讃岐の丸亀城は、日本一の石垣と現存天守を誇る名城。生駒氏が築き、山崎氏が再興、京極氏が完成。石垣崩落を乗り越え、現代にその歴史を語り継ぐ。
讃岐平野の西部に位置し、瀬戸内海の海上交通を扼する戦略的要衝、亀山(標高約66m)に築かれた丸亀城は、日本の城郭史において特異な輝きを放つ存在である 1 。その姿は、二つの至宝によって象徴される。一つは、山麓の内堀から山頂の本丸まで、あたかも渦を巻くように四層に重ねられ、総高60mに達する壮麗な石垣群である 1 。その威容は「石垣の名城」と称賛され、見る者を圧倒する。もう一つは、その石垣の頂に鎮座する三層三階の天守であり、江戸時代以前に建造され、風雪を耐え抜き現代にその姿を伝える「現存十二天守」の一つという、極めて稀有な価値を持つ建造物である 4 。
本報告書は、この丸亀城を単なる建築物としてではなく、歴史のダイナミズムの中に位置づけ、その本質的価値を解き明かすことを目的とする。特に「日本の戦国時代」という視座を基軸に据え、城が誕生する以前の讃岐国の権力闘争の力学、豊臣・徳川という中央政権の全国支配戦略の中での役割、そして近世城郭技術の発展史における位置づけを深く掘り下げる。さらに、明治維新後の変遷から、平成・令和の時代に直面した大規模な石垣崩落という試練、そして現在進行形で続く国家的な修復事業がもたらした新たな考古学的発見までを網羅する。
丸亀城の歴史は、築城、廃城、再興、完成、そして一部解体と崩落、再生という、複雑で多層的な変遷を辿ってきた。それは、戦乱の時代の軍事思想、泰平の世の統治理念、そして現代における文化財保護の挑戦という、各時代の精神を映し出す鏡でもある。以下の表は、その複雑な歴史を鳥瞰するための道標である。
表1:丸亀城 歴代主要城主と主な出来事年表
時代区分 |
西暦(和暦) |
主要城主/管理者 |
城に関する主な出来事 |
室町時代 |
応仁年間(1467-69)頃 |
奈良元安(細川氏家臣) |
亀山に砦を築く(丸亀城の創始) 2 |
安土桃山時代 |
慶長2年(1597) |
生駒親正・一正 |
高松城の支城として築城開始 9 |
安土桃山時代 |
慶長7年(1602) |
生駒親正・一正 |
築城開始から6年を経て、ほぼ現在の城郭が完成 10 |
江戸時代 |
元和元年(1615) |
生駒正俊 |
一国一城令により廃城となる 9 |
江戸時代 |
寛永17年(1640) |
(生駒氏改易) |
生駒騒動により、生駒氏が出羽国へ転封 10 |
江戸時代 |
寛永18年(1641) |
山崎家治 |
西讃岐領主となり、城の再興に着手 13 |
江戸時代 |
万治元年(1658) |
(山崎氏断絶) |
山崎氏が無嗣断絶により改易 10 |
江戸時代 |
万治元年(1658) |
京極高和 |
播磨龍野より入封し、丸亀藩主となる 2 |
江戸時代 |
万治3年(1660) |
京極高和 |
現在の天守(御三階櫓)が完成 6 |
江戸時代 |
延宝元年(1673) |
京極高豊 |
山崎氏の着手から32年の歳月を要し、大改修が完了 10 |
近現代 |
明治6年(1873) |
明治政府(陸軍省) |
廃城令により陸軍省管轄となる 10 |
近現代 |
明治9年(1876) |
明治政府(陸軍省) |
天守・大手門等を除く建物の解体開始 9 |
近現代 |
大正8年(1919) |
丸亀市 |
市が山上部を借地し、亀山公園として開設 10 |
近現代 |
昭和18年(1943) |
(国による指定) |
天守が国宝保存法に基づき旧国宝に指定 10 |
近現代 |
平成30年(2018) |
丸亀市 |
西日本豪雨等により南西部石垣が大規模崩落 8 |
この年表に刻まれた出来事の背後にある力学と意味を解き明かしながら、丸亀城が持つ重層的な価値を、戦国という時代の激動から現代の再生に至るまで、徹底的に論じていく。
丸亀城がその壮麗な姿を現す以前、城地である亀山が位置する讃岐国、特に西讃地域は、長きにわたる複雑な権力闘争の舞台であった。この地の歴史を理解することは、後に生駒親正がなぜこの地を重要拠点として選んだのか、その戦略的必然性を解き明かす鍵となる。
