伊沢城
阿波国伊沢城史―鎌倉御家人の末裔、戦国の動乱と近世への道―
序章:忘れられた平城、伊沢城
徳島県阿波市阿波町岡地。吉野川がもたらした肥沃な平野の一角に、かつて伊沢城と呼ばれた城館が存在した。現在、その地を訪れても往時の威容を偲ばせる石垣や天守はおろか、明確な土塁や堀の痕跡すら見出すことは難しい 1 。城の中心部であったと推定される微高地には市営団地が建ち並び、周辺は畑地へと姿を変えている 1 。わずかに蛭田池のほとりに立つ城址碑と、鎌倉堀と呼ばれる谷筋に残る案内板が、ここが歴史の舞台であったことを静かに物語るのみである 2 。
しかし、この静かな景観とは裏腹に、伊沢城とそれを本拠とした伊沢氏は、日本の歴史の大きな転換点に深く関与し、約700年もの長きにわたり阿波国の歴史にその名を刻み続けた稀有な存在であった。その起源は鎌倉幕府の成立期にまで遡り、源頼朝に仕えた一人の能吏に行き着く。時代が下り、戦国乱世の渦中においては、阿波の覇者・三好氏、そして四国統一を目指す長宗我部氏との間で繰り広げられる激しい興亡の当事者となった。やがて武士の時代が終焉を迎えると、一族は剣を鍬に持ち替え、江戸時代には徳島藩随一の治水技術者集団として地域の発展に多大な貢献を果たすことになる。
本報告書は、この忘れられた平城・伊沢城をめぐる歴史の深層を、多角的な視点から徹底的に解明する試みである。築城の伝承から、城の構造、戦国期の動乱、そして近世における一族の再生と地域社会への影響に至るまで、断片的な史料や伝承を繋ぎ合わせることで、一つの地方豪族が辿った壮大な歴史の軌跡を明らかにする。それは、日本の歴史を動かした数多の無名の武士たちの縮図であり、時代の荒波を乗り越えて生き抜いた人々の物語に他ならない。
第一章:源頼朝の御家人・伊沢家景と築城伝承
伊沢城の歴史は、伊沢四郎太夫家景という一人の人物から始まる。彼は単に阿波国の一豪族の祖であるに留まらず、鎌倉幕府草創期の中央政界、そして遠く奥州の統治にまで関わった重要な人物であった。
第一節:伊沢家景の実像―『吾妻鏡』が語る能吏
伊沢城の築城者として伝えられる伊沢家景は、藤原北家道兼流を称する貴種の末裔とされる 4 。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、文治三年(1187年)二月二十八日の条にその名が登場する。そこには、家景が京都から鎌倉へ下向したこと、そして彼が「文筆に長けた」人物であったため、源頼朝の舅である北条時政が丁重に推薦したと記されている 5 。もともとは京の大納言・藤原光頼に仕える家司(けいし)であり、その卓越した事務能力は時政も認めるところであった 1 。
この記述は、家景が単なる武辺一辺倒の坂東武者ではなく、京の公家社会で培われた高度な実務能力と教養を身につけたテクノクラート(実務官僚)であったことを示唆している。頼朝が新たな武家政権を構築する上で、こうした文治派の官僚がいかに重要であったかは想像に難くない。
家景の能力が真に発揮されたのは、文治五年(1189年)の奥州合戦後のことであった。奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、広大な東北地方の統治体制を確立する必要に迫られる。この時、家景はその才を見込まれ、陸奥国留守職(むつのくにるすしき)という要職に抜擢された 6 。これは国府(多賀城)の行政を司る長官であり、同じく奥州総奉行と呼ばれた葛西清重と共に、東北地方の行政と治安維持の最高責任者となる地位であった 6 。家景の子孫は代々この職を世襲し、やがて職名に由来する「留守氏」を名乗り、戦国時代まで続く奥州の有力大名へと発展していく 8 。
