備中松山城
天空の要塞 備中松山城 ―戦国争乱の舞台となった名城の全貌―
序章:天空の要塞、その比類なき存在
備中松山城は、日本の城郭史上、数々の「唯一無二」と称されるべき特徴を持つ稀有な存在である。標高430メートルの小松山山頂に聳える天守は、現在日本に12箇所しか残されていない江戸時代以前からの建造物、すなわち「現存十二天守」の一つに数えられる 1 。その中でも、山城に分類される城郭としては全国で唯一現存する天守であり、日本で最も高い場所に位置する天守としても知られている 2 。
その特異性から、奈良県の大和高取城、岐阜県の美濃岩村城と並び、「日本三大山城」の一角を占める 5 。高取城が日本一の比高(麓からの高さ)を誇り、岩村城が日本一の標高に築かれた城であるのに対し、備中松山城は「現存天守」という絶対的な価値によって、これら名城と肩を並べているのである 6 。
近年、秋から春にかけての早朝、条件が揃えば雲海に浮かび上がる幻想的な姿から「天空の山城」として広く知られるようになった 4 。また、平成時代の豪雨災害をきっかけに城に住み着き、やがて「猫城主さんじゅーろー」として人気を博すに至ったエピソードも、この城の現代的な魅力を象徴している 3 。しかし、この華やかなイメージとは裏腹に、備中松山城は明治維新後、一度は国家から見捨てられ、山中に放置されたまま朽ち果てる寸前の廃墟と化していた時期があった 5 。
忘れ去られた山上の廃墟が、いかにして今日の姿を取り戻し、多くの人々を魅了する文化遺産として蘇ったのか。その答えは、この城が経験してきた壮絶な歴史の中にこそ見出すことができる。本報告書は、鎌倉時代の創築から、戦国時代の血で血を洗う争乱、そして江戸時代の泰平、近代の苦難と復活に至るまで、備中松山城の多層的な歴史の全貌を、戦国時代を主軸に据えて徹底的に解明するものである。
表1:日本三大山城 比較
城名 |
所在地 |
標高 |
比高 |
主な特徴 |
備中松山城 |
岡山県高梁市 |
約430m (天守) |
約320m |
現存天守を持つ唯一の山城 |
大和高取城 |
奈良県高取町 |
約584m |
約390m |
日本最大規模・日本一の比高を誇る山城 |
美濃岩村城 |
岐阜県恵那市 |
約717m |
約180m |
日本一の標高に築かれた城、女城主の逸話 |
出典:
6
第一章:臥牛山に砦立つ ―鎌倉・室町時代の黎明―
備中松山城の歴史は、今から約800年前の鎌倉時代にその幕を開ける。仁治元年(1240年)、相模国(現在の神奈川県)の武士であった秋庭三郎重信が、承久3年(1221年)に起こった承久の乱における戦功を認められ、鎌倉幕府から備中国有漢郷(現在の岡山県高梁市有漢町)の地頭に任じられたことが、全ての始まりであった 1 。これは、後鳥羽上皇方に与した西国の在地勢力を抑え、幕府の支配体制を強化するための典型的な人事であり、城の起源が中央政権の動向と密接に結びついていたことを示している。
この地に入った重信は、高梁川流域を見渡し、備中一円の軍事拠点となりうる場所として、四つの峰が連なる臥牛山の戦略的価値を見抜いた 1 。そして、その北端に位置する大松山に最初の砦を築いたのである 12 。この時点ではまだ、山全体を防衛線とする広大な城郭ではなかったが、臥牛山という地形が持つ普遍的な戦略性が、この時からすでに認識されていた。
時代が下り、元弘年間(1331年頃)になると、高橋宗康が城主となり、城の規模を南の小松山まで拡張した 5 。これは、後醍醐天皇の倒幕運動に端を発する南北朝の動乱期を迎え、より複雑で広域な防衛体制が求められた結果であったと考えられる。
その後、備中支配の要衝たるこの城は、時代の趨勢とともに城主が目まぐるしく変遷する。秋庭氏が再び城主となる時期もあったが、やがて上野氏、庄氏といった備中の有力国人がこの城を拠点とし、覇を競った 5 。城主は変われども、誰もが「この山を押さえる者が備中を制す」という共通認識のもと、この城を争奪の対象とした。城の物理的な形態は時代と共に進化していくが、その地政学的な価値は、創築以来、戦国前夜に至るまで一貫して不変だったのである。
