坂戸城は越後の要衝。上田長尾氏の拠点として発展し、上杉景勝の生誕地。御館の乱では北条軍の侵攻を豪雪と畝状竪堀群で阻止し、景勝勝利の礎となる。現在は国史跡としてその歴史を伝える。
越後国、現在の新潟県南魚沼市にその威容を今に伝える坂戸城。この城は、単に上杉景勝の生誕地として語られることが多いが、その歴史的本質はより深く、多層的である。坂戸城は、越後の国境線を規定し、上杉氏の、ひいては戦国後期の東日本の勢力図を左右した、極めて重要な戦略拠点であった。本報告書は、この忘れられた巨城の真価を、歴史、軍事、そして城郭構造の観点から解き明かすことを目的とする。
坂戸城の価値は、三つの核心的な側面に集約される。第一に、 上杉景勝の権力基盤 としての役割である。ここは景勝と、その生涯の盟友である直江兼続を生み育んだ「揺り籠」であり、景勝の権力の中核を成した精鋭家臣団「上田衆」が結束した精神的支柱であった 1 。第二に、
歴史の転換点 としての機能である。上杉家の家督を巡る内乱「御館の乱」において、関東からの北条氏の大軍の介入を阻止する「防波堤」となり、景勝を勝利へと導いた。この城の防衛なくして、景勝の越後統一はあり得なかった 1 。第三に、
城郭史の縮図 としての価値である。戦国期山城の防御思想の極致を示す構造と、その後の堀氏による改修に見られる近世城郭への過渡期の姿を併せ持つ、まさに「生きた見本」としての比類なき考古学的価値を秘めている 4 。
本報告書は、これらの側面を詳細に分析し、坂戸城が単なる一地方の山城ではなく、戦国という時代のダイナミズムの中で決定的な役割を果たした戦略的要塞であったことを論証するものである。
戦国時代の城の価値は、その地理的条件によって大きく規定される。坂戸城は、軍事、交通、経済の三要素が奇跡的に融合した、越後国でも随一の戦略的要地に位置していた。
坂戸城の最大の価値は、関東と越後を結ぶ大動脈、三国街道を見下ろす交通の結節点に築かれていたことにある 4 。魚野川の東岸にそびえる坂戸山(標高634メートル)は、この街道を完全にその支配下に置くことを可能にした 7 。これは平時において、人や物資の流れ、すなわち物流を掌握し、経済的利益を得ることを意味した。そして有事においては、関東からの敵軍の侵攻ルートを遮断し、越後国の防衛線における最大の関門となることを意味した。
さらに、坂戸山そのものが天然の要害を形成していた。魚野川と三国川の合流点に向かって半島状に突き出した地形は、北・東・西の三方を急峻な崖に囲まれている 8 。特に西側を流れる魚野川は、水量が多く流れの速い自然の外堀として機能し、敵の接近を容易に許さなかった 2 。このような地形は、大規模な土木工事をせずとも、最小限の労力で最大限の防御効果を発揮できる理想的な築城地であった。
坂戸城の重要性は、軍事・交通面に留まらない。この地域は、当時越後随一の銀産出量を誇ったとされる上田銀山の存在によって、経済的にも極めて重要であった 9 。坂戸城は、この銀山を直接管理・防衛する拠点であり、ここで産出される銀は、上田長尾氏、ひいては上杉氏全体の財政基盤を強力に支えていたと考えられる。
戦国時代において、銀は軍資金そのものであった。兵糧や鉄砲、弾薬の購入、さらには外交工作や朝廷への献金など、銀の保有量は国力に直結した。坂戸城が交通の要衝であると同時に、経済の源泉たる銀山を抑える拠点であったという事実は、この城の支配者が単なる一国人領主ではなく、越後国内で独自の政治力と軍事力を保持し得た背景を雄弁に物語っている。
