最終更新日 2025-08-24

伊万里城

伊万里城は、松浦党伊万里氏が築いた海陸の要衝。本城今岳城と出城浜の砦の二元構造で、海を支配した。龍造寺隆信の侵攻で落城し、伊万里氏は滅亡。江戸時代は有田焼の積出港として栄え、現在は城山公園として市民に親しまれる。

肥前伊万里城の興亡:海賊大名松浦党の拠点から龍造寺氏の覇権、そして現代へ

伊万里城関連年表

本報告書の理解を助けるため、伊万里城に関連する主要な出来事を時系列で以下に整理する。

年代

主要な出来事

関連人物

典拠資料

建保6年 (1218)

伊万里城(浜の砦)が築城される。

峯上(伊万里氏の祖)

1

正中2年 (1325) 頃

伊万里氏が松浦党の有力な一族として、伊万里浦や福島など広大な所領を支配する。

伊万里氏

1

至徳年間 (1384-87)

伊万里氏の菩提寺である圓通禅寺が創建される。

伊万里貞

1

天正4年 (1576)

龍造寺隆信の軍勢が伊万里に侵攻。本城である今岳城、続いて浜の砦が攻撃され、落城する。

龍造寺隆信、伊万里輔治(治)、鍋島信房

2

天正5年 (1577)

落城後の伊万里城に龍造寺氏の城番が置かれる。

-

4

江戸時代

鍋島藩(佐賀藩)の支配下に入る。伊万里津は有田焼の積出港として世界的に知られるようになる。

鍋島直茂

5

明治時代以降

城跡は「城山」と呼ばれ、公園として整備される。

-

6

太平洋戦争中

城山に日本軍の対空監視哨が設置され、城の遺構が大きく改変される。

-

1

昭和60年 (1985)

郷土史家・有田峰次郎氏により「本城今岳城・出城伊万里城」説が提唱される。

有田峰次郎

2

現代

城跡は「城山公園」として整備され、桜の名所として市民に親しまれている。

-

8

序章:伊万里城とは何か ― 忘れられた城郭の多層的価値

佐賀県伊万里市の中心市街地に静かに横たわる城山公園。春には桜が咲き誇り、市民の憩いの場として親しまれるこの丘が、かつて肥前の海を支配した武士団の戦略拠点「伊万里城」であったことを深く認識する者は、今日では多くない 6 。本報告書は、この歴史の表層から忘れ去られつつある城郭の、鎌倉時代から戦国時代を経て現代に至る約400年の興亡史を、特に日本の歴史が最も激しく動いた「戦国時代」という視点から、徹底的に解明することを目的とする。

伊万里城の歴史を紐解く上で、まず認識を改めねばならない点がある。一般的に伊万里城として知られる城山公園の城跡は、実はその全体像の一部に過ぎないという可能性である。昭和60年(1985年)、郷土史家の有田峰次郎氏によって提唱された「本城・今岳城、出城・伊万里城」説は、この城郭の理解に新たな視座を提供する 2 。この学説によれば、我々が今日「伊万里城跡」として認識する場所は、伊万里湾岸を直接的に管理・防衛するための「浜の砦(はまのとりで)」であり、その背後には政治と軍事の中枢として機能した本城「今岳城(いまだけじょう)」が別に存在したという。この二元的な城郭システムこそが、伊万里城の真の姿と戦略的価値を理解する上での鍵となる。

本報告書では、この「本城・出城」説を中核的な分析の枠組みとして採用する。そして、伊万里城の築城背景、その精緻な構造、地政学的な優位性、そして戦国の動乱の中での落城の真相に深く迫る。さらに、この城を拠点とした伊万里氏と、彼らが所属した海賊的性格を持つ武士団「松浦党」、そして彼らを歴史の舞台から退場させた戦国大名「龍造寺氏」という三者の動向を交差させることで、伊万里城の興亡を立体的かつ多角的に描き出すものである。

