越前北ノ庄城は柴田勝家が築いた巨城で、九層の天守と石葺きの屋根を誇った。勝家の城下町経営は越前を復興させるも、賤ヶ岳で秀吉に敗れ、勝家とお市の方と共に炎上。その遺構は福井城に継承された。
日本の城郭史上、織田信長の安土城に匹敵、あるいは凌駕するとまで謳われながら、築城からわずか8年という短期間で歴史の舞台から姿を消した城がある。越前国北ノ庄城(きたのしょうじょう)である。織田家筆頭宿老・柴田勝家によって築かれたこの城は、戦国末期の壮麗な文化と先進的な築城技術の結晶であったと同時に、信長亡き後の天下の覇権を巡る激しい争いの終焉の地ともなった 1 。
本報告書は、この北ノ庄城が持つ二重性、すなわち壮麗な巨城としての側面と、その後の福井城築城によって意図的に地上から抹消された「幻の城」としての性格に着目する。近年の考古学的発掘調査の成果と、宣教師ルイス・フロイスの記録をはじめとする文献史料を両輪とし、北ノ庄城の真の姿とその歴史的意義を多角的に解明することを目的とする。
北ノ庄城の歴史は、単なる一城郭の盛衰に留まるものではない。それは、織田信長亡き後の日本の支配体制を巡る二つの異なる構想、すなわち羽柴秀吉が推し進めた中央集権的な「統一」と、柴田勝家が目指した織田家の伝統を重んじる「秩序」とが激突した、その物理的な舞台そのものであった。城の壮麗さは勝家の構想の壮大さを物語り、その灰燼に帰した最期と徹底的な破壊は、秀吉、そして続く徳川政権による「勝者の歴史」がいかにして物理的な景観の上に刻印されていったかを示す、極めて重要な事例である。北ノ庄城の誕生から終焉までの軌跡を追うことは、戦国末期から近世初頭へと至る権力移行の力学そのものを解明することに他ならない。
柴田勝家が北ノ庄城を築く以前、この地は未開の荒野ではなかった。約100年にわたり越前を支配した戦国大名・朝倉氏の時代、「北庄」は一族の庶流が拠点を構える、国内の重要な戦略拠点の一つとして機能していた 3 。朝倉氏の支配体制は、山間の要害である一乗谷を本拠としながら、越前国内の要所に一族を配置することで成り立っていた 3 。平野部に位置し、交通の結節点であった北庄は、この支配網の一角を担う存在であり、すでにある程度の経済的・交通的な重要性を有していたと推測される。したがって、勝家による築城は全くの無からの創造ではなく、既存の地域的中心地を飛躍的に拡張・再編する事業であったと理解すべきである。
天正元年(1573年)、織田信長によって朝倉義景が滅ぼされると、越前は一時的に信長の支配下に入った。しかし、まもなく一向一揆が蜂起し、守護代を討ち取って越前を占領、「百姓の持ちたる国」と呼ばれる未曾有の事態に陥る 3 。この混乱を収拾すべく、天正3年(1575年)8月、信長は自ら大軍を率いて越前に侵攻し、一揆勢を殲滅した 4 。
この越前平定戦における功績を認められ、織田家筆頭宿老であった柴田勝家が、越前国四十九万石と北陸方面軍の総司令官の地位を与えられた 2 。勝家が越前に入府した時点での最大の課題は、一向一揆によって荒廃し、織田政権への根強い抵抗感情が残る領国をいかにして安定させ、統治するかであった。彼の任務は、隣国加賀に広がる一向宗勢力や、越後の上杉謙信といった強敵に対峙する最前線の司令官であると同時に、新たな秩序をこの地に根付かせる為政者としての重い使命を帯びていたのである 5 。
越前の新たな支配者となった勝家は、100年以上続いた朝倉氏の本拠地・一乗谷を継承せず、そこから北西に約10キロメートル離れた北ノ庄の地に、新たな拠点となる巨大な城を築くことを決断した 5 。この選択には、明確な戦略的・政治的意図があった。
第一に、地理的優位性である。一乗谷が山に囲まれた防衛拠点であるのに対し、北ノ庄は足羽川と北陸道が交差する交通の要衝であった 5 。広域支配と商業の発展を重視する織田政権の新しい城郭思想において、平城は領国経営の中核としてよりふさわしい立地であった。