坂戸城の価値は、単一の機能によってではなく、「交通」「地形」「経済」という三つの要素が複合的に絡み合うことで生まれる、地域の支配権そのものを象徴する戦略拠点であった。三国街道の支配は、関東からの軍事的脅威や政治的情報をいち早く入手し、常に先手を打つことを可能にする。上田銀山の支配は、戦時における兵站の維持や外交を有利に進めるための資金源となる。この城を失うことは、単に一つの城を失うのではなく、越後南部における軍事・経済・情報の主導権を全て失うことを意味したのであり、これこそが、後の歴史において坂戸城が決定的な役割を果たすことになる根本的な理由であった。
坂戸城が歴史の表舞台で重要な役割を果たすのは、上田長尾氏の拠点となってからである。ここでは、築城から上杉景勝の登場までの、城と城主たちの歩みを追う。
表1:坂戸城関連年表
西暦 |
和暦 |
出来事 |
関連人物 |
1352-1355年頃 |
文和年間 |
長尾氏が上田荘に入り、坂戸城を本格的な居城とする |
長尾高景 |
1512年 |
永正9年 |
坂戸城の大規模な築城が行われる |
長尾房長 |
1550-1551年 |
天文19-20年 |
「坂戸城の戦い」。長尾政景が長尾景虎(上杉謙信)と対立するも降伏 |
長尾政景、長尾景虎 |
1564年 |
永禄7年 |
長尾政景が野尻池で溺死 |
長尾政景 |
1575年 |
天正3年 |
卯松(後の上杉景勝)が謙信の養子となり春日山城へ入る |
上杉景勝、上杉謙信 |
1578年 |
天正6年 |
「御館の乱」勃発。坂戸城は景勝方の最重要拠点となる |
上杉景勝、上杉景虎 |
1578-1579年 |
天正6-7年 |
北条軍の侵攻を坂戸城で阻止。景勝勝利の大きな要因となる |
上田衆、北条氏照 |
1598年 |
慶長3年 |
上杉景勝の会津移封に伴い、堀直寄が入城 |
上杉景勝、堀直寄 |
1610年 |
慶長15年 |
堀直寄が信濃国飯山へ移封され、坂戸城は廃城となる |
堀直寄 |
1979年 |
昭和54年 |
国の史跡に指定される |
- |
坂戸城の築城時期については諸説あり、鎌倉時代にこの地を支配した新田氏の一族が砦を築いたのが始まりとも、南北朝時代の動乱期に本格的な城郭として整備されたともいわれる 5 。確実なのは、南北朝時代に越後守護となった上杉氏の家臣、長尾氏の一族(上田長尾氏)が上田荘を領し、この坂戸山を拠点として支配を確立したことである 8 。
その後、戦国時代に入り、永正9年(1512年)に長尾房長(景勝の祖父)によって大規模な築城が行われた記録が残っている 7 。この時に、坂戸山全体を要塞化する、現在見られるような巨大山城の基礎が築かれたと考えられる。
坂戸城の歴史を語る上で欠かせない人物が、房長の子・長尾政景である。彼は、越後守護代の家督を継いだ長尾景虎(後の上杉謙信)に対し、当初は反抗的な姿勢を示した。政景は景虎の兄・晴景を支持しており、景虎の家督相続に不満を抱いていたのである 11 。
この対立は、天文19年(1550年)から翌年にかけての「坂戸城の戦い」で頂点に達する。景虎は軍を率いて坂戸城に迫るが、大規模な攻城戦が行われたという記録はなく、政景が誓詞を提出して降伏するという形で決着した 11 。この比較的穏便な結末の背景には、極めて重要な人間関係が存在した。政景の妻は、景虎の実姉である仙桃院だったのである 4 。
この婚姻関係は、単なる政略結婚を超え、坂戸城と上田長尾氏の運命を決定づける「安全保障条約」として機能した。もしこの血縁がなければ、謀反を起こした有力国人である政景は許されず、一族もろとも滅ぼされていた可能性が高い。そうなれば、その子である景勝も歴史の表舞台に登場することはなかったであろう。仙桃院の存在によって、政景は赦され、上杉家中の敵対勢力から、謙信が関東出兵の際に春日山城の留守居役を任せるほどの最有力重臣へと立場を変えることができた 14 。坂戸城の戦略的重要性が、武力だけでなく、婚姻という外交手段によって維持・強化されたのである。