第一部:伊万里城の黎明 ― 海の武士団・松浦党の勃興

第一章:築城とその時代背景

鎌倉時代の肥前国と伊万里津

13世紀初頭、源平の争乱が終結し、武家政権である鎌倉幕府が確立された時代。肥前国松浦地方は、日本列島の西端に位置し、古来より大陸や朝鮮半島との交易・交流の玄関口として、極めて重要な地政学的役割を担っていた 10 。中でも伊万里湾は、複雑な海岸線が天然の良港を形成し、その湾奥に注ぐ河口部は物資の集散地として、また海上交通の結節点として、戦略的に計り知れない価値を有していた 1 。伊万里城の築城は、まさにこの時代の要請と、この地の地理的優位性を背景として行われたのである。

海の領主「松浦党」の実像

伊万里城の築城と運営の主体であった松浦党は、平安時代から戦国時代にかけて、この肥前松浦地方一帯に割拠した武士団の連合体である。その規模から「松浦四十八党」とも称された 10 。彼らの組織は、特定の強力な宗主による中央集権的な支配体制ではなく、各地域の地名を苗字とした在地領主の一族が、緩やかな同盟関係を結ぶことで成り立っていた 10

彼らは巧みに船を操る水軍としての能力を最大限に活用し、日宋貿易などの公式な交易に従事する一方で、時には海賊行為も働き、その武威は遠く都にも知られていた。藤原定家がその日記『明月記』に「鎮西の凶党ら 松浦党と号す」と記したように、中央の貴族からは畏怖と侮蔑の対象と見なされることもあった 11 。しかし、その実態は、単なる略奪集団ではなく、海と共に生きる「海洋領主」とでも言うべき存在であった。源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いでは、当初平家方であった三百余艘の船団が、戦いの途中で源氏方へ寝返り、戦局を決定づけたという逸話は、彼らが有した強大な海上軍事力を如実に物語っている 12

伊万里氏の出自と築城

伊万里氏は、この松浦党を構成する数多の一族の中でも、特に有力な家の一つであった。その出自は、嵯峨天皇を祖とする嵯峨源氏渡辺流に遡るとされ、摂津国渡辺津を本拠とした渡辺氏の末裔と伝えられる 13 。平安時代中期に武名を馳せた源頼光四天王の一人、渡辺綱を祖先に持つという系譜は、彼らが単なる海のならず者ではなく、幕府からも認知された御家人としての格式を持つ武士であったことを示唆している。

伊万里城を最初に築いたのは、伊万里氏の祖とされる峯上(みねのぼる)である 1 。彼は松浦党の一族、披(ひらく)の子であり、建保6年(1218年)、父の跡を継いで伊万里浦、福島などを所領とし、この地に城を構えた 2 。この「峯上」という名は、松浦党の分家の一つである峯氏に由来するものと考えられ、彼が伊万里の地に入って伊万里氏を名乗るようになったのであろう 13 。14世紀半ばの記録によれば、伊万里氏は伊万里浦を中心に、福島、波多津浦など広範囲にわたる領地を支配し、遠く五島の海夫集団(漁民・水夫集団)をもその掌握下に置くほどの強大な勢力を誇っていた 1

伊万里城の築城は、単に一地方領主が居城を建設したという次元に留まるものではない。それは、鎌倉幕府という新たな中央権力の下で、在地における権益を軍事的に確保しようとする松浦党の戦略的な動きであり、同時に、大陸との交易ルートという地政学的な利益を最大化するための拠点設置という、経済的・軍事的な必然性から生まれたものであった。伊万里湾という要衝を抑えることは、伊万里氏個人のみならず、松浦党全体の海上ネットワークを強化し、その経済的・軍事的基盤を盤石にする上で不可欠な一手だったのである。

第二章:城郭の構造と地理的優位性

伊万里城の構造を論じるにあたっては、前述の「本城・出城」説、すなわち、司令塔としての「今岳城」と、前線拠点としての「浜の砦」が一体となって機能していたという視点が不可欠である。この二元的な城郭システムこそ、松浦党という武士団の特質を体現した、極めて合理的かつ洗練された防衛体制であった。

