中津城
中津城は黒田官兵衛が築いた日本三大水城の一つ。金箔瓦や扇状の縄張りに先見性が光る。城井氏謀殺や石垣原の戦いなど戦国の記憶を刻み、細川氏が完成させた。明治維新で廃城後、模擬天守が再建され、奥平家資料館として歴史を伝える。
豊前の要衝・中津城 ―天才軍師・黒田官兵衛の遺産と戦国の記憶―
第一章:序論 ― 豊前国における中津城の歴史的意義
戦国時代の末期、九州は島津、大友、龍造寺という三大勢力が激しく覇を競う、まさに動乱の渦中にあった。その中で、本州と九州を結ぶ海上交通の結節点として、また瀬戸内海への玄関口として、豊前国は古来より地政学的に極めて重要な位置を占めていた 1 。この戦略的要衝を掌握することは、九州全体の支配、ひいては天下統一の趨勢を左右するほどの重要性を持っていたのである。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定は、この地の力学を根底から覆した。秀吉は、自らの覇業に多大な貢献を果たした稀代の軍師・黒田官兵衛孝高(後の如水)を豊前国の領主として封じる。そして、この地に築かれた中津城は、単なる一地方大名の居城という枠を遥かに超え、豊臣政権の権威を九州全土に示し、新たな支配体制を確立するための強力な「楔」としての役割を担うこととなった。後年の発掘調査で発見された金箔瓦は、秀吉が許可した特定の大名のみが使用を許されたものであり、中津城が豊臣政権にとって特別な意味を持つ拠点であったことを物語る象徴的な証左である 1 。
本報告書は、この中津城を、戦国末期から江戸初期にかけての九州における政治・軍事の中心地として再評価するものである。天才軍師・黒田官兵衛の築城思想がどのように具現化されたのか、石垣に残された時代の変遷は何を物語るのか、そして「もう一つの関ヶ原」とも言うべき石垣原の戦いの舞台となった歴史的役割など、多角的な視点から、この「扇城」の真価を詳細に解き明かすことを目的とする。
表1:中津城 関連年表
和暦 (西暦) |
時代区分 |
城主 |
主要な出来事 |
天正15年 (1587) |
黒田時代 |
黒田孝高 |
豊臣秀吉の九州平定。黒田孝高が豊前6郡の領主として入国 3 。 |
天正16年 (1588) |
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中津城の築城を開始 2 。城内で城井鎮房を謀殺 4 。 |
天正17年 (1589) |
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黒田長政 |
孝高、家督を長政に譲り隠居 5 。 |
慶長5年 (1600) |
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関ヶ原の戦い。孝高(如水)、中津城を拠点に九州の西軍勢力を攻略(石垣原の戦い) 6 。戦功により黒田氏は筑前へ加増転封 4 。細川忠興が入封 3 。 |
慶長8年 (1603) |
細川時代 |
細川忠利 |
忠興の子・忠利が城主となり、中津城の大規模な増改築を開始 3 。 |
元和元年 (1615) |
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一国一城令が発布されるも、忠興の働きかけにより中津城は存続を許される 2 。 |
元和6年 (1620) |
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細川忠興 |
忠興、隠居し三斎と号し中津城に入る 2 。細川時代の中津城が完成 2 。 |
寛永9年 (1632) |
小笠原時代 |
小笠原長次 |
細川氏の肥後熊本転封に伴い、小笠原長次が入封 2 。 |
享保2年 (1717) |
奥平時代 |
奥平昌成 |
奥平昌成が10万石で入封。以後、明治維新まで奥平家が城主となる 4 。 |
明治4年 (1871) |
明治以降 |
- |
廃藩置県により中津城は廃城となる 3 。 |
明治10年 (1877) |
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- |
