最終更新日 2025-08-17

且山城

長門の要害、且山城は大内氏の九州への橋頭堡。青山崩れの内紛、毛利元就の防長経略での謀略を経て、大内氏最後の城となる。一国一城令で廃城となるも、その遺構は西国の覇権争いを今に伝える。

長門国 且山城 ― 西国の覇権を賭けた要害、その興亡の軌跡

序章:且山城の概要と地理的・戦略的重要性

長門国豊浦郡小野、現在の山口県下関市小野にその痕跡を留める且山城(かつやまじょう)は、勝山城とも表記され、戦国時代の西国史において極めて重要な役割を果たした山城である 1 。標高361メートル、麓からの比高約320メートルを誇る勝山の山頂に築かれたこの城は、尾根上に複数の曲輪を連ねる連郭式の縄張りを有し、山頂付近は巨岩が露出し、切り立った絶壁に囲まれた天然の要害であった 1 。その堅固さは、後に西国の歴史を大きく動かす籠城戦において、攻守双方の運命を左右する決定的な要因となる。

しかし、且山城の真の価値は、その物理的な堅牢さのみに留まらない。城が位置する下関という土地が持つ、不変の地政学的な重要性こそが、この城の歴史を規定した根源的な力であった。関門海峡を眼前に望み、本州と九州を結ぶ結節点に位置する且山城は、九州方面への進出を図る勢力にとっては理想的な橋頭堡であり、同時に九州からの侵攻に備える上での最終防衛線でもあった 1

この地理的宿命により、且山城は、中国地方西部に覇を唱えた大内氏、そしてその跡を継いで天下に雄飛した毛利氏という、二つの大勢力にとって、九州の情勢に直接介入し、宿敵である大友氏をはじめとする九州の諸将と対峙するための死活的に重要な戦略拠点であり続けた 4 。したがって、且山城の歴史を紐解くことは、単に一つの城の盛衰を追うことではない。それは、城主が誰であるかという変化を超えて、「西国の大名が九州を睨むための最前線基地」という一貫した役割を担い続けた一つの軍事拠点を軸に、西日本の覇権を巡るダイナミックな権力闘争の変遷そのものを描き出すことに他ならない。本報告書は、この視座に立ち、且山城が辿った興亡の軌跡を詳細に分析するものである。

第一章:築城と大内氏の時代 ― 九州への橋頭堡

且山城がいつ、誰によって築かれたのか、その起源については複数の説が存在し、未だ確定を見ていない。一つの有力な説として、南北朝時代の永和四年(1378年)、周防・長門を本拠とする大内氏の家臣、永富嗣光によって築かれたとするものがある 2 。この説が正しければ、且山城は南北朝の動乱期から大内氏の長門支配における重要な拠点として機能していた可能性が考えられる。一方で、築城年・築城者ともに「不詳」とする資料も存在し、その創始を明確に示す一次史料が不足している現状も看過できない 1

しかし、戦国時代における且山城の歴史は、より明確な形でその幕を開ける。大永元年(1521年)、西国随一の守護大名として権勢を誇った大内氏の重臣であり、長門守護代を世襲する名門・内藤氏の当主、内藤興盛が九州方面への備えとしてこの城に在城した記録が、その確かな起点となる 1 。内藤氏の入城は、且山城が単なる一地方の城砦ではなく、大内氏の広域支配戦略、特に九州に対する軍事政策と密接に連携した重要拠点として本格的に機能し始めたことを示している。関門海峡の対岸に広がる九州には、大内氏の権益が深く浸透しており、同時に少弐氏や大友氏といった競合勢力との緊張関係も常に存在した。このような状況下で、長門国の入り口に位置する且山城は、九州への睨みを利かせるための最前線の軍事基地として、その戦略的価値を飛躍的に高めていったのである。

第二章:青山崩れ ― 大内領内に燻る火種

大内氏がその栄華を謳歌していた大永七年(1527年)、且山城を舞台に、後に「青山崩れ」と呼ばれる大規模な内紛が勃発する 10 。これは、且山城主・内藤興盛と、南方の尾根続きに位置する青山城の城主・高森正倫(内膳之助)との間に生じた私闘であった 1

