されていった歴史を物語っている 1

第二節:石垣に刻まれた技術の変遷-近世城郭への胎動

江戸時代初期に廃城となったにもかかわらず、下津井城跡には往時の姿を偲ばせる石垣が良好な状態で残されており、岡山県内では数少ない近世城郭の遺構として、学術的に極めて高い価値を有している 19

特に圧巻なのは、二の丸南面に築かれた長大な石垣である。高さは3メートルから4メートル、長さは50メートル以上に及び、見る者を圧倒する 29 。この石垣を詳細に観察すると、池田長政による大改修が行われた慶長年間(1603年~1607年)当時の、最先端の築城技術と思想を読み取ることができる。

  • 石積技術 : 石材の接合面や表面をある程度加工し、石同士の隙間を減らして積み上げる「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」という技法が用いられている 29 。自然石をほぼそのまま積み上げる「野面積み」よりも格段に高く、急勾配の石垣を築くことが可能であった。積み方としては、石材の横のライン(目地)を意図的に通さない「乱積み(らんづみ)」が主体となっている 29
  • 防御上の工夫 : 石垣の途中には、意図的に角度をつけた「折れ(おれ)」が設けられている。これは、城壁に取り付こうとする敵兵に対し、側面から矢や鉄砲による攻撃を加えるための「横矢掛かり(よこやがかり)」を可能にするための設計であり、近世城郭に特徴的な防御思想である 29
  • 算木積みの萌芽 : 石垣の隅角部には、長方形の石材の長辺と短辺を交互に組み合わせて強度を高める「算木積み(さんぎづみ)」が、ごくわずかながら確認できる 29 。算木積みは慶長10年(1605年)頃から本格的に普及する技術であり 43 、下津井城に見られるものはその初期段階の未発達な形態を示している。これは、下津井城が日本の城郭石垣技術史において、まさに過渡期に位置する城であったことを示す、極めて重要な痕跡である。

第三節:天守の存在と防御施設

本丸の北西隅には、小規模ながらも明確な高まり、すなわち天守台の遺構が残されている 2 。古くから天守の存在が伝えられており 24 、この天守台の上に何らかの建造物が建てられていたことは確実である。しかし、その規模(一辺6メートル程度)から判断すると 44 、姫路城や岡山城のような、権威を象徴する巨大な層塔型天守ではなく、瀬戸内海を往来する船舶を監視するための望楼(物見櫓)としての性格が強い、比較的小さな建物であったと推察される。それでもなお、海上からこの城を望んだ際には、丘陵の頂にそびえる天守の姿が、池田氏の、ひいては徳川幕府の権威を強く印象付けたに違いない 29

城の防御施設は石垣だけではない。西の丸と二の丸の間には、尾根筋を完全に断ち切る幅約10メートルの大規模な「堀切」が穿たれ、敵の直線的な侵攻を阻んでいる。その中央部は意図的に掘り残され、曲輪間を連絡する「土橋」として機能していた 2 。同様に、三の丸と中の丸の間にも深さ2~3メートル、幅7~8メートルの「掘割(堀切)」が存在し、連郭式縄張りの弱点である縦深方向への突破を防ぐための、多重防御の思想が徹底されている 29

また、倉敷市藤戸町天城にある正福寺には、下津井城の城門が移築され現存すると伝えられており、当時の建築様式を知る上で極めて貴重な遺構となっている 19

第四節:考古学的知見-発掘された瓦が語る広域ネットワーク

下津井城跡の発掘調査や表面採集で得られた瓦の分析は、文献史料だけでは窺い知ることのできない、城郭建設の「舞台裏」を我々に教えてくれる 31

最も重要な発見は、本城である岡山城や、海を隔てた讃岐高松城、引田城、さらには播磨姫路周辺の寺社などで出土した瓦と、全く同じ鋳型(笵)を用いて製作された「同笵瓦(どうはんがわら)」が、下津井城跡から多数確認されたことである 31 。これは、これらの城郭や寺社の建設に、同一の工人集団が関与していたことを示す動かぬ証拠である。

