最終更新日 2025-08-21

二条城

足利義昭の二条城は、織田信長が築きし将軍の居城。室町幕府終焉の舞台となり、信長の権威を示す象徴であったが、後に解体され安土城へ。

戦国の権力闘争と室町幕府の終焉:足利義昭の二条城に関する総合研究

序章:歴史の交差点としての「二条城」

日本の歴史において「二条城」という名称は、単一の城郭を指すものではない。時代や築城主によって、異なる場所に複数の「二条城」が存在した事実は、歴史理解の上でしばしば混乱を招く要因となっている 1 。室町幕府13代将軍・足利義輝の御所、15代将軍・足利義昭のために織田信長が築いた城、信長自身の宿所であった二条新御所、そして現在世界遺産として知られる徳川家康の二条城など、その系譜は多岐にわたる 3

本報告書が主題とするのは、これらのうち、永禄12年(1569年)に織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城として築き、元亀4年(1573年)に室町幕府が事実上終焉を迎える直接の舞台となった城郭である。この城は、徳川家康による二条城と区別するため、今日では一般に「旧二条城」あるいは「二条古城」と呼称される。この旧二条城は、単に歴史上の一場面の背景として存在したのではない。それは、戦国時代の激しい権力闘争の力学、城郭建築における革新性の発露、そして230年以上にわたって続いた室町幕府の終焉という、歴史的転換点のすべてを凝縮した、極めて象徴的な建造物であった 6

本報告書の議論を円滑に進めるため、まず歴史上に現れた主要な「二条城」を以下の表に整理し、それぞれの位置づけを明確にする。

名称(通称)

築城年(推定)

築城主

主な使用者

所在地(推定含む)

主な出来事

現状

①足利義輝の二条御所 (武衛陣)

1559年

足利義輝

足利義輝

京都市上京区(平安女学院付近)

永禄の変(1565年)で義輝が討死、焼失

石碑

②足利義昭の二条城 (旧二条城)

1569年

織田信長

足利義昭

京都市上京区(①を拡張)

二条御所の戦い(1573年)、室町幕府の終焉

石碑、復元石垣

③織田信長の二条新御所

1579年

織田信長

誠仁親王、織田信忠

京都市中京区二条殿町

本能寺の変(1582年)で信忠が自刃

跡地を示す石碑

④豊臣秀吉の妙顕寺城

1583年

豊臣秀吉

豊臣秀吉

京都市上京区(妙顕寺跡地)

京都における秀吉の拠点

遺構なし

⑤徳川家康の二条城 (元離宮二条城)

1603年

徳川家康

徳川将軍家、皇室

京都市中京区二条城町

大政奉還(1867年)の舞台

現存(世界遺産)

本報告書は、上記表中の②「足利義昭の二条城」に焦点を絞り、その建設前史から築城、政治的機能、落城と幕府滅亡、そして城の解体と現代に残る痕跡に至るまで、その全史を多角的な視点から徹底的に考究するものである。

第一章:前史 ― 武衛陣の地に立つ将軍邸

斯波氏邸宅「武衛陣」の歴史的価値

足利義昭の旧二条城が築かれた土地は、もともと室町幕府において管領を輩出した名門、斯波氏の邸宅があった場所である 8 。この邸宅は「武衛陣(ぶえいじん)」と称された 3 。「武衛」とは、天皇を警護する兵衛府(ひょうえふ)の唐名(中国風の呼称)であり、斯波氏が代々その長官である兵衛督(ひょうえのかみ)を務めたことに由来する。このことからも、この土地が古くから京都における武家の権威と深く結びついた場所であったことがわかる。

13代将軍・足利義輝の御所と「永禄の変」

戦国時代の動乱の中、斯波氏の権勢が衰えると、この武衛陣の地は室町幕府第13代将軍・足利義輝の手に渡る 3 。義輝はここに御所を構え、失墜した将軍権威の回復を目指し、幕府の政庁として機能させた 2 。しかし、その試みは永禄8年(1565年)、戦国の梟雄・松永久秀と三好三人衆が共謀したクーデター「永禄の変」によって無残に打ち砕かれる。義輝は奮戦の末に殺害され、壮麗であったはずの御所も炎に包まれ焼失した 11