西南戦争の際、中津隊の襲撃により旧本丸御殿(中津支庁舎)が焼失 3 。 |
昭和39年 (1964) |
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- |
旧藩主奥平家と市民の寄付により、現在の模擬天守が建設される 3 。 |
第二章:築城の背景と黒田官兵衛の深謀
豊前入封と築城地の選定
天正15年(1587年)、九州平定における軍功を賞され、黒田孝高は豊臣秀吉から豊前国6郡、約12万石の所領を与えられた 4 。当初、孝高は領国統治の拠点として、旧来の国人領主が拠点としていた山城・馬ヶ岳城(福岡県行橋市)に入城した 4 。しかし、わずか1年後の天正16年(1588年)には、山国川の河口に広がる中津の平地に新たな城の建設を開始する 3 。
この拠点の移動は、単なる地理的な選択以上の、深い戦略的意図を内包していた。馬ヶ岳城のような山城は、籠城戦を前提とした純粋な軍事拠点としては優れているが、平時における領国経営、特に経済活動の中心地としては不向きであった 9 。孝高が山城を捨て、平城である中津城を新たに築いた背景には、戦乱の時代が終焉を迎え、世が「武」による支配から「政」による統治へと移行しつつあることを見抜いた、彼の先見性があった。城の役割が、防御一辺倒の砦から、領国の政治・経済を司る中核都市へと変貌を遂げる時代の到来を、孝高は的確に予測していたのである。中津城の築城は、彼が単なる戦国の武将ではなく、新時代の統治者としての明確なビジョンを持っていたことの証左に他ならない。
中津の戦略的・経済的価値
孝高が新たな拠点として選んだ中津の地は、軍事、政治、経済のあらゆる面で卓越した価値を有していた。周防灘に面し、山国川(支流の中津川)の水運を最大限に活用できるこの地は、大坂や京といった中央と直接結ばれる海上交通の要衝であった 1 。これにより、有事の際の兵員や物資の迅速な輸送はもちろんのこと、平時においても情報の伝達や交易において絶大な優位性を確保することができた 8 。
さらに、城の背後に広がる中津平野は、九州でも有数の穀倉地帯であり、安定した経済基盤を約束するものであった 9 。水陸交通の要衝を押さえ、豊かな経済力を背景とすることで、領国経営を盤石にする。この地に城を築くという決断は、軍師・黒田官兵衛の合理的な思考が導き出した必然的な帰結であった。
「黒田如水縄張図」と城下町構想
中津城の築城において、孝高の先進性は城郭そのものの設計に留まらなかった。後世に伝わる「黒田如水縄張図」と称される絵図には、本丸、二の丸、三の丸といった城の基本構造に加え、「京町」「博多町」といった商業地区の町名、さらには侍屋敷や寺社の配置計画までが詳細に記されている 2 。近年の調査研究により、黒田時代にはすでに城下町の基本的な区画整理(町割り)が相当程度進められていたことが明らかになっている 2 。
これは、城郭と城下町を一体化した防御・経済システムとして捉える、極めて近代的で高度な都市計画思想の表れである。例えば、城の外郭に沿って寺社群(寺町)を配置することで、有事の際にはその広大な境内や堅牢な建物を防御拠点として活用する狙いがあった 2 。また、城の大手門近くに商人の町を形成し、経済活動を活性化させることで、藩の財政基盤を強化する意図も見て取れる。孝高は、単に堅固な城を造るだけでなく、その城を核とした持続可能な「都市」を創り出すことを目指していた。彼の軍師としての卓越した先見性が、軍事領域のみならず、都市計画という分野においても遺憾なく発揮されたのである。
豊臣政権の権威の象徴
中津城から出土した金箔瓦は、この城が担ったもう一つの重要な役割を物語っている 2 。金箔瓦の使用は、豊臣秀吉が自身の権威を示すために、大坂城や聚楽第などで用い、一部の信頼篤い大名にのみ許可した特別なものであった 1 。九州平定直後の、依然として旧来の国人勢力が力を持ち、支配が安定しないこの時期において、金箔で輝く瓦を戴いた中津城の姿は、豊臣政権の絶対的な権力と威光を視覚的に誇示する、強力な政治的メッセージであった。それは、豊前の国人衆や周辺大名に対し、新たな支配者が誰であるかを明確に示し、抵抗が無意味であることを知らしめるための、建築を通じた一種のプロパガンダであったと言える。中津城は、その存在自体が豊臣の九州支配を正当化し、権威づけるための象徴として機能していたのである。
