佐敷城(肥後国)
肥後国佐敷城は、肥薩国境の要衝に位置し、相良・島津氏の攻防を経て加藤清正が近世城郭として大改修。梅北一揆や関ヶ原の戦いを乗り越えるも、一国一城令と島原の乱後に徹底破却された。現在は「破壊された姿」を保存する国指定史跡。
肥後国佐敷城に関する総合的研究 ― 戦国期における地政学的要衝の変遷と実像
序章:肥薩国境の要衝、佐敷城の戦略的価値
肥後国南部、現在の熊本県葦北郡芦北町にその痕跡を留める佐敷城は、単なる一地方の城郭ではない。その歴史は、戦国時代から近世初頭にかけての九州南部の覇権争い、ひいては天下統一という巨大な歴史の奔流を凝縮した、地政学的な指標として捉えることができる。城は、薩摩国と肥後国を結ぶ大動脈である薩摩街道と、人吉盆地へと通じる人吉街道(相良往還)が交差する交通の結節点に位置していた 1 。この地理的優位性は、陸路のみならず、八代海(不知火海)を介した海路をも掌握しうる戦略的価値をこの地にもたらし、結果として佐敷城を歴史の表舞台へと押し上げ、絶え間ない争奪の的としたのである。
本城の歴史を紐解くと、その支配者の変遷が、そのまま肥後南部における勢力図の推移を克明に物語っていることがわかる。在地領主の佐敷氏から、球磨を本拠とする相良氏、薩摩から九州制覇を目論む島津氏、そして天下人の代理人たる加藤清正へと、城主は目まぐるしく入れ替わった 3 。この変遷は、在地勢力の衰退、地域大名の興亡、そして中央政権による再編という、戦国時代特有の権力構造の変化と完全に軌を一にする。したがって、佐敷城の歴史を深く考察することは、一つの城の盛衰を追うに留まらず、戦国時代における南九州のパワーバランスの力学を解明するための鍵となる。佐敷城は、まさに時代の動向を映し出す鏡であったと言えよう。
本稿では、中世における佐敷城の萌芽から、戦国期の相良・島津両氏による死闘、加藤清正による近世城郭への大改修、そして泰平の世における破却と現代における史跡としての再生まで、その全貌を多角的に分析し、肥薩国境の要衝が果たした歴史的役割を徹底的に究明するものである。
佐敷城 関連略年表
西暦(和暦) |
主な出来事 |
関連人物 |
備考 |
南北朝時代 |
芦北地方が南北両朝の係争地となる。佐敷氏が活動。 |
名和顕興, 相良前頼 |
この頃の城は「東の城」か。 |
1581年(天正9年) |
島津氏の水俣城攻撃。相良氏が降伏し、葦北郡を割譲。 |
島津義久, 相良義陽 |
佐敷城は島津氏の支配下に入る。 |
1587年(天正15年) |
豊臣秀吉の九州平定。島津氏は肥後から撤退。 |
豊臣秀吉 |
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1588年(天正16年) |
加藤清正が肥後北半国の領主となり、佐敷城の大改修を開始。 |
加藤清正, 加藤重次 |
近世城郭としての佐敷城の始まり。 |
1592年(文禄元年) |
梅北一揆。朝鮮出兵の隙に梅北国兼が城を一時占拠するも奪還。 |
梅北国兼, 加藤重次 |
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1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い。加藤重次が西軍・島津軍の攻撃に対し籠城、守り抜く。 |
加藤重次, 島津忠長 |
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1607年(慶長12年) |
城の改修が行われる(「慶長十二年」銘瓦が出土)。 |
加藤清正 |
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1615年(元和元年) |
一国一城令により廃城。最初の破却が行われる。 |
徳川家康 |
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1638年(寛永15年) |
島原の乱後、幕命により徹底的な追加破却が行われる。 |
細川忠利 |