室町時代、讃岐国は足利一門の中でも管領を輩出する名門、細川京兆家の支配下に置かれていた 18 。細川氏は守護として讃岐を統治したが、その支配は直接的なものではなく、安富氏を東讃岐、香川氏を西讃岐の守護代に任じ、さらにその下に奈良氏のような国人衆を配置するという重層的な構造を採っていた 20 。この体制は、中央の権威が盤石である間は安定していたが、応仁の乱(1467-1477)を境に細川氏の権威が揺らぎ始めると、讃岐国内の在地勢力間の自立化と抗争が顕在化していく 21 。
丸亀城の歴史の淵源は、この室町時代中期にまで遡る。応仁・文明の乱の最中、讃岐守護であった細川勝元の家臣・奈良元安が、宇多津に聖通寺城を築いて本拠とし、その支城として亀山に砦を構えたのが始まりとされる 2 。生駒氏による本格的な築城の約150年も前に、この小高い丘が軍事拠点として着目されていたという事実は、極めて重要である。これは、亀山が単なる偶然で選ばれたのではなく、西讃岐平野を一望し、瀬戸内海航路にも近いという地理的優位性から、古くから地域の軍事地理学的な知見の中で要衝として認識されていたことを示唆している。奈良氏が構築した本城・支城という防衛ネットワークの思想は、後の生駒氏による高松・丸亀という二城体制の先駆けと見ることもでき、丸亀城の立地選定が、戦国時代を通じて蓄積された戦略的判断の延長線上にあったことを物語っている。
西讃岐において守護代として強大な力を有していたのが香川氏である。彼らは多度、三野、豊田の三郡(後に那珂郡を加えた四郡)を領し、有事の際の詰城として天霧城、平時の居館として多度津の本台山城を拠点としていた 20 。中央の細川氏の権威が低下するにつれ、香川氏は地域における自立性を強め、周辺勢力との覇権争いを繰り広げた。その一例が、天正3年(1575年)に起きた奈良氏への侵攻である。この年、中讃の那珂郡を領していた奈良氏の家臣である新目・本目・山脇の三氏が香川氏に寝返ったことを契機に、香川氏は奈良領へ攻め入り、奈良元政から那珂郡を奪い取っている 10 。これは、讃岐国内の在地勢力間の秩序が崩壊し、実力主義による下剋上の時代に突入していたことを示す象徴的な出来事であった。
16世紀後半、讃岐の在地勢力が内紛に明け暮れる中、南の土佐国から新たな脅威が迫っていた。土佐一国を統一した「土佐の出来人」、長宗我部元親である。
天正6年(1578年)頃から、長宗我部元親は阿波・伊予への侵攻と並行して、讃岐への攻撃を本格化させた 2 。その軍事力は、長年、細川氏や三好氏に従って畿内での戦いを経験してきたとはいえ、内紛で疲弊していた讃岐の国人衆が単独で対抗できる規模ではなかった 21 。元親は讃岐侵攻にあたり、讃岐を一望できる雲辺寺に登り、四国統一の野望を語ったと伝えられている 24 。
西讃岐屈指の豪族であった香川信景は、当初こそ抵抗を試みたものの、長宗我部氏の圧倒的な勢いの前に、最終的には降伏の道を選ぶ 23 。その際、元親の次男である親和を娘の養子として迎え入れ、家名の存続を図った 23 。西讃岐の最大勢力であった香川氏が恭順したことで、他の国人衆も次々と長宗我部氏に下り、西讃岐は元親の支配下に入った。このような在地勢力間の複雑な権力闘争と、それに伴う疲弊は、結果として長宗我部氏のような外部勢力の侵攻を容易にし、彼らの自立性を奪う遠因となった。
天正13年(1585年)、ついに四国を統一した長宗我部元親であったが、その覇権は長くは続かなかった。本能寺の変の後、天下統一を推し進める豊臣秀吉が、四国平定の大軍を派遣したのである 21 。秀吉の圧倒的な物量の前に元親は降伏し、土佐一国のみの安堵を余儀なくされた 23 。これにより、長宗我部氏に臣従していた香川氏をはじめとする讃岐の在地勢力は領地を失い、その多くが歴史の表舞台から姿を消した 13 。
