信貴山城は松永久秀が築き、革新的な築城技術と野望を体現した天空要塞。信長に反旗を翻し壮絶な最期を遂げたが、中世から近世への過渡期を示す貴重な遺産だ。
大和国(現在の奈良県)と河内国(現在の大阪府東部)の国境に聳える信貴山。その標高437メートルの雄岳山頂を中心に築かれた信貴山城は、日本の戦国史において特異な光を放つ城郭である 1 。一般には、戦国の梟雄・松永久秀が築き、主君であった織田信長に反旗を翻して壮絶な最期を遂げた悲劇の舞台として知られている 1 。しかし、その歴史的価値は単なる一武将の終焉の地という物語に留まるものではない。
信貴山城は、大和と河内、ひいては京へと繋がる交通の要衝を扼する戦略的拠点として、古くからその重要性を認識されていた 3 。その歴史は松永久秀よりも遡り、戦国中期にこの地を本格的な城郭へと昇華させた木沢長政の時代にその礎が築かれる 2 。そして、松永久秀の手によって、それは奈良県下最大規模を誇る巨大山城へと変貌を遂げた 1 。信貴山城の構造は、中世的な「土の城」の築城技術を極限まで高めつつ、後の近世城郭へと繋がる天守や枡形虎口といった革新的な要素をいち早く取り入れた、まさに城郭史の過渡期を体現する稀有な遺産である 3 。
本報告書は、「松永久秀が築き、信長に攻められて落城した」という一般的な理解を超え、信貴山城の歴史的変遷をその前史から丹念に追い、城郭構造の先進性、そして中心人物である松永久秀の人物像と城との不可分な関係性を深く掘り下げるものである。木沢長政による「戦国期拠点城郭」の創出から、久秀による多聞山城との二元支配体制、織田信忠を総大将とする最後の籠城戦、さらには「平蜘蛛の茶釜」と共に爆死したという伝説の形成過程に至るまで、あらゆる側面から信貴山城を徹底的に解剖し、その多層的な歴史的価値を明らかにすることを目的とする。
信貴山城が位置する一帯は、日本の国防史において古くから重要な意味を持つ場所であった。7世紀、白村江の戦いに敗れた大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えて西日本各地に築いた古代山城の一つ、「高安城」(667年築城)の域内に信貴山は含まれている 2 。信貴山城跡から直接的な古代の遺構は発見されていないものの、この事実は、大和盆地を一望し、河内平野へと抜ける交通路を監視できるこの地が、国防上の要衝として古くから認識されていたことを示している 2 。
軍事的な重要性に加え、信貴山は信仰の対象でもあった。飛鳥時代、聖徳太子が物部守屋討伐の際にこの山で戦勝を祈願し、毘沙門天の加護を得たという伝説が残る 7 。この時が寅の年、寅の日、寅の刻であったことから、信貴山中腹に創建された朝護孫子寺は寅に縁の深い寺として知られるようになった 7 。このように、信貴山は古来より軍事と信仰という二つの顔を持つ聖地であった。
時代は下り、室町時代。史料上で信貴山に城砦の存在が確認できるのは、応仁の乱後の混乱が続く長禄4年(1460年)のことである。『経覚私要抄』によれば、河内守護であった畠山義就が政敵との戦いに敗れ、「信貴山」に陣を退いたと記録されている 2 。さらに明応年間(1492年~1501年)から永正年間(1504年~1521年)にかけて、畠山尚慶が「信貴城」を用いたとの記述も残されている 2 。
これらの記録から、当時の信貴山城は、後のような恒久的な大規模城郭ではなく、軍事行動に際して築かれる一時的な陣城や砦として利用されていたと考えられる。これは、戦国時代初期における城の利用形態を反映しており、特定の領主が恒常的に本拠とするのではなく、戦況に応じて利用される戦略拠点としての性格が強かったことを示唆している。
信貴山を一時的な砦から本格的な城郭へと変貌させたのは、河内守護代であった木沢長政である 2 。『細川両家記』によれば、天文5年(1536年)3月には「信貴城」の使用が確認されており、この時点で一定規模の城郭が完成していたことがわかる 3 。さらに同年6月26日の『証如上人日記』には、石山本願寺から「今度信貴山之上二城をこしらへ候て、はや移候」ことへの祝儀として酒樽が贈られたという記録がある 2 。
