美濃の要衝、大垣城は水城として築かれ、戦国期には氏家氏が総構えを完成。豊臣秀吉も「大事のかなめの城」と評し、関ヶ原合戦では西軍本営となる。戦災で焼失も復興し、今も歴史を語る。
美濃国西部に位置する大垣城は、日本の歴史、とりわけ戦国時代の終焉を告げる天下分け目の関ヶ原合戦において、中心的な役割を担った城郭として知られている。西軍の事実上の総大将、石田三成が本営を構え、独特の四層天守を誇るこの城は、単なる一地方の拠点に留まらない、極めて重要な戦略的価値を秘めていた。しかし、その知名度の高さに比して、大垣城が持つ本質的な重要性は、関ヶ原の舞台という側面のみで語られがちである。
本報告書は、この大垣城について、単なる城郭の解説に留まることなく、その創築の謎から、戦国時代の激動の中で果たした役割、関ヶ原合戦における戦略拠点としての真価、そして近世城郭としての完成と城下町の発展に至るまでを多角的に分析し、その歴史的意義を深く解き明かすことを目的とする。なぜこの城が天下分け目の決戦で西軍の本営となり得たのか。その地理的、構造的、そして歴史的背景を丹念に紐解くことで、日本の歴史を動かした「要衝の城」の実像に迫る。
大垣城の歴史は、その始まりからして謎に包まれている。明確な史料の欠如は、逆にこの城が辿った特異な発展の歴史を物語っている。地域の小規模な拠点から、天下の趨勢を左右する戦略拠点へと変貌を遂げた背景には、その比類なき地理的優位性が存在した。
大垣城の創築者と年代については、決定的な史料が存在せず、主に二つの説が並立している 1 。
一つは、明応九年(1500年)、美濃守護・土岐氏の家臣であった竹腰彦五郎尚綱が、当時「牛屋」と呼ばれた地に城を築いたとする説である 1 。もう一つは、それから35年後の天文四年(1535年)、同じく土岐氏一族の宮川吉左衛門尉安定が築城したとする説である。この宮川安定説は、大垣市の公式見解などで広く採用されており、より一般的に知られている 5 。
これらの説が並立する背景には、初期の城主に関する記録の混乱が見られる。例えば、竹腰氏と宮川氏の在城期間が記録によって重複するなど、矛盾点が多く信憑性の判断を難しくしている 4 。
この創築に関する記録の曖昧さは、単なる史料の欠落以上のことを示唆している。同時代の他の主要な城郭が、有力な戦国大名による明確な意図のもとに計画的に築城されたのに対し、大垣城の起源はより小規模なものであった可能性が高い。創築者とされる竹腰氏や宮川氏は、戦国大名というよりは守護大名に連なる地域の有力者、いわゆる国人や土豪クラスの人物であった 1 。このことは、大垣城の始まりが国家的なプロジェクトではなく、地域の軍事バランスの中で生まれた局地的な防御拠点であったことを物語る。その出自が比較的小規模であったがゆえに、創築の記録もまた曖昧模糊としているのである。しかし、その後の歴史こそが、この城を美濃随一の要衝へと押し上げた原動力であった。
築城当初の大垣城は、その地形を巧みに利用した「水城(みずき)」であった 1 。城の北から西へと流れる牛屋川(現在の水門川)を天然の外堀として取り込み、土塁や堤、水路によって防御力を高めていたのである 1 。
当初の規模は、現在の中枢部である本丸と二の丸のみで構成された、比較的小さなものであったと推測される 1 。防御の要は、堅固な石垣や巨大な天守ではなく、周囲を巡る河川と湿地帯という自然の要害にあった。城の周囲には大きな柵が巡らされていたとされ、これが「大垣」という城名の由来になったという伝承も残っている 1 。この水に守られた立地こそが、後に関ヶ原の戦いで石田三成がこの城を高く評価する最大の要因となる。
