最終更新日 2025-08-22

北条城

越後北条城は、毛利氏嫡流の誇りを持つ北条氏の拠点。城主高広は上杉謙信に度々反旗を翻したが、その都度赦免された。謙信死後の御館の乱で景虎方につき落城。その歴史は、越後国人衆の自立性と謙信の統治術を語る。

越後国人衆の興亡と城郭 ― 北条城の総合的研究

序論

越後国(現在の新潟県)の戦国史は、長尾景虎、のちの上杉謙信という稀代の軍事的天才の存在によって語られることが多い。しかし、その強大な軍事力の基盤は、必ずしも盤石な中央集権体制ではなく、それぞれが高度な自立性を保持した「国人衆」と呼ばれる在地領主たちの連合体であった。本報告書が対象とする越後国刈羽郡の北条城(きたじょうじょう)は、この越後国人衆の在り様、特にその自立性と、謙信による統制の現実を象徴する、極めて重要な城郭である。

本報告書は、単に一つの城の沿革を追うことに留まらない。城主であった北条高広(きたじょう たかひろ)がなぜ主君である謙信に対し繰り返し反旗を翻したのか、そして謙信はなぜそれを赦し、さらには要職に任じたのか。また、この城が持つ戦国期の山城としての構造は、その激動の歴史とどのように結びついているのか。これらの問いを解明することを通じて、謙信の家臣団統制の実態と、それに抗う国人領主の論理を浮き彫りにすることを目的とする。

この分析に着手するにあたり、まず最も重要な前提を明確にしなければならない。それは、本報告書で扱う越後「北条(きたじょう)氏」と、日本史上著名な二つの「北条(ほうじょう)氏」との系統的な峻別である。越後北条氏は、その姓を「きたじょう」と読む。これは、鎌倉幕府の執権として権勢を誇った桓武平氏流の北条(ほうじょう)氏や、伊勢宗瑞(北条早雲)を祖とし、小田原を本拠に関東に覇を唱えた後北条(ごほうじょう)氏とは、血縁的に全く関係のない別個の氏族である 1

越後北条氏の出自は、鎌倉幕府の重臣であった大江広元(おおえのひろもと)を祖とする大江姓毛利氏の一族である 4 。特筆すべきは、彼らが戦国時代に中国地方で巨大な勢力を築いた毛利元就の安芸毛利氏と同族であり、系譜上はむしろ嫡流に近い家系であったという事実である 7 。この出自に関する正確な理解は、単なる豆知識ではない。後に詳述する城主・北条高広の行動原理の根底には、この名門としての強い自負心が存在したと考えられており、彼の複雑な政治行動を解読するための不可欠な鍵となる。この呼称と系統の混同は、北条城の歴史的文脈を根本的に誤解させる危険性を孕んでおり、本報告書の議論はこの厳密な区別の上に成り立つものである。

第一章 越後北条氏の出自と系譜 ― 毛利氏嫡流の誇り

越後北条氏の歴史を理解するためには、その源流を鎌倉時代初期にまで遡る必要がある。彼らの祖は、源頼朝による幕府創設に多大な貢献を果たした碩学の官僚、大江広元である。広元は初代公文所別当(のちの政所別当)として幕政の中枢を担い、その功績により日本各地に広大な所領を得た 4

始祖・大江広元と毛利氏の成立

大江一族から武家の「毛利氏」が派生するのは、広元の四男・季光(すえみつ)の代からである。季光は父から相模国毛利庄(現在の神奈川県厚木市付近)を相続し、その地名を姓として「毛利季光」を名乗った。これが毛利一族の直接の始まりである 4 。しかし、季光の代に一族は存亡の危機に直面する。宝治元年(1247年)に発生した宝治合戦(三浦氏の乱)において、妻の実家である三浦泰村に味方した季光は、執権・北条時頼の軍勢と戦い、敗れて自刃したのである。

越後と安芸への分流

この時、毛利一族が断絶を免れたのは、季光の四男・経光(つねみつ)の存在によるものであった。経光は当時、父の所領の一つであった越後国佐橋庄(さはしのしょう、現在の新潟県柏崎市及び刈羽郡一帯)に居住しており、宝治合戦には関与していなかった。このため幕府から赦免され、父の遺領のうち越後佐橋庄と安芸国吉田庄(よしだのしょう、現在の広島県安芸高田市)の相続を安堵された 4

