松永久秀が築いた多聞山城は、日本初の天守や多聞櫓を備え、近世城郭の先駆けとなった。信長も驚嘆した壮麗な城は、大和支配の象徴であり、文化サロンでもあったが、信長の命により破却された幻の名城である。
日本の城郭史上、わずか16年余りという短い期間でその姿を消しながらも、後世に絶大な影響を与えた「幻の名城」が存在する。それが、戦国時代の梟雄・松永久秀(まつながひさひで)によって築かれた多聞山城(たもんやまじょう)である。この城は、単に歴史の狭間に消えた一つの城郭ではない。それは、中世から近世へと移行する時代の大きな転換点を象徴する、記念碑的な存在であった 1 。松永久秀という特異な人物の革新的な思想と卓抜した美意識、そして時代の要請が見事に結実したこの城は、戦国時代の社会、文化、軍事技術の変革を体現していた 3 。
本報告書は、多聞山城を三つの主要な視点から立体的に分析し、その歴史的意義を解き明かすことを目的とする。第一に、中世以来大和国を支配してきた興福寺ら寺社勢力という「旧権威への挑戦の象徴」としての側面。第二に、天守や多聞櫓、総瓦葺といった革新的な建築技術を導入した「近世城郭建築のプロトタイプ」としての側面。そして第三に、城郭そのものを権力の可視化装置として用いた、「権力を『見せる』ための装置」としての側面である。これらの分析を通じて、多聞山城がなぜ築かれ、いかにして戦国時代の畿内政治に影響を与え、そしてなぜ天下人・織田信長の手によって地上から抹消されなければならなかったのか、その栄華と終焉の全貌に迫る。
まず、多聞山城をめぐる激動の歴史を概観するため、以下の年表を提示する。この年表は、城の運命が松永久秀個人の盛衰のみならず、三好政権の崩壊から織田信長の台頭に至るマクロな歴史のダイナミズムと完全に連動していたことを示している。
表1: 多聞山城 関連略年表
年代(西暦) |
主な出来事 |
永禄2年(1559) |
松永久秀、信貴山城を拠点に大和へ侵攻。翌年にかけて多聞山城の築城を開始する 1 。 |
永禄5年(1562) |
『興福寺旧記』に、多聞山城の「四階ヤクラ」の棟上げ式が催され、南都の住民が招待されたとの記録が残る 5 。 |
永禄8年(1565) |
イエズス会宣教師ルイス・デ・アルメイダが来訪し、その壮麗さを絶賛する書簡を本国へ送る 1 。同年、久秀は城内で千利休らを招き茶会を催す 6 。 |
永禄10年(1567) |
三好三人衆・筒井順慶連合軍との間で「東大寺大仏殿の戦い」が勃発。戦闘の最中に大仏殿が炎上する 7 。 |
永禄11年(1568) |
織田信長が上洛。久秀は名物茶器「九十九髪茄子」を献上して臣従し、大和支配を安堵される 9 。 |
天正元年(1573) |
久秀、信長に反旗を翻す(第一次信長包囲網)。しかし敗れて降伏し、多聞山城を信長に明け渡す 1 。 |
天正2年(1574) |
信長、多聞山城に入城。東大寺正倉院から名香「蘭奢待」を運び出させ、城内で切り取るというパフォーマンスを行う 1 。 |
天正3年(1575) |
塙直政(ばんなおまさ)が城主となる 1 。 |
天正4年(1576) |
塙直政が石山合戦で戦死。後任の大和守護となった筒井順慶に対し、信長は多聞山城の破却を命じる。これは安土城の完成とほぼ同時期であった 1 。 |
天正5年(1577) |
久秀、再び信長に謀反を起こし、信貴山城に籠城するも織田軍に包囲され、名物茶器「平蜘蛛の釜」と共に自害したと伝わる 2 。 |
多聞山城が築かれた永禄3年(1560年)頃の日本は、まさに動乱の時代であった。畿内では、室町幕府の権威は完全に失墜し、13代将軍・足利義輝は三好長慶(みよしながよし)によって京を追われ、近江に逃亡するという状況にあった 13 。阿波(徳島県)の国人出身でありながら、主家である細川氏を凌駕し、畿内一円に覇を唱えた三好長慶は、事実上の「天下人」として君臨していた 13 。
この三好政権は、旧来の権威に依存せず、自らの実力で政治を運営するという点で、極めて革新的な性格を持っていた 15 。足利将軍家を擁立することなく畿内を支配したその統治形態は、後に足利義昭を奉じて上洛する織田信長のそれと比較しても、先進的であったと言える 15 。