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1993年(平成5年) |
芦北町による本格的な発掘調査が開始される。 |
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2008年(平成20年) |
国の史跡に指定される。 |
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第一章:中世葦北の動乱と佐敷城の萌芽
加藤清正によって築かれた壮麗な石垣の城として知られる佐敷城であるが、その歴史は戦国末期に突如として始まったわけではない。この地には、より古くから在地領主たちの興亡を見つめてきた中世の城が存在し、その軍事的経験知の蓄積が、後の近世城郭の誕生へと繋がっていくのである。
第一節:在地領主「葦北衆」と佐敷氏の時代
中世の肥後国葦北郡には、「葦北衆」と総称される国人たちが割拠していた 5 。彼らは、この地域の複雑な地形を巧みに利用し、独立性を保ちながら勢力を維持していた武士団である。その中でも、佐敷の地を本拠とし、その名を名乗ったのが佐敷氏であった 5 。佐敷氏を含む葦北衆の出自は、古代氏族である檜前(ひのくま)氏に遡る可能性が指摘されており、薩摩国に勢力を持った篠原氏とも同族関係にあったと考えられている 5 。彼らは、この地の土着領主として、佐敷の戦略的重要性を誰よりも深く理解していたはずである。
第二節:南北朝の争乱と「東の城」
佐敷の地が、より広域的な争乱の舞台となるのは、14世紀の南北朝時代である。この時期、葦北地方は南朝方の拠点となり、菊池氏や名和氏らが北朝方の足利勢力と激しい攻防を繰り広げた 6 。特に、八代に拠点を置いた南朝方の将・名和顕興は、葦北の諸城に配下の武将を配置して防備を固め、佐敷城もその重要な一角を担った 6 。
しかし、この南北朝期に拠点とされた城は、現在我々が目にする佐敷城跡(花岡山)とは異なる場所にあったとする説が有力である。それは、佐敷川を挟んで東側の丘陵に位置した「東の城」と呼ばれる城郭であった 1 。この「東の城」を巡っては、南朝方の名和氏と北朝方の相良氏・今川氏との間で凄惨な争奪戦が繰り返され、佐敷が良港を擁する軍事拠点として極めて重要視されていたことが窺える 6 。
この事実は、加藤清正による近世佐敷城の築城を考える上で重要な示唆を与える。清正は全くの更地に城を構想したのではなく、中世以来、幾多の攻防を経て軍事拠点としての価値が証明されてきた土地に、当代最新の技術と思想をもって城を「再構築」したと解釈できる。清正の築城地選定は、彼の独創であると同時に、この地に刻まれた軍事的な経験知、すなわち「土地の記憶」の継承と発展の形であった。
清正は、中世の「東の城」があった対岸ではなく、西側の花岡山を新たな築城地に選定した 5 。なぜ場所を移したのか。当時の地形を復元すると、花岡山は現在よりも海岸線が内陸に迫り、佐敷湾に直接突き出す半島状の丘陵であったと推定される 4 。この立地は、内陸の薩摩街道と人吉街道を扼するだけでなく、佐敷湾に出入りする船舶を完全に監視・管制下に置くことを可能にする。中世の「東の城」が主に陸路の支配を重視していたのに対し、清正は水軍の運用や海上からの兵站補給といった、より立体的かつ近代的な防衛思想を構想していたのである。伝統的な要衝という地の利を最大限に活かしつつ、自身の広域的な戦略思想に合わせて最適化した結果が、花岡山への築城であったと考えられる。
第二章:炎上する国境 ― 相良氏と島津氏の死闘
16世紀後半、九州の勢力図は大きく塗り替えられようとしていた。薩摩・大隅・日向を平定した島津氏が、次なる目標として肥後国へと触手を伸ばし始めたのである。この島津氏の北上政策の前に立ちはだかったのが、球磨・八代・葦北を支配する相良氏であった。佐敷城は、この両者の激突の最前線となり、その運命は大きく揺れ動くこととなる。
第一節:島津氏の肥後侵攻と水俣城の攻防