第三章:城郭の構造と縄張り ― 天才軍師の設計思想
日本三大水城としての特質
中津城は、讃岐の高松城、伊予の今治城と並び、「日本三大水城」の一つとしてその名を馳せている 12 。この城の最大の特徴は、周防灘に注ぐ中津川の河口という立地を最大限に活用した、巧みな水利システムにある。城の堀には水門が設けられ、そこから直接海水が引き込まれていた 15 。これにより、堀の水位は潮の干満に応じて自然に変動し、常に一定の水深を保つことができた。この干満差は、敵が堀を渡って城壁に取り付くことを困難にし、防御力を飛躍的に高める効果があった。
さらに、水城であることは兵站上の利点ももたらした。城内に直接船を引き入れることが可能であり、兵員や兵糧、弾薬といった物資を海上から効率的に補給できた 14 。これは、籠城戦における生命線である補給路を確保する上で、計り知れない価値を持っていた。中津城は、自然の地形を巧みに取り込んだ、極めて高度な防御思想と兵站思想の結晶であった。
梯郭式の縄張りと防御機構
中津城の縄張り(城の設計)は、中津川を天然の要害として背後に置く本丸を核とし、その前面(東側と南側)に二の丸、三の丸を階段状に配置する「梯郭式」と呼ばれる形式を採用している 1 。これは、背水の陣を敷くことで防御の重点を前面に集中させ、限られた兵力で効率的に城を守るための合理的な設計である。
防御は幾重にも張り巡らされていた。城の東側は二重、南側は三重の堀によって厳重に守られ、さらにその外周には「おかこい山」と称される長大な土塁が築かれていた 1 。この土塁は、城下町全体を囲い込む総構えの役割を果たし、町そのものを一つの巨大な要塞へと変えていた。城内への侵入経路である城門には、敵兵を直進させず、狭い空間に誘い込んで三方向から攻撃を加えることができる「枡形虎口」という構造が採用されていた 15 。本丸南東部にあったとされる椎木門などがその典型であり、侵入しようとする敵は、幾重にも仕掛けられた罠によって消耗させられる仕組みになっていた。
「扇城」の別名
中津城は、その特徴的な縄張りの形状から「扇城(せんじょう)」という優美な別名でも呼ばれていた 4 。これは、本丸を扇の要に見立てたとき、二の丸、三の丸、そして城下町が扇状に広がって見えることに由来する。この形状は、単に美観だけを意図したものではない。扇形に配置された曲輪は、各所に設けられた隅櫓からの射線が交差しやすく、城壁に取り付く敵兵に対する死角を減らすという、防御上の機能性も兼ね備えていた。また、末広がりの形を持つ扇は、古来より縁起の良いものとされており、城の永続的な繁栄を願う吉祥の意味合いも込められていた可能性がある。
風水と地勢の利用
黒田官兵衛は、築城にあたって物理的な防御力だけでなく、精神的な加護をもたらすとされる風水や地勢も重視していた。城の鬼門とされる北東の方角には、古社である闇無浜神社が鎮座し、邪気の侵入を防ぐ役割を担っていた 4 。また、城の位置は、冬至の日に朝日が豊前国一宮である宇佐神宮の方角から昇り、夕日が修験道の聖地である英彦山の方角に沈むように計算されている 4 。さらに、地域の重要な神社である八幡古表神社と薦神社を結ぶ直線上に本丸が位置するなど、地域の信仰体系と城の配置を意図的に連動させている。これは、城の安寧と黒田家の繁栄を祈願するとともに、地域の精神的な中心地としての地位を確立しようとする、当時の築城思想を色濃く反映している。
第四章:石垣に刻まれた歴史 ― 黒田と細川、二つの時代の証
中津城の石垣は、単なる防御構造物ではない。それは、築城主の思想、時代の空気、そして技術の変遷を雄弁に物語る「石の歴史書」である。特に、黒田官兵衛が築いた部分と、その後に入城した細川忠興が増築した部分が接する箇所は、戦国と江戸という二つの時代の精神が交差する、類稀な歴史の証人となっている。
九州最古級の近世城郭石垣
黒田時代に築かれた石垣は、天正16年(1588年)頃に普請されたものであり、現存する近世城郭の石垣としては九州で最も古いものの一つに数えられる 3 。織田信長の安土城に始まる、石垣を多用した近世城郭の築城技術が、九州の地にもたらされた初期の貴重な実例として、学術的にも極めて高い価値を有している。