この一連の出来事は、讃岐国における中世的な在地領主制の完全な終焉を意味した。在地勢力の自立性が失われ、中央集権化という大きな歴史の流れがこの地に及んだのである。この権力の再編こそが、中央から派遣された新たな領主、生駒親正による近世城郭・丸亀城の築城を準備する、直接的な政治的背景となった。丸亀城の誕生は、戦国動乱の終焉と、新たな支配秩序の確立を象徴する事業だったのである。
豊臣秀吉による四国平定は、讃岐国に新たな支配者をもたらした。それは、戦国時代を通じてこの地を治めてきた在地豪族ではなく、中央から派遣された豊臣恩顧の大名であった。丸亀城の歴史は、この新たな統治体制の確立とともに幕を開ける。
尾張国の出身で、織田信長、豊臣秀吉に仕えて武功を重ねた生駒親正は、天正15年(1587年)、秀吉より讃岐一国17万石余を与えられ、新たな領主として入府した 10 。大和国生駒庄をルーツに持つとされる生駒氏は、秀吉の側近として信頼が厚く、親正は後に秀吉から後事を託される三中老の一人に数えられるほどの重要人物であった 27 。彼の入府は、讃岐が豊臣政権の直接的な支配体制下に組み込まれたことを意味していた。
讃岐国に入った親正は、当初、東部の引田城を仮の居城としたが、手狭であったため宇多津の聖通寺城に移り、最終的には国のほぼ中央に位置し、瀬戸内海の海上交通の要衝でもある高松の地に、新たな本城として高松城の築城を開始した 6 。そして、慶長2年(1597年)、親正とその子・一正は、西讃岐地域の支配を確実なものとするための支城として、亀山に丸亀城の築城を開始したのである 9 。東西に細長い讃岐国を効率的に統治するため、東の高松と西の丸亀に拠点を置くこの二城体制は、極めて合理的かつ巧みな領域支配戦略であった。
慶長7年(1602年)に完成した初期の丸亀城は、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城に範をとり、城郭だけでなく武家屋敷や城下町までを堀や土塁で囲んで防御する「総構(そうがまえ)」の思想を取り入れていた 31 。これは、城が単なる軍事拠点ではなく、政治・経済の中心地としての機能も併せ持つ近世城郭の特徴である。前田育徳会尊経閣文庫や国会図書館には生駒氏時代の丸亀城絵図が残されており、それによれば、天守は現在の位置とは異なり、山上の最高所中央部に建てられていたとされる 9 。また、城の設計図である「縄張り」も現在とは異なっており、平成5年(1993年)の石垣修理の際には、現在の石垣に埋もれる形で生駒氏時代のものと推定される石垣が発見されている 9 。
関ヶ原の戦いにおいて、親正は西軍に、子の一正は東軍に属するという巧みな戦略で家名を保った生駒氏であったが 27 、徳川の世が盤石になると、その統治体制は大きな転換を迫られる。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した直後、徳川幕府は全国の大名の軍事力を削ぐため、「一国一城令」を発布した 11 。これにより、大名は居城以外のすべての城を破却することが義務付けられ、讃岐国では高松城が残され、丸亀城は廃城の対象となった 9 。当時の藩主・生駒正俊が、樹木を植えて城を隠し、破却を免れようとしたという伝承も残るが 16 、近年の研究では、この時期に破壊された石垣の痕跡が発見されており、令に従って実際に城の主要部分が解体・破棄されたと考えるのが妥当である 14 。
一国一城令によって一度は歴史から姿を消した丸亀城であったが、予期せぬ形で復活の機会が訪れる。四代藩主・生駒高俊の代に、家臣間の対立から大規模な御家騒動(生駒騒動)が勃発したのである 12 。藩主・高俊が藩政を顧みず遊興に耽る中、家老の前野助左衛門らと、譜代の家老である生駒帯刀らが激しく対立し、幕府に訴え出る事態に発展した 12 。最終的に幕府の裁定により、寛永17年(1640年)、生駒氏は讃岐17万石を没収され、出羽国矢島1万石へ改易となった 10 。
これにより讃岐国は幕府の管理下に置かれ、東西に分割されることとなった。そして西讃岐5万3千石の新たな領主として白羽の矢が立ったのが、因幡若桜城主であった山崎家治であった 13 。