この悲劇により、武衛陣の地は単なる武家屋敷跡ではなく、「将軍権威の失墜と、その再生への渇望」を象徴する、極めて政治的な記憶を宿す場所となった。

場所の選定に込められた政治的意図

永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、翌年、義昭のための新たな城を築くにあたり、あえてこの因縁の地を選定した。この選択は、単なる地理的な利便性や地勢の観点からなされたものではない。そこには、信長の高度な政治的計算が働いていた。

第一に、兄・義輝が非業の死を遂げた場所に、弟である義昭のために、以前とは比較にならないほど堅固で壮麗な城郭を建設することは、「松永久秀らによって簒奪された将軍の権威を、この織田信長の力によって再興する」という、天下に対する強力な政治的メッセージとなった。それは、信長が単なる一介の戦国大名ではなく、天下の秩序を回復する者としての正統性をアピールする絶好の機会であった。

第二に、それは新将軍・足利義昭に対する無言の圧力でもあった。義昭の権威は、兄の死という悲劇の上に、信長の武力によってのみ再建されたものであることを、この城の存在そのものが常に示し続ける。義昭は、この城に住まう限り、信長への依存から逃れることはできない。このように、旧二条城の場所の選定は、過去の歴史的記憶を巧みに利用し、内外に自らの力を誇示すると同時に、擁立した将軍を巧みに制御しようとする、信長の卓越した政治的演出であったと結論付けられる。

第二章:天下布武の城 ― 織田信長による築城

築城の直接的契機:本圀寺の変

足利義昭は、信長と共に上洛した当初、仮の御所として京の六条にある本圀寺(ほんこくじ)に入っていた 8 。しかし、永禄12年(1569年)1月、信長が美濃へ帰国した隙を突いて三好三人衆の残党が本圀寺を急襲する事件が発生する(本圀寺の変) 8 。この襲撃は明智光秀らの奮戦により撃退されたものの、将軍の座所がいかに脆弱であるかを白日の下に晒す結果となった。この事件は、将軍の身辺の安全を確保し、その権威を揺るぎないものとするためには、防御機能に優れた本格的な城郭の建設が喫緊の課題であることを、信長と義昭の双方に痛感させたのである。

築城の概要と驚異的な工期

本圀寺の変の直後、信長は義昭のための新城建設に乗り出す。永禄12年(1569年)2月、信長は自ら普請の総指揮を執り、畿内をはじめとする11ヶ国の大名に人員の動員を命じた 11 。この築城の様子を間近で見ていたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、この城がわずか70日間という驚異的な短期間で完成したと記録している 11

この神速ともいえる工期を実現できた背景には、いくつかの要因がある。第一に、建物の多くを仮御所であった本圀寺から移築するという合理的な工法が採用されたこと 11 。第二に、兄・義輝の御所の遺構を基礎として利用できたこと 11 。そして何よりも、信長が有していた絶大な動員力と、諸大名を統率する卓越した指揮能力の証左であった。

城の構造と先進性

完成した城は、単なる邸宅(御所)の域を遥かに超えるものだった。発掘調査と文献史料によれば、約400メートル四方の敷地を二重、あるいは三重の堀が囲み、高く堅固な石垣が築かれていた 5 。さらに城内には、三重の「天主(てんしゅ)」、すなわち後の天守閣の原型となる高層建築が聳えていたと記録されている 5

これは、当時の日本の城郭建築において極めて先進的な構造であった。戦国時代の城は、依然として山城に代表されるような防御本位の軍事施設が主流であった。そのような中で、信長は政治の中心地である京都の市中に、強固な防御機能と、権威を視覚的に誇示する壮麗な高層建築を融合させたのである。この旧二条城の構造は、信長が後に安土城で完成させる「見せるための城」「権威を象徴する城」という、近世城郭の思想的・技術的なプロトタイプ(原型)であったと評価できる 14 。それは、来るべき天下統一の時代における、新たな権力者の拠点のあり方を予見させるものであった。