第二に、それは朝倉氏の旧体制との完全な決別を意味する政治的宣言であった。一乗谷という物理的な場所は、朝倉氏の権威と強く結びついていた 7 。勝家はその権威の源泉を継承するのではなく、あえて放棄し、交通と経済という全く新しい価値基準で拠点を選定した。さらに、一乗谷にあった寺社や商工業者までも組織的に新城下町に移転させた 8 。これは、旧体制の経済的・文化的活力を奪い、新たな支配体制へと吸収する行為に他ならない。
この拠点選定は、単なる利便性の追求ではなく、越前という土地の「記憶の書き換え」を意図した、高度な政治的行為であった。勝家は、一乗谷に象徴される「朝倉氏の越前」を過去のものとして封印し、北ノ庄に「織田政権、そして柴田家の越前」という新たなアイデンティティを創造しようとしたのである。都市計画という手段を用いて、越前の人々の意識の中から旧支配者の記憶を消し去り、自らを新たな統治者として刷り込もうとする、壮大な試みの始まりであった 8 。
表1:北ノ庄城関連年表
年号(西暦) |
主要な出来事 |
天正元年(1573) |
織田信長、朝倉義景を滅ぼす。その後、越前で一向一揆が蜂起。 |
天正3年(1575) |
信長、越前一向一揆を平定。柴田勝家が越前49万石を与えられ、北ノ庄城の築城を開始 6 。 |
天正6年(1578) |
勝家、九頭竜川に舟橋を架ける 10 。 |
天正9年(1581) |
宣教師ルイス・フロイスが北ノ庄城を訪問し、その壮麗さを記録 11 。 |
天正10年(1582) |
本能寺の変。清洲会議を経て、勝家とお市の方が結婚 13 。 |
天正11年(1583) |
4月、賤ヶ岳の戦いで勝家が羽柴秀吉に敗北。北ノ庄城に敗走し、包囲される 14 。 |
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4月24日、勝家とお市の方が自害し、北ノ庄城は炎上、落城 16 。 |
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落城後、丹羽長秀が越前に入封 15 。 |
天正13年(1585) |
丹羽長秀の死後、堀秀政が北庄城主となる 18 。 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い。戦後、徳川家康の次男・結城秀康が越前68万石を与えられる 6 。 |
慶長6年(1601) |
結城秀康、北ノ庄城の跡地に福井城の築城を開始 8 。 |
寛永元年(1624) |
3代藩主・松平忠昌の代に、「北庄」が「福居」(のちに福井)と改称される 6 。 |
柴田勝家が築いた北ノ庄城は、当時の日本において比類なき規模と壮麗さを誇った。その姿は絵図として現存しないものの、宣教師の記録や後の発掘調査によって、幻の巨城の実像が徐々に明らかになりつつある。
北ノ庄城の最も象徴的な建造物は、天高くそびえる天守であった。その階層については、7層説と9層説が存在する 1 。福井市の公式見解では、織田信長の安土城天守(7層とされる)をしのぐ9層の天守閣を持つ、日本最大級の城であったと記録されている 10 。いずれの説が正しいにせよ、それが主君である信長の居城に匹敵、あるいはそれを超える規模であったことは、織田政権内における勝家の序列(筆頭宿老)と、北陸方面の全権を委ねられた総司令官という彼の役割を考えれば、十分に考えられることである 24 。天守の高さは、軍事的な展望機能を持つと同時に、領民や敵対勢力に対する絶対的な権威の象徴であった。安土城に比肩する天守は、信長から与えられた強大な権限の誇示であり、対上杉・対一向一揆という国家的事業を担う責任の重さの表れでもあったと言えよう。
天正9年(1581年)、北ノ庄を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、本国への書簡の中で、北ノ庄城の驚くべき特徴について書き記している。
「城と他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれ、その色により一層城の美観を増した」 11