奇しくも多聞山城の築城が本格化した永禄3年(1560年)5月、東国ではもう一つの歴史的事件が起きていた。尾張の織田信長が、駿河の今川義元を桶狭間の戦いで討ち取ったのである 16 。この時点ではまだ地方の一勢力に過ぎなかった信長だが、この勝利を機に急速に台頭を開始する。多聞山城は、畿内の覇者・三好氏の権勢が頂点に達し、同時に次代の覇者・織田信長が歴史の表舞台に躍り出るという、まさに時代の大きな転換点の中で産声を上げた城であった。
松永久秀は、その出自に諸説あるものの、三好長慶の家臣として頭角を現した人物である 8 。彼は単なる武勇に優れた武将ではなく、主君・長慶が将軍を追放した後の公家や寺社との交渉役を務めるなど、能吏としても非凡な才能を発揮した 8 。その功績により、将軍の相伴衆に任じられ、従四位下・弾正少弼(だんじょうしょうひつ)という破格の官位を得るに至る 8 。
長慶の厚い信任を得た久秀は、三好政権の中枢で権勢を振るい、その矛先を大和国(奈良県)へと向けた。永禄2年(1559年)、久秀は信貴山城(しぎさんじょう)を拠点として大和への本格的な軍事侵攻を開始する 4 。そして、この軍事行動と並行して、彼は大和支配を盤石にするための新たな拠点城の建設に着手した。それが多聞山城である 19 。
久秀が築城地に選んだ場所は、その戦略的意図を雄弁に物語っている。中世の大和国は、源頼朝が全国に守護を置いた際にも、興福寺の強大な権力を鑑みて守護を設置させなかったという特殊な歴史を持つ、寺社勢力支配の地であった 4 。興福寺は、畠山氏や細川氏といった有力守護大名に匹敵するほどの軍事力を有し、長年にわたり大和一国を実質的に統治していたのである 4 。
久秀は、この旧来の支配体制を根底から覆すため、奈良の街、そしてその支配者である東大寺や興福寺を眼下に一望できる眉間寺山(みけんじやま)という丘陵を意図的に選定した 7 。この場所は、京へと続く街道を押さえる交通の要衝であると同時に、視覚的な威圧効果を最大化できる絶好のロケーションであった 2 。
多聞山城の築城は、単なる軍事拠点の建設にとどまるものではなかった。それは、久秀が主君・長慶の革新的な政治思想を大和国という舞台で実践する行為そのものであった。すなわち、畿内中央における足利将軍という世俗的権威の打破が、大和国における興福寺という宗教的権威の打破へとスケールダウンして展開されたのである。城の「立地」そのものが、物理的な兵力以上に強力なプロパガンダ兵器として機能した。奈良の住民や在地領主たちは、日々、自らの頭上に聳え立つ壮麗な武家の城を仰ぎ見ることになる。これは、言葉ではなく風景によって、寺社支配の時代の終焉と、武家による新たな支配の時代の到来を宣言する、計算され尽くした政治的パフォーマンスであった 7 。
多聞山城は、その構造と設計思想において、それまでの中世城郭の常識を覆す数々の革新性を備えていた。それは、日本の城郭が「戦うための砦」から「統治し、見せるための拠点」へと変貌を遂げる、まさにその黎明を告げる城であった。
多聞山城の縄張り(城の設計思想)は、防御一辺倒であった従来の中世山城とは根本的に異なっていた。険しい山中に隠れるように築かれるのではなく、奈良の市街地や主要街道からその壮麗な姿がよく見えるように計算されていた 6 。防御力を確保しつつも、それ以上に「見せる」こと、すなわち城主の権威を視覚的に誇示することを強く意識した設計であり、これは城を権威の象徴として積極的に活用する近世的な思想の萌芽であった 25 。
城の主要部は、現在の奈良市立若草中学校の敷地を中心とし、東西約250m、南北約200mの規模であったと推定される 26 。城域は、若草中学校のある多聞山、グラウンドのある善勝寺山、そして西側の聖武天皇・光明皇后陵を含む三つの丘陵にまたがって築かれていた 27 。東側と北側には大規模な堀切を穿ち、南側は佐保川を天然の外堀として利用していた 28 。単純な単郭構造に近く、純粋な防御力という点では必ずしも堅固とは言えないが、その存在意義は奈良の宗教都市を睥睨することにあった 24 。