黒田時代の石垣 ― 合理主義の結晶
本丸北側の川に面した石垣には、後世の増築との境界を示す「y字状の目地」が明瞭に確認できる。この目地の向かって右側が、黒田官兵衛によって築かれた部分である 1 。この石垣の最大の特徴は、使用されている石材にある。天正年間当時、城の石垣には加工されていない自然石を用いるのが一般的であった 2 。しかし、中津城の黒田時代の石垣には、四角く整形された石が多用されている。これらの石は、7世紀に築かれた古代山城「唐原神籠石(とうばるこうごいし)」から運ばれ、転用されたものであった 1 。
この石材の選択は、官兵衛の徹底した合理主義と現実主義を如実に示している。九州平定直後の不安定な領国において、一刻も早く支配の拠点を確立する必要があった官兵衛は、新たに石を切り出して加工するという時間のかかる工程を省略し、すでに加工済みの古代の石材を再利用するという最も効率的な手段を選んだ。伝統や慣習に囚われず、目的(=迅速かつ堅固な城の建設)達成のために最短の道を選ぶ。黒田時代の石垣は、官兵衛の軍師としての思考、すなわち「利用できるものは全て利用し、最小の労力で最大効果を上げる」という思想が、石の積み方一つにまで反映された物証なのである。
細川時代の石垣 ― 平和の時代の増改築
関ヶ原の戦いの後、黒田氏に代わって中津城主となった細川氏もまた、城の大規模な改修を行った。「y字状の目地」の左側が、その際に増築された部分である 1 。細川時代の石垣は、黒田時代のそれとは対照的な特徴を持つ。使用されている石材は、丸みを帯びた自然石が中心であり、加工の痕跡は少ない 2 。また、発掘調査の結果、黒田時代の比較的低い石垣の上に石を継ぎ足し、より高く、より広範囲に石垣を拡張していたことが判明している 1 。
この工法の違いは、時代の変化を明確に反映している。官兵衛が城を築いた天正年間は、いつ合戦が起きてもおかしくない戦国の緊張下にあり、即応性と防御力が最優先された。一方、細川氏が改修を行った慶長から元和にかけての時代は、徳川による天下統一が成り、大規模な戦乱の可能性が著しく低下した「平和の時代」であった。そのため、緊急性よりも経済性や一般的な工法が重視されたと考えられる 20 。本丸北側の石垣の継ぎ目は、単なる建築上の接続部ではない。それは、戦国の「乱世」と江戸の「治世」という、二つの異なる時代精神が物理的に接触する「歴史の断層」そのものなのである。
石工技術の粋
中津城の石垣には、当時最先端の技術を誇った近江の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」の技術が用いられたと考えられている 15 。一見すると、近世城郭特有の「反り」を持たない直線的な壁面に見えるが、詳細に観察すると、両端よりも中央部がより緩やかな勾配を持つ「輪取り」と呼ばれる高度な技法が用いられている。これは、石垣にかかる土圧を内側に集中させ、地震などの外力に対しても崩れにくい構造を生み出すための工夫であった。
表2:黒田時代と細川時代の石垣比較
比較項目 |
黒田時代の石垣 (天正16年頃) |
細川時代の石垣 (慶長8年以降) |
時代背景 |
九州平定直後の戦乱期。支配体制の早期確立が急務。 |
関ヶ原の戦い後。徳川政権下で世情が安定した平和期。 |
築城主の意図 |
迅速かつ堅固な軍事拠点の建設。実用性と即応性を最優先。 |
既存の城郭を拡張・整備し、藩主の居城としての威厳を高める。 |
使用石材 |
古代山城「唐原神籠石」からの転用材が主 2 。 |
未加工の自然石が主 2 。 |
加工方法 |
すでに四角く加工された石材を多用 2 。 |
石材の加工は最小限に留める(野面積みに近い)。 |
工法の特徴 |
徹底した合理主義。既存資源の再利用による工期の短縮。 |
経済性を重視した当時の一般的な工法。黒田時代の石垣を基礎として高く積み増す 2 。 |
第五章:戦乱の記憶 ― 中津城を巡る攻防と謀略
中津城は、その堅固な構造ゆえに、また豊前の戦略的要衝という立地ゆえに、戦国末期の激しい攻防と謀略の舞台となった。城の歴史には、華々しい武功だけでなく、非情な調略の記憶もまた深く刻まれている。
城井氏(宇都宮鎮房)謀殺事件
