戦国期、大隅の垂水城は伊地知氏が島津氏に抗した要衝。小濱の戦いと禰寝氏離反で伊地知氏は降伏、開城。江戸期に林之城へ機能移転し、一国一城令で廃城。地域の変遷を物語る。
本報告書は、鹿児島県垂水市に存在した「垂水城」について、特に戦国時代という時代区分を主軸に据え、その歴史的実像を多角的に解明することを目的とします。
調査を進めるにあたり、まず明確にすべき前提が存在します。垂水の地には、歴史上、性格を異にする二つの重要な城郭がありました。一つは、本報告書の中心主題である、戦国時代に伊地知氏が拠点とし、島津氏への抵抗の舞台となった中世山城としての「垂水城」です。この城は、現在ではその遺構をほとんど留めていません 1 。もう一つは、江戸時代に入り、垂水島津家が新たな統治拠点として築いた「林之城(はやしのじょう)」、後にお仮屋(かりや)とも呼ばれた政治的中心地です 2 。現存する「お長屋」や石垣といった貴重な遺構は、後者である林之城のものです 4 。
これら二つの城郭は、しばしば混同されて語られることがありますが、その成立背景、機能、そして歴史的役割は全く異なります。本報告書では、ユーザーの関心対象である戦国期の軍事拠点「垂水城」に焦点を当て、その起源から終焉までを徹底的に追跡します。林之城については、垂水城の歴史的変遷と、この地域の支配体制の移行を理解する上で不可欠な後継拠点として、関連付けて論じることとします。なお、分析の精度を確保するため、鹿児島県垂水市以外の同名の城に関する情報 6 は、本考察の対象から明確に除外します。
この峻別の上に立ち、垂水城が南九州の戦国史において果たした役割を、城主であった伊地知氏の動向、そして対峙した島津氏の三州統一事業という大きな文脈の中に位置づけて解き明かしていきます。
本編に先立ち、垂水城を巡る歴史的出来事の全体像を把握するため、以下の年表を提示します。これは、各章で詳述される個々の事象を時系列の中に正確に位置づけ、読者の理解を助けるための道標となるものです。
年代(和暦/西暦) |
主な出来事 |
関係勢力 |
典拠/備考 |
保安元年 (1120) |
藤原舜清が垂水城を築いたとの伝承が残る。 |
藤原氏 |
10 |
応永19年 (1412) |
伊地知季豊(季随の孫)が大隅国下大隅の領主となる。 |
伊地知氏、島津氏 |
12 |
元亀2年 (1571) |
肝付・伊地知・禰寝連合軍が水軍で鹿児島湾に侵攻。 |
肝付氏、伊地知氏、禰寝氏、島津氏 |
12 |
元亀3年 (1572) |
小濱の戦い 。島津軍の陸海からの攻撃により、垂水城の支城・小濱塁が陥落。 |
伊地知氏、島津氏 |
12 |
元亀4年 (1573) |
禰寝重長が島津氏の調略に応じ降伏。反島津連合が瓦解し始める。 |
禰寝氏、島津氏 |
12 |
天正2年 (1574) |
垂水城開城 。伊地知重興が島津氏に降伏。大隅平定が完了する。 |
伊地知氏、島津氏、肝付氏 |
12 |
天正8年 (1580) |
伊地知重興、死去。 |
伊地知氏 |
15 |
慶長4年 (1599) |
島津以久(義弘の子)が垂水領主となり、垂水城を居城とする。 |
垂水島津家 |
1 |
慶長16年 (1611) |
垂水島津家四代・久信が 林之城を築城 し、居城を移転。 |
垂水島津家 |
2 |
元和元年 (1615) |
幕府の 一国一城令 により、垂水城は実質的に廃城となる。 |
江戸幕府、薩摩藩 |
16 |
本章では、垂水城が築かれた地理的・歴史的背景と、その歴史の主役であった伊地知氏の出自を深く掘り下げます。伊地知氏が単なる大隅の一豪族ではなく、島津氏と古くから複雑な因縁を持つ名門であったことを明らかにすることは、戦国期における彼らの動向を理解する上で不可欠です。
