十河城は讃岐の要衝に築かれ、三好氏の讃岐支配の拠点となった。長宗我部元親の四国統一の嵐の中、十河存保が籠城し奮戦するも落城。戸次川の戦いで存保が戦死し、十河氏は滅亡。戦国の悲哀を伝える城である。
讃岐国東部、現在の香川県高松市にその跡を残す十河城は、戦国時代の四国史を語る上で欠かすことのできない重要な城郭である。その名は、阿波三好氏の栄華と、土佐の長宗我部元親が抱いた四国統一の野望が激しく衝突した、戦国末期の讃岐における最前線の拠点として歴史に深く刻まれている 1 。阿讃山脈から高松平野へと伸びる丘陵の一角に占地し、天然の要害に恵まれたこの城は、南北朝時代から約230年間にわたり、讃岐の有力国人・十河氏の居城としてその歴史を紡いできた 2 。
しかし、十河城の歴史的価値は、単なる一地方豪族の拠点という範疇に留まらない。阿波で勃興した三好氏が畿内に覇を唱える過程で、その一族を養子に迎えた十河氏は、三好氏の讃岐支配における橋頭堡となった。これにより、十河城は阿波と讃岐、さらには畿内と四国を結ぶ戦略的要衝としての性格を帯びることになる。その運命は、織田信長の天下布武、本能寺の変という中央政局の激震、そして豊臣秀吉による天下統一事業という、日本史の大きなうねりと密接に連動していく。
本報告書は、この十河城を、単に攻防の歴史を辿る対象としてではなく、畿内中央政権の動向と四国の地域勢力の興亡が交錯した「地政学的な結節点」として捉え、その解明を試みるものである。中世的な構造を持つこの城は、鉄砲や大筒が戦場の主役となった新たな時代に、いかにして対峙したのか。そして、城と運命を共にした十河一族の興亡は、戦国乱世の終焉期における地方領主の生き様をどのように映し出しているのか。これらの問いを通じて、城郭の構造、戦略的役割、歴史的変遷、そして現代に遺る記憶までを包括的かつ徹底的に分析し、戦国史における十河城の真の姿を浮き彫りにすることを目的とする。
十河城は、戦国時代の讃岐における典型的な中世城郭の姿を今に伝える史跡である。その防御思想の根幹には、大規模な石垣や天守に頼るのではなく、周囲の自然地形を最大限に活用するという、在地領主ならではの知恵があった。
城は、阿讃山脈から高松平野に向かって幾筋も伸びる舌状台地の一つの先端、標高約42メートルの丘陵上に築かれている 4 。この種の台地は十数本連続しており、その間は護岸工事が施されていない川や湿地帯が広がっていた 4 。軍記物である『南海通記』には、城の三方が「深田の谷入」であったと記されており、土地勘のない攻撃側にとっては、どこが道でどこが沼地か判別し難い、天然の障害物地帯として機能したと考えられる 2 。城の西側には鷺池と呼ばれる池があり、東側は急峻な断崖となっており、これらもまた自然の堀としての役割を果たしていた 1 。このような立地は、四方の眺望にも優れ、敵の動きを早期に察知する上でも極めて有利であった 1 。
十河城の縄張り(城の設計)は、詰の城(最終防衛拠点となる山城)を持たず、日常的な居館に防御機能を付加した、中世国人領主の城館形態の典型例である 9 。その中心は、現在の称念寺境内と推定される本丸であった 1 。大正初期の整地によって遺構の多くは失われたものの 2 、現在でもその構造の一部を窺い知ることができる。
城の防御の要は、本丸の北側に現存する大規模な空堀である 1 。この空堀は本丸と二の丸を明確に分断しており、地域コミュニティの伝承によれば、幅15メートル、深さ6メートルを超えていたとされる 10 。かつてこの堀には、敵の侵入時に橋桁を外して落下させる仕掛けを持つ「からくり橋」が架けられていたと伝えられている 4 。
さらに、『南海通記』には、十河城が「五重の土塁」を擁していたとの記述が見られる 7 。この地域の土壌は壁土にも使われる粘土質が厚く堆積しており、乾くと硬く、濡れると滑りやすい性質を持っていたため、堅固な土塁や深い堀を構築するのに非常に適していた 4 。
