陸奥国南東部、阿武隈川が太平洋へと注ぐ広大な沖積平野に、亘理城は位置する。その歴史を紐解くことは、戦国時代末期から江戸時代にかけての奥州、とりわけ伊達氏の興亡と領国経営の変遷を理解する上で不可欠である。この城が歴史の表舞台に登場した背景には、単なる偶然ではなく、この地が有する地理的優位性と戦略的価値という必然性が存在する。
亘理の地は、古代より阿武隈川がもたらす水運と、太平洋沿岸を結ぶ陸上交通が交差する結節点として、経済的・政治的に重要な役割を担ってきた 1 。その重要性は、律令時代にこの地に亘理郡の郡家(役所)が置かれていたことからも窺い知ることができる 2 。阿武隈川を通じて内陸の物資が集積し、海を通じて外部世界と繋がるこの地は、地域の支配者にとって常に掌握すべき要衝であった。
時代が下り、戦国乱世の渦中において、亘理の戦略的価値は一層高まる。奥州に覇を唱えんとする伊達氏と、浜通りに強固な地盤を築く相馬氏という二大勢力が、この地を挟んで激しく対峙したからである 3 。亘理は、伊達領の南東端に位置し、相馬領との境界線が引かれる最前線であった 4 。ここでの一進一退は、両家の勢力図を直接左右する。したがって、亘理城の存在は、伊達氏の対相馬戦略における、まさに敵の喉元に突きつけられた楔であり、領国を守るための防衛線そのものであった。
この地の重要性は、軍事的な側面に留まらない。阿武隈川の河口を支配することは、伊達領の経済生命線を掌握することを意味した。内陸からの年貢米や特産品を江戸や上方の市場へ送るための積出港として、また、外部からの物資(特に塩や鉄など)を受け入れる玄関口として、その経済的価値は計り知れない。伊達氏にとって、亘理を確保することは、相馬氏への軍事的圧力を維持すると同時に、領国経済の動脈を確保するという、軍事と経済の両面から不可欠な戦略だったのである。
亘理城は、その地形が牛の臥せた姿に似ていることから「臥牛城」という雅称を持つ 6 。これは、阿武隈山地の支脈である亘理丘陵から東の平野部へ向かって舌のように突き出した、比高約10メートルの舌状台地の先端に築かれていることに由来する 8 。平地にありながらも、周囲より一段高いこの地形は、防御拠点として理想的であった。三方を低湿地に囲まれ、特に西側にはかつて大沼と呼ばれる広大な沼沢地が広がり、天然の巨大な堀として機能していた 8 。この地形的利点を最大限に活かすことで、亘理城は平城の利便性と山城の堅固さを兼ね備えた「平山城」としての性格を有し、奥州の要衝たるにふさわしい城郭となったのである。
亘理城が歴史にその姿を現す以前、この地には中世以来の豪族・亘理氏が根を張っていた。彼らの動向と、新たな城の築城に至る背景こそが、亘理城の物語の序幕を飾る。
亘理城が築かれるまで、亘理氏の本拠は南西約500メートルに位置する小堤城であった 6 。現在の大雄寺がある小高い丘がその跡地とされ、鎌倉時代に千葉常胤の子孫である武石氏がこの地に入り亘理氏を名乗って以来の拠点であった 8 。発掘調査や地形から、小堤城は土塁と堀で囲まれた方形館形式の、典型的な中世の城館であったと推測されている 1 。この城は、在地領主としての亘理氏の長い歴史を象徴する場所であった。
戦国時代に入り、亘理氏は伊達氏の勢力下に組み込まれていく。第16代当主・亘理宗隆には後継者がおらず、伊達氏第14代当主・稙宗の十二男が養子として迎えられた。これが亘理元宗である 4 。天正年間(1573年~1592年)、元宗は従来の小堤城から拠点を移し、新たに亘理城を築城した 6 。伊達一門の重鎮として、元宗は主君である伊達輝宗・政宗父子を軍事・外交の両面から支え、特に長年の宿敵である相馬氏との戦いにおいては常に最前線に立った 4 。
小堤城から亘理城への移転は、単なる居城の引っ越しではない。それは、戦国時代の戦闘様式の変化と、伊達氏の領国拡大戦略に対応するための必然的な選択であった。中世的な防御施設である小堤城では、激化する相馬氏との大規模な合戦に対応するには不十分となっていた。より広大で防御機能に優れた、近世城郭への過渡期的な城を新たに築くことで、対相馬戦線の司令部機能を強化する必要があったのである 4 。亘理城の築城は、伊達氏の東方への勢力拡大政策と密接に連動した、戦略的な一手であった。
