伊豆半島は、フィリピン海プレートが本州に衝突して形成されたという特異な地質学的背景を持ち、その結果として生まれた複雑な海岸線は、数多くの天然の良港を育んできた 1 。その南端に位置する下田は、古来より東西の海上交通を結ぶ結節点であり、また季節風を待つための「風待ち港」として、海に生きる人々にとって不可欠な要衝であった 1 。この地理的優位性は、戦国時代において極めて重要な軍事的価値を持つこととなる。
本報告書の対象である下田城は、この下田湾の湾口を扼するように突き出た、地元で「鵜島」と呼ばれる高さ約60メートルの丘陵に築かれた平山城である 3 。そのため、別名を鵜島城とも称される 3 。この城は、三方を海と断崖に囲まれた天然の要害に位置し、水軍の活動拠点としての性格が色濃い「海城」、あるいはより攻撃的な側面を強調した「海賊城」に分類される 4 。
後北条氏がこの地を水軍の最大拠点として重視したのは、単に本拠地である小田原の背後、相模湾を防衛するという受動的な理由からだけではなかった。それは、日本の大動脈たる太平洋の海上交通路を直接的に管制し、駿河湾以西への影響力を行使すると同時に、敵対勢力の海上からの侵攻に対する最前線の防波堤とする、攻守両面における高度な戦略的意図の表れであった。本報告書は、この「港湾防衛」という一点に特化して設計された軍事施設としての下田城の実像に、その起源から構造、歴史的役割、そして終焉に至るまで、多角的に迫るものである。
下田城の起源を遡ると、南北朝時代の史料に行き着く。延元二年(1337年)に記されたとされる古書『基氏帳』には、「本郷氏島城主志水長門守」という記述が見られる 6 。この「本郷」は現在も下田市内に残る地名であり、「氏島城」は鵜島城、すなわち下田城を指すものとする説が有力である 6 。しかし、この時代の城は、在地領主が在地支配のために築いた小規模な砦や館のレベルに留まっていたと推測され、戦国時代末期に見られるような高度な防御思想に基づいた城郭とは、その構造と目的において全く別個のものと考えるべきである 10 。南北朝期以降、戦国時代初期に至るまでの下田城の動向は、史料上、空白の期間となっている。
歴史の表舞台に下田城が再び明確に姿を現すのは、明応二年(1493年)の北条早雲による伊豆平定以降のことである 8 。伊豆を完全に掌握した後北条氏は、その領国経営と防衛戦略において水軍の重要性を深く認識しており、天然の良港である下田を水軍の中核拠点として段階的に整備していった。
この時期の城主、あるいは下田一帯の所領主として名前が挙がるのが、玉縄城主・北条氏勝配下の「玉縄十八人衆」の一人、朝比奈孫太郎である 6 。彼は北条氏勝に次ぐ序列に数えられるほどの実力者であったが、本拠は相模国の玉縄城にあったため、下田の所領は飛び地のような形であった可能性が高い 8 。そのため、彼自身が下田城に常駐していた可能性は低く、代官などを派遣して統治していたものと考えられる 8 。このほか、小机衆を率いた笠原氏の一族である笠原康勝が城代であったとする説もあり 8 、いずれにせよ、この時代の下田は在地豪族による支配ではなく、後北条氏から派遣された家臣団によって直接統治される重要拠点であったことが窺える。
下田城がその真価を発揮するのは、戦国時代も最末期、天正十六年(1588年)に行われた大改修以降である 8 。この時期は、豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階に入り、後北条氏との対立が抜き差しならない状況にあった。後北条氏は、表面的には秀吉との友好的な関係を模索しつつも、水面下では領内の主要城郭を徹底的に強化し、来るべき決戦に備えていた 8 。下田城の強化は、まさにその対豊臣防衛戦略の核心をなすものであった。