城全体の規模は、東西約140メートル、南北約250メートル程度と推定されており、数万の軍勢による長期の籠城戦には不向きな、比較的小規模な城郭であった 10 。この構造的な制約は、後の長宗我部氏との攻防戦において、兵糧攻めという戦術を誘発する一因となった。
当初、在地領主である植田一族の拠点として築かれた十河城は、地域の小競り合いを想定した、地形依存型の素朴な防御構造であったと推察される 11 。しかし、阿波三好氏から十河一存が入嗣し、讃岐支配の戦略拠点としての重要性が増すにつれて、より大規模な軍事衝突を想定した改修が施された可能性が高い。「五重の土塁」や大規模な空堀といった防御施設の強化は、この時期に行われたと考えられる。それでもなお、城の本質は「居館の防御化」の域を出るものではなかった。結果として、長宗我部氏が動員した数万規模の軍勢と、大筒に代表される新たな攻城兵器の前には、その構造的な限界を露呈することになる。これは、在地領主の城から、より高度な防御思想に基づく織豊系城郭へと移行する、戦国末期の過渡期の城郭が抱えた脆弱性を象徴していると言えよう。
項目 |
詳細 |
典拠・備考 |
城郭名 |
十河城(そごうじょう) |
別名:十川城、西尾城 6 |
所在地 |
讃岐国山田郡蘇甲郷(現・香川県高松市十川東町932) |
8 |
城郭分類 |
丘城(平山城) |
標高約42m、比高約10mの舌状台地に立地 5 |
築城年代 |
不明(南北朝時代~室町時代初期か) |
十河吉保による築城説あり 14 。室町幕府初期には存在したと推定 4 。 |
主な城主 |
十河氏(十河一存、十河存保)、長宗我部氏(長宗我部親武) |
2 |
主な遺構 |
本丸跡(現・称念寺)、空堀跡、土橋、鷺池(堀の一部か) |
1 |
防御施設 |
土塁(『南海通記』に五重との記述)、堀切、断崖、湿地帯 |
5 |
文化財指定 |
高松市指定史跡(昭和51年7月3日指定) |
1 |
十河城の価値は、城単体の防御能力以上に、讃岐東部における広域的な城郭ネットワークと地政学的な位置づけの中にこそ見出される。在地豪族の拠点から、阿波三好氏の讃岐支配の要へと、その役割は時代の要請と共に変貌を遂げていった。
十河城の歴史は、讃岐国山田郡を本拠とした在地武士団「植田党」の台頭と共にある。十河氏は、景行天皇の末裔を称する植田氏の支族であり、同じく分家した神内氏や三谷氏ら同族を束ねる惣領家としての地位を占めていた 12 。当時の讃岐は、西讃の香川氏と東讃の安富氏・寒川氏という二大勢力が覇を競っており、植田党はこれらの大勢力に対抗するための軍事連合であった 11 。初期の十河城は、この植田党の中核をなす拠点として、地域の勢力均衡を保つ上で重要な役割を果たしていた。
戦国時代中期、阿波で勢力を拡大した三好氏が讃岐への進出を窺うようになると、十河城の地政学的な価値は一変する。十河氏は、讃岐の他の国人衆に先んじて三好氏と強固な関係を築き、その讃岐侵攻における拠点、すなわち橋頭堡としての役割を積極的に担うようになった 11 。これにより、十河城は単なる地域領主の居城から、阿波と讃岐を結ぶ広域支配の結節点へとその性格を変貌させたのである。
十河城の防衛力は、周辺の支城や同盟勢力との連携によって大きく補完されていた。この「城郭ネットワーク」こそが、十河氏の勢力の源泉であった。
十河城の戦略的価値は、この城郭ネットワークにこそあった。長宗我部元親の讃岐侵攻は、このネットワークを巧みに破壊していく過程そのものであった。元親はまず、西讃の香川氏を同盟者として取り込み、次いで香西氏を降伏させることで、十河城を西からの支援が全く期待できない孤立した状況に追い込んだ 2 。この包囲網の中で、前田城からのゲリラ的な支援は籠城側の士気を支える最後の命綱であった。しかし、最終的に長宗我部軍が東讃の虎丸城をも攻略し、東の防衛網をも断ち切った時点で、十河城の運命は事実上決したと言える 2 。十河城の陥落は、単一の城の敗北ではなく、東讃における三好方城郭ネットワーク全体の崩壊を意味したのであった。
