最終更新日 2025-08-19

古麓城

肥後八代の要衝に築かれし古麓城。南北朝期に名和氏が築き、相良氏が交易で栄華を極めるも、島津の圧迫と主の死を経て、豊臣期に新城築城と共に廃城となる。

肥後国における権力と交易の要衝 ― 古麓城の興亡史 ―

序章:八代という戦略的要地

肥後国八代地方は、古来より日本の歴史において重要な役割を担ってきた地域である。その地理的中心には、内陸の人吉盆地から有明海・八代海へと注ぐ大河、球磨川が流れる。この球磨川が形成した広大な平野と、その河口に位置する良港は、水陸交通の結節点として、この地を支配する者にとって計り知れない戦略的価値をもたらした 1 。八代を掌握することは、球磨川流域の物流を支配し、同時に八代海を通じて九州西岸の海上交通路に影響力を行使することを意味したのである 3 。この地政学的な優位性ゆえに、八代は歴代の権力者たちがその支配を渇望する係争の地となり続けた。

八代における支配の拠点は、時代の要請と共に三つの城へとその姿を変えていった。本報告書が主題とする中世山城「古麓城」、それに続く織豊系城郭「麦島城」、そして近世城郭「松江城(八代城)」である 2 。この三代にわたる城の変遷は、単なる拠点の移転ではない。それは、支配の概念そのものが、山からの軍事的な「面」の制圧(古麓城)、港湾と一体化した交易という「線」の管理(麦島城)、そして安定した統治と権威の象徴という「点」の確立(松江城)へと移行していく、日本の歴史における大きなパラダイムシフトを凝縮して示すものである。古麓城の歴史を詳らかにすることは、この壮大な歴史的変遷の始点を解明することに他ならない。

ここでまず明確にすべきは、「古麓城」という名称が単一の城郭を指すものではないという点である。古麓城とは、八丁山から北西に派生する複数の峰々に築かれた、飯盛城、丸山城、鞍掛城、勝尾城、八丁嶽城、鷹峯城、新城という七つの城砦から構成される広大な「城郭群」の総称なのである 5 。この複合的な防御システムこそが、古麓城の本質であり、その強靭さの源泉であった。本報告書では、この城郭群が、戦国時代という激動の時代の中で、いかにして興り、繁栄し、そして歴史の舞台から姿を消していったのかを、多角的な視点から徹底的に解明していく。

【表1】古麓城の城主変遷と主要な出来事(年表)

西暦(和暦)

主要な出来事

城主(または支配勢力)

1334年(建武元年)

名和義高が八代荘地頭職に任じられる

(後醍醐天皇)

1335年頃

内河義真により築城される

名和氏(内河義真)

1336年(建武3年)

北朝方の一色範氏に攻められる

名和氏

1504年(永正元年)

相良長毎が名和氏を追い、古麓城を掌握

相良長毎

1534年(天文3年)

相良義滋が新城・鷹峯城を築き、城を拡張

相良義滋

1581年(天正9年)

相良義陽、響野原の戦いで戦死

相良義陽

1582年(天正10年)

島津氏の支配下に入り、平田光宗が城代となる

島津氏(平田光宗)

1587年(天正15年)

豊臣秀吉が入城。ルイス・フロイスと会見

豊臣秀吉

1588年(天正16年)

小西行長が麦島城を築城。古麓城は廃城となる

小西行長

2014年(平成26年)

国指定史跡「八代城跡群」に指定される

(国)

第一章:古麓城の黎明 ― 南北朝の動乱と名和氏の築城

古麓城の歴史は、14世紀の南北朝の動乱期にその幕を開ける。全ての始まりは、建武の新政における後醍醐天皇の勝利であった。倒幕に多大な功績を挙げた名和長年の嫡男、名和義高は、その恩賞として建武元年(1334年)に肥後国八代荘の地頭職を与えられた 5 。これは、中央政権の動向が、遠く離れた九州の一地域の運命を直接的に左右した瞬間であった。

