最終更新日 2025-08-20

勝龍寺城

勝龍寺城は京畿の要衝に位置し、細川藤孝が瓦・石垣・天主を備えた近世城郭の原点として大改修。明智光秀が山崎合戦で敗走後、最期に籠った悲劇の城。現在は公園として再生され、歴史を伝える。

勝龍寺城 ― 京畿の要衝、織豊系城郭の黎明と天下人の攻防史 ―

序章:勝龍寺城の歴史的座標

日本の城郭史において、勝龍寺城は特異な光を放つ存在である。その名は多くの場合、本能寺の変の後、山崎合戦に敗れた明智光秀が最期に籠った城として、悲劇的な物語と共に語られる 1 。しかし、この城の真の歴史的価値は、その物語性のみに留まるものではない。勝龍寺城は、中世から近世へと移行する日本の築城技術の転換点を象徴する画期的な城郭であり、織田信長の天下統一事業における先進的な軍事思想と技術が、安土城という完成形に先駆けて試験的に投入された、いわば「試作品」としての役割を担っていたのである 3

京都盆地の南西、交通の結節点に位置するこの城は、その地理的重要性のゆえに、南北朝の動乱から戦国の世に至るまで、常に京畿の覇権を巡る争奪の的となってきた 3 。そして、織田信長の支配下で細川藤孝(幽斎)によって施された大改修は、この城を単なる防御拠点から、新たな時代の到来を告げる政治的・軍事的モニュメントへと昇華させた。それは、後の城郭建築の標準となる「瓦」「石垣」「天主」という三要素を体系的に導入した、近世城郭の黎明を告げるものであった 3

本報告書は、日本の戦国時代という視点から勝龍寺城を徹底的に調査し、その築城から廃城に至るまでの全貌を解明するものである。黎明期の姿から、三好政権下の攻防、細川藤孝による革新的な改修、そして天下分け目の戦いの舞台となるまでの歴史的変遷を辿る。さらに、発掘調査によって明らかになった縄張の構造や、その前身である「神足城」との関係性を分析し、この城が持つ重層的な歴史を解き明かす。勝龍寺城の物語は、一城郭の興亡史に留まらず、戦国という時代の技術革新、権力闘争、そして人間ドラマを凝縮した、日本の歴史を読み解く上で不可欠な一章なのである。

第一章:黎明 ― 南北朝から戦国乱世へ

1-1. 京畿の要衝:築城の地理的必然性

勝龍寺城が歴史の表舞台に登場し、幾度となく争奪の対象となった根源的な理由は、その卓越した地理的条件にある。城は京都盆地の南西部に位置し、古代から畿内と西国を結ぶ大動脈であった西国街道と、京都から南下する久我畷(こがなわて)という二つの主要陸上交通路が交差する結節点を押さえる strategic な立地を誇っていた 3 。さらに、小畑川と犬川の合流地点に築かれており、淀川水系にも近接していることから、水運の利用も可能な交通の要衝であった 7

この地は、京都を防衛する上での南西の玄関口であり、同時に西国から京都へ進攻する軍勢にとっては、必ず確保しなければならない橋頭堡であった。政治・軍事・経済の三側面において、この地を支配することは、京畿における覇権を維持、あるいは獲得するための絶対条件だったのである。この地理的必然性こそが、勝龍寺城を南北朝時代から戦国時代に至るまで、絶え間ない戦乱の渦中へと引き込み続けた最大の要因であった。

1-2. 創始の諸説:細川頼春と畠山義就

勝龍寺城の創始については、複数の説が存在し、その正確な起源は必ずしも明確ではない。最も広く知られている通説は、南北朝時代の暦応2年(1339年)、足利尊氏の命を受けた細川頼春が、京都へ進出する南朝勢力に備えるために築城したというものである 1 。頼春は尊氏挙兵以来の功臣であり、この地に拠点を築くことで、幕府の京都支配を盤石にする狙いがあったと考えられる 12

一方で、より本格的な城郭としての整備は、15世紀後半の応仁・文明の乱期に行われたとする説も有力である。山城国守護であった西軍の畠山義就が、東軍の山崎城に対抗するための陣城として、また乙訓郡を支配するための郡代役所として、この地に恒常的な城郭を築いた、あるいは既存の施設を大幅に改修したとみられている 12 。この時期、勝龍寺周辺は東西両軍の激戦地となり、その過程で防御施設が段階的に強化されていったことは想像に難くない 3