順風満帆に見えた政景の人生は、永禄7年(1564年)に突如として終わりを告げる。舟遊びの最中に野尻池(現在の南魚沼市)で溺死するという謎の死を遂げたのである 10 。この死については、謙信による謀殺説も根強く囁かれているが、真相は定かではない。
父の死後、遺児である卯松(後の上杉景勝)は、叔父である謙信の養子として迎えられ、春日山城へと移った 10 。この時、景勝を支え、彼の親衛隊となるべく、坂戸城の精鋭家臣団の中から50人が選抜された。これが、後に上杉軍最強と謳われる「上田五十騎」である 2 。彼らは坂戸城で生まれ育った者たちの結束の象徴であり、景勝が新たな環境で生き抜き、やがて越後の国主となるための、最も強固な権力基盤となった。坂戸城は、景勝という人物を世に送り出すと共に、彼を支える人間集団をも形成したのである。
天正6年(1578年)、上杉謙信の急死は、越後国を二分する未曾有の内乱「御館の乱」を引き起こした。この戦いにおいて、坂戸城は景勝方の存亡を懸けた最重要拠点として、その真価を最大限に発揮することになる。
謙信は生涯実子を持たず、二人の養子を後継者候補としていた。一人は、姉・仙桃院の子であり、坂戸城で生まれ育った上杉景勝。もう一人は、関東の雄・北条氏康の子で、越相同盟の証として人質として送られてきた上杉景虎である 16 。謙信が後継者を明確に定めぬまま世を去ったため、この二人の間で凄絶な家督争いが勃発した 7 。
景勝にとって、坂戸城は単なる生誕地ではなかった。そこは彼を支持する中核的家臣団「上田衆」の本拠地であり、彼の権力基盤そのものであった 1 。乱が始まると同時に、坂戸城は景勝方の軍事・兵站を支える最大の拠点となった。
景虎の最大の強みは、実家である北条氏からの強力な軍事支援が期待できることであった。案の定、乱が本格化すると、北条氏照・氏邦を大将とする数千の大軍が、三国峠を越えて越後への侵攻を開始した 16 。景勝方はこの動きを予測し、国境沿いの荒戸城や樺野沢城、そして最終防衛ラインである坂戸城の守りを固めるよう命じていた 7 。
しかし、北条軍の勢いは凄まじく、前線の樺野沢城は瞬く間に攻略されてしまう 16 。坂戸城からわずか8キロメートルほどの距離にある拠点が陥落したことで、北条軍の脅威は直接坂戸城に迫ることとなった。
この時、坂戸城を守る上田衆の兵力は約5百。対する北条軍は約5千と、実に10倍もの兵力差があったとされる 16 。絶望的な状況下で、上田衆は徹底した籠城戦術を選択する。まず、麓の居館地区に火を放って焼き払い、敵に利用されることを防いだ上で、全軍が険しい山城へと立て籠もった 16 。
坂戸城の複雑な地形と堅固な縄張りは、大軍である北条軍の利点を殺いだ。上田衆は地の利を最大限に活かしたゲリラ的な戦法で抵抗し、北条軍に多大な消耗を強いた。しかし、彼らが真に待ち望んでいたのは、戦況を一変させる越後ならではの「援軍」であった。それは、天から降る「豪雪」である 16 。
この籠城戦は、単なる受動的な防衛ではなかった。守備側は、冬の到来という気候変動を戦略計画に明確に織り込んでいた。彼らは、関東の兵が雪国の戦いに不慣れであることを熟知しており、豪雪が始まれば敵の進軍も兵站も麻痺することを見越して、時間を稼ぐための持久戦を展開していたのである。
11月も中頃を過ぎ、ついに冬将軍が到来する。降りしきる雪は、北条軍の動きを完全に封じ込めた。これ以上の作戦継続は不可能と判断した北条軍は、ついに越後からの撤退を余儀なくされた 16 。
坂戸城での防衛成功は、御館の乱の趨勢を決する決定的な転換点となった。景虎は最大の支援勢力を失い、急速に孤立していく。一方、背後の脅威が去った景勝は、春日山城周辺の戦線に全戦力を集中させることが可能となり、乱の主導権を完全に掌握した 1 。もし坂戸城が早期に陥落していれば、景勝は春日山城と北条軍に挟撃され、敗北は免れなかったであろう。