この争いの直接的な原因は定かではないが、地域の覇権を巡る根深い対立があったものと推察される。高森氏は、同じく大内氏の麾下にあった津原膳勝や津田興輝らの加勢を得て、総勢一万二千という大軍を動員し、且山城を包囲するに至った 11 。これは、単なる小競り合いの域をはるかに超えた、本格的な合戦であった。窮地に立たされた内藤興盛は、主家である大内氏に救援を要請。これに応えた大内本家の軍勢が到着すると、戦況は一変する。圧倒的な兵力差で逆襲に転じた内藤・大内連合軍は、瞬く間に青山城を攻略し、高森氏は滅亡に追い込まれた 3

この「青山崩れ」は、一見すれば大内氏の統制下で起きた国人領主間の勢力争いに過ぎないように見える。しかし、その内実を深く考察すると、当時の大内氏が内包していた構造的な脆弱性を露呈した、象徴的な事件であったと捉えることができる。大内氏の直臣同士が、主家の正式な裁定を経ることなく、それぞれが一万を超える兵力を動員して私闘を繰り広げたという事実は、大内氏の支配体制が強力な中央集権によって成り立っていたのではなく、実力を持つ国人領主たちの連合体という側面を色濃く残していたことを物語っている。領主間の利害対立を完全に抑え込み、紛争を未然に防ぐだけの統制力が、領国の末端まで完全には及んでいなかったことの証左と言えよう。

最終的には大内本家の軍事介入によって内藤氏が勝利し、秩序は回復された。しかし、このような大規模な内部抗争の火種が領内に燻っていたこと自体が、約30年後に起こる陶晴賢による主君殺害(大寧寺の変)、そしてそれに続く領国の急速な瓦解へと繋がる遠因となった可能性は否定できない。「青山崩れ」は、まさに大内氏の栄華の裏に潜む崩壊の予兆を告げる、最初の警鐘だったのである。

第三章:防長経略と且山城籠城戦 ― 大内氏滅亡の舞台

第一節:毛利元就の侵攻と山口からの撤退

天文二十四年(弘治元年、1555年)、安芸の国人領主から戦国大名へと飛躍を遂げた毛利元就は、厳島の戦いにおいて大内氏の実権を握る陶晴賢を討ち破るという大金星を挙げる 13 。この勝利を契機に、元就は間髪を入れず大内領である周防・長門への全面侵攻作戦、すなわち「防長経略」を開始した 14

毛利軍は破竹の勢いで周防国内の諸城を次々と攻略。弘治三年(1557年)3月には、大内氏の栄華の象徴であった本拠地・山口に肉薄した 13 。この時、大内氏の当主であった大内義長と、その重臣・内藤隆世(内藤興盛の孫)は、山口が防衛には不向きな盆地であることを悟り、防衛拠点として急造していた高嶺城も未完成であったことから、山口を放棄しての撤退を決断する 1 。彼らが最後の望みを託して目指したのが、長門国が誇る天然の要害、且山城であった。その目的は、単なる籠城に留まらず、関門海峡を渡って豊後国へ脱出し、義長の実兄である九州の雄・大友義鎮(宗麟)の援軍を頼ることにあった 9

第二節:籠城戦の展開と毛利の謀略

義長と隆世が且山城に立て籠もったとの報を受けるや、元就は直ちに追撃を命じた。福原貞俊、志道元保、乃美宗勝といった歴戦の将が率いる5,000の軍勢が派遣され、且山城は完全に包囲された 13 。元就の戦略は周到であった。陸路からの包囲に加え、大友氏の援軍という最後の望みを断つべく、麾下の水軍に関門海峡を海上封鎖させ、さらに陸路からも別動隊を下関方面へ派遣したのである 15 。これにより、且山城は陸海から完全に孤立させられた。

しかし、且山城の守りは固かった。前述の通り、切り立った崖と険しい山容に守られた天然の要害であり、籠城側の士気も高く、毛利軍は攻城に大いに手間取った 1 。毛利勢は3月28日までに三の丸、二の丸を攻略したものの、城の中枢である本丸を前にして攻めあぐねる状況に陥った 13

ここで、稀代の謀将・毛利元就は、力攻めから謀略へと戦術を転換する。4月2日、元就は総大将の福原貞俊に命じ、城中に一本の矢文を射ち込ませた 1 。その文面に記されていたのは、籠城軍の内部分裂を狙った巧みな勧告であった。「内藤隆世は、主君・大内義隆公を弑逆した陶晴賢に与した逆臣であるから許すことはできない。しかし、大内義長公は晴賢に擁立された傀儡に過ぎず、我らとの間に遺恨はない。もし隆世が自刃して城を明け渡すならば、義長公の命は保証し、実兄のいる豊後国へ丁重に送り届けよう」という内容であった 10