この事実は、伊沢家景という人物が持つ二重の側面を浮き彫りにする。すなわち、彼は阿波国伊沢庄を領する一御家人の祖であると同時に、遠く陸奥国の統治を担う幕府の高級官僚であり、奥州留守氏の祖でもあった 1 。阿波国の所領が奥州での功績に対する個人的な恩賞地であったのに対し、陸奥国留守職は国家統治のための公的な職務であったと考えられる。阿波の伊沢氏は、鎌倉幕府の中枢で活躍した官僚一族の分家と位置づけることで、その後の歴史的役割をより深く理解することができるのである。
第二節:築城年代の謎―治承三年説と文治五年以降説
伊沢城の築城年代については、主に二つの説が伝えられており、その起源には不明瞭な点が残る。
一つは、治承三年(1179年)に伊沢家景によって築かれたとする説である 1 。この年は、源頼朝が伊豆で挙兵する前年にあたり、源平の争乱が本格化する直前の時期にあたる。
もう一つは、文治五年(1189年)の奥州藤原泰衡討伐において家景が抜群の功績を挙げ、その恩賞として頼朝から伊那佐和庄(いなさわのしょう)を与えられ、地名を「伊沢」と改めた後に城を築いたとする説である 3 。
これら二つの説を史実と照らし合わせて検討すると、後者の文治五年以降説に高い蓋然性が見出される。『吾妻鏡』によれば、家景が頼朝に仕え始めたのは文治三年(1187年)のことである 5 。したがって、それより8年も前の治承三年(1179年)の時点で、彼が頼朝の御家人として阿波国に所領を持ち、城を築いていたとは考えにくい。伊那佐和庄という地名が、家景の姓である伊沢に改められたという伝承も、所領拝領後に地名が変化したとする文治五年以降説を補強するものである。治承三年説は、伊沢氏がより古くからの在地領主であったことを強調するため、後世に創作された伝承である可能性が指摘される。いずれにせよ、伊沢城の起源が、鎌倉幕府の成立という国家的な事業に深く結びついていたことは間違いない。
第二章:吉野川流域の要害―伊沢城の構造と景観
伊沢城は、大規模な山城や壮麗な近世城郭とは異なり、吉野川流域の平野部に築かれた中世の平城(または平山城)であった 1 。遺構の多くは失われたが、残された地形や地名からは、その巧みな立地選定と機能的な構造を垣間見ることができる。
第一節:天然の堀に守られた平城
伊沢城は、吉野川の北岸に位置する微高地、すなわち周囲の平地よりわずかに高い台地上に築かれていた 11 。この立地が持つ最大の利点は、東西を自然の障害物によって守られていたことである。
城の東側には、現在も広大な水面を湛える蛭田池(ひるたいけ)が存在する 3 。この池は、地元ではその形状から「金魚池」とも呼ばれ 11 、城の東面を守る広大な水堀としての役割を果たしていたと考えられる 3 。中世の城において、これほど大規模な池を防御施設として利用できたことは、大きな強みであっただろう。さらに、この池がもたらす水利権を掌握することは、城主が周辺地域の農業生産を支配する上でも重要な機能であったと推察される 11 。
一方、西側には「鎌倉堀」または「鎌倉沢」と呼ばれる谷が深く切れ込んでいる 1 。この谷戸部が天然の空堀として機能し、西からの敵の侵入を阻んだ 11 。また、谷の奥には「鎌倉泉」と呼ばれる湧水があったと伝えられる 1 。これらの「鎌倉」を冠する地名は、築城主である伊沢家景と鎌倉幕府との強い結びつきを、400年以上にわたる城の歴史を通じて地域の人々に記憶させ、今日に伝える記憶装置としての役割を果たしてきたと言える。
このように、伊沢城は東に水堀、西に空堀という天然の要害に挟まれ、南側も沼沢地であったとされ 11 、防御の弱い北側のみを人工的な堀切などで固めればよいという、効率的かつ堅固な防御思想に基づいて立地が選定されていた。
第二節:失われた城郭の復元