多聞山城は、日本の城郭建築史において、画期的とされる三つの要素を初めて本格的に導入した城として知られている。
四階櫓(天守の原型):
興福寺の僧侶・多聞院英俊の日記『多聞院日記』などの史料には、多聞山城に「四階ヤクラ」が存在したことが記録されている 5。これは単なる物見櫓ではなく、城主の権威を象徴する高層建築物であり、後の織田信長の安土城天守へと繋がる、日本における天守建築の先駆けであったと考えられている 2。平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話』においても、天守の始まりは多聞山城であると記されている 11。
多聞櫓(たもんやぐら):
石垣や土塁の上に、防御と居住を兼ねた長屋状の建物を連続して建てる建築様式は、この城で初めて大規模に採用されたことから「多聞櫓」と呼ばれるようになったとされる 21。これにより、従来の土塀や単体の櫓による「点」や「線」の防御は、建物自体が城壁となる「面」の防御へと進化を遂げた。この様式は、その後の近世城郭において標準的な防御施設として全国に普及していく 34。
総瓦葺と漆喰塗りの壁:
多聞山城は、日本の城郭建築において、屋根を全面的に瓦で葺いた最初の城であると言われている 7。瓦葺きの屋根は、当時主流であった板葺きや茅葺きに比べ、火矢による攻撃に対して圧倒的な防御力を誇った 2。また、城の壁は、鉄砲の弾が貫通しないように厚く漆喰で塗り固められていた 2。この白亜の城壁と黒い瓦屋根のコントラストは、壮麗な外観を生み出すとともに、城の防御力を飛躍的に向上させた。これらの技術は、奈良に古くから蓄積されていた東大寺や興福寺などの寺社建築の技術と、専門の瓦工人らを活用することで初めて可能となったものであった 2。
この多聞山城の革新性は、無からの発明というよりも、当時世界的に見ても最高水準にあった日本の寺社建築技術を、「軍事・政治」という新たな分野へ大胆に転用した点に本質がある。瓦葺、漆喰壁、高層建築といった要素は、宗教建築の分野では既に高度な技術が確立されていた。久秀の天才性は、これらの既存技術の用途を大胆に組み替え、それを武家の政治的権威を象徴する「城郭」として再定義したことにある。これは、宗教が持っていた権威を、武家の権威へと変換する象徴的な行為でもあった。
多聞山城の比類なき美しさは、当時の日本を訪れていたイエズス会の宣教師によって、遠くヨーロッパにまで伝えられた。永禄8年(1565年)、医師でもあった宣教師ルイス・デ・アルメイダは、久秀の家臣の招きで城内を見学し、その驚きを詳細な書簡にして本国へ報告した。この記録は、後にルイス・フロイスの著書『日本史』に引用され、現代に伝えられている 5 。
アルメイダは、「この別荘地(城)に入りて街路を歩行すれば其の清潔にして白きこと、恰も当日築城せしものゝ如く、天国に入りたるの感あり」と記し、その清らかさと美しさを天国にたとえて絶賛した 36 。さらに、「外より此城を見れば甚だ心地好く、世界の大部分に此の如き美麗なる物ありと思はれず」「世界中此城の如く善且美なるものはあらざるべし」と、世界にも類を見ない壮麗な建築物であると評価している 2 。
城の内部は、さらに豪華絢爛であった。宮殿の建材には芳香を放つ木材(アルメイダは杉と記すが、実際は檜であったとされる)が用いられ、壁は金箔地の上に日本の歴史物語を描いた障壁画で飾られていた 5 。柱には彫刻や真鍮製の飾りが施され、引手などの調度品は京都の一流の錺金具師(かざりかなぐし)・躰阿弥(たいあみ)に、絵は当代随一の画工集団である狩野派の絵師に依頼したものであった 2 。
このような城の内部構造を、軍事機密であるにもかかわらず、宣教師や公家といった外部の人間へ積極的に公開したという事実 5 こそが、多聞山城の本質を物語っている。この城は、単に「戦う場所」ではなく、自らの権力と富、そして文化的な洗練度を内外に誇示するための「劇場型政治空間」であった。この思想的転換こそが、日本の城郭史におけるパラダイムシフトの起点であり、後の安土城や大坂城といった絢爛豪華な織豊系城郭へと直結していくのである。
