最終更新日 2025-08-24

大村城

肥前国玖島城(大村城)は、初代大村藩主・喜前が朝鮮出兵の経験を活かし築いた海城。関ヶ原で東軍に属し藩主となるも、キリスト教を棄教。藩内最大のキリシタン弾圧「郡崩れ」の舞台となる。廃城後、長岡安平により公園化され、オオムラザクラが咲く国史跡。

肥前国・玖島城の研究―戦国終焉の動乱とキリシタン大名の遺産―

序章:海に浮かぶ要塞、玖島城の歴史的座標

日本の城郭史において、大村城、別名・玖島城は、戦国時代の終焉と江戸時代という新たな治世の幕開けという、歴史の巨大な転換点を象徴する特異な存在として位置づけられる。慶長4年(1599年)、初代大村藩主となる大村喜前によって築城が開始されたこの城は、天下分け目の関ヶ原の戦いを翌年に控えた、日本全土が極度の政治的緊張に包まれていたまさにその渦中に産声を上げた 1

玖島城の歴史的座標を理解する上で重要なのは、その築城が二つの異なる時代の要請に応えるものであったという点である。一つは、戦国時代を通じて飛躍的に発達した築城技術の集大成として、鉄砲や大砲といった新兵器による攻城戦を想定した、高度な防御思想である 4 。そしてもう一つは、大村湾に突き出した半島という立地が示すように、単なる防衛拠点に留まらず、海上交通を掌握し、城下町を基盤とした領国経営の円滑化を図るという、近世的な統治思想である 4

すなわち、玖島城の築城計画は、過去の戦乱への備えと、未来の泰平の世における統治の両方を見据えた、極めて戦略的な事業であった。山城から平山城・平城へと城郭の主流が移行する大きな流れの中にありながら、大村氏が「海城」という特殊な形態を選択した背景には、彼らが置かれた肥前国という地政学的状況と、朝鮮出兵で得た実戦経験に基づく独自の戦略的意図が凝縮されている。それは、受動的に時代の変化に対応した結果ではなく、小藩であった大村氏が激動の時代を乗り越え、約270年間にわたる治世を確立するための、能動的な生存戦略の結晶であった 1 。本報告書は、戦国時代という視点を軸に、この海に浮かぶ要塞の誕生から現代に至るまでの多層的な歴史を徹底的に解明するものである。

第一章:築城前夜―キリシタン大名・大村純忠の苦闘

玖島城築城の歴史的必然性を理解するためには、その前史、すなわち築城主・喜前の父であり、日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠の時代まで遡る必要がある。純忠の治世は、まさに内憂外患の連続であり、その苦闘の歴史が次代の喜前に新城建設を決断させる直接的な動機となった。

純忠はもともと島原の有馬氏の次男として生まれ、大村氏へ養子として迎えられた経緯を持つ 8 。この養子縁組は、大村氏に実子・又八郎(後の後藤貴明)がいたにもかかわらず強行されたため、家督継承を巡る根深い内部対立の火種を抱え込むこととなった。家督を継げなかった後藤貴明は、その悲運の根源を純忠に求め、生涯にわたって執拗な攻撃を仕掛けることになる 10

さらに、大村氏の領国は、肥前国において強大な勢力を誇る佐賀の龍造寺氏や平戸の松浦氏といった戦国大名に囲まれ、常に存亡の危機に晒されていた 9 。特に龍造寺隆信による軍事侵攻は深刻な脅威であり、純忠は領国を維持するために絶え間ない戦いを強いられた 12 。純忠がイエズス会に接近し、キリスト教を受容して南蛮貿易の利益を求め、長崎を開港した背景には、こうした厳しい軍事的・経済的状況を打開しようとする必死の戦略があったのである 8

この純忠の時代の本拠地が、玖島城の北東約500メートルに位置する三城城であった 13 。三城城は、純忠が永禄7年(1564年)に本格的な城として整備したもので、本丸、二の郭、三の郭が深い空堀によって分断された、典型的な中世型の平山城であった 5 。この城は、後藤氏や龍造寺氏との度重なる攻防戦の舞台となったが、その防御構造はあくまで空堀と土塁が主体であり、戦国末期に主流となる大規模な軍勢と鉄砲を用いた攻城戦に対しては、次第にその脆弱性を露呈しつつあった。