翌建武2年(1335年)、義高の代官として一族の内河義真が八代に下向する 5 。当時の日本は、建武政権の崩壊から南北朝の対立へと突き進む、まさに動乱の時代であった。義真は、この不安定な情勢に対応するため、八代の地に城を築いた。これが、当時「八代城」と呼ばれ、後に「古麓城」として知られることになる城郭群の起源である 5 。その存在は早くも歴史の表舞台に登場し、『太平記』には、築城の翌年である建武3年(1336年)に、北朝方の一色範氏による攻撃を受けたことが記録されている 5

築城以来、古麓城は九州における南朝方の重要な軍事拠点として機能し続けた。特に、征西将軍宮・懐良親王が九州での勢力確立を目指す過程で、この城を拠点とした時期があったことは特筆に値する 9 。その後も、後西征将軍宮・良成親王と菊池武朝が拠るなど、古麓城は九州南朝の歴史と分かちがたく結びついていた 9

この名和氏の時代に形成された古麓城は、主に五つの城砦から構成されていたと考えられている。麓の居館を守る飯盛城と丸山城、それらを繋ぐ鞍掛城、北方の監視を担う勝尾城、そして城郭群全体の最終防衛拠点である詰城としての八丁嶽城である 6 。これらの城砦は、球磨川が作り出した複雑な谷や尾根筋といった自然地形を巧みに利用して配置され、相互に連携して敵の侵攻を阻む、有機的な防御システムを形成していたのである 11

第二章:城郭群としての古麓城 ― その構造と防御思想

古麓城の最大の特徴は、それが単一の堅固な要塞ではなく、複数の城砦が連携して機能する「防衛生態系」とも言うべき構造を持つ点にある。七つもの城砦が必要とされたのは、石垣のような人工的な防御施設に頼るのではなく、山系全体の複雑な地形そのものを味方につけるという、中世山城の防御思想に基づいていたからである。一つの城が攻撃を受けても、他の城から側面攻撃や後方支援が可能であり、侵攻する敵は常に複数の脅威に晒される。この分散・連携型の防御システムこそが、古麓城の強靭さの核心であった。

七城の機能分担と連携

古麓城郭群を構成する七つの城砦は、それぞれが異なる役割を担い、全体として一つの巨大な防御機構を形成していた 6 。その機能は、主郭、詰城、繋の城、出城など、明確に分担されていたと考えられる。

相良氏時代に新たに主郭として整備されたのが「新城」である。標高約180メートルの山頂部を五段に削平して造成され、本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪群が配置された 11 。現在、古麓城郭群の中で最も良好に遺構が残る場所であり、城郭群の中核を担っていた 11 。同じく相良義滋によって築かれた「鷹峯城」も、新城と並ぶ重要な拠点であった 11

これらの主要な城砦を結びつける神経網の役割を果たしたのが「鞍掛城」である。標高約140メートルの尾根上に位置し、北の新城、西の丸山城、南東の鷹峯城へと通じる連絡路を確保する「繋の城」であった 11 。また、「にべ谷」と呼ばれる谷を挟んで対峙するように配置された「丸山城」と「飯盛城」は、谷筋からの敵の侵入を防ぐための重要な防衛ラインを形成していた 11 。さらに、北西に突き出た尾根の先端に位置した「勝尾城」は、敵の動向をいち早く察知するための見張り所、すなわち出城としての機能を持っていたと推測される 11 。そして、これら全ての城砦群の背後、最も高い場所に控えるのが「八丁嶽城」であり、万が一の際の最後の砦となる詰城であった 6

【表2】古麓城郭群を構成する七城の概要

城砦名

標高(推定)

主な機能(推定)

築城者(推定)

主な遺構

飯盛城

-

名和氏時代の主郭

名和氏

-

丸山城

143m

谷の防衛、飯盛城との連携

名和氏

土塁跡

鞍掛城

140m

連絡路(繋の城)

