国峯城
国峯城は西上野の要衝。小幡氏が築き、山内上杉氏の重臣として活躍。武田信玄に臣従し「赤備え」として武名を馳せる。武田氏滅亡後は織田、北条と主を変え、小田原征伐で落城。その歴史は国衆の生存戦略を物語る。
国峯城:西上野の覇権を巡る攻防の舞台 ― 詳細調査報告書
序章:国峯城の歴史的舞台 ― 西上野の戦略的要衝
戦国時代の上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)は、日本列島の中心部に位置する地政学的な要衝であった。信濃・越後と武蔵・相模を結ぶ交通の結節点であり、広大な関東平野の西の玄関口として、古来より軍事・経済の両面で極めて重要な役割を担っていた 1 。この地を掌握することは、関東全域の支配、ひいては天下統一を目指す戦国大名にとって、避けては通れない戦略目標であった。その結果、上野国は、北の越後上杉氏、西の甲斐武田氏、南の相模北条氏という、当代屈指の三大勢力の野望が真正面から衝突する、最も熾烈な係争地の一つとなったのである 1 。
室町時代を通じて、この上野国を支配してきたのは、関東管領の職を世襲する山内上杉氏であった 4 。彼らは平井城(現在の群馬県藤岡市)を本拠地とし、関東における室町幕府の権威を代行する存在として君臨していた 4 。しかし、その権勢は戦国時代の到来とともに陰りを見せ始める。天文15年(1546年)、相模の北条氏康との間で行われた河越夜戦での壊滅的な敗北は、山内上杉氏の運命を決定づけた 4 。この一戦で多くの重臣を失った当主・上杉憲政は勢力を急速に失い、遂には本拠地・平井城を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って亡命するに至る 3 。これにより、上野国には巨大な権力の空白が生まれ、地域の秩序は根底から覆された。
この権力の真空状態の中で、自らの存続をかけて立ち上がったのが、小幡氏、長野氏、由良氏といった在地領主、すなわち「国衆(くにしゅう)」であった 1 。彼らは、旧主・山内上杉氏の権威が失墜した今、三大勢力のいずれかに属するか、あるいは独立を維持するかの厳しい選択を迫られた。自らの領地と一族の血脈を守るため、彼らは三大勢力の狭間で複雑な離合集散を繰り返すことになる。その中でも、国峯城を本拠とする小幡氏は、西上野において箕輪城の長野氏と並び称されるほどの有力な国衆であり、その動向は地域全体の勢力図を大きく左右する重要な鍵を握っていた 11 。
国峯城の歴史は、単に一つの城の盛衰を物語るものではない。それは、上杉、武田、北条という巨大な地殻プレートがぶつかり合う「地政学的な断層線」の上で、小幡氏という国衆がいかにして生き残りを図ったかの記録である。城の構造、城主の変遷、そして城を巡る合戦のすべてが、戦国期関東のパワーバランスの変動を映し出す鏡となっている。本報告書は、この国峯城を多角的に分析することで、戦国時代という激動の時代の実像に迫ることを目的とする。
第一章:城主・小幡氏の興亡 ― 激動の時代を生き抜いた一族の軌跡
国峯城の歴史は、その城主であった小幡一族の歴史と不可分である。彼らの動向は、戦国時代の国衆が置かれた過酷な状況と、その中で駆使された生存戦略を如実に示している。
1.1 小幡氏の出自と国峯城築城
小幡氏は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて武蔵国で勢力を誇った武士団「武蔵七党」の一つ、児玉党を祖とする名門である 13 。その一族が上野国甘楽郡に移り住み、地域の豪族として根を下ろした。国峯城の築城は、仁治年間(1240年頃)に遡ると伝えられており、以来、戦国時代の終焉に至るまで、実に350年以上にわたって小幡氏の本拠地として機能し続けた 14 。当初、城主の日常的な居館は、城山の麓にある「竹の内(館の内)」と呼ばれる地域にあったと推測されており、山城である国峯城は有事の際の詰城(つめのしろ)としての役割を担っていたと考えられる 12 。
1.2 山内上杉氏の重臣として
室町時代から戦国時代初期にかけて、小幡氏は関東の覇者であった関東管領・山内上杉氏の重臣として活躍した 11 。彼らは西上野における上杉氏の支配体制を支える重要な軍事力であり、同じく西上野の有力国衆であった箕輪城主・長野氏とは同盟関係を結び、連携して地域の安定に寄与していた 13 。