石仏・墓石の転用とその思想

この築城において特筆すべきは、石垣の石材の調達方法である。1970年代以降の発掘調査により、石垣の中から多数の石仏、五輪塔(供養塔)、石臼などが発見された 13 。これは、信長が短期間で大量の石材を確保するため、洛中の寺社や墓地から構わず石材を徴発したことを示す物証である 17

この行為は、単なる資材不足への合理的な対応という側面だけでは説明できない 18 。そこには、信長の思想が色濃く反映されている。仏や先祖を祀る神聖な石を踏みつけ、自らの城の土台とすることは、既存の宗教的権威や伝統的価値観を破壊し、自らが打ち立てる世俗の権力がそれに優越することを示す、極めて意図的なパフォーマンスであった。旧二条城の石垣は、信長の徹底した合理主義と、旧来の権威に対する挑戦的な姿勢を、今日にまで雄弁に物語る遺構なのである。

第三章:蜜月から対立へ ― 将軍と天下人の確執

初期における協力と相互利益

旧二条城が完成した当初、将軍・足利義昭と後見人・織田信長の関係は、相互の利益が一致した協力関係、いわば蜜月状態にあった 2 。義昭は信長の強大な軍事力を後ろ盾として、失墜した将軍権威を回復し、幕府政治の再興を目指した。一方、信長は「将軍を奉じる」という大義名分を得ることで、畿内への進出と天下統一事業を正当化し、他の戦国大名に対して優位に立つことができた 19 。この城は、まさにその協力関係の象徴として聳え立っていた。

将軍権力への介入と亀裂の顕在化

しかし、この均衡は長くは続かなかった。信長の真の目的は幕府の再興ではなく、自らの実力による天下統一にあった。彼は次第に、義昭を自らの意のままに動く傀儡として扱おうとし始める。その意図が明確に表れたのが、永禄12年(1569年)に義昭に対して突きつけた「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」(五ヶ条条書)であり、さらに元亀3年(1572年)の「異見十七カ条」であった 20

これらの文書は、諸大名への命令は必ず信長の許可を得ること、幕府の人事に信長が介入することなどを定めており、将軍の権限を著しく制限するものであった 20 。これは、室町将軍としての自負を持つ義昭にとっては到底受け入れがたい屈辱であり、信長に対する不信感と反発を決定的なものにした 21

この両者の対立は、単なる個人的な感情のもつれではない。それは、将軍を頂点とする伝統的な幕府―守護体制という「旧来の権威秩序」と、実力のみが支配する「新たな天下統一」という、二つの異なる政治システムの衝突であった。旧二条城という物理的な空間は、当初はこの両者の思惑が共存する場であったが、信長が城の内実、すなわち政治的権限を掌握しようとしたことで、その共存は崩壊した。城の真の「主」は誰なのかという問題が、両者の間で先鋭化していったのである。

信長包囲網の形成と義昭の決意

信長の急速な勢力拡大は、周辺の戦国大名たちに強い危機感を抱かせた。義昭は、この状況を好機と捉え、将軍が持つ伝統的な権威を利用して、反信長勢力の結集を画策する。甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、さらには石山本願寺や比叡山延暦寺といった宗教勢力に至るまで、各地の有力者に密かに御内書(将軍の命令書)を送り、反信長連合、いわゆる「信長包囲網」の形成を主導したのである 23

特に、元亀3年(1572年)10月、信玄が義昭の要請に応えて大軍を率いて西上作戦を開始し、同年12月の三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康を完膚なきまでに打ち破ったことは、義昭に「信長打倒」の好機到来と決意させるに十分な出来事であった 23 。信玄という最強の武力を得た義昭は、ついに信長との全面対決へと踏み出すことになる。

第四章:元亀四年の攻防 ― 二条御所の戦いと幕府の終焉

義昭の挙兵と二条城籠城

元亀4年(1573年)2月、武田信玄の優勢を背景に、足利義昭はついに反信長の旗幟を鮮明にし、近江の幕府軍に蜂起を命じるとともに、自らは旧二条城に立て籠もった 25 。この城は、かつて信長が義昭のために築いた権威の象徴であったが、今や信長に反旗を翻す拠点へとその性格を変えたのである。