「浜の砦」― 現在の伊万里城跡(城山公園)

一般に伊万里城跡として知られる城山公園は、この防衛システムにおける「浜の砦」に相当する。

  • 立地と縄張り: この城は、伊万里川の北岸、標高約42メートルの独立した丘陵上に位置する 1 。築城当時は、周囲の埋め立てが進む以前であり、城の建つ丘は伊万里湾に直接突き出した岬状の地形をなしていたと推定される。この立地は、湾内を一望し、伊万里川、白野川、脇田川という三つの河川の河口部を完全に支配下に置くことを可能にする、まさに海上交通の監視と管理に最適化された場所であった 1
  • 構造の推定: 残された地形から推測するに、城の縄張りは、山頂に南北に長い主郭(曲輪1)を置き、その南側に一段低い二の郭(曲輪2)を配した、連郭式に近い単純な構造であったと考えられる 1 。麓にある伊万里氏の菩提寺・圓通禅寺の脇に残る石垣や、公園入口付近に見られる枡形虎口(防御力を高めた門)を思わせる地形は、当時の防御施設の名残である可能性が極めて高い 3
  • 機能: その立地と構造から、「浜の砦」が担っていた機能は明確である。それは、水軍の船団が出撃し、停泊するための港湾施設の管理、湾内に出入りする船舶の監視、大陸や国内各地との交易品の荷揚げと保管、そして敵の海上からの侵攻に対する最前線の防御拠点といった、海に直結した実務的な役割であった。まさに「浜の砦」という通称が、その機能を的確に表現している 2

「本城」― 今岳城(幸平城)

「浜の砦」の背後に控え、伊万里氏の支配の根幹をなしていたのが、本城である「今岳城」である。

  • 概要: 伊万里氏の24代当主・伊万里家利の時代、下松浦山(現在の今岳)に本城が置かれ、幸平城(こうびらじょう)とも呼ばれていたことが記録に残る 2 。この事実は、武雄市文化館の元館長であった有田峰次郎氏の研究によって明らかにされたものである 2
  • 立地と構造: 今岳は、「浜の砦」から見て東方の内陸に位置し、より標高も高く険しい山容を持つ。典型的な中世の山城であり、自然の急峻な地形を最大限に活用し、曲輪や堀切などを配した堅固な防御施設が設けられていたと推測される 16 。現在も山頂付近には、城の石垣の痕跡ではないかとされる石が散見される 2
  • 機能: この城こそが、城主・伊万里氏とその一族が日常的に居住する政庁であり、領地経営の指令を発する政治の中心であった。そして有事の際には、領内の兵が集結し、籠城戦を行う最終防衛拠点(詰めの城)としての役割を担っていた。麓の「浜の砦」が敵の攻撃に晒された場合、兵は一時的に抵抗しつつも、最終的には本城である今岳城に撤退・集結し、組織的な防衛戦を展開するという、二段構えの防衛戦略が想定されていたのである。

この「本城・出城」システムは、松浦党という武士団が持つ「海洋性と領主性」という二重のアイデンティティを、城郭の構造として具現化したものと解釈することができる。彼らは海の民(海洋性)であると同時に、土地を支配する領主(領主性)でもあった。「浜の砦」は、彼らの力の源泉である海との結びつきを維持し、経済活動と水軍力を支えるための拠点であり、その「海洋性」を象arctypeする。一方、「今岳城」は、在地領主としての権威を示し、一族の安全を保障するための恒久的な居城であり、その「領主性」を象徴する。この二つの城が有機的に連携することで、平時の経済活動と有事の軍事行動の両方に柔軟に対応できる、強固な支配体制が構築されていた。これこそが、伊万里氏が約400年もの長きにわたり、この地を支配し続けられた力の源泉の一つであったと言えよう。