この大改修が単なる既存施設の改良に留まらない、実質的な「新設」に近いものであったことは、当時の当主・北条氏直が発給した判物(はんもつ)からも明らかである。そこには「豊臣秀吉軍は船働(ふねばたらき)歴然たるゆえ下田城を設けたのであり」と記されており、築城の目的が明確に「対豊臣水軍」であったことが示されている 6 。つまり、我々が今日議論する戦国期の下田城とは、南北朝時代の古い砦を改修したものではなく、秀吉という国家規模の脅威に対抗するため、後北条氏がその最新築城術と思想のすべてを投入して造り上げた、極めて近代的で目的志向の強い「対秀吉専用決戦要塞」だったのである。
天正十六年の大改修によって生まれ変わった下田城は、従来の城郭の概念とは一線を画す、港湾防衛に特化した要塞であった。その縄張(設計思想)は、城主の居住や領地の支配といった多目的な機能を目指すのではなく、ただ一点、下田港の船溜りをいかにして守り抜くかという軍事的目的のためだけに最適化されていた 6 。
下田城の最大の特徴は、城が港を「包み込む」ように、あるいは港を抱え込むように尾根筋に防御ラインを構築している点にある 7 。これは、城主が籠る中心部を幾重にも守るという内向的な設計思想ではなく、防御ラインそのもので特定の空間(港)を守るという、外向的な要塞設計思想への転換を示すものである。丘陵全体が、あたかも一つの巨大な防塁として機能するよう設計されていた 17 。
下田城の防御システムの中核をなすのが、総延長700メートルにも及ぶ長大な空堀である 6 。特に、天守台の南側に広がる巨大な横堀には、後北条氏の代名詞ともいえる防御施設「畝堀(うねぼり)」、あるいは「障子堀(しょうじぼり)」の遺構が、今日でも明瞭に確認できる 13 。
畝堀とは、空堀の底に進行方向と直角に複数の畝(土塁)を設けたもので、堀の中に侵入した敵兵の自由な移動を著しく阻害する機能を持つ。兵士は畝を一つ一つ乗り越えなければならず、その間に城壁上や櫓からの射撃に身を晒すことになる。これは、敵を城の中枢に到達させる前に、外周の防御ライン上で確実に殲滅するという、後北条氏の高度な戦術思想の現れである。
さらに下田城では、この畝堀と連携する形で、堀に向かって舌状に突き出した射撃陣地(出郭)が設けられていたことが確認されている 16 。この陣地は、主郭(天守台)と連携して、堀内の敵に対して側面から攻撃を加える、いわゆる十字砲火を浴びせるための巧妙な仕掛けであった。
また、尾根筋を分断する堀切は、固い岩盤を削り取って造られており、後北条氏の卓越した土木技術の高さを今に伝えている 13 。曲輪の面積に比して防御施設である堀の規模が異常に大きいという下田城の構造は、この城が居住空間としての「城」ではなく、特定の軍事目標を防衛するための純粋な「要塞」として設計されたことを明確に示している。これは戦国末期の、より専門化・機能化された築城思想の到達点の一つであり、日本の城郭史上、特筆すべき事例と言える。
豊臣秀吉との全面対決が不可避となる中、後北条氏はこの決戦要塞・下田城の守将として、一人の武将にその命運を託した。伊豆衆筆頭、清水上野介康英である。彼の城主任命は単なる人事異動ではなく、後北条氏の「総力戦」体制への移行を象徴する戦略的な一手であった。
清水氏は、北条早雲の伊豆入国以来、後北条氏に仕えてきた譜代の家臣の家柄である 6 。康英は、三代目当主・北条氏康から「康」の一字を賜り、伊豆衆の中で最大の知行高を誇る筆頭格として、家中において重きをなした 23 。彼は伊豆国奥郡代や三島代官、さらには後北条氏の最高意思決定機関である評定衆の一員を務めるなど、優れた行政官としての一面も持っていた 22 。
同時に、康英は伊豆水軍を率いる将としても知られ、その軍事的手腕は高く評価されていた。前述の北条氏直の判物には、「康英は戦上手であるから一切任すのである。他人の差し出口は不要である」と記されており、後北条氏首脳部からの絶大な信頼が寄せられていたことがわかる 6 。