大垣城が歴史の表舞台に躍り出た最大の理由は、その卓越した地政学的価値にある。この地は、東海道と中山道を結び、東国と畿内を繋ぐ重要な脇街道「美濃路」の結節点に位置していた 1 。さらに、近江や越前からの侵攻路を監視する上でも絶好の位置にあり、まさに交通・軍事上の要衝であった 15 。
この地理的重要性ゆえに、大垣城は美濃国の覇権を巡る争奪の的となった。尾張から美濃への進出を狙う織田信秀(信長の父)と、美濃国主の斎藤道三との間で、この城を巡る激しい攻防が繰り返されたのである 4 。城の所有権が、そのまま美濃西部における勢力争いの趨勢を示す指標となった。
やがて天下統一を目前にした豊臣秀吉も、大垣城の価値を深く認識していた。秀吉はこの城を「大事のかなめの城」と評し、自らの支配体制を固める上で極めて重要な拠点と位置づけていた 1 。その言葉通り、豊臣政権下では一門や譜代の重臣が次々と城主に任じられることとなる。一地方の土豪の砦から始まった城は、その立地ゆえに、天下人の戦略に組み込まれる不可欠な存在へと成長を遂げたのである。
大垣城は、戦国時代の度重なる争奪と改修を経て、次第に堅固な近世城郭へとその姿を変えていった。自然の要害である「水」を最大限に活かしつつ、人工的な防御施設を付加していくことで、難攻不落の水の要塞が完成した。その進化の過程は、城郭建築技術の発展と、城に求められる役割の変化を如実に示している。
大垣城が本格的な城郭へと変貌を遂げる契機となったのは、永禄年間(1559年頃から)、斎藤氏の重臣であり西美濃三人衆の一人、氏家直元(卜全)が城主となった時代である 16 。直元は大規模な改修に着手し、堀を深く掘り下げ、土塁を高く築き上げ、新たに松の丸を増設した 1 。
特筆すべきは、城郭本体だけでなく、城下の町屋や寺社までを堀と土塁で囲い込む「総構え(そうがまえ)」を建造した点である 1 。これにより、大垣城は城と城下町が一体となった巨大な防御拠点へと進化した。この構造は、後の関ヶ原合戦において、西軍が兵を駐留させ、防衛線を構築する上で大きな意味を持つことになった。
江戸時代に入ると、城主となった石川氏によってさらに総堀が加えられ 10 、最終的に寛永十二年(1635年)以降の戸田氏の治世下で、内堀、外堀、総堀という三重の堀を持つ壮大な水城として完成の域に達した 13 。
大垣城の縄張り(城の設計)は、「連郭輪郭複合式平城」という複雑な形式に分類される 12 。これは、城の中枢部である本丸と二の丸が直線的に並ぶ「連郭式」の配置と、その周囲を三の丸が同心円状に取り囲む「輪郭式」の配置を組み合わせたものである 16 。
この複合的な設計は、極めて高い防御機能を発揮した。敵が城に攻め寄せた場合、まず広大な総構えと総堀に阻まれ、これを突破しても三の丸、二の丸と、幾重にも連なる防御線を攻略しなければならなかった。特に本丸への進入路は、二の丸との間に架けられた唯一の廊下橋と、その先に設けられた鉄門(くろがねもん)に限定されていた 17 。鉄門は、その名の通り木部を鉄板で覆った堅固な門であり 19 、ここを突破することは至難の業であった。このように、大垣城は敵を段階的に消耗させ、中枢部への到達を困難にする、巧妙な防御思想に基づいて設計されていた。
大垣城の象徴ともいえる天守は、慶長元年(1596年)、当時の城主・伊藤祐盛によって創建されたと伝えられている 1 。その最大の特徴は、全国的にも極めて珍しい「四層四階」の構造であった点にある 1 。日本では数字の「四」が「死」に通じるとして忌み嫌われ、天守の層数としては三層や五層が一般的であった。その中で、なぜ大垣城が四層という特異な形式を採用したのかは、長らく議論の対象となってきた。
この謎を解く鍵は、近年の研究で有力視されている「三層から四層への改築説」にある。関ヶ原合戦当時に描かれたとされる屏風絵などでは、大垣城の天守は三層の望楼型として描かれている 12 。そして、江戸時代初期の元和六年(1620年)、城主であった松平忠良の時代に、現在の姿である四層の層塔型へと改築されたというのである 4 。