黒田氏の豊前入封は、この地を400年以上にわたって支配してきた旧来の領主・城井氏(宇都宮氏)との深刻な対立を生んだ。当主の城井鎮房は、豊臣秀吉の国替え命令に反発し、黒田氏に対して頑強に抵抗した 5 。幾度かの戦闘の末、一旦は和睦が成立するものの、秀吉の鎮房に対する不信感は根強く、その排除を密かに命じていた。
天正16年(1588年)、父・孝高が肥後国人一揆の鎮圧のために城を留守にしている間、嫡男の黒田長政は和睦の宴を装って鎮房を中津城内へと誘い込んだ。そして、酒宴の席で油断した鎮房を、配下の武士たちが一斉に襲い、謀殺するという凶行に及んだ 4 。この事件は、目的のためには手段を選ばない戦国時代の調略の非情さと、新支配者が旧勢力を完全に排除していく過程の苛烈さを示すものである。現在も本丸跡に、鎮房の怨霊を鎮めるために創建されたと伝わる「城井神社」が祀られていることは、この悲劇の記憶が今なお城の歴史に深く刻まれていることを物語っている 5 。
合元寺の赤壁伝説
城井鎮房の悲劇は、城内だけに留まらなかった。鎮房が謀殺されたその時、彼の家臣団は城下の合元寺(ごうがんじ)で主君の帰りを待っていた。長政は、城内での凶行と同時に合元寺にも兵を差し向け、不意を突かれた家臣団を急襲した。家臣たちは奮戦したものの、衆寡敵せず、全員がその場で討ち死にしたと伝えられる 22 。
この凄惨な戦闘の記憶は、一つの伝説として後世に語り継がれている。寺の白壁に飛び散った家臣たちの血痕が、何度漆喰を塗り替えても消えることなく赤く浮かび上がってくるため、ついに壁全体を赤く塗ってしまったという「赤壁伝説」である 22 。この逸話は、事件の凄惨さを民衆の記憶に留めるための強力な物語装置として機能し、今もなお中津の地に戦国の記憶を生々しく伝えている。
関ヶ原の戦いと石垣原の合戦 ―「如水の天下盗り」
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、中津城は再び歴史の表舞台に躍り出ることになる。黒田長政は、黒田家の主力を率いて徳川家康率いる東軍に合流し、主戦場へと向かった 6 。一方、家督を譲り中津城で隠居生活を送っていた父・孝高(この時すでに出家し「如水」と号す)は、この天下の動乱を千載一遇の好機と捉えた。
如水は、長年にわたって蓄財してきた金銀を惜しげもなく放出し、浪人や領内の農民、商人を動員して、わずかな期間で9000人もの大軍を編成した 6 。そして同年9月9日、関ヶ原の本戦に先駆け、中津城から電撃的に出陣したのである 26 。その狙いは、西軍に与した豊後の旧主・大友義統の軍勢を撃破し、九州内の西軍諸城を次々と攻略することにあった。
如水軍は、現在の別府市にあたる石垣原で大友軍と激突し、これに圧勝 27 。その後、破竹の勢いで九州を席巻していった。この一連の動きは、多くの城郭論が注目する籠城戦とは全く逆の発想に基づいていた。如水は、難攻不落の水城である中津城に立て籠もるという消極的な選択をしなかった。彼は、中津城を自らが能動的に九州を平定するための「軍事基地(スプリングボード)」として最大限に活用したのである。この戦いは、中津城が単なる防御施設ではなく、大規模な軍事行動の策源地として完璧に機能したことを証明した。そして、もし関ヶ原の本戦が長引けば、九州を手中に収めた如水が、家康、三成に続く第三の勢力として天下に名乗りを上げていたかもしれないという、いわゆる「如水の天下盗り」伝説の最大の根拠となっている。
第六章:城主の変遷と城の完成 ― 細川忠興の時代
黒田氏から細川氏へ
関ヶ原の戦いにおける黒田長政の多大な戦功により、黒田家は徳川家康から筑前国52万石へと大幅な加増転封を命じられた 4 。これにより、黒田官兵衛・長政父子による中津支配は終わりを告げる。代わって豊前国および豊後国二郡、合わせて39万石の領主としてこの地に入封したのが、戦国きっての智将であり、文化人としても名高い細川忠興であった 3 。
細川氏による大改修と完成
細川忠興は、領国の中心として小倉城を新たに築城し、そこを本城と定めた 4 。しかし、それと並行して中津城の大規模な増改築も精力的に進めたのである 5 。この改修工事は、慶長8年(1603年)から息子の忠利が城主となって開始され、元和6年(1620年)頃まで、十数年という長い歳月をかけて行われた 2 。黒田官兵衛がその基礎を築いた中津城は、細川氏の手によって石垣はより高く、曲輪はより広大に整備され、ここに近世城郭としての完成形を見ることになる。