信長軍による包囲と朝廷工作

義昭挙兵の報を受けた信長は、驚くべき速さで行動を開始する。岐阜から大軍を率いて上洛すると、同年3月末には京に到着し、ただちに二条城を包囲した 26 。信長は城の周囲に複数の砦を築いて兵糧道を遮断し、物理的な圧力を加える一方で、上京の町に火を放ち、義昭側に心理的な動揺を与える戦術も用いた 26

しかし、信長の戦略は単なる武力行使に留まらなかった。彼は、この戦いを単なる武家同士の私闘に終わらせず、自らの行動を正当化するための政治工作を展開する。信長は朝廷に働きかけ、正親町(おおぎまち)天皇から和睦を勧告する勅命を出させたのである 26 。これは、義昭の反乱を「朝廷の和平命令に背く逆賊」という構図に転換させる、極めて巧みな戦略であった。これにより、信長は自らの軍事行動に絶対的な大義名分を与え、将軍としての義昭の権威を根本から無力化することに成功した。

一時講和と幕府の事実上の終焉

城内の兵の戦意が低下し、天皇からの勅命という抗いがたい権威の前に、義昭は進退窮まった。同年4月、彼はついに和睦勧告を受け入れ、信長との間に一時的な講和が成立する 26 。しかし、信長は講和成立後、義昭に謁見すらせずに岐阜へと帰還した 26 。この態度は、両者の関係がもはや修復不可能であることを内外に示すものであった。

講和後も抵抗の意思を捨てない義昭は、二条城を出て宇治川のほとりにある槇島城(まきしまじょう)に移り、再び挙兵を試みる 11 。だが、同年7月、信長はこれを討つべく総勢7万ともいわれる大軍を派遣。圧倒的な兵力差の前に槇島城はあえなく落城し、義昭は降伏した 27

信長は義昭の嫡子を人質に取り、彼を京から追放した 24 。これにより、室町幕府は名実ともにその中枢を失い、1336年の足利尊氏による開幕以来、237年間にわたる歴史に事実上の終止符を打ったのである 6 。旧二条城での籠城戦は、室町幕府がその命脈を絶たれる最後の舞台となった。

第五章:破却と転生 ― 城の解体と安土城への遺産

義昭追放後の城の運命と段階的解体

足利義昭が京を追放された後、旧二条城は主を失った。信長はまず、城内の殿舎など主要な建物を破却したが、門や石垣、堀といった城郭の骨格は当初そのまま残されていた 11 。この背景には、信長が義昭との和解の可能性を完全には捨てておらず、将来的に彼を再び京に迎え入れるための布石であったとする見方がある 11

しかし、天正4年(1576年)、追放された義昭が備後国(現在の広島県)の鞆(とも)に下り、毛利輝元を頼って亡命政権(鞆幕府)を樹立するに及んで、信長は義昭との和解が不可能であると判断。旧二条城の完全な解体へと舵を切った 11

信長の命令により、城の堀は上京の人々によって埋め立てられ、壮麗であった石垣は、誰でも持ち帰ってよいとされ、民衆による略奪に任せられた 11 。これは、単なる城の破却に留まらず、京都の地から室町幕府の権威の痕跡を物理的、かつ民衆の記憶からも消し去ろうとする、信長の強い政治的意志の表れであった。

部材の安土城への転用という象徴的行為

解体された旧二条城の部材のうち、特に天主や門、良質な木材などは、当時信長が琵琶湖のほとりに築城中であった新たな本拠・安土城へと運ばれ、その建築資材として再利用されたと伝えられている 3

この行為は、物理的な資源のリサイクルであると同時に、極めて象徴的な意味を持つ儀式であった。それは、旧時代の権威の象徴(旧二条城)を解体し、その「遺骸」ともいえる部材を、新時代の権力の象TAIN(安土城)を構築するための「血肉」とする行為に他ならない。旧二条城の天主が安土城の一部として生まれ変わることは、「私が旧将軍の権威を打ち破り、その力を吸収し、さらに偉大なものとしてここに新たな権力の中心を創造した」という物語を天下に示す、壮大なパフォーマンスであった。信長が単なる武将ではなく、自らの権力を象徴的に演出し、物語化することに長けた、稀代の為政者であったことをこの事実は示している。