この天守の層数の変更は、単なる建築上の改変に留まらない、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。1620年という年は、大坂の陣(1615年)が終結し、「元和偃武」によって戦乱の世が完全に終わりを告げた直後である。戦国時代の天守は、司令塔としての実戦的な機能が最優先され、三層構造は実用的で一般的であった。しかし、泰平の世となった江戸時代において、城郭、特に天守は、軍事拠点としての役割から、藩の権威や石高を内外に示すための象徴(シンボル)へとその性格を大きく変化させた。
四層という、縁起よりも見た目の壮麗さや高さを優先したかのような設計は、もはや実戦を想定したものではなく、十万石を領する大垣藩主としての「見栄」や権威の誇示が主目的であったと考えられる 21 。興味深いことに、幕府へ提出された公式な絵図には天守が三層で描かれていたという逸話も残っており 21 、これは幕府への体面的な配慮と、自領内での権威誇示という、近世大名の二重の立場を巧みに示している。天守に加えられた「一層」は、戦国の終焉と新たな時代の価値観の到来を体現した、建築的事件であったと言えよう。
大垣城の石垣には、城の北方、美濃赤坂に位置する金生山から産出された石灰岩が用いられている 16 。この石垣からは、フズリナなど古代の生物の化石が発見されることもあり、地質学的にも興味深い特徴を持つ。石積みは、自然石をあまり加工せずに巧みに組み上げる「野面積み(のづらづみ)」や、石の隙間がまるで笑っているかのように見えることから「笑い積み」と呼ばれる技法が用いられており、荒々しくも堅固な印象を与えている 16 。
また、前述の総構えには、城下と外部を繋ぐ七つの門が設けられ、「七口之門(ななくちのもん)」と総称された 10 。これらの門は、城全体の防御体制を構成する重要な要素であり、大垣城が単体の城郭ではなく、城下町全体を防衛システムに組み込んだ先進的な要塞都市であったことを示している。
大垣城が有する卓越した戦略的価値は、この城の歴史を極めて流動的なものにした。戦国時代を通じて、美濃の斎藤氏、尾張の織田氏、そして天下を掌握した豊臣氏の有力武将たちが、まるで駒を動かすようにこの城の主を次々と入れ替えたのである 1 。その目まぐるしい城主の変遷は、大垣城が常に中央政権の動向と密接に連動していたことの証左に他ならない。
斎藤氏の時代には、氏家直元(卜全)が城主として城郭の大規模な整備を行い、その基礎を固めた 1 。織田信長が美濃を平定すると、大垣城もその支配下に入り、信長の戦略の一翼を担うことになる。
豊臣秀吉の時代になると、大垣城の重要性はさらに高まる。賤ヶ岳の戦いの後、秀吉の重臣である池田恒興が入城するが、翌年の小牧・長久手の戦いで戦死 4 。その後は、秀吉の甥である豊臣秀次、弟の秀長、さらには加藤光泰、一柳直末、羽柴(豊臣)秀勝、そして関ヶ原合戦時の城主となる伊藤祐盛といった、豊臣政権にとって枢要な人物が相次いで城主を務めた 1 。この人選は、秀吉がいかにこの城を「大事のかなめの城」と見なし、信頼できる腹心にその守りを委ねていたかを明確に物語っている。
関ヶ原合戦を経て徳川の世となると、城主の交代は新たな段階に入る。戦後しばらくは徳川譜代の石川氏、久松松平氏、岡部氏などが短期間で入れ替わる過渡期が続いた。これは、徳川家康が西国への睨みを効かせるための戦略的な人事配置であったと考えられる。そして、寛永十二年(1635年)、戸田氏鉄が十万石で入封するに至り、大垣城はようやく安定期を迎える。以降、明治維新に至るまで約230年間にわたり、戸田氏十一代が居城とし、大垣藩の藩庁としてこの地を治めた 4 。
