大口城
大口城は薩摩・大隅・日向の三国係争地。平安末期に築かれ、戦国期には菱刈・相良・島津氏の三つ巴の攻防の舞台となった。島津家久の「釣り野伏せ」で島津氏の勝利を決定づけ、江戸期は薩摩藩の外城制度下の要衝として機能した。
薩摩・大隅・日向の要衝 大口城の興亡史
第一章:はじめに ― 三国係争の地に築かれた戦略拠点
鹿児島県伊佐市にその痕跡を留める大口城は、単なる一地方の城郭ではない。その歴史は、薩摩・大隅・日向の三国が境を接し、さらに肥後国への玄関口という、南九州における地政学的な要衝に位置したが故に、絶え間ない戦乱と権謀術数の舞台となった 1 。平安時代末期の誕生から戦国時代の激しい争奪戦、そして江戸時代の独自の統治体制下での変容に至るまで、大口城の運命は、南九州全体の勢力図の変遷を映し出す鏡であった。
菱刈氏、相良氏、そして島津氏。これらの有力氏族が、この城を巡って繰り広げた攻防は、各々の存亡を賭けたものであり、その帰趨は九州の歴史を大きく左右した。本報告書は、この大口城が果たした多岐にわたる歴史的役割を、築城の背景から構造、主要な合戦、関わった武将たちの動向、そして近世における役割の変容まで、あらゆる角度から詳細に解き明かすことを目的とする。
第二章:大口城の黎明 ― 平安末期から南北朝の動乱へ
大口城の歴史は、遠く平安時代末期、中央政界を揺るがした「保元の乱」(1156年)にその源流を遡ることができる。この乱における軍功により、桓武平氏の流れを汲む平信基は、朝廷から薩摩国の牛屎院(うしくそいん、または「ねばりいん」とも)と祁答院を与えられた 2 。そして保元3年(1158年)、信基の四男である平元衡(たいらのもとひら)がこの地に下向し、支配の拠点として築いたのが大口城であると伝えられている 1 。文献によっては、築城主を「太秦元衡」と記すものもあるが、これは同一人物を指すと考えられる 5 。
この築城の経緯は、当時の日本史における大きな転換点を象徴している。すなわち、京都で起きた中央の権力闘争の結果が、遠く離れた薩摩の地に直接的な影響を及ぼし、新たな支配者として武士が派遣されたのである。平元衡が地頭としてこの地に入り、城を築いたことは、朝廷の権威が相対的に低下し、武士階級が地方支配の主体となっていく「武士の世」の始まりと、それを支える荘園・公領支配の仕組み(地頭職の設置)が全国に拡大していく様を具体的に示す好例と言える。
元衡を祖とする一族は、この地の名をとり「牛屎氏」を称し、大口城(別名:牛山城)を本拠として勢力を扶植した 2 。以後、南北朝時代の動乱などを経て、牛屎氏は北薩の有力な国人領主としてこの地を治めることとなる。しかし、戦国時代の到来とともに、大口城はより激しい争乱の渦へと巻き込まれていくのである。
第三章:戦国動乱の渦中 ― 菱刈・相良・島津、三つ巴の攻防
戦国時代、大口城はその戦略的重要性から、周辺の有力国人である菱刈氏、肥後国の戦国大名・相良氏、そして薩摩統一を目指す島津氏による熾烈な争奪戦の的となった。この時代の攻防は、大口城の歴史において最も血塗られた一章を形成する。
第一節:菱刈氏の台頭と羽州島津家の滅亡
15世紀末から16世紀初頭にかけて、島津宗家は一族内の抗争(薩州家、豊州家など)に明け暮れ、その支配力には陰りが見えていた。この機に乗じ、北薩摩の菱刈氏や肥後の相良氏が、国境地帯への進出を活発化させる 2 。
当初、大口城は島津氏の分家である羽州家が守っていた。しかし、島津宗家の内紛が続く中、羽州家は孤立を深めていく。そして享禄3年(1530年)、菱刈氏当主・菱刈重州は、肥後の相良長唯(後の相良義滋)と手を組み、大口城へ侵攻した 2 。城主であった羽州家の島津忠明は、宗家からの援軍を得ることができず、奮戦の末に城中で自害。これにより、4代続いた羽州島津家は歴史の舞台から完全に姿を消すこととなった 2 。