第六章:地下からの証言 ― 考古学が解き明かす旧二条城

発掘調査の経緯と成果

信長によって地上から姿を消した旧二条城は、長らく文献史料の中にのみ存在する「幻の城」であった。しかし、昭和50年(1975年)から昭和53年(1978年)にかけて行われた京都市営地下鉄烏丸線の建設工事に伴う事前発掘調査によって、その姿が400年の時を経て再び地上に現れた 4

烏丸通の地下から、東西方向に延びる大規模な堀の跡と石垣が4箇所で発見されたのである 4 。この発見は、フロイスの『日本史』や『言継卿記』といった文献史料の記述が、歴史的事実であったことを科学的に裏付ける画期的な成果であった。発掘調査の結果、城の規模は一辺が二町(約220メートル)を超える広大なものであり、堀は水堀で、幅約11メートル、深さ3メートルにも及ぶ堅固なものであったことが判明した 12

出土遺物が語る真実

発掘された石垣からは、記録の通り、多数の石仏や五輪塔、墓石などが転用されているのが確認された 13 。これらの石仏の実物を目にすることは、信長の合理主義と旧権威への挑戦的な姿勢を、文字で読むのとは全く異なる次元で、生々しく体感させる力を持つ。京都市埋蔵文化財研究所などによる継続的な調査で出土した瓦や土器類は、当時の城の様子や人々の生活を復元する上で貴重な手がかりを提供している 30

このように、考古学的発見は、旧二条城に関する歴史的記述を「物語」から「実証された事実」へと昇華させ、我々の歴史理解に物理的なリアリティと確固たる根拠を与えたのである。

現代に残る痕跡を訪ねて

今日、旧二条城の存在を偲ぶことができる場所がいくつか存在する。

まず、城の中心地であったと推定される平安女学院大学の敷地の一角には、「旧二條城跡」と刻まれた石碑が建てられている 10

さらに、地下鉄工事で発掘された石垣の一部は、保存のために移設・復元されている。その一つは、京都御苑の南西部、下立売御門の内側(榎木口付近)にあり、当時の石垣の姿を間近に見ることができる 13 。もう一つは、徳川家康が築城した現在の二条城内に移されており、時代の異なる二つの「二条城」の遺構が一堂に会する興味深い場所となっている 8 。これらの断片的な痕跡は、かつてこの地に存在した壮大な城郭と、そこで繰り広げられた歴史の激動を静かに物語っている。

終章:失われた城の歴史的意義

足利義昭の旧二条城は、物理的には地上から完全に姿を消した「失われた城」である。しかし、その歴史的意義は決して失われてはいない。

第一に、この城は室町幕府滅亡の象徴である 7 。将軍権威の回復という希望を託されて築かれながら、わずか4年後にはその将軍が立て籠もり、幕府終焉の直接の舞台となるという皮肉な運命を辿った。その栄華と悲劇は、一つの時代が終わり、新たな時代が到来する歴史の転換点を凝縮している。

第二に、旧二条城は織田信長の城郭建築における先駆性を体現している。防御一辺倒であった中世の山城から、政治的中心地としての機能と権威の象徴性を併せ持つ近世城郭へと移行する、その過渡期に位置する極めて重要な遺構である 14 。ここで試みられた天主や高石垣といった要素は、後の安土城で結実し、日本の城郭史に大きな影響を与えた。

第三に、徳川家康が築いた現存の二条城との比較は、時代の価値観の変遷を鮮やかに映し出す。戦乱の最中に築かれ、戦闘の末に短命に終わった旧二条城が「戦うための城」であったのに対し、天下泰平の世の到来を告げ、儀礼と統治の舞台として長きにわたり機能した徳川の二条城は「治めるための城」であった 35 。この対比は、戦国から江戸へと移行する日本の社会構造そのものの変化を物語っている。

結論として、足利義昭の旧二条城は、たとえその物理的な姿を失ったとしても、石碑や復元石垣、そして地下に眠る遺構を通じて、日本の歴史における最も重要な転換点の一つを今日に伝え続ける、かけがえのない歴史遺産なのである。

引用文献

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