天正9年(1581年)、島津義久は肥後侵攻を本格化させ、大軍を率いて相良領の南の玄関口である水俣城を包囲した 8 。相良方の守将は、歴戦の勇将・犬童頼安。彼はわずか700余りの兵で籠城し、数万ともいわれる島津の大軍を相手に決死の防衛戦を繰り広げた 8 。島津方は攻めあぐね、攻防は膠着状態に陥る。この時、島津方から「秋風に水俣落つる木ノ葉哉」という句が矢文で射かけられ、これに対し犬童頼安が「寄せては沈む月の浦波」と脇句を射返したという逸話は、戦いの激しさの中にも当時の武士の教養と気概を伝えている 8 。
第二節:相良義陽の降伏と葦北の割譲
水俣城での犬童頼安の奮戦にもかかわらず、相良氏全体の劣勢は覆いがたかった。当主の相良義陽は、これ以上の抵抗は本拠地である球磨郡の危機を招くと判断し、苦渋の末に島津氏との和睦を決断する 5 。その条件は過酷なものであった。水俣、湯浦、津奈木、佐敷、市野瀬の葦北郡五城を島津氏に割譲し、さらに二人の息子を人質として差し出すという内容であった 12 。
この降伏により、佐敷城は戦火を交えることなく島津氏の支配下へと移行した。島津氏は家臣の宮原景種を佐敷の地頭に任じ、肥後南部の拠点として統治にあたらせた 4 。この一連の出来事は、佐敷城の運命が、必ずしも城そのものの攻防戦だけで決まるわけではないことを示している。島津氏は、佐敷城を単体で攻略するのではなく、相良氏の防衛線全体を揺るがす戦略を選択した。すなわち、より強固な水俣城に圧力をかけ、相良氏の中枢に「葦北全域を失うか、それとも葦北を割譲して本領の球磨を安堵されるか」という究極の選択を迫ったのである。結果的に相良義陽は後者を選び、佐敷城はより大きな戦略の駒として、その支配権が移譲された。佐敷城の運命は、水俣城の攻防によって決定づけられたと言っても過言ではない。
第三章:加藤清正の入国と近世城郭への大転換
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定は、九州の政治情勢を一変させた。島津氏は秀吉に降伏し、肥後の地は中央政権の管理下に置かれることとなる。当初、肥後一国は佐々成政に与えられたが、国人一揆を招いた失政により改易。天正16年(1588年)、肥後は北半国が加藤清正に、南半国が小西行長に分与された 5 。佐敷を含む葦北郡は、清正の本拠である熊本からは離れた飛び地として、彼の所領となったのである 5 。
第一節:「境目の城」としての再構築
清正にとって、この飛び地は極めて重要な意味を持っていた。南には、依然として強大な潜在的脅威である島津氏が控えている。清正は、この肥薩国境地帯の防備を最優先課題と捉え、佐敷の地に「境目の城」として、最新鋭の要塞を築くことを決意した 13 。これが、現在我々が目にする総石垣の近世城郭・佐敷城の始まりである。中世以来の軍事拠点であった花岡山に、清正は持てる築城技術のすべてを注ぎ込み、全く新しい城郭へと生まれ変わらせようとした。
第二節:清正流築城術の粋
築城の名手として知られる加藤清正 16 は、佐敷城に当時の最先端技術を惜しみなく投入した。土塁と空堀を主体とする中世城郭とは一線を画し、城の主要部をすべて石垣で固める「総石垣造り」を採用 3 。特に防御の要となる大手側には、高く険しい高石垣を築き上げた 15 。また、城内の主要な建物には瓦を葺き、防御力を高めると同時に、城の威容を内外に示した。これにより、佐敷城は単なる防御拠点から、領主の権威を象徴する政治的な建造物へと昇華したのである。
この大規模な築城は、単なる軍事施設の強化という目的を超えていた。それは、豊臣政権の権威を九州の最南端にまで可視化する、強力な「政治的プロパガンダ」としての側面を持っていた。つい最近まで島津氏の支配下にあった最前線に、これほど壮麗かつ堅固な城を築くという行為そのものが、島津氏に対する明確な示威行為であった。「我々、豊臣方には、これほどの城を国境に築き上げる圧倒的な国力と技術がある」という無言のメッセージを発していたのである。後述する発掘調査で出土した豊臣家の家紋をあしらった「桐紋入鬼瓦」 15 は、この城が豊臣政権の公的な威光を背負っていたことを示す考古学的な証左であり、佐敷城が石と瓦で築かれた豊臣政権の「声明文」であったことを物語っている。
第三節:城代・加藤重次の任命