特筆すべきは、元和元年(1615年)に徳川幕府によって発布された「一国一城令」を巡る逸話である。この法令により、原則として一国に一つの城を除き、すべての支城は破却されることになった。豊前国では本城である小倉城以外の城は取り壊される危機に瀕したが、忠興が老中・土井利勝ら幕府の中枢に働きかけたことにより、中津城は例外的に存続を許されたのである 2 。これは、忠興個人の政治力の高さを示すと同時に、幕府自身も、九州の外様大名を監視・牽制する上で、豊前国に小倉と中津という二つの戦略拠点を維持することの重要性を認識していた可能性を示唆している。
忠興の隠居城として
元和6年(1620年)、忠興は家督を三男の忠利に譲り、自身は「三斎宗立」と号して隠居生活に入った 2 。その隠居所として選ばれたのが、この中津城であった 19 。茶人・千利休の高弟(利休七哲の一人)としても知られる文化人であった三斎は、中津城に文化的洗練をもたらした。特に、城内の水不足を解消するために大規模な上水道を整備したことは、彼の為政者としての一面を物語っている 25 。この水道は極めて優れた設備で、昭和の初めまで現役で使用されていたという 25 。三斎の時代、中津城は戦国の気風を残す軍事拠点としての性格に加え、大名の隠居所としての文化的・居住的空間へと成熟を遂げていったのである。
第七章:近世から現代へ ― 廃城、そしてシンボルとしての再生
城主の変遷(小笠原氏・奥平氏)
寛永9年(1632年)、細川氏が肥後熊本藩へ転封となると、中津には譜代大名の小笠原長次が8万石で入封した 2 。小笠原氏の時代には、黒田・細川時代に基礎が築かれた城下町がさらに整備・拡張され、近世都市としての中津の骨格が固められた 2 。その後、小笠原氏は数代で無嗣改易となり、享保2年(1717年)には、同じく譜代大名の奥平昌成が10万石で入封する 4 。以後、中津城は明治維新を迎えるまで、約150年間にわたり奥平家の居城として存続した。
明治維新と廃城
明治4年(1871年)の廃藩置県によって中津藩は消滅し、中津城はその役割を終え、廃城となった 3 。城内の建造物の多くは、この時期に取り壊された。この際、中津出身の思想家・福沢諭吉が「城はもはや旧時代の遺物である」として、藩士たちに建物の破却を勧めたという逸話も残っている 4 。本丸にあった「松の御殿」など一部の建物は、県の中津支庁舎として転用され、かろうじて命脈を保った。しかし、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると、西郷軍に呼応した地元士族「中津隊」の襲撃を受け、この「松の御殿」も焼失 3 。これにより、中津城の主要な建築物は地上から完全に姿を消すこととなった。
模擬天守の建設
城の象徴を失った中津の地に、再び天守閣が姿を現したのは、昭和39年(1964年)のことである 3 。これは、最後の城主であった旧中津藩主・奥平家と、中津市民からの寄付によって建設されたものであった 7 。しかし、この天守は史実に基づいた「復元」ではなく、あくまで城のシンボルとして建てられた「模擬天守」である。そもそも中津城には、黒田孝高の手紙に「天守に銭を蓄えた」との記述があるものの 4 、江戸時代の絵図には天守が描かれておらず、その存在は確実視されていない 21 。
建設にあたっては、古写真が現存し、その優美な姿が知られていた長州・萩城の天守がモデルとされた 34 。これは、歴史的正確性を追求するよりも、市民が誇りを持てる「城らしい」威厳のある姿を再創造することが目的であったことを示している。この模擬天守は、史実の再現ではなく、地域の歴史と誇りを象徴する「記憶の器」として建てられたのである。その存在は、城郭が持つ意味が、純粋な軍事施設から、地域の文化・観光を担うシンボルへと時代と共に変化したことを明確に示している。
奥平家歴史資料館として
