最終更新日 2025-08-24

佐敷城(琉球国)

琉球統一の礎となった佐敷城は、尚巴志が築いた「土のグスク」。中城湾を望む要衝で、国際交易と鉄生産を掌握し、王権簒奪の拠点となった。石垣を持たず、貼石状石列という独自の防御思想を持つ。現在は国史跡として、琉球の歴史を伝える。

琉球統一の黎明 — 日本戦国期の視座から読み解く佐敷城の戦略的価値と構造

序論: 黎明の拠点、佐敷城

琉球史における最大の転換点、すなわち沖縄本島を三分していた北山・中山・南山の三国を初めて統一した第一尚氏王統の偉業は、本島南部の佐敷(さしき)の丘陵に築かれた、一見すると素朴な城(グスク)から始まった。壮麗な石垣で知られる首里城や中城城といった後代のグスクのイメージとは異なり、佐敷城は石垣を持たない「土のグスク」である。この城こそが、琉球最初の統一者、尚巴志(しょうはし)が飛躍するための揺りかごであった。

なぜ尚巴志はこの地を拠点とし、いかにして強大なライバルであった中山、そして北山、南山を打ち破る力を蓄えることができたのか。その答えは、単に城の軍事機能だけを追うのではなく、その構造、地政学的な立地、そして15世紀という激動の東アジア海域世界という、より広範な文脈の中に隠されている。

本報告書は、近年の考古学的調査によって得られた知見と、歴史文献の記述を統合し、佐敷城の実像を多角的に解明することを目的とする。特に、同時代、すなわち日本の室町時代後期から戦国時代初期にかけての城郭、とりわけ同じく「土の城」を主体としていた山城との比較分析を行う。この視座を通じて、琉球独自の築城思想の発展と、東アジアにおける城郭史の普遍的法則の両側面を浮き彫りにし、佐敷城の真の歴史的価値を再評価するものである。

第一章: 琉球史における佐敷城の位置付け — 三山統一への道程

三山鼎立時代と佐敷按司の台頭

14世紀の沖縄本島は、北部に北山(ほくざん)、中部に中山(ちゅうざん)、南部に南山(なんざん)の三国が鼎立し、互いに覇を競う「三山時代」にあった 1 。各国はそれぞれ独自の王を擁立し、当時アジア随一の大国であった明(中国)に対し、個別に朝貢を行うことで国際的な承認と経済的利益を求めていた 3 。この時代、島内各地には按司(あじ)と呼ばれる地域の首長が割拠しており、彼らは三国のいずれかに属しながらも、強い独立性を保持していた。

沖縄本島南部、中城湾(なかぐすくわん)を望む佐敷の地を治めていた佐敷按司も、そうした群雄の一人であり、南山王国に属する勢力であった 4 。この佐敷按司の地位に就き、やがて琉球の歴史を大きく動かすことになるのが、尚思紹(しょうししょう)・尚巴志の父子である。

尚氏の出自と佐敷按司への道

琉球王国の正史『中山世譜』によれば、尚思紹の父である鮫川大主(さめかわうふぬし)が佐敷の地に移り住み、その子である思紹は「為人資質純厚(人となり、生まれつき純朴で人情に厚い)」であったことから、地域の百姓に推戴されて佐敷按司になったと伝えられる 5 。この記述は、尚氏の台頭が単なる世襲によるものではなく、民衆からの広範な支持という正統性を背景に持っていたことを示唆している。やがて尚思紹は、嫡子である巴志に「有治世安民之能(世を治め、民を安んずる能力がある)」ことを見出し、按司の地位を譲った 5 。この民意を基盤とした権力移譲こそが、後の統一事業において他勢力を凌駕する重要な力となったのである。

尚巴志の台頭と佐敷城の戦略拠点化

若くして佐敷按司の地位を継いだ尚巴志は、卓越した才覚を発揮し始める。彼はまず、所属する南山王国の内紛に巧みに介入し、島尻大里城の按司・汪英紫(おうえいじ)と同盟を結び、南山王・承察度(しょうさっと)を打倒するなど、外交と軍事を駆使して自らの影響力を着実に拡大していった 9