これは、当時の日本の建築常識から大きく逸脱した記述である。通常、城郭建築の屋根は瓦で葺かれるが、北ノ庄城では「石」が用いられていたという。この石は、越前の特産品である青みがかった凝灰岩「笏谷石(しゃくだにいし)」であった可能性が極めて高い 10 。豊富な地域資源を最大限に活用し、他のどの城にもない独自の壮麗さを生み出そうとした勝家の革新的な発想が窺える。陽光を浴びて輝く石葺きの屋根は、城全体に比類なき美観と威容を与えたであろう。フロイスが記した驚きは、当時の人々が北ノ庄城に抱いたであろう畏敬の念を、異邦人の視点から代弁している。
1993年(平成5年)以降、福井市教育委員会によって複数回にわたって実施された発掘調査は、文献史料だけでは不明であった城郭の具体的な構造を明らかにした 25 。
調査の結果、現在の福井城の下層から、東西方向の幅が25メートル以上にも及ぶ巨大な堀の跡が確認された 6 。この規模は、柴田勝家時代の北ノ庄城のものと考えられている 25 。また、堀に面して築かれていた石垣の基礎部分(根石)も発見された 6 。石垣本体は、後世の福井城築城の際に取り除かれてしまったが、残された根石は、この城が本格的な高石垣を備えていたことを示している 26 。
さらに、石垣の基礎の下に「胴木」と呼ばれる丸太を敷く、先進的な土木技術が用いられていたことも判明している 27 。これは、足羽川沿いの湿潤な平野部という軟弱な地盤に、高く堅固な石垣を築くための工夫であった。また、発掘された石垣の石材には、火災による熱で変色した「被熱痕」が確認されており、天正11年の落城時の凄惨な状況を生々しく物語る物証となっている 27 。
これらの発見は、北ノ庄城が単に巨大であっただけでなく、織田信長の安土城に代表されるような、当時の最先端の築城技術と、笏谷石の多用という越前の地域性を融合させた、独創的な「ハイブリッド城郭」であったことを示している。それは、中央の最新文化と地方の独自性が結びついた、勝家の理想とする領国経営の姿そのものを、建築として表現したものであったと言えるだろう。
表2:北ノ庄城と安土城の比較考察
項目 |
北ノ庄城 |
安土城 |
築城者 |
柴田勝家 |
織田信長 |
築城開始年 |
天正3年(1575年) |
天正4年(1576年) |
立地 |
平城(足羽川沿い、交通の要衝) |
平山城(琵琶湖畔、水陸交通の要衝) |
天守の規模(伝) |
9層または7層 |
7層(地上6階地下1階) |
石垣の石材 |
笏谷石を多用 |
花崗岩 |
建築的特徴 |
石葺きの屋根(フロイスの記録) |
内部に御殿、吹き抜け構造、金箔瓦 |
役割 |
北陸方面軍の拠点、越前統治の中心 |
天下統一の拠点、政治・文化の中心 |
主要部の存続期間 |
約8年(1575年~1583年) |
約3年(1579年天主完成~1582年焼失) |
柴田勝家は、北ノ庄城の築城と並行して、越前支配の拠点にふさわしい城下町の建設に精力的に取り組んだ。その都市計画は、旧体制からの継承と発展を巧みに組み合わせた、合理的かつ先進的なものであった。
勝家の都市計画の最大の特徴は、朝倉氏の旧都・一乗谷から寺社や商工業者を組織的に移住させた点にある 8 。これは、旧体制の経済的・文化的基盤を新都市に吸収し、その活力を継承することで、新城下町の迅速な発展を促すという極めて合理的な政策であった。一乗谷にあった西山光照寺、心月寺、安養寺といった大規模寺院も北ノ庄城下の周縁部に移転され、現在に至っている 3 。この政策により、北ノ庄は単なる軍事拠点ではなく、名実ともに越前の政治・経済・文化の中心地となり、現在の福井市の都市構造の直接的な原型が形成されたのである 10 。
勝家は、領国経営においてインフラ整備を極めて重視した。その象徴が、足羽川に架けられた「九十九橋」である 9 。この橋は、南半分が石造り、北半分が木造りという「半石半木」の珍しい構造で、江戸時代には全国的な名所となったが、その原型を築いたのは勝家であったと伝えられている 6 。また、九頭竜川には舟を並べて板を渡した「舟橋」を架け、北陸街道の拡幅も行った 29 。伝承によれば、舟橋を繋ぐ鎖は「刀さらえ」(刀狩り)で集められた武器を利用して作られたといい、彼の徹底した合理主義と、軍事力を経済基盤へ転換するという政策思想を物語っている 10 。これらの交通網の整備は、領国経済を活性化させると同時に、軍事行動の迅速化にも大きく貢献した。
