原田城(出羽国)
出羽国原田城は、伊達氏の置賜支配の要衝。天文の乱後に築かれ、伊達晴宗の権力基盤を支えた。最後の城主・原田左馬介宗時は伊達政宗の驍将として活躍するも、文禄の役で病没。伊達氏の移封と共に廃城となるも、その遺構は今に歴史を語る。
出羽国「原田城」に関する総合的研究 ―戦国期伊達氏の置賜支配における役割と変遷―
序章:出羽原田城研究の視座
本報告書は、出羽国置賜郡、現在の山形県東置賜郡川西町に存在した城郭「原田城」を研究対象とする 1 。特に、日本の歴史上、大きな変革期であった戦国時代、すなわち伊達氏の支配下にあった時期に焦点を当て、その歴史的意義を考古学的知見と文献史学の双方から多角的に解明することを目的とする。
研究を進めるにあたり、まず留意すべき点がある。調査資料の中には、摂津国(現在の大阪府豊中市)に存在した同名の「原田城」に関する情報が散見される 3 。これらは、畿内における細川氏や三好氏の動向と関連する城郭であり、本報告書が対象とする出羽国の原田城とは全く異なる。したがって、本稿ではこれらの情報を明確に峻別し、議論の混同を避ける。
本報告書の中心的な問いは、原田城がなぜ天文年間(1532年~1555年)という特定の時期に築かれ、伊達氏の譜代重臣である原田氏に与えられたのか、という点にある。その背景には、伊達氏の歴史における最大の内部抗争「天文の乱」がどのように影響していたのかという視点が不可欠である。本報告書は、原田城を単なる一地方城郭として静的に捉えるのではなく、伊達氏の権力構造の転換点を示す動的な歴史遺産として捉え直し、その歴史的価値を再評価するものである。
第一章:原田城の地理的環境と城郭構造
第一節:立地と地勢 ―天然の要害―
原田城は、置賜盆地の西部、犬川の南岸に位置する「藤ヶ森」と呼ばれる丘陵上に築かれた平山城である 2 。三方を険しい崖に囲まれ、北方を流れる犬川を天然の堀として利用するという、防御に非常に優れた地勢を選んで築かれている 8 。背後には吾妻連峰を控え、米沢盆地を一望できるこの地は、伊達氏の本拠地であった米沢城の北方防衛線を固める上で、極めて重要な戦略拠点であった。この地理的優位性は、築城者が高度な軍事的視点を持っていたことを示唆している。
第二節:縄張りに見る構造的特徴
原田城の縄張り(城郭の設計)は、大規模な石垣や天守を持たない、土木工事を主体とした戦国中期の東北地方における典型的な城郭の姿を今に伝えている。その構造は、当時の実践的な防御思想を色濃く反映している。
項目 |
詳細 |
典拠 |
城名 |
原田城(はらだじょう) |
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別名 |
藤ヶ森城(ふじがもりじょう) |
2 |
所在地 |
山形県東置賜郡川西町大字上小松5104-1 |
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城郭分類 |
平山城 |
8 |
築城年代 |
天文年間(1532年~1555年)頃 |
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主な築城者 |
伊達晴宗(伊達家15代当主) |
7 |
主な城主 |
原田氏(14代美濃介、15代内記、16代宗政、17代左馬助宗時) |
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廃城年 |
天正19年(1591年) |
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現状 |
置賜公園(土塁、堀切等の遺構が現存) |
7 |
城の基本構造は、堀切によって明確に区画された東西二つの郭(くるわ)で構成される連郭式の縄張りである 7 。西側が主郭である本丸、東側が二の丸とされ、その推定規模は東西約350メートル、南北約100メートルに及ぶ 12 。
現在確認できる主な遺構は以下の通りである。
- 堀切(ほりきり) : 原田城の最大の特徴は、本丸と二の丸を分断する深く巨大な堀切である 11 。これは尾根筋を人工的に断ち切ることで、敵兵の水平移動を効果的に阻止するための防御施設であり、戦国期山城の典型的な工法である。現在、城跡を訪れる者は遊歩道からその圧倒的な深さを体感することができ 11 、この堀切が稲荷大明神の参道まで続いていることから、城の防御区画が広範囲に及んでいたことがわかる 11 。この構造は、騎馬や兵の突撃といった当時の合戦の様相に最適化された、極めて実践的な設計思想の産物であった。
- 土塁(どるい) : 曲輪の縁辺部には、防御壁として土を盛り上げた土塁が残存している。特に本丸西側や、二の丸跡の稲荷大明神の背後には、往時の姿を偲ばせる土塁が確認できる 10 。