「浜の砦(伊万里城跡)」と「本城(今岳城)」の比較

項目

浜の砦(現在の伊万里城跡)

本城(今岳城/幸平城)

通称

伊万里城、浜の砦、鶴亀城

今岳城、幸平城

所在地

佐賀県伊万里市松島町(城山公園)

佐賀県伊万里市(今岳)

立地

伊万里湾に面した岬状の丘陵

内陸の山岳地帯

分類

平山城

山城

標高

約42メートル

(浜の砦より高い)

推定される主機能

・水軍の出撃・停泊拠点 ・港湾管理、海上交通の監視 ・交易品の集積・管理 ・前線防御拠点

・城主一族の居館 ・政務・指揮の中枢 ・最終防衛拠点(詰めの城)

現在の状況

城山公園として整備。遺構はほぼ消滅。

山林。石垣の痕跡が残る可能性。

典拠資料

1

2

第二部:戦国動乱と伊万里城の落日

第三章:「肥前の熊」龍造寺隆信の台頭

戦国期肥前の勢力図

16世紀半ば、室町幕府の権威が失墜し、日本全土が戦乱の渦に巻き込まれる中、肥前国もまた例外ではなかった。長らく肥前を支配してきた守護大名・少弐氏の力は衰え、その隙を突いて龍造寺氏、有馬氏、後藤氏、そして松浦党といった国人領主たちが、それぞれ自立と領土拡大を目指して覇を競う、まさに群雄割拠の時代に突入していた 18

龍造寺隆信の勃興

この混沌とした状況の中から、一人の傑出した人物が登場する。龍造寺隆信である。

  • 人物像: 隆信は、一族内の権力闘争に敗れて一時は領地を追われ、筑後の蒲池氏のもとへ亡命するという苦難を経験した 19 。しかし、家臣や領民の強い支持を背景に奇跡的な復帰を遂げると、旧主であった少弐氏を滅ぼし、下剋上によって戦国大名へと成り上がった 18 。その巨躯と、目的のためには手段を選ばない獰猛な性格から「肥前の熊」と敵味方から恐れられ、巧みな謀略と圧倒的な軍事力を駆使して、瞬く間に肥前国内の敵対勢力を制圧していった 20
  • 拡大戦略: 隆信の勢力拡大は肥前国内に留まらなかった。元亀元年(1570年)の今山の戦いでは、九州の覇者であった大友宗麟の大軍を奇襲によって打ち破り、その武名を轟かせた 21 。この勝利を契機に、隆信は筑前、筑後、肥後へと侵攻し、その勢力は一時期、九州を大友氏、島津氏と三分するまでに拡大。「五州二島の太守」を自称するに至った 19

伊万里城を取り巻く地政学

龍造寺隆信の急激な台頭は、伊万里城と伊万里氏の運命に暗い影を落とすことになる。

  • 龍造寺氏の脅威: 肥前国の統一と、さらなる北九州への進出を目指す隆信にとって、松浦党は大きな障害であった。彼らは特定の君主を持たない独立性の高い武士団であり、龍造寺氏の支配体系に組み込まれることを良しとしなかったからである。特に伊万里氏は、天正元年(1572年)に隆信が武雄城主・後藤貴明を攻めた際、兵を率いて後藤氏に加勢するなど、明確な敵対姿勢を示していた 13
  • 包囲網の形成: 隆信は、このような敵対勢力を決して許さなかった。彼はまず、伊万里氏の西に位置する梶峰城を攻略し、そこに一族の龍造寺長信を配置した 22 。これにより、伊万里氏は西、南、東の三方を龍造寺氏の勢力圏に囲まれる形となり、その戦略的包囲網は着実に狭まっていった。伊万里城は、北九州に覇を唱えんとする龍造寺氏の巨大な軍事力の前に、まさに風前の灯であった。