第二章:三村氏の拠点 ―一大要塞への変貌―
戦国時代に入り、備中松山城の運命を大きく動かしたのは、備中成羽(現在の高梁市成羽町)の鶴首城を拠点として台頭した戦国大名・三村氏であった。当主の三村家親は、中国地方の覇者・毛利元就の後ろ盾を得て急速に勢力を拡大し、永禄4年(1561年)頃、尼子方に与していた庄高資を駆逐して、ついに備中松山城をその手に収めた 14 。
しかし、家親の栄華は長くは続かなかった。永禄9年(1566年)、備前国への進出をめぐって対立していた宿敵・宇喜多直家の放った刺客により、家親は鉄砲で暗殺されるという悲劇的な最期を遂げる 16 。
家督を継いだのは、次男の三村元親であった。血気盛んな元親は、父の仇を討つべく、翌永禄10年(1567年)に約2万の大軍を率いて宇喜多領へ侵攻する。しかし、「明善寺合戦」として知られるこの戦いで、元親はわずか5千の宇喜多勢の巧みな戦術の前にまさかの大敗を喫してしまう 12 。この手痛い敗北は、三村氏の威信を大きく揺るがし、元親の心に深いトラウマと宇喜多直家への消えぬ憎悪を刻み込んだ。
この決定的敗北こそが、備中松山城を名城へと変貌させる直接的な契機となった。野戦での勝利が望めないと悟った元親は、その戦略を大きく転換する。すなわち、本拠地である備中松山城に籠もり、決して落ちることのない難攻不落の要塞を築き上げることに、一族の存亡を賭けたのである。元親は臥牛山の四つの峰全てに曲輪や堀切を穿ち、石垣を積み上げ、山全体を「砦二十一丸」と称される一大要塞へと徹底的に改修した 3 。この大改修により、備中松山城は単なる地方の拠点城郭から、三村氏の執念と恐怖心が刻み込まれた、籠城戦を前提とする巨大な防御システムへとその性格を決定的に変えた。今日我々が目にする戦国期の城郭遺構の多くは、元親の勝利の記念碑ではなく、彼の敗北が生み出した戦略的帰結なのである。
第三章:備中兵乱 ―毛利・宇喜多連合軍との死闘―
第一節:離反への引き金
三村元親が築き上げた天空の要塞が、その真価を問われる時が来た。天正2年(1574年)、元親の運命を決定づける地政学的な大変動が起こる。主家である毛利氏が、畿内で勢力を拡大する織田信長に対抗するため、三村氏にとっては不倶戴天の敵である宇喜多直家と和睦を結んだのである 12 。
この毛利氏の戦略的判断は、元親にとって到底受け入れられるものではなかった。父を暗殺した宿敵との和睦は、主家からの裏切りに他ならなかった。叔父の三村親成らが毛利氏との関係維持を必死に諫めたが、宇喜多への憎悪に燃える元親は、その忠告に耳を貸さなかった 18 。そして、彼は破滅的な決断を下す。「毛利と敵対すれば備中と備前を与える」という織田信長の甘言に乗り、長年仕えた毛利氏から離反し、信長と手を結んだのである 12 。この元親の個人的感情に基づいた行動は、備中一国を巻き込む大戦乱「備中兵乱」の引き金となった。それは、地域紛争を、織田対毛利という天下分け目の代理戦争へとエスカレートさせ、自らの滅亡を招き寄せる選択であった。
第二節:名将・小早川隆景の攻略戦
三村元親の離反という事態を重く見た毛利輝元は、ただちに討伐軍の編成を決定する。その総大将に任じられたのは、毛利元就の三男にして、当代随一の知将と謳われた小早川隆景であった 5 。
隆景は、元親が築き上げた難攻不落の備中松山城を前にして、決して力攻めという愚策は選ばなかった。彼の戦術は、冷徹かつ合理的であった。まず、備中各地に点在する三村方の支城、すなわち国吉城、楪城、鬼実城などを次々と攻略していく 15 。これにより、本城である松山城と各支城との連携を断ち切り、完全に孤立させることに成功した。隆景の狙いは、巨大な要塞を外部から攻め落とすのではなく、内部から枯死させる兵糧攻めと、長期にわたる包囲による城兵の士気低下にあった 3 。元親の感情的な抵抗は、隆景の知略の前に、徐々にその活路を絶たれていったのである。
第三節:落城と三村一族の最期