この国家的な重要性を持つ「境目の城」を託されたのが、清正の腹心・加藤重次であった 5 。重次はもともと渋谷姓を名乗り、佐々成政に仕えていたが、成政の改易後に清正に仕官した人物である 5 。清正はその卓越した能力を高く評価し、豊臣秀吉の許しも得て自らの「加藤」の姓を与えるほどに信頼を寄せていた 19 。清正の十六将にも数えられる猛将であり、築城にも明るく、石工集団である穴太衆と同郷であったともいわれる 20 。この重次の任命は、清正が佐敷城をいかに重要視していたかを示す、最も明確な証拠と言えるだろう。
第四章:城を揺るがした二つの戦い
近世城郭として生まれ変わった佐敷城は、その完成から間もなく、その真価を問われる二度の苛烈な籠城戦を経験することになる。これらの戦いは、城の物理的な堅牢性のみならず、それを守る将兵の知略と胆力が試される壮絶なものであった。
第一節:梅北一揆の真相(天正20年/文禄元年)
一度目の危機は、天正20年(1592年)に訪れた。豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、加藤清正は主力軍を率いて渡海し、城代の加藤重次もこれに従軍した 20 。この主将不在の隙を突いたのが、島津義久の家臣・梅北国兼であった 5 。秀吉の朝鮮出兵に不満を抱いていた国兼は、兵を率いて佐敷城を急襲し、これを占拠したのである(梅北一揆)。
従来、この事件は、留守を預かっていた坂井善左衛門らが機転を利かせ、偽りの降伏を装って酒宴を開き、油断した国兼を討ち取ってわずか数日で城を奪還した、という小規模な反乱として語られてきた 20 。しかし、近年の研究では、この通説を覆す新史料が注目されている。それによれば、この一揆は単なる個人的な不満によるものではなく、佐敷城を730名もの兵で15日間にわたって占拠し、さらに八代城攻略を目指す1000名規模の別動隊まで組織された、大規模かつ計画的な反乱であった可能性が指摘されている 4 。
もしこの新説が事実であれば、事件の様相は一変する。秀吉政権は、この大規模な反乱が九州各地に波及することを恐れ、事件の規模を意図的に矮小化して公表した可能性がある。そして、政敵であった島津歳久(義久の弟)に事件の責任をすべて負わせる形で切腹を命じたという政治的背景も浮かび上がってくる 4 。梅北一揆は、佐敷城を舞台とした単なる籠城戦ではなく、豊臣政権下における九州大名の複雑な力関係と、中央政権の巧みな情報操作が絡み合った、極めて政治的な事件であったと言えるだろう。
第二節:関ヶ原の戦いと佐敷城籠城(慶長5年)
二度目の試練は、天下分け目の関ヶ原の戦いに際して訪れた。慶長5年(1600年)、加藤清正が徳川家康率いる東軍に与したため、西軍に属した小西行長と島津氏の領地に挟まれた佐敷城は、完全に孤立した。西軍方の島津忠長(義久の従兄弟)は、ただちに軍を派遣し、水軍も用いて佐敷城を包囲した 5 。
この絶体絶命の状況下で、城を守ったのは、かの加藤重次であった。彼は、圧倒的な兵力差にも臆することなく、巧みな指揮で籠城戦を展開。関ヶ原の本戦で西軍が敗北したという決定的な報が伝わり、島津軍が撤退するまでの約一ヶ月間、ついに城を守り抜いたのである 1 。この籠城の成功は、単に一つの城を守ったという戦術的な勝利に留まらない。島津軍の主力を肥後南部に釘付けにし、九州の他の地域へ転用させなかったことで、九州における東軍方の優位を確立する上で極めて重要な戦略的役割を果たしたのである。
佐敷城で繰り広げられたこれら二つの戦いは、城の石垣の高さや縄張りの巧みさだけでなく、それを運用する人間の能力がいかに重要であるかを証明している。梅北一揆における留守居役の奇計は、武力のみに頼らない「心理戦」の勝利であった。関ヶ原の戦いにおける重次の長期籠城は、外部からの「情報」を正確に把握し、それに基づいて的確な戦略判断を下す「情報戦」の勝利であった。佐敷城の真の強さは、物理的な堅牢性と、それを最大限に活かす人間の知略、情報収集能力、そして不屈の精神力とが一体となって初めて発揮されるものであった。
第五章:泰平の世の城割り ― 意図された破却と終焉