この経光の代に、毛利氏は越後と安芸の二つの系統に分かれることとなる。経光は長男の基親(もとちか)に越後佐橋庄を、そして四男の時親(ときちか)に安芸吉田庄を継承させた。前者が「越後毛利氏」、後者が「安芸毛利氏」の祖となり、戦国時代に毛利元就を輩出し、中国地方の覇者となるのは後者の安芸毛利氏の系統である 4 。この系譜関係は、越後北条氏が安芸毛利氏の分家ではなく、本家筋(嫡流)から分かれた兄弟家系であることを示している。

「北条」への改称と勢力形成

越後を継承した基親の系統は、当初、佐橋庄内の南条を拠点としていたため、「南条氏」と称していた時期があったと伝えられる 6 。その後、基親の子である時元(ときもと)の時代に、一族は本拠地を現在の柏崎市北条の地に移し、ここに北条城を築城した。これ以降、彼らは本拠地の地名に由来して「北条氏」を名乗るようになったとされる 9 。これが越後北条氏の直接の始まりであり、北条城の初代築城主は毛利時元と見なされている 10

戦国期に至るまで、北条氏は越後刈羽郡における有力な国人領主として勢力を維持した。彼らが自らの由緒ある出自に強い誇りを抱いていたことは、その通字(代々の当主が名前に用いる特定の漢字)にも表れている。北条氏の歴代当主は、始祖である大江広元の名から「広」の一字を受け継いで用いることが多く、これは彼らが常に自らのルーツを意識していたことの証左である 6

この「毛利氏嫡流」という自負心は、戦国時代の当主・北条高広の精神性に大きな影響を与えたと考えられる。現実の勢力としては越後の一国人に過ぎず、長尾氏(上杉氏)の支配下に組み込まれている一方で、その血筋は天下に名を轟かせる安芸毛利氏よりも正統であるという意識。この「家格の誇り」と「現実の地位」との間の乖離が、主家に対して単なる従属を良しとせず、常に自立的な存在であろうとする強い志向を生み出した。後の高広の度重なる謀反は、単なる利害計算や野心だけでなく、この名門としての誇りを守るための外交戦略であったという側面から捉えることで、より深い理解が可能となるのである。

第二章 北条城の地勢と構造 ― 戦国期山城の神髄

北条城は、戦国時代の越後における在地領主の拠点として、その地理的条件を最大限に活用した巧みな設計が施された山城である。その縄張り(城の設計)と遺構は、当時の築城技術と軍事的思想を現代に伝える貴重な史料となっている。

戦略的要衝としての立地

北条城が築かれたのは、現在の新潟県柏崎市北条に位置する、標高約140メートル、比高約110メートルの城山である 10 。この場所は、軍事・経済の両面で極めて戦略的な価値を持っていた。城の背後(北側)には標高150メートルから180メートルの山並みが約10キロメートルにわたって曽地峠へと続き、峠の向こうには同じく刈羽郡の有力国人であった斎藤氏の居城・赤田城(刈羽村)が存在した 11 。これにより、北からの交通路を監視・遮断することが可能であった。

一方、城の正面にあたる南側には長鳥川が流れており、これは天然の外堀としての役割を果たしていた 11 。城の最高所である本丸跡からは、西に柏崎市街と日本海、南に米山を望むことができ、さらには周辺に点在する安田城、善根城、旗持城といった支城や館跡を一望に収めることができた 11 。この卓越した眺望は、領国支配における情報収集と指揮系統の維持に不可欠な要素であり、北条城がこの地域の支配拠点として最適の地であったことを物語っている。

縄張り分析 ― 連郭式山城の防御設計

北条城は、山の尾根筋に沿って主要な曲輪(郭)を直線的に配置する「連郭式山城」の典型的な構造を持つ 10 。城の中心部は、実城(じつじょう)とも呼ばれる本丸曲輪群であり、その南北に二の丸、南の曲輪、北の曲輪などが連なっている 4