そして1406年、尚巴志は生涯最大の賭けに出る。当時、三国の中で最も強大であった中山王・武寧(ぶねい)の統治が苛烈で民心を失っていることを見抜くと、佐敷から兵を挙げ、中山の拠点である浦添城を攻略。武寧を追放し、父・尚思紹を新たな中山王として擁立したのである 9 。この一連の軍事行動において、そのすべての計画が練られ、兵力が集積された司令部こそが、佐敷城であった 10

この事実は、佐敷城が単なる按司の居城ではなかったことを物語っている。一地方領主の立場から、格上である大国の王権を奪取するという、日本の戦国時代で言うところの「下剋上」を成功させるためには、長期的かつ周到な準備が不可欠である。軍事力、経済力、そして敵対勢力に関する情報を集積し、緻密な戦略を練り上げるための司令部機能が求められる。すなわち、佐敷城は静的な居城ではなく、次なる飛躍のためのエネルギーを蓄積し、計画を実行に移すための動的な拠点、いわば「王権簒奪のインキュベーター」としての役割を担っていたと解釈できる。

統一事業の拠点から王家の故地へ

中山の掌握に成功した尚巴志は、父・尚思紹王のもとで実権を握り、佐敷城を拠点としてさらなる勢力拡大を進める。1416年には北山を、そして1429年には南山を滅ぼし、ついに琉球史上初の統一王朝を樹立した 3

統一後、王国の政治的中心は中山の故地である首里へと移され、佐敷城はその軍事拠点としての第一線での役割を終えたと考えられる 12 。しかし、城としての機能を失った後も、佐敷の地は第一尚氏王統発祥の地、すなわち「王家の故地」として特別な地位を保ち続けた 12 。これは、新たな為政者が自らの権威の源泉として、始祖ゆかりの地を神聖視するという、歴史上普遍的に見られる現象である。統一王朝の「揺りかご」としての象徴的価値が、佐敷の地を単なる一地方から聖地へと昇華させたのである。

年代(西暦)

出来事

関連事項

1372年

尚巴志、佐敷間切にて生まれる。

父は佐敷按司の尚思紹 4

1392年頃

尚思紹が隠居し、尚巴志が佐敷按司の地位を継ぐ 4

佐敷城が尚巴志の拠点となる。

1398年頃

尚巴志、島尻大里按司・汪英紫と結び、南山王・承察度を打倒 9

南山への影響力を確保。

1406年

尚巴志、中山王・武寧を攻略し、父・尚思紹を中山王に擁立 9

琉球史における「下剋上」の達成。拠点は佐敷城。

1407年

尚思紹、明の永楽帝より中山王として冊封を受ける 5

尚氏による中山王権が国際的に承認される。

1416年

尚巴志、北山王国を滅ぼす 3

次男・尚忠を北山監守として今帰仁城に置く 11

1421年

尚思紹王が死去 8

1422年

尚巴志が中山王として即位 11

1425年

尚巴志、明より中山王として冊封を受ける 11

1429年

尚巴志、南山王国を滅ぼし、三山統一を達成 3

琉球史上初の統一国家が誕生。政治の中心は首里へ。

表1:佐敷城および第一尚氏関連年表

第二章: 地政学的・経済的背景 — 大交易時代の要衝

大交易時代の幕開けと琉球の地の利

尚巴志が台頭した14世紀末から15世紀にかけての東アジアは、大きな地殻変動の時代であった。中国大陸に誕生した明王朝は、倭寇対策などを理由に、民間人の海上交易を厳しく制限する「海禁政策」を敷くと同時に、周辺諸国に対しては、明皇帝の徳を慕って朝貢する形式でのみ交易を認める「朝貢貿易体制」を構築した 13