この木沢長政による築城は、単に一つの城が築かれたという以上の意味を持つ。それは、大和国において、従来の臨時的な「砦」から、領国支配のための恒久的かつ多機能的な「拠点城郭」へと城の機能が転換する、画期的な出来事であった 3 。畠山氏の利用が「陣を敷く」という一時的なものであったのに対し、長政は居城を移し、外部勢力から公的な祝賀を受けるほどの恒久性と政治性を備えた拠点を構築した。この信貴山城こそが、大和における「戦国期拠点城郭」の嚆矢(こうし)となったのである 3 。
しかし、この新たな拠点城郭の主であった長政の時代は長くは続かなかった。天文11年(1542年)、長政は河内太平寺の戦いで三好長慶らに敗れて討ち死にし、信貴山城もまた二上山城と共に落城、炎上した 1 。こうして一度は歴史の表舞台から姿を消した信貴山城であったが、約17年の時を経て、戦国史にその名を深く刻むことになる新たな城主を待つこととなる。
木沢長政の死後、十数年にわたり廃城同然であった信貴山城に再び生命を吹き込んだのは、三好長慶の家臣として頭角を現し、畿内にその名を轟かせた松永久秀であった 11 。永禄2年(1559年)8月、大和国へ本格的に侵攻した久秀は、この信貴山城を大規模に修築し、自らの居城とした 1 。
久秀が全く新たな場所に城を築くのではなく、あえて廃城状態にあった信貴山城を選び、再興・拡張した行為には、単なる軍事上の合理性を超えた、高度な戦略的意図が隠されている。かつて大和国に覇を唱えた木沢長政の拠点であった信貴山城を、前任者を遥かに凌駕する規模で再建することは、久秀自身が長政の「後継者」であり、その力を上回る新たな支配者であることを大和の国人衆や寺社勢力に対して視覚的に宣言する、極めて効果的な政治的パフォーマンスであった 3 。建築行為を通じて、自身の支配の正統性を構築しようとする、久秀の卓抜した戦略眼がそこにはあった。
久秀の革新性は、信貴山城の改修だけに留まらなかった。彼は永禄3年(1560年)頃から、大和国北部の奈良に多聞山城の築城を開始し、信貴山城と並行して二つの拠点を運用する体制を確立した 13 。この二つの城は、それぞれ異なる機能と役割を担っていた。
多聞山城は、宣教師ルイス・フロイスが『日本史』の中で「都で見たどのものよりも美しい」「世界中此城の如く善且美なるものはあらざるべし」と絶賛したように、白壁や瓦葺き、金碧障壁画で飾られた豪華絢爛な「見せる城」であった 14 。ここは久秀の政治的権威と文化的素養を誇示し、外交や儀礼を行うための舞台であった。一方で、険峻な山容を活かした信貴山城は、大和国人衆の雄・筒井氏との軍事対決の最前線であり、純粋な軍事拠点としての性格を強く保持していた 3 。
この政治・文化の拠点(多聞山城)と軍事拠点(信貴山城)を分担させる二元体制は、戦国大名の統治戦略として極めて先進的であった。権力を「魅力(文化・経済力)」というソフトパワーと、「威嚇(軍事力)」というハードパワーの二側面に分け、それぞれに最適化された拠点を構築するという発想は、久秀が単なる武人ではなく、畿内の複雑な政治状況を乗り切るための複合的な戦略家であったことを雄弁に物語っている。
松永久秀の手によって生まれ変わった信貴山城は、南北約700メートルから880メートル、東西約550メートルから600メートルに及び、110を超える曲輪群で構成される、奈良県下最大規模を誇る巨大山城であった 1 。
その縄張りは、標高437メートルの雄岳山頂を主郭(本丸)とし、そこから放射状に伸びる複数の尾根筋に沿って、大小様々な曲輪が階段状に配置されるという、典型的な山城の構造を基本としている 5 。城の正面(大手)は東側を意識して作られており、現在、朝護孫子寺が広がる南東側は、城の裏手にあたる搦手であったと推定されている 5 。