戦国の世が終わり、徳川幕府による泰平の時代が訪れると、かつて戦略的要衝としてその価値を誇った城郭は、その存在意義を大きく変えざるを得なくなった。数多の戦いを潜り抜けてきた佐敷城もまた、時代の大きなうねりの中で、その役割を終え、意図的に破壊される運命を辿ることになる。その過程は、二段階にわたって行われた。
第一節:一国一城令による廃城(元和元年/1615年)
慶長20年(元和元年、1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、徳川の天下が盤石なものとなると、幕府は全国の大名に対し「一国一城令」を発布した。これは、大名の軍事力を削ぎ、謀反の芽を摘むための政策であり、居城以外のすべての支城を破却することが命じられたものである。肥後藩の有力な支城であった佐敷城もこの対象となり、ここにその城としての歴史に幕を下ろすこととなった 1 。この時、石垣の一部が崩されるなどの「城割り」が行われた。古絵図に描かれた天守(三重櫓)は、この時に解体され熊本城内へ移築されたという伝承も残っている 1 。
第二節:島原の乱後の徹底的破却(寛永15年/1638年)
一度目の破却から23年後の寛永15年(1638年)、佐敷城は再び、そしてより徹底的な破壊の対象となる。このきっかけとなったのが、九州を震撼させた島原の乱であった。この乱において、一揆勢は廃城となっていた原城に立てこもり、地の利を活かして幕府の大軍を大いに苦しめた。この経験は、幕府に「不完全な破却の城は、反乱の拠点として再利用される危険性がある」という強い教訓を与えた 14 。
乱の鎮圧後、幕府は九州の諸大名に対し、領内の古城を調査し、再利用不可能な状態にまで完全に破壊するよう厳命した 7 。加藤氏に代わって肥後藩主となっていた細川氏の記録によれば、佐敷城は先の加藤氏による破却が不十分であると判断され、再び破却の対象となった 7 。この二度目の破却は徹底しており、石垣は容赦なく崩され、その石材は運び出され、堀は埋め立てられた 3 。これにより、佐敷城は城郭としての機能を完全に失い、長きにわたる眠りにつくことになったのである。
佐敷城が経験したこの二度にわたる破却は、江戸幕府の支配体制の変遷を象徴する出来事であった。元和元年の破却が、大名の軍事力を制限するという「武力による支配」の仕上げであったのに対し、寛永15年の破却は、反乱の温床となりうる潜在的な「リスク」を排除するという、より緻密な「権威と法による支配」への移行を示している。かつて「力の象徴」であった城は、泰平の世においては「反乱の拠点」という危険因子と見なされるようになった。佐敷城の石垣が徹底的に崩されたのは、その物理的な機能を完全に無力化するという、幕府の強い意志の表れであり、城の存在意義が180度転換した瞬間を物語っている。
第六章:土中からの証言 ― 発掘調査が明らかにした城の実像
寛永の徹底破却以降、4世紀近くにわたって土中に埋もれ、その正確な姿を知る者はいなかった佐敷城。しかし、昭和54年(1979年)の公園整備に伴う調査で石垣の一部が発見されたことを契機に、平成5年(1993年)から本格的な発掘調査が開始された 24 。この調査は、文献史料だけでは知り得なかった城の実像を、考古学的な物証をもって我々の前に明らかにした。
第一節:縄張りと防御の工夫
発掘調査により、佐敷城が標高約88mの花岡山山頂に築かれた、巧みな縄張りを持つ山城であったことが判明した 3 。城郭の基本構造は、北端に本丸を置き、南に向かって二の丸、三の丸が階段状に連なる「連郭式」の縄張りである 1 。城内には大手門や搦手口、そして敵の侵入を阻むための桝形虎口などが効果的に配置され、高い防御思想に基づいて設計されていたことがわかる 3 。
興味深いのは、城の中枢機能が本丸ではなく、二の丸にあった可能性が高いことである。発掘調査の結果、二の丸は城内で最も広い空間を持ち、石垣の保存状態も良好で、最大の虎口(東門)が設けられていた 1 。これは、二の丸が政治的な儀礼や実務を行う中心的な郭であり、本丸は有事の際の最終的な詰の城、あるいは城主の私的な空間として機能していた可能性を示唆している。