この政策は、公式な交易ルートを著しく限定したが、東シナ海と南シナ海の結節点という絶好の地理的条件に恵まれた琉球にとっては、千載一遇の好機となった。日本、朝鮮半島、中国、そして東南アジア諸国の中間に位置する琉球は、この明の朝貢システムを最大限に活用し、各国の産物を集積して再輸出する「中継貿易」の拠点として、空前の繁栄を遂げることになる 15 。琉球の繁栄は地理的な偶然ではなく、国際情勢の的確な分析と、中継貿易を国家戦略として推進した結果であった。

朝貢貿易がもたらした富

琉球にとって、明への朝貢は単なる形式的な服属儀礼ではなかった。それは、極めて有利な国営貿易でもあった。明は、中華思想に基づき、遠方より来貢する「徳を慕う国」を手厚く遇する方針を採った。そのため、琉球が献上する馬や硫黄といった朝貢品の価値をはるかに上回る莫大な下賜品、すなわち絹織物、陶磁器、そして鉄製品などを与えたのである 18 。この朝貢貿易によってもたらされた莫大な富こそが、当時まだ小国であった琉球の国力を飛躍的に増大させ、統一事業を可能にする経済的基盤となった。この国際交易システムを深く理解し、巧みに利用する能力こそが、三山の覇権を争う按司たちの優劣を決定づける重要な要素だったのである。

佐敷城と交易ルート

佐敷城は、この大交易時代の恩恵を直接享受し、またそれを積極的に活用するための戦略拠点として築かれていた。城は、沖縄本島東海岸の主要な湾である中城湾を一望できる高台に位置しており、湾内を往来する交易船の動向を常に監視するのに最適な立地であった 19

その経済的繁栄を裏付けるのが、城跡からの膨大な出土遺物である。特に注目されるのが、中国産の陶磁器の量と質であり、中でも「佐敷タイプ」と称される特定の様式を持つ無文の外反り青磁碗が突出して多く発見されている 12 。この事実は、単に尚氏が交易の受益者であったという以上のことを示唆している。特定の様式の製品がこれほど集中するということは、尚氏が中国の特定の窯業地や商人との間に、安定的かつ大規模な独自の交易ルートを確立していた可能性が高い。佐敷城の立地は、この生命線ともいえる交易ルート(中城湾)を物理的に監視・防衛し、他勢力の介入を断固として排除するという強い意志の表れであったと考えられる。つまり、尚巴志の強さの源泉は、単なる武力だけでなく、経済、とりわけ「物流の支配」にあったのではないか。佐敷城は、その物流支配の司令塔であり、富の集積地であったのだ。

尚巴志の「鉄」の逸話と考古学的裏付け

尚巴志の先見性を象徴する逸話として、若き日の「鉄」にまつわる物語が伝えられている。ある時、与那原の港に鉄を満載した異国の商船が来航した。尚巴志は、地元の鍛冶に作らせた一振りの名剣と引き換えに、一船分の鉄すべてを手に入れたという。そして、その鉄を独占することなく、すべて領内の百姓たちのための農具に作り替えさせ、分け与えた。これにより佐敷の農業生産力は飛躍的に向上し、民衆の絶大な支持を得た、というものである 9

この物語は、単なる英雄伝説として片付けられない。近年の考古学調査が、その信憑性を強力に裏付けている。佐敷城の北西約280mに位置する下代原(しもだいはら)遺跡において、グスク時代(12世紀〜16世紀)に属する製鉄関連の遺構が発見されたのである。ここからは、鉄を精錬する際に出る不純物である鉄滓(てっさい)などが多数出土しており、佐敷の地で鉄の生産活動が行われていたことが確実となった 20

この発見の意義は計り知れない。鉄は、農具として生産力を高め民衆の支持を得るため、そして武具として軍事力を強化するための、当時最も重要な戦略物資であった。尚巴志が鉄の価値を深く理解し、その入手ルートの確保(交易)から加工・生産(製鉄)までを一貫して掌握していたこと、それこそが、彼がライバルたちを圧倒し、統一事業を成し遂げた核心的な要因の一つであったことを、この遺跡は雄弁に物語っている。