純忠の子・喜前は、父が直面した内憂外患の苦難を間近で見て育ち、自らも朝鮮出兵という最新の戦争を経験することになる 3 。この経験を通じて、旧態依然とした三城城では、来るべき新時代の動乱を乗り切ることは不可能であると痛感した。したがって、玖島城の築城は、単なる城郭の近代化という軍事的な要請に留まらず、父の代から続く不安定な状況という負の遺産を断ち切り、新たな時代に盤石の統治体制を築くための、世代交代を象徴する一大事業だったのである。

第二章:玖島城の誕生―初代藩主・大村喜前の決断

玖島城の築城は、初代藩主・大村喜前の冷静な情勢分析と、実戦に裏打ちされた戦略的思考の産物であった。彼の下した一連の決断は、大村氏の運命を決定づけ、近世大名としての存続を可能にした。

その決断の根幹を成したのが、文禄・慶長の役、すなわち朝鮮出兵における経験である。喜前は父・純忠に代わって軍を率いて朝鮮半島に渡り、忠州の戦いや順天城の戦いといった激戦に参加した 3 。特に慶長の役における順天城での籠城戦は、彼の築城思想に決定的な影響を与えた。この戦いで、喜前を含む日本の諸将は、三方を海に囲まれた順天倭城に立てこもり、数倍の兵力を有する明・朝鮮連合軍の猛攻を撃退することに成功した 3 。この経験から、喜前は「海に囲まれた城は守りやすく攻めにくい」という、身をもって得た教訓を深く胸に刻んだのである 3

この実戦の教訓は、豊臣秀吉の死という絶好の機会に実行に移された。慶長3年(1598年)に秀吉が死去し、国内に再び戦乱の機運が高まると、喜前は政情不安に備えるため、直ちに新城の築城に着手した 2 。そして、その築城地に選ばれたのが、まさに順天城を彷彿とさせる、三方を大村湾に囲まれた要害の地・玖島であった。工事は迅速に進められ、翌慶長4年(1599年)には、早くも三城城から居城を移している 3 。この迅速さは、来るべき動乱に対する彼の強い危機意識を物語っている。

玖島城という「ハードパワー」の整備と並行して、喜前は「ソフトパワー」である政治的判断力も遺憾なく発揮した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、彼は重大な岐路に立たされる。朝鮮出兵では西軍の中心人物である小西行長の配下として共に戦った松浦氏、有馬氏、五島氏といった肥前の諸大名と、自らの去就について神集島で協議を行った 3 。このとき、過去の主従関係や義理に囚われることなく、冷静に天下の趨勢を見極めた喜前の意見が採用され、彼ら四氏は徳川家康率いる東軍に味方することを決定した 3 。結果として東軍は勝利を収め、喜前はその功績によって所領を安堵され、大村藩2万7千石の初代藩主としての地位を確立したのである 1

このように、玖島城の築城と関ヶ原での東軍加担は、表裏一体の生存戦略であった。朝鮮出兵で得た最新の軍事思想を玖島城建設で具体化し、同時に、冷静な政治判断によって新時代の勝者に取り入ることで、大村氏は戦国末期の動乱を乗り越えた。玖島城は、まさにその成功を象徴する記念碑と言えるだろう。

年号(西暦)

出来事

永禄6年(1563)

大村純忠、日本初のキリシタン大名として洗礼を受ける 16

天正15年(1587)

純忠が死去し、大村喜前が家督を相続する 3

文禄元年(1592)

喜前、文禄・慶長の役に従軍する 3

慶長3年(1598)

豊臣秀吉の死後、喜前は玖島城の築城に着手する 3

慶長4年(1599)

玖島城へ居城を移す。豊臣姓を下賜される 3

慶長5年(1600)

関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦後、所領を安堵され初代大村藩主となる 3

慶長7年(1602)

喜前、キリスト教を棄教し、日蓮宗に改宗する 5

慶長19年(1614)

2代藩主・純頼が玖島城の大改修を行う。加藤清正の指導を受けたと伝わる 6

明暦3年(1657)

藩内最大の潜伏キリシタン弾圧事件「郡崩れ」が発生する 19

明治4年(1871)

廃藩置県により玖島城は廃城となり、建造物は解体される 4

明治17年(1884)

本丸跡に大村神社が建立される。長岡安平により桜が植樹され、公園化が始まる 18

昭和16年(1941)