防御の根幹をなすのは、石垣ではなく、山の斜面を人工的に削り出して造られた急峻な「切岸」と、土を盛り上げた「土塁」である 8 。特に松永屋敷跡の側面に現存する切岸は、見る者を圧倒するほどの規模を誇り、この城が「土の城」としての築城技術の粋を集めたものであることを示している 24 。
しかし、信貴山城は単なる伝統的な山城ではなかった。松永屋敷の入口には、敵兵の直進を防ぎ、三方から攻撃を加えることを可能にする「枡形虎口」が設けられている 5 。これは、後の近世城郭で標準となる防御施設であり、久秀の先進的な築城思想を窺わせる。また、城内の一部の尾根筋では、土留めや防御の補強を目的とした石垣が限定的に使用されており、久秀が石垣技術を実験的に導入していた可能性も指摘されている 8 。
表1:信貴山城 主要曲輪一覧 |
名称 |
雄岳主郭(本丸) |
松永屋敷跡 |
立入殿屋敷跡 |
その他段状曲輪群 |
信貴山城が城郭史上において特に注目される理由の一つに、その主郭に「天守」の初期形態ともいえる高層建築が存在した可能性が挙げられる。『甲子夜話』などの後代の記録によれば、ここには四重の「高櫓」あるいは「高殿」と呼ばれる建物が聳えていたと伝えられている 3 。これが事実であれば、文献上確認できる高層天守としては、伊丹城などに次ぐ非常に早い事例となる 3 。
この建築物は、単なる物見櫓や防衛施設に留まらず、城主の権威を内外に誇示するための象徴的な塔であったと考えられる。そしてこの試みは、後の天下人・織田信長の城郭建築に直接的な影響を与えた可能性が極めて高い。信長は、久秀が築いた多聞山城の先進性を高く評価し、自らの安土城築城の参考にしたとされている 14 。多聞山城の櫓の一部が安土城に移築されたという説もあるほどだ 14 。その久秀がもう一つの拠点である信貴山城に築いた四重の高層建築の情報を、信長が知らなかったとは考えにくい。
つまり、信貴山城の天守は、信長が安土城で壮麗な天守建築を完成させる上での、重要な先行事例、すなわちプロトタイプであった可能性が濃厚なのである。松永久秀は、政治や軍事だけでなく、築城技術においても時代を先駆ける革新者であり、彼の先進的な試みが、日本の城郭建築の象徴である天守の発展に大きく貢献した。信貴山城は、天守建築史における重要な一頁を飾る存在といえるだろう。
一度は織田信長に降伏し、その配下として大和支配を安堵されていた松永久秀であったが、天正5年(1577年)8月、突如としてその関係は破綻する 3 。信長の命令で参陣していた石山本願寺攻めの陣から、久秀は断りなく兵を引き上げ、本拠地である信貴山城に立て籠もったのである 13 。
この二度目の謀反は、衝動的な行動ではなかった。当時、越後の上杉謙信が手取川で織田軍を破り、西からは毛利氏が、そして畿内では石山本願寺が反信長の旗幟を鮮明にするなど、第二次信長包囲網が形成されつつあった 29 。久秀はこれらの勢力と連携すれば勝機ありと判断し、信長との最終対決に踏み切ったのである 29 。これは、畿内の情勢を冷静に見極めた上での、自身の生き残りを賭けた大博打であった。信長は当初、久秀との旧交からか側近の松井友閑を派遣して翻意を促したが、久秀の決意は固く、交渉は決裂した 3 。
久秀の謀反に対し、信長は即座に大規模な討伐軍の派遣を決定した。総大将に任じられたのは、信長の嫡男・織田信忠であった 22 。その麾下には、久秀の宿敵である筒井順慶を筆頭に、明智光秀、細川藤孝、佐久間信盛、羽柴秀吉といった織田軍団の主力武将たちが名を連ね、その総兵力は約4万に達したと伝えられる 29 。これは、信長がこの謀反をいかに重大視し、また、これを機に畿内の反抗勢力を根絶やしにしようとしていたかを示すものであった。
織田軍の作戦は周到であった。信貴山城本体への攻撃に先立ち、まずは周辺の支城を制圧し、久秀を完全に孤立させる戦術をとった。その先鋒を務めた筒井順慶や明智光秀らは、松永方の重要拠点であった片岡城を攻略し、信貴山城への包囲網を狭めていった 22 。