小早川隆景の巧みな戦術により、備中松山城は完全に孤立無援となった。長期にわたる籠城生活は城内の士気を著しく低下させ、毛利方からの内応工作も功を奏し、城内から裏切り者が続出するに至った 21 。そして天正3年(1575年)5月、ついに元親が誇った天空の要塞は陥落した 19 。
元親はわずかな家臣と共に城を脱出したが、追撃を受け深手を負う。もはやこれまでと覚悟を決め、菩提寺である松連寺(現在の高梁市奥万田町)にて、毛利方の検死役の前で潔く自刃して果てた 14 。その際に詠んだとされる辞世の句には、彼の無念と戦国武将の無常観が色濃く滲んでいる。
人という名をかる程や 末の露 消えてぞ帰る 本の雫に 23
(人という仮の姿を借りてこの世に生を受けた露のような命も、やがて消えて元の雫に還るだけのことだ)
元親の悲劇は、彼一代では終わらなかった。将来の禍根を断つという小早川隆景の冷徹な判断により、元親の嫡男でわずか8歳の勝法師丸もまた、捕らえられて斬首された 15 。こうして、備中に一大勢力を築いた三村氏は、歴史の舞台から完全に姿を消したのである。
第四節:常山城の悲劇
備中兵乱の凄惨な物語は、常山城(現在の玉野市)でその最終章を迎える。この城の城主・上野隆徳は、三村元親の妹・鶴姫を妻としており、元親に最後まで与した武将であった 24 。備中松山城が陥落した後、毛利軍の矛先はこの常山城に向けられた 15 。
城兵の数で圧倒的に劣る中、落城は時間の問題であった。城主・上野隆徳が一族と共に自決を決意したその時、妻の鶴姫が立ち上がったと軍記物『備中兵乱記』は伝えている。鶴姫は「武士の子女が敵の一人も討たずして命を絶つのは無念」と、自ら鎧をまとい、侍女三十余名を率いて薙刀を振るい、包囲する毛利軍の陣中へと最後の突撃を敢行した 25 。壮絶な戦いの末、城へと引き返した鶴姫は、夫や一族と共に自害して果てたという 24 。この鶴姫の奮戦の逸話は、備中兵乱という大きな戦乱の悲劇性を象徴する物語として、今なお語り継がれている。
第四章:毛利氏の東方最前線 ―織田信長との対峙―
三村氏を滅ぼし、備中を完全に平定した毛利氏は、備中松山城を自らの支配下に置いた。天正8年(1580年)、毛利氏当主の毛利輝元は自らこの城に入り、普請(改修)を指示している 14 。これにより、備中松山城は、三村氏の拠点という性格から、毛利氏の東方、すなわち破竹の勢いで西進する織田勢力に対する最前線基地へと、その戦略的重要性をさらに高めることになった 19 。
天正10年(1582年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国攻めを開始すると、両軍の最前線は備中高松城へと移る。歴史に名高い「備中高松城水攻め」の際、毛利輝元は備中松山城を後方の重要な戦略拠点として位置づけ、全軍の指揮を執っていたと考えられる 32 。
この膠着した戦いの最中に、京都で「本能寺の変」が勃発。主君・信長を討たれた秀吉は、一刻も早く京へ戻るため、毛利方との和睦交渉を急いだ。この時、両軍の新たな国境線は高梁川とすることが合意された 20 。しかし、ここに異例の事態が生じる。備中松山城は高梁川の東岸、つまり新たな織田方の領国内に位置するにもかかわらず、毛利氏はこの城の領有に強く固執し、例外的にこれを認めさせたのである 20 。
この事実は、他のいかなる証拠よりも雄弁に、備中松山城の戦略的価値を物語っている。通常の和睦交渉であれば、川という明確な自然地形で国境を引くのが常道である。その原則を覆してまで毛利氏がこの城を手放さなかったのは、備中兵乱で多大な犠牲を払って手に入れたこの城が、将来の東方への影響力を維持するための、決して失うことのできない絶対的な橋頭堡であったからに他ならない。この一点をもって、城の戦国時代における戦略的価値は頂点に達したと言えるだろう。
第五章:山城の解剖学 ―難攻不落の防御構造―
第一節:地形と縄張り
備中松山城が「難攻不落」とされた最大の理由は、その巧みな築城術にある。城は、臥牛山を構成する北から大松山、天神の丸、小松山、前山という四つの峰全体を利用して築かれた、広大な連郭式の縄張り(城の設計)を特徴とする 6 。