大村神社境内にて、新品種の桜「オオムラザクラ」が発見される 22

昭和42年(1967)

「大村神社のオオムラザクラ」が国の天然記念物に指定される 22

平成4年(1992)

板敷櫓が復元される 24

令和6年(2024)

「玖島城跡」が国の史跡に指定される 26

第三章:城郭の構造と縄張り―実戦から統治へ

玖島城の物理的な構造は、戦国末期の実戦的な要請と、近世初期の統治拠点としての機能が見事に融合した、時代の移行期を体現する城郭であった。その縄張りや各施設には、築城主・喜前の明確な意図が反映されている。

地形を活かした縄張り

城は、大村湾に突き出た半島の先端という天然の要害に築かれている 4 。本丸を中心に、二の丸、三の丸を巧みに配置した連郭式の縄張りを採用し、城の周囲は海水を引き込んだ広大な水堀で固められていた 4 。特筆すべきは、城近くの遠浅の海中に「捨堀」と呼ばれる水中障害物を設けていた点である 4 。これにより、敵兵が干潮時に徒歩で接近することや、大船が城壁に直接到達することを防ぎ、海城としての防御力を極限まで高めていた。この徹底した対海上防御思想は、朝鮮出兵での経験が生かされた結果に他ならない。

加藤清正の影響と石垣技術

慶長19年(1614年)、2代藩主・大村純頼の時代に行われた大改修において、玖島城はさらに堅固で壮麗な姿へと変貌を遂げた。この改修は、築城の名手として名高い肥後熊本城主・加藤清正の指導を受けたと伝えられている 5 。清正自身は改修着工前の慶長16年(1611年)に死去しているため、直接的な指揮ではなく、生前の助言や彼の家臣団が持つ先進的な技術が導入されたものと考えられる 27

その影響が最も顕著に表れているのが、南側に移設された大手口から板敷櫓にかけて残る石垣である 4 。この石垣は、隅部が緩やかな曲線を描きながら立ち上がる、いわゆる「扇の勾配」と呼ばれる優美な姿を見せる 12 。これは見た目の美しさだけでなく、石垣を登ろうとする敵兵を阻む効果と、地震に対する構造的安定性を高める効果を併せ持つ、高度な技術であった 28 。また、石材を加工して隙間なく積み上げる「打ち込みはぎ」という技法が用いられており、近世城郭としての威容を誇示している 4 。これらの壮麗な石垣は、小藩でありながら大村氏が中央の最新築城技術を導入できるだけの情報網と財力を有していたことを示している。

天守なき本丸

近世城郭の象徴ともいえる天守は、玖島城には築城当初から存在しなかった 1 。本丸には天守台すら設けられず、藩主の居館である御殿と、藩の政務を執り行う政庁がその中心を占めていた 4

この「天守なき城」という選択には、いくつかの理由が考えられる。第一に、関ヶ原の戦いを経て戦乱の時代が終息に向かう中で、莫大な費用を要する天守の軍事的・象徴的価値が相対的に低下し、むしろ藩政の拠点としての実用性が重視されたこと 31 。第二に、新たに成立した徳川幕府に対して、過度な軍事力を誇示することを避けるという、外様大名としての政治的配慮があった可能性である。玖島城の構造は、権威の象徴としての「見せるための城」から、藩政を運営する「治めるための城」へと、城郭の機能が移行していく時代の流れを明確に体現している。

海城としての機能

玖島城のアイデンティティを最もよく表しているのが、海城ならではの付属施設である。城の西側の入江には、藩主が使用する御座船や軍船を格納するための「お船蔵」が設けられていた 4 。現在もその石積みの基礎が残り、長崎県の史跡に指定されているこの遺構は、藩の権力が海上にも及び、水運が藩の経済と軍事を支える生命線であったことを示す物理的な証拠である 5 。また、米などを荷揚げするための「新蔵波止」も築かれ、玖島城が単なる軍事要塞ではなく、大村藩の物流ハブとしても機能していたことを物語っている 4 。これらの施設群は、この城が陸だけでなく海をも支配領域とする、海洋領主の拠点であったことを雄弁に語っている。

第四章:大村藩の統治とキリスト教との訣別

玖島城は、軍事拠点であると同時に、大村藩270年の治世を支える政治の中心であった。この城を舞台に、藩の存続を賭けた重大な政策転換が行われ、それは大村氏のアイデンティティそのものを変容させるものであった。