- 曲輪(くるわ) : 城の中核をなす平坦地である曲輪は、現在公園として整備されている。本丸跡は西側の平場にあたり、野外ステージが設置されている 11 。二の丸跡は、真済僧正入定の地とされる広場となっている 7 。
これらの城郭構造は、『山形県中世城館遺跡調査報告書 第1集(置賜地域)』に掲載された略測図によって学術的に裏付けられており、原田城が戦国中期の置賜地方における重要な軍事拠点であったことを物語っている 11 。
第二章:築城の背景 ―天文の乱と伊達氏の権力再編―
原田城の存在意義は、伊達氏の歴史を揺るがした内乱「天文の乱」と切り離しては理解できない。城の築城は、単に乱の終結後に計画されたものではなく、乱の遂行と戦後処理という激動の過程において、伊達晴宗が自身の権力基盤を物理的に構築する行為そのものであった。
第一節:伊達稙宗・晴宗父子の対立「天文の乱」
天文の乱(1542年~1548年)は、伊達家14代当主・伊達稙宗(たねむね)と、その嫡男である晴宗(はるむね)との間の深刻な対立が、南奥羽の諸大名や国人領主を巻き込む大規模な内乱へと発展したものである 16 。
乱の直接的な原因は、稙宗が三男・実元(さねもと)を越後守護の上杉家へ養子に出そうとしたことや、婚姻政策による勢力拡大、さらには家臣団への統制強化策にあった 18 。これらの政策は、伊達氏の伝統的な統治体制を重視する晴宗や、中野宗時をはじめとする譜代の重臣たちの強い反発を招いた。結果として、伊達家臣団は稙宗派と晴宗派に二分され、骨肉の争いを繰り広げることとなった。この時、後に原田城の城主となる原田一族は、晴宗方として参陣し、その勝利に貢献したと推測される。
第二節:晴宗の勝利と米沢への本拠地移転
6年間に及ぶ争乱の末、天文17年(1548年)、第13代将軍・足利義輝の仲介もあり和睦が成立した 22 。この結果、父・稙宗は隠居を余儀なくされ、晴宗が伊達家15代当主の座を継承した 16 。
この権力移譲は、伊達氏の統治拠点にも大きな変化をもたらした。晴宗は、乱の終結後、それまでの伊達氏の本拠地であった桑折西山城(現在の福島県桑折町)を廃城とし、新たに置賜の米沢城(現在の山形県米沢市)へと拠点を移したのである 16 。これは、父・稙宗の影響力が色濃く残る地を離れ、自らを支持した勢力が集まる置賜地方に、新たな権力の中枢を築こうとする明確な意図の表れであった。
原田城の築城年代とされる天文年間(1532年~1555年)は、この天文の乱の期間と完全に重なっている 7 。この事実関係を時系列で結びつけると、「乱の勝利」「米沢への拠点移動」「新拠点周辺の防衛網整備」という一連の因果関係が明確に浮かび上がる。すなわち、原田城の築城は、晴宗による新政権の軍事的基盤固めの一環であり、信頼できる譜代家臣である原田氏を配置することで、新本拠地・米沢城の防衛上の弱点を補強する、極めて高度な戦略的配置であった。これは、戦国大名が内乱を経て領国支配を再編する典型的なプロセスを、具体的に示す歴史事例と言える。
第三章:城主・原田一族の系譜と動向
晴宗が新設した戦略拠点である原田城に、譜代筆頭格の原田氏を配置したという事実は、天文の乱が単なる父子の権力闘争に留まらず、伊達家の家臣団構造の再編という側面を持っていたことを物語っている。
第一節:伊達氏譜代の重臣・原田氏
原田氏は、伊達氏の始祖とされる伊達朝宗の代からの譜代の家臣であり、伊達家中において宿老の役割を担う名門中の名門であった 7 。伝承によれば、一族の与次郎という人物が朝宗の家臣となり、主君が伊達姓を名乗ると同時に原田志摩守光成と改めたのが始まりとされる 7 。以来、原田家は伊達家の歴史と共に歩み、歴代当主から絶大な信頼を寄せられる家柄となった。
晴宗が、父・稙宗の拡大政策を支えた新興勢力ではなく、古くからの譜代重臣層を再評価し、彼らを中核に据えることで、より結束力の高い家臣団を構築しようとしたことは想像に難くない。その象徴として、天文の乱で自らを支持した譜代重臣の原田氏に、新設した重要拠点である原田城を与えたのである。原田城の城主の地位は、単なる一軍事指揮官のポストではなく、晴宗政権下における原田氏の高い政治的地位を示すものであったと解釈できる。
第二節:原田城の歴代城主
史料によれば、原田氏がこの城を拠点としたのは14代当主・原田美濃介の時代からである 7 。以降、廃城に至るまで、以下の城主たちが伊達家の晴宗、輝宗、政宗の三代にわたり、その軍事行動の中核を担い、伊達家の躍進に貢献し続けた 7 。
- 14代:原田美濃介 10
- 15代:原田内記 10
- 16代:原田宗政 (~1582年没) 10
- 17代:原田左馬介宗時 (1565年~1593年) 10
第四章:最後の城主・原田左馬介宗時の生涯
原田城の歴史を語る上で、最後の城主となった原田左馬介宗時(はらだ さまのすけ むねとき)の存在は欠かすことができない。彼の生涯は、戦国時代から豊臣政権による統一時代へと移行する激動の時代における、地方武将の栄光と悲運を象徴している。
第一節:伊達政宗の驍将として