1.3 武田信玄への従属 ― 生存を賭けた転換
しかし、前述の通り、山内上杉氏が北条氏に敗れ、当主・憲政が越後へ亡命すると、上野の国衆は自らの進退を決めなければならない状況に陥った 4 。北条氏の威勢が関東を席巻する中、西からは甲斐の武田信玄(当時は晴信)が信濃を平定し、その勢力を上野へと伸ばしつつあった。この状況を冷静に分析した当時の当主・小幡憲重と嫡男・信実(のぶざね、後に信貞)は、一族の存続のため、旧主・上杉氏を見限り、新たな強者である武田信玄に従属するという重大な決断を下す。この出仕は、史料によれば天文22年(1553年)頃のこととされている 15 。
この転身は、西上野の勢力図に大きな波紋を広げた。あくまで上杉方として抵抗を続けることを選んだ箕輪城主・長野業政は、小幡氏の離反を許さず、小幡一族の中で上杉方に留まっていた小幡景定(図書介)を支援し、憲重・信実父子が草津温泉へ湯治に出かけた留守を狙って国峯城を乗っ取るという挙に出た 14 。これにより、小幡氏は一時的に本拠地を失うこととなった。
しかし、永禄4年(1561年)、武田信玄は西上野への本格的な侵攻を開始。その軍事行動の一環として国峯城を攻撃し、これを奪還した 12 。信玄は城を本来の主である小幡信実に返し、城主に復帰させた。この一件により、国峯城は単なる一国衆の居城から、武田氏による上野攻略、特に最大の標的であった箕輪城を攻めるための最重要前線基地へと、その性格を大きく変貌させることになった。
1.4 「赤備え」としての武名 ― 武田軍団の中核へ
武田氏の麾下に入った小幡氏は、その忠誠と実力を高く評価された。特に当主の小幡信実(後に信真、信貞と度々改名)は、武田軍団の中でも最強の精鋭部隊の代名詞であった「赤備え」の部隊を率いることを許されるという、破格の待遇を受けた 12 。これは、飯富虎昌や山県昌景といった譜代の重臣にのみ許された名誉であり、外様である小幡氏がいかに信玄から信頼されていたかを示す証左である。
国峯城のある甘楽郡が古くからの良馬の産地であったことも、小幡氏の価値を高めた 12 。彼らが率いる騎馬軍団は「上州の赤備え」として敵方から恐れられ、武田軍の主力を担う存在となった 22 。天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて、武田軍が織田・徳川連合軍の前に歴史的な大敗を喫した際にも、小幡信真(当時の名)は奮戦し、その武勇を示したと『信長公記』にも記されている 11 。
1.5 武田氏滅亡後の流転 ― 織田、そして北条へ
栄華を誇った武田氏も、信玄の死後、その勢いに陰りが見え始める。天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐によって、当主・武田勝頼は自害し、名門武田氏は滅亡した。主家を失った小幡信真は、名を信貞と改め、いち早く織田軍の部将・森長可を通じて信長に降伏し、所領を安堵された 11 。
しかし、そのわずか数ヶ月後の同年6月、本能寺の変で織田信長が横死するという激震が走る。信長から関東管領として上野支配を任されていた滝川一益は、この混乱に乗じて勢力を拡大した北条氏との神流川の戦いに敗れ、関東から撤退した 10 。再び権力の空白地帯となった上野で、小幡信貞は三度目の主君替えを決断する。名を信定と改め、今度は関東の新たな覇者となった北条氏に属したのである 11 。この一連の目まぐるしい所属の変更は、裏切りや不忠といった単純な言葉では評価できない。それは、大国の狭間で自らの領地と一族を守るために、あらゆる政治的・軍事的手段を駆使した、国衆の必死の生存戦略そのものであった。
1.6 小田原征伐と廃城、そして再興
北条氏に属した小幡氏であったが、その支配も長くは続かなかった。天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、北条氏を討伐すべく小田原征伐を開始する。当主・小幡信定は、北条氏の家臣として小田原城での籠城を命じられた 12 。
主を失った国峯城は、信定の子・信秀が守っていたが、前田利家や上杉景勝らが率いる豊臣軍の北国方面軍の猛攻に晒される。そして、上杉家臣・藤田信吉の部隊によって攻撃され、ついに落城した 12 。この落城をもって、国峯城はその軍事拠点としての歴史に幕を下ろし、廃城となった。