大村喜前の棄教と宗教政策の転換

築城主・大村喜前は、日本初のキリシタン大名であった父・純忠とは対照的に、キリスト教を棄教し、日蓮宗へと改宗するという大きな決断を下した 5 。この棄教は、慶長7年(1602年)に行われ、徳川幕府が全国的な禁教令を発する(慶長19年、1614年)よりも早い時期のことであった 5 。これは単なる個人の信仰の変化ではなく、新時代の覇者である徳川幕府への恭順の意を明確に示し、藩の存続を確実にするための、極めて戦略的な政治判断であった 17

棄教の証として、喜前は父の代に領内に建てられた教会を破壊し、その跡地に寺社を建立した 5 。その象徴が、大村家の新たな菩提寺として創建された日蓮宗の本経寺である 16 。玖島城という「俗」の権力拠点と、本経寺という「聖」の権力拠点を新たに整備することで、喜前は「キリシタン大名の家」という過去のアイデンティティと訣別し、幕藩体制下の忠実な藩主としての大村氏の新たな姿を領内外に示したのである。

城下町の形成と藩政の確立

玖島城の築城に伴い、旧本拠地である三城の城下から家臣団や町人が移され、計画的な城下町が形成された 36 。城の麓には、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路からなる「五小路」と呼ばれる武家屋敷群が整備され、藩の支配体制が物理的にも確立された 36 。玖島城は、藩主の住まいであると同時に、家臣団が集住する武家社会の中心となり、ここから発せられる命令が領内を統治する、名実ともに大村藩の政治的・軍事的中枢となった。

藩を揺るがしたキリシタン弾圧―「郡崩れ」事件の真相

喜前による宗教政策の転換にもかかわらず、領内ではキリスト教の信仰が水面下で生き続けていた。その根深さを白日の下に晒したのが、喜前の死から約40年後の明暦3年(1657年)に発生した、藩内史上最大規模の潜伏キリシタン発覚事件「郡崩れ」である 19

事件の発端は、大村藩郡村の信者の一人が長崎で漏らした、「郡村に天草四郎の再来と呼ばれる神童が現れた」という噂であった 19 。この情報が長崎奉行所を通じて大村藩に通報されると、藩は大規模な摘発に乗り出した。調査の結果、六左衛門という少年を中心とする潜伏キリシタンの組織が明らかとなり、逮捕者は郡村、萱瀬村など広範囲に及び、最終的に608人に達した 19

取り調べの結果は過酷を極め、411人が死罪とされ、大村の放虎原刑場をはじめ、長崎、佐賀、平戸、島原の各地で処刑されるという大惨事となった 19 。この事件は、藩主の権力をもってしても、民衆の深層に根差した信仰を完全には支配しきれなかったという事実を浮き彫りにした。また、事件の発覚が長崎奉行所との連携によってなされたことは、大村藩の統治が幕府の広域的な支配ネットワークの一部として機能していたことを示している。玖島城から発せられる藩の公式な統治イデオロギーとは裏腹に、領内には別の信仰共同体が半世紀以上にわたって存続していたのであり、「郡崩れ」はその悲劇的な終焉であった。

第五章:近世から近代へ―城の終焉と再生

江戸時代を通じて、玖島城は一度も戦火に見舞われることなく、大村藩統治の拠点として泰平の世を過ごした 2 。しかし、明治維新という未曾有の社会変革は、この城の運命を大きく変えることになる。武家支配の象徴であった城は、その役目を終え、やがて近代的な市民の空間として生まれ変わる道を歩むこととなった。

明治維新と廃城

明治4年(1871年)の廃藩置県により大村藩は消滅し、玖島城はその政治的機能を喪失した。当初は大村県の県庁が置かれたものの、すぐに長崎県に統合されたことでその役割も終わりを告げた 30 。そして、明治政府が発布した廃城令に基づき、城内にあった藩主の御殿や櫓、門といった建造物はすべて取り壊され、往時の姿を偲ぶことができるのは、壮麗な石垣と堀のみとなった 4 。全国の多くの城がたどったように、玖島城もまた、歴史の表舞台から姿を消すかに見えた。