十河城と十河氏が讃岐の一地方勢力から、四国の歴史を動かす重要な存在へと飛躍する契機となったのが、阿波三好氏との結合であった。その象徴こそ、後世に「鬼十河」と畏怖された猛将、十河一存の登場である。
戦国中期、十河氏8代当主・十河景滋には世継ぎとなる男子がいなかった 3 。この機を捉えたのが、当時、細川氏の執事として畿内に権勢を拡大しつつあった阿波の三好長慶である。長慶は、実弟である四男の一存を景滋の養子として送り込んだ 3 。この養子縁組は、単なる家督相続の問題ではなく、三好氏が十河氏を完全に一族化し、讃岐支配を盤石にするための高度な政治戦略であった。これにより、十河氏は三好一族の中核に組み込まれ、その強大な軍事力を背景に、讃岐国内で圧倒的な優位を確立した 3 。
十河一存は、その勇猛果敢さで知られ、数々の武勇伝を残している。特に有名なのが、讃岐の国人・寒川氏との戦いにおける逸話である。合戦中に左腕を負傷した一存は、少しも臆することなく、その傷口に塩をすり込んで消毒し、藤の蔓を包帯代わりにして再び槍を振るい、敵を打ち破ったという 30 。この凄まじい気迫から、一存は「鬼十河」と称され、敵味方から恐れられた。その武威は讃岐国内に留まらず、兄・長慶に従って畿内を転戦し、天文18年(1549年)の江口の戦いなどで三好政権の確立に大きく貢献した 29 。その髪型は「十河額」と呼ばれ、武士たちの間で流行したとも伝えられている 30 。
三好長慶の戦略は、弟たちを巧みに配置することにあった。末弟の一存を讃岐の十河氏へ、三弟の安宅冬康を淡路の水軍を率いる安宅氏へ養子として送り込むことで、阿波・讃岐・淡路の三国を完全に掌握し、瀬戸内海の制海権を確立した 19 。この広域支配体制において、十河城は讃岐方面の軍事・政治を統括する司令部として、極めて重要な役割を果たした 33 。
しかし、三好氏の栄華は長くは続かなかった。永禄4年(1561年)、一存は病により急逝する 32 。有馬温泉での湯治中に、不仲であった松永久秀が傍にいたことから、当時から久秀による暗殺説も囁かれている 31 。一存の実子・義継は兄・長慶の養子となって三好本家を継ぐことになったため、新たに一存の兄であり阿波を治めていた三好実休の次男・存保が十河氏の養子となり、家督を継承した 11 。
十河氏と三好氏の関係は、主従というよりも、血縁と養子縁組によって結ばれた「運命共同体」であった。この強固な紐帯こそが、十河氏を讃岐の覇者へと押し上げた最大の要因であった。しかし、それは同時に、三好本家の衰退がそのまま十河氏の没落に直結するという、構造的な脆弱性を内包していた。三好政権の中核を担った長慶、実休、一存という第一世代が相次いで世を去ると、三好氏は急速に弱体化する 15 。若くして家督を継いだ十河存保は、もはや三好本家からの強力な支援を期待することはできず、織田信長や長宗我部元親といった、新たに台頭する強大な敵と、自らの力で渡り合わなければならないという過酷な運命を背負うことになったのである。
三好氏の威光に陰りが見え始めた頃、土佐では長宗我部元親が破竹の勢いで領土を拡大し、四国統一の野望を現実のものとしつつあった。十河城は、この元親の前に立ちはだかる、三好勢最後の砦として、讃岐の命運を賭けた壮絶な攻防戦の舞台となる。
当初、織田信長は、畿内で敵対する三好氏を牽制するため、長宗我部元親の四国における勢力拡大を黙認し、「四国のことは切り取り次第」という許可を与えていた 34 。しかし、天正9年(1581年)頃、三好一族の宿老・三好康長が信長に降伏すると、信長は四国政策を180度転換する 35 。元親の領有を土佐と阿波南半国に限定するよう通告し、三好氏を支援する立場へと回ったのである。これに反発した元親に対し、信長は天正10年(1582年)5月、三男の神戸信孝を総大将とする四国討伐軍の派遣を決定した 35 。十河存保にとっては、信長の支援を得て長宗我部を退けるまたとない好機であった。しかし、その運命を大きく変えたのが、同年6月2日に京都で発生した本能寺の変であった 7 。