この時、且山城が難攻不落の堅城であったという事実が、皮肉な結果を招くことになる。もし城が脆弱であれば、毛利軍は短期間で力攻めによって城を陥落させ、義長と隆世は共に戦場で討死するという、戦国武将としてのある意味で名誉な最期を遂げていたかもしれない。しかし、城が「堅固」であったがゆえに、攻めあぐねた元就に謀略を巡らす時間と状況を与えてしまったのである。城の物理的な強さが、逆に守将たちの人間関係の脆さを突く心理戦を誘発し、彼らの運命をより過酷で悲劇的な結末へと導いていくことになった。

第三節:内藤隆世の自刃と大内義長の最期

元就の矢文による降伏勧告に対し、主君である大内義長は「隆世一人を見殺しにすることはできぬ」と、これを毅然と拒否した 15 。しかし、忠臣であった内藤隆世は、自らの命と引き換えに主君の助命が叶うのであればと、この勧告を受け入れることを決意する。全ての責任を一身に負い、自刃することを選んだのである 1

隆世の壮絶な覚悟により、且山城は開城された。義長は隆世の遺志を胸に城を降り、毛利方との約束に従って長府にある長福寺(現在の功山寺)へと入った 1 。だが、これは全て元就が仕掛けた非情な罠であった。隆世が自刃し、城兵の抵抗が無力化されるや否や、福原貞俊率いる毛利軍は手のひらを返したように長福寺を包囲。元就からの命令であるとして、義長に自決を迫ったのである 1

欺かれたことを悟った義長は、もはやこれまでと覚悟を決め、弘治三年(1557年)4月3日、

「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」

(毛利に誘われ命を落とすことをどうして恨むだろうか。時が来れば、嵐が吹かなくとも花は散るものなのだ)

という辞世の句を遺して自刃した 15。享年26。これにより、約200年にわたり西国に栄華を誇った名門・大内氏は、歴史の舞台から完全に姿を消した。そして且山城は、大内氏最後の当主がその命運を託した、事実上、最後の城として歴史にその名を刻むこととなったのである 5。

第四章:毛利氏支配下の且山城 ― 九州防衛の最前線

大内氏の滅亡後、且山城は毛利氏の支配下に入った。城の持つ戦略的価値は何ら変わることはなく、むしろ毛利氏の新たな対九州戦略の要として、その役割は継承され、強化されていくこととなる 1 。毛利元就は、且山城落城後、ただちに城番として家臣の入江著親(箸親)を配置した 1 。その後の記録によれば、南条宗勝や山田重直といった家臣も城代として在城しており、毛利氏がこの城を継続的に重視していたことがうかがえる 9

毛利氏にとって、周防・長門を完全に掌握した後の次なる目標は、九州の覇権であった。特に、大内義長の実兄であり、九州最大の勢力を誇る豊後の大友義鎮(宗麟)との対立は避けられないものであった。永禄年間を通じて繰り広げられた門司城の戦いをはじめとする北九州での激しい攻防において、且山城は関門海峡を越えて九州へ出兵する際の兵站基地として、また、大友軍による長門侵攻に備える最前線の防衛拠点として、極めて重要な役割を担ったと考えられる 6

戦国時代の山城としての且山城が、いつ、どのような経緯でその役目を終えたのかを直接示す明確な史料は現存しない。しかし、歴史の大きな流れからその廃城時期を考察することは可能である。豊臣秀吉による天下統一、そして慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、毛利氏は防長二国に大減封され、本城を日本海側の萩に定めた。これにより、毛利氏の戦略は九州への「拡大」から、領国をいかに「維持・防衛」するかという内向きのものへと大きく転換した。最大の脅威はもはや九州の大友氏(既に改易)ではなく、江戸の徳川幕府となったのである。この戦略的プライオリティの変化は、関門海峡に面した且山城の軍事的価値を相対的に低下させた。

このような状況下で、慶長二十年(元和元年、1615年)に江戸幕府によって発布された「一国一城令」が、且山城の運命に終止符を打ったと考えるのが最も合理的である 19 。この法令により、長州藩(萩藩)では本城である萩城を除く多くの支城が破却された。毛利氏にとって、もはや戦略的重要性の低下した且山城を維持する理由はなく、幕府の命令はむしろ、藩の財政的・軍事的負担を軽減するための好機と捉えられた可能性すらある。つまり、且山城の廃城は、単に幕府による一方的な命令という外的要因だけでなく、毛利氏自身の戦略的事情という内的要因が合致した結果、歴史の表舞台から静かに姿を消していったと結論付けられるのである。