この出来事は、単に一つの城が陥落したという以上の意味を持つ。それは、大口城という拠点の失陥が、島津氏の一分家を歴史から抹消するほどの決定的な結果をもたらした画期的な事件であった。後に島津貴久・義久親子が推し進める薩摩統一事業は、単なる領土拡大という側面だけでなく、かつて失われた一族の旧領と名誉を回復し、このような悲劇を二度と繰り返さないための戦いであったという側面を、この大口城の悲史は物語っている。
第二節:島津氏の薩摩統一戦と大口城
島津貴久とその子・義久の下で再統一への道を歩み始めた島津氏は、薩摩全土の完全掌握を目指し、宿願の地である大口城の奪還へと乗り出す。この時、大口城は菱刈氏と、その背後で姻戚関係を結ぶ相良氏が固く守っていた 2 。
島津氏の侵攻は、永禄10年(1567年)に本格化した 2 。しかし、その戦略は力任せの総攻撃ではなかった。島津義弘(当時は忠平)や新納忠元といった猛将が率いる部隊は、まず菱刈氏の本拠に近い馬越城に夜襲をかけ、これを陥落させた 6 。これにより、菱刈氏当主・菱刈隆秋は本城を捨て、相良氏の援軍と共に大口城へ籠城せざるを得なくなった 6 。
島津方の戦略は、極めて組織的かつ計画的であった。馬越城を制圧した後、山野城、羽月城、平和泉城といった大口城周辺の支城群を次々と攻略、あるいは味方に引き入れ、そこに信頼の置ける諸将を配置した 6 。これは、主目標である大口城への直接攻撃に先立ち、敵の連携を断ち切り、外部からの兵站や補給を完全に遮断するための周到な布石であった。個々の城を「点」として制圧し、それらを結びつけて地域全体を「面」として支配下に置く。この長期的な視点に立った「戦役(キャンペーン)」という概念に基づいた攻略法こそ、後の島津氏の九州席巻を可能にした軍事力の根源の一つであった。
第三節:決戦 ― 島津家久の「釣り野伏せ」と大口開城
周辺の支城を失い、兵站を断たれた大口城であったが、菱刈・相良連合軍の抵抗はなおも激しく、戦況は膠着状態に陥った。この局面を打開したのが、島津貴久の四男であり、後に豊臣秀吉をして「戦の神」と言わしめた島津家久の智略であった。
永禄12年(1569年)5月、家久は島津氏の得意戦術である「釣り野伏せ」を敢行する 6 。彼は、荷駄隊(補給部隊)を装った少数の囮部隊を率いて、意図的に大口城に接近した。これに釣られた菱刈・相良連合軍が城から打って出ると、家久の部隊は計画通り敗走を装い、敵を巧みに追撃戦へと誘い込んだ。そして、あらかじめ伏兵を配置しておいた羽月戸神尾(とがみお)の隘路まで敵軍を引き込むと、三方から一斉に攻撃を仕掛け、包囲殲滅したのである 6 。
この戦術の成功は、単なる奇策ではなく、敵の油断や功名心を巧みに利用する心理戦と、部隊の高い規律、そして地形を熟知した上での周到な計画が一体となった、島津氏の伝統的な戦術思想の精華であった。この羽月戸神尾の戦いでの決定的敗北により、菱刈・相良連合軍は戦意を完全に喪失。同年8月には島津軍による総攻撃が開始され、ついに9月2日、大口城は開城した 5 。菱刈隆秋は相良氏を頼って肥後人吉へと落ち延び、ここに大口城を巡る長年の争奪戦は、島津氏の完全勝利をもって終結した。この勝利は、島津氏による薩摩統一を事実上決定づける、軍事史上の大きな転換点となった。
第四章:島津氏の北薩拠点として ― 鬼武蔵・新納忠元の治世
大口城の陥落後、この重要な拠点の地頭(城主)に任じられたのは、一連の戦いで多大な功績を挙げた猛将・新納忠元であった 1 。時に忠元44歳。以後、大口城は島津氏の対肥後・日向方面における最前線の「外城(とじょう)」として、新たな歴史を歩み始める。
第一節:猛将・忠元の着任と城の整備
新納忠元は、島津義久・義弘兄弟と共に育ち、その武勇は「鬼武蔵」と称されるほどであった 4 。彼が大口城主となったことは、この地が島津氏にとって単なる行政拠点ではなく、常に臨戦態勢にあるべき軍事拠点と位置づけられていたことを示している。忠元の下で、大口城は北薩防衛の要として、また来るべき九州制覇への前進基地として、その機能が強化されていったものと考えられる。
第二節:豊臣秀吉の九州平定と忠元の気骨