第三章: 城郭構造の徹底分析 — 「土のグスク」としての特異性

縄張りの全体像

佐敷城の構造を理解する上で最も重要な点は、それが自然の丘陵地形を最大限に活用して築かれていることである。城の縄張り(設計)は、丘陵の尾根上に複数の郭(くるわ)、すなわち平坦地を階段状に配置した「連郭式(れんかくしき)」と呼ばれる形式を採る 12 。城の主体部である上城跡(うぃーぐすくあと)は、東西約200メートル、南北約300メートルの規模を有し、その範囲は近年の発掘調査によって、従来考えられていたよりも広範囲に及ぶことが判明している 12 。この設計思想は、大規模な土木工事によって地形を根本的に作り変えるのではなく、元々の地形の利点を活かし、人工的な改変を最小限に留めながら防御効果を高めるという、初期的な山城に共通する合理性に基づいている。

石垣なき城の防御思想

佐敷城が他の多くの著名なグスクと一線を画す最大の特徴は、高く堅固な石垣(石積み)を持たないことである 19 。後代の首里城や中城城が、曲線を描く壮麗な石垣をその象徴とするのに対し、佐敷城の防御は、より素朴かつ実践的な手法に依拠していた。

その防御の主体は、主に三つの要素から構成される。第一に、山の斜面を急角度に削り出して敵の登攀を困難にする「切岸(きりぎし)」。第二に、削り出した土を盛り上げて郭の縁に築いた「土塁(どるい)」。そして第三に、これらの土木工事に加えて、郭の周囲に巡らされたであろう木製の柵(柵列)である 12 。このような構造は、琉球石灰岩を用いた高度な石積み技術が本格的に発展・普及する以前の、より古い時代のグスクの形態を示しているか、あるいは資源や労働力の制約、機動性の重視といった戦略的な理由から、意図的に異なる築城技術が選択された結果であると考えられる。

沖縄で類例なき技法「貼石状石列」

石垣を持たない「土のグスク」である佐敷城だが、発掘調査によって、その防御思想の独創性を示す極めて興味深い遺構が発見された。それが、切岸の表面に石を貼り付けるように並べた「貼石状石列(はりいしじょうせきれつ)」と呼ばれる構造である 12 。この技法は、沖縄の他の300近くあるグスクの中でも類例が確認されておらず、佐敷城の築城技術の特異性を際立たせている。

この独特な技法が採用された目的は、複合的であったと推測される。第一に、切岸の土壌が雨水などで崩落するのを防ぐ、土留めとしての物理的な補強機能。第二に、切岸を登ろうとする敵兵の足場を奪い、登攀をより困難にするための障害機能。そして第三に、そしておそらく最も重要なのが、視覚的な効果である。

全面的な石垣を築くには、莫大な労働力と時間、そして高度な技術を要する。それに対し、この貼石状石列は、比較的少ない資源と労力で斜面を強化することが可能である。さらに重要なのは、この城が面する中城湾を航行する交易船や、潜在的な敵対勢力の船から見た際の景観である 20 。遠目には、城の斜面全体が石で固められた堅固な城壁のように見え、城主である尚氏の権威と軍事力を、実際以上に大きく見せかける効果があったのではないか。これは、一種の「ハッタリ」であり、貿易相手やライバルに対する心理的な牽制として極めて有効な、実利的な軍事思想の表れと言える。つまり、貼石状石列は、実用性と心理的効果を兼ね備えた、コストパフォーマンスの極めて高い防御・威嚇装置だったのである。

一般的な石積みグスクとの差異

後の時代、特に15世紀後半から16世紀にかけて、琉球のグスクは、加工しやすい琉球石灰岩をふんだんに用いた、高く、厚く、そして流麗な曲線を描く石垣を発展させていく 25 。佐敷城が築かれ、その最盛期を迎えた14世紀から15世紀初頭という時代は、まさにその技術的過渡期にあったか、あるいは石積みとは異なる系統の築城思想が並行して存在していた可能性を示している。佐敷城は、琉球の城郭史における「土の城」から「石の城」へと移行する過程、あるいは地域や氏族によって異なる築城文化が存在したことを示す証左として、極めて重要な学術的価値を持つのである。