大村公園への変貌―近代公園の父・長岡安平の設計思想

しかし、玖島城跡は単なる廃墟となる運命を免れた。その再生に決定的な役割を果たしたのが、奇しくも大村藩士の家に生まれた、長岡安平(1842-1925)という一人の傑出した人物であった 21

長岡安平は、「日本近代公園の先駆者」あるいは日本人初の「公園デザイナー」と評される、明治から大正期にかけて活躍した日本を代表する造園家である 39 。彼は東京の芝公園や秋田の千秋公園など、全国各地の公園設計を手掛け、日本の公園史に多大な功績を残した 39

玖島城跡の公園化は、明治17年(1884年)、旧藩臣らによって本丸跡に大村家歴代を祀る大村神社が建立されたことを契機に本格化する 18 。この年、東京で公園行政に携わっていた長岡は、故郷の城跡のために東京から約1000本もの桜の苗木を取り寄せ、神社創建を記念して城内に植樹したと伝えられている 21 。これが、現在「さくら名所100選」にも選ばれる大村公園の原点となった。

長岡の設計思想の根底には、「その土地の自然地理を活用する」という理念があった 21 。彼は、玖島城が持つ石垣や堀といった歴史的遺構を破壊・撤去するのではなく、それらを公園の景観を構成する重要な要素として積極的に活かした。軍事と統治の象徴であった城郭は、長岡の先進的な設計思想によって、市民が憩い、自然の美しさを享受するための近代的で開かれた公共空間へと昇華されたのである。これは、歴史的遺産の破壊による断絶ではなく、地域の歴史的文脈を尊重した創造的な継承の好例であり、郷土が生んだ偉人の手による文化的な「再生」事業であったと言える。

第六章:現代に伝わる玖島城の遺産

かつて大村藩の拠点であった玖島城跡は、現代において、歴史、自然、文化が重層的に結びついた、他に類を見ない複合的な文化遺産(コンプレックス・ヘリテージ)として、新たな価値を放っている。

国指定史跡としての価値

玖島城跡の歴史的重要性は、令和6年(2024年)10月11日、文化財保護法に基づき正式に国の史跡に指定されたことで、国家的な公認を得るに至った 26 。この指定は、戦国時代末期から近世への移行期における城郭の構造、特に海城としての顕著な特徴、そして大村氏270年の藩政の中心地としての歴史的価値が総合的に評価された結果である。これにより、玖島城跡は将来にわたって適切に保存・活用されるための法的基盤が確立され、その歴史に新たな一ページが刻まれた。これは過去の歴史の終わりではなく、未来に向けた保存と活用の新たな始まりを意味するものである。

国指定天然記念物「オオムラザクラ」―城跡に咲く奇跡の花

玖島城跡の価値を唯一無二のものにしているのが、国指定天然記念物「オオムラザクラ」の存在である。この桜は、昭和16年(1941年)、本丸跡に鎮座する大村神社の境内で、数多くの里桜の中から発見された極めて珍しい品種である 22

その植物学的な特徴は際立っている。まず、花弁の数が非常に多く、少ないものでも60枚、多いものでは200枚にも及ぶ豪華な八重咲きである 22 。さらに最大の特徴は、すべての花が「二段咲き」という形態をとることである 22 。これは、八重の花の内側からさらにもう一つの小さな花が咲くような構造で、他に例を見ない。その学術的希少性が認められ、昭和42年(1967年)に「大村神社のオオムラザクラ」として国の天然記念物に指定された 22 。このオオムラザクラは、歴史的遺産である城跡と、そこで育まれた独自の自然遺産が分かちがたく結びついた稀有な例であり、玖島城跡の文化的な深みを一層豊かなものにしている。

市民の憩いの場としての現在

廃城後、玖島城跡は「大村公園」として整備され、広く市民や観光客に親しまれる空間となっている 4 。園内には約2000本の桜が植えられ、「日本さくら名所100選」にも選定されている 27 。春にはソメイヨシノに続き、オオムラザクラが高貴な花を咲かせ、初夏には約30万本の花菖蒲が堀を彩る 20

平成4年(1992年)には、往時の姿を偲ばせる板敷櫓が木造で復元され、公園の新たなシンボルとなっている 12 。この櫓は、美しい扇の勾配を持つ石垣の上にそびえ立ち、城郭としての歴史的景観を現代に伝えている。これらの花々や復元建造物が織りなす景観は、この場所が単なる保存対象の史跡ではなく、現代の人々の生活や文化活動と一体化した「生きている遺産」であることを示している。