この複雑で頻繁な城主の交代を一覧化することで、大垣城がいかに中央政権から重要視された戦略拠点であったかを視覚的に理解することができる。城主の顔ぶれとその所属勢力の変遷は、そのまま戦国末期から江戸初期にかけての権力構造の移り変わりを映し出す鏡となっている。
【表】大垣城・戦国期から江戸初期の主要城主変遷
時代 |
主要な城主 |
在城期間(目安) |
所属勢力 |
主要な出来事・城の役割 |
典拠 |
戦国期 |
氏家 直元(卜全) |
1559年頃~ |
斎藤氏→織田氏 |
城郭の大規模改修、総構えの建造 |
1 |
安土桃山期 |
池田 恒興 |
1583年~1584年 |
豊臣氏 |
賤ヶ岳の戦い後に入城、本格的な整備 |
3 |
|
豊臣 秀次 |
1584年~ |
豊臣氏 |
豊臣一門による直接支配の象徴 |
4 |
|
伊藤 祐盛 |
1590年~1600年 |
豊臣氏 |
天守の創建、関ヶ原合戦時の城主 |
1 |
関ヶ原合戦 |
(福原 長堯ら) |
1600年8月~9月 |
西軍 |
石田三成の本営、籠城戦 |
4 |
江戸初期 |
石川 康通・家成・忠総 |
1601年~1616年 |
徳川氏 |
譜代大名による支配開始、総堀開鑿 |
4 |
|
戸田 氏鉄 |
1635年~ |
徳川氏 |
十万石で入封、以降戸田氏の治世が続く |
7 |
慶長五年(1600年)、日本の歴史を二分した関ヶ原合戦において、大垣城は西軍の本営としてその中心舞台となった。石田三成がなぜこの城を最終決戦の拠点として選んだのか、そしてなぜ堅固な城での籠城策を放棄し、関ヶ原での野戦に打って出たのか。その決断の裏には、三成の過去の経験と、刻一刻と変化する戦況に対する緻密な戦略的計算があった。
慶長五年八月、会津の上杉景勝討伐に向かった徳川家康の留守を突く形で挙兵した石田三成は、西軍の主力を率いて美濃国に進軍し、大垣城に入城、ここを東軍に対する最前線の本営とした 4 。
三成が大垣城を選んだ理由は、単に地理的に優位であったからだけではない。その背景には、この城が持つ「水の要塞」としての特性への深い評価があったと考えられる。三成は、その十年前にあたる天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐において、武蔵国・忍城の攻略を担当した経験を持つ 28 。忍城は沼地に囲まれた難攻不落の城であり、三成は大規模な堤を築いて水攻めを試みるも、城を落とすことができなかった 28 。この苦い経験は、三成に水に囲まれた城の攻略がいかに困難であるかを骨身に染みて教えたはずである。
大垣城の縄張りを見た三成は、かつて自らを苦しめた忍城と通じる、水に守られた堅固さを感じ取ったに違いない 30 。戦上手で知られる徳川家康をこの難攻不落の城に引きつけ、長期の籠城戦に持ち込むことで東軍を疲弊させる。それが三成の描いた当初の戦略構想であったと推察される。
しかし、決戦前夜の九月十四日、三成は突如として大垣城を放棄し、全軍を西方の関ヶ原へと移動させるという不可解な行動に出る。この謎の決断については、古来より様々な説が唱えられてきた。
最も広く知られているのは「家康の陽動説」である。これは、籠城戦を避けたい家康が、「大垣城は無視して、三成の居城である近江・佐和山城を直接攻撃する」という偽情報を巧みに流し、それに狼狽した三成が慌てて城からおびき出された、とするものである 31 。また、大垣城が揖斐川の川床よりも低い土地にあるため、家康に堤防を破壊されて水攻めにされる危険性を三成が察知したという「水攻め懸念説」も存在する 31 。
しかし、これらの説には多くの矛盾点が指摘されている。関ヶ原には既に大谷吉継をはじめとする西軍の有力武将が布陣しており、三成が何の計画もなしに急遽戦場を変更したとは考えにくい 31 。