垂水城の歴史は、その地名の由来と密接に結びついています。城が築かれた丘陵の崖下からは清水が湧き出し、岩層から水が滴り落ちる(垂水)様子が、そのまま地名になったと伝えられています 10 。この伝承は、城が生命線である水源を確保した天然の要害であったことを示唆しており、築城の地として選ばれた地理的優位性を物語っています。
築城に関する最も古い記録は、平安時代末期の保安元年(1120年)にまで遡ります。豊前国の宇佐八幡宮から下向した藤原上総介舜清が、この地に最初の城を築いたとされています 1 。この伝承の真偽はともかく、垂水の地が古くから大隅半島の交通と戦略の要衝として認識されていたことを示しています。
現存する遺構がないため、戦国期の垂水城の具体的な構造を詳述することは困難です 1 。しかし、同時代の中世山城の通例に倣えば、自然の地形を巧みに利用し、複数の郭(くるわ)や堀切(ほりきり)、土塁(どるい)などを配した堅固な防御施設を備えていたと考えられます。特に、鹿児島湾(錦江湾)に面し、桜島を挟んで薩摩半島と対峙するその立地は、海上交通の監視と、敵の海上からの侵攻に対する防衛拠点として、極めて高い戦略的価値を有していました。
垂水城の歴史を語る上で中心となる伊地知氏は、その出自を辿ると、桓武平氏の流れを汲む秩父氏を祖とする名門の一族です 18 。その名字の地は越前国伊知地(現在の福井県勝山市)にあり 12 、さらにその源流は鎌倉幕府の有力御家人であった畠山氏に繋がるという説も存在します 19 。
伊地知氏と、後に宿敵となる島津氏との関係は、戦国時代に始まったものではなく、南北朝時代にまで遡る深い因縁がありました。伊地知季随(すえみち)は、足利尊氏に仕える中で罪を得て投獄されますが、当時九州で勢力を拡大していた島津氏5代当主・島津貞久にその才を見出され、助け出されます。この恩義から、季随は島津氏の客将として仕えることになりました 12 。観応2年(1351年)、島津氏久が南朝方の菊池武光との戦いで大敗を喫した際、季随は氏久の身代わりとなって壮絶な戦死を遂げたと伝えられています。主君の命を救ったその功績は絶大であり、氏久はその死を悼み、季随の子孫に島津の姓を与えることを申し出たほどでした。しかし、嫡子の季弘は祖先伝来の伊地知の姓を重んじ、これを固辞したとされます 21 。
この故事は、伊地知氏が単なる島津氏の家臣ではなく、主家の危機を救った功臣として、特別な敬意を払われるべき存在であったことを示しています。この古き因縁と、一族が持つ誇りが、後の時代の彼らの行動に複雑な影響を与えることになります。
大隅国に伊地知氏が根を下ろしたのは、季随の孫にあたる伊地知季豊の代、応永19年(1412年)のことでした。季豊は島津氏から大隅国下大隅(現在の垂水市一帯)に領地を与えられ、この地を拠点としました 12 。以来、伊地知氏は垂水城を本拠として勢力を扶植し、大隅半島における有力な国人領主として成長していったのです。
彼らが島津氏と対峙するに至った背景には、単なる領土的野心だけではなく、かつては主家を救うほどの功績を立てた名門であるという自負と、戦国乱世の中で自立した大名として生き残ろうとする強い意志がありました。近隣の強大な勢力である肝付氏との連携は、島津氏の圧力を直接受ける伊地知氏にとって、現実的な生存戦略でした。この「古き因縁」と「自立への渇望」の相克こそが、垂水城を巡る戦いの根底に流れるテーマであり、後の降伏交渉においても、単なる敵対関係では割り切れない複雑な人間模様を生み出す要因となったのです。
本章では、島津氏による三州(薩摩・大隅・日向)統一事業が本格化する16世紀後半、垂水城が反島津勢力の重要な軍事拠点として、歴史の表舞台でどのような役割を果たしたのかを詳述します。この時期の戦いは、単なる陸上での領土争いにとどまらず、鹿児島湾の制海権を巡る戦略的な攻防であった点が極めて重要です。
薩摩国の統一をほぼ成し遂げた島津氏は、次なる目標として大隅国、そして日向国の平定に乗り出します。当時の大隅半島では、高山城を本拠とする肝付氏が最大の勢力を誇っていました。伊地知氏と、大隅半島南部の根占(ねじめ)を本拠とする禰寝氏は、この肝付氏と連携し、強大な反島津連合を形成していました 12 。
この三国同盟の結束は固く、特に垂水城主であった伊地知重興は、肝付氏の一門と姻戚関係を結ぶことで、同盟関係をより強固なものにしていました 12 。彼らは、島津氏の東進を阻むための防波堤として、互いに協力し合っていたのです。
この連合軍の特筆すべき点は、強力な水軍を擁していたことです。彼らはその機動力を活かし、元亀2年(1571年)には大船団を率いて鹿児島湾に侵攻し、島津氏の本拠地である鹿児島城下を直接攻撃するという大胆な作戦を展開しました 12 。この事実は、垂水城が単なる陸上の防御拠点ではなく、鹿児島湾を挟んで島津氏の中枢を常に脅かすことができる、極めて危険な海上攻撃基地であったことを示しています。島津氏にとって、垂水城の存在はまさに喉元に突きつけられた匕首(あいくち)であり、大隅平定を成し遂げるためには、何としても攻略しなければならない最重要目標でした。
再三にわたる海上からの脅威に直面した島津義久は、垂水城攻略を決断します。元亀3年(1572年)9月、義久は弟の島津歳久を総大将とする大軍を下大隅へと派遣しました 12 。
この時の島津軍の作戦は、極めて周到なものでした。陸路から垂水城に迫る本隊とは別に、義久自らが率いる部隊が海路を進み、陸海から挟撃する態勢を整えたのです 12 。攻撃目標は、垂水城の前面に位置し、その防衛線を担う支城・小濱塁(現在の垂水市海潟)でした。
小濱塁では、伊地知氏の家臣である伊地知美作守らが寡兵ながらも勇猛に戦いましたが、陸と海の両面から押し寄せる島津軍の圧倒的な物量の前に、衆寡敵せず、ついに陥落。守将の美作守は討ち死にを遂げました 12 。
この小濱の戦いの敗北は、伊地知氏にとって手痛い打撃となりました。それは単に一つの支城を失ったというだけでなく、島津氏の陸海共同作戦の前に、自分たちの海上からの防衛線が脆弱であることを露呈したからです。この戦いは、垂水城を巡る攻防の主導権が、反島津連合から島津氏へと大きく傾く転換点となったのです。島津氏にとってこの勝利は、背後の脅威を取り除くだけでなく、内海である鹿児島湾の制海権を完全に掌握し、物資や兵員の輸送路の安全を確保するための大きな一歩でした。戦国時代の鹿児島湾は、琉球や明との交易も行われる経済の大動脈であり 22 、その支配権は南九州の覇権を左右するほど重要な意味を持っていたのです。
小濱の戦いを経て軍事的優位を確立した島津氏は、力による制圧と並行して、巧みな調略と交渉によって反島津連合の切り崩しを図ります。本章では、連合が内部から瓦解し、伊地知重興が苦渋の決断を下すに至るまでの詳細な経緯と、その後の伊地知一族の運命を追跡します。
島津義久が次に打った手は、三国同盟の一角である禰寝氏への調略でした。元亀4年(1573年)、義久は禰寝重長に使者を送り、肝付氏との同盟を破棄して島津方に降るよう説得します。再三の説得と、島津氏の圧倒的な軍事力を前に、重長はついに降伏を決断しました 12 。
この禰寝氏の離反は、反島津連合にとって致命的な打撃となりました。かつての同盟者であった禰寝氏は、今や島津氏の先兵として、肝付・伊地知軍に牙を剥きます。島津氏の援軍を得た禰寝氏は、自領に攻め込んできた肝付軍を撃退するなど、戦局は完全に島津方優位に傾きました。内部から崩壊した連合軍は急速に力を失い、伊地知氏は孤立無援の状況に追い込まれていきました 12 。
度重なる戦いで消耗し、同盟者も失った伊地知・肝付両氏に対し、島津義久は降伏を勧告します。この重要な交渉の任に当たったのは、島津家の重臣・新納忠元でした 12 。
ここでの交渉過程は、戦国時代の武家社会における人的ネットワークの重要性を示す好例です。新納忠元の母と、肝付氏の一門である肝付兼純の母、そして浄光明寺の僧侶であった其阿西嶽(ごあせいがく)は、兄弟姉妹という深い縁がありました。さらに、伊地知重興も肝付氏と姻戚関係にあったため、新納忠元はこの複雑に絡み合った縁戚関係を巧みに利用し、其阿西嶽を仲介役として両氏の説得にあたらせたのです 12 。
もはや抵抗する力を失っていた伊地知重興は、この説得を受け入れ、天正2年(1574年)2月、ついに降伏を決断します。重興は、一族の存続を第一に考え、全ての所領を島津氏に差し出すという全面降伏の条件を飲みました。その証として、嫡男の伊地知重政が人質として島津氏の本拠地である鹿児島へ赴きました 12 。伊地知氏の降伏に続き、最後まで抵抗していた肝付兼亮も降伏。ここに島津氏による大隅国の平定事業は完了し、三州統一は大きく前進したのです 14 。
長年にわたり島津氏に抵抗した伊地知氏ですが、その処遇は決して過酷なものではありませんでした。当主の重興は、降伏の意を示すために剃髪しましたが、命は助けられ、旧領のうち下之城のみが返還されました 15 。その後、重興は島津氏の家臣として迎えられ、日向国の伊東氏攻めや、豊後の大友氏攻めなど、島津氏の戦役において数々の武功を挙げ、その武将としての能力を遺憾なく発揮しました 15 。
この処遇の背景には、戦国武将の極めて現実的な思考、すなわちプラグマティズムが存在します。島津氏にとって、敵将を処刑して恨みを残すよりも、その能力を評価し、味方として活用する方が、今後の領国経営において遥かに有益でした。一方、伊地知重興にとっても、降伏した以上は新たな主君のために忠誠を尽くして働くことこそが、滅亡の危機に瀕した伊地知「家」を存続させ、再興させる唯一の道でした。個人的な遺恨よりも一族の未来を優先する。この当主としての現実的な決断があったからこそ、伊地知氏はその血脈を後世に繋ぐことができたのです。
伊地知一族は、重興の子・重政、孫・重順と続き 25 、江戸時代を通じて薩摩藩士として存続しました 18 。そして明治維新後には、庶流から伊地知正治(伯爵)や伊地知幸介(男爵)といった勲功者を輩出し、華族に列せられるに至ります 18 。天正二年の垂水城開城における重興の決断が、結果として一族の永続に繋がったことは、歴史が証明しています。
ただし、降伏後の伊地知重興と禰寝重長が、鹿児島での宴会に招かれた後、不可解な死を遂げたという伝承も残されています 27 。これは、降伏した国人領主に対する島津氏の根強い警戒心や、覇者の非情さを示す逸話として興味深いものですが、確定的な史実とまでは言えません。このような異聞の存在は、この時代の主従関係が、単純な信頼関係だけでは成り立っていなかったことの証左とも言えるでしょう。
伊地知氏の降伏により、垂水城は軍事拠点としての緊張感に満ちた時代を終えました。戦国時代の終焉と共に、城はその役目を終え、新たな時代の統治拠点へとその機能が移転していくことになります。本章では、垂水城が歴史の表舞台から姿を消し、後継の林之城へと移行していく過程を描きます。
伊地知氏が開城した後、垂水の地は島津氏の直轄領となりました。そして文禄・慶長の役での功績により、豊臣秀吉から大隅国と日向国の一部を与えられた島津義弘は、慶長4年(1599年)、その所領の中から垂水を子の島津以久に与えました。以久は垂水城を居城とし、ここに島津宗家の一門家である「垂水島津家」が成立しました 1 。垂水城は、かつての敵対者の居城から、島津一門による支配の拠点へと、その性格を大きく変えたのです。
垂水島津家四代当主・久信の時代、慶長16年(1611年)に大きな転機が訪れます。久信は、戦国時代に築かれた山城である垂水城が手狭であり、平時の政務を行うには不便であると考え、新たな居城の建設に着手しました。こうして築かれたのが「林之城」です 11 。当時、建設地の周辺が山林原野であったことから、この名が付けられたと伝えられています 2 。久信は完成した林之城に家臣団と共に移り住み、垂水の政治の中心は、山上の垂水城から平地の林之城へと完全に移行しました 2 。
この拠点の移動は、単なる引っ越し以上の意味を持っていました。それは、城郭の機能が、防衛を主目的とする「軍事要塞」から、領地の経営や行政を効率的に行うための「政庁」へと大きくシフトしたことを象徴する出来事でした。戦乱の時代が終わり、統治の時代が始まったことを示す、明確な時代の転換点だったのです。
垂水城の歴史に最終的な終止符を打ったのは、江戸幕府による全国支配体制の確立でした。元和元年(1615年)、幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布します。これにより、薩摩藩内では藩主の居城である鶴丸城(鹿児島城)のみが正式な城として認められ、その他の城はすべて廃城、もしくは格下げされることになりました 16 。
この法令により、すでに実質的な機能を林之城に譲っていた垂水城は、名実ともに完全に廃城となり、その長い歴史に幕を下ろしました 11 。一方、新たな拠点であった林之城も、公式には「城」と名乗ることは許されず、「館(やかた)」あるいは「お仮屋(かりや)」と称されるようになります 2 。しかし、その実態は、薩摩藩独自の地方支配制度である「麓(ふもと)」の中核を成す、地域の行政、警察、軍事を司る重要な統治拠点であり、明治維新に至るまで約250年間にわたり、垂水地方の中心として機能し続けたのです 3 。
本報告書は、戦国時代の大隅国に存在した垂水城の歴史を、城主伊地知氏の動向と、島津氏の三州統一事業との関わりの中で考察してきました。最終章では、歴史の彼方に忘れ去られがちなこの城の歴史的意義を改めて評価し、その歴史が現代にどのように繋がっているのかを展望します。
垂水城は、島津氏という巨大な統一権力に飲み込まれていく戦国乱世の潮流の中で、最後まで地域の自立をかけて戦った国人領主・伊地知氏の気概と苦悩を象徴する城郭として、まず記憶されるべきです。その降伏と開城の物語は、個人の武勇や名誉だけでなく、「家」の存続を最優先する戦国武将の現実主義的な生き様を我々に教えてくれます。
また、地政学的な観点から見れば、垂水城は鹿児島湾の制海権を巡る攻防の鍵を握る、極めて重要な戦略拠点でした。この城の存在なくして、島津氏の大隅平定の困難さと、その戦略の巧みさを正確に理解することはできません。垂水城の歴史は、島津氏の三州統一事業という大きな物語を構成する、欠くことのできない重要な一片なのです。
戦国期の軍事拠点であった垂水城の跡地は、現在、雑木林や畑地となっており、往時の城の具体的な姿を偲ぶことができる遺構は残念ながら残存していません 1 。静かに佇む城跡碑だけが、かつてこの地で繰り広げられた激しい攻防の歴史を今に伝えています。
一方で、その歴史的役割を引き継いだ後継地、林之城の跡地(現在の垂水市立垂水小学校)には、江戸時代の垂水の繁栄を物語る貴重な遺構が今も大切に保存されています 2 。
戦国期の垂水城の物語は、伊地知氏の降伏によって一度は幕を閉じました。しかし、その土地と「垂水」という名は、垂水島津家による統治拠点・林之城へと継承され、江戸時代の約250年間にわたる地域の政治・文化の中心地として、新たな歴史を紡いでいきました 2 。
現在、林之城跡とその周辺の麓は、薩摩武士の暮らしを今に伝える貴重な歴史景観として「日本遺産」に認定され 28 、地域の歴史文化資源として、観光振興や郷土教育の場で大きな役割を果たしています 31 。
遺構が残らないために忘れられがちな垂水城の歴史を掘り起こし、その上で発展した林之城と麓の歴史を連続したものとして理解すること。それこそが、垂水という土地が持つ重層的な歴史の深さと魅力を真に理解する鍵となるのです。一つの城の終焉は、新たな時代の始まりでもありました。その歴史の連続性の中に、私たちは地域のアイデンティティの源泉を見出すことができるのです。