後北条氏が、水軍の総大将として、また下田城の最終的な守将として康英を選んだのは、彼が後北条氏の中枢に関わる譜代の重臣であると同時に、伊豆の地理と人々を熟知した伊豆衆の筆頭であったからに他ならない。中央の指揮系統と現地の戦闘力を結びつける結節点として、彼以上の適任者はいなかった。
籠城戦に際して、康英の指揮下には、嫡男の政勝や弟の英吉といった一族 25 、小田原から増援として派遣された江戸朝忠 5 、そして雲見の高橋氏や妻良の村田氏といった南伊豆の在地豪族たちが馳せ参じた 8 。これは、中央の譜代家臣団と、現地の国人衆(伊豆衆)という、後北条氏の支配構造を構成する二つの要素を、康英という人物を媒介として下田城という一つの戦場に集約させたことを意味する。秀吉という未曽有の敵に対し、家中のあらゆる人的資源を動員して立ち向かおうとする後北条氏の危機感と、その中で康英が果たした役割の重要性が浮かび上がる。
天正十八年(1590年)三月、豊臣秀吉による小田原征伐の火蓋が切られた。陸路を進む本隊が箱根の山中城、伊豆北部の韮山城へ攻撃を開始するのと連動し、豊臣方の水軍が駿河湾の清水湊に集結 5 。そして四月一日、後北条氏水軍の最大拠点である下田城の沖合に、その大艦隊が姿を現した。
この戦いにおける両軍の兵力差は、絶望的と言っても過言ではなかった。
表1:天正十八年 下田城攻防戦における両軍の兵力比較
勢力 |
主要武将 |
推定兵力 |
豊臣軍(攻城方) |
長宗我部元親, 九鬼嘉隆, 脇坂安治, 加藤嘉明 |
約10,000~14,000 5 |
後北条軍(籠城方) |
清水康英 |
約600 8 |
攻城軍は、四国の雄・長宗我部元親(兵2,500)、志摩の海賊大名・九鬼嘉隆(兵1,500)、淡路の猛将・脇坂安治(兵1,300)といった、当代一流の海将たちが率いる水軍を中核とし、毛利勢なども加わった総勢一万数千の大軍であった 5 。対する下田城の守備兵力は、清水康英率いるわずか600余名に過ぎなかった 8 。実に20倍以上の兵力差であり、籠城側が勝利する可能性は、客観的に見て皆無に等しかった。
豊臣水軍は柿崎方面から上陸部隊を展開し、城下への攻撃を開始 5 。海からは艦船による砲撃が加えられたであろう。これに対し、清水康英と城兵たちは、後北条氏の築城術の粋を集めた堅固な防御施設を最大限に活用し、約50日間にわたって驚異的な抵抗を続けた 10 。具体的な戦闘の経過に関する詳細な記録は乏しいが、この攻防戦の中で、小田原からの援軍であった江戸朝忠が討死したことが伝えられている 5 。
しかし、戦況は籠城側に日に日に不利に傾いていった。西伊豆の諸城は豊臣水軍の前に次々と陥落し 5 、後北条氏の防衛戦略の基本は小田原城への籠城であったため、下田城への大規模な後詰め(援軍)が送られる見込みもなかった 27 。下田城は、完全に孤立無援の状態に陥ったのである。
四月二十三日、攻城軍の中から毛利家の外交僧・安国寺恵瓊、そして攻め手の一人である脇坂安治を介して、城兵の生命の保証を条件とする降伏勧告の矢文が城内に届けられた 5 。これ以上の抵抗は無益な殺戮を増やすだけであると判断した城将・清水康英は、この勧告を受け入れ、開城を決断した。開城の正確な日付は不明だが、四月下旬のこととされている 5 。
城を明け渡した康英は、河津の林際寺にて将兵の労苦をねぎらって軍を解散させた後、自らは菩提寺である三養院に隠棲し、翌天正十九年(1591年)六月、静かにその生涯を閉じた 5 。
下田城籠城戦は、局地的に見れば圧倒的な兵力差の前に敗北した戦いであった。しかし、後北条氏全体の防衛戦略という大局的な視点から見れば、その意義は決して小さくない。康英のような歴戦の将が、勝ち目のない戦いに臨んだ目的は、単なる玉砕ではなく、明確な戦略的意図に基づいていたと考えられる。それは「時間稼ぎ」である。