これら創始者に関する記録の不確かさは、重要な事実を示唆している。すなわち、勝龍寺城は特定の個人の壮大な計画によって一挙に建設されたのではなく、時代の軍事的要請に応じて、既存の寺院(勝龍寺)や在地領主の館などを核としながら、段階的に fortification されていった「成長する城郭」であった可能性が高い。南北朝期に築かれた簡易な砦が、応仁の乱という大規模な戦乱を経て本格的な城へと姿を変えていったのであろう。これは、特定の築城主を一人に定めることの難しさ以上に、畿内における権力構造の流動性を、城郭そのものの変遷が体現している好例と言える。

1-3. 三好政権下の攻防:岩成友通の拠点化

16世紀半ば、畿内に三好長慶が覇を唱えると、勝龍寺城は再び戦略拠点として重要性を増す。当初は三好氏の支配下にあり、一時は松永久秀の持ち城であったとみられている 13 。しかし、長慶の死後、久秀と三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)が対立すると、勝龍寺城は両者の勢力争いの最前線となった。

永禄9年(1566年)、三好三人衆は松永方から勝龍寺城を攻略し、三人衆の一人である岩成友通が城主となった 13 。友通にとって、この城の獲得は単なる戦術的勝利以上の、極めて大きな意味を持っていた。それまでの友通は、三人衆の中でも独立した所領や確固たる居城を持たない存在であったが、勝龍寺城主となり、山城国西部の西岡地域一帯を支配下に置くことで、初めて一個の「大名」として自立する基盤を確立したのである 14

この事実は、戦国時代において「城を持つこと」、特に勝龍寺城のような戦略的・経済的価値の高い城を本拠とすることが、一武将の政治的地位をいかに飛躍的に向上させる力を持っていたかを如実に物語っている。友通は勝龍寺城を拠点に西岡の国人衆を統率し、三好三人衆政権の中核を担う存在として、畿内政治に大きな影響力を行使するに至った。勝龍寺城は、岩成友通という武将を、一介の部将から畿内の覇権を争う有力者へと押し上げるための、まさに飛躍台(springboard)となったのである。

第二章:革新 ― 細川藤孝による大改修と織豊系城郭の胎動

2-1. 信長の戦略と藤孝の入城

永禄11年(1568年)9月、足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長の出現は、勝龍寺城の運命を劇的に転換させる。信長は入京に先立ち、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚らを先遣隊として派遣し、三好三人衆方の拠点を次々と攻略させた 15 。その主要な標的の一つが、岩成友通が籠る勝龍寺城であった。

信長軍は桂川を渡り、勝龍寺城を包囲 15 。当初、友通は抗戦の構えを見せたものの、5万と号する信長本隊が迫ると戦意を喪失し、9月29日に城を明け渡して開城した 13 。畿内平定後、信長は勝龍寺城とその所領である乙訓郡および西岡(桂川以西)一帯を、側近であり、室町幕府の旧臣でもある細川藤孝に与えた 3 。これは、藤孝の功績に報いると同時に、京都の南西口という戦略的要衝を、最も信頼の置ける部将に委ねるという信長の深慮遠謀の現れであった。藤孝はこれ以降、姓を「長岡」と改め、勝龍寺城を拠点として信長の山城支配の一翼を担うこととなる 3

2-2. 元亀二年の大改修:信長の国家的事業

細川藤孝が入城した当初の勝龍寺城は、依然として中世的な土の城の域を出ないものであったと考えられる。しかし、元亀2年(1571年)、信長の厳命により、この城は未曾有の大改修を受けることになる 3 。この改修は、単なる一武将の居城の普請というレベルを遥かに超える、国家的事業とも言うべき規模で断行された。記録によれば、この作事には桂川以西の全所帯に対して3ヶ月間の普請労役が課されたとされ、信長がいかにこの城の改修を重要視していたかがうかがえる 13

この大改修の背景には、信長の先進的な城郭観と、畿内における新たな支配体制を視覚的に示すという明確な意図があった。信長にとって、城とは単なる防御施設ではなく、権威の象徴であり、新たな時代の統治イデオロギーを体現する装置であった。安土城の築城に先立つこと5年、信長は来るべき時代に必要とされる城郭の姿を、腹心である藤孝に託してこの勝龍寺城で具現化させようとしたのである。