伊万里城の落城は、単なる一城の攻防戦として捉えるべきではない。それは、中世以来の伝統を持つ、個々の領主の独立性を重んじる「連合体(松浦党)」という旧来の社会システムと、戦国時代に生まれた、強力な当主の下に権力を集中させ、領国を一元的に支配する「中央集権的領国(龍造寺氏)」という、二つの異なる政治・社会システムの衝突の必然的な結果であった。動員力、指揮系統、戦略性において、龍造寺氏の近代的な軍事機構は、松浦党の個々の勢力を圧倒していた。伊万里氏の抵抗は、時代の大きなうねり、すなわち中世から近世へと移行する過程で、旧来の勢力が新たな勢力によって淘汰されていく歴史の縮図であったと言える。

第四章:天正四年の攻防と落城

龍造寺軍の侵攻

天正4年(1576年)、肥前統一の総仕上げとして、龍造寺隆信は伊万里への本格的な侵攻を開始した。この伊万里城攻めの軍勢を直接指揮したのは、龍造寺四天王の一人にも数えられる重臣、鍋島信房(後の鍋島直茂の兄)であったとする説が有力である 4 。龍造寺軍は、周辺の城を次々と攻略しながら、伊万里氏の本拠地へと迫った。

落城の経緯

伊万里氏の二元的な城郭システムも、龍造寺氏の圧倒的な物量の前には抗しきれなかった。

  • 本城・今岳城の陥落: 龍造寺軍の猛攻の前に、まず司令塔であり最終防衛拠点でもあった本城・今岳城が陥落した 2 。これにより、伊万里氏の組織的な抵抗は事実上不可能となり、指揮系統は完全に崩壊した。
  • 城主の脱出: 当時の城主であった伊万里兵部大輔輔治(または治)は、もはやこれまでと判断し、一族郎党と共に城を脱出。かつて共に龍造寺氏と戦った同盟者である、武雄の後藤氏を頼って落ち延びた 3
  • 浜の砦の陥落: 本城を失い、城主も逃亡した「浜の砦」は、抵抗する術を失い、翌天正5年(1577年)までには完全に陥落したと記録されている 4 。これにより、鎌倉時代の建保6年(1218年)の築城以来、約400年にわたってこの地を支配してきた名門・伊万里氏の歴史は、その幕を閉じたのである。

落城後の伊万里氏と伊万里城

伊万里輔治が頼った後藤氏への亡命は、最後の望みを託した行動であったが、その望みが叶うことはなかった。龍造寺隆信の戦略は、単なる軍事力による制圧に留まらなかったからである。隆信は、敵対していた後藤貴明の跡継ぎとして、自らの三男である龍造寺家信を養子として送り込むという巧みな政略によって、後藤氏を内部から切り崩し、事実上、龍造寺一門に組み込んでいた 23 。したがって、輔治が後藤氏のもとへたどり着いた時点で、彼の再起の道は完全に断たれていた。これは、伊万里氏の敗北が、単なる戦術的な敗北ではなく、龍造寺隆信の優れた軍事・政治戦略の前に喫した、完全な戦略的敗北であったことを物語っている。

落城後の伊万里城には、龍造寺氏の城番が置かれ、この地域は完全に龍造寺氏の支配下に組み込まれた 4 。伊万里津という重要な港湾は、龍造寺氏の広大な領国を支える経済的・軍事的な基盤として、新たな支配者のために利用されることになったのである。

第三部:近世から現代への変遷

第五章:江戸時代から近代へ

鍋島藩体制下の伊万里

天正12年(1584年)、九州の覇権を島津氏と争った沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死すると、龍造寺氏の勢力は急速に衰退する 20 。その後の豊臣秀吉による九州平定を経て、肥前の実権は龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂とその子孫が掌握し、江戸時代には35万7千石の佐賀鍋島藩が成立する 5 。伊万里の地も佐賀藩領となり、伊万里城が担ってきた軍事拠点としての役割は、泰平の世の訪れと共に完全に終焉を迎えた。