名和氏

平坦地

勝尾城

-

見張り所(出城)

名和氏

遺構不明瞭

八丁嶽城

-

詰城

名和氏

-

鷹峯城

-

相良氏時代の拠点

相良義滋

-

新城

180m

相良氏時代の主郭

相良義滋

曲輪、堀切

中世山城の典型的な縄張り

古麓城の普請は、後の織豊系城郭に見られるような高石垣を用いず、自然地形を最大限に活用するという、中世山城の典型的な様式を示している 5 。防御の要となったのは、人工的に造成された土木施設、すなわち「堀切」と「竪堀」である。堀切は尾根を断ち切るように掘られた空堀で、尾根伝いに進軍する敵の足を止め、分断する役割を果たした。一方、竪堀は山の斜面に対して垂直に掘られ、斜面を横移動しながら登ってくる敵の動きを阻害し、特定の攻撃ルートへと誘導する効果があった 5 。特に主郭であった新城の周辺には、これらの堀切や竪堀が複数、明瞭な形で現存しており、当時の緊迫した防御思想を今に伝えている。

麓の居館と城下町

山上の戦闘拠点とは別に、麓の平地には城主の日常生活の場である居館(下館)や家臣団の屋敷、そして経済活動の中心となる城下町が形成されていた 7 。後の時代に松井氏の菩提寺となる春光寺の場所が、この居館跡であったと推定されている 11 。寺の前に残る用水池は、かつての水堀の痕跡(御堀跡)であるとされ、往時の姿を偲ばせる 11 。また、戦後まで「犬の馬場跡」と呼ばれた広場の地名は、武士たちが犬追物などの武芸訓練に励んだ場所であったことを示唆しており、麓の空間が単なる居住区ではなく、武家の生活と文化の中心地であったことを物語っている 11

第三章:相良氏の執念 ― 八代進出と古麓城の最盛期

戦国時代に入り、古麓城は新たな主を迎えることで、その最盛期へと向かう。人吉盆地を本拠地としていた国人領主・相良氏は、肥後国南部における確固たる地位を築くため、長年にわたり八代の地を渇望し、その支配者であった名和氏と熾烈な争奪戦を繰り広げた 5 。相良氏が、防御に適した本拠地・人吉を離れてまで八代に固執したのには明確な理由があった。それは、山城である古麓城という強力な「剣」を手に入れ、その麓に広がる国際貿易港「徳渕の津」という「富の泉」を掌握することであった。この軍事と経済の相乗効果こそが、相良氏を単なる山間の領主から、海洋交易を手掛ける戦国大名へと飛躍させる原動力となったのである。

名和氏との攻防と八代支配の確立

相良氏の八代進出は、文明16年(1484年)に相良為続が一時的に古麓城を占領したことに始まる 5 。その後、一進一退の攻防が続いたが、永正元年(1504年)、為続の子である相良長毎が名和氏を完全に八代から駆逐し、古麓城を完全に掌握した 5 。これにより、相良氏は事実上、その本拠を人吉から八代へと移し、戦国大名としての地位を確立する大きな一歩を踏み出した 14

相良義滋による大改修と城下町の整備

相良氏による八代支配が盤石なものとなると、天文3年(1534年)、長毎の子である相良義滋は、古麓城の大規模な拡張と城下町の整備に着手した 5 。この時、名和氏時代の城郭群に加えて、新たな主郭として「新城」と「鷹峯城」が築かれた 6 。これは、相良氏の勢力拡大を内外に示すとともに、より強固な支配体制を構築するためのものであった。同時に、麓には家臣団が集住させられ、本格的な城下町が形成された 7 。当時の様子を伝える『八代日記』には、城下で複数回の火災が発生したとの記録があり、これは裏を返せば、それだけ多くの人々が暮らし、町が賑わっていたことの証左と言える 17