  • 各曲輪の機能と配置 :
  • 実城(本丸) : 城の中枢であり、長さ約160メートル、幅約15メートルという細長い形状をしている 11 。有事の際の最終防衛拠点として機能した。現在、その北端には「北条古城址」と刻まれた石碑が建てられている 11
  • 二の丸と南の曲輪 : 本丸の南側に位置し、大手口からの主たる攻撃を受け止めるための前線基地であった。
  • 腰曲輪群 : 本丸の東側斜面には、横堀を伴う多数の小さな曲輪(腰曲輪)が階段状に築かれている 4 。これは、主郭への側面攻撃を防ぎ、多方面からの迎撃を可能にするための防御施設である。
  • 防御施設 :
  • 堀切(ほりきり) : 尾根を人工的に深く掘り下げて敵の進軍を妨げる堀切は、連郭式山城の生命線である。北条城では各曲輪の間に効果的に配置されており、特に本丸と二の丸の間には「大堀切」と呼ばれる大規模なものが設けられ、城の防御力を格段に高めている 4
  • 畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん) : 城の南側斜面には、複数の竪堀(斜面に対して垂直に掘られた堀)を並べた畝状竪堀群が確認できる 4 。これは、斜面を横移動しながら攻め上ってくる敵兵の動きを制限し、特定の場所に誘導して迎撃するための、戦国時代中期以降に発達した高度な築城技術である。
  • 切岸(きりぎし) : 城の斜面は人工的に削られ、人が容易に登れないような急角度の崖(切岸)に加工されており、城全体の防御力を底上げしている 4
  • 登城路 :
  • 城への主要な登城路は二つあった。山麓の専称寺(せんしょうじ)裏手から登るルートが正面玄関にあたる「大手道」、普廣寺(ふこうじ)脇から登るルートが裏口にあたる「搦手道」である 4 。訪問者の記録によれば、搦手道の方がより急峻であり、防御を意識した設計思想が窺える 13
  • 麓の居館(根小屋) :
  • 戦国期の山城は、有事の際の籠城施設(詰城)と、平時の居住・政務空間である麓の居館(根小屋)が一体となって機能するのが一般的であった。北条城においても、山麓の普廣寺周辺に根小屋があったと推定されているが、確証は得られていない 4

これらの特徴をまとめたものが以下の表である。

項目

詳細

典拠

所在地

新潟県柏崎市北条字竹生島

10

城郭形式

連郭式山城

10

標高・比高

標高約140m、比高約110m

10

築城年代

室町時代(詳細不明)

4

築城主

毛利時元

10

主な城主

北条氏、桐沢具繁

4

主な遺構

曲輪、土塁、堀切、大堀切、畝状竪堀、腰曲輪

4

文化財指定

柏崎市指定史跡(昭和48年12月1日指定)

10

移築現存物

大手門(専称寺山門)、搦手門(普廣寺山門)

4

北条城の構造は、決して大規模ではないものの、地形を巧みに利用し、堀切や畝状竪堀といった当時の最新技術を取り入れた、実践的で堅固な山城であった。その姿は、自らの領地を自らの力で守り抜こうとした戦国国人領主の気概を今に伝えている。

第三章 北条高広と上杉謙信 ― 反逆と赦免の力学

北条城の歴史を最も劇的に彩るのは、戦国時代の城主・北条高広と、その主君である長尾景虎(上杉謙信)との間に繰り広げられた、反逆と赦免の複雑な関係である。この一連の出来事は、神格化されがちな謙信像に人間的な側面を与えると同時に、当時の越後国の権力構造の特質を明らかにする。

長尾景虎の越後統一と国人衆

謙信が兄・晴景から家督を継いだ当初、越後国は決して一枚岩ではなかった。各地に割拠する国人衆はそれぞれが強力な軍事力と高い独立性を保持しており、守護代である長尾氏の権威は絶対的なものではなかった 15 。謙信の統治は、これらの国人衆を武力で完全に臣従させるというよりは、彼らとの軍事同盟の盟主として君臨する側面が強かった 17 。北条高広もまた、こうした有力国人の一人であり、その武勇は上杉軍団の中でも高く評価されていた 6

天文23年(1554年)の謀反と北条城の戦い

天文23年(1554年)、北条高広は、信濃を巡って謙信と激しく対立していた甲斐国の武田信玄と内通し、居城である北条城に立て籠もって反旗を翻した 8 。この謀反の動機は、複合的な要因が絡み合っていたと考えられる。

第一に、謙信の家臣団に対する信賞必罰が必ずしも十分ではなかったことへの不満が挙げられる。戦功に見合う恩賞が得られないと感じた有力国人が、より良い待遇を求めて外部勢力と結ぶことは、当時決して珍しいことではなかった 21 。第二に、上杉家中の人間関係の軋轢である。史料によれば、高広は同じく重臣であった安田景元と対立関係にあり、高広の謀反を謙信に密告したのは景元であったとされている 8 。そして第三に、より根源的な動機として、第一章で述べた北条氏が持つ「毛利氏嫡流」としての誇りが挙げられる。長尾氏の麾下にある現状に甘んじることなく、より自立した存在として家の名誉を高めたいという欲求が、武田氏との連携という大胆な行動に踏み切らせた可能性は高い。