天正15年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、20万ともいわれる大軍を率いて九州へ侵攻する(九州平定)。島津軍は各地で奮戦するも、圧倒的な物量の前に劣勢は覆しがたく、当主・島津義久は降伏を決断した。
しかし、大口城を守る新納忠元は、主君が降伏した後も徹底抗戦の構えを崩さなかった 7 。彼は、遠征で疲弊し兵糧に窮する豊臣軍の状況を見透かし、あろうことか敵陣に米を送りつけ、「是を食して戦を励まし来り攻べし(これを食べて鋭気を養い、攻めてくるがいい)」と伝えたという逸話が残っている 2 。これは、島津武士としての矜持と、武人としての気骨を示すあまりにも有名なエピソードである。
忠元が最終的に降伏を受け入れたのは、秀吉の軍門に降った主君・義久から「私が和睦した秀吉と戦うのであれば、それは私に弓を引く逆賊の行為である」と諭されたためであった 7 。忠元にとって、天下人秀吉への抵抗よりも、主君への忠誠こそが最優先されるべき絶対的な価値観であった。彼の降伏は、秀吉への屈服ではなく、主君・義久への忠義を貫いた結果だったのである。この行動原理は、個々の武士が極めて高い戦闘能力と独立心を持ちながらも、強固な主従関係によって統制されていた島津軍の強さの本質を解き明かす鍵となる。その忠勇の様は秀吉をも感心させ、忠元は引き続き大口の地を安堵された 7 。
第三節:幻の隠居城計画
豊臣政権下に入った後、大口城を巡って一つの計画が持ち上がる。天正16年(1588年)頃、上洛から帰国する前当主・島津義久の隠居後の居城として、大口城を大規模に改修するという計画であった 2 。島津義弘からの書状を受け、新納忠元は普請を急がせたが、城の完成を目前にして、義久の大口入りは中止となった 2 。
この計画の中止は、当時の島津氏が置かれた微妙な政治的立場を反映している。肥後国との国境に位置する要衝・大口に、前当主である義久が大規模に改修した城を構えることは、豊臣政権、特に肥後を新たに治めることになった佐々成政や加藤清正といった大名に対する軍事的な示威行動と受け取られかねない。秀吉への恭順の意を示し、無用な政治的摩擦を避けるため、島津氏内部で計画が見直された可能性は高い。この幻の計画は、戦国が終わり中央集権体制へと移行する中で、地方の大名がいかに慎重な政治的判断を迫られていたかを示す象徴的な出来事であったと言えよう。
第五章:城郭の構造と縄張り ― 文献と現地調査から見る実像
大口城は、大口盆地の中央に位置する独立した台地の上に築かれた山城である 1 。その構造は、南九州の城郭の中でも特徴的なものとして知られている。
城の立地する台地は、標高約225メートル、麓からの比高は約40メートルで、規模は東西約200メートル、南北約500メートルに及ぶ 4 。縄張り(城の設計)の最大の特徴は、城域の中央を南北に貫く幅の広い通路、すなわち「馬場」が存在し、その両脇に本丸、二ノ丸、西ノ丸といった主要な曲輪(郭)が配置されている点にある 8 。このような構造は、平時における城内の動線確保と、有事における部隊展開の容易さを両立させるための工夫と考えられる。
現在、城跡は伊佐市立大口小学校の裏山にあたり、校門脇には城跡を示す標柱が建てられている 1 。山中には、曲輪を区画する土塁や空堀(横堀)、斜面を人工的に削り出した切岸などの遺構が今なお明瞭に確認できる 1 。ただし、近年は竹の倒木などにより、一部の遺構への到達が困難になっているとの報告もある 4 。
以下に、大口城の基本的な構造に関する情報を集約する。
項目 |
詳細 |
典拠 |
城郭分類 |
山城 |
1 |
別名 |
牛山城、牟田口城 |
2 |
立地 |
鹿児島県伊佐市大口里上ノ馬場(大口小学校裏山) |
1 |
標高・比高 |
標高225m、比高約40m |
4 |
規模 |
東西約200m × 南北約500m |
8 |
主な曲輪 |
本丸、二ノ丸、西ノ丸 |
8 |