前述の通り、城跡は市営岡地団地や畑地、宅地へと開発が進み、城の具体的な縄張り(区画構成)を示す明確な遺構はほとんど残存していない 1 。しかし、断片的な情報や地形から、その姿をある程度復元することは可能である。
現在、市営岡地団地が造成されている区画は、周囲より一段高くなっており、ここが城の中枢部である本丸(主郭)であったと推定されている 2 。また、この団地の北辺あたりには、台地続きであった北側からの侵入を防ぐための堀切が存在し、主郭を区画していた可能性が指摘されている 1 。
阿波国における他の中世城館、例えば三好氏の本拠であった勝瑞城跡などに見られるように、この時代の平城は、土を盛り上げて造った土塁と、その外側に掘られた堀によって方形の曲輪(くるわ)を形成する単純な構造が一般的であった 12 。伊沢城もまた、居住空間である館を中心に、その周囲を土塁と堀で囲んだ、比較的簡素ながらも実用的な構造を持っていたと考えるのが妥当であろう。南麓には「三軒屋」と呼ばれる地名が残り、かつて伊沢氏の家老が居住していたという伝承も、城下にごく小規模な武家屋敷地が形成されていた可能性を示唆している 1 。
第三章:戦国動乱―三好、そして長宗我部との相克
鎌倉時代にその礎を築いた伊沢城と伊沢氏は、室町時代を通じて阿波の国衆として存続したが、その歴史が最も激しく揺れ動いたのは、戦国の動乱期であった。阿波国を舞台に繰り広げられた三好氏の内部抗争、そして土佐から迫る長宗我部氏の脅威は、伊沢氏の運命を根底から覆すことになる。
表1:伊沢城・伊沢氏 関連年表
年代 |
主な出来事 |
治承3年 (1179) |
伊沢家景による築城説が伝わる 1 。 |
文治3年 (1187) |
伊沢家景、北条時政の推薦で源頼朝に仕える 5 。 |
文治5年 (1189) |
奥州合戦。家景が功を挙げ、伊那佐和庄を拝領した後に築城したとの説がある 3 。 |
建久元年 (1190) |
伊沢家景、陸奥国留守職に任じられる 6 。 |
天正5年 (1577) |
3月、伊沢頼俊が三好長治に反旗を翻し、長治を自害させる(荒田野の戦い) 14 。 |
|
4月(または5月)、矢野国村の報復により、伊沢頼俊が坂西城で討死 14 。 |
天正7年 (1579) |
長宗我部元親が阿波へ本格侵攻。『十河物語』に「阿州ノ井沢乱」の記述 16 。 |
天正10年 (1582) |
長宗我部氏の攻撃により伊沢城が落城したとの説がある 11 。 |
天正13年 (1585) |
豊臣秀吉による四国平定。蜂須賀家政が阿波国主となる 17 。 |
天正14年 (1586) |
伊沢氏が帰農し、庄屋となったとされる 18 。城は廃城となる。 |
宝暦2年 (1752) |
伊沢亀三郎、伊沢村の組頭庄屋の家に生まれる 19 。 |
文政8年 (1825) |
伊沢亀三郎、死去 20 。 |
第一節:天正五年の悲劇―伊沢頼俊の反逆と死
戦国時代後期、伊沢氏は阿波国の守護細川氏、そしてそれに代わって実権を握った三好氏に仕えていた 14 。しかし、畿内に大勢力を築いた三好長慶の死後、三好家は内部対立と織田信長の台頭によって急速に衰退。その影響は本国・阿波にも及び、国内の秩序は大きく乱れ始めていた。
この混乱の最中、天正五年(1577年)、伊沢城主であった伊沢頼俊は、一族の運命を決定づける重大な決断を下す。彼は同じく三好家臣の一宮成助らと共謀し、当時の三好家当主であった三好長治に突如として反旗を翻したのである 14 。細川真之を討つべく出陣した長治の軍勢を挟撃し、窮地に陥った長治は今切城へ敗走の末、自害に追い込まれた 1 。
この伊沢頼俊の行動は、単なる個人的な野心による下剋上と見るべきではない。当時、三好氏は織田信長の中央政権からの軍事的圧力と、土佐から阿波へ侵攻を開始した長宗我部元親という二つの強大な外圧に晒され、その支配体制は末期的な状況にあった。頼俊の反乱は、複数の国衆と連携して行われている点からも、求心力を失った三好長治を見限り、崩壊しつつある旧体制から離脱して自らの生き残りを図ろうとする、阿波国衆たちの動きを象徴する事件であったと解釈できる。