北条氏の滅亡後、当主・信定は旧知の仲であった真田昌幸を頼って信濃へ亡命し、その地で52歳の生涯を閉じた 26 。一方、落城を生き延びた子の信秀は、地元の向陽寺に僧として匿われていたが、新たな関東の支配者となった徳川家康の配下・奥平信昌が鷹狩りの際に寺を訪れたことでその存在が知られることとなる 11 。信昌の推挙により、信秀は二代将軍・徳川秀忠に拝謁する機会を得た。その結果、信秀の子(信定の養子)・直之が1000石の旗本として徳川幕府に取り立てられ、小幡氏は武家としての家名を再興することに成功したのである 11 。戦国の荒波に翻弄され続けた小幡氏の歴史は、巧みな処世術と強運によって、近世までその血脈を繋ぐという結末を迎えた。
【表1:国峯城と小幡氏 関連年表】
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物(小幡氏、周辺勢力) |
備考(国峯城への影響など) |
1240年頃(仁治年間) |
小幡氏により国峯城が築かれる。 |
小幡氏 |
詰城として創建されたと推定される。 |
1546年(天文15年) |
河越夜戦で山内上杉氏が大敗。 |
上杉憲政、北条氏康 |
上杉氏の権威が失墜し、上野国が動乱期に入る。 |
1552年(天文21年) |
主君・上杉憲政が平井城を追われ越後へ亡命。 |
上杉憲政、長尾景虎 |
小幡氏が新たな主君を模索する契機となる。 |
1553年頃(天文22年) |
小幡憲重・信実父子が武田信玄に従属。 |
小幡憲重、小幡信実、武田信玄 |
生存を賭けた戦略的転換。 |
1560年(永禄3年) |
長野業政方の小幡景定により国峯城が一時乗っ取られる。 |
長野業政、小幡景定 |
小幡氏内部の対立と、周辺勢力の介入を示す。 |
1561年(永禄4年) |
武田信玄が国峯城を奪還。小幡信実が城主に復帰。 |
武田信玄、小幡信実 |
武田氏による西上野攻略の拠点となる。 |
1575年(天正3年) |
長篠の戦いに小幡信真が「赤備え」を率いて参戦。 |
小幡信真、武田勝頼 |
武田軍団の中核としての武名を示す。 |
1582年(天正10年) |
武田氏滅亡。織田氏、次いで北条氏に従属。 |
小幡信貞(信定)、滝川一益、北条氏直 |
権力の空白地帯における迅速な主君替え。 |
1590年(天正18年) |
小田原征伐にて国峯城落城、廃城となる。 |
小幡信定、小幡信秀、藤田信吉 |
城の軍事的役割の終焉。 |
江戸時代初期 |
小幡直之が徳川幕府の旗本となり、小幡氏が再興される。 |
小幡直之、徳川家康、徳川秀忠 |
一族の巧みな生存戦略の最終的な成果。 |
第二章:国峯城の構造と縄張り ― 複合要塞の実像
国峯城は、戦国時代の城郭の中でも特に大規模かつ複雑な構造を持つ。その縄張り(城の設計)は、城主の変遷と、時代とともに激化する戦闘の様相を反映した、重層的な防御思想の物的な証拠と言える。
2.1 全体構成:山城・丘城・平城から成る大城郭
国峯城の最大の特徴は、単一の機能を持つ城ではなく、「山城」「丘城」「平城」という三つの異なる要素が一体となって構成された、巨大な複合城郭である点にある 12 。その城域は、東西約2km、南北約2.5kmという広大な範囲に及び、最高所の山城部と最低所の平城部の比高差は244mにも達する 28 。これは西上野地方でも屈指の規模を誇り、小幡氏の勢力の大きさを物語っている。
この三つの要素は、それぞれ異なる役割を担いながら、有機的に連携していたと考えられる。
- 山城部(詰城): 戦闘時の最終防衛拠点。
- 丘城部(御殿平): 城主の日常的な居館と政務の中枢。
- 平城部(麓の郭・城下): 家臣団の屋敷や城下町を防衛する外郭。
このような複合的な構造は、平穏な時代の政治的中心としての機能と、戦乱が激化した時代の軍事的要塞としての機能が、時代を経て積み重なっていった結果と解釈できる。
2.2 山城部(詰城)の防御機構:戦国期山城の精髄
国峯城の核心部であり、最も軍事的な性格が色濃く残るのが、標高428.4mの城山山頂に築かれた山城部である 13 。