信長という最大の後ろ盾を突如として失った十河存保に対し、元親はこれを千載一遇の好機と捉え、四国全土の平定に向けて総攻撃を開始した 4 。
同年8月、元親は二正面作戦を展開する。阿波では存保が籠る勝瑞城に本隊を向け(中富川の戦い)、讃岐では西讃の諸将を率いた元親の子・香川親和と、降伏させた香西佳清の軍勢、合わせて1万1千の兵で十河城を包囲させた 2 。この時、存保は阿波におり、十河城では城代の三好隼人佐(存之とも)らがわずか1千ほどの兵で籠城した 7 。
長宗我部軍は、城に接近するための道を築こうとする「作道」を試みるが、城内からは多数の鉄砲による激しい迎撃を受け、中止に追い込まれた 2 。当時の讃岐において、これほど組織的に鉄砲が運用された例は少なく、三好氏を通じて最新の戦術が導入されていたことが窺える。業を煮やした長宗我部軍は、2挺の大筒(大型の火縄銃、あるいは簡易な大砲)を持ち込み、城の櫓を打ち崩すなど攻勢を強めた 2 。しかし、支城である前田城の城主・前田宗清が夜陰に乗じて攻城軍の背後を突くなど、十河方の粘り強い抵抗により、城は容易に落ちなかった 2 。
その間、阿波の中富川の戦いで存保は元親の本隊に大敗を喫し、勝瑞城を放棄して讃岐東部の虎丸城へと撤退した 7 。同年10月、阿波を完全に平定した元親は、自ら本隊を率いて讃岐に入り、十河城の包囲軍と合流。総勢3万6千という大軍で総攻撃を仕掛けたが、それでも十河城は陥落しなかった 2 。冬の到来により、元親は監視部隊を残して一旦土佐へ兵を引き、第一次攻防戦は籠城側の善戦によって幕を閉じた。
翌年、再び讃岐に侵攻した長宗我部軍は、力攻めの非効率を悟り、戦術を兵糧攻めへと転換した 4 。城は完全に包囲され、外部からの補給路を断たれた。城内では兵糧や弾薬が日に日に欠乏し、飢餓が深刻化していく。伝承によれば、この絶望的な状況下で、忍びの術に長けた前田甚之丞(前田宗清と同一人物か)が、抜け道を通って敵陣に忍び込み、大将の首を狙ったが、寸前で失敗に終わったという 4 。
粘り強い抵抗も虚しく、天正11年(1583年)5月(一説には天正12年6月)、十河城はついに開城を余儀なくされた 2 。虎丸城にいた存保もまた、抗戦を断念し、海路で大坂の羽柴秀吉のもとへと落ち延びていった 7 。
十河城攻防戦の経過は、本能寺の変という中央政局の激変が、地方の軍事バランスをいかに即座に、そして決定的に覆したかを示す典型例である。信長の死は、元親にとっては四国統一を阻む最大の障壁の消滅を意味し、存保にとっては最強の後ろ盾を失い、四国全土を敵に回す絶望的状況の始まりを意味した 4 。第一次攻防戦で十河城が持ちこたえられたのは、城の防御構造、鉄砲の有効活用、そして支城との連携という要素が機能したからに他ならない。しかし、長宗我部側が、個々の戦闘の勝利よりも兵站と動員力で圧殺する、より近世的な兵糧攻めに切り替えたことで、小規模で補給能力に劣る十河城の構造的弱点が露呈した。この戦いは、戦国時代の戦争が、武将個人の武勇や戦術から、国力そのものが勝敗を決する総力戦へと移行していく、まさにその転換点に位置づけられる戦いであったと言えよう。
長宗我部氏に城を追われ、羽柴秀吉を頼った十河存保の雌伏の時は、長くは続かなかった。天下統一へと突き進む秀吉の巨大な軍事行動は、存保に故郷への帰還を許すと同時に、彼を新たな、そして最後の戦場へと導くことになる。
天正13年(1585年)、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将とする10万を超える大軍を四国に派遣した。圧倒的な物量の前に、四国の覇者となった長宗我部元親も抗戦を断念し降伏。土佐一国のみの安堵という条件で、その支配は大きく削がれた 13 。
この四国平定において、秀吉方として戦功を挙げた十河存保は、その働きを認められ、旧領である讃岐山田郡を中心に2万石(一説には3万石)を与えられ、十河城への復帰を果たした 2 。しかし、その立場はかつての独立した領主とは大きく異なっていた。讃岐一国の国主には秀吉子飼いの仙石秀久が封じられており、存保はその指揮下に入る「与力大名」という位置づけであった 30 。これは、在地勢力を懐柔しつつも、実権は中央から派遣した腹心が握るという、秀吉の巧みな支配戦略の表れであった。