この謀反に対し、謙信の対応は迅速であった。翌弘治元年(1555年)、謙信は自ら軍を率いて出陣し、北条城を包囲した(北条城の戦い) 20 。堅固な山城である北条城も、越後全域を動員できる謙信の圧倒的な軍事力の前には長く持ちこたえることはできず、高広は降伏を余儀なくされた。

異例の赦免と統治術

謀反は主君に対する最大の罪であり、通常であれば一族誅殺などの厳しい処罰が下されるのが戦国の常識であった。しかし、謙信は高広の罪を赦し、その命を助けただけでなく、再び家臣として帰参することを許したのである 14

この処遇は、謙信の個人的な情や「義」の精神だけで説明できるものではない。むしろ、それは越後国人連合という脆弱な統治基盤を維持するための、極めて現実的で高度な政治判断であったと解釈すべきである。高広は優れた武将であり、彼の一族や与党を完全に排除することは、上杉軍団全体の戦力低下を招くだけでなく、他の国人衆に動揺を与え、さらなる離反を誘発しかねない危険な賭けであった。謙信は、「高広を罰して内部結束を乱すリスク」と、「彼の能力を再活用して外部の敵(武田・北条)に対抗するメリット」を天秤にかけ、後者を選択したのである。

謙信の判断は、さらに踏み込んだものであった。永禄6年(1563年)、高広は関東攻略の最前線拠点である上野国・厩橋城(現在の前橋城)の城主に任命される 4 。これは単なる赦免に留まらず、反逆者に対して国家の命運を左右する重要任務を委ねるという、破格の待遇であった。この抜擢には、高広の武将としての能力を高く評価すると同時に、そのプライドを満足させることで、彼を自陣営に強く繋ぎ止めようとする狙いがあったと考えられる。これは、謙信が単なる軍事の天才ではなく、国人衆の複雑な心理を巧みに操ろうとする、老練な政治家でもあったことを示している。

しかし、この謙信の統治術も万能ではなかった。厩橋城主となった高広は、今度は相模の北条氏康に内応し、二度目の裏切りを犯す 10 。この報に接した謙信が、高広に宛てたとされる書状の中で、その行為を「天魔之所業」と激しく非難しつつも、信頼していたが故に「面目を失った」と深い失望を吐露していることは、両者の関係の複雑さを物語っている 23 。この二度目の裏切りすらも、最終的には赦されたと見られており、謙信にとって越後の国人衆を束ねることがいかに困難な課題であったかを如実に示している。

第四章 御館の乱と北条城の終焉

上杉謙信という絶対的なカリスマの存在によって、辛うじて維持されていた越後の結束は、彼の死とともに脆くも崩れ去る。北条城と北条氏の運命もまた、この未曾有の内乱によって決定的な終焉を迎えることとなった。

謙信の急死と御館の乱

天正6年(1578年)3月、上杉謙信は後継者を明確に指名しないまま、春日山城で急死した。これにより、謙信の二人の養子、すなわち姉の子である上杉景勝と、相模の北条氏政から人質として迎えられていた上杉景虎との間で、家督を巡る凄惨な内乱が勃発した。これが「御館の乱」である 24 。この争いは単なる身内の後継者争いに留まらず、越後の国人衆を二分し、それぞれが自らの存亡を賭けて戦う大規模な内戦へと発展した。

北条父子の選択と落城

この国家の分裂に際し、北条高広・景広父子は、景虎を支持する側に立った 4 。この選択にはいくつかの理由が考えられる。第一に、景虎が小田原北条氏の実子であることから、関東方面に強い繋がりを持ち、過去には同氏に内応した経験もある高広にとって、連携が取りやすかったこと。第二に、景勝を支持する中核が上田長尾衆であったため、彼らとの政治的な対立関係から、対抗勢力である景虎に与したことなどが挙げられる。高広は本拠地である北条城に籠り、景勝方との戦いを開始した 19

しかし、乱の趨勢は次第に景勝方に傾いていく。高広の嫡男・景広は、景虎が立て籠もる御館(おたて)での攻防戦の最中に討死、あるいは景勝方の重臣・直江兼続によって討ち取られたと伝えられている 4 。後継者を失い、越後における景勝方の優位が動かしがたいものとなる中で、北条城もまた孤立し、天正9年(1581年)頃に景勝方の攻撃を受けて落城したと見られる 13