縄張り様式 |
中央に馬場を配し、左右に曲輪を連ねる形式 |
8 |
主な遺構 |
曲輪、土塁、空堀(横堀)、切岸 |
1 |
現況 |
大口小学校裏手の山林。一部遺構が残存するが、倒木等で見学に注意を要する。 |
1 |
第六章:近世における変容と終焉 ― 薩摩藩外城制度下の大口麓
関ヶ原の戦いを経て江戸時代が到来すると、日本の城郭は大きな転機を迎える。慶長20年(1615年)、江戸幕府は「一国一城令」を発布し、諸大名に対し居城以外の城の破却を命じた。しかし、薩摩藩はこの法令に対し、独自の解釈と戦略をもって対峙し、大口城もまた新たな形でその命脈を保つことになった。
第一節:一国一城令と外城制度の特質
一国一城令の目的は、大名の軍事力を削ぎ、武士を城下町に集住させることで、幕府による中央集権体制を盤石にすることにあった 9 。これにより、戦国時代に3,000近くあったとされる全国の城は、170程度にまで激減した 11 。
しかし、薩摩藩はこの法令に対し、「城を破却すると土砂崩れが起きて田畑に被害が及ぶ」といった口実を設け、城郭の完全な破壊を免れた 12 。そして、本城である鹿児島城(内城)以外の領内各地の要衝を「外城(とじょう)」と称し、その麓に武士を集住させる「麓(ふもと)」と呼ばれる行政・軍事拠点を整備した 13 。これは、法令の文面には違反しない形で、領内各所に半農半士の「郷士(ごうし)」を配置し、軍事的な即応体制を維持し続けるための、極めて高度な政治的・戦略的営為であった 13 。薩摩藩の外城制度は、徳川の天下にあっても、島津氏が常に幕府への警戒を怠らず、独自の防衛思想と統治体制を堅持し続けたことの何よりの証左である。
第二節:「大口麓」としての新たな役割
この外城制度の下で、大口城はその軍事施設としての性格を維持しつつ、「大口麓」として新たな役割を担うことになった。城の西麓、すなわち現在の大口小学校の敷地には、地頭仮屋(じとうかりや)と呼ばれる行政庁舎が置かれ、この地域一帯の行政の中心地となった 1 。
同時に、肥後国との国境防衛という軍事的な重要性も失われることはなかった。大口麓は、相良氏、後には加藤氏や細川氏が治める肥後に対する最前線拠点として、番所や辺路番所が設置され、常に臨戦態勢が敷かれていた 16 。
また、大口麓が歴史的に重要な場所であったことは、豊臣秀吉による島津領内の検地(太閤検地)が、この大口の地から始められたという事実からも窺い知ることができる 16 。これは、この地が島津氏にとってだけでなく、中央権力にとっても象徴的な場所と認識されていたことを示している。
第七章:結論 ― 歴史的意義と現代に残る痕跡
平安時代末期、中央政権の地方支配の拠点として誕生した大口城は、戦国時代には南九州の覇権を巡る争奪戦の最前線となり、数多の血が流れる舞台となった。そして近世に至っては、薩摩藩独自の「外城制度」の中核をなす軍事・行政拠点「大口麓」として、その重要性を保ち続けた。
大口城の歴史は、中央と地方の力学、国人領主の興亡、島津氏による統一事業の苛烈さとその統治戦略の巧みさ、そして近世における独自の防衛体制の構築まで、南九州の歴史の縮図とも言える多層的な物語を内包している。それは、単なる過去の遺物ではなく、日本の地方史、軍事史、政治史を理解する上で欠かすことのできない、第一級の歴史遺産である。
城郭そのものは、江戸時代の間に取り壊され、往時の威容を完全に偲ぶことはできない 5 。しかし、その歴史は今なお伊佐の地に深く刻まれている。伊佐市の指定文化財である「新納忠元の墓」は、40年近くにわたり大口を治めた名将の生涯を今に伝える 17 。また、大口城の鬼門(北東)を守るために建立されたと伝わる「毘沙門天木像」も、城と地域の信仰との関わりを示す貴重な遺産である 17 。さらに、大口城攻防戦の悲話を伝える「竹の瀬戸」の伝説のように、地域の伝承の中にも城の記憶は息づいている 18 。
これらの痕跡を辿ることは、南九州の激動の歴史を体感し、そこに生きた人々の息遣いを感じるための、貴重な鍵となるであろう。