伊万里津の繁栄と城跡の忘却

江戸時代、伊万里の歴史は新たな局面を迎える。軍事拠点としての価値を失った伊万里津は、有田の諸窯で焼かれた磁器(後に「古伊万里」として世界的に知られる)の積出港として、日本国内のみならず、遠くヨーロッパとの貿易においても極めて重要な役割を担うことになった 24 。人々の関心は、もはや戦乱の記憶が残る「城」から、富を生み出す「港」と「焼き物」へと完全に移り、かつての城跡は次第に人々の記憶から忘れ去られていった。佐賀藩は、藩の重要な財源である磁器の製造技術が外部に漏れることを防ぐため、伊万里の奥深く、険しい地形を持つ大川内山に藩の御用窯を設置し、関所を設けるなど厳重な管理体制を敷いた 25

近代化と城跡の変容

明治維新を経て近代国家へと歩み始めた日本において、伊万里城跡は再びその姿を変えることになる。

  • 公園化: 明治時代以降、城跡は「城山」という名で呼ばれるようになり、市民の憩いの場である公園として整備された 6 。この公園化の過程で、往時の城の姿を留めていた曲輪や土塁といった遺構は、平坦化されるなど大きく改変されたと考えられる 4
  • 戦争の爪痕: さらに、20世紀に入り太平洋戦争が勃発すると、伊万里城跡の地理的特性が再び軍事的な観点から注目される。伊万里湾を一望できるその戦略的な立地が、敵の航空機を早期に発見・監視するための対空監視哨の設置場所として最適と判断されたのである 1 。この軍事施設の建設は、わずかに残されていたであろう城の遺構に対して、決定的な破壊をもたらした可能性が極めて高い。

伊万里城跡の歴史は、一つの場所が持つ「戦略的価値」が、時代の要請と共にいかに変容してきたかを示す象徴的な事例である。中世における「水軍の拠点」という軍事的価値は、近世には磁器貿易を支える「港湾」という経済的価値へと転換した。そして近代の戦時下においては、高台からの「見晴らし」という地理的特性が、再び「監視拠点」という軍事的な価値を持つに至った。その役割は時代ごとに変転し続け、その度に土地は姿を変えてきたのである。

第六章:現代に息づく伊万里城

現在の城山公園

今日の伊万里城跡は、伊万里市松島町に位置する城山公園として、地域の歴史を静かに見守っている。

  • 景観と施設: 現在、城跡の中核部であった丘の上は、伊万里市街や「伊万里富士」とも呼ばれる腰岳を望む景勝地となっている 8 。山頂部は平坦に削平され、ジャングルジムやブランコといった遊具が設置された、典型的な児童公園の様相を呈している 9 。春には桜の名所として多くの市民で賑わい、かつてここが血で血を洗う戦いの場であったことを想像するのは難しい 6
  • 残された痕跡: 長年にわたる公園化や戦時中の軍事施設化により、城郭としての遺構はほぼ完全に失われているのが現状である 1 。案内板がなければ、ここが城跡であると認識することすら困難かもしれない 9 。しかし、注意深く観察すれば、麓の圓通禅寺の北側に張り出すように残る石垣や、公園入口付近に見られる防御施設の名残と思しき地形など、往時を偲ばせる痕跡をわずかに見出すことができる 3