- 曲輪配置: 山頂の最も高い場所に主郭(本丸)を置き、そこから東西に伸びる急峻な痩せ尾根上に、複数の小さな曲輪(くるわ)を直線状に配置する「連郭式」の縄張りを採用している 13 。西の最も端にある曲輪は、前線基地としての役割を持つ「出丸」と呼ばれている 13 。山上の各曲輪は面積が狭く、居住性は低い 13 。これは、この区画が平時の生活空間ではなく、純粋な戦闘拠点として設計されていたことを示している。
- 堀切(ほりきり): 国峯城の防御思想を最も象徴するのが、尾根筋をV字状に深く断ち切ることで敵の進軍を阻む「堀切」である。その数は10条以上にも及び、城内には無数の堀切が設けられている 13 。特に主郭周辺の堀切は、人の手で岩盤を削り取って造られた壮大なものであり、防御にかける執念がうかがえる 24 。この徹底した堀切の多用は、尾根伝いに攻め寄せる敵兵の縦方向の移動を完全に遮断し、各個撃破することを目的とした設計である。
- 竪堀(たてぼり): 堀切と並び、国峯城のもう一つの大きな特徴が、山の斜面に対して垂直に掘られた無数の「竪堀」である 12 。これは、斜面を水平方向に移動(横移動)しようとする敵兵の足を止め、動きを拘束するための防御施設である。特に主郭の東側斜面には、二筋の長大な竪堀が麓まで伸びており、広範囲からの攻撃を防ぐ意図が見て取れる 12 。このような竪堀を多用する築城術は、山内上杉氏系の城郭にも見られる特徴であり、国峯城の縄張りの源流を示唆している 30 。
- 虎口(こぐち): 曲輪への出入り口である虎口は、防御の要である。主郭部への進入路には、土塁を巧みに配置して敵兵を狭い空間に誘い込み、三方向から攻撃を加えられるように設計された「枡形(ますがた)」に近い構造が確認できる 32 。これは、敵の勢いを削ぎ、防御側が有利に戦うための、戦国時代後期の技巧的な防御施設である。
2.3 丘城部「御殿平」と平城部の機能
山城部が純粋な軍事施設であるのに対し、丘城部と平城部は、政治・経済・生活の拠点としての機能を持っていた。
- 御殿平(ごてんだいら): 山城部の中腹、北東側に位置する比較的広い三段の平坦地は「御殿平」と呼ばれている 12 。発掘調査は行われていないが、その名称や立地から、戦国時代中期以降、城主の日常的な居館や政務を執り行う館がここに置かれていたと強く推測される 12 。麓の館よりも防御性に優れ、かつ山頂の詰城ほど不便ではないこの場所は、戦乱が常態化した時代における現実的な拠点であった。現在、この御殿平までは林道が通じており、登城の際の拠点となっている 15 。
- 平城部(外郭): 麓の谷間(中ツ沢・国峰の谷)には、城下町や家臣団の屋敷地が広がっていたと考えられる 13 。これらの居住区画を守るため、広大な範囲に外堀(遠堀)が巡らされていた。現在でも、麓の水田地帯に、長さ330m、幅8mに及ぶ外堀の遺構が蓮田として残っており、往時の城の壮大な規模を偲ばせている 12 。この外郭部の存在が、国峯城を単なる山城ではなく、領域支配の拠点としての機能を持つ大城郭たらしめていた。
2.4 築城術の考察:上杉流と武田流の影響
国峯城の複雑な縄張りは、一人の人物や一つの思想によって設計されたものではなく、長い歴史の中で、異なる築城術の影響を受けながら改修が繰り返された結果と考えるのが妥当である。
- 初期(上杉方)の縄張り: 城の基本的な構造、特に斜面の移動を阻害するために竪堀を多用する手法は、杉山城(埼玉県嵐山町)など、他の山内上杉氏やその配下の国衆が築いた城郭にも共通して見られる特徴である 30 。このことから、国峯城の原型は、上杉氏の勢力下にあった時代に形成されたと考えられる。
- 後期(武田方)の改修の可能性: 永禄4年(1561年)以降、国峯城は武田信玄による西上野攻略の最重要拠点として、約20年間にわたり武田氏の支配下に置かれた 12 。武田流築城術の代名詞である「丸馬出(まるうまだし)」のような明確な遺構は現存しないものの、岩盤を断ち切るほどに壮大で徹底した堀切の造成や、山全体を容赦なく要塞化する思想には、武田氏の軍事拠点として整備される中で、より戦闘的に、より堅固に改修された痕跡が見て取れる。特に、攻略目標であった難攻不落の箕輪城 33 を強く意識し、その防御力を上回るための改修が加えられた可能性は高い。