引用文献
- 大口城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2966
- 大口城跡にのぼってみた、新納忠元が豊臣秀吉を相手に籠城未遂 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2021/12/04/193955
- 薩摩大口城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/ooguti.htm
- 大口城の見所と写真・100人城主の評価(鹿児島県伊佐市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/728/
- 大口城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%A3%E5%9F%8E
- 戦国時代の南九州、激動の16世紀(9)菱刈・大口の戦い、薩摩を制圧 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2022/03/01/093050
- 人のために、ふるさとのために 新納忠元ものがたり | 伊佐市 | 鹿児島県伊佐市 https://www.city.isa.kagoshima.jp/blog/info-culture/30855/
- 大口城 - お城散歩 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-823.html
- 一国一城令 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%9F%8E%E4%BB%A4
- 一国一城令のもたらしたもの/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16936_tour_017/
- 【お城の基礎知識】一国一城令(いっこくいちじょうれい) | 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/shiro-shiro/ikkoku-ichijorei/
- 薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~STORY #082 - 日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story082/
- 外城制度 - 南九州市観光協会へ https://minamikyushu-kankounavi.com/postSingle.php?mCd=6297244a6ab16&cd=MKKK0195&lang=ja
- 薩摩藩独自の外城制度 | 薩摩の武士が生きた町 〜武家屋敷群「麓」を歩く〜 https://kagoshima-fumoto.jp/outer-castle/
- 薩摩藩独特の外城制度「麓」とは何か? - 旅人サイファのお出かけブログ https://traveler-cipher.hatenablog.com/entry/2022/02/23/115042
- 大口 - 鹿児島日本遺産 https://samurai-district.com/spot/spot-1520/
- 指定文化財 | 伊佐市 | 鹿児島県伊佐市 https://www.city.isa.kagoshima.jp/culture/shisetsu-bunka/shiteibunka/
- 竹の瀬戸(伊佐市) - 全国伝承地覚書(仮) https://scrapbox.io/japanmystery/%E7%AB%B9%E3%81%AE%E7%80%AC%E6%88%B8%EF%BC%88%E4%BC%8A%E4%BD%90%E5%B8%82%EF%BC%89