第四章: 日本の戦国時代城郭との比較考察

15世紀日本の山城

佐敷城が琉球統一の拠点として機能していた15世紀、日本列島は室町時代の後期にあたり、応仁の乱(1467年〜1477年)を経て、やがて戦国時代へと突入していく激動の時代であった。この時期、日本各地の武士たちが拠点とした城郭、特に山城は、まだ織田信長や豊臣秀吉の時代に見られるような総石垣の巨大城郭ではなく、佐敷城と同様に、自然地形を巧みに利用した「土の城」が主流であった 31

これらの山城は、山の尾根や頂上を削平して郭(曲輪)を造成し、その周囲を土塁で囲み、尾根を人工的に切断する「堀切(ほりきり)」や、山の斜面に縦方向の溝を掘って敵の横移動を妨げる「竪堀(たてぼり)」といった防御施設を駆使して守りを固めていた 33 。多くの場合、領主は平時には麓に構えた居館で生活し、有事の際にのみ山城に立て籠もるという「根小屋式(ねごやしき)」と呼ばれる形態が一般的であった 32

共通する「土の城」の思想

佐敷城の防御構造、すなわち斜面を削って造成した「切岸」や、平坦地である「平場(郭)」の配置は、日本の山城における「切岸」や「曲輪」の造成技術と、その根本的な思想において軌を一にするものである 36 。どちらも、大規模な石積み技術が全面的に展開される以前の段階において、防御施設を構築するための最適解が「地形そのものを兵器化する」ことであったことを示している。

琉球と日本という地理的に離れた場所で、なぜ同時期にこれほど類似した構造の城が生まれるのか。それは、特定の文化圏に閉じた技術の伝播というよりも、当時の技術レベルにおける普遍的な軍事合理性の発現と見るべきである。尾根を削り、斜面を切り立て、平坦地を確保するという土木工事を主体とした築城術は、両者が同じ「いかにして効率的に敵の攻撃を防ぐか」という問いに対し、酷似した答えを導き出した結果なのである。この意味で、佐敷城と日本の初期山城は、「地形加工型要塞」という共通の技術的段階(テクノコンプレックス)に属すると言える。

相違点と、その背景にある戦略思想の違い

一方で、両者の間には看過できない明確な相違点も存在する。日本の山城に極めて特徴的であり、その防御システムの中核をなす「堀切」や「竪堀」といった施設が、佐敷城の調査では明確に確認されていない 34

この構造的な差異は、両者が想定していた脅威の方向性と性質の違いに起因すると考えられる。日本の山城が主として警戒するのは、陸上からの、尾根や谷筋を伝って攻め寄せてくる敵軍である。そのため、尾根筋を物理的に分断する堀切や、斜面での自由な移動を阻害する竪堀が極めて有効な防御手段となった。

これに対し、海洋国家琉球の拠点であった佐敷城が最も警戒すべき正面は、陸ではなく海であった。海上交通路の確保、交易船の安全、そして海上からの敵の接近をいち早く察知し、港湾機能を防衛することが最優先の戦略課題であった。そのため、陸続きの尾根を分断する内陸的な防御思想よりも、海岸線からのアプローチを困難にする長大な切岸や、城域全体から海上への視認性を高める縄張りが重視された。この違いは、内陸の領主たちが築いた砦と、海洋交易に生きる勢力が築いた拠点との、根本的な戦略思想の違いを如実に示している。

比較項目

佐敷城(琉球国)

15世紀日本の山城(根小屋式)