北条氏の没落と北条城の廃城

本拠地と後継者の双方を失った高広は、もはや越後に留まる術をなくし、かつての盟友であった甲斐の武田勝頼のもとへ亡命した 6 。これにより、鎌倉時代から続いた越後毛利氏の嫡流、北条氏は、越後の領主としての歴史に幕を閉じた。その後の高広の動向については諸説あり、定かではない 6

御館の乱に勝利した上杉景勝は、乱後に北条城の城主として桐沢具繁を配置したとされる 4 。しかし、城がかつての戦略的重要性を維持することはなかった。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は会津120万石へ転封(領地替え)となる。この大規模な国替えに伴い、上杉氏は越後の領地を去り、多くの家臣もそれに従った。新たな領主として堀秀治が入封すると、領国経営の方針転換や一国一城令の先駆けとなる城郭整理が行われ、多くの支城がその役目を終えた。北条城もこの時に廃城となったと考えられている 4

北条氏の没落は、単に内乱の敗者となったというだけではない。それは、戦国時代の権力構造の大きな転換点を象徴する出来事であった。謙信存命中、国人衆は高い独立性を保ち、高広のような人物もその武勇と家格によって存在を許されていた。しかし、謙信という調停者を失った越後では、より中央集権的な支配体制を目指す景勝が新たな支配者となった。この新しい秩序の中では、高広のような旧来の自立性の高い国人領主が生き残る余地はもはやなかったのである。北条城の落城と廃城は、一個人の悲劇であると同時に、越後国人衆が自立性を失い、戦国大名の家臣団へと完全に組み込まれていく時代の大きなうねりを物語っている。

第五章 史跡としての北条城 ― 遺構と伝承

戦国時代の終焉とともにその軍事的な役割を終えた北条城は、長い年月を経て、現在はその歴史を物語る静かな史跡として地域に根付いている。良好な保存状態の遺構と、地域に伝わる伝承が、往時の姿を今に伝えている。

柏崎市指定史跡としての現状

廃城後、城山は地域の里山として利用されてきたと考えられるが、その詳細な変遷は明らかではない。近代に入り、その歴史的価値が再評価されるようになり、昭和48年(1973年)12月1日、城跡は「北条城跡」として柏崎市の記念物(史跡)に指定された 10

現在、城跡は地元の人々によって比較的よく整備されており、歴史愛好家やハイカーが訪れる場所となっている。特に、第二章で詳述した曲輪、土塁、そして尾根を断ち切る壮大な堀切などの土木構造物は、風雪に耐えて良好な状態で現存しており、戦国時代の山城の構造を実地で学ぶことができる貴重な歴史遺産である 10 。本丸跡からは今も変わらず柏崎の市街地と日本海を望むことができ、かつての城主が見たであろう風景を追体験することができる。

移築された城門の伝承

北条城跡には石垣や建造物は残されていないが、その失われた建築物の一部が麓の寺院に移築され、現存するという重要な伝承が残されている。

  • 大手門 : 城の正面玄関であった大手門は、麓にある専称寺の山門として移築されたと伝えられている 4 。この門は「豆の木門」とも呼ばれ、堂々とした構えは、かつての城門の面影を色濃く残している。
  • 搦手門 : 城の裏口にあたる搦手門は、同じく山麓の普廣寺(普広寺)の山門として移築されたとされている 4

これらの移築門の真偽については学術的な検証を要するものの、長年にわたり地域で語り継がれてきた伝承は、北条城が地域社会にとっていかに重要な存在であったかを示している。これらの門は、城郭本体の遺構とともに、往時の北条城の姿を偲ぶための貴重な手がかりとなっている。

現代における歴史的価値と探訪の手引き

北条城跡は、戦国時代の山城の防御思想と築城技術を体感できる教育的価値の高い史跡である。JR信越本線の北条駅から登城口の一つである専称寺まで徒歩約10分というアクセスの良さも、その価値を高めている 4

探訪にあたっては、専称寺脇の大手口から登り、本丸を経て普廣寺脇の搦手口へ下るルートが一般的である。ただし、搦手側は急峻な箇所があるため、逆のルートを辿るか、体力に自信のない場合は大手口を往復するのが望ましい 13 。また、普廣寺には参拝者用の駐車場があり、自動車での訪問も可能である 13 。一方で、城内には一部、道が不明瞭であったり、獣道同然となっている箇所も存在するため、単独での行動は避け、十分な準備をして訪れることが推奨される 13