原田宗時は、18歳という若さで家督を継ぐと、伊達政宗の主要な軍事活動において数々の顕著な戦功を挙げた 13 。彼は単なる武将としてだけでなく、政宗に近侍して談合に参加する宿老の家柄として、政宗の側近としても重用された 25 。その活躍は、伊達家が奥羽の覇権を確立していく過程において、不可欠なものであった。
第二節:文禄の役と非業の最期
宗時の運命を大きく変えたのは、天下を統一した豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)であった。奥羽の局地的な戦闘で武功を重ねてきた宗時の活躍の場は、秀吉の号令一下で動員される国家規模の対外戦争へと劇的に変化した。
宗時は政宗に従い、伊達家臣団の一員として朝鮮半島へ渡海した 13 。その際の出で立ちは、大太刀を金の鎖で結び、駿馬にまたがるという華美なもので、伊達軍の中でも一際目立っていたと伝えられる 25 。しかし、釜山に到着後まもなく病に倒れ、帰国の途中、文禄2年(1593年)に対馬にて29歳という若さで病没した 13 。慣れない異郷での彼の死は、個人的な悲劇であると同時に、伊達家のような独立性の高かった地方勢力が、天下統一という新たな巨大な権力構造に組み込まれ、自らの意思とは離れた場所での奉仕を強いられるようになった時代の変化を象徴する出来事であった。
第三節:原田家と後世への影響
宗時の死後も、原田家の名は歴史に刻まれ続ける。宗時の孫にあたるのが、江戸時代前期に発生した仙台藩最大のお家騒動「伊達騒動(寛文事件)」の中心人物、原田甲斐宗輔(はらだ かい むねすけ)である 2 。山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』の舞台として原田城が言及されるのは、この歴史的連続性によるものである 11 。
しかし、この伊達騒動は原田城の歴史研究に大きな影を落としている。事件の結果、原田家は断絶となり、藩の公式記録から原田家に関する文書や記録類は徹底的に破棄・抹消された 25 。これが、原田城や城主であった原田氏に関する一次史料が今日極端に少ないことの大きな一因となっている。一つの家の栄枯盛衰が、城郭そのものの歴史を後世から見えにくくするという、歴史研究における史料の重要性と散逸のリスクを物語っている。
第五章:伊達氏の支城網における役割と終焉
原田城の約60年間の歴史は、戦国大名・伊達氏による置賜地方の地域支配体制の確立から終焉までの期間と完全に一致する。それは、中世城郭の存在意義が、それを必要とする特定の政治的・軍事的状況と不可分であることを示す典型例である。
第一節:「伊達な置賜四十八館」と原田城
戦国期の伊達氏は、本拠地である米沢城を防衛するため、置賜盆地一帯に多数の支城や館を配置し、面的な防衛ネットワークを構築していた。これは俗に「伊達な置賜四十八館」と呼ばれ、有事の際には相互に連携して敵の侵攻を阻む機能を持っていた 26 。
原田城は、この四十八館の重要な一角を占め、米沢城の北方を守る戦術的支城としての中核的な役割を担っていた 13 。さらに、『山形県中世城館遺跡調査報告書』の分析によれば、原田城を起点として会津方面へ抜ける大峠喜多方街道沿いには、複数の城館跡が分布していることが確認されている 30 。このことから、原田城は単なる防御拠点に留まらず、交通の要衝を監視・管理する役割も持っていたと考えられる。
第二節:豊臣政権下の伊達氏と廃城
原田城の運命は、伊達氏のそれと共にある。天正19年(1591年)、天下人となった豊臣秀吉による奥州仕置の一環として、伊達政宗は長年本拠地としてきた米沢から、旧大崎・葛西領の岩出山(現在の宮城県大崎市)へと所領を移された 11 。これは、秀吉の中央集権政策の現れであり、伊達氏による置賜地方の地域支配が強制的に終了させられたことを意味する。
この主家の移封に伴い、城主であった原田宗時も政宗に従って岩出山へと移った。その瞬間、米沢城防衛という存在理由を失った原田城は、その軍事的役割を終え、廃城となったのである 11 。天文の乱後の伊達氏の「置賜支配の始まり」と共に生まれ、秀吉の天下統一による「置賜支配の終わり」と共にその役目を終えた原田城の歴史は、伊達氏という一戦国大名の地域支配権力の勃興と終焉の歴史を、城郭という物理的な存在を通して正確に映し出す鏡であると言える。
終章:総括 ―原田城が物語るもの―
出羽原田城は、単なる一地方の城跡ではない。その歴史を深く掘り下げることで、戦国時代の東北地方における権力闘争と社会の変動を読み解くことができる。
本城は、伊達氏の歴史における最大の内部抗争「天文の乱」を経て、伊達晴宗が新たな支配体制を置賜に築き上げる過程で生まれた、新時代の象徴的拠点であった。その築城は、父の旧来の勢力を一掃し、自らを支持する譜代重臣を中心とした新しい権力構造を確立しようとする、晴宗の強い意志の表れであった。