そして、この城の防御構造を語る上で最も重要な要素が、天然の岩盤を最大限に活用している点である。臥牛山は花崗岩の巨岩が随所に露出した山であり、築城者たちはこの地形を巧みに取り込んだ。岩盤を削り出して平場を造成し、あるいは巨大な岩そのものを石垣の土台や壁面の一部として直接利用している 34 。特に大手門跡付近の、天然の岩盤の上に人工の石垣がそそり立つ光景は、自然の要害と人の知恵が融合した山城ならではの設計思想を象徴している 37 。
第二節:石垣・門・櫓
備中松山城の石垣は、長い年月にわたる改修の歴史を物語るように、様々な時代の工法が混在している。自然石をほとんど加工せずに積み上げた「野面積み」から、石の接合部をある程度加工した「打込接」まで、多様な様式を見ることができる 12 。特に、毛利氏によって築かれたとされる野面積みの石垣は、戦乱の時代の緊迫した空気感を今に伝えている 35 。
防御の要となる門の構造も巧妙である。現在、建物は失われているが、大手門跡の石垣は、侵入者を直進させず、直角に折れ曲がらせることでその勢いを削ぎ、周囲の高所から集中攻撃を浴びせることができる、いわゆる桝形虎口のような構造となっている 34 。
現存する建造物の中でも、天守に次いで重要な役割を担っていたのが二重櫓である 39 。この櫓は天守後方の守りを固めるだけでなく、南北に二つの出口を持ち、有事の際には天守からの脱出経路を確保する機能も持っていたと推測されている 1 。
第三節:天守の内部構造
現在見ることのできる天守は、江戸時代の天和3年(1683年)に完成したもので、二層二階建て、高さ約11メートルと、現存天守の中では最も小規模である 40 。しかし、天然の岩盤の上に築かれているため、その見た目は壮大であり、山城の天守として比類なき存在感を放っている。
その内部構造は、単なる物見櫓ではなく、籠城戦における最後の拠点を想定した機能的な造りとなっている。一階には、籠城の際に城主一家が居室として使用したとされる「装束の間」があり、その床下には忍者の侵入を防ぐため隙間なく石が詰められている 1 。また、火気厳禁の城内では極めて珍しい囲炉裏が設けられているのも特徴である 3 。二階には、三振りの宝剣を御神体として祀る「御社壇」が設けられており、精神的な支柱としての役割も担っていた 3 。備中松山城の構造は、中世山城の実戦的な思想と、近世城郭の権威の象徴である天守が共存する、過渡期の城郭建築の貴重な実例なのである。
第六章:泰平の世の城 ―江戸時代の城主たちと大修築―
関ヶ原の戦いで西軍の総大将であった毛利輝元が敗れると、備中松山城の運命も再び転換期を迎える。城は江戸幕府の管理下に置かれ、徳川家康の側近であった小堀正次、そして茶人・作庭家として名高いその子・政一(遠州)が城番として入った 5 。この頃、山城での生活や政務の不便さから、山麓に藩主の居館と藩庁を兼ねた「御根小屋」が築かれる 5 。これにより、城の機能は、山上の軍事・象徴的施設と、山麓の政治・経済的中心という二元的な体制へと移行した。
元和3年(1617年)、池田長幸が6万3千石で入封し、備中松山藩が立藩。しかし池田氏は二代で嗣子なく断絶する 5 。その後、寛永19年(1642年)に5万石で入封したのが水谷勝隆である。彼の跡を継いだ二代藩主・水谷勝宗は、天和元年(1681年)から3年の歳月と莫大な費用をかけて、山上の城の大修築を断行した 2 。現在我々が目にすることのできる壮麗な天守や二重櫓は、この時に完成したものである 5 。
戦乱の世が終わり、城の実用的な軍事価値が薄れていく中で、なぜ水谷氏はこれほどの大事業を行ったのか。それは、山上の城がもはや戦うための拠点ではなく、大名家の「格」と歴史を象C徴するモニュメントへと、その存在意義を変えていたからに他ならない。戦国の記憶をとどめる険峻な山城の上に、泰平の世の権威の象徴である天守を築き上げるという行為そのものが、新たな時代の統治の正当性を内外に示すためのものであった。