御館の乱における坂戸城の役割は、単なる「防衛成功」という言葉では言い表せない。それは、「時間」と「空間」を支配する高度な戦略の勝利であった。第一に、北条軍を国境で足止めし、景虎を孤立させるための**「時間」 を稼いだ。第二に、越後と関東を繋ぐ 「空間」 を封鎖し、敵の戦力を分断した。そして第三に、豪雪という 「自然現象」**を能動的な兵器として利用した。坂戸城の堅固な構造、上田衆の地理への習熟、そして気候への深い理解が一体となって成し遂げられたこの勝利がなければ、景勝の越後統一も、その後の豊臣政権下での五大老への道も、そして関ヶ原後に米沢藩として上杉家を存続させる未来もなかった。坂戸城の一戦が、その後数百年続く大名の運命を決定づけたのである。
御館の乱で示した圧倒的な防御力は、坂戸城の優れた縄張り、すなわち城郭の設計思想に裏打ちされている。坂戸城は、標高634メートルの坂戸山全体を要塞化した、戦国期大規模山城の典型であり、その構造は「多段階縦深防御」という思想を体現している。
表2:坂戸城の主要郭と推定機能一覧
郭の名称 |
位置 |
規模・特徴 |
主要遺構 |
推定される機能 |
実城(本丸) |
山頂最高所 |
比較的小規模な平坦地。眺望が良く、城全体を指揮できる |
櫓台跡、富士権現、石垣(東斜面) |
城の中枢。司令塔、最後の拠点 |
大城(詰の丸) |
実城から南東尾根先端 |
比較的大きな削平地。標高631m |
土塁、櫓台跡、堀切 |
南東方面からの攻撃に対する最終防衛ライン |
小城 |
実城と大城の中間 |
尾根上の小規模な郭 |
土塁、堀切 |
実城と大城を繋ぐ中継拠点 |
主水郭 |
実城から北へ延びる尾根 |
複数の段状の郭 |
堀切、削平地 |
北方面の防御拠点、兵員の駐屯地 |
桃之木平(上屋敷) |
主水郭の下方 |
東西30m、南北120mの広大な平坦地 |
削平地 |
大規模な兵員の駐屯地、兵糧・武具の備蓄基地 |
西の丸 |
実城から南西へ延びる尾根 |
標高約500m地点 |
畝状竪堀群 |
西側斜面からの攻撃に対する防御拠点 |
御館(居館) |
西麓緩斜面 |
東西110m、南北80m。土塁と石垣で囲まれる |
石垣、土塁、井戸跡 |
平時の城主の居館、政務の中心地 |
御居間屋敷(中屋敷) |
御館と山上部の中間 |
東西40m、南北50m |
削平地 |
麓と山上を繋ぐ中継拠点、非常時の第一防衛線 |
家臣屋敷跡 |
御館の前面 |
広範囲に広がる屋敷跡 |
- |
家臣団の居住区 |
坂戸城の縄張りは、大きく分けて山頂部の戦闘区域と、山麓の居住・政務区域から構成される 4 。これは、平時の生活や統治の利便性を確保しつつ、有事には険しい山上に籠城して徹底抗戦するという、戦国山城の典型的な構造である。敵はまず麓の内堀や家臣屋敷群を突破し、次に防御拠点である「御館」「御居間屋敷」を攻略し、さらに急峻な登山道を登って、山上部の複雑な郭群と無数の堀切に直面することになる。この多層的な防御ラインは、敵の戦力を段階的に削ぎ落とし、時間を浪費させることを意図した、極めて合理的な設計であった。
坂戸城の縄張りで最も注目すべきは、山頂から南西に延びる尾根の斜面に築かれた、100基以上にも及ぶ「畝状竪堀群」である 4 。竪堀とは、山の斜面に対して垂直に掘られた空堀で、敵兵が斜面を横方向に移動することを妨害する目的で造られる 19 。