立地

海(中城湾)に面した丘陵地。海上交通の監視・支配に最適。

内陸の山地。領国支配の中心地と防衛上の要衝を見下ろす位置。

主たる防御壁

切岸(きりぎし)、土塁、貼石状石列。石垣は限定的。

切岸、土塁。石垣は稀で、あっても小規模。

区画方法

丘陵上に複数の平場(郭)を階段状に配置する連郭式。

尾根上に複数の曲輪(くるわ)を直線的に配置する連郭式が主。

特徴的防御施設

貼石状石列(沖縄で類例なし)。

堀切(ほりきり)、竪堀(たてぼり)、畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)。

想定される主戦場

海上からの接近、および海岸線での攻防。

陸路(特に尾根筋)からの攻城戦。

機能

軍事、政治、交易、居住の複合拠点。

有事の際の籠城に特化した軍事施設。平時の居住は麓の居館。

表2:佐敷城と15世紀日本の山城の構造比較

第五章: 発掘調査が語るもの — 遺構と出土品からの洞察

遺構の分析

近年に至るまでの継続的な発掘調査は、文献史料だけでは知り得なかった佐敷城の具体的な姿を明らかにした。調査によって、複数の段状に造成された平場、その上に建てられていたであろう建物の存在を示す多数の柱穴、そして城の防御を担った石列や土塁の痕跡が確認されている 20 。特に、平場の一部は単に地面を削平しただけでなく、防御効果を高めたり、より広い空間を確保したりするために、土や石を盛って造成された箇所があることも判明している 20

さらに重要なのは、これらの遺構の分析から、佐敷城が一度の工事で完成したのではなく、13世紀頃からその原型が築かれ始め、尚氏が台頭する14世紀中頃から15世紀前半にかけて、段階的に拡張・改修されていったことが明らかになった点である 12 。この城の成長の軌跡は、佐敷按司であった尚氏が、一地方領主から琉球の統一者へとその勢力を拡大していく過程と、まさに連動していると考えられる。

出土品から復元する社会

佐敷城跡から出土した遺物は、当時の社会の様相を復元するための貴重なタイムカプセルである。その内容は多岐にわたり、大きく四つのカテゴリーに分類できる。

  1. 交易品 : 中国(元・明)で生産された青磁、白磁、染付(青花)、そしてタイやベトナムなど東南アジア産の陶器類。これらは、佐敷が国際交易ネットワークの重要な結節点であったことを示す動かぬ証拠である 12
  2. 在地品 : 琉球で生産・使用されたグスク土器や、奄美群島徳之島産とされる類須恵器(カムィヤキ)など。これらは、交易品と併用された日常の生活用器であった 20
  3. 武具 : 鉄鏃(てつぞく、矢じり)や刀子(とうす、小型の刀)といった鉄製品。これらは佐敷城が軍事的な緊張の中にあったことを示している 20
  4. 生活用品 : 建材として使われた角釘、遊戯具であった可能性のあるおはじきや碁石、さらには長崎県産の滑石(かっせき)で作られた石鍋の破片など、多様な品々が含まれる 20

もし佐敷城が純粋な軍事要塞であったならば、出土品は武具や在地の実用土器に偏るはずである。しかし、実際には中国や東南アジアからの高級な輸入品が多数を占め、城内で日常的に国際的な物品が消費されていたことを示している。また、碁石やおはじきのような遊戯具の存在は、戦闘一辺倒ではない、文化的な潤いのある生活が営まれていたことを示唆する。これらの出土品の構成比は、佐敷城が「戦うための場所」であると同時に、国際色豊かな「暮らすための場所」、そして富を蓄え、その権威を「見せるための場所」という、複数の顔を持っていたことを雄弁に物語っている。

食生活の痕跡

遺物の中でも、当時の人々の生活をリアルに伝えるのが、食物残滓である。城跡からは、刃物で解体された痕跡のある牛骨や、イノシシもしくは豚の骨、多種の魚骨、そしてアラスジケマンガイなどの貝類が多数出土している 20 。これは、城内に居住していた人々が、家畜の飼育、狩猟、漁撈、採集といった多様な手段で食料を確保し、豊かな食生活を送っていたことを示している。特に、労働力や貴重な財産であった家畜の牛を食用にしていた痕跡は、当時の食文化や社会構造を考える上で貴重な手がかりとなる。このような安定した食料供給体制こそが、尚氏の勢力基盤を足元から支えていたことは想像に難くない。