しかし、この反逆はあまりにも大きな代償を伴った。主君・長治の悲報に接した三好家随一の猛将・矢野国村(駿河守)は、滞在先の讃岐国引田城からただちに軍勢を率いて阿波へ帰還 1 。頼俊は坂西城(ばんざいじょう)に入ってこれに対峙したが、国村の巧みな謀略による奇襲を受け、城はあえなく落城。頼俊は自害して果てた 3 。この事件は、同年4月(一説には5月19日)のことであった 14 。
第二節:落城の謎―伊沢氏滅亡を巡る三つのシナリオ
当主・伊沢頼俊の死が、伊沢氏という武士団に致命的な打撃を与えたことは間違いない。しかし、伊沢城がいつ、どのようにしてその歴史を閉じたのか、そして伊沢一族がどのように終焉を迎えたのかについては、史料によって記述が異なり、明確な定説が存在しない。この「落城の謎」こそ、伊沢城の歴史における最大の論点である。
表2:伊沢城落城に関する諸説比較表
時期(説) |
主な出来事 |
関連勢力 |
根拠史料・伝承 |
考察・信憑性 |
シナリオA:天正五年(1577年)滅亡説 |
伊沢頼俊が坂西城で討死した際、本拠の伊沢城も滅ぼされたとする。 |
三好氏(矢野国村) |
郷土史研究サイト等 1 |
当主の死は事実だが、一族全体の滅亡と断定する直接的な史料は不足。武士団としての政治的・軍事的影響力がこの時点で失墜した可能性は高い。 |
シナリオB:天正七年(1579年)「阿州ノ井沢乱」説 |
長宗我部元親の阿波侵攻の最中、岩倉城の将(飛騨守)が夜襲をかけ伊沢氏を討ったとされる。 |
長宗我部元親、岩倉城勢 |
軍記物『十河物語』 16 |
唯一の典拠が軍記物であり、文学的脚色の可能性を考慮する必要がある。しかし、長宗我部氏の侵攻過程で伊沢氏残党が何らかの戦闘に関与したことを示唆する伝承とも考えられる。 |
シナリオC:天正十年(1582年)落城説 |
長宗我部氏による阿波完全制圧の過程で、伊沢城が攻撃され落城したとする。 |
長宗我部元親 |
郷土史研究サイト等 11 |
元親が中富川の戦いで三好氏の残存勢力を一掃し、阿波を完全に掌握した時期と一致し、歴史的蓋然性は高い。伊沢城が軍事拠点としての役割を完全に終えた時点と考えられる。 |
これら三つのシナリオは、一見すると互いに矛盾しているように映る。しかし、一つの「正解」を求めるのではなく、なぜ異なる記録が生まれたのかを考察することで、より深層的な歴史像が浮かび上がってくる。これらの説は、伊沢氏という武士団が段階的に解体・変質していく過程の、それぞれ異なる側面を捉えたものである可能性が高い。
すなわち、天正五年の当主・頼俊の死は、伊沢氏が阿波の政治勢力として独自の意思決定を行う力を失った「政治的死」を意味する。続く天正七年や天正十年の出来事は、長宗我部氏の侵攻に対し、もはや組織的な抵抗が不可能な中で、伊沢城が最終的に軍事拠点として無力化される「軍事的死」の過程を表しているのではないか。そして、天正十三年(1585年)の豊臣秀吉による四国平定と、それに続く蜂須賀氏の入国に伴う帰農は 18 、武士という身分を完全に放棄する「社会的死」であると同時に、次章で述べる庄屋としての「再生」への第一歩であった。
このように、伊沢氏の「滅亡」は単一の事件によってもたらされたのではなく、天正五年から十数年をかけて、政治的・軍事的・社会的な側面から段階的に進行した「多層的な終焉」であったと解釈することで、諸史料の記述を包括的に理解することが可能となるのである。
第四章:剣を鍬に―徳島藩下の庄屋・伊沢家の再生
