南九州の要衝、加久藤城は北原氏の砦として築かれ、島津義弘が大規模改修。木崎原の戦いで鉄壁の守りを見せ、島津氏勝利に貢献。廃城後もその歴史は語り継がれる。
本報告書は、宮崎県えびの市に存在した戦国時代の城郭「加久藤城」について、その築城から廃城、そして後世に至るまでの全貌を、地政学的、軍事的、政治的、そして人的側面から多角的に解明することを目的とする。加久藤城は、単に日向国の一地方城郭に留まらず、戦国期における南九州の勢力図を決定づけた重要な歴史の舞台であった。その変遷を丹念に追うことは、この時代の複雑な権力闘争の実像を理解する上で不可欠である。
加久藤城が位置した現在の宮崎県えびの市一帯は、古くから「真幸院」と呼ばれ、日向、大隅、薩摩、そして肥後という四国の国境が複雑に入り組む、まさに地政学的な十字路であった 1 。この地理的特性は、真幸院を交通の要衝たらしめ、同時に諸勢力による絶え間ない争奪の対象とした。
さらに、この地は豊かな穀倉地帯でもあり、飯野、加久藤、小林、馬関田、吉田の五郷からなる「真幸院五郷」は、軍事力と経済力の基盤となる兵糧と富を産み出すため、戦国大名にとって垂涎の的であった 2 。事実、この地を巡る権力闘争は、遠く南北朝の動乱期から戦国時代に至るまで、途切れることなく続いていたのである 2 。
したがって、加久藤城の歴史を深く考察することは、単一の城の歴史に留まらず、戦国期南九州の動乱の縮図そのものを解き明かすことに繋がる。本報告書は、この中心的な視座に基づき、加久藤城の多層的な歴史的価値を明らかにしていく。
加久藤城の歴史は、島津氏の時代に大きく花開くが、その起源は真幸院を支配した在地領主・北原氏の時代に遡る。当初は「久藤城」と呼ばれたこの城は、北原氏の支配体制を支える一つの拠点であった。
久藤城は、室町時代の応永年間(1394年~1428年)に、当時この真幸院一帯を治めていた北原氏によって築かれたと伝わる 3 。北原氏は、真幸院の「院司」としてこの地を統治する在地領主であり、その権力基盤を維持するために、領内に複数の城砦を配置していた 2 。
築城当初の久藤城は、北原氏の本拠であった飯野城の支城であり、さらに西方の徳満城の支城という、二重に従属的な位置づけにあった 5 。これは、当時の北原氏の防衛戦略が、徳満城や飯野城を中核とする城郭ネットワークによって構成されていたことを示唆している。久藤城は、その広域防衛網の一翼を担う、比較的小規模な砦としてその歴史を開始したのである。
戦国時代中期、日向国において急速に勢力を拡大した伊東義祐は、隣接する真幸院の支配を目論み、北原氏の家督相続問題に巧みに介入した 6 。この介入により北原氏は内部分裂を起こし、その勢力を著しく減退させる。
そして永禄5年(1562年)、伊東氏の本格的な侵攻と内部の混乱が重なり、長らく真幸院に君臨した名門北原氏は事実上の滅亡へと追い込まれた 3 。これにより、久藤城を含む真幸院の広大な領地は、一時的に伊東氏の支配下に置かれることとなる。その後、北原氏の旧臣たちが薩摩の島津貴久らの支援を得て、一時的に北原氏を再興する動きも見られたが、最終的にこの戦略的要地は、南九州の覇権を目指す島津氏の直接的な領有に帰することとなった 6 。
この一連の動乱の中で、久藤城の戦略的価値が改めて認識されることとなる。北原氏の時代、久藤城は徳満城の支城に過ぎなかった。しかし、島津氏がこの地を領有した後、徳満城は逆に加久藤城の支城へとその立場を逆転させるのである 6 。この主従関係の劇的な転換は、単なる支配者の交代による序列の変化ではない。それは、後に詳述する島津義弘が、この地域の防衛戦略の重心を、旧来の徳満城から、自らが大規模な改修を施すことになる加久藤城へと、明確な意図をもってシフトさせたことの証左である。既存の城郭網に安住せず、自らの戦略思想に基づき新たな防衛ラインを構築しようとする義弘の能動的な姿勢が、この時点で既に見て取れる。
北原氏が没落し、伊東氏との緊張が高まる中、真幸院は島津氏にとって対日向戦略の最前線となった。この地を託されたのが、後に「鬼島津」と恐れられる猛将、島津義弘である。彼の登場により、久藤城は単なる地方の砦から、南九州の歴史を動かす戦略拠点「加久藤城」へと劇的な変貌を遂げる。
永禄7年(1564年)頃、島津義弘は真幸院の領主として飯野城に入り、この地の直接統治を開始した 7 。彼は伊東氏の脅威に対抗するため、既存の城郭網の再編に着手する。その中核とされたのが久藤城であった。
義弘は、従来の「久藤城」の東側に、新たに「中城」と「新城」を増設するという大規模な拡張工事を断行した 3 。これにより、城の領域は東西約320メートル、南北約270メートルに及ぶ広大なものへと生まれ変わった 7 。この大改修に伴い、城は「加久藤城」と改名された。伊東氏側の史料には「覚頭城」という名でも記録されている 7 。この改名は、単なる名称の変更ではない。それは、この城が旧来の北原氏の砦から、島津氏の新たな戦略思想を体現する拠点として生まれ変わったことを、敵対する伊東氏、そして領内の国人衆に強く宣言する、明確な政治的・軍事的メッセージであった。
義弘は、加久藤城を単なる軍事要塞としてだけでなく、領国経営の拠点、そして自身の生活空間としても位置づけていた。彼は、継々室である実窓夫人(広瀬氏)と、待望の嫡男であった鶴寿丸(つるひさまる)を、この加久藤城に住まわせたのである 3 。
この決定は、一見すると危険極まりない。伊東氏との国境紛争が絶えない最前線の城に、最も大切な家族を置くことは、軍事的な常識からは逸脱しているように見える。しかし、これこそが義弘の高度な戦略的判断であった。領主自らが家族と共にその地に根を下ろす姿を示すことで、新たに支配下に入った真幸院の民衆や国人衆の求心力を高め、支配の正当性を視覚的に訴えかける効果があった。さらに、敵対する伊東氏に対しては、この地を絶対に明け渡さないという、義弘の不退転の決意を示す強力な威嚇となった。
なお、城の日常的な管理と防衛の指揮は、義弘が厚い信頼を寄せる重臣、川上忠智(かわかみ ただとも)が城代として任命され、その任に当たった 5 。
しかし、この加久藤城は義弘に悲劇をもたらす場所ともなった。天正4年(1576年)、嫡男の鶴寿丸がわずか8歳で病のため夭折したのである 3 。義弘の悲嘆は深く、城中に墓を築き、愛息を手厚く葬った。
この悲劇は、予期せぬ形で島津家と真幸院の土地との精神的な結びつきを決定的なものにした。義弘にとって加久藤城は、単なる戦略拠点ではなく、愛する息子の眠る土地となった。守るべき理由が、公的な戦略から、極めて私的な情念へと昇華されたのである。現在も城跡の南麓には鶴寿丸の墓が残り(明治元年に神道式に改築)、また義弘が息子の供養のために飯野城近くの地頭仮屋跡に植えたと伝わる「飯野の大イチョウ」が、猛将として知られる義弘の、父親としての深い愛情を今に伝えている 3 。この公私の両面にわたる強い想いが、後の木崎原の戦いにおける、常識を超えた驚異的な粘り強さの精神的支柱となったことは想像に難くない。
元亀3年(1572年)、加久藤城は、その真価が問われる最大の試練を迎える。「九州の桶狭間」とも称される木崎原の戦いである。この戦いにおいて、加久藤城は伊東軍の猛攻を食い止める防波堤となり、島津軍の歴史的勝利の序章を飾る重要な役割を果たした。
島津氏の勢力拡大に強い危機感を抱いた日向の伊東義祐は、島津氏当主・貴久の死を好機と捉え、大軍による真幸院への侵攻を決断する。元亀3年(1572年)5月3日の夜、総大将・伊東祐安が率いる3000余の大軍が、居城の小林城を出陣した 12 。
伊東軍の作戦は、軍を二手に分け、一隊が加久藤城を、そして本隊が島津義弘のいる飯野城を同時に攻撃するというものであった。加久藤城攻撃隊は、城下に到着すると民家に火を放って混乱を引き起こし、その隙に城を攻め落とす計画であった 12 。
伊東軍が加久藤城の主たる攻撃目標としたのは、城の北側に位置する「鑰掛口」であった 12 。しかし、この選択は伊東軍にとって致命的な誤算となる。この場所は「鑰掛うど」とも呼ばれる、切り立った断崖絶壁となっており、天然の要害をなしていた 3 。攻め手にとっては、崖をよじ登りながら攻撃しなければならず、極めて困難な地形であった 12 。
この地形的優位を最大限に活用したのが、城代の川上忠智であった。彼は、わずかな城兵を巧みに指揮し、崖を登ろうとする伊東軍に対して効果的な防戦を展開。伊東軍は多数の死傷者を出し、攻めあぐねることとなる 5 。この防衛成功は、決して偶然の産物ではない。城を大改修した島津義弘は、この城のどの地点が防御の要となるかを熟知しており、その防衛計画を城代である忠智と事前に徹底して共有していたと考えられる。義弘の築城術と、忠智の戦術が見事に融合した結果であった。
忠智が時間を稼いでいる間に、飯野城から遠矢良賢が率いる島津軍の援軍が到着。これにより加久藤城の守りはさらに強固となり、伊東軍を完全に退けることに成功した 3 。
加久藤城の攻略失敗と、そこで被った予想外の大きな損害は、伊東軍の作戦計画全体を大きく狂わせた。戦略目標を達成できず、兵の士気も著しく低下した伊東軍は、その後の木崎原での本戦において、島津義弘率いるわずか300の寡兵に奇襲され、壊滅的な敗北を喫することになる 5 。
加久藤城における鉄壁の防衛がなければ、義弘が寡兵で伊東の大軍を撃破するという、奇跡的な勝利はあり得なかったであろう。加久藤城は、この歴史的な戦いの勝敗を決定づけた「陰の主役」であり、その堅牢さは、島津義弘の築城思想の正しさが実戦によって証明された瞬間でもあった。
加久藤城が木崎原の戦いで示した驚異的な防御力は、その巧みな城郭構造に由来する。シラス台地という南九州特有の脆弱な地質を逆手に取り、天然の地形と人工的な防御施設を融合させた、戦国期山城の傑作であった。
加久藤城は、周囲からの比高が約50メートルから60メートルの独立した丘陵上に築かれた、平山城形式の城郭である 3 。城が築かれたシラス台地の丘は、その周囲が切り立った断崖となっており、それ自体が巨大な天然の要害を形成していた 7 。
城の縄張りは、単一の曲輪で構成される単純なものではない。中心となる本城(旧久藤城)に加え、島津義弘によって東側に増設された「中城」と「新城」、さらに周囲に点在する「小城」といった複数の曲輪が、有機的に連結された連環構造をなしていた 4 。これにより、仮に一つの区画が突破されても、次の区画で敵を食い止めるという、多重防御が可能となっていた。
城内の各施設は、それぞれが明確な戦略的意図をもって配置されていた。
加久藤城の真価は、城単体の堅固さだけに留まらない。それは、島津義弘の本城であった飯野城と連携する、広域防衛システムの中核として機能した点にある。加久藤城は「点」の防御ではなく、地域全体を防衛する「面」の思想に基づいて設計されていた。
東に約4キロメートル離れた飯野城との間の連絡路は、単なる道ではなかった。西から順に「大明神城」「掃部城(かもんじょう)」「宮之城」という三つの砦(塁)が配置され、敵の侵攻を段階的に食い止める、いわば「要塞化された回廊」となっていたのである 3 。これらの砦の中でも、肥後街道を見下ろす位置にあった大明神城は、かつて島津氏と肥後の相良氏が争奪を繰り広げたこともある重要な拠点であった 16 。
この広域防衛システムにより、飯野城と加久藤城は常に連携し、相互に支援しあうことが可能となった。木崎原の戦いにおいて、加久藤城が持ちこたえている間に飯野城から迅速な援軍を派遣できたのは、このシステムが完璧に機能したからに他ならない。義弘は、地域全体を一つの巨大な要塞と見なす、近代の縦深防御にも通じる先進的な防衛概念を実践していたのである。
表1:加久藤城の主要な遺構と戦略的機能
遺構区分 |
位置・規模 |
特徴と機能の考察 |
関連資料 |
本丸 |
城の中心最高所 |
主郭。司令部兼居住区。竈門神社が鎮座。周囲を土塁で固め、特に北と西は断崖で防御。 |
5 |
中城 |
本丸の東 |
本丸と新城を繋ぐ連絡・緩衝地帯。堀切により独立性を確保し、多重防御の一翼を担う。 |
4 |
新城 |
中城の東、大手口方面 |
島津義弘による拡張部分。広大な曲輪を持ち、大手門方面の主防御拠点であり、兵の駐屯地。 |
3 |
鑰掛口 |
城の北側 |
「鑰掛うど」と呼ばれる絶壁。天然の地形を活かした最大の防御地点であり、木崎原の戦いの主戦場。 |
3 |
堀切・空堀 |
各曲輪間 |
シラス台地を深く掘削した大規模な障壁。敵の水平移動を完全に遮断し、各個撃破を容易にする。 |
5 |
連絡路の砦群 |
飯野城との間 |
大明神城、掃部城、宮之城。飯野城との連携を確保し、地域全体を防衛する広域システムの構成要素。 |
3 |
木崎原の戦いでその名を不動のものとした加久藤城であったが、時代の大きなうねりの中で、その役割もまた変化していく。戦国の世の終焉と共に、要害堅固な城もまた、その歴史に幕を下ろす時を迎えた。
木崎原での決定的勝利によって、長年の宿敵であった伊東氏は衰退の一途をたどり、日向国から豊後へと敗走する 5 。これにより、加久藤城は対伊東氏の最前線としての緊張感に満ちた役割を終え、島津氏による真幸院支配を安定させるための、地域の政治・行政拠点としての性格を強めていった。
島津義弘が九州統一を目指す戦いの中で他の戦線へ移ると、加久藤城の城主として南郷若狭守(なんごう わかさのかみ)という人物の名が記録に見られる 5 。この人物の出自や具体的な経歴については不明な点が多いが、島津氏の家臣団の一員として、この地の統治を任されていたものと考えられる。
慶長20年(元和元年、1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、徳川家康による天下統一が完成する。戦乱の世に終止符を打った徳川幕府は、全国の大名の軍事力を削ぎ、謀反の芽を摘むため、「一国一城令」を発布した 18 。
これは、大名が領国に持つことができる城を、居城ただ一つに限定し、その他の城はすべて破却(廃城)せよという厳命であった。この幕府の政策に、薩摩藩の島津氏も逆らうことはできず、加久藤城もまたこの法令の対象となった 3 。応永年間に築かれて以来、200年以上にわたり南九州の動乱を見つめ続けてきた名城は、こうしてその軍事拠点としての歴史に静かに幕を閉じたのである 5 。
一国一城令による廃城は、加久藤城の物理的な機能を停止させたが、その歴史的・象徴的な意味までを人々の記憶から消し去ることはできなかった。廃城から約80年が経過した1693年、加久藤城跡を舞台としたある伝説が生まれている 19 。
それは、木崎原の戦いで先祖を失い、島津氏の支配を快く思わない勢力が、廃墟となった加久藤城に密かに集結し、薩摩藩に対するクーデターを計画したというものであった。この計画は、事前に藩に察知され失敗に終わるが、残党が報復として地域の住民を殺害し、その遺体を城の本丸跡に積み上げて燃やし、姿を消したと伝わっている 19 。
この伝説の真偽は定かではない。しかし、重要なのは、物理的には存在しないはずの城が、なぜ反乱の象徴的な舞台となり得たのかという点である。それは、加久藤城が単なる建造物ではなく、この地域に生きた人々の歴史的記憶―北原氏の支配、島津氏による征服、木崎原の激戦の記憶―が凝縮された「場所の記憶」そのものであったからに他ならない。反乱勢力にとって、加久藤城跡に集う行為は、失われた旧体制への回帰と、現支配者への抵抗の意思を表明する、極めて象徴的な意味を持っていた。加久藤城の物語は、廃城という物理的な終わりでは完結しない。むしろ、この伝説こそが、この城が地域社会に与えた影響の深さと、戦国という時代の記憶がいかに長く人々の心に残り続けるかを示す、重要なエピローグとなっているのである。
戦国の世が遠い過去となった現在、加久藤城は、えびの市指定史跡として保護され、その歴史を今に伝えている 5 。かつての栄華を偲ばせるものは多くないが、注意深く散策すれば、往時の面影を随所に見出すことができる。
城の中心であった本丸跡には、現在、加久藤城竈門神社が静かに鎮座している 5 。その周囲には、往時の防御施設であった空堀や土塁、そして枡形虎口などの遺構が、今なお良好な状態で残されており、戦国時代の城郭の雰囲気を色濃く感じることができる 5 。城跡の南麓には、若くしてこの世を去った島津義弘の嫡男・鶴寿丸の墓があり、訪れる者に歴史の悲哀を語りかける 5 。
現地には縄張り図が描かれた案内板も設置されているが、城跡へ至る道は狭く、特に大手門跡から先のカーブは軽自動車でなければ通行が困難な箇所もあるため、訪問の際には注意が必要である 5 。より詳細な資料を求めるならば、えびの市歴史民俗資料館を訪れると、縄張り図などの展示があり、理解を深めることができる 5 。
加久藤城は、その歴史を通じて、南九州の勢力図に決定的な影響を与えた。特に木崎原の戦いにおける勝利の礎となったことは、その後の伊東氏の没落と、島津氏の九州統一への道を切り開く上で、計り知れない貢献であった。
同時に、この城は島津義弘という一人の武将の生涯と分かちがたく結びついている。冷徹な軍事指揮官として城を大改修し、領主として民政の拠点とし、そして一人の父親として愛息を失った場所でもある。加久藤城の歴史は、義弘の多面的な人間像を映し出す鏡であり、彼の人生における重要な記憶が刻まれた場所なのである。
結論として、加久藤城は、戦国期南九州の激動を体現し、今なおその痕跡を大地に留める、極めて貴重な歴史遺産である。その歴史を深く知ることは、単に過去の出来事を学ぶに留まらない。それは、この地域の成り立ちと、そこに生きた人々の喜びや悲しみの記憶を、未来へと継承していく上で、極めて重要な意義を持つ行為と言えるだろう。