その証拠は、発掘調査で出土した遺物からも見て取れる。勝龍寺城から出土した瓦は、明智光秀の居城であった坂本城や、信長自身の宿所であった京都の旧本能寺で使われた瓦と、同じ型で作られたものであることが判明している 3 。これは、藤孝が独力で職人を集めたのではなく、信長が直属の瓦職人集団を各地の重要拠点に派遣し、高品質な建材を供給するシステムを構築していたことを強く示唆する 16 。つまり、勝龍寺城の改修は、信長の直接的な技術的・財政的支援の下で行われた、彼の壮大な天下統一事業の一環であった。それは、家臣たちの城を、自身の戦略ネットワークに組み込むための「城郭の規格化」の試みであり、その先進性を畿内に誇示するためのモデルケースだったのである。

2-3. 「瓦・石垣・天主」:近世城郭の黎明

藤孝による大改修は、勝龍寺城の姿を一変させた。それまでの中世城郭が土を主材料とした「土塁」と「空堀」で構成されていたのに対し、新たな勝龍寺城は、以下の三つの画期的な要素を全面的に導入した、当時最先端の城郭へと生まれ変わった 3

第一に「瓦」である。城内の主要な建物や櫓、土塀の屋根に瓦が葺かれた。これは、防御力を高める(耐火性)だけでなく、陽光を反射して輝く甍(いらか)の列が、城の壮麗さと城主の権威を強く印象づける効果を持っていた。

第二に「石垣」である。堀の裾や櫓台など、城の基部を高く、そして堅固に構築するために石垣が用いられた 7 。特に、城の出入り口である虎口(こぐち)周辺には、防御の要として強固な石垣が組まれた。注目すべきは、その石材として、自然石や河原石に混じって、石仏や五輪塔、墓石などが大量に転用されている点である 7 。これは、工期短縮や近隣で石材が不足していたという現実的な理由に加え、旧来の宗教的権威を新たな軍事権力が踏み越え、支配するという、戦国時代特有の価値観の転換を象徴する現象でもあった。

第三に「天主(殿主)」の存在である。発掘調査では天守台の明確な遺構は確認されていないものの、文献史料によれば、天正2年(1574年)に藤孝が「殿主」と呼ばれる高層建築物の中で、公家の三条西実澄から古今伝授を受けたと記録されている 7 。これは、単なる物見櫓とは異なる、城の象徴であり、政治的・文化的儀礼の場としても機能する、後の天守閣の原型と言える建物の存在を示唆している。

これら「瓦」「石垣」「天主」の三要素を備えた勝龍寺城は、信長が天正4年(1576年)から築城を開始する安土城の先駆けであり、まさに織豊系城郭、すなわち近世城郭の原点と評するにふさわしい城郭であった 3

2-4. 文化の薫る城:ガラシャの婚礼と藤孝の教養

革新的な軍事要塞として生まれ変わった勝龍寺城は、同時に当代随一の文化サロンでもあった。城主である細川藤孝は、武将としてだけでなく、和歌や連歌、古典に通じた一流の文化人としてもその名を知られていた。彼が城内で囲碁や能楽を楽しんだ記録が残っており、天目茶碗や茶釜なども出土していることから、この城が華やかな文化活動の舞台であったことがうかがえる 3 。その頂点と言えるのが、前述の古今伝授である。戦乱の世にあって、城の高層建築物の中で和歌の奥義が伝授されるという光景は、藤孝の人物像と勝龍寺城の性格を象徴している。

そして、この城の歴史に最も華やかな一頁を刻んだのが、天正6年(1578年)8月に行われた、藤孝の嫡男・忠興と、明智光秀の三女・玉(後のガラシャ)の婚礼である 1 。織田家中の有力武将である細川家と明智家の縁組は、信長政権の安定を象徴する出来事であった。玉はこの城で忠興と共に2年ほどの幸福な新婚時代を過ごしたと伝えられている 1

しかし、そのわずか4年後、父・光秀が起こした本能寺の変により、玉の運命は暗転する。そして皮肉にも、彼女がかつて幸福な時を過ごしたこの勝龍寺城が、父・光秀の野望が潰える最後の舞台となるのである。軍事拠点としての革新性と、華やかな文化、そして悲劇的な人間ドラマが交錯する点に、勝龍寺城の比類なき魅力がある。