山崎家治による丸亀城の再興は、単なる一藩の城の復旧事業ではなかった。その背景には、当時の徳川幕府が抱える国家的な安全保障上の課題が存在した。寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱は、キリシタン勢力の一揆が大規模な反乱に発展したもので、幕府に大きな衝撃を与えた 43 。この乱以降、幕府は西国におけるキリシタンの再蜂起や、毛利氏をはじめとする強力な外様大名への警戒を一層強める。この「西国鎮衛(さいごくちんえい)」、すなわち西日本の平定と監視という国家戦略の一環として、瀬戸内海の海上交通の要衝に、幕府の権威を象徴する強力な拠点を再構築する必要があったのである 45 。
一国一城令に反して丸亀城の再建が許可されただけでなく、幕府が家治に銀三百貫を与え、普請に専念させるために参勤交代を免除するという異例の支援を行った事実は、この事業が幕府の強い戦略的意図を帯びた国家プロジェクトであったことを物語っている 7 。
この幕府の期待に応えたのが、築城の名手として知られた山崎家治であった。近江の六角氏の家臣を祖に持つ山崎氏は、石垣技術に優れた石工集団を擁していたとされ、家治自身も因幡若桜城や肥後富岡城で堅牢な石垣を築いた実績があった 13 。家治は、廃城となっていた丸亀城跡に、その技術の粋を結集させ、現在我々が見る壮麗な高石垣を築き上げた。特に、三の丸から本丸にかけて幾重にも重なる高石垣と、その美しい曲線を描く「扇の勾配」は、この時代に完成したものであり、丸亀城の最大の特徴を決定づけた 10 。
しかし、この壮大な事業の完成を家治は見届けることができなかった。慶安元年(1648年)に家治は死去し、跡を継いだ子・俊家、孫・治頼も相次いで早世した 16 。そして万治元年(1658年)、三代・治頼がわずか8歳で亡くなったことにより、山崎氏は世継ぎがなく断絶(無嗣断絶)となり、改易されてしまった 14 。あまりにも立派な城を築いたことが幕府の警戒を招いたという説もあるが 13 、山崎氏の治世はわずか17年で幕を閉じた。
山崎氏の断絶後、丸亀の新たな城主として播磨国龍野より入封したのが、京極高和である。石高は6万石であった 2 。近江源氏の名門である京極氏は、以後、明治維新に至るまで7代、約210年間にわたり丸亀藩を安定的に治めることになる 2 。この長期にわたる統治の中で、丸亀城は軍事要塞としての性格に加え、藩政の中心地としての機能を成熟させていった。
京極高和は、山崎氏が進めていた築城事業を継承し、城の完成を目指した。その象徴が、万治3年(1660年)に完成した現在の天守である 2 。この天守は三層三階の小ぶりなものであるが、昭和25年(1950年)の解体修理の際に「万治三年」と記された木札が発見され、その建造年が確定している 14 。武家諸法度により新たな天守の建造は厳しく制限されていたため、この天守は幕府に対して「御三階櫓」として届け出られたのではないかと考えられている 14 。これは、規制を回避しつつも、城主の権威の象徴を確保しようとした当時の大名の知恵であった。
京極氏は、城の正面玄関である大手門を、それまでの南側から現在の北側に移設し、城の威容が最も美しく見えるように配慮した 10 。そして、二代高豊の代、延宝元年(1673年)には、山崎氏の着手から実に32年の歳月を経て、城郭全体の大改修が完了した 10 。安定した京極氏の治世のもとで城下町は大きく発展し、特筆すべきは「丸亀うちわ」の誕生と隆盛である。天明年間(1781-1789年)、藩の財政を補うため、藩士の内職としてうちわ作りが奨励された 57 。これが、当時全国から参拝客を集めていた金刀比羅宮の土産物として人気を博し、丸亀を代表する地場産業へと成長したのである 15 。