現在、模擬天守の内部は「奥平家歴史資料館」として公開されている 21 。館内には、徳川家康から奥平家が拝領したと伝わる「白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)」や、長篠の戦いで使用されたと伝わる法螺貝、奥平家歴代藩主が着用した甲冑や陣羽織、古文書など、奥平家ゆかりの貴重な資料が数多く展示されている 37 。これにより、訪れる人々は、中津城の最後の城主であった奥平家の歴史と文化に触れることができる。
第八章:結論 ― 戦国の記憶を今に伝える扇城
中津城は、その歴史を通じて、単なる一地方の城郭という範疇を遥かに超える多角的な価値を保持してきた。それは、豊臣政権が九州支配を盤石にするために打ち込んだ戦略的拠点であり、関ヶ原の戦いの裏で「もう一つの天下分け目」を演じた野望の策源地であり、そして何よりも、戦国の「乱世」から江戸の「治世」へと時代が移行するダイナミズムを、その石垣に刻み込んだ歴史の証人である。
この城の根幹を成すのは、天才軍師・黒田官兵衛の合理的かつ先進的な築城思想である。彼は、水運と経済を重視した平城を選択し、城と町を一体として計画する都市設計思想を導入した。古代山城の石材を再利用して迅速に堅固な石垣を築き上げたその手腕は、彼の徹底したリアリズムを物語っている。この官兵衛の遺産は、後に入城した細川忠興の文化的洗練と、江戸時代の安定した治世の中で受け継がれ、増改築を経て完成に至った。黒田時代の石垣と細川時代の石垣が接する「歴史の断層」は、この思想と時代の継承と変容を最も象徴的に示している。
明治維新後の廃城、そして西南戦争による焼失という危機を乗り越え、戦後、市民の熱意によってシンボルとしての模擬天守が再建された歴史は、史跡が単なる過去の遺物ではないことを示唆している。それは、現代に生きる人々のアイデンティティを形成し、未来へと歴史を語り継ぐための生きた教材なのである。戦国の謀略、天下統一の野望、そして地域の誇り。それらすべてが、扇城の石垣一つひとつに、今なお深く息づいている。
引用文献
- 第68回 中津城 黒田孝高が築いた「日本三大水城」のひとつ 萩原さちこの城さんぽ https://shirobito.jp/article/1846
- 中津城を知る https://www.city-nakatsu.jp/doc/2013100100011/file_contents/nakatsujo.pdf
- 中津城の歴史 - 中津市 https://www.city-nakatsu.jp/doc/2013100100011/file_contents/nakatsujo_kouryaku.pdf
- 中津城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B4%A5%E5%9F%8E
- 中津城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kyusyu/nakatsu/nakatsu.html
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- 幕政改革に意欲を燃やす、第八代将軍徳川吉宗公から西国の抑えを期待され、奥平家 - 中津城 http://www.nakatsujyo.jp/history.html
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- 「鉄筋コンクリート造」でも名城はある…城マニアが教える「訪れる価値のある城」と「ダメな城」の見分け方 「現存12天守」以外にも訪れるべき天守はある (3ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/78557?page=3
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- 奥平家歴史資料館 (長篠の戦い) (耶馬溪・中津・玖珠) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11171549
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- 中津城(奥平家歴史資料館) | 美術館・博物館 | アイエム[インターネットミュージアム] https://www.museum.or.jp/museum/7316