このように、国峯城の遺構は、上杉方の伝統的な築城術をベースとしながら、武田氏による軍事合理主義に基づいた改修が加えられた、「積層的防衛思想」の物証なのである。
【表2:上野国主要山城の構造比較】
城名 |
主要城主(最盛期) |
立地・分類 |
縄張りの特徴(堀切、竪堀、馬出、石垣など) |
戦略的役割 |
国峯城 |
小幡氏 → 武田氏 |
複合型(山城・丘城・平城) |
多数の堀切・竪堀、連郭式の山城部、広大な外郭。 |
武田氏の西上野侵攻拠点、対箕輪城の最前線。 |
箕輪城 33 |
長野氏 → 武田氏 |
平山城 |
巨大な堀切、郭馬出、複雑な曲輪配置。井伊氏時代に一部石垣化。 |
上杉方の西上野最大拠点、対武田の防波堤。 |
平井城 7 |
山内上杉氏 |
平城(詰城:平井金山城) |
広大な平地の郭群、鮎川を天然の堀とする。北条氏改修で障子堀か。 |
関東管領の本拠地(政治的中心)。 |
第三章:戦国動乱における国峯城 ― 合戦と戦略
国峯城の運命は、城主・小幡氏の動向のみならず、常に関東全体のより大きな戦略の中に位置づけられていた。城を巡る合戦は、常に大名たちの覇権争いの縮図であった。
3.1 武田信玄の西上野侵攻と国峯城
- 戦略的価値: 信濃をほぼ手中に収めた武田信玄が次なる目標として上野国に目を向けた際、その進路上に立ちはだかったのが、上杉方国衆の最大拠点・箕輪城であった。信玄にとって、西上野の有力国衆である小幡氏を味方に引き入れ、その本拠地・国峯城を拠点化することは、難攻不落の箕輪城を攻略するための絶対条件であった 18 。地図を見れば明らかなように、国峯城は箕輪城の南西に位置し、その背後を脅かし、補給路を断つことができる絶好の戦略拠点だったのである。
- 国峯城争奪戦: この戦略的重要性ゆえに、国峯城は武田・上杉双方にとって譲れない場所となった。永禄3年(1560年)、親上杉派の小幡景定が城を乗っ取った事件は、この争奪戦の始まりを告げるものであった 18 。これに対し信玄は、翌永禄4年(1561年)11月、満を持して大軍を西上野に進出させ、国峯城を攻略。小幡信実を城主に復帰させた 15 。この国峯城奪還は、武田氏が西上野における主導権を確立し、箕輪城を孤立させる上で決定的な転換点となった。
- 拠点としての役割: 信玄の手に落ちた国峯城は、以後、武田軍の兵站基地として、また対箕輪城、さらには関東へ進出する際の対北条氏の最前線拠点として、その真価を発揮することになる 12 。小幡氏の菩提寺である長年寺に残された古文書(長年寺文書)には、武田信玄が小幡の地に出陣した際の制札(禁制)が残されており、この地が信玄自身の軍事行動の中心地の一つであったことを物語っている 20 。
3.2 天正壬午の乱から小田原征伐へ
- 権力の空白地帯にて: 天正10年(1582年)の武田氏滅亡と本能寺の変は、上野国に再び激しい動乱をもたらした。織田、北条、上杉、そして徳川の各勢力が、主を失った旧武田領を巡って争う「天正壬午の乱」が勃発したのである 10 。この混乱の中、小幡氏は北条氏に属し、国峯城は北条氏の広域防衛網の一翼を担うことになった。特に、北に位置する上杉・真田勢力に対する重要な抑えの拠点として機能したと考えられる 10 。
- 天正18年(1590年)の落城: 天下統一を進める豊臣秀吉と、関東に覇を唱える北条氏との対立が避けられなくなると、秀吉は20万を超える大軍を動員し、小田原征伐を開始した。この国家規模の戦争において、国峯城のような支城の運命は、大局的な戦略の中で決定づけられた。北国方面から進軍してきた前田利家・上杉景勝らの大軍は、上野国内の北条方の諸城を次々と攻略していった 24 。
- この時、城主である小幡信定は主君の命令により小田原城に籠城しており、国峯城には子の信秀が少数の兵と共に残るのみであった 12 。豊臣軍の一部隊である上杉家臣・藤田信吉らが国峯城に迫ると、主力を欠いた城に長く持ちこたえる力はなく、落城した 12 。この際の戦闘の規模について詳細な記録は少ないが、大規模な籠城戦が行われたというよりは、戦わずして降伏したか、あるいは短期間の戦闘で決着がついた可能性が示唆されている 39 。