一方で、古絵図に描かれていた三重櫓、すなわち天守に該当する建物の存在については、発掘調査ではその基礎となる礎石が発見されなかった 1 。これは、天守が当初から存在しなかったか、あるいは一国一城令の際に基礎ごと徹底的に撤去された可能性を示す。華美な天守よりも実用的な防御施設を重視した、加藤清正の現実的な築城思想を反映しているとも考えられる。
第二節:出土遺物が語る歴史
発掘調査では、石垣や建物の痕跡だけでなく、当時の状況を雄弁に物語る数多くの遺物が出土した。中でも、多種多様な瓦は、佐敷城の歴史を解き明かす上で極めて重要な情報を提供してくれる。
- 「天下泰平国土安穏」銘鬼瓦: 二の丸東門跡から出土したこの鬼瓦は、全国的にも非常に珍しい、文字そのものをデザインしたものである 5 。これは、長く続いた戦乱の世を終え、平和な時代の到来を願う、当時の人々の切実な祈りが込められたものと考えられる。
- 桐紋入鬼瓦: 本丸へ通じる門跡から出土したこの瓦には、豊臣家の家紋である五七の桐紋が大きくあしらわれている 15 。これは、前述の通り、この城が豊臣政権の権威下にあり、その威光を周辺勢力、特に島津氏に対して誇示する役割を担っていたことを明確に示す物証である。
- 「慶長十二年丁未」銘軒平瓦: この瓦の発見は、佐敷城の歴史に新たな光を当てた。瓦に刻まれた「慶長十二年」は西暦1607年にあたり、関ヶ原の戦いから7年後のことである 15 。これは、天下分け目の戦いが終わった後も、佐敷城では大規模な改修・増強工事が行われていたことを示す動かぬ証拠である。泰平の世が訪れたかに見えたこの時期においても、加藤清正が対島津氏への軍事的な緊張を緩めていなかったことを物語っている。
これらの瓦群は、単なる建築部材ではない。それらは、一つの城に込められた三重の心理構造、すなわち、平和への「祈り」(天下泰平)、新たな支配者への帰属と「権威」(桐紋)、そして旧敵への拭い去れない「緊張」(慶長十二年銘)を雄弁に物語る、土中からの証言者なのである。平和を願いながらも、新たな支配者の威光を示し、かつての敵への備えも怠らない。佐敷城の屋根は、戦国が終わり江戸へと向かう、この過渡期の複雑な時代精神そのものを背負っていたのである。
終章:破壊の歴史を保存する ― 国指定史跡・佐敷城跡の現代的意義
幾多の栄光と悲劇の歴史を経て、平成の発掘調査と整備事業によって現代にその姿を現した佐敷城跡。この城跡は、他の多くの復元された城郭とは一線を画す、独自の価値と哲学を持ち、現代の我々に歴史との向き合い方を問いかけている。
第一節:「破却された最後の姿」という保存哲学
佐敷城跡の整備事業における最大の特徴は、城が最も華やかであった最盛期の姿を復元するのではなく、一国一城令と島原の乱後の徹底破却によって「破壊された直後の状態」を基本理念として保存・公開している点にある 5 。訪問者は、美しく積み上げられた石垣と同時に、無残に崩され、散乱した石材を目の当たりにする。この意図された景観は、城がどのように築かれたかという「創造の歴史」だけでなく、それがどのように失われたかという「破壊の歴史」をも等しく後世に伝えようとする、極めてユニークな試みである。崩れた石垣は、単なる破壊の痕跡ではなく、歴史の非情さと権力構造の転換を物語る、雄弁な歴史遺産なのである。
第二節:国史跡としての価値と地域への貢献
このような歴史的・学術的価値が評価され、佐敷城跡は平成20年(2008年)に国の史跡に指定された 1 。指定理由には「近世初頭頃の政治・軍事を理解するうえで重要な遺跡である」と記されており、その重要性が公に認められたことを示している 13 。
現在、城跡は「佐敷城跡城山公園」として広く一般に公開され、地域住民や歴史愛好家の憩いの場となっている。中秋の名月の時期には観月会が催され、薪能が披露されるなど、歴史遺産を活かした文化活動の舞台ともなっている 27 。また、近年では御城印の販売も行われ 28 、観光資源として地域の活性化にも貢献している。麓には、発掘された「天下泰平国土安穏」銘鬼瓦を原寸の400倍の大きさで再現した巨大なモニュメントも設置され、町の新たなシンボルとして親しまれている 29 。