この信貴山城の戦いは、松永久秀の終焉の舞台であると同時に、織田家の後継者である信忠にとって、方面軍全体を指揮する能力を内外に示すための重要な試金石であった。信長が自ら出馬せず、宿老たちを付けた上で信忠に全権を委ねたことは、次代への権力移譲を円滑に進めるためのデモンストレーションでもあった。信忠がこの大戦を成功裏に導くことは、織田家の未来を左右する一大事だったのである 35 。
天正5年(1577年)10月3日、法隆寺に本陣を置いた織田信忠軍は、信貴山城の城下を焼き払い、本格的な攻撃の火蓋を切った 3 。10月5日には、4万の大軍による総攻撃が開始される 29 。対する松永軍は約8千と兵力では圧倒的に不利であったが、「城名人」久秀が築き上げた堅城を頼りに、必死の抵抗を見せた 29 。『和州諸将軍伝』によれば、この日の戦いでは松永方の飯田基次らが城から討って出て、織田軍に数百人の死傷者を与えたとされ、戦いは持久戦の様相を呈した 29 。
しかし、戦局は予期せぬ形で動く。もともと筒井順慶の家臣であり、後に久秀に属していた森好久が、戦いの最中に織田方へ寝返ったのである 31 。内部からの裏切りは、籠城する松永軍の士気を大きく削ぎ、防御体制に致命的な亀裂を生じさせた。頼みの綱であった上杉謙信や毛利氏からの援軍も、ついに現れることはなかった。
万策尽きた10月10日、織田軍による最後の総攻撃が行われた 29 。もはやこれまでと覚悟を決めた松永久秀は、燃え盛る天守の中で、嫡子・久通と共に自害して果てた 2 。興福寺多聞院の僧侶が記した『多聞院日記』には、その夜の様子が「信貴城猛火天ニ耀テ見了」(信貴山城の猛火が天を照らすのが見えた)と生々しく記録されている 22 。ここに、戦国の世を縦横無尽に駆け抜けた松永久秀の生涯は、自らが築き上げた天空の要塞と共に幕を閉じたのである。
松永久秀の最期を語る上で、名物茶釜「平蜘蛛」の逸話は欠かすことができない。その伝説によれば、落城に際し、信長が喉から手が出るほど欲しがった平蜘蛛の茶釜の引き渡しを拒絶した久秀は、「平蜘蛛の釜とわれらの首と二つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ」と言い放ち、茶釜を粉々に打ち砕くか、あるいは火薬を詰めて道連れに爆死したとされている 2 。この壮絶な逸話は、久秀の反骨精神と美学を象徴する物語として、後世に広く語り継がれてきた。
しかし、この劇的な最期は、史実とは異なる可能性が高い。織田信長の動向を記した最も信頼性の高い一次史料の一つである『信長公記』や、同時代の『多聞院日記』には、久秀が「焼死」または「自害」したと記されているのみで、「爆死」したという記述は見当たらない 31 。また、久秀の首は落城後、安土の信長のもとへ届けられており、遺体が粉々になるような爆死であったとは考えにくい 31 。これらのことから、平蜘蛛と共に爆死したという逸話は、江戸時代以降の軍記物語などによって創作された後世の産物であると見られている 8 。
では、平蜘蛛の茶釜は実際にどうなったのか。これについては諸説存在する。落城の際に破損したものの、破片が回収されて後に修復されたという説 39 。あるいは、久秀と親交のあった柳生家の家譜『玉栄拾遺』に記されているように、城で破壊したのは偽物で、本物は事前に友人の柳生松吟庵に託されていたという説 42 。さらには、後年になって城跡から出土したという説まであり、その行方は謎に包まれている 42 。
平蜘蛛の逸話と同様に、「将軍・足利義輝の弑逆」「主君・三好長慶の殺害」「東大寺大仏殿の焼き討ち」といった、松永久秀を「戦国三大梟雄」たらしめる悪行の数々も、近年の研究ではその多くが江戸時代の軍記物によって誇張、あるいは創作されたものであることが指摘されている 14 。
では、なぜ後世の人々は、松永久秀をそれほどまでの極悪人として描く必要があったのか。その背景には、江戸時代の社会情勢が大きく関わっている。徳川幕府によって身分秩序が固定化された泰平の世において、主君を凌ぎ、自らの実力で成り上がっていく「下剋上」は、体制を揺るかねない最も危険な思想であった。そのため、下剋上を体現したかのような生涯を送った松永久秀は、主君への反逆者がいかに悲惨な末路を辿るかを示すための、格好の教訓的物語の題材とされたのである 47 。