関連史跡探訪

伊万里城の歴史をより深く理解するためには、城跡だけでなく、周辺に点在する関連史跡を訪れることが不可欠である。

  • 圓通禅寺: 伊万里氏の守護寺であり、至徳年間(1384-87年)に伊万里貞によって創建されたと伝わる曹洞宗の寺院である 1 。城の登城口近くに位置し、伊万里氏一族の精神的な支柱であった。現在も修行道場として法灯を守り続けている 1
  • 伊萬里神社: 城跡の近隣に鎮座する。この神社が位置する高台もまた、城の出丸や関連施設として利用されていた可能性が考えられる 1
  • 伊万里市歴史民俗資料館: 伊万里城や伊万里氏について、より学術的な知見を得るためには必見の施設である。古墳時代から近世に至るまでの伊万里の歴史に関する遺物や古文書を収蔵・公開している 24 。特に、伊万里氏に関連する可能性があるとされる「大河内家文書」などの古文書が所蔵されており、今後の詳細な研究と公開が待たれる 24
  • 周辺の城郭群: 伊万里周辺には、戦国時代に「ちきた若狭守助」という武士が城主であったと記録される地北祇園城(ちきたぎおんじょう)など、松浦党に関連する城跡が点在している 15 。これらの城跡を伊万里城と関連付けて巡ることで、この地域に張り巡らされていた防衛ネットワークを立体的に理解することができる。

伊万里城の歴史を解明する鍵は、もはや物理的な遺構が乏しい城跡そのものだけには残されていない。それは、菩提寺、関連文書、そして周辺の地理的文脈といった、互いに結びついたネットワークの中に分散して存在している。これらの情報を統合的に読み解くアプローチこそが、この忘れられた城郭の真の姿を未来に伝えていくために不可欠なのである。

終章:伊万里城が物語るもの

伊万里城の約400年にわたる歴史は、鎌倉時代に勃興した地方の海洋武士団が、その独自の文化と勢力を保ちながら中世を生き抜き、やがて戦国時代の統一という巨大な波に飲み込まれてその役割を終えていくという、日本中世から近世への移行期を象徴する壮大な物語であった。

この城が我々に語りかける意義は、大きく二つある。第一に、「本城・今岳城」と「出城・浜の砦」という二元的な城郭システムは、海と陸を股にかけて活動した松浦党の二重のアイデンティティを色濃く反映した、極めて合理的で優れた戦略思想の産物であったということである。第二に、その落城は、龍造寺隆信という傑出した戦国大名の台頭と、旧来の分権的な武士団連合が、より中央集権的な領国支配体制に取って代わられていくという、時代の必然的な流れを明確に示しているということである。

物理的な遺構の多くが失われた今、伊万里城の歴史的価値を後世に伝えていくためには、新たな取り組みが求められる。城山公園に設置されている案内板の情報を、近年の研究成果である「本城・出城」説を反映した、より詳細で多角的な内容に更新すること。圓通禅寺や今岳城跡といった関連史跡を含めた歴史探訪ルートを整備し、地域全体でその歴史を体感できるような仕組みを構築すること。そして、伊万里市歴史民俗資料館が中心となり、所蔵される古文書の研究をさらに推進し、その成果を広く市民や研究者に公開していくこと。これらの努力を通じて、伊万里城の物語は、単なる過去の出来事ではなく、地域のアイデンティティを形成する生きた歴史として、未来へと継承されていくであろう。伊万里城の城郭は目に見える形では失われつつあるが、その記憶は、伊万里の町の歴史の中に、今も確かに息づいているのである。

引用文献

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  24. 伊万里市歴史民俗資料館/伊万里市 https://www.city.imari.lg.jp/6538.htm
  25. 伊万里・大川内山 伝統が息づく焼き物の町 | たびらい佐賀 https://www.tabirai.net/sightseeing/tatsujin/0000274.aspx
  26. めおとしの塔 | 観光地 | 【公式】佐賀県観光サイト あそぼーさが https://www.asobo-saga.jp/spots/detail/24a79c34-75de-4a92-ba4c-22ff9ccc505d
  27. 有田焼(ありたやき)とは - 有田観光協会 https://www.arita.jp/aritaware/
  28. 城山公園 - 伊万里市 https://www.city.imari.lg.jp/16141.htm
  29. 伊万里市歴史民俗資料館 - アソビュー! https://www.asoview.com/spot/41205cc3290032991/
  30. 02.史跡ガイドマップ(大坪町).pdf - 伊万里市 https://www.city.imari.lg.jp/secure/15761/0%EF%BC%92%EF%BC%8E%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97%EF%BC%88%E5%A4%A7%E5%9D%AA%E7%94%BA%EF%BC%89.pdf