勇猛果敢な武将として「鬼柴田」の異名を持つ勝家だが、その一方で優れた為政者としての側面も持っていた。彼は越前入府後、精力的に領国統治に着手し、検地を実施して領内の実情を正確に把握した 29 。また、越前和紙や絹織物といった地場産業の振興にも努め、さらには海外貿易にも関心を寄せていたことが記録されている 29 。残された古文書からは、村の代表者が年貢の取りまとめ責任を負うという、江戸時代の庄屋制度の先駆けとも言える納税システムが導入されていた可能性も指摘されている 30 。勝家の統治下で、一向一揆によって荒廃した越前は急速に復興を遂げ、北陸有数の豊かさを誇る地域へと変貌を遂げたと考えられる。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長が横死すると、織田家の後継者を巡る対立が表面化する。筆頭宿老として織田家の秩序維持を重んじる柴田勝家と、信長の事実上の後継者として天下統一を目指す羽柴秀吉との亀裂は、やがて避けられない武力衝突へと発展していく。
信長亡き後の主導権を争った清洲会議において、両者の対立は決定的なものとなった。勝家は、冬になると深い雪に閉ざされ、軍事行動が著しく制限される越前を本拠としていた 17 。秀吉はこの地理的・戦略的不利を巧みに突き、天正10年12月、勝家が北ノ庄城から動けないことを見越して、勝家の与力であった柴田勝豊が守る長浜城を攻撃し、降伏させた 15 。この戦いの主導権は、当初から秀吉側にあった。勝家は秀吉の迅速かつ柔軟な戦略に対し、常に後手に回らざるを得なかったのである。
天正11年(1583年)4月、近江国賤ヶ岳で両軍は激突する。この戦いで秀吉は、後に「美濃大返し」と称される驚異的な速度で軍を反転させ、柴田軍の先鋒・佐久間盛政の部隊を撃破した 15 。この敗報と、与力であった前田利家が戦線を離脱したことにより、柴田軍本隊は総崩れとなり、勝家は本拠地・北ノ庄城へと敗走した 17 。
賤ヶ岳での決戦からわずか2日後の4月23日、秀吉軍は北ノ庄城に到達し、城を完全に包囲した 14 。この驚異的な進軍速度は、秀吉軍の機動力の高さに加え、戦場で離反し秀吉に降伏した前田利家が追撃の先鋒を務めたことによる 16 。利家は、秀吉への忠誠を示すため、かつての主君が籠る城への攻撃の先頭に立ったのである。勝家には、籠城戦の態勢を十分に立て直す時間はほとんど残されていなかった。
完全に追い詰められた勝家は、死を覚悟した。4月23日の夜、彼は一族や近臣80余人を天守に集め、最後の宴を開いた 14 。勝家は妻であるお市の方に、3人の娘たち(茶々、初、江)を連れて城を脱出するよう勧めたが、お市の方はこれを毅然として拒絶し、夫と運命を共にすることを選んだ 14 。ただ、娘たちの将来を案じ、彼女たちだけは城から秀吉の陣へと送り届けられた 16 。
翌24日、秀吉軍の総攻撃が開始される。城兵はわずか200名ほどであったが、必死の防戦もむなしく、勝家らは天守へと追い込まれた 17 。最期の時を悟った勝家は、天守に火を放つよう命じ、炎の中で妻お市の方と共に自害して果てた 16 。享年62歳(諸説あり)、お市の方37歳であった 32 。
勝家の最期は、単なる敗北者の死ではなかった。伝えられるところによれば、彼は家臣に対し「勝家の切腹の仕方を見て後学にせよ」と述べ、武士としての理想的な死に様を自ら演じきったという 34 。この壮絶な最期は、敵方や第三者の目にも深く刻まれた。宣教師フロイスは、勝家の死を悼み、「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人が滅び灰に帰した」と書き残している 34 。九層と謳われた壮麗な天守は、勝家の夢と共に燃え盛り、灰燼に帰したのである。