表2: 多聞山城の革新性比較表
比較項目 |
典型的な中世山城 |
多聞山城(画期的な過渡期) |
典型的な近世城郭(安土城など) |
建築要素 |
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高層建築 |
簡素な物見櫓 |
権威の象徴としての「四階櫓」(天守の原型) |
城主の権威を象徴する壮大な「天守」が中心に聳える |
壁面 |
切岸、土塁、一部に石積み |
鉄砲に対応した厚い「総漆喰塗り」の白壁 |
高く堅固な「総石垣」と、その上に立つ「漆喰塗り」の壁が標準となる |
屋根 |
板葺き、茅葺き(燃えやすい) |
火矢に強い「総瓦葺」を本格採用 |
「総瓦葺」が標準化し、装飾的な瓦も用いられる |
防御施設 |
堀切、土塁、虎口(こぐち) |
塁上に長屋状の建物を巡らせた「多聞櫓」の創始 |
多聞櫓や隅櫓を組み合わせた、立体的で複雑な防御ラインが構築される |
主要機能 |
戦時に籠城するための軍事施設 |
平時の「政庁」「居館」「文化的サロン」機能を統合 |
政治・経済・軍事の中枢として、城下町を含めた恒久的な支配拠点となる |
設計思想 |
防御力と隠密性を重視(戦うための城) |
防御力と「見せる」ことを両立させ、権威を誇示 |
支配者の権威と権力を最大限に可視化し、天下に示すための装置(見せるための城) |
多聞山城は、単なる革新的な建築物であるだけでなく、松永久秀の大和国支配を支える中枢として、多岐にわたる役割を果たした。それは政治の中心であり、文化のサロンであり、そして激しい戦いの舞台でもあった。
松永久秀は、大和支配において巧みな拠点戦略を展開した。彼は、奈良の市街地に隣接し、政治・経済の中心として機能させる多聞山城を「政庁」および自身の「居城」とする一方で、大和と河内の国境に位置する険しい山城である信貴山城を、純粋な「軍事拠点」として維持・改修した 5 。
この二つの城の機能分担は、久秀の支配戦略における「ソフトパワー」と「ハードパワー」の分離と連携を体現している。多聞山城は、その壮麗な建築美と文化的活動によって人々の心服を得て、支配の正統性を演出するソフトパワーの拠点であった 5 。対照的に、信貴山城は、その堅固な防御力をもって敵対勢力を物理的に威圧し、撃退するハードパワーの拠点であった 20 。この二元支配体制により、久秀は一方では文化と富で人々を魅了し、もう一方では純然たる軍事力で敵を制圧するという、柔軟かつ強固なハイブリッド型の支配体制を確立した。これは、彼の非凡な統治能力を示す証左と言えるだろう。
松永久秀は、下克上を体現する梟雄というイメージが強いが、同時に当代一流の文化人でもあり、特に茶の湯に対する造詣は極めて深かった 40 。多聞山城は、彼の文化活動の中心地、すなわち畿内における重要な文化的サロンとしての顔も持っていた。
城内には、記録から少なくとも六畳と四畳半の二つの茶室、あるいは茶亭があったことがわかっている 2 。久秀はここで、自らが所持する「九十九髪茄子」や「平蜘蛛の釜」といった天下に名だたる茶道具を用い、盛んに茶会を催した 6 。永禄8年(1565年)に多聞山城で開かれた茶会には、松屋久政、若狭屋宗可といった堺の豪商に加え、当時まだ新進の茶人であった千利休も参加者として名を連ねている 6 。
久秀にとって、茶会の主催は単なる趣味や慰みではなかった。それは、堺の豪商や京の文化人との間に強固なネットワークを構築し、経済力と情報網を確保するための、極めて高度な政治活動であった。壮麗な多聞山城という最高の「ハードウェア」と、当代随一の人物が集う茶会という最高の「ソフトウェア」を組み合わせることで、自らが単なる成り上がりの武将ではなく、畿内文化の最先端を担う洗練されたパトロンであることを宣言したのである。これは、自身の権威を最大化させるための、計算され尽くした政治的パフォーマンスであった 40 。