水谷氏も三代で断絶し、その後は安藤氏、石川氏と城主が短期間で交代するが、延享元年(1744年)に板倉勝澄が5万石で入封して以降、明治維新に至るまで8代約120年間にわたり板倉氏が藩主を務め、藩政は安定期を迎えた 5 。
第七章:廃墟からの復活 ―近代における保存と継承―
幕末、戊辰戦争の嵐が備中松山にも吹き荒れた。朝敵とされた松山藩は、新政府軍の討伐対象となる。しかし、この危機的状況を救ったのが、藩の執政であった陽明学者・山田方谷の卓越した見識であった。方谷は藩論をまとめ、新政府軍への恭順を決定。これにより、備中松山城は戦火を交えることなく無血開城を果たし、貴重な建造物が兵火から守られた 5 。
しかし、城を待ち受けていたのは、別の形の危機であった。明治6年(1873年)に発布された廃城令により、山麓の御根小屋は取り壊された。山上の天守や櫓は、険しい山中にあり解体費用がかさむという理由で幸か不幸か破壊は免れたものの、完全に放置されることになった 5 。風雪に晒された城は急速に荒廃し、大正末期には天守は蔦に覆われ、壁は剥落し、いつ崩壊してもおかしくないほどの廃墟と化していた 9 。
この忘れ去られた天空の要塞に、再び光を当てた人物がいた。地元・高梁中学校の教諭であった信野友春氏である。彼は荒れ果てた城を丹念に調査し、昭和5年(1930年)にその成果を『備中松山城及其城下』として刊行した 5 。この一冊の本が、城の歴史的価値を再発見させ、地元で保存の機運を一気に高める起爆剤となった。
この市民の熱意が行政を動かし、昭和14年(1939年)から「昭和の大改修」が開始される。特筆すべきは、この修復事業が、地域住民の献身的な協力によって支えられたことである。特に、約2万枚にも及ぶ屋根瓦を、麓から険しい山道を登って山頂まで運び上げたのは、地元の旧制中学校の生徒たちであった 5 。備中松山城の現存は、単なる偶然の産物ではない。一度は国家に見捨てられた廃墟を、一人の郷土史家の情熱と、それに呼応した地域住民の「自分たちの城は自分たちで守る」という強い意志と労働奉仕が救った、文化遺産保存史における奇跡的な事例なのである。その後も昭和、平成と幾度かの修理・復元整備が重ねられ、城は往時の姿を取り戻し、今日に至っている 1 。
終章:歴史を語り継ぐ天空の要塞
備中松山城の約800年にわたる歴史は、日本の城郭が辿った運命の縮図である。鎌倉時代の軍事拠点としての砦に始まり、戦国時代には存亡を賭けた巨大要塞へと変貌し、江戸時代には泰平の世の権威を象徴するモニュメントとなった。そして近代には、一度は時代の遺物として打ち捨てられながらも、地域の人々の誇りによって奇跡の復活を遂げ、現代においては多くの人々を魅了する文化遺産として輝きを放っている。
この城は、特に「備中兵乱」における三村元親の悲劇を通じて、戦国という時代の非情さと、そこに生きた人々の激しい情念を我々に語りかける。同時に、天然の岩盤と一体化した石垣群や、山上に聳える現存天守は、自然と人間の営みが長年にわたって融合し形成された、他に類を見ない文化的景観としての価値を湛えている。
備中松山城は、単なる過去の遺物ではない。それは、時代の要請に応じてその姿と意味を変えながら生き抜き、戦国の記憶と近代市民の誇りをその一身に刻み込んだ、今なお歴史を語り継ぐ天空の要塞なのである。
引用文献
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- 備中松山城 ~備中の覇者・三村元親の一大要塞 | 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/068_bicchumatsuyamajo-html.html
- 日本の魅力を探そう「備中松山城」【近畿日本ツーリスト】で中四・四国に https://www.knt.co.jp/goto/miryoku/chugoku-shikoku/sekaiisan001.html
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- 日本三大山城 — 高梁商工会議所 https://www.takahashi-cci.or.jp/sightseeing/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%9F%8E/