坂戸城のこの大規模な竪堀群は、斜面全体を「通行不能区域」と、防御側が攻撃を集中できる「強制的な突撃路(キルゾーン)」に分割する、極めて高度な防御施設であった。これにより、防御側はたとえ少人数であっても、敵の大軍が特定の場所に集中するのを防ぎ、各個撃破することが可能になる。このような大規模な防御施設は、小規模な国人同士の争いではなく、御館の乱で侵攻してきた北条軍のような、数千人単位の大軍による総攻撃を明確に想定して設計されたものと考えられる。坂戸城の縄張りは、この城が直面した軍事的現実を、今なお雄弁に物語っているのである。
御館の乱を乗り越え、景勝の越後統一を支えた坂戸城であったが、時代の大きなうねりの中で、その役割を大きく変える時が訪れる。慶長3年(1598年)、上杉景勝が豊臣秀吉の命により会津へ移封されると、越後の新たな領主として堀秀治が入国。坂戸城には、秀治の家臣である堀直寄が3万石で城主として入った 4 。
表3:上杉時代と堀氏時代の城郭機能比較
比較項目 |
上杉時代(戦国期) |
堀氏時代(近世移行期) |
主要拠点 |
山上の「実城」を中心とした戦闘区域 |
山麓の「御館」を中心とした政務・居住区域 |
主目的 |
軍事的防衛、籠城拠点 |
領国統治、権威の象徴 |
主要な防御技術 |
土塁、堀切、畝状竪堀群 |
高石垣、館城形式 |
城の性格 |
「戦うための道具」 |
「統治するための舞台装置」 |
城と城下の関係 |
城と城下が一体となった要塞 |
支配の拠点としての城と、経済都市としての城下 |
堀直寄は、豊臣秀吉の小姓を務めた経験を持ち、中央の政局にも通じた有能な武将であった 20 。関ヶ原の戦いに際して越後で発生した上杉旧臣による一揆を鎮圧した功績で、徳川家康からも高く評価されている 20 。彼のような新時代の武将にとって、坂戸城は新たな統治の拠点として、その姿を変える必要があった。
堀氏の時代に入ると、城の機能の中心は、戦いのための山上の要塞から、平時の統治を行うための山麓の居館へと明確に移行した 4 。これは、大規模な戦乱の時代が終わりを告げ、城の役割が軍事拠点から行政拠点、そして領主の権威を象徴する場へと変化していった時代の流れを反映している。
この変化を最も象徴するのが、山麓の「御館」に築かれた壮麗な石垣である 3 。現在も高さ2メートルほどの石垣が良好な状態で残っているが、これは中世的な土塁と空堀を主とした「土の城」から、近世的な「石の城」へと転換する過渡期の姿を示す貴重な遺構である 5 。この石垣は、純粋な軍事的防御力以上に、新たな支配者である堀氏の権威と財力を領民や他の武将に見せつけるための、政治的なシンボルとしての意味合いが強かった。山上の要塞は領民の目に触れる機会が少ないが、麓の立派な館と石垣は、日々の生活の中で常に目に映る。城の重心を山から麓へ移す行為そのものが、支配のあり方を「威圧」から「可視化された権威」へと変える、巧みな統治術だったのである。
坂戸城の改修は、堀氏による越後統治政策の一環であった。直寄は後に蔵王堂城(現在の長岡市)へ拠点を移し、信濃川の水害を避けるために新たな平城として長岡城の築城を計画するなど、常に領国経営全体の視点から拠点の最適化を図っていた 17 。坂戸城の機能を山麓に集中させたのも、統治の効率性を高めるための合理的な判断であった。
堀氏による改修は、坂戸城を戦国時代の軍事思想から解放し、近世大名の統治拠点へと生まれ変わらせるための事業であった。この改修によって、坂戸城は一つの城跡の中に「戦国」と「近世」という二つの異なる時代の思想が同居する、極めて貴重な歴史遺産となったのである。
戦国の世を駆け抜け、近世への扉を開いた坂戸城であったが、その歴史は慶長15年(1610年)に終わりを告げる。城主であった堀直寄が、信濃国飯山へ移封されたことに伴い、坂戸城はその役目を終え、廃城となった 4 。