より説得力のある理由として、これは三成による積極的な「戦略的布陣変更」であったとする見方が挙げられる。当時、西軍の勝敗の鍵を握ると目されていた松尾山の小早川秀秋の去就が不透明であった。三成は、大垣城での籠城という受け身の戦法を捨て、関ヶ原に広大な包囲陣を敷くことで、秀秋を西軍の一員として戦わざるを得ない状況に追い込み、東軍を殲滅する陣形を完成させようとしたのではないか 31 。当初は、大垣城に籠る本隊と、その後方の南宮山に布陣する毛利勢とが連携して東軍を挟撃する構想であったが、小早川や毛利方の吉川広家らの裏切りの可能性が高まる中で、作戦の変更を余儀なくされたのである。三成の関ヶ原への移動は、劣勢を挽回するための、最後の賭けであった。
石田三成率いる西軍主力が関ヶ原へと向かった後も、大垣城には三成の義弟である福原長堯を主将として、垣見一直、熊谷直盛ら約七千五百の兵が残り、固く城を守っていた 4 。
九月十五日、関ヶ原で本戦の火蓋が切られるのとほぼ時を同じくして、大垣城でも東軍の水野勝成らが率いる部隊による激しい攻城戦が開始された。城兵はよく戦ったが、同日の昼過ぎには関ヶ原での西軍壊滅の報が届く。敵中に孤立した城兵たちの士気は大きく揺らぎ、東軍は力攻めから内部の切り崩しへと戦術を転換した。
水野勝成の調略に応じた城内の相良頼房、秋月種長らが寝返り、二の丸を守る垣見一直らを謀殺 16 。内部から崩壊した城は、もはや抗戦を続ける力を失っていた。本戦終結後も八日間にわたって抵抗を続けたが、九月二十三日、主将の福原長堯が将兵の助命を条件に自刃し、ついに大垣城は開城した 4 。
この凄惨な籠城戦の様子は、当時、城兵の娘として籠城していた少女「おあむ」が後年に語った体験談『おあむ物語』によって、生々しく後世に伝えられている 16 。それは、天下分け目の決戦の陰で繰り広げられた、もう一つの関ヶ原の悲劇であった。
江戸時代に入り、戸田氏の治世下で安定期を迎えた大垣城は、軍事拠点としてだけでなく、大垣藩十万石の政治経済の中心地として発展を遂げた。その城下町の構造には、交通の要衝という立地を最大限に活かし、経済的繁栄と軍事的防御を両立させようとした、極めて高度な都市設計思想が見て取れる。
大垣の城下町が持つ最大の特徴は、中山道と東海道を結ぶ重要な脇街道であった「美濃路」を、意図的にその内部に貫通させる形で設計されていた点にある 36 。通常、城下町は街道に沿って発展するか、あるいは防御のために街道を城下から迂回させることが多い。しかし大垣は、街道そのものを総構えの内に取り込むという大胆な設計を採用した。
正保元年(1644年)に幕府の命令で作成された『美濃国大垣城絵図』などの古地図を見ると、城郭を中心として武家屋敷や町人地が整然と配置され、その中心を美濃路が東西に貫いている様子が明確に読み取れる 38 。これにより、大垣は美濃路における宿場町「大垣宿」としての機能を最大限に発揮することができた。
この設計思想は、単なる防御一辺倒ではない、近世的な都市計画の萌芽を示している。交通の動脈を完全に自らの支配下に置くことで、物流と人の往来から生まれる経済的な利益を確実に藩のものとする。そして同時に、その交通路をそのまま有事の際の防衛網へと転用する。この発想は、戦国時代の軍事的な緊張感を残しつつも、経済を重視する泰平の世へと移行する時代の価値観が融合した結果生まれたものと考えられる。大垣の町割りは、藩の「富国」と「強兵」を一つの都市計画の中で両立させようとした、先進的な試みであったと評価できる。
美濃路を内包する総構えの防御を担っていたのが、「七口之門(ななくちのもん)」と呼ばれる七つの城門である 10 。これらの門は、総構えの主要な出入り口に設けられ、城下町全体を一個の巨大な要塞として機能させていた。