この約50日間の抵抗は、長宗我部、九鬼、脇坂といった豊臣方の水軍主力を、伊豆半島の南端に釘付けにした。これにより、彼らが小田原城の包囲網に合流することや、あるいは相模湾や江戸湾といった後北条氏領国の心臓部沿岸へ攻撃を仕掛けることを遅滞させる効果をもたらした。下田城の600の将兵は、小田原城に籠もる数万の主力部隊が防衛体制を固め、あるいは万一の外交的解決の道を探るための、貴重な「時間」を稼ぐための戦略的な「捨て石」としての役割を担ったのである。清水康英の奮戦は、局地的な敗北ではあったが、大局的な防衛戦略の中では、与えられた任務を十二分に果たした、意味のある抵抗であったと再評価することができる。
天正十八年(1590年)七月、小田原城は開城し、北条早雲以来約100年にわたって関東に君臨した後北条氏は滅亡した。その旧領は、豊臣秀吉の命により徳川家康に与えられ、日本の権力構造は大きく再編される。この時代の転換は、軍事要塞・下田城の運命にも決定的な影響を及ぼした。
関東に入封した徳川家康は、譜代の家臣である戸田忠次を五千石で下田に配置し、城主とした 14 。これは、戦国時代の論理の延長線上にある統治形態であり、下田が依然として伊豆南部の軍事的・行政的拠点として認識されていたことを示している。忠次は慶長二年(1597年)に下田の地で死去し、市内の泰平寺に葬られた 29 。
しかし、この体制は長くは続かなかった。忠次の子・尊次は慶長六年(1601年)、旧領である三河国田原へ転封となる 4 。その後、下田は特定の藩主が治める地ではなく、江戸幕府の直轄領(天領)とされ、統治のために下田町奉行所が置かれた 4 。これにより、下田城はその軍事的役割を完全に終え、廃城となった 4 。城の跡地は、後に幕府の御用林として管理されることになる 4 。
下田城の廃城は、戦国という「武」の時代から、江戸という「治」の時代への、日本の社会構造の根本的なパラダイムシフトを象徴する出来事であった。
下田城が廃城となった背景には、複数の要因が考えられる。
このように、下田城の廃城は単なる一城の機能停止ではなく、戦国的な軍事優先社会が終焉を告げ、幕府による中央集権的な統治体制が確立していく歴史の大きな潮流を、明確に映し出す出来事だったのである。
戦国時代の末期、後北条氏の命運を賭けた対豊臣戦略の中で、下田城は極めて重要な役割を担った。それは単なる水軍の根拠地であるに留まらず、伊豆半島防衛の最前線であり、最終的には本土決戦の時間を稼ぐための戦略的な防波堤として、その機能を最大限に発揮した。清水康英率いるわずか600の将兵が、1万を超える豊臣水軍を相手に約50日間持ちこたえたという事実は、この城の防御設計がいかに優れていたかを雄弁に物語っている。
城郭史の観点から見ても、下田城は他に類を見ない特異な存在である。港湾防衛という単一の目的に特化して設計された縄張、城が港を包み込むという先進的な思想、そして後北条氏流築城術の到達点を示す畝堀や射撃陣地の存在は、日本の城郭が多様な進化を遂げた戦国末期の技術的頂点の一つを示すものとして、高く評価されるべきである 11 。
現在、城跡は下田公園として整備され、6月には色鮮やかなアジサイが咲き誇る名所として、多くの人々に親しまれている 3 。しかし、その美しい景観の下には、今なお戦国の緊張と技術の粋が眠っている。良好な状態で保存されている空堀、岩盤を断ち割る堀切、そして尾根筋に残る土塁の痕跡は、訪れる者に400年以上前の歴史を体感させる貴重な遺産である 13 。
なお、本報告書の調査過程において、伊豆国下田城跡に関する近年の大規模な学術的発掘調査の公式な報告書は確認できなかった。愛知県や栃木県など、同名の地名に関する調査報告は存在するものの 34 、本城跡の学術調査は今後の課題と言える。未だ土中に眠るであろう数多の遺構や遺物が、将来の調査によって日の目を見ることが期待される。下田城は、過去の物語を伝えるだけでなく、未来の研究への扉を開く可能性を秘めた、日本の貴重な歴史的遺産なのである。