戦国乱世の終焉は、伊沢氏にとって武士としての歴史の終わりを意味した。しかし、それは一族の完全な消滅を意味するものではなかった。彼らは新たな時代に適応し、専門技術を持つ知識階級として再生を遂げ、阿波国の近世社会に多大な貢献を果たしていく。
第一節:蜂須賀氏支配下の伊沢氏
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定が行われ、阿波国には蜂須賀家政が新たな国主として入国した 17 。この阿波国の支配体制の大きな転換点において、伊沢氏は武士の身分を捨てるという決断を下し、帰農したと伝えられる 11 。
中世以来、この地を治めてきた在地領主としての影響力と知見は、新たな支配者である蜂須賀氏にとっても無視できないものであった。伊沢氏はその歴史的背景を基盤に、江戸時代には地域の行政を担う庄屋、特に複数の村を束ねる組頭庄屋という重要な地位に就いた 19 。彼らはもはや城を構え、軍勢を率いる存在ではなかったが、地域の指導者として新たな役割を担い始めたのである。
第二節:藩政随一の土木技術者・伊沢亀三郎の偉業
近世における伊沢氏の再生を象徴する人物が、宝暦二年(1752年)に旧伊沢城主の末裔として生まれた伊沢亀三郎である 19 。彼は、徳島藩政期随一の土木技術者として、その名を歴史に刻んでいる 21 。
亀三郎の功績は多岐にわたるが、特に大規模な新田開発と治水事業においてその手腕が発揮された。代表的な事業が、現在の徳島市川内町から松茂町にかけての広大な湿地帯を開発した「住吉新田」の造成である 20 。天明三年(1783年)に始まったこの事業は、度重なる水害などの困難に見舞われたが、亀三郎は大坂の豪商・鴻池家の商業資本を導入するという先進的な手法で資金を確保し、ついに広大な新田を完成させた 19 。
また、彼は暴れ川として知られた吉野川の治水にも情熱を注いだ。故郷である伊沢村が毎年のように洪水被害を受けていたことから、堤防の築造は彼の悲願であった 19 。さらに、麻植郡川田村(現在の吉野川市山川町)の露谷用水池の築造では、たらいの水と蝋燭の灯りを用いて水平線を測量したと伝えられ、その精度は現代の技術で検証してもほとんど狂いがないと評価されている 19 。
伊沢亀三郎の成功は、彼個人の卓越した才能や技術力のみによるものではない。その背景には、伊沢氏が中世から400年以上にわたってこの地を治めてきたことで培われた、無形の「社会資本」が存在した。旧城主の末裔という家柄は、地域住民からの絶大な信頼と尊敬を集めた。大規模な土木工事に不可欠な住民の説得や労働力の動員において、この歴史的な権威は他の庄屋や役人にはない強力な武器となったはずである。戦国時代に武力で地域を支配した力が、平和な江戸時代には、治水技術と地域統率力という形で社会貢献へと転換されたのである。亀三郎の事業は、その養子・速蔵、孫・文三郎へと受け継がれ、「治水勧農といえば伊沢家三代」と称されるほど、徳島藩の発展に尽くした 19 。
第五章:地域に根ざす城の記憶
伊沢城の物理的な建造物は、時の流れとともに地表から姿を消した。しかし、城と城主一族の記憶は、地域の文化や伝説、信仰の中に形を変えて生き続けている。
案山子(かかし)伝説と地域教育
伊沢の地には、心温まる一つの伝説が伝えられている。ある年、豊作に恵まれたものの、大量の雀の群れに襲われて農民たちが困り果てていた。これを見かねた知恵ある城主が、農民たちに案山子の作り方を教え、作物を害から救ったという 22 。
この伝説は単なる昔話に終わらず、現代の地域教育へと見事に継承されている。地元の伊沢小学校では、この伝承を基にした「かかしづくり」が特色ある教育活動として行われている 22 。子供たちが作った個性豊かな案山子は、秋になると「かかしロード」として田園風景を彩り、地域の歴史と文化を次世代に伝える重要な役割を果たしている。城主の善政の記憶が、数百年後の子供たちの創造性を育む糧となっているのである。