結論

越後国柏崎に遺る北条城跡は、単なる戦国期の城郭遺構ではない。その歴史は、鎌倉幕府の重臣・大江広元に連なる名門としての誇りを胸に、戦国乱世の越後において自家の存続と自立を模索した有力国人・北条氏の栄光と挫折の物語そのものである。城の堅固な縄張りは彼らの気概を、そしてその終焉は時代の非情な転換を、静かに物語っている。

特に、城主・北条高広と主君・上杉謙信との間で繰り広げられた、度重なる謀反と不可解とも思える赦免の歴史は、本研究における中心的な主題であった。この一連の出来事は、従来「義」の武将として神格化されがちであった謙信の姿に、独立性の高い国人衆の統制に苦心し、彼らの能力とプライドを巧みに利用しようとする現実的な為政者としての一面を付け加える。謙信の統治が決して絶対的なものではなく、常に内部分裂の危険をはらんだ、緊張感に満ちた勢力均衡の上に成り立っていたことを、北条高広の存在は雄弁に物語っている。

御館の乱における北条氏の滅亡と北条城の落城は、謙信というカリスマを失った越後国人社会の崩壊と再編の象徴であった。それは、個人の武勇や家の格式が重んじられた旧来の秩序が終焉を迎え、より中央集権的な大名権力の下に全てが組み込まれていく、戦国時代の大きな潮流を示すものであった。

今日、柏崎市史跡として保存されている北条城跡は、その良好な遺構の状態と、城主一族が辿った劇的な歴史が分かち難く結びついた、戦国期越後を研究する上で欠かすことのできない一級の史跡であると言える。今後、山麓の居館(根小屋)や城下町の実態を解明するための考古学的な発掘調査などが進めば、その歴史的価値はさらに高まるであろう。北条城は、これからも越後の戦国史を解き明かすための多くの示唆を与え続けてくれるに違いない。

引用文献

  1. 鎌倉殿を支配。執権北条氏の子孫はどこにいる? - 家樹株式会社 https://ka-ju.co.jp/column/kamakura-hojo
  2. 北条氏(ほうじょううじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F-132130
  3. 後北条氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F
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  6. 越後北条氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F
  7. 武家家伝_北条氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kitajo.html
  8. 北条高広 - 箕輪城と上州戦国史 - FC2 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%AB%98%E5%BA%83
  9. 川中島真っ只中に謙信から信玄へ寝返る~北条高広の乱 https://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2025/02/post-620dee.html
  10. [北条城] - 城びと https://shirobito.jp/castle/1163
  11. 柏崎市の名所・旧跡 - 北条城跡 | 柏崎観光協会 公式サイト ぅわっと!柏崎 https://www.uwatt.com/detail/374/index.html
  12. 柏崎市名所案内「北条城跡(きたじょうじょうせき)」/柏崎市公式 ... https://www.city.kashiwazaki.lg.jp/soshikiichiran/sangyoshinkobu/shogyokankoka/kankosinko/shisekijinjabukkaku/meishokyuseki/3616.html
  13. 北条城の見所と写真・100人城主の評価(新潟県柏崎市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/517/
  14. 越後 北条城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/echigo/kitajyo-jyo/
  15. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第1回【上杉謙信】最強武将の居城は意外と防御が薄かった!? - 城びと https://shirobito.jp/article/1351
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  21. 上杉家臣団 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_sengoku/05/
  22. 上杉謙信の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/33844/
  23. [第41話]謙信は「馬鹿者」がお好き?書状から紐解く人物像 - 新潟県立図書館 https://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/1b8446f94c08f7ae67441d7d895601a6/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E4%BD%90%E6%B8%A1%E3%83%92%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2/%EF%BC%BB%E7%AC%AC%EF%BC%94%EF%BC%91%E8%A9%B1%EF%BC%BD%E8%AC%99%E4%BF%A1%E3%81%AF%E3%80%8C%E9%A6%AC%E9%B9%BF%E8%80%85%E3%80%8D%E3%81%8C%E3%81%8A%E5%A5%BD%E3%81%8D%EF%BC%9F%E3%80%80%EF%BD%9E%E6%9B%B8%E7%8A%B6%E3%81%8B%E3%82%89%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%83%8F%EF%BD%9E?lang=en
  24. 宇佐美駿河守定行 - 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu6.php.html