経済拠点としての開花 ― 徳渕の津と対外交易

相良氏の八代支配がもたらした最大の成果は、軍事的な成功以上に、経済的な繁栄にあった。義滋は、球磨川河口に位置する国際貿易港「徳渕の津」を最大限に活用し、琉球や明との対外交易を積極的に推進した 7 。この交易によってもたらされた莫大な富は、相良氏の財政を潤し、軍事力と政治的影響力を飛躍的に高める源泉となった。古麓城の最盛期とは、単に城が物理的に拡張された時代ではなく、相良氏が城と港を一体的に経営することで、その黄金時代を築き上げた時代であった。後にこの地を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスが、その著書『日本史』の中で「この地がいかに美しく、清らかで豊饒であるかは容易に説明できるものではない」と八代の繁栄を絶賛しているが 18 、その繁栄の礎は、まさしくこの時代に築かれたものであった。

第四章:落日の悲劇 ― 島津氏の圧迫と当主・相良義陽の死

相良氏の下で栄華を極めた古麓城であったが、16世紀後半になると、その運命に暗い影が差し始める。薩摩から急速に勢力を拡大した島津氏の存在である。難攻不落を誇った古麓城の陥落は、しかし、城壁への直接攻撃によるものではなかった。それは、城の物理的な防御力を超えた、外交、圧力、そして心理戦が絡み合う、戦国時代後期の新たな「戦争の形」の前に、当主が悲劇的な決断を迫られた結果であった。城の強さだけでは大名の存亡が決まらなくなった時代の転換点を、古麓城の運命は象徴している。

島津氏の台頭と相良氏の苦境

16世紀後半、島津義久の指導の下、島津氏は九州統一を目指して破竹の進撃を開始した 20 。肥後国南部に位置する相良氏は、この圧倒的な軍事力の前に絶体絶命の苦境に立たされる。天正9年(1581年)、ついに島津軍の本格的な攻撃を受け、当主・相良義陽は降伏を余儀なくされた 7 。これにより、独立した戦国大名としての相良氏の歴史は、事実上終焉を迎えた。

響野原の戦い ― 悲運の決断

島津氏は、服属させた義陽に対し、その忠誠を試すかのように非情な命令を下す。それは、義陽が長年にわたり固い盟約を結んでいた阿蘇氏の重臣で、当代随一の名将と謳われた甲斐宗運を討伐せよ、というものであった 23 。盟友との誓いを破るか、あるいは主家となった島津氏に背くか。義陽は究極の選択を迫られ、苦悩の末に、相良家の存続を第一に考え出陣を決意する 24

天正9年(1581年)12月、義陽は軍勢を率いて響野原(現在の熊本県宇城市)に進軍。しかし、老練な甲斐宗運は、祝宴を開き油断していた相良軍の隙を突き、電撃的な奇襲を敢行した 25 。不意を突かれた相良軍は総崩れとなり、義陽は奮戦の末、この地で討死を遂げた 27 。享年38歳、悲運の若き当主の死であった 24

古麓城の開城と島津氏による支配

当主の戦死という最悪の事態を受け、相良氏は完全に島津氏の支配下に組み込まれた。古麓城は戦闘を経ることなく島津方に明け渡され、翌天正10年(1582年)には、島津氏の家臣である平田光宗が城代として入城した 6 。その後、伊集院忠棟や上井覚兼といった島津氏の重臣たちも在番し、古麓城はかつての主の敵であった島津氏の、肥後国北部侵攻のための前線拠点として利用されることとなったのである 28

第五章:時代の転換点 ― 豊臣政権と古麓城の終焉

相良義陽の死と島津氏の支配を経て、古麓城の運命は九州から日本全土を巻き込む、さらに大きな歴史の潮流に飲み込まれていく。豊臣秀吉による天下統一事業である。この過程で古麓城は、その歴史上、最も華々しい瞬間を迎えると同時に、その存在意義そのものを問われることになる。最終的に、古麓城が廃城という結末を迎えたのは、城の価値基準が、籠城戦に耐える「防御」から、領地を効率的に治め、経済を活性化させる「統治と経済」へと完全に移行したことを示す象徴的な出来事であった。それは、日本の城郭史における「中世」の終わりと「近世」の始まりを告げる、決定的なパラダイムシフトだったのである。