地名と信仰
歴史の記憶は、地名や信仰の対象としても地域に深く刻まれている。前述した「鎌倉堀」「鎌倉泉」という地名は、伊沢氏の出自が鎌倉幕府の御家人であったという、この地の歴史の原点を今に伝えている 3 。
また、城跡の近隣には、伊沢氏代々の城主を祀るとされる霊神宮が鎮座している 1 。さらに、蛭田池を挟んだ東側には、城の鎮守社であったと考えられる伊澤神社が存在する 11 。これらの存在は、伊沢氏が単なる軍事的な支配者であっただけでなく、地域の安寧を祈る祭祀を司る、信仰の中心でもあったことを示唆している。
城跡そのものには、蛭田池のほとりに建てられた「伊沢城址」の石碑 3 、そして鎌倉堀の脇に設置された案内板がある 2 。これらは、失われた城の姿を現代に伝えるためのささやかながらも重要な道標であり、訪れる人々にこの地が持つ豊かな歴史を語りかけている。
終章:伊沢城と伊沢氏が日本史に刻んだもの
阿波国伊沢城の歴史は、鎌倉幕府という中央政権との結びつきによって誕生した一地方豪族が、中世から近世へと至る時代の大きなうねりの中で、いかにして存続し、その役割を変容させていったかを示す貴重な事例である。
伊沢家景に始まる伊沢氏の歩みは、日本の武士階級が辿った多様な運命の一典型であった。鎌倉・室町期には幕府の権威を背景とする在地領主として地域を治め、戦国の動乱期には自らの存亡を賭けた激しい武力闘争に身を投じた。そして、その闘争に敗れ武士としての道を絶たれた後、彼らは決して歴史から消え去ることはなかった。近世社会においては、先祖代々受け継いできた土地に関する深い知識と、地域社会における名望という無形の資産を基盤に、治水・勧農を担う専門技術者集団として再生を遂げたのである。
伊沢城という物理的な拠点は、戦国の終焉と共にその役割を終え、今やその痕跡すら見出すことは難しい。しかし、伊沢氏が残したものは、失われた城郭だけではない。伊沢家三代が築いた堤防や用水路は、形を変えた「城」として今もなお吉野川流域の土地を守り続けている。そして、案山子の伝説や地域の信仰の中に息づく城主の記憶は、人々の心の中に築かれた「城」として、これからも阿波の地に語り継がれていくであろう。伊沢城の歴史は、物理的な構造物の盛衰を超えて、文化や技術、そして人々の記憶の中にこそ、その真の価値が存在することを示している。
引用文献
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- 伊沢城の見所と写真・全国の城好き達による評価(徳島県阿波市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/3291/
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- 陸奥国留守職(むつのくにるすしき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9B%BD%E7%95%99%E5%AE%88%E8%81%B7-873214
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- 伊沢城の写真:伊澤神社[hiro.Eさん] - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/3291/photo/302883.html
- 伊沢城の写真:伊沢城跡石碑[あらしさん] - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/3291/photo/361188.html