第三章:縄張の解読 ― 発掘調査が明かす城郭の構造

3-1. 梯郭式平城の全体像

勝龍寺城は、小畑川と犬川に挟まれた低地に築かれた平城である 7 。その縄張(城の設計プラン)は、本丸(主郭)を城郭の一方の端に置き、それを取り囲むように他の曲輪を配置する「梯郭式」と呼ばれる形式を採用していた 8

城の中心となる本丸は、発掘調査の結果、東西約120m、南北約80mの長方形を呈していたことが判明している 8 。その四方は土塁で囲まれ、東側と北側には幅12mに及ぶ水堀が巡らされていた 8 。特に西側の土塁は高さ10m、幅5mという大規模なもので、この土塁上には天主(殿主)が建てられていたと推定されている 8

本丸の西側には「沼田丸」と呼ばれる曲輪が隣接していた 10 。この名は、藤孝の正室・麝香(じゃこう)が沼田氏の出身であったことに由来すると考えられ、重臣の屋敷などが置かれていたとみられる 8 。現在、この沼田丸跡は公園の駐車場や広場となっている 10

さらに、これらの中心的な曲輪の外側には、「松井屋敷」「米田屋敷」「神足屋敷」といった家臣団の屋敷地が配置され、城郭全体を構成していた 8 。これら家臣屋敷群も防御施設の一部として機能し、城全体の守りを固めていたと考えられる。

3-2. 最先端の防御機構

細川藤孝による改修で、勝龍寺城には当時最先端の防御技術が導入された。これらは織豊系城郭に共通する特徴であり、戦闘における実用性を徹底的に追求した設計思想の現れである。

  • 枡形虎口(ますがたこぐち) : 城の出入り口である虎口は、敵の侵入を阻む最も重要な防御施設である。勝龍寺城では、本丸の南門と北門に「枡形」が採用された 7 。これは、門を直線的に配置せず、石垣や土塁で囲まれた四角い(枡形)空間を設ける構造である。敵兵は第一の門を突破してもこの空間に誘い込まれ、直進できずに動きを止められたところを、周囲の土塁や櫓の上から三方(側面と正面)から集中攻撃を受けることになる 23 。これにより、敵兵は容易に城内へ侵入することができなかった。現在、北門跡には当時の石垣の一部と門の礎石が残り、この複雑な構造を今に伝えている 6
  • 横矢掛かり(よこやがかり) : 城壁や土塁を直線的にせず、意図的に屈曲(「折れ」)や突出部(「出」)を設けることで、城壁に取り付こうとする敵兵に対して側面から矢や鉄砲を射掛けることができるようにした設計である 25 。勝龍寺城では、城の北東部に位置する神足神社周辺に残る土塁に、この横矢掛かりの構造が明瞭に見て取れる 8 。空堀に架かる土橋を渡ろうとする敵に対し、西側に張り出した土塁から側面攻撃を加えることが可能となっており、極めて効果的な防御ラインを形成していた。
  • 惣構(そうがまえ) : 城だけでなく、城下の町や家臣団の居住区までをも含めた広大な範囲を、土塁と堀で囲い込んでしまう防御システムである。勝龍寺城では、城の北側に大規模な惣構が築かれていたことが確認されている 17 。発掘調査によれば、堀の底から土塁の頂部までの高さが6mを超える巨大なものであった 24 。このような惣構の遺構が良好な状態で残る例は全国的にも希少であり、勝龍寺城が単なる城主の居館ではなく、地域全体を防衛する一大軍事拠点として構想されていたことを示している。

3-3. 前身「神足城」の発見と歴史の重層性

近年の発掘調査は、勝龍寺城の歴史に新たな光を当てた。それは、細川藤孝による大改修以前に、この地に「神足城(こうたりじょう)」と呼ばれる城郭が存在したことの発見である 25 。この城は、この地域の在地土豪であった神足氏の居館であったと考えられている 28

調査の結果、藤孝は全くの白紙の状態から勝龍寺城を築いたのではなく、既存の神足城の土塁や堀を巧みに再利用し、それを拡張・再編する形で新たな城を構築したことが明らかになった 11 。具体的には、神足城の北辺の防御ラインを、新たな勝龍寺城の惣構の一部として取り込み、そこに横矢掛かりのような新技術を付加して防御力を強化した。一方で、新たな縄張に合わない神足城の堀や溝は埋め戻された 25