第五章:城郭構造の分析 ― 縄張りと遺構から読み解く実像

且山城は、勝山の険しい自然地形を最大限に活用して築かれた、典型的な連郭式の山城である 4 。その縄張り(城の設計思想)は、山頂に設けられた主郭を中核とし、そこから派生する尾根筋に沿って複数の曲輪を直線的に配置する構造を基本とする。防御設備は、曲輪の造成によって生み出された切岸(人工的な急斜面)を主軸に、土塁、堀切、竪堀、そして要所に配された石垣によって構成されており、戦国期山城の特徴を色濃く示している 1

現在確認できる主要な遺構は、以下の通りである。

  • 主郭: 城の最高所に位置する中枢部。東西に長い形状を持ち、その東西両端は一段高く土塁が盛られている 1 。周囲への展望が非常に開けており、司令部としての機能と同時に、広範囲を監視する物見としての役割も担っていたと考えられる。
  • 石垣: 織豊系城郭に見られるような総石垣ではなく、防御上の要所に限定して用いられている。特に主郭南側の急斜面や、その下に設けられた帯曲輪周辺には、比較的素朴な野面積みの石垣が良好な状態で残存している 1 。これらは斜面の崩落を防ぐ土留めの役割と、敵兵の登攀を困難にする障壁としての役割を兼ね備えていた。
  • 堀切・竪堀: 尾根伝いに侵攻してくる敵の進軍を阻むため、尾根筋を断ち切るように深い溝(堀切)が複数設けられている。特に西側の尾根には明瞭な堀切が三条確認できる 1 。また、曲輪の斜面には、斜面を横移動する敵兵の動きを妨害し、その進路を限定させるための竪堀も効果的に配置されている 1
  • 曲輪群: 主郭から南や西に伸びる尾根上には、主郭を守るように複数の段曲輪(階段状に配置された小規模な平坦地)や帯曲輪(山の斜面を帯状に削平した通路状の曲輪)が設けられている 1 。これらは、敵を主郭に到達させる前に段階的に消耗させるための多層的な防御ラインを形成していた。
  • 古い時代の遺構の可能性: 縄張りを詳細に観察すると、西尾根に位置する曲輪群は、主郭周辺の遺構と比較して削平が甘く、防御施設の構築も簡素であることから、より古い時代の城の姿、すなわち後年の改修を受ける前の原型を留めているのではないかとの指摘がある 9 。これは、且山城が一度に完成されたものではなく、時代の要請に応じて段階的に改修・拡張が繰り返されてきたことを示唆する貴重な痕跡である。

これらの遺構の配置と機能を有機的に理解するため、以下の表にその概要を整理する。

表1:且山城の主要な遺構一覧

遺構の種類

位置

規模・特徴

防御上の役割

関連資料

主郭

山頂部

東西に長い形状。両端に土塁が残存。

最終防衛拠点。司令部及び兵員の駐屯。

1

石垣

主郭南斜面、帯曲輪など

比較的素朴な野面積み。城内で最も高い石垣も存在する。

斜面の崩落防止と、敵の登攀を困難にする。

1

堀切

西尾根、主郭と各曲輪の連結部

尾根を断ち切る深い溝。西尾根には3条確認。

尾根伝いの敵の進軍を物理的に遮断する。

1

竪堀

主郭や曲輪の斜面

斜面に対して垂直に掘られた溝。

敵兵が斜面を横移動するのを妨害し、進路を限定する。

1

帯曲輪・段曲輪

主郭の南や西の尾根筋

比較的小規模な平坦地が階段状に配置。

主郭に至るまでの多層的な防御ラインを形成。兵の待機場所。

1

この表が示すように、且山城の防御システムは、各遺構がそれぞれの役割を果たしながら連携し、険しい地形と一体となって敵の攻撃を阻むよう、極めて合理的に設計されていたことがわかる。

第六章:且山城と勝山御殿 ― 時代の異なる二つの史跡

且山城を語る上で、しばしば混同されがちなのが、その南麓に位置する「勝山御殿」の存在である。両者は同じ「勝山」の名を冠しているが、その時代、目的、そして性格は全く異なるものであり、明確に区別して理解する必要がある。