このように、丸亀城の歴史は、生駒氏による「領域支配の拠点」としての創建、山崎氏による幕府の威信をかけた「軍事的要塞」への再設計、そして京極氏による安定した「藩政の中心地」としての完成という、三つの異なる時代の目的が重層的に積み重なって形成された。その結果、丸亀城は多面的な性格を持つ、他に類を見ない城郭となったのである。
丸亀城は、その複雑な歴史だけでなく、近世城郭として到達した技術的・戦術的な完成度の高さにおいても特筆すべき価値を持つ。特に、その代名詞ともいえる石垣群と、計算し尽くされた縄張りは、城郭建築の粋を集めたものである。
丸亀城が「石垣の名城」と称される所以は、単にその高さだけにあるのではない。城内に用いられている石積みの技法が多岐にわたり、それぞれの技術が場所の重要度や築かれた時代に応じて意図的に使い分けられている点にある。その様相は、まさに「石垣技術の博物館」と呼ぶにふさわしい。
近世城郭の石垣は、石材の加工度によって大きく三種類に分類される。「野面積(のづらづみ)」は自然石をほぼ加工せずに積み上げる最も古い技法、「打込接(うちこみはぎ)」は石材の接合部や表面を槌で叩いて加工し、隙間を減らして積み上げる技法、そして「切込接(きりこみはぎ)」は石材を完全に方形に成形し、隙間なく積み上げる最も進んだ技法である 61 。
丸亀城では、これらの技法が見事に使い分けられている。城の正面玄関であり、来訪者に藩の権威を示す大手枡形の石垣には、最も格式の高い「切込接」が用いられ、寸分の狂いもない美しい石面を見せている 31。一方、城の大部分を構成する高石垣は、強度と経済性のバランスに優れた「打込接」で築かれており、実用的な堅牢さを誇る 65。そして、城内の一部には、より古い時代の「野面積」の石垣も残存しており 31、城を巡ることは、日本の石垣技術の発展史を体感することに等しい。
丸亀城の石垣を最も特徴づけているのが、三の丸北側などで見られる「扇の勾配」と呼ばれる優美な曲線である 7 。これは、石垣の裾は緩やかな勾配で始まり、上部に行くに従って徐々に角度を増し、最上部ではほぼ垂直に立ち上がるという、高度な設計思想に基づいている。この構造は、加藤清正が築いた熊本城の「武者返し」と軌を一つにするもので、二つの重要な機能を持つ。
第一に、防御機能である。緩やかに見える下部は敵兵を誘い込むが、登るにつれて急になる勾配は体力を奪い、最終的には垂直の壁が登攀を物理的に不可能にする 68。第二に、構造力学的な安定性である。石垣の自重と背後の土圧を、この曲線によって巧みに分散させ、地盤へと伝えることで、20mを超える高石垣の構築を可能にしている。この難攻不落の防御力と構造的な合理性、そして見る者を魅了する曲線美の融合は、近世城郭石垣技術の一つの到達点を示している。
高石垣の強度を確保する上で、最も脆弱な部分は角の部分(隅角部)である。丸亀城では、この隅角部の強度を飛躍的に高めるため、「算木積(さんぎづみ)」という技法が全面的に採用されている 2 。これは、直方体に加工した石材の長辺と短辺を、互い違いになるように積み上げていく技法である。これにより、上下の石が強固に噛み合い、隅角部が一体化することで、地震や土圧に対しても崩れにくい、極めて堅牢な構造が生まれる。丸亀城の美しい石垣の稜線は、この算木積という高度な技術によって支えられているのである。
丸亀城の防御思想は、個々の石垣や門の堅固さだけに留まらない。城全体の設計、すなわち「縄張り」において、敵兵を消耗させ、殲滅するための巧妙な戦術思想が貫かれている。
丸亀城の縄張りは、亀山の地形を活かし、本丸を最高所に置き、二の丸、三の丸がそれを取り囲むように渦巻き状(螺旋状)に配置される「渦郭式(かかくしき)」を基本としている 2 。また、標高差を利用して曲輪を階段状に配置する「階郭式(かいかくしき)」の要素も併せ持つ 5 。
この縄張りの下では、攻め手が本丸に到達するためには、城山をぐるぐると回りながら登らざるを得ない 76。大手門から本丸へと続く急な「見返り坂」 77 をはじめとする登城路は、常に上段の曲輪に築かれた櫓や塀の狭間からの側面攻撃(横矢掛かり)に晒されることになる。敵兵は、長い距離を登らされ、絶え間ない攻撃を受けることで、本丸にたどり着く前に消耗し、士気を削がれる。城全体が、敵を誘い込み、疲弊させ、最終的に殲滅するための巨大な罠として設計されているのである。