この築城プロセスは、単なる技術的な問題に留まらず、戦国時代の権力構造の変化をミクロな視点で示している。神足氏のような在地勢力(国衆)が築いた基盤の上に、織田信長という中央権力に直結する細川藤孝が、より高度で規格化された技術を用いて新たな城を「上書き」していく。この過程は、中央の先進権力が地方の既存インフラを解体・吸収し、自らの支配体制へと組み込んでいく、まさしく天下統一の縮図とも言える現象である。勝龍寺城の地面の下には、神足城の記憶が地層のように眠っており、その歴史の重層性こそが、この城の奥深さを物語っている。


表:勝龍寺城の主要な曲輪と構造

曲輪名称

位置

推定される機能

主要な構造・特徴

現状

本丸(主郭)

城の中心

城主の居館、政務・儀礼の場

天主(殿主)、石垣、大規模な土塁、南北に枡形虎口

勝竜寺城公園として整備 7

沼田丸

本丸の西側

重臣の屋敷(藤孝の妻・沼田氏に由来)

井戸跡

公園駐車場、広場 10

神足屋敷

城の北東部

家臣団の屋敷、北方の防御拠点

土塁、空堀、土橋、横矢掛かりの構造

神足公園内に遺構が現存 8

松井屋敷・米田屋敷

城の北部

家臣団の屋敷

(宅地化により消滅)

住宅地 8


第四章:激震 ― 本能寺の変と山崎合戦

4-1. 「天下分け目」の舞台へ

天正10年(1582年)6月2日早朝、京都・本能寺で起きた事件は、勝龍寺城の運命を再び歴史の激流へと投げ込んだ。明智光秀による主君・織田信長への謀反、すなわち本能寺の変である。変の後、光秀は安土城などを接収し、一時的に畿内を掌握した。彼の勝算は、織田家の有力宿老たちが遠方に釘付けにされている間に、畿内の諸将を味方に引き入れ、新たな政権を樹立することにあった 2

光秀が最も期待を寄せたのが、娘・玉の嫁ぎ先である細川藤孝・忠興父子と、与力大名であった筒井順慶であった 2 。しかし、藤孝は信長への弔意を示すため剃髪して「幽斎」と号し、忠興は玉を丹後の山奥へ幽閉することで、光秀との決別を表明した 7 。順慶もまた日和見の態度に終始し、光秀は急速に孤立を深めていく。

その間、備中高松城で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉は、信長横死の報に接するや、すぐさま毛利氏と和睦。驚異的な速度で軍を東へ反転させた。世に言う「中国大返し」である 29 。6月10日、光秀のもとに秀吉接近の報が届く 29 。予想を遥かに超える秀吉軍の進軍速度に、光秀は態勢を十分に整えることができなかった。彼は決戦の場として、京都への入り口である山崎の地を選び、淀城と共に勝龍寺城を前線拠点として急遽修築に取り掛かった 29 。かつて娘の祝言が執り行われた城は、今や光秀の命運を賭した決戦の最前線へと変貌したのである。

4-2. 山崎合戦と光秀の敗走

天正10年6月13日午後、摂津国と山城国の境、山崎の地で両軍は激突した 30 。兵力は、秀吉軍が約4万であるのに対し、光秀軍は約1万6千と、2倍以上の差があった 30 。光秀は淀川支流の小泉川を前面に防衛ラインを敷き、地の利を活かして秀吉の大軍を迎え撃つ作戦であった 2

戦闘序盤は一進一退の攻防が続いたが、戦況を大きく動かしたのは、秀吉軍の巧みな用兵であった。秀吉は、戦場全体を見渡せる要衝・天王山を事前に確保し、戦いを有利に進めた 32 。そして、池田恒興・元助父子が率いる部隊が、雨で増水した円明寺川を密かに渡河し、光秀軍の右翼を担う津田信春の部隊に側面から奇襲をかけた 33 。これが突破口となり、手薄な側面を突かれた光秀軍は混乱に陥る。さらに、丹羽長秀や織田信孝らの部隊もこれに呼応して総攻撃を開始し、数で勝る秀吉軍に左右から包囲される形となった光秀軍は、ついに総崩れとなった 34

戦闘開始からわずか数時間で勝敗は決した 32 。光秀は敗兵を率いて、戦場からほど近い勝龍寺城へと退却した 2 。それは、かつて娘・玉が暮らした思い出の城であり、そして彼の「天下三日」の夢が潰える最後の城であった。