特に、下津井城の瓦の多くは岡山城の瓦と強い同笵関係にあり、改修に必要な瓦の大部分が本城である岡山城下で生産され、供給されていたことが明らかになった 31 。しかし、より詳細な胎土(瓦の原料となる粘土)の科学的分析を進めると、さらに興味深い事実が判明した。讃岐高松城跡出土の瓦と下津井城跡出土の瓦は同笵でありながら、その胎土の成分が異なっていたのである。これは、完成品の瓦が岡山から讃岐へ海上輸送されたのではなく、岡山藩お抱えの瓦職人たちが、瓦の鋳型を持って讃岐へ「出張」し、現地の土を用いて製作を行った可能性を強く示唆している 31

この発見は、岡山藩、特に池田輝政・忠継の時代に、高度な専門技術を持つ工人集団が組織され、彼らが藩内外の広範囲な城郭建設プロジェクトに機動的に投入されていたことを物語っている。下津井城の大改修は、岡山藩を中心とした、こうした広域的な「城郭建設ネットワーク」という巨大な技術インフラの上に成り立った一大事業だったのである。また、この考古学的知見は、常山城の資材が流用されたという伝承についても、両城の瓦の胎土が一致しないことから、これを否定する有力な根拠となっている 31

第五章:城下町・下津井湊の繁栄と城との関係

下津井城は、眼下に広がる下津井湊を直接支配し、防衛するために築かれた「海城」であり、城と湊は軍事的・経済的に不可分の一体として機能していた 3 。江戸時代初期、池田長政が3万2千石の領主としてこの城に居を構えたことにより、下津井は城下町としての性格を帯びて発展した 8 。城の北側の丘陵には、家臣たちの住まう侍屋敷が配置されていたことも記録に残っている 24

寛永16年(1639年)に城が廃されても、下津井湊の重要性が揺らぐことはなかった。岡山藩は下津井を藩公認の在町(ざいまち)とし、在番所を設置して海上の取り締まりにあたらせた 8 。港は、参勤交代で江戸と国元を往来する西国諸大名の御座船や、幕府の賓客であった朝鮮通信使一行の接待の場ともなった。さらに江戸時代中期以降、庶民の間で讃岐の金毘羅大権現(金刀比羅宮)への参詣が盛んになると、下津井はその渡海地として、全国から訪れる参詣客で大いに賑わった 8

港には多くの問屋が軒を連ね、地元の産品のみならず、北海道から北前船によってもたらされるニシンや数の子といった海産物、その他多種多様な商品が行き交う、備前南部の経済・物流の中心地として繁栄を極めた 8 。現在も下津井の古い町並みには、漆喰壁やなまこ壁を持つ往時の商家やニシン倉などが残り、岡山県の町並み保存地区に指定され、かつての繁栄を今に伝えている 47

第六章:結論-戦国時代の海城としての下津井城の歴史的意義

下津井城は、瀬戸内海の海上交通路という地政学的に極めて重要な位置に築かれ、その歴史を通じて日本の大きな政治・軍事動向と密接に連動した戦略的要衝であった。戦国末期の豊臣政権下においては、大陸への兵站線を確保するための国家的軍事拠点として創築され、江戸初期の徳川政権下においては、西国大名を監視し、幕藩体制を盤石にするための政治的・軍事的拠点として近世城郭へと大改修された。そして、天下泰平の世が訪れると、その軍事的役割を終え、廃城となった。

この城の生涯は、宇喜多氏による中世的な要素を残す砦から、池田氏による先進技術を導入した近世城郭への変貌の過程に象徴されるように、日本の社会が戦乱の時代から中央集権的な統治の時代へと移行する、歴史のダイナミズムそのものを体現している。その構造に見られる石垣技術の過渡期の様相や、出土した瓦が物語る広域的な人的・物的ネットワークの実態は、日本の近世国家が形成されていくプロセスを具体的に解明する上で、極めて貴重な歴史遺産である。

廃城から約380年の歳月を経た今、下津井城跡は、かつての軍事的緊張を雄弁に物語る石垣群と、眼下に広がる平和で美しい瀬戸内海の風景を同時に望むことができる稀有な場所となっている 1 。それは訪れる者に対し、日本の歴史の大きな転換点を肌で感じさせるとともに、この地が内包する豊かな歴史的価値を、未来へと静かに伝え続けているのである。

引用文献

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  41. 児島湾干拓と開墾 | おかやまレキタビ - ヒストリートリップ https://rekitabi.jp/story/story-1301
  42. 【超入門!お城セミナー】石垣って積み方に違いがあるの? - 城びと https://shirobito.jp/article/554
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