- 日本三大山城 | テーマに沿って城めぐり https://kojodan.jp/badge/10/
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- 「備中兵乱」と常山城の鶴姫 - 岡山県立博物館の企画展『岡山の城 ... https://amago.hatenablog.com/entry/2014/10/05/031757
- 備中兵乱 三村VS毛利と宇喜多!備中を手にするのは誰か!? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=N3DtYKRhwa8
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- 備中國 三村家墓所 [頼久寺](岡山県高梁市 - FC2 http://oshiromeguri.web.fc2.com/biccyu-kuni/mimurabosyo/mimurabosyo.html
- 三村元親の辞世 戦国百人一首⑨|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n86d75b492864
- 2017年3 月 - 紀行歴史遊学 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2017/03/
- 敵将に一騎打ちを要求!侍女34人の”女軍”を率いて毛利軍と戦った戦国時代の女傑「鶴姫」の活躍 https://mag.japaaan.com/archives/217423
- 備中高松城:歴史を変えた秀吉中国大返しの舞台 足守川紀行② (岡山市) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11864502
- 備中松山城の沿革 - 高梁市公式ホームページ https://www.city.takahashi.lg.jp/site/bichu-matsuyama/enkaku.html
- 備中松山城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/tyugoku/bittyumatsuyama/bittyumatsuyama.html
- 備中松山城の見どころ - 高梁市公式ホームページ https://www.city.takahashi.lg.jp/site/bichu-matsuyama/spot.html
- 備中松山城 - 高梁市公式ホームページ https://www.city.takahashi.lg.jp/soshiki/2/bitchu-matsuyama-castle-jpn.html
- 天守が残る日本で唯一の山城「備中松山城」は巨大な岩盤の上に立つお城でした!|おか旅 | 岡山観光WEB【公式】- 岡山県の観光・旅行情報ならココ! https://www.okayama-kanko.jp/okatabi/210/page
- 【敵を撃退】名城の防御設備と仕掛け|日本の城研究記 https://takato.stars.ne.jp/2023ver5/japancastlestorik.html
- 備中松山城 https://www.city.takahashi.lg.jp/bunkazai/map/0001.html
- 備中松山城の重要文化財 - 高梁市公式ホームページ https://www.city.takahashi.lg.jp/site/bichu-matsuyama/juyoubunkazai.html
- 備中松山城:明治の廃城令も免れた山城唯一の現存天守 ~ Photo ~ Bitchu-Matsuyama Castle https://note.com/tabi_no_catalog/n/n4768b36ed42d