第六章: 「佐敷グスク群」— 周辺遺跡とのネットワーク

城郭本体と周辺施設の連携

近年の城郭研究では、城を単体の防御施設として捉えるのではなく、その周辺に広がる関連施設群と一体の、有機的な複合体として理解する視点が重要視されている。佐敷城も例外ではなく、城本体である上城跡だけでなく、周辺に点在する居住跡や生産遺跡、墓陵などを含めた広域の「佐敷グスク群」として捉えることで、その真の機能と価値が明らかになる 20 。城郭は孤立して存在するのではなく、周辺の集落や生産拠点と結びついて初めて、その能力を最大限に発揮するのである。

機能分担された空間

発掘調査や伝承から、「佐敷グスク群」が、それぞれ異なる機能を持つ複数の空間から構成されていたことがわかっている。

  • 中枢・司令部 : 軍事・政治の中心であった 上城跡(うぃーぐすくあと) 12
  • 居住区 : 尚思紹の舅(しゅうと)であり、有力な姻戚であった美里子(んざとぅし)の屋敷跡と伝わる 美里殿(んざとぅどぅん)や、尚思紹自身の屋敷跡とされる苗代殿(なーしるどぅん) 。これらは城の東側に位置し、生活の中心地であった 20
  • 監視・偵察拠点 : 城の南西に位置する タキノー と呼ばれる丘陵。城本体からは死角となる方面の監視を担う、見張り台としての機能があったと推測される 20
  • 生産拠点 : 城の北西に位置する 下代原遺跡(しもだいはらいせき) 。前述の通り、鉄を生産していた工房跡であり、尚氏の軍事力と経済力を支える重要な産業基盤であった 20
  • 祭祀・墓陵 : 第一尚氏王統の祖先が眠る王墓**「佐敷ようどれ」**。権威の象徴であり、一族の結束を固める精神的な中心地であった 20

このように、佐敷の地には、行政・軍事、居住、生産、監視、そして祭祀・墓陵という、一個の都市、あるいは国家を運営するために不可欠な機能が、コンパクトながらもすべて揃っていたのである。

この空間構成は、後の琉球王国の首都となる首里の姿を想起させる。首里は、王の居城である首里城を中心に、官庁街、王族や士族の居住区、宗教施設、様々な工房、そして王墓である玉陵(たまうどぅん)などが計画的に配置された、壮大な王都であった。その構造と比較すると、「佐敷グスク群」は、規模こそ小さいものの、後の王都の原型(プロトタイプ)と見なすことができる。これは、尚巴志が中山を攻略し、首里に拠点を移す以前から、すでに高度な都市計画、あるいは国家統治の空間的モデルを、この佐敷の地で実験的に構築していたことを強く示唆している。したがって、佐敷は単なる田舎の拠点ではなく、来るべき統一国家の首都の雛形であったと言うことができるだろう。

第七章: 聖地としての変容と現代における意義

城から御嶽へ

15世紀、尚巴志による三山統一が成り、王国の中心が首里へと移ると、佐敷城はその軍事拠点としての役割を終える。しかし、城としての機能が失われた後も、この地が持つ重要性が失われることはなかった。むしろ、第一尚氏王統発祥の地という歴史的な記憶は、この場所を神聖な空間へと変容させた。

城跡は、琉球の土着信仰における聖地である「御嶽(うたき)」として、人々の信仰の対象となった。城内には「上グスク之嶽」と呼ばれる拝所が設けられ、18世紀初頭に琉球王府によって編纂された地誌『琉球国由来記』にも、その名が記されている 37 。軍事拠点がその役目を終えた後、創業者や祖先を祀る聖地に変容していくプロセスは、世界各地の歴史遺産に普遍的に見られる現象である。佐敷城もまた、その輝かしい歴史の記憶の上に、新たな宗教的意味が付与され、地域の精神的な支柱としての役割を担い続けることになったのである。