- 廃城: 小田原征伐が終わり、北条氏が滅亡すると、関東には徳川家康が入封した。新たな支配体制が構築される中で、国峯城はかつての戦略的重要性を完全に失い、歴史の表舞台から姿を消し、廃城となった 12 。城の軍事史は、城主の武勇や城自体の堅固さ以上に、関東全体の戦略地図の中でどのような「駒」として位置づけられていたかによって、その運命が左右されたことを示している。
終章:国峯城の歴史的価値と現代における意義
戦国時代の終焉とともに廃城となった国峯城は、現在、その歴史的価値を静かに後世に伝える史跡として存在している。城跡に残された遺構と、麓の資料館に収められた遺物は、戦国時代の「軍事技術」と「社会変動」という二つの側面を同時に我々に語りかける、貴重な複合遺産である。
4.1 史跡としての現状と保存
国峯城跡は、その歴史的重要性が認められ、昭和47年(1972年)9月6日に甘楽町の史跡に指定されている 28 。現在も、特に山城部には、往時の姿を色濃く残す遺構が良好な状態で保存されている。曲輪の削平状態、土塁の形状、そして何よりも見る者を圧倒する無数の堀切群や竪堀は、戦国時代末期の山城のリアリティを体感できる第一級の史跡である 14 。
麓の集落から中腹の御殿平までは未舗装の林道が通じているが、道幅が狭く、通行には注意が必要である 15 。御殿平から山頂の主郭までは登山道が整備されており、約30分ほどで到達できる 15 。ただし、急な斜面や落ち葉で滑りやすい箇所もあるため、見学には登山に適した服装としっかりとした靴が強く推奨される 15 。現地には詳細な案内板などが少ないものの、遺構の保存状態は極めて良好であり、多くの城郭愛好家から「見応えのある山城」として高い評価を得ている 15 。
4.2 甘楽町歴史民俗資料館と小幡氏の遺産
国峯城の物理的な遺構が戦国時代の「ハードウェア」であるとすれば、その「ソフトウェア」、すなわち城主であった小幡氏の物語を伝えるのが、甘楽町歴史民俗資料館に収蔵されている数々の遺産である 41 。大正時代に建てられたレンガ造りの繭倉庫を再利用した趣のあるこの資料館には、小幡氏ゆかりの貴重な文化財が展示されている。
その中でも白眉と言えるのが、「小幡氏紋付赤備具足」(町指定重要文化財)である 43 。朱色に染め上げられたこの甲冑は、武田軍の精鋭部隊として戦場を駆け巡った小幡氏の栄光を今に伝える、極めて貴重な実物資料である。特に、胴の背面が丸みを帯びた形状は、乗馬での活動に特化して作られた珍しい様式であり、騎馬軍団を率いた小幡氏ならではの特徴を示している 47 。天正18年(1590年)の国峯城落城後、小幡氏の主だった人々は信州へ去ったため、この地に残された赤備えの具足は希少価値が非常に高い 43 。
この他にも、館内には武田信玄が発給したとされる朱印状なども展示されており 41 、小幡氏と武田氏の密接な関係性を裏付けている。これらの遺物は、国峯城と小幡氏が単なる一地方の歴史に留まらず、日本の戦国史という大きな物語の中で、確かに重要な役割を果たした存在であったことを雄弁に物語っている。
国峯城跡に残る壮大な土木遺構は、当時の最先端の軍事技術と思想の結晶である。一方で、資料館に展示される赤備えの具足や古文書は、小幡氏という一族がいかにして大勢力に取り込まれ、その中で自らの存在価値を示し、そして激動の時代を生き抜いたかという社会の変動を伝える。山を歩き、自らの足で遺構の険しさを体感し、そして資料館で彼らが身にまとった甲冑を目の当たりにすること。その両方を体験して初めて、国峯城という歴史遺産の持つ重層的な価値を深く理解することができるのである。
引用文献
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- 『加沢記』からみた戦国時代沼田地方の政治情勢 - 高崎経済大学 http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/54_2/tomizawasato.pdf
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- 国峰城 - お城散歩 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-1009.html
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