本報告書でこれまで詳述してきた「且山城」は、南北朝から戦国時代にかけて機能した、山頂に築かれた軍事要塞、すなわち 山城 である 1

一方、「勝山御殿」は、時代を大きく下った幕末の文久三年(1863年)、長州藩の支藩である長府藩の藩主・毛利元周によって築かれた 藩邸 である 2 。その築城背景には、幕末の動乱が深く関わっている。当時、長州藩は攘夷を決行し、関門海峡を通過する外国船への砲撃を開始した(下関戦争)。これに対し、外国艦船からの報復攻撃を予期した長府藩は、海岸線に近く防御に不安のあった従来の藩邸・串崎城を放棄し、内陸の要害の地である勝山山麓に新たな拠点を急造したのである 4 。『毛利家乗』には、藩内の士民男女がこぞって資金や労役を提供し、わずか5ヶ月から7ヶ月という驚異的な短期間で完成させたと記録されている 5 。大小60余りの部屋を持つ壮麗な御殿であったが、その実態は、背後の勝山三山を天然の要害とする事実上の城郭であった。この勝山御殿は、明治維新後の廃藩置県までの短い期間、長府藩の藩庁として機能した 23

現在、国の史跡として指定されているのは、この幕末に築かれた「勝山御殿跡」であり、公園として整備され、多くの人々が訪れる登山の拠点となっているのもこちらである 2 。このため、一般に「勝山城」と言う場合、山麓の御殿跡を指して語られることが多い。しかし、戦国時代の歴史を紐解く上で重要なのは、あくまで山頂に築かれた山城としての「且山城」である。この歴史的な混同を明確に解きほぐし、それぞれの史跡が持つ固有の価値を正しく認識することが、この地の歴史を深く理解する上で不可欠である。

終章:且山城が物語る歴史的意義

長門国且山城の歴史は、一つの城郭の盛衰に留まらず、戦国時代から近世へと至る西日本の動乱の縮図そのものである。その城跡は、我々にいくつかの重要な歴史的意義を語りかけている。

第一に、且山城は 大内氏滅亡の象徴 として、歴史にその名を深く刻んでいる。西国に独自の文化圏を築き上げ、栄華を極めた名門守護大名・大内氏が、その最後の望みを託しながらも、毛利元就の非情な謀略の前に終焉を迎えた悲劇の舞台である。主君の助命を信じて自刃した内藤隆世の忠義と、裏切りの果てに無念の最期を遂げた大内義長の姿は、下剋上が常であった戦国の世の厳しさと非情さを、今なお我々に強く訴えかける。

第二に、この城の攻略は、 毛利氏の覇権確立における決定的な画期 であった。且山城を落とし、大内氏を完全に滅亡させたことで、毛利元就は周防・長門の二国を完全に手中に収め、中国地方の覇者としての地位を不動のものとした。且山城での勝利は、毛利氏が西国最大の勢力として、九州の覇権をも視野に入れる新たなステージへと進むための、重要な一里塚となったのである。

そして最後に、且山城の存在そのものが、 西国情勢の変遷を体現する歴史の証人 であると言える。大内氏の九州経営の拠点として築かれ、その内部崩壊の予兆(青山崩れ)の舞台となり、毛利氏の台頭によって大内氏滅亡の地となり、そして毛利氏と大友氏による九州の覇権争いの最前線基地として機能し、最後は徳川幕府による新たな天下の秩序(一国一城令)の中でその役割を終える。この一連の歴史は、戦国時代から近世初頭にかけての西日本の政治・軍事動向のダイナミックな変化を、一つの城の運命を通して凝縮して見せてくれる。

今日、勝山の山頂に静かに佇む且山城の遺構は、単なる石や土の痕跡ではない。それは、西国の覇権を巡って繰り広げられた数多の武将たちの夢と野望、忠誠と裏切り、そして栄光と悲劇の全てをその内に秘め、時代の流れを静かに見つめ続けてきた、かけがえのない歴史の語り部なのである。

引用文献

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  2. [勝山城] - 城びと https://shirobito.jp/castle/2460
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  6. 1 歴史のベールに包まれた長門城 - 九州国立博物館振興財団 - The Road to DAZAIFU ~大宰府への道~ https://www.kyukoku.or.jp/road/20080225.html
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  10. 金怡山城 稲積山城 三太屋敷 青山城 勝山城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/yamaguti/simonosekisi04.htm
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  18. 【毛利氏の北部九州侵入】 - ADEAC https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht040100
  19. 明治時代にお城がたくさん破壊されてしまったって「廃城令」って?ー超入門!お城セミナー 【歴史】 https://shirobito.jp/article/1344
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  25. 櫛崎城 勝山御殿 清末藩陣屋 長府毛利邸 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/yamaguti/simonosekisi.htm
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