しかし、亘理氏がその名を冠した地を治めた期間は、築城後、奇しくも短いものであった。天正18年(1590年)の小田原征伐を経て、天下人となった豊臣秀吉は、翌天正19年(1591年)に奥州仕置を断行する 15 。これにより奥州の勢力図は一変し、伊達政宗は大幅な減封の上、米沢から葛西・大崎の旧領へと本拠を移された 16 。
この伊達領内の大変革に伴い、大規模な家臣団の知行再編が行われた。その一環として、元宗の子・亘理重宗は、本拠地であった亘理を離れ、遠田郡涌谷城885貫文(約8,850石)の地へと移封されることとなった 6 。これは、政宗が葛西大崎一揆などで不安定な新領地を安定させるため、信頼の置ける一門の重臣を戦略的に再配置した結果であった 17 。伝統的な在地領主であった亘理氏を、先祖伝来の土地から切り離し、新たなフロンティアである涌谷の経営に当たらせる。この非情とも思える決断の裏には、家臣団に対する支配力を強め、より中央集権的な領国経営体制を構築しようとする政宗の、冷徹な統治者としての一面が窺える。こうして亘理氏は、自らが築いた城を後にし、亘理の地を去っていったのである。
亘理氏が去った後、亘理城は伊達政宗が最も信頼を寄せる二人の重臣、片倉景綱と伊達成実が相次いで城主となる。この人選と配置転換は、政宗の領国経営戦略、そして天下への夢と挫折を色濃く反映している。
天正19年(1591年)、亘理氏に代わって亘理城主となったのは、政宗の傅役(もりやく)であり、生涯の参謀であった片倉小十郎景綱であった 6 。伊達家中において「武の伊達成実」と並び称された「智の片倉景綱」は、卓越した知略と内政手腕で知られ、戦場では謀略を、平時においては領国経営を担う政宗の右腕であった 19 。彼を対相馬氏の最前線である亘理に配置したことは、単なる軍事的な抑えに留まらず、この地域の安定化と統治を重視した政宗の意図の表れであった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、伊達領の版図は62万石として確定する。天下統一の夢が事実上潰えた政宗は、その戦略の軸足を領土拡大から、獲得した領国の防衛と安定へと大きく転換させる。その象徴的な一手となったのが、慶長7年(1602年)に行われた家臣団の大規模な配置転換であった。
この時、片倉景綱は亘理から、伊達領南方の最重要拠点である白石城1万8千石へと移封される 6 。そして、景綱と入れ替わる形で亘理城に入ったのが、政宗の従兄弟にして伊達家一の猛将と謳われた伊達成実であった 6 。
この景綱と成実の配置転換は、仙台藩の防衛体制を完成させるための、極めて合理的かつ巧妙な戦略であった。
この配置により、政宗は仙台藩の南の脅威(上杉)には「智」を、東の脅威(相馬)には「武」を配するという、敵の性質に合わせた鉄壁の防衛ラインを完成させたのである。亘理城主の変遷は、政宗の戦略思想が、天下を目指す「攻め」の段階から、仙台藩62万石の安泰を図る「守り」の段階へと移行したことを、何よりも雄弁に物語っている。かつて政宗の覇業を支えた懐刀たちは、今や藩の永続を守るための「鎮石」として、その新たな役割を担うことになったのである。
慶長7年(1602年)、伊達成実の亘理入府は、この城と町に決定的な変革をもたらした。彼は単なる城主として着任したのではなく、この地を終生の拠点と定め、その卓越した手腕で亘理の未来を築き上げた。戦場での武勇で知られた成実が、為政者として非凡な才能を発揮した時代であった。
亘理城を引き継いだ成実は、直ちに城の大規模な改修に着手した 6 。亘理氏が築いた中世的な城郭を、仙台藩の重要拠たるにふさわしい、行政機能をも備えた近世的な「要害」へと生まれ変わらせたのである。その構造は本丸、二の丸、三の丸を備え、敵の侵入を阻むための枡形を二つ有していたと記録されている 24 。この改修により、亘理城は対相馬氏の軍事拠点としてだけでなく、亘理伊達家の居館、そして広大な所領を治める政庁としての機能を確立した。
成実の功績は、城郭の改修に留まらない。むしろ、彼の真骨頂は、今日の亘理町の原型となる城下町の建設と、領国経営にあったと言える 1 。
伊達成実は、その生涯において一時政宗のもとを出奔し、高野山に隠棲するなど不遇の時代も経験した 22 。関ヶ原の戦いを機に帰参し、与えられたこの亘理の地は、彼にとって自らの価値を改めて証明するための舞台であった。戦場での武功だけでなく、領国経営においても伊達家にとって不可欠な存在であることを示すべく、彼は民政に心血を注いだ。