佐敷城跡は、単に過去を偲ぶ場所ではない。「栄光」の物語だけでなく、その「終焉」をも含めた城の一生を丸ごと体感させる稀有な史跡である。それは、歴史とは勝者による創造の物語だけではなく、敗者や過去の遺物の破壊の上に成り立っているという、より深く普遍的な真理を我々に突きつける。加藤清正の築城技術の粋と、それを無に帰させた徳川幕府の絶大な権力。その両方を同時に体感できるこの場所は、歴史における「創造」と「破壊」のダイナミックな循環を問いかける、哲学的な野外博物館と言えるだろう。佐敷城は、その破壊された姿をもって、歴史の多層性と複雑さを静かに、しかし力強く後世に語り継いでいるのである。
引用文献
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- 佐敷城 - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/ku0311/
- 肥後 佐敷城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/higo/sashiki-jyo/
- 佐敷城_もっとお城が好きになる http://ashigarutai.com/shiro002_sajiki.html
- 佐敷城跡にのぼってみた、加藤清正が築いた堅城、梅北一揆で占拠されたりも https://rekishikomugae.net/entry/2022/11/21/155854
- 中世の軍事拠点 たびたび戦場に【佐敷城】 - こじょちゃんの戯言 http://zx2hsgw.blog.fc2.com/blog-entry-1521.html
- 佐敷城(熊本県葦北郡)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/9725
- 相良氏の歴史・近世2 乱世を生き残れ! - 人吉・球磨の部屋 https://kuma.atukan.com/rekisi/kinsei2.html
- 相良堂 - 熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト https://kumamoto-museum.net/blog/archives/chiiki/1194
- 肥後国の戦火、島津と龍造寺のはざまで/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(5) https://rekishikomugae.net/entry/2022/11/15/170520
- 恋路島物語 - 水俣市 https://www.city.minamata.lg.jp/common/upload/freearea/4_151_418_up_5iuqwmik.pdf
- 相良義陽 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E7%BE%A9%E9%99%BD
- 国史跡指定 佐敷城跡 - 芦北町観光協会 https://ashikita-kankou.com/introduce/%E4%BD%90%E6%95%B7%E5%9F%8E%E8%B7%A1/
- 佐敷城 | 九州隠れ山城10選 | 九州の感動と物語をみつけようプロジェクト https://www.welcomekyushu.jp/project/yamashiro-tumulus/yamashiro/15
- 佐敷城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/164751
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- 加藤重次 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-12732178231.html
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