特に、東の玄関口である東総門(名古屋口門)や、城の中心部に通じる大手門などは美濃路の要所に配置され、厳重な警備体制が敷かれていた 36 。平時において、これらの門は宿場町・大垣宿の玄関口として多くの旅人や物資を迎え入れ、町の繁栄を支えた。しかし、ひとたび有事となれば、門は固く閉ざされ、敵の侵入を阻む第一防衛線と化した。街道を進んできた敵軍は、城下町という巨大な罠の中に誘い込まれ、各所で遅滞戦闘を強いられることになる。このように、七口之門は平時の経済活動と有事の軍事行動という二つの役割を巧みに両立させる、城下町の要であった。
大垣城は、戦国の世が終わり、江戸時代の泰平の中で藩政の中心として栄えた。しかし、近代化の波と戦争の惨禍は、この名城にも容赦なく襲いかかった。その喪失と再生の物語は、文化遺産が持つ宿命と、それを守り伝えようとする人々の意志を象徴している。
江戸時代を通じて戸田氏十万石の居城としてその威容を保った大垣城は、明治維新後の廃城令という危機を乗り越えた数少ない城郭の一つであった 16 。天守をはじめとする主要な建造物は破却を免れ、その優美な姿と建築的価値が高く評価された結果、昭和十一年(1936年)、天守と艮隅櫓(うしとらすみやぐら)が当時の国宝保存法に基づき国宝(旧国宝)に指定されるという栄誉に輝いた 7 。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。太平洋戦争末期の昭和二十年(1945年)七月二十九日、米軍による大垣空襲によって、国宝の天守と艮櫓は炎に包まれ、灰燼に帰した 7 。それは、日本の降伏までわずか十七日という、あまりにも悲劇的な結末であった。
戦後、城を失った大垣市民の間から、町のシンボルを再建しようという熱意が高まった。多くの市民からの浄財が寄せられ、昭和三十四年(1959年)、ついに鉄筋コンクリート造りではあるものの、焼失前と同じ四層四階の天守が外観復元された 4 。
この再建の過程で、日本の城郭建築史において極めて数奇な物語が生まれる。大垣城天守を再建するにあたり、焼失前の姿を正確に知るための重要な参考資料とされたのが、同じ岐阜県内にある郡上八幡城であった 16 。
この関係性は、歴史の奇跡的な循環を示している。実は、郡上八幡城の天守は、昭和八年(1933年)に木造で模擬天守として再建されたものであるが、その際に参考にされたのが、当時国宝として現存していた「本家」の大垣城だったのである 43 。つまり、戦前に「大垣城の姿を写した」郡上八幡城が、戦災で失われた「原本」である大垣城を蘇らせるための手本となったのである。
この「原本 → 写し → 原本の再建」という流れは、単なる偶然ではない。それは、戦災という歴史の断絶を乗り越え、地域の象徴を未来へ繋ごうとする人々の強い意志が、現存する最良の「記憶の担い手」にその姿を求めた結果であった。この建築史の循環は、大垣城が単なる過去の遺構ではなく、喪失と再生のドラマを通じて、現代に至るまでその歴史を紡ぎ続けている生きた文化遺産であることを雄弁に物語っている。
再建された天守は、その後も市民の城として愛され続けた。平成二十二年(2010年)には大規模な改修工事が行われ、戦後の再建時に観光用に改変されていた窓の形状などが史料に基づいて修正され、焼失前の姿により近い、本来の優美な外観を取り戻した 4 。
平成二十九年(2017年)には「続日本100名城」に選定され 13 、その歴史的価値は改めて全国的に認められた。別名「麋城(びじょう)」「巨鹿城(きょろくじょう)」とも呼ばれるこの城は 3 、今もなお城下町大垣のシンボルとして市の中心にそびえ立ち 7 、天下分け目の関ヶ原合戦の記憶を伝える歴史の証人として、その静かな佇まいで訪れる人々に多くを語りかけている。