特に、天下の名器と共に壮絶な最期を遂げるという物語は、人々の記憶に強く残り、教訓としての効果も絶大であった。つまり、私たちが知る「梟雄・松永久秀」像や平蜘蛛の伝説は、歴史的事実そのものというよりは、江戸時代の価値観が投影され、教訓として、あるいは物語として面白くするために作り上げられた文化的創作物なのである。信貴山城の物語を深く理解するためには、この史実と創作の境界を見極める視点が不可欠となる。
天正5年(1577年)の落城後、信貴山城が再び歴史の表舞台に登場することはなく、廃城となった 1 。しかし、そのおかげで大規模な改変や開発を免れ、城跡には戦国時代末期の山城の姿が驚くほど良好な状態で保存されている 1 。特に、土を削り、盛り上げて造られた曲輪、土塁、そして敵の侵攻を阻む巨大な切岸といった「土の城郭」の遺構は、全国的に見ても極めて貴重なものである 8 。
現在、城跡はハイキングコースとして整備されており、訪問者は松永屋敷跡の広大な平坦地や、階段状に連なる段状曲輪群を実際に歩くことができる 8 。木々の間に残る土塁や切岸の痕跡を辿れば、往時の壮大な城郭のスケールと、地形を巧みに利用した防御の工夫を肌で感じることができるだろう。
信貴山城跡の大部分は、現在、信貴山真言宗の総本山である朝護孫子寺の広大な境内に含まれている 1 。城の最高所であった主郭跡には、寺の鎮守である「空鉢護法堂」が祀られており、戦国の史跡と信仰の場とが融合した独特の歴史的景観を形成している 3 。
参拝者が行き交う寺院の背後に、戦国の記憶を留める土塁や曲輪が静かに佇む。この重層的な空間は、信貴山が古来より持ち続けてきた「信仰」と「軍事」という二つの性格を、今に伝えるものといえる。
信貴山城跡は、その遺構だけでなく、後世に残された記録や出土品からも、その歴史的価値を窺い知ることができる。
江戸時代に描かれた『和州信貴山古城図』や、明治13年(1880年)に作成された『大和國信貴山絵図』といった古地図は、失われた建物の配置や往時の縄張りを推測する上で貴重な手がかりとなる 3 。
また、昭和55年(1980年)には、城跡から石臼や茶臼の破片が発見された 24 。これは、永禄3年(1560年)に久秀が信貴山城で茶会を催したという記録を裏付ける物証であり、この城が単なる軍事要塞ではなく、一流の文化人でもあった久秀の趣味や教養が反映された、文化活動の舞台でもあったことを示している 23 。さらに、瓦の破片も出土しており、城内の一部の建物が瓦葺きであった可能性も示唆されている 49 。
これらの歴史的・考古学的価値から、信貴山城跡は現在、奈良県の指定史跡となっている 3 。戦国時代の城郭の姿を良好に留め、松永久秀という重要人物の最期の地であるという点からも、日本の歴史を語る上で欠くことのできない重要な文化遺産である。
信貴山城の歴史は、戦国時代という変革の時代の縮図である。それは、木沢長政によって大和国に初めてもたらされた「拠点城郭」という概念を、松永久秀がその類稀なる軍事的才能、政治的野心、そして革新的な築城術によって飛躍的に発展させた、戦国期山城の一つの到達点であった。
この城は、中世以来の伝統的な土木技術を駆使して築かれた「土の城」としての側面を極める一方で、後の近世城郭の萌芽となる枡形虎口や権威の象徴としての高層天守といった先進的な要素を意欲的に取り入れている。その姿は、まさに中世から近世へと移行する「過渡期の巨大山城」と呼ぶにふさわしい。
そして、信貴山城の盛衰は、城主・松永久秀という稀代の人物の生涯と分かちがたく結びついている。彼の革新性、権力への渇望、そして壮絶な最期、さらには後世に創作された「梟雄」としての伝説まで、そのすべてがこの山の地形と遺構に深く刻み込まれている。信貴山城を理解することは、戦国という時代のダイナミズムと、松永久秀という複雑で魅力的な武将の実像に迫ることに他ならない。今日、静かに時を刻むその城跡は、訪れる者に対し、歴史の真実と物語の奥深さを静かに語りかけている。