栄華を誇った多聞山城であったが、その歴史は常に戦いと隣り合わせであった。主君・三好長慶が永禄7年(1564年)に亡くなると、三好政権は内紛状態に陥り、久秀は三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と決定的に対立する 8 。
大和国においては、旧来の国人領主である筒井順慶(つついじゅんけい)が、失地回復を目指して三好三人衆と結び、久秀に対して反旗を翻した 5 。これにより、大和は久秀と筒井・三人衆連合軍との間で激しい戦場と化した 19 。
永禄10年(1567年)10月、三好三人衆は奈良に侵攻し、東大寺に陣を構えて多聞山城に迫った 8 。久秀は多聞山城から出撃してこれに応戦するが、この戦闘の最中に、原因は諸説あるものの、東大寺の大仏殿が炎上し、世界最大の木造建築と大仏の頭部が焼失するという大惨事が発生した 8 。この事件により、久秀は「仏敵」という拭い去れない汚名を着せられることになり、彼の悪役としてのイメージを決定づけることになった。多聞山城は、まさに畿内の覇権争いの最前線に位置していたのである。
多聞山城の運命を最終的に決定づけたのは、尾張から急速に勢力を拡大し、新たな天下人として台頭した織田信長であった。久秀と信長、そして多聞山城をめぐる関係は、戦国時代の権力移行のダイナミズムを象徴している。
永禄11年(1568年)9月、15代将軍・足利義昭を奉じた織田信長が、圧倒的な軍事力を率いて上洛を果たす。この時、三好三人衆との戦いで劣勢に立たされていた久秀は、旧主・三好家の勢力に固執することなく、いち早く信長の先進性を見抜き、恭順の意を示した 8 。
彼は信長に対し、人質を差し出すとともに、自身が秘蔵していた天下第一の名物茶器「九十九髪茄子」を献上した 8 。この機敏な政治判断は功を奏し、信長は久秀の罪を問わず、その実力を評価して大和一国の支配権を安堵した。こうして久秀は、新たな時代の覇者の庇護下に入ることで、危機的状況から起死回生を果たしたのである 10 。
しかし、信長との協力関係は長くは続かなかった。天正元年(1573年)、将軍・足利義昭が信長に反旗を翻すと(第二次信長包囲網)、久秀もこれに呼応して信長を裏切る。しかし、信長はこれを瞬く間に鎮圧。進退窮まった久秀は降伏し、この時に多聞山城を信長に明け渡すこととなった 1 。
翌天正2年(1574年)、信長は自ら多聞山城に入城し、その壮麗な城郭と内部を検分した 1 。そして、この城を舞台に、日本の歴史上でも類を見ない、空前絶後のパフォーマンスを繰り広げる。東大寺の正倉院に秘蔵されていた、歴代天皇の勅許なくしては決して見ることのできない天下第一の名香「蘭奢待(らんじゃたい)」を運び出させ、その一部を切り取って公家や家臣たちに分け与えたのである 1 。
この行為は、単なる戦利品の確認や褒賞ではない。蘭奢待は天皇家の権威の象徴であり、多聞山城は久秀が築き上げた当代随一の権威の象徴であった。信長は、その二つの最高級のシンボルを同じ場所で結びつけ、自らがそれら両方を支配下に置く、旧来の権威を超越した存在であることを天下に宣言したのである。それは、多聞山城という最高の「舞台装置」を使い、城が持つ象徴的な価値そのものを、久秀から完全に奪い取るための、計算され尽くした政治的儀式であった。
多聞山城を手に入れた信長であったが、天正4年(1576年)、突如としてこの名城の完全な破却を命じる 1 。城の主殿は京都の旧二条城(二条新御所)に、石垣などの石材は筒井順慶の筒井城、さらには郡山城の築城資材として転用されたと伝わる 1 。わずか築城から16年余り、天下の名城は天下人の命令によって地上から姿を消した。
この不可解とも思える破却の背景には、複数の動機が複合的に作用していたと考えられる。
第一に、信長が推し進めていた合理的な城郭政策、いわゆる「城割(しろわり)」である。信長は、征服した領国内の城を、統治拠点となる一つの城に集約し、それ以外の城はすべて破却することで、反乱の芽を摘み、支配体制を効率化する政策を採っていた 43 。大和国においては、長年久秀と敵対し、信長に忠実であった筒井順慶の居城・郡山城を新たな統治拠点と定め、多聞山城は破却の対象となったのである 43 。