近代における月代宮の建立

時代が下り、琉球王国が廃され沖縄県となった後の近代、佐敷城跡は再び大きな変貌を遂げる。1938年(昭和13年)、尚巴志の没後500年を記念する「尚巴志王五百年祭」に際し、城跡の最も高い場所に「月代宮(つきしろのみや)」という名の神社が建立された 37 。その名は、第一尚氏の守護神であった「つきしろ」という霊石に由来し、祭神として尚思紹、尚巴志をはじめとする第一尚氏の歴代王が祀られている 41

この月代宮の建立は、単なる歴史的英雄の顕彰という側面だけでは捉えきれない。建立された1938年という時代背景を考慮する必要がある。この時期、日本は日中戦争の只中にあり、国家総動員体制のもと、国民精神の統合が強力に推し進められていた。その一環として、日本各地の歴史や英雄を、国家神道や皇国史観の枠組みの中に再配置しようとする動き(皇民化政策)が活発化した。琉球の偉大な英雄である尚巴志を、古来の信仰の形である御嶽としてではなく、鳥居や拝殿を持つ日本的な「宮」の形式で祀ることは、琉球の独自性を日本の歴史の一部として包摂し、国民統合を促進するという、当時の政治的・文化的意図を色濃く反映している。つまり月代宮は、近代国家のイデオロギーが歴史遺産に与えた影響を示す、極めて重要な事例なのである。

国史跡としての価値と現代的意義

佐敷城跡は、その比類なき歴史的重要性と、沖縄の城郭史における構造的特異性が評価され、国の史跡に指定されている 12 。その価値は、単に「琉球を統一した尚巴志の城」という点に留まらない。世界遺産に登録されている他の壮麗な石垣のグスクとは異なる、「土のグスク」としての独自の築城技術、特に類例のない「貼石状石列」の存在は、琉球の城郭の多様性と発展の過程を理解する上で不可欠である。

現代に生きる我々には、この佐敷城が持つ多層的な歴史、すなわち、統一事業の拠点として築かれた時代、王家の故地として聖地化された時代、そして近代国家の論理の中で再解釈された時代という、重層的な記憶を正しく理解し、適切に保存・活用していく責務がある。

結論: 佐敷城が示す琉球王国の独自性と普遍性

本報告書で詳述した通り、佐敷城は、15世紀の東アジア海域世界という国際的な舞台を背景に、一地方領主であった尚氏が琉球統一という偉業を成し遂げるための、まさに揺りかごであり、戦略拠点であった。その力の源泉は、単なる軍事力に留まらず、激動する国際情勢を的確に読み解き、中継貿易を掌握することでもたらされた圧倒的な経済力と、鉄という最重要戦略物資の生産・支配に根差していた。

城郭の構造は、石垣を持たない「土の城」であり、同時代の日本の山城と「地形加工型要塞」という点で、技術的・思想的な共通性を持つ。これは、異なる文化圏が、当時の技術レベルにおいて、軍事的な合理性を追求した結果、類似した解決策に到達したことを示す興味深い事例である。しかし同時に、その縄張りや防御思想には、陸上戦闘を主眼とする日本の城とは明確に異なる、海洋国家琉球ならではの独自性が色濃く反映されている。

結論として、佐敷城は琉球史の黎明を象徴する偉大な記念碑であると同時に、日本の戦国期城郭史という、より広範な比較の枠組みの中に位置づけることで、その真価がより一層明らかになる。それは、琉球という文化圏が育んだ独自の歴史的発展と、より広い東アジア史の中で見られる城郭発展の普遍的法則とが交差する、極めて重要な歴史遺産である。佐敷城の研究は、我々に文化の多様性と歴史の多層性を深く教えてくれるのである。

引用文献

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