故郷に戻った存保に、息つく暇はなかった。翌天正14年(1586年)、秀吉は九州の雄・島津氏を討伐するため、大規模な九州征伐軍を編成する。存保は、軍監・仙石秀久が率いる四国勢の先遣隊の一員として、豊後の地へ渡ることになった 42 。この軍勢には、かつての宿敵・長宗我部元親と、その嫡男・信親も加わっていた。
同年12月、島津軍の猛攻に晒されていた大友氏の鶴ヶ城を救援するため、豊臣連合軍は戸次川で島津軍と対峙した。この時の軍議において、総大将である仙石秀久は、兵力で優位にあることを過信し、即時渡河して攻撃すべしと主張した。これに対し、慎重な戦いを主張する長宗我部元親は、後続の味方部隊の到着を待つべきだと強く反対したが、秀久はこれを一蹴 42 。十河存保もまた、秀久の意見に同調したと伝えられている 42 。かつて四国の覇権を巡って死闘を繰り広げた者同士の感情的な対立が、冷静な判断を曇らせた可能性は否定できない 45 。
仙石秀久の無謀な作戦は、悲劇的な結果を招く。先陣を切った仙石隊は、島津軍の巧みな伏兵戦術の前にあっけなく壊滅し、敵前で敗走した 42 。これにより、後続の長宗我部隊と十河隊は川中で孤立し、島津軍の猛攻に晒されることとなる。乱戦の中、長宗我部信親が討死。そして十河存保もまた、奮戦虚しく、この戸次川の露と消えた。享年32(または33)であった 2 。
城主・存保の戦死により、大名としての十河氏は事実上滅亡した。主を失った十河城もまた、その軍事的・政治的価値を失い、歴史の舞台から静かに姿を消すことになった。これが、十河城の廃城である 2 。
存保の最期は、戦国時代の地域領主が、豊臣政権という新たな中央集権体制に組み込まれ、その巨大な軍事戦略の「駒」として消費されていく過程を象徴している。かつての宿敵の息子と共に、反りの合わない上官の拙劣な指揮の下、縁もゆかりもない九州の地で命を落とすという皮肉な結末は、群雄が割拠した戦国乱世の終焉と、新たな時代の非情な到来を鮮烈に物語っている。
廃城から400年以上の時を経て、十河城は物理的な要塞としての姿を失った。しかし、その記憶は史跡として、また地域に根差した信仰の場として、現代に受け継がれている。
現在、十河城の本丸跡と目される場所には、十河氏ゆかりの寺院である称念寺が建立されている 1 。伝承によれば、この寺は長宗我部との戦いで散った将兵の菩提を弔うために建てられたとされ、城が軍事施設としての役目を終えた後、その場所が鎮魂という新たな意味を帯びるようになったことを示している 1 。境内には城址碑と解説板が設置され、訪れる人々にこの地の歴史を伝えている 6 。
現存する遺構の中で最も明瞭なものは、本丸の北側を区切る大規模な空堀の跡である 1 。その深さと幅は、今なお往時の中世城郭の堅固さを雄弁に物語っている。しかし、城郭の大部分は、大正時代の耕地整理や、その後の宅地化、農地化によって失われており、往時の全体像を把握することは困難である 2 。これは、近代化の過程で多くの文化財が直面した、開発と保存の間に存在する普遍的な課題を浮き彫りにしている。
十河城跡は、昭和51年(1976年)7月3日に高松市の史跡に指定された 1 。その指定理由として、「天然の地形を利用した中世の典型的な城跡として貴重な史跡である」と述べられており、その歴史的価値が公的に認められている 1 。
城跡の周辺には、歴史を物語る史跡や伝承地が点在している。称念寺の北側には十河一存・存保らの墓所があり、北東の鬼門の方角には城の守護神として毘沙門天が祀られている 4 。また、激戦地であった北門付近には、戦死者を供養するための地蔵が安置されるなど、城と人々の記憶が一体となった空間が形成されている 4 。