第二に、そしてより本質的な理由として、信長自身の居城である安土城の築城との関係が挙げられる。多聞山城の破却命令が出された天正4年は、まさしく信長が安土城の築城を本格化させた時期と完全に一致する 1 。多聞山城の四階櫓や瓦と白壁が織りなす壮麗なデザインは、安土城天守の直接的なモデルになったと強く推察されている 2 。一説には、解体された多聞山城の四階櫓が安土城に運ばれたとも言われる 26 。信長にとって、自らが創造する安土城こそが、新時代の唯一無二の象徴でなければならなかった。そのためには、その偉大な「手本」であり、自らが模倣したことを後世に残しかねない多聞山城の存在は、むしろ邪魔だったのである 1 。
したがって、多聞山城の破却は、単なる軍事・行政上の合理的な命令であると同時に、信長の天下人としての強烈な自己顕示欲と、新しい時代は自分一人が創造するという強い意志の表明でもあった。偉大な先駆者(松永久秀と多聞山城)に対する敬意と嫉妬が入り混じった、極めて人間的な動機がその背景にあったと推察されるのである。
松永久秀の野心と美学の結晶であった多聞山城は、地上からその姿を完全に消し去った。しかし、その革新的な思想と技術は、決して失われたわけではなかった。それは織田信長の安土城に確かに受け継がれ、豊臣秀吉の大坂城、そして徳川家康の江戸城へと至る、壮麗な近世城郭の系譜の礎となったのである 2 。
「見せる」ことを意識した権威の象徴としての高層建築(天守)、瓦と白壁による壮麗な外観、そして軍事拠点であると同時に政治・文化の中心地としての多機能性。多聞山城が確立したこれらのコンセプトは、その後の日本の城郭の基本的な性格を決定づけた 1 。その意味で、多聞山城は日本の城郭史における一つの分水嶺であり、中世と近世を分かつ画期的な城であったと明確に評価できる。
多聞山城の最大の遺産は、物理的な遺構ではなく、日本の権力者たちが「城」という存在に求める価値観そのものを根本から変えたという、「思想的遺産」である。松永久秀以前、城は主に「守る」ための軍事施設であった。しかし、久秀と多聞山城は、城を「見せて、統治する」ための壮大な舞台装置へと昇華させた。そして、信長以降、城は天下人の権威と財力を示す最も重要なシンボルとなった。多聞山城は、日本の城郭を単なる軍事施設から、政治・経済・文化を統合した「近世的権力の中枢」へと変貌させる引き金を引いたのである。その意味で、この城は「幻の城」でありながら、日本の風景をその後300年にわたって規定した近世城郭の、真の「始まりの城」と言えるだろう。
現在、多聞山城の本丸跡地には奈良市立若草中学校が建っており、往時の壮麗な姿を直接偲ぶことは極めて困難である 1 。校門の脇に立つ「多聞城跡」の石碑、校舎とグラウンドを隔てる大堀切の跡、そして周辺に点在する石垣に転用されたと伝わる石仏などが、わずかにその歴史を物語るのみである 5 。
しかし、戦後から現代に至るまで複数回実施された発掘調査により、幻の城の実像は少しずつ科学的に解明されつつある。特に、昭和22年(1947年)の若草中学校建設時に行われた第一次調査は、文化財保護法制定前という時代的制約もあり、十分な学術的記録が残されなかったことが惜しまれる 30 。
それでも、その後の調査によって、重要な発見が相次いでいる。出土した多数の瓦の中には、多聞山城を建設するために専用に焼かれた「城郭専用瓦」が含まれており、これは日本最古級の例とされる 30 。また、建物の柱を支えた礎石、円形の素掘り井戸跡、石を組んで作られた精巧な排水溝なども確認されており 27 、これらはアルメイダが残した記録の信憑性を考古学的に裏付けている。石垣の全面的な存在は確定していないものの、土塁の基礎部分に墓石などの石造物を再利用して地固めを行うなど、久秀の徹底した合理主義を窺わせる遺構も発見されている 30 。これらの地道な発掘調査の成果は、文献史料と合わせて、失われた名城の姿を我々の前に再び浮かび上がらせるための、貴重な手がかりとなっている。