現在も残る深い堀切や堅固な土塁といった中世城郭の遺構は、当時の緊迫した軍事状況と、土木技術の粋を尽くした築城の実態を雄弁に物語る。そして、その城に生きた原田一族、特に最後の城主・原田左馬介宗時の波乱に満ちた生涯は、伊達政宗の下で武功を重ねた栄光と、天下統一という巨大な歴史のうねりの中で異郷に散った悲運を我々に示してくれる。
史料の乏しさという困難にもかかわらず、残された遺構と周辺の歴史的文脈を丹念に読み解くことで、原田城は伊達氏の戦国史、ひいては東北地方の戦国時代を理解する上で、欠くことのできない重要な存在であることが明らかになる。その歴史は、権力、忠誠、そして時代の変転という、時代を超えた普遍的なテーマを内包しており、今後もさらなる研究が期待される貴重な歴史遺産である。
引用文献
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- 原田城趾|観光スポット(川西町・置賜地方)|やまがたへの旅 - 山形 https://yamagatakanko.com/attractions/detail_2375.html
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- 豊中市教育委員会 https://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/shisetsu/haradajyouato_hamur.files/haradajyouatokyuuhamurokejyuutaku.pdf
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- 【置賜公園】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_06382ah3330043509/
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- 山形の城 原田城 https://shiro200303.sakura.ne.jp/Dewa-harada-Jo.html
- 原田城の見所と写真・全国の城好き達による評価(山形県川西町) - 攻 ... https://kojodan.jp/castle/2102/
- 城跡を訪ねて - 置賜文化フォーラム http://okibun.jp/siroato/
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- 戦国観光やまがた情報局 - samidare https://ssl.samidare.jp/~lavo/naoe/note?p=list&off=15
- 「天文の乱(1542~48年)」伊達氏当主父子が争った内乱はなぜ起きたのか? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/968
- 最上氏の栄枯盛衰~伊達氏とはライバル関係にありながらも出羽を統一した武家 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/20100/?pg=2
- 伊達氏天文の乱 - 福島県伊達市公式ホームページ https://www.city.fukushima-date.lg.jp/soshiki/87/1145.html
- 伊達政宗特集|蘇る戦国絵巻 史跡探訪 - 高畠町観光協会 https://takahata.info/date/
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- 30 原田家 (甲斐)の子孫について - 仙台市図書館 https://lib-www.smt.city.sendai.jp/wysiwyg/file/download/1/555
- 伊達な置賜四十八館|置賜城館名鑑 - 戦国観光やまがた情報局 https://sengoku.oki-tama.jp/dte48/
- 【山形県置賜エリア】「伊達な置賜四十八館」を巡る | ARTICLES - Kappo(仙台闊歩) https://kappo.machico.mu/articles/9353
- 山形県中世城館遺跡調査報告書 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/8/8518/6284_1_%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E7%9C%8C%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%9F%8E%E9%A4%A8%E9%81%BA%E8%B7%A1%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf