塩生城
塩生城は南会津の崖端城。蘆名氏筆頭宿老平田氏の拠点として、会津の国境防衛を担う。摺上原の戦いでは平田氏の内通により蘆名氏滅亡の一因となる。その歴史は「塩」と「裏切り」が交錯する戦国会津の深層を物語る。
福島県「塩生城」に関する総合調査報告書:戦国期会津の歴史的深層を探る
序章:塩生城の特定 — 会津若松の「塩蔵」と南会津の「塩生城」
当初、福島県会津若松市に存在するとされた「塩生城」に関する調査は、一つの重要な地理的特定から始めなければならない。利用者が提示した「大川(阿賀川)と闇川の合流点」「河岸段丘」「三つの曲輪」という特徴を持つ城館は、会津若松市内には確認されず、その実態は 福島県南会津郡下郷町大字塩生 に位置する「 塩生館(しおのうたて) 」、通称「塩生城」であることが史料および現地調査から明らかになっている 1 。
この地理的な誤認は、単なる情報の錯綜に起因するものではない。むしろ、それは戦国時代から近世にかけての会津地方の地政学的・経済的特性、すなわち「塩」の戦略的重要性を象徴的に示している。内陸に位置する会津にとって、塩は生命維持に不可欠であると同時に、兵糧の保存や武具の手入れにも用いられる極めて重要な軍需物資であった。このため、会津の歴代領主は塩の確保と管理に多大な注意を払ってきた。その象徴が、会津若松の鶴ヶ城(若松城)天守台内部に設けられた「塩蔵」である 2 。この塩蔵は、籠城戦に備えて大量の塩を備蓄するための施設であり、戊辰戦争における約一ヶ月に及ぶ籠城戦を支えた要因の一つともなった 3 。会津藩は領内で産出される「山塩」を藩の専売品とし、厳格に管理していた記録も残っている 6 。
このように、会津の歴史において「塩」は常に中心的な役割を担ってきた。この強い歴史的文脈が、「塩」の名を冠する城、すなわち「塩生城」が、会津の中心地である若松と結びつけて認識される文化的土壌を形成したと考えられる。鶴ヶ城の「塩蔵」という著名な史実と、「塩生」という地名が混同され、今回の地理的誤認が生じた可能性は極めて高い。
したがって、本報告書は、この誤認の訂正を単なる出発点とするのではなく、会津における「塩」の重要性という大きな歴史的背景を念頭に置きながら、その真の所在地である南会津郡下郷町の塩生城(塩生館)の実像に迫るものである。さらに、「塩生」という地名自体が、この地の歴史を解き明かす鍵となる。近隣に塩分を含む湧水地が存在したのか、あるいは越後や相馬から塩を運ぶ内陸の交易路「塩の道」の中継地であったのか 9 。この問いを念頭に置くことで、城の歴史的役割をより深く理解することが可能となる。
第一章:塩生城の構造と戦略的立地 — 南山の崖端城
塩生城(塩生館)は、戦国時代の会津南山地方(現在の南会津郡)における典型的な在地領主の城館の姿を今に伝える貴重な遺跡である。その構造と立地は、当時の軍事思想と地域の地政学的状況を色濃く反映している。
城郭の形態と縄張り
塩生城は、阿賀川とその支流が合流する地点に形成された、比高約20メートルの河岸段丘の先端部に築かれた「崖端城(がけはしじょう)」である 1 。この立地は、城の防御において自然地形を最大限に活用しようとする設計思想の表れである。
- 天然の要害 : 城の北側と西側は、阿賀川とその支流によって削り取られた高さ15メートルほどの急峻な崖となっており、容易に兵を寄せ付けない天然の堀として機能していた 1 。
- 人工の防御施設 : 一方で、台地続きとなる南側と東側には、人工的に濠(堀)を穿ち、敵の侵入を防いでいた 1 。東側の堀跡は現在も確認でき、幅約15メートル、深さ6〜7メートルに及ぶ。底が水田となっていることから、往時は水を湛えた水堀、あるいは湿地帯を利用した泥田堀であった可能性が指摘されている 11 。
- 曲輪の配置 : 城内は、南北に三つの曲輪が連なる連郭式の縄張りであったと推定されている 1 。それぞれの曲輪は堀によって区画されていたとされるが、後世の耕作化により、現在ではその多くが埋められ、明確な遺構としては残っていない 1 。
- 現存する遺構 : 現在、比較的明瞭に残るのは、南側の曲輪の東側に築かれた土塁である 1 。特に東南端は櫓台のように高く盛り上がっており、南東方面からの敵に対する監視と攻撃の拠点であったと考えられる 11 。また、西側の谷を隔てた対岸にも出丸が存在したとされ、城の防御範囲が広範囲に及んでいたことが窺える 1 。
南会津における戦略的位置づけ
塩生城が築かれた南会津地方は、会津盆地に本拠を置く蘆名氏にとって、極めて重要な戦略的緩衝地帯であった。北には蘆名氏の本拠である黒川城(後の鶴ヶ城)、南には下野国(現在の栃木県)の諸勢力、そして東には仙道(中通り)を経て伊達氏や常陸国の佐竹氏といった強大な戦国大名が控えていた。塩生城は、これらの勢力と対峙する最前線の一つであり、会津と他国を結ぶ街道を監視する拠点としての役割を担っていたと考えられる。
この城の構造は、蒲生氏郷が鶴ヶ城で用いたような壮大な石垣や天守を持たない、土塁と堀を主体としたものである 2 。これは、戦国中期から末期にかけての、在地国人領主が拠点とした城館の典型的な形態であり、動員できる労力や財力が限られる中で、自然地形を最大限に活用して防御効率を高めるという、実用性に徹した思想が見て取れる 13 。塩生城は方面軍の司令部のような大規模拠点ではなく、特定の在地領主(平田氏)が自身の所領を治め、国境警備の任務を遂行するための、機能に特化した砦であったと言えよう。
また、城の防御思想は、当時の脅威の方向性を明確に示している。北と西が天然の崖で堅固である一方、南と東に人工の濠を重点的に配置していることから、主たる脅威が南の下野方面や、東の仙道方面から来ることを想定していたことがわかる。城の縄張りは、当時の地政学的な緊張関係を物理的に表現した「テキスト」として読み解くことができるのである。
表1:塩生城(塩生館)の概要
項目 |
内容 |
所在地 |
福島県南会津郡下郷町大字塩生字前原 1 |
別名 |
塩生館(しおのうたて) |
城郭形態 |
崖端城、連郭式 |
築城・廃城年代 |
築城年代不詳。天正年間(1573年〜1592年)に活動記録あり。廃城は天正18年(1590年)以降と推定。 |
主要城主 |
平田五郎忠照 1 |
主要遺構 |
曲輪跡、土塁、堀跡 |
現状 |
畑地、一部遺構が残存 11 |
第二章:城主・平田氏の盛衰 — 蘆名家筆頭宿老の系譜
塩生城の歴史を語る上で不可欠なのが、その城主であった平田一族の存在である。彼らは単なる在地領主ではなく、会津の戦国大名・蘆名氏の重臣中の重臣であり、その運命は主家の興亡と分かちがたく結びついていた。
蘆名家中の名門・平田氏
塩生城主であった平田五郎忠照が活動した天正年間(1573年〜1592年)の記録が残っている 1 。彼が属する平田氏は、会津蘆名氏の家臣団の中でも屈指の名門であった。『米府鹿子』などの史料によれば、平田氏は蘆名氏の「四天宿老」の筆頭に数えられ、その祖先は至徳元年(1384年)に蘆名直盛が会津へ下向した際に従った大隅守光範に遡るとされる 14 。彼らは代々、蘆名家の中枢で重責を担い、その治世を支えてきたのである。
筆頭宿老という地位は、蘆名家の運営に最も深く関与し、その運命に最大の責任を負う立場であったことを意味する。それゆえに、後に訪れる家督相続を巡る内紛において、彼らは最も困難な選択を迫られることになる。彼らの高い地位こそが、蘆名家滅亡の悲劇性を際立たせる要因となった。
また、筆頭宿老である平田氏が、蘆名氏の本拠地である黒川(会津若松)から離れた南山地方に自身の城(塩生城)を構えていたという事実は、彼らが中央の政務を担うと同時に、独自の所領と軍事力を持つ半独立的な領主であったことを示している。これは戦国大名家臣団の典型的な姿であり、この「半独立性」が、主家が揺らいだ際に、一族の利益を優先して独立した行動をとる素地となった。塩生城は、まさに平田氏の権力基盤の物理的な象徴であったと言える。
主君・蘆名氏の最盛期と翳り
平田氏が仕えた蘆名氏は、16代当主・蘆名盛氏の時代にその最盛期を迎えた。盛氏は巧みな外交と軍事行動によって勢力を拡大し、会津四郡のみならず、仙道(中通り)や海道(浜通り)の一部にまで影響力を及ぼす、南奥州の覇者として君臨した 15 。内政面でも金山開発や流通の整備に力を入れ、蘆名家の権力基盤を盤石なものとした 17 。
しかし、栄華は長くは続かなかった。盛氏の嫡男・盛興が早世し、他に男子がいなかったため、人質としていた二階堂盛義の子・盛隆を養子に迎えて家督を継がせるという苦渋の決断を下す 16 。この外部からの当主就任は、蘆名家中に深刻な亀裂を生じさせた。盛隆自身は有能な武将であったが、彼の暗殺、そしてその後を継いだ幼い亀王丸の夭逝と、当主の相次ぐ交代は家中の動揺を加速させ、家臣団の統制は次第に失われていった 18 。塩生城主・平田五郎忠照が歴史の表舞台に登場する天正年間は、まさに蘆名氏の権勢が頂点から衰退へと向かう、激動の時代だったのである。
第三章:摺上原への道 — 裏切りの構造と塩生城の役割
天正17年(1589年)、蘆名氏は摺上原の戦いで伊達政宗に決定的な敗北を喫し、戦国大名としての歴史に幕を閉じた。この滅亡は、単なる軍事的な敗北ではなく、家臣団の内部崩壊という、より根深い問題を内包していた。そして、その崩壊の引き金を引いたのが、他ならぬ筆頭宿老・平田一族の内通であった。
蘆名家中の分裂と伊達政宗の調略
蘆名亀王丸がわずか3歳でこの世を去ると、蘆名氏の家督を巡り、家臣団は二つに割れた。一方は、長年の同盟相手である常陸国の佐竹義重の子・義広を、もう一方は、宿敵である伊達政宗の弟・竺丸を推す勢力である 18 。結局、佐竹派が主導権を握り、13歳の蘆名義広が新当主として迎えられた。しかし、この決定は伊達派の重臣たちの強い反発を招き、家中の対立は決定的となった 18 。
若年の義広は家臣団を掌握できず、彼に付き従ってきた佐竹出身の側近たちが実権を握ったことで、蘆名譜代の家臣たちの不満は頂点に達した 19 。この内部対立を、伊達政宗は見逃さなかった。彼は巧みな調略を用い、不満を持つ蘆名氏の諸将に次々と内通を働きかけたのである。小浜城主・大内定綱の離反を皮切りに 21 、蘆名氏の屋台骨は内部から静かに、しかし確実に蝕まれていった。
平田氏の内通と塩生城の役割
そして、摺上原の戦いの直前、蘆名氏の命運を決定づける出来事が起こる。『政宗記』巻六には、蘆名家臣である平田氏実、平田氏範、平田舜範らが政宗に内通し、「本領を安堵してくれるならば、政宗様が黒川城を攻撃する際に城中から火の手を上げて呼応しましょう」と申し出たことが記録されている 22 。筆頭宿老である平田一族が、主家を裏切り、敵将に寝返った瞬間であった。
この裏切りは、個人の倫理観の問題としてのみ捉えるべきではない。それは、戦国時代という流動的な主従関係の中で、一族の存続をかけた冷徹な生存戦略であった。もはや統治能力を失ったと判断した外部出身の若き主君に殉じるよりも、新たな覇者となりうる伊達政宗に与することで一族の未来を確保しようとする、合理的な政治判断だったのである 23 。
この一連の謀議の中で、塩生城が果たした役割は史料には残されていない。しかし、国境地帯に位置し、内通の中心人物である平田氏の拠点であったこの城が、伊達方との密使の連絡拠点や、謀議の場として利用された可能性は十分に考えられる。塩生城は、蘆名家滅亡という歴史の転換点において、静かな、しかし重要な役割を担っていたのかもしれない。
結果として、摺上原の戦いは、戦う前から蘆名方の敗北が運命づけられていた。家中の分裂と重臣の裏切りにより、兵士たちの戦意は低く、組織的な抵抗は不可能であった 25 。蘆名氏の滅亡は、軍事的な敗北である以前に、後継者問題の処理に失敗し、家臣団の求心力を失ったことによる、政治的な失敗だったのである。
表2:蘆名家末期の主要人物と関係
人物名 |
所属 / 立場 |
関係性 |
蘆名義広 |
蘆名家当主 |
佐竹義重の次男。蘆名家の養子となるが、家臣団を掌握できず。 |
佐竹義重 |
常陸・佐竹家当主 |
義広の実父。蘆名家の後援者。 |
伊達政宗 |
出羽・伊達家当主 |
蘆名氏の宿敵。調略により蘆名家中を切り崩す。 |
金上盛備 |
蘆名家宿老(佐竹派) |
義広を支持し、最後まで忠義を尽くすが、摺上原で討死。 |
平田氏実 |
蘆名家宿老(伊達内通派) |
筆頭宿老の一族。政宗に内通し、蘆名家滅亡の一因を作る。 |
大内定綱 |
蘆名家臣 → 伊達家臣 |
当初蘆名方であったが、政宗に寝返る。 |
第四章:落日の後 — 城主の消息と城の終焉
摺上原の戦いで主家・蘆名氏が滅亡した後、塩生城とその城主・平田五郎忠照、そして平田一族は、時代の大きなうねりの中でそれぞれの道を歩むことになった。
城主・平田五郎忠照の消息
塩生城主であった平田五郎忠照の、蘆名氏滅亡後の詳細な動向を示す公式な記録は乏しい。しかし、地元である下郷町には、彼の足跡を伝える重要な伝承が残されている。それは、摺上原で伊達政宗に敗れ落ち延びる際に、実弟の僧・福蔵を開山として長福寺を創建したというものである 27 。この長福寺は、後に近隣の寺院と合併し、現在の旭田寺の前身となった 29 。
勝者は歴史を記録に残すが、敗者の個人的な記録は失われがちである。そのような中で、寺院の創建という行為は、後世に自身の存在と一族の物語を伝えるための、極めて象-徴的な「記憶の装置」として機能した。忠照が寺を建てたという伝承は、彼が単に逃亡したのではなく、自らの手で一つの時代の終わりを刻みつけ、滅び去った主家や戦死者たちの菩提を弔うという、敗者としての責務を果たそうとした証と解釈することができる。
塩生城の終焉
蘆名氏に代わって会津の新たな領主となったのは、豊臣秀吉の命を受けた蒲生氏郷であった。氏郷は、近世的な城郭技術を用いて黒川城を「鶴ヶ城」へと大改修し、城下町を整備する一方で、領内支配を中央集権化するため、各地に点在していた在地領主の城館(支城)を破却、あるいは無力化する政策を進めたとされる 31 。
塩生城も、この新しい統治体制の下でその軍事的役割を終え、この時期に廃城になったと考えるのが自然である。蒲生氏郷がもたらした織豊系城郭の技術(石垣、天守、惣構え)と、それに基づく中央集権的な支配システムの前では、塩生城のような中世的な国人領主の城は、軍事的にも政治的にも時代遅れの存在となっていた。城の終焉は、単に蘆名氏が滅んだからというだけでなく、戦国時代が終わり、近世大名領国が成立するという、より大きな時代の転換点に位置づけられるのである。
平田一族のその後
主家を裏切り、伊達政宗に与した平田一族であったが、その後の道は様々であった。一部の者は、蒲生氏郷の会津入部に伴い、武士を捨てて帰農したとされる 14 。一方で、会津が上杉景勝の所領となった後、景勝の米沢移封に従い、米沢藩士として家名を存続させた者もいた。『米府鹿子』には、米沢上杉藩士として平田氏の名が見え、幕末まで続いたことが記されている 14 。一族の存続という目的は、形を変えながらも、ある意味では達成されたと言えるのかもしれない。
結論:塩生城が物語るもの — 「塩」と「裏切り」が交錯する戦国会津の深層
本報告書で詳述してきた「塩生城」の調査は、当初の地理的な誤認の解明から始まり、南会津の地に埋もれた一つの城館跡の実像を明らかにした。それは、阿賀川のほとりの崖端に築かれ、蘆名家筆頭宿老・平田氏の拠点として、戦国末期の会津における国境防衛と地域支配に重要な役割を果たした城であった。
報告の冒頭で提示した「塩」というキーワードは、この城の物語を貫く通奏低音となっている。「塩生」という地名が、塩の産出に由来するのか、あるいは越後や相馬から塩を運ぶ内陸の交易路「塩の道」に関連するものなのか、現時点で確定的な史料はない。しかし、いずれの可能性を考慮するにせよ、内陸国・会津にとって「塩」が生命線であったという紛れもない歴史的文脈が、この城の名には深く刻み込まれている。
そして、塩生城と城主・平田氏の物語は、もう一つの重要なテーマを我々に突きつける。それは「裏切り」の構造である。南奥州に覇を唱えた強大な戦国大名・蘆名氏が、外部からの軍事侵攻だけでなく、家臣団の結束の崩壊という内部要因によって、いかに脆くも滅び去ったか。その過程で、筆頭宿老という最も信頼されるべき立場にあった平田氏が、主家を見限り敵方と通じたという事実は、戦国時代の主従関係の流動性と、一族の存続を最優先する武士たちの冷徹な現実主義を生々しく示している。
これは、単に過去の歴史物語に留まらない。組織の盛衰が、指導者の求心力と内部の信頼関係にいかに大きく左右されるかという、時代を超えた普遍的な教訓を提示している。
今日、南会津の地に残る塩生城跡は、多くが耕作地に変わり、わずかな土塁と堀の痕跡を留めるのみである。しかし、その静かな佇まいの下には、戦国末期の会津で繰り広げられた権力闘争、一族の存亡をかけた苦渋の決断、そして一つの時代が終わりを告げ、新たな時代が幕を開けるという、歴史の大きな転換点そのものが内包されている。塩生城は、まさに戦国会津の深層を物語る、貴重な歴史の証人なのである。
引用文献
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- 【鶴ヶ城】戊辰戦争、激戦の舞台!蒲生氏郷が築いた“鶴の城”【会津若松城】(福島県会津若松市) https://rekishi-kun.com/album/tsurugajyo/
- 会津戦争の舞台となった会津若松「鶴ヶ城」で歴史に浸る - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/170714fukushima-aizuwakamatsu-1/
- 会津若松市「若松城(鶴ヶ城)」| ふらっとおでかけ 福島ぶらり | 福島 - NTT東日本 https://www.ntt-east.co.jp/fukushima/fbrari/004/index.html
- 1.鶴ケ城と城下町の営みにみる歴史的風致 - 会津若松市 https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2022122600027/file_contents/2no.pdf
- 会津山塩 - ここに歴史あり - エキサイトブログ https://aizurekish.exblog.jp/26512173/
- 会津山塩企業組合 - 会津若松観光ナビ https://www.aizukanko.com/souvenir/729
- 江戸時代に会津に送られた塩について、あわせて、塩制について知りたい。具体的にどこの塩(福島県史だと竹... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000329528
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- 「蘆名盛氏」地方の大名でありながら将軍直属の家臣! 会津蘆名家の最盛期を築いた大名 https://sengoku-his.com/817
- 武家家伝_葦名氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asina_k.html
- 蘆名義広 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%86%E5%90%8D%E7%BE%A9%E5%BA%83
- 【マイナー武将列伝】蘆名義広 政宗に破れた男が最後に残したもの - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=hXIJPcR9A9Q
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- 戦国の「裏切り者」と「忠義者」 | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5217
- 明智光秀・小早川秀秋…戦国武将の裏切りの種類・方法・発覚した場合など解説 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/85449/
- 摺上原の勝因は!? - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/265
- 蘆名義広~伊達政宗に敗れた男、 流転の末に角館に小京都を築く https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9599
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- 旭田寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%AD%E7%94%B0%E5%AF%BA
- 中ノ沢観音堂(旭田寺) - 福島県 https://www.fukutabi.net/fuku/simogou/nakano.html
- 蒲生氏郷公/偉人伝/会津への夢街道 https://aizue.net/siryou/gamouujisato.html