現在のところ、十河城跡そのものを対象とした本格的な学術的発掘調査の報告は公に確認されていない。しかし、城跡に隣接する高松市立十河小学校の校内(西下遺跡)で行われた発掘調査では、飛鳥・奈良時代のものとみられる大規模な建物跡や多数の土器が発見されている 46 。これは、十河城が築かれる以前から、この地域が政治的・文化的に重要な拠点であった可能性を示唆しており、今後の調査による新たな発見が期待される。十河城跡に関するより詳細な公式記録については、高松市埋蔵文化財センターへの問い合わせが必要となる 48 。
十河城跡の保存と活用は、称念寺という宗教的な空間と、市指定史跡という公的な文化財としての側面が重なり合う形で行われている。これは、地域コミュニティが歴史的遺産をどのように維持し、次世代へと継承していくかの一つのモデルケースと言えるだろう。
十河城は、静的な史跡としてだけでなく、地域のアイデンティティを形成し、人々を結びつける「生きた文化的資源」として、現代に新たな役割を見出している。その歴史は、祭りや地域活動を通じて語り継がれ、戦国の響きを今に蘇らせている。
城の歴史は、公式な記録だけでなく、地域に根付いた伝承や昔話の中にも息づいている。特に有名なのが、長宗我部氏との籠城戦にまつわる「豆太鼓」の伝説である。城の鬼門を守る椙尾神社にあったこの太鼓は、叩くと不思議とよく響き、籠城兵の士気を大いに鼓舞した。これに目を付けた長宗我部軍が太鼓を奪ったものの、敵が叩いても全く鳴らなかったため、怒って壊してしまったという。この物語は、城を守り抜こうとした人々の願いと、城への愛着を象徴する伝承として、今なお語り継がれている 4 。
近年、十河氏の子孫や地域住民が中心となり、失われた歴史に再び光を当てる活動が活発化している。
これらの活動は、城という史跡が、単に保存されるべき過去の遺物であるだけでなく、祭りやイベントといった動的な地域活動の「舞台」となることで、新たな価値を生み出すことを示している。歴史研究家や愛好家だけでなく、地域の子どもたちや一般市民が郷土史に親しむ貴重な機会を提供し、歴史遺産の次世代への着実な継承に大きく貢献しているのである。
讃岐国・十河城の歴史は、戦国乱世の終焉期における地方勢力の運命を凝縮した、一つの典型的な物語である。讃岐の一国人の拠点が、畿内の巨大権力・三好氏と結びつくことで四国全体の動乱の渦中に投げ込まれ、やがて長宗我部元親という地域覇者の挑戦を受け、最後は豊臣秀吉による天下統一という巨大な歴史の波に飲み込まれていく。その軌跡は、まさに時代の転換点に翻弄された城と人々の姿そのものであった。
歴史的意義の観点から見れば、十河城攻防戦は、戦国時代の戦術の変革を象徴する戦いであった。地の利を活かした中世的な城郭が、鉄砲や大筒といった新兵器と、兵站を重視した大軍による包囲戦の前に屈した過程は、戦争の形態が個人の武勇から組織力・国力へと移行していく時代の流れを明確に示している。また、城主・十河存保の生涯は、織田信長という中央の権力者の動向に一喜一憂し、その死によって絶望的な状況に追い込まれながらも、最後まで一族の誇りを胸に戦い抜いた地方武士の意地と悲哀を色濃く映し出している。彼の最期は、独立した領主としての武士の時代の終わりと、巨大な中央集権体制の一部として組み込まれていく新たな時代の始まりを告げるものであった。
廃城から四百年以上の歳月が流れた今、十河城は物理的な要塞としての機能を完全に失った。しかし、その存在は決して過去の遺物として風化しているわけではない。高松市指定史跡として公的に保護され、称念寺として人々の信仰を集め、そして「お城まつり」や「鉄砲隊」といった地域文化活動の核として、新たな命を吹き込まれている。
十河城が現代に語りかけるもの、それは、歴史遺産が単なる過去の記録ではなく、地域のアイデンティティを育み、人々を結びつけ、未来を創造するための力強い資源となりうるという事実である。その歴史を深く理解することは、戦国という時代の本質と、そこに生きた人々の確かな息吹を感じ取るための、我々にとっての貴重な鍵となるであろう。