4-3. 光秀「最期の城」としての数時間

敗走した光秀が勝龍寺城に駆け込んだものの、そこは安息の地ではなかった。この城は、細川藤孝によって最新の技術で改修されてはいたが、元来が平城であり、秀吉の4万の大軍による包囲に長期間耐えられるほどの規模も堅固さも持ち合わせていなかった 12 。城内に収容できる兵の数も限られており、敗戦で士気を失った兵たちの逃亡も相次いだとされる 34

この状況を、当代きっての知将である光秀自身が最もよく理解していたはずである。彼が勝龍寺城に退却したのは、この城で徹底抗戦し、籠城戦を展開するためではなかった。それは、日中の戦闘で四散した兵を一時的にでも集め、体勢を立て直すための僅かな時間を稼ぎ、夜の闇に紛れて包囲網を突破するための、絶望的な「一時避難」に過ぎなかった。彼の真の目的地は、琵琶湖のほとりに築いた自らの本拠地、堅固な坂本城であった。勝龍寺城は、そのための「中継点」であり、彼の天下が事実上終わりを告げた場所であった。

秀吉軍の追撃は目前に迫っていた。城内で再起が不可能であると判断した光秀は、その日の夜、わずか20人ほどの供回りを連れて、夜陰に乗じて密かに勝龍寺城を脱出した 32

4-4. 北門脱出伝説の虚実

明智光秀は勝龍寺城の北門から脱出した、という逸話は広く知られている 7 。この北門は、坂本城方面へ向かう道筋に近く、地理的な蓋然性は高い。現在、勝竜寺城公園に残る北門跡の礎石は、この悲劇的な脱出劇の舞台として、訪れる者に歴史の瞬間を強く印象づける。

しかし、この「北門脱出」の逸話の主な典拠は、合戦から約100年後の江戸時代に筑前福岡藩の黒田家によって編纂された『黒田家譜』である 6 。これは、山崎合戦で活躍した黒田官兵衛(孝高)の功績を称える文脈の中で語られたものであり、同時代の一次史料によって裏付けられた確定的な史実とは言い難い。

とはいえ、状況証拠や城の構造から、光秀が北方面から脱出した可能性は十分に考えられる。この伝説は、史実の当否を超えて、追い詰められた光秀の最後の姿を象徴する物語として、勝龍寺城の歴史に深く刻み込まれている。城を脱出した光秀は、坂本城を目指す道中、山科の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りの土民に襲われ、その生涯を閉じたと伝えられている 32 。本能寺の変から、わずか11日後のことであった。

第五章:終焉と再生 ― 廃城から現代へ

5-1. 合戦後の荒廃と歴史からの退場

山崎合戦という歴史のクライマックスを演じ終えた後、勝龍寺城は急速にその重要性を失い、歴史の表舞台から静かに姿を消していく。合戦後、羽柴秀吉が一時入城したものの 13 、彼が畿内の新たな支配拠点として大坂城や聚楽第の築城を進める中で、勝龍寺城の戦略的価値は相対的に低下した。

城の荒廃を決定づけたのは、天正17年(1589年)の出来事であったとされる。豊臣秀吉が、側室である茶々(淀殿)のために淀城を築く際、その修築資材として勝龍寺城の建物や石垣などが転用されたという 13 。これにより、城は物理的に解体され、往時の壮麗な姿を失っていった。天下人の新たな城の礎となることで、勝龍寺城はその歴史的役割を終えたのである。

5-2. 廃城の経緯

江戸時代に入ると、勝龍寺城の存在はさらに忘れ去られていく。寛永10年(1633年)、旗本であった永井直清が1万2千石を与えられて山城長岡藩を立藩したが、彼は荒廃が進んだ旧勝龍寺城を藩庁として使用せず、別の場所に陣屋を構えた 13

勝龍寺城が再興されなかった理由の一つとして、低湿地という立地からくる水はけの悪さが挙げられており、これが廃城の直接的な原因になったとする記録もある 3 。そして、慶安2年(1649年)頃、勝龍寺城は正式に廃城となった 20

より大きな視点で見れば、勝龍寺城の終焉は、元和元年(1615年)に徳川幕府によって発令された「一国一城令」という時代の大きな流れの中に位置づけられる 35 。この法令は、大名の軍事力を削減し、幕藩体制を盤石にするため、各国における本城以外のすべての支城の破却を命じたものであった。これにより全国で数多の城がその歴史を閉じたが、勝龍寺城もまた、新たな時代における役割を見出せないまま、歴史の波間に消えていったのである。