豊臣秀吉の九州平定

天正15年(1587年)、島津氏を討伐するため、豊臣秀吉は自ら大軍を率いて九州へ出兵した。圧倒的な物量の前に島津軍は八代から撤退し、秀吉は古麓城に無血入城を果たした 6 。秀吉はこの城に4日間滞在し 7 、その間にイエズス会宣教師ルイス・フロイスと会見したことが記録されている 6 。この出来事は、一地方の拠点であった古麓城が、日本の歴史が大きく動くその中心舞台に立った、稀有な瞬間であった。

支配者の変転と廃城への道

九州平定後、肥後国は秀吉の重臣である佐々成政に与えられ、古麓城には成政の城代が置かれた 11 。しかし、成政は領国経営に失敗し、肥後国人一揆を招いた責任を問われて切腹。その後、肥後国は二つに分割され、八代を含む南部はキリシタン大名として知られる小西行長の所領となった 5

麦島城の築城と古麓城の廃城

新たな領主となった小西行長は、堺の商家の出身であり、対外交易の重要性を誰よりも深く理解していた。彼にとって、城に求められる第一の機能は、山中での防御ではなく、平地にあって領地経営と交易を効率的に行うことであった。この新しい時代の要求に応えるため、行長は天正16年(1588年)、貿易港・徳渕の津に隣接する球磨川の中洲、麦島に、石垣と瓦葺の天守を持つ近世的な新城「麦島城」の築城を開始した 5

この平城である麦島城の完成は、山城である古麓城の時代の終わりを意味した。新しい統治拠点と経済拠点の誕生により、その役割を完全に失った古麓城は廃城とされ、南北朝時代から約250年以上にわたって八代の地を見守り続けたその歴史に、静かに幕を下ろしたのである 5

終章:古麓城が歴史に刻んだもの

南北朝の動乱期に南朝方の拠点として生まれ、戦国時代には相良氏の権力と経済の基盤として最盛期を迎え、そして豊臣秀吉による天下統一の過程でその歴史的役割を終えた古麓城。その興亡の物語は、中世日本の山城が辿った運命そのものを体現している。軍事、政治、経済のあらゆる側面において、古麓城は肥後国、ひいては九州の歴史に深く、そして永続的な影響を刻み込んだ。

城郭史という観点から見れば、古麓城は自然地形を巧みに利用し、石垣を持たない複数の城砦が連携して機能する「城郭群」という、中世山城の防御システムの典型例として極めて高い価値を持つ。そして、その終焉が、防御思想と統治形態の変化に伴う、山城から平城へ、さらには近世城郭へと至る日本の城の発展段階を明確に示す歴史的な指標となっている点は、特筆すべき意義を持つ。

今日、古麓城跡は「妙見創造の森(古麓歴史自然公園)」として整備され、往時の面影を残す曲輪や堀切を巡りながら、市民が歴史と自然に親しむ憩いの場となっている 13 。また、中世の古麓城跡、織豊期の麦島城跡、そして近世の松江城跡(八代城跡)は、三つ合わせて国指定史跡「八代城跡群」を構成している 5 。これは、一つの地域において中世から近世に至る城郭構造の変遷を一体的に把握できる、全国的にも貴重な事例であり 3 、八代という土地が持つ歴史の重層性を雄弁に物語る文化遺産である。

今後、現在進められている保存活用計画に基づき、発掘調査や研究がさらに進展することが期待される 32 。特に、未だ謎の多い麓の居館や城下町の具体的な構造が解明されれば、古麓城が果たした役割の全体像は、より一層鮮明になるであろう。古麓城は、物理的には廃城となったが、歴史遺産として、今なお我々に多くのことを語りかけているのである。

引用文献

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