柴田勝家と共に炎に包まれた北ノ庄城であったが、越前支配の拠点としての戦略的重要性は失われなかった。城は新たな支配者の下で変転し、やがてその姿を完全に消し去ることになる。
勝家の死後、賤ヶ岳の戦いの論功行賞により、越前は丹羽長秀に与えられた 15 。その後、丹羽氏に代わって堀秀政が入封するなど、豊臣政権下で北庄の領主はしばしば交代した 18 。これは、この地が豊臣政権にとって引き続き戦略的に重要視されていたことを示している。落城した城がどの程度修復され、使用されたかは定かではないが、越前統治の拠点として機能し続けたことは間違いない。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、天下は徳川家康のものとなった。戦功により、家康の次男である結城秀康が、越前68万石の広大な領地を与えられ、初代福井藩主として入府した 6 。秀康は、徳川の世の到来を北陸に示す一大事業として、柴田勝家の北ノ庄城の跡地に、全く新しい構想に基づく壮大な城の建設を開始する。これが、後の福井城である 21 。その縄張りは父・家康自らが行ったとも伝えられ、幕府がこの城の建設をいかに重要視していたかが窺える 6 。
壮麗を極めた北ノ庄城の遺構が、なぜ現代にほとんど残っていないのか。その最大の理由は、結城秀康による福井城の築城にある。発掘調査の結果、福井城の石垣の下から、柴田勝家時代のものと考えられる石垣の根石が発見されている 25 。これは、福井城を築く際に、北ノ庄城の石垣や建材が徹底的に解体され、資材として転用されたことを示している 6 。
この行為は、単なる資材の再利用という経済的な理由だけでは説明できない。新時代の支配者である徳川家が、前時代の英雄である柴田勝家の記憶と権威の象徴を物理的に消し去り、その上に自らの権威を新たに打ち立てるという、極めて政治的な意図に基づいたものであった。柴田氏の城を解体し、その部材で徳川氏の城を築くことは、権力の移行を視覚的に、そして決定的に示す行為であった。さらに、3代藩主・松平忠昌の時代には、「北」が「敗北」に通じるとして、地名そのものが「北庄」から「福居」(のちに福井)へと改められた 6 。これもまた、前時代の記憶を上書きし、新たな時代の到来を宣言するための一環であったと言えよう。
越前北ノ庄城は、織豊期の城郭史において特異な位置を占める。それは、織田信長の安土城と並び称される先進性と規模を誇る巨大平城でありながら、築城からわずか8年でその主と共に灰燼に帰した悲劇の城である。しかし、その歴史的意義は、単なる悲劇性の中にのみ存在するのではない。
第一に、北ノ庄城は柴田勝家による先進的な領国経営と都市計画の理念が結実したものであった。交通の要衝に平城を築き、旧都から経済・文化の担い手を移住させて新たな城下町を創生するという手法は、近世城下町の形成における一つのモデルケースと言える。現在の福井市の中心市街地は、勝家が描いた都市計画を直接的な起源としており、その意味で北ノ庄城は福井市創生の原点である 10 。
第二に、北ノ庄城の盛衰は、戦国末期の権力移行の力学を象徴している。安土城を凌駕するほどの壮大な城郭は、信長亡き後の天下を構想した勝家の意志の表れであった。もし賤ヶ岳の戦いで勝家が勝利していれば、日本のその後の歴史は大きく変わっていたかもしれない。その意味で、北ノ庄城は日本の歴史における一つの「可能性」の象徴とも言える。そして、その徹底的な破壊と福井城への再編は、徳川政権による新たな秩序がいかにして前時代の記憶の上に築かれていったかを物語っている。
現在、北ノ庄城の本丸跡と推定される地には柴田神社が鎮座し、柴田勝家、お市の方、そして浅井三姉妹の像が静かにたたずんでいる 6 。隣接する北の庄城址資料館では、発掘調査で出土した遺物や関連資料が展示され、往時の姿を今に伝えている 36 。地中に眠る石垣の根石や堀の跡は、失われた巨城が確かにこの地に存在したことを証明する貴重な証人である 26 。北ノ庄城は決して完全な「幻」ではない。それは、柴田勝家が描いた都市の夢の痕跡として、そして日本の歴史の大きな転換点を示す記念碑として、今なお福井の地に生き続けているのである。