5-3. 発掘調査と公園としての再生

その後、約3世紀半にわたり、勝龍寺城の遺構は田畑や宅地の下に埋もれ、その正確な姿はほとんど知られていなかった。しかし、昭和63年(1988年)から平成元年(1989年)にかけて行われた本格的な学術発掘調査が、この城の再評価に繋がる大きな転機となった 7

この調査によって、本丸や沼田丸の規模、枡形虎口や石垣の構造、そして安土城に先行する織豊系城郭としての画期的な特徴が次々と明らかにされた。さらに、その後の調査では、勝龍寺城の前身である神足城の存在も確認され、この地の歴史の重層性が科学的に証明されたのである 25

これらの学術的な成果を基に、長岡京市は城跡の保存と活用を決定。平成4年(1992年)、本丸と沼田丸跡を中心に史跡公園として整備し、「勝竜寺城公園」として一般に公開した 12 。失われた城は、歴史公園として現代に再生されたのである。

5-4. 現代に息づく歴史遺産

現在の勝竜寺城公園は、市民や歴史愛好家にとって憩いと学びの場となっている。公園内には、発掘調査に基づいて復元された土塁や堀、石垣が配置され、往時の縄張を体感することができる 24 。城郭風に建てられた管理棟は資料展示室を兼ねており、出土した瓦や城の歴史に関する解説パネルが展示され、勝龍寺城の価値を深く理解する手助けとなっている 39

その歴史的価値と良好な保存活用が評価され、公園は「日本の歴史公園100選」にも選定されている 9 。春には桜やツツジが咲き誇り、美しい景観を見せる 9 。また、毎年11月の第2日曜日には、細川ガラシャの輿入れ行列を再現する「長岡京ガラシャ祭」がこの公園を中心に盛大に開催され、地域の歴史と文化を象徴する一大イベントとして定着している 9

戦乱の舞台であった城は、今や平和な時代の中で、その記憶を後世に伝える歴史遺産として新たな役割を担っている。明智光秀の悲劇、細川ガラシャの物語、そして日本の城郭史における革新の記憶は、この公園を訪れる人々の心に静かに語り継がれているのである。

終章:勝龍寺城が語るもの

勝龍寺城の歴史を俯瞰するとき、我々はその石垣の一つひとつ、瓦の一片に至るまで、戦国という時代のダイナミズムが凝縮されていることに気づかされる。この城が我々に語りかけるものは、単一の物語ではなく、多岐にわたる重層的な意義である。

第一に、 技術史的意義 である。勝龍寺城は、土と木を主体とした中世城郭から、石垣と瓦を駆使した壮麗かつ堅固な近世城郭へと移行する、まさにその過渡期を体現する極めて重要な遺産である。織田信長の先進的な構想の下、安土城に先駆けて「瓦・石垣・天主」を備えたこの城は、日本の築城技術史におけるマイルストーンであり、その後の城郭建築の潮流を決定づけた「原点」としての価値を持つ。

第二に、 戦略的意義 である。京都の南西口という地政学的な要衝に位置したこの城は、南北朝時代から戦国時代に至るまで、常に時代の権力者たちに重視され、歴史の転換点に深く関与し続けた。三好三人衆の拠点として、織田信長の畿内支配の要として、そして山崎合戦における明智光秀最後の砦として、勝龍寺城は常に京畿の覇権を巡る攻防の最前線にあり続けた。その歴史は、畿内の政治・軍事史そのものであると言っても過言ではない。

第三に、 文化的意義 である。この城は、単なる軍事施設ではなかった。当代随一の文化人であった細川藤孝の居城として、和歌や連歌、茶の湯といった高度な文化が花開いたサロンでもあった。そして、細川忠興とガラシャ夫妻の婚礼と、その後の悲劇的な運命に象徴されるように、戦乱の中にも華やかな文化と、時代の奔流に翻弄された人々のドラマが繰り広げられた舞台であった。

結論として、勝龍寺城は、その波乱に満ちた歴史を通じて、戦国という時代の革新、野望、そして悲劇を我々に示してくれる。それは、過去の遺物であるだけでなく、発掘調査という科学の目を通して新たな事実が解明され続ける、日本の歴史を読み解く上で不可欠な「生きた史料」なのである。公園として再生された今もなお、この城は訪れる者に対し、天下の行方を見つめ続けた京畿の要衝の記憶を、静かに、しかし雄弁に語りかけている。

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