城の正面玄関である大手門は、近世城郭の防御思想を体現する鉄壁の構造となっている。まず、外側の「大手二の門」は高麗門形式であり、これを突破した敵は、石垣に囲まれた四角い空間、すなわち「枡形(ますがた)」に進入する 1 。この空間で動きを封じられた敵に対し、周囲の石垣の上や、内側の「大手一の門」の櫓から矢や鉄砲による集中攻撃が加えられる。
大手一の門は、重厚な櫓門であり、当時は太鼓を鳴らして時を知らせたことから「太鼓門」とも呼ばれる 2。その櫓の内部には、床板の一部が取り外せるようになっており、真下の敵に石や熱湯などを落として攻撃する「石落とし」の仕掛けが備えられていた 78。このように、二重の門と枡形を組み合わせることで、敵の侵攻を段階的に阻止し、撃退する巧妙な防御システムが構築されていた。
山頂に聳える天守は、現存十二天守の中では最も小規模なものであるが 2 、その内部には実戦を想定した数々の防御上の工夫が凝らされている。天守北面の一階には、壁から張り出して真下の石垣を攻撃できる「石落とし」が設けられ、壁には三角形の鉄砲狭間や長方形の矢狭間が多数穿たれている 14 。また、壁の構造は、土壁を二重に重ねて防弾性を高めた「太鼓壁(たいこかべ)」となっており、鉄砲による攻撃への備えも万全であった 14 。
さらに、創建当初、天守は独立して建っていたわけではなく、西側にあった二重の姫櫓と多聞櫓(長屋状の防御施設)によって連結されていた 14。これにより、敵は天守に直接侵入することができず、複雑な経路を通らなければならなかった。小さいながらも、その防御機能は決して疎かにされておらず、城の中枢を守る最後の砦としての役割を十分に果たしうる構造であった。
江戸時代の終焉とともに、丸亀城は藩政の中心地としての役割を終えた。しかし、その歴史は終わることなく、近代化の波、文化財としての再評価、そして未曾有の自然災害という新たな試練を経て、現代に至るまで紡がれ続けている。
明治維新後の版籍奉還により、丸亀城は明治2年(1869年)に新政府の所管となり、明治6年(1873年)の廃城令を受けて陸軍省の管轄下に置かれた 2 。これにより、城は軍事施設としての価値を失い、明治9年(1876年)から翌年にかけて、天守、大手一の門・二の門、藩主玄関先御門などを除く、山上・山麓の多くの櫓や多聞、城壁が次々と解体されていった 5 。往時の壮麗な城郭建築群の多くが、この時に失われたのである。しかし、天守と大手門が解体を免れた背景には、旧丸亀藩士たちがその保存を強く懇願したという逸話が伝えられており、当時から城が地域の人々にとって特別な存在であったことを示している 16 。
軍用地となった後も、城跡の荒廃を憂いた丸亀市は、大正8年(1919年)、山上部を陸軍から借地し、「亀山公園」として整備、一般に開放した 10 。これにより、丸亀城はかつての威圧的な権力の象徴から、桜の名所として、また市民が歴史に親しむ憩いの場へとその役割を大きく変えた。昭和8年(1933年)には、城下にあった旧藩主京極家の別邸・延寿館が三の丸に移築されるなど、文化的な活用も進められた 10 。
昭和に入ると、丸亀城の持つ歴史的・建築的価値が全国的に再評価されるようになる。昭和18年(1943年)、天守が国宝保存法に基づき旧国宝に指定されたのを皮切りに、戦後の文化財保護法のもと、昭和28年(1953年)には城跡が国の史跡に、昭和32年(1957年)には大手一の門と大手二の門が国の重要文化財に指定された 8 。これらの指定は、丸亀城が単なる地域のシンボルではなく、国民全体の共有財産として保護・継承していくべき貴重な文化遺産であることを公的に認めるものであった。