また、彼は武勇一辺倒の武将ではなく、深い教養を備えた文化人でもあった。彼が著したとされる『成実記』は、伊達政宗の時代の動向を知る上での一級史料として高く評価されている 22 。彼の善政と人徳は領民から深く敬愛され、後世、明治時代になると、その遺徳を偲んで旧城跡に建立された亘理神社の祭神として祀られるに至った 1 。伊達成実は、単なる亘理城の一城主ではなく、今日の亘理の礎を築いた「名君」として、今なお地域の人々の記憶に生き続けているのである。
伊達成実による大改修を経て完成した亘理城(亘理要害)は、どのような姿をしていたのか。文献資料と、市街地化の波を乗り越えて現存する僅かな遺構から、その縄張りの全貌を復元する。
亘理城は、東に突き出た舌状台地の先端という地形を巧みに利用した平山城であった 9 。城の西から北西にかけては、かつて「大沼」と呼ばれる広大な沼沢地が広がり、これが天然の外堀として圧倒的な防御力を提供していた 8 。城の中心部は、台地上の本丸と、その東側の平地に設けられた二の丸によって構成されていた。
城の中枢である本丸は、台地の最高所、現在の亘理神社が鎮座する場所に置かれていた 8 。東西に細長い形状で、内部には居館や政務を執り行う建物群が林立していたと推測される 9 。現在でも神社の背後(西側)には、往時を偲ばせる土塁の一部が明瞭に残存している 8 。
本丸の東側、一段低い平地には二の丸が配されていた。ここには上級家臣の屋敷や、城の維持管理に必要な資材を製作・保管する作事所などが置かれていたと考えられている 9 。残念ながら、この区域は近現代の都市開発によって完全に姿を変え、現在はスーパーマーケット(ヨークベニマル)の広大な敷地となっており、遺構は完全に湮滅している 9 。
亘理城の防御の要は、本丸と二の丸をそれぞれ囲む二重の堀であった 10 。
城内には複数の門が厳重に配置されていた。城の正面玄関である 大手門 は本丸の南東に東向きに構えられ、その手前は「大手先」と呼ばれていた 7 。本丸へは南から入る
詰門 と、北から入る 裏門 があった 7 。さらに本丸の北側には
大所門 という門も存在した 9 。
驚くべきことに、これらの門のうち二つが、廃城後に移築され、寺院の山門として今もその姿を留めている。本丸北側にあった「大所門」は町内の常因寺に、本丸南側の「本丸詰の門」は専念寺に、それぞれ移築され現存している 33 。これらは薬医門形式の堂々たる門構えであり、亘理城の建築様式を具体的に知ることができる、学術的にも価値の高い遺産である。
昭和57年(1982年)には、亘理町教育委員会によって公式な発掘調査が実施され、その成果は『亘理城跡発掘調査報告書』として刊行されている 34 。この報告書には、城のより詳細な構造や出土遺物に関する知見が含まれていると考えられ、今後の亘理城研究における基礎資料として極めて重要である。
これらの情報を整理すると、亘理城の主要な構成要素は以下の表のようにまとめることができる。
【表1:亘理城の主要構成要素と現状】
構成要素 |
推定位置・機能 |
現状と特記事項 |
関連資料 |
本丸 |
丘陵最高所。城の中枢部。 |
亘理神社境内。背後に土塁の一部が残存。 |
7 |
二の丸 |
本丸東側の平地。家中屋敷、作事所。 |
ヨークベニマル敷地。市街地化により遺構は湮滅。 |
9 |
内堀 |
本丸の北・東・南を囲む。 |
南側の一部が「薬研沼」として現存。貴重な薬研堀の遺構。 |
7 |
外堀 |
二の丸を囲む。 |
市街地化によりほぼ湮滅。一部が空き地として痕跡を残すか。 |
28 |
大手門 |
本丸南東。城の正門。 |
跡地に「大手先」の石碑が残る。 |
7 |
詰門 |
本丸南側。本丸への直接の入口。 |
道路(切通し)部分にあったとされる。 |
7 |
大所門 |
本丸北側。 |
亘理町内の常因寺に山門として移築現存。 |
9 |
本丸詰の門 |
本丸南側。 |
亘理町内の専念寺に山門として移築現存。 |
33 |
江戸時代に入り、世が泰平となると、亘理城の役割もまた変容を遂げる。戦国の砦から、藩体制を支える地方拠点へ。そして、時代の大きなうねりの中で、その歴史に終止符を打つことになる。