結論:歴史の奔流を乗り越えた海城のレガシー

肥前国・玖島城の歴史は、日本の社会が中世から近世、そして近代へと劇的に移行する時代の奔流そのものを映し出している。その価値は単一の視点では語り尽くせない、極めて重層的なものである。

第一に、玖島城は戦国時代末期の軍事思想が到達した一つの極致である。朝鮮出兵という実戦の教訓から導き出された「海城」という選択、加藤清正の影響が垣間見える壮麗かつ堅固な石垣群は、戦乱の時代の終焉を飾るにふさわしい、高度な防衛思想の結晶であった。

第二に、この城はキリシタン大名の家に生まれた藩主の苦悩と決断の舞台であった。父・純忠の信仰と訣別し、幕藩体制下で生き残るためにキリスト教を棄教した喜前の政治的判断は、玖島城を新たな統治イデオロギーの拠点へと変貌させた。その一方で、城下で起きた「郡崩れ」の悲劇は、権力による思想統制の限界と、信仰の根深さを物語る痛切な記憶として刻まれている。

第三に、玖島城は近世大名の統治拠点としての役割を全うし、一度も戦火に晒されることなく泰平の世を過ごした。天守をあえて築かず、政庁機能を中心としたその構造は、城郭が軍事要塞から行政センターへとその役割を移行させていく時代の流れを先取りするものであった。

そして最後に、明治維新後の廃城という危機を乗り越え、郷土が生んだ先駆者・長岡安平の手によって近代的な公園として再生されたことは、この城の歴史における特筆すべき転換点であった。さらに、その地で発見された国指定天然記念物「オオムラザクラ」という奇跡は、歴史遺産と自然遺産が融合する稀有な価値を生み出した。2024年の国指定史跡化は、これら全ての複合的な価値が公に認められたことを意味する。

結論として、玖島城は単なる過去の遺物ではない。戦国の記憶、キリシタンの祈りと弾圧、近世の統治、そして近代市民社会の息吹という、幾層にもわたる歴史の地層が、石垣の一石一石、桜の一花一花に刻み込まれた「生きている遺産」である。その多面的なレガシーを解き明かし、未来へと継承していくことは、現代に課せられた重要な責務と言えよう。

引用文献

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  29. 大村市ふるさと納税返礼品「玖島城石垣の石NFT」 https://www.city.omura.nagasaki.jp/furusato/shise/kifu/furusato/kushima_nft.html
  30. 玖島城~板敷櫓~ http://urawa0328.babymilk.jp/nagasaki/kusimajou.html
  31. 【お城の基礎知識】天守のない城 - 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/shiro-shiro/castle-without-a-castle-tower/
  32. 大村城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.ohmura.htm
  33. 大村藩主大村家墓所 - 長崎県の文化財 https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/111
  34. 【フォト巡礼】「大村藩初の殉教」 - 長崎県 https://www.pref.nagasaki.jp/object/kenkaranooshirase/oshirase/448226.html
  35. 大村キリシタンの歴史をたどって、天正夢広場へ - おらしょ こころ旅 https://oratio.jp/p_burari/oomurakirisitannnorekisiwotadottetensyouyumehirobahe
  36. 玖島城武家屋敷通り(大村城下五小路) https://www.city.omura.nagasaki.jp/kankou/kanko/spot/rekishi/bukeyashikidori.html
  37. 玖島城跡のクチコミ一覧 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_42205af2170020185/kuchikomi/
  38. 第27回 「花菖蒲が彩る、城下町・大村をぶらり。」 - ながさきプレス https://www.nagasaki-press.com/kanko/column-kanko/furari-travel/tab27/
  39. 近代公園の先駆者長岡安平生家跡 - 地域遺産の旅 http://rekisitannbou.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-d633.html
  40. 長岡安平 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%AE%89%E5%B9%B3
  41. 長岡安平の紹介 - 公益財団法人東京都公園協会 https://www.tokyo-park.or.jp/special/nagaokayasuhei/introduction.html
  42. 大村神社のオオムラザクラ(国指定天然記念物) - ながさき旅ネット https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/321
  43. 【さくら名所100選】長崎・大村公園 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/sakura00142008/