坂戸城の廃城は、いくつかの要因が複合的に絡み合った結果であった。直接的なきっかけは城主の移封であるが、その背景には、堀氏一族の内紛 10 や、より統治に便利な平城へと拠点を集約していく時代の大きな流れがあった。実際、直寄は坂戸城を去った後、越後の中心地に近世城郭である長岡城を築き、新たな統治の拠点としている 23 。
御館の乱では無類の強さを誇った急峻な山城という特性は、平和な統治の時代においては、逆に政治・経済活動を行う上での不便さという欠点となった。城の運命は、その構造的長所が、時代の要請と合致するかどうかで決まるという普遍的な法則を、坂戸城の歴史は示している。その「軍事的特化性」ゆえに時代の変化に対応できなくなり、歴史の舞台から姿を消すことになったのである。
廃城後、坂戸城は歴史の中に埋もれていったが、その存在が完全に忘れ去られることはなかった。幕末には、麓の石垣の一部が魚野川の護岸工事のために転用されたという記録もあり、地域の中でその記憶は生き続けていた 24 。
昭和に入り、その歴史的価値が再評価されると、昭和29年(1954年)に新潟県の史跡に、そして昭和54年(1979年)には国の史跡に指定され、公的にその重要性が認められた 4 。平成以降は、南魚沼市によって登山道の整備や、内堀、そして堀氏時代に築かれた居館跡の石垣の復元・修復事業が継続的に行われている 24 。
かつて廃城の原因となった「不便さ」、すなわち近代的な開発から免れた立地であったことが、数百年後には戦国末期の山城の縄張りを奇跡的に良好な状態で保存する要因となった。これは歴史の皮肉とも言えるが、そのおかげで坂戸城は現在、歴史遺産として保護されるだけでなく、多くの市民が訪れる憩いの場や、地域の歴史を学ぶ貴重な教材として活用されている 4 。
坂戸城跡の発掘調査で出土した陶磁器などの遺物は、南魚沼市歴史民俗資料館に展示されており、当時の人々の生活を垣間見ることができる 26 。また、城跡周辺には、直江兼続の生家をイメージした「直江兼続公伝世館」 27 や、景勝と兼続が幼少期に学んだと伝わる「雲洞庵」 27 など、ゆかりの史跡が点在している。これらは、坂戸城を中心とした歴史的環境が、地域全体で大切に保存・活用されていることを示している。
坂戸城は、越後の山中に静かに佇む単なる城跡ではない。それは、戦国という激動の時代に決定的な役割を果たし、日本の歴史に確かな足跡を刻んだ、偉大な要塞である。
その最大の功績は、上杉景勝という武将を世に送り出し、彼の最も困難な時期を支え抜いたことにある。御館の乱において、坂戸城が北条氏の大軍を食い止めるという奇跡的な防衛を成し遂げなければ、景勝の勝利はなく、その後の上杉家の歴史も、関ヶ原を経て成立する米沢藩も存在しなかったであろう。坂戸城は、一つの家の運命を、ひいては日本の歴史の潮流を変えたのである。
考古学的にも、坂戸城の価値は計り知れない。中世山城の防御思想の集大成ともいえる、土塁と堀切を駆使した複雑な縄張り。特に、100基以上にも及ぶ大規模な畝状竪堀群は、日本の城郭史上でも特筆すべき遺構である。それと同時に、堀氏によって築かれた山麓の石垣は、城の機能が軍事から統治へと移行する近世の萌芽を明確に示している。一つの城跡に、戦国と近世という二つの時代の思想が共存する坂戸城は、城郭の変遷を学ぶ上で極めて貴重な「複合遺跡」と言える。
今日、坂戸城跡を訪れる者は、急峻な山道を登りながら、かつてこの地で繰り広げられた攻防の激しさに思いを馳せることができる。山頂から魚野川の流れと六日町の街並みを眺めれば、この城がなぜこれほどまでに重要であったかを肌で感じることができるであろう。坂戸城は、過去の遺物ではない。地域の歴史と自然を体感させ、先人たちの知恵と闘いの記憶を未来へと語り継ぐ、「歴史の証人」として、今なお力強く生き続けているのである。