泰平の世を謳歌してきた丸亀城であったが、平成30年(2018年)、未曾有の試練に見舞われる。7月の西日本豪雨やその後の台風24号の影響により、城の南西部に位置する帯曲輪(おびぐるわ)石垣と三の丸坤櫓(ひつじさるやぐら)跡石垣が、相次いで大規模に崩落したのである 8 。日本一と謳われた石垣が無残に崩れ落ちた光景は、市民のみならず全国に大きな衝撃を与えた。
この大規模な崩落を受け、丸亀市は国や県の支援のもと、石垣の全面的な復旧事業に着手した。しかし、その道のりは困難を極めた。当初の想定をはるかに超える範囲で石垣の解体が必要となり、地中からは未知の構造物も発見されたため、積み直すべき石材の数は約1万1600個に倍増した 82 。これにより、復旧完了の目標は当初の2024年3月から2028年3月へと延長され、総事業費も約52億5千万円に膨れ上がった 82 。
この壮大な復旧事業は、単に石を元に戻す作業ではない。崩落原因を徹底的に科学分析し、二度と崩れない石垣を築くため、排水構造の改善など現代の土木工学の知見が導入されている 87。さらに、6000個を超える石材を元の位置に正確に戻すため、顔認証技術を応用したコンピューターのマッチングシステムが採用されるなど、最先端のIT技術も活用されている 88。これは、文化財の保存が、伝統的な職人技と最新科学技術の融合によって成し遂げられる現代の象徴的な事業であることを示している。丸亀城の修復現場は、文化財保護の最前線であり、未来の世代にこの貴重な遺産を確実に引き継ぐための壮大な挑戦の場となっている。
この石垣崩落という悲劇は、図らずも丸亀城の知られざる歴史を明らかにする契機となった。崩落した石垣を解体・撤去する過程で、その内部から、江戸時代に築かれ、その後の修復工事によって意図的に埋められたと考えられる「埋没石垣」が発見されたのである 85 。
丸亀市教育委員会による発掘調査報告によれば、この埋没石垣の存在は、三の丸周辺の石垣が過去にも崩落し、その度に修復が繰り返されてきたという文献記録を物理的に裏付けるものであった 89。この発見は、丸亀城の石垣が一度完成して以来、静的に存在し続けてきたのではなく、幾度もの崩壊と修復を乗り越えてきた動的な存在であったことを示している。災害が、図らずも城の歴史という「タイムカプセル」を開け、我々の歴史認識を更新する貴重な考古学的機会を提供したのである。この埋没石垣が、一国一城令による破却の痕跡なのか、あるいは山崎氏による再建以前の修復の跡なのか、その詳細な分析は現在も続けられており、今後の研究成果が待たれる 90。
讃岐国・丸亀城の歴史は、戦国時代の動乱の中で産声を上げ、近世を通じて統治の拠点として完成し、近代以降は地域の象徴として愛され、そして現代において未曾有の災害と再生を経験するという、四百数十年にわたる壮大な物語である。
石垣の崩落と、それに続く国家的な復旧事業という試練は、丸亀城が単なる観光地や過去の遺物ではなく、地域のアイデンティティの核であり、日本の歴史と築城技術の変遷を体現する、かけがえのない文化遺産であることを改めて我々に認識させた。復旧現場で活用される最新の科学技術と、それを支える人々の情熱は、文化財の保護が過去を守るだけの行為ではなく、未来へと価値を継承していく創造的な営みであることを示している。
また、丸亀城の魅力は、検証可能な史実だけに留まらない。その壮大な石垣を築いたとされる名石工・羽坂重三郎が、その技術を恐れた城主によって井戸に生き埋めにされたという悲劇の伝説 10 や、難工事の際に人柱にされたという豆腐売りの哀話 10 は、この城が人々の記憶の中でいかに深く根付いているかを物語っている。これらの伝説は、石垣の一つ一つに込められた人々の労苦や想いを想像させ、城の歴史に人間的な深みと彩りを与えている。
現在進行中の修復事業が完了した時、丸亀城はその物理的な威容を取り戻すだけでなく、新たな物語をその歴史に刻むことになるだろう。それは、災害を乗り越え、伝統と革新の融合によって再生を遂げた、21世紀の文化遺産継承の物語である。史実と伝説、そして現代の挑戦が織りなすこの石の城は、これからも讃岐の地に聳え立ち、未来の世代へとその重厚な歴史を語り継いでいくに違いない。