慶長20年(1615年)、徳川幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布した。これにより、戦国時代に乱立した城郭の多くが姿を消した。仙台藩では、藩主の居城である仙台城と、藩南方の要衝である白石城のみが例外的に「城」として存続を許され、その他の支城は「要害」と改称して存続することになった 5 。亘理城もこれ以降、公式には「亘理要害」と呼ばれ、仙台藩内に21箇所あった要害の一つとして、藩の広大な領地を統治するための支城ネットワークの重要な一角を担った 13 。
「要害」となっても、その重要性が失われたわけではない。幕末に至るまでの約250年間、亘理要害は伊達成実を初代とする亘理伊達氏の居館として、亘理郡および宇多郡の一部(現在の福島県相馬郡新地町)を治める行政の中心地であり続けた 6 。歴代当主は、この地から領内の民政を司り、時には藩主の名代として江戸に上るなど、仙台藩の重臣として重責を果たした 27 。亘理要害は、伊達政宗が築いた藩体制を末端で支える、静かながらも確固たる役割を果たし続けたのである。
しかし、その平穏は幕末の動乱によって破られる。慶応4年(明治元年、1868年)、戊辰戦争が勃発すると、仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主として新政府軍と干戈を交える。だが、近代兵器と圧倒的な物量を誇る新政府軍の前に、旧態依然とした武士の軍団は敗北を重ねた。
そして同年9月、仙台藩はついに降伏を決断する。その屈辱的な降伏調印式が行われた舞台こそが、この亘理要害の本丸であった 6 。藩主伊達慶邦の名代が、新政府軍の軍監の前に額ずき、降伏文書に署名したのである。
伊達家最強の武将と謳われた伊達成実が、伊達家の武威と繁栄を願って礎を築いたこの場所が、奇しくも伊達家が武力で抗った時代の終わりを告げる場所となった。これは単なる偶然ではない。新政府軍にとって、藩主の居城である仙台城で降伏を受け入れるよりも、伊達政宗の栄光を象徴する猛将ゆかりの地であり、藩の重要な支城である亘理城で儀式を行うことは、伊達家の武威の象徴を完全に屈服させるという、極めて強い政治的メッセージが込められていた。始まりの栄光と終わりの屈辱が同じ場所で演じられたという歴史の皮肉とともに、亘理城は仙台藩、そして奥州の武士の時代の終焉を象徴する、忘れ得ぬ場所として歴史にその名を刻んだのである 5 。
戊辰戦争という劇的な終焉を迎えた亘理城は、物理的な城郭としての役目を終えた。しかし、その記憶と精神は、形を変えて現代の亘理の町に深く息づいている。それは、「喪失」と「再生」の物語である。
明治3年(1870年)、戊辰戦争敗北の責を負う形で、亘理伊達家14代当主・伊達邦成は家臣団を率いて北海道の有珠郡(現在の伊達市)への移住を命じられた 6 。多くの家臣が禄を失い、先祖伝来の地を離れる苦難の旅路であった 5 。主を失った亘理城の建物群は払い下げられて解体され、ここに城は物理的に「喪失」した。
しかし、亘理の地に残った人々は、町の礎を築いた伊達成実の善政を忘れていなかった。明治12年(1879年)、旧領民たちは相寄り、成実の遺徳を後世に伝えんがため、旧本丸跡に神社を建立した。これが亘理神社である 1 。物理的な城は失われたが、その中心地には、領主への敬愛と感謝という精神的な支柱が「再生」されたのである。境内には、成実の一代記を4000字余りの漢文で刻んだ巨大な石碑や、戊辰戦争で命を落とした人々の霊を慰める招魂碑などが建立されており、城跡は地域の歴史を記憶する聖地へと生まれ変わった 1 。
亘理城の物語をより深く理解するためには、周辺に残る関連史跡を訪れることが不可欠である。
現在の亘理城跡は、市街地化の波に洗われ、道路によって分断されるなど、往時の姿を完全に留めてはいない 8 。しかし、南側に奇跡的に残る内堀(薬研堀)、寺院に移築された城門、そして亘理神社境内に残る土塁は、戦国の記憶を雄弁に物語る貴重な証人である。
亘理城の真の価値は、現存する石垣や堀といった物理的な遺構に留まらない。一度は完全に失われた城の記憶が、地域の人々の手によって神社という信仰の形、寺院という菩提の形、そして資料館という学びの形へと見事に再生・継承され、今なお町のアイデンティティの中核として生き続けている点にこそ、その本質的な重要性がある。史跡としての亘理城を訪れることは、単に過去の遺構を眺めるのではなく、一人の武将の功績が時代を超えて人々の心に刻まれ、地域の誇りを形成していく壮大な軌跡を辿る旅なのである。これらの貴重な歴史遺産をいかに保存し、その物語を次世代に伝えていくか。それは、現代に生きる我々に課せられた重要な責務と言えよう。