最終更新日 2025-08-23

大森城

福島 大森城 ― 伊達氏の興亡を映す南奥の拠点 ―

序章:臥牛城、その戦略的価値と歴史的意義

福島県福島市南部に位置する大森城は、通称を臥牛城(がぎゅうじょう)とも呼ばれ、戦国時代の南奥州(南東北)の動乱を映し出す極めて重要な山城である 1 。 この城は単なる公園内の史跡にとどまらない。 伊達氏内部の骨肉の争いである「天文の乱」の主要な舞台となり、伊達政宗による奥州統一事業においてはその躍進を支える策源地として機能し、そして天下統一という時代の大きなうねりの中でその役割を終えていった 3 。 まさに戦国という時代の縮図が、この一つの城の歴史に凝縮されているのである。

大森城が築かれた福島盆地南部は、地政学的に絶妙な位置にあった。 北へ向かう奥州街道、米沢へ抜ける米沢街道、そして会津へと通じる会津街道が交差する交通の要衝であり、この地を抑えることは物流と軍事の両面で決定的な優位を確保することを意味した 1 。 さらに、南には二本松の畠山氏、西には会津の蘆名氏という強大な戦国大名が控え、大森城は伊達氏にとって信夫郡南部を防衛するための最前線の盾であり、また同時に敵対勢力へ攻め込むための矛でもあった 6

本報告書は、歴史的記録、考古学的知見、そして地域に伝わる伝承を統合し、この大森城が持つ多面的な歴史的価値を包括的に解き明かすことを目的とする。 天文の乱における役割から、伊達政宗を支えた名将たちの居城としての時代、そしてその終焉に至るまで、城の変遷を詳細に追うことで、戦国期南奥州の歴史力学を深く理解するための一助としたい。

大森城 年表

西暦(和暦)

主な出来事

主要人物(城主・関連武将)

備考

鎌倉~南北朝時代

佐藤氏や二階堂氏による支配の可能性が示唆される 1

佐藤十郎左衛門盛衡、二階堂氏

築城年代は不明だが、古くから国人の拠点があったと推定される。

1542年(天文11年)

伊達稙宗・晴宗父子が争う「天文の乱」が勃発。大森城は稙宗方の拠点となる 3

伊達稙宗、伊達晴宗、伊達実元

稙宗の三男・実元が城主として父を支持 7

1548年(天文17年)

天文の乱が終結。晴宗方が勝利するが、実元は赦免され大森城主の地位を安堵される 3

伊達晴宗、伊達実元

乱後、大森城は対蘆名・畠山氏への重要拠点となる。

1568年(永禄11年)

伊達成実、大森城にて誕生 3

伊達実元、伊達成実

実元の嫡男。のちに政宗の片腕として活躍。

1584年(天正12年)

実元が隠居し、成実が家督を継ぎ大森城主となる 9

伊達実元、伊達成実

実元は八丁目城へ移る 6

1585年(天正13年)

人取橋の戦い。成実は伊達軍の崩壊を防ぎ、政宗の窮地を救う 12

伊達政宗、伊達成実

大森城は成実の出撃拠点として機能。

1586年(天正14年)

成実が二本松城主へ転封。後任として片倉景綱が大森城主となる 3

伊達成実、片倉景綱

城の役割が前線基地から後方支援・戦略拠点へ変化。

1589年(天正17年)

摺上原の戦い。政宗は大森城に入り、会津攻略の最終拠点とする 3

伊達政宗、片倉景綱

政宗は4月23日に大森城入り。ここから土湯峠を越え会津へ侵攻。

1591年(天正19年)

豊臣秀吉の奥州仕置により、信夫郡は伊達領から没収される 3

木村吉清

蒲生氏郷の客将・木村吉清が大森城主となる。

1593年(文禄2年)頃

木村吉清が杉目城(のちの福島城)へ拠点を移し、城下町ごと移転。大森城は一時廃城となる 1

木村吉清

これが現在の福島市の直接的な起源となる。

1598年(慶長3年)

上杉景勝が会津120万石へ転封。大森城は再興され、城代として栗田国時が置かれる 3

上杉景勝、栗田国時

大森城は上杉氏の支城として再び軍事拠点化される。

1601年(慶長6年)

関ヶ原の戦後、上杉領は米沢30万石に減封。芋川正親が大森城代となる 3

芋川正親

以後4代にわたり芋川氏が城代を務める。

1664年(寛文4年)

上杉綱勝の急死に伴う領地半減により、信夫郡は幕府直轄領(天領)となる。大森城は完全に廃城となる 1

芋川高親

120年以上にわたる城の歴史に幕が下ろされた。

1928年(昭和3年)

城跡が「大森城山公園」として整備される 1

市民の憩いの場、桜の名所として現在に至る。

1993年(平成5年)

展望台建設に伴う発掘調査で16世紀の陶磁器が出土 1

戦国時代の城の活動を裏付ける考古学的証拠が確認された。

第一部:大森城の黎明 ― 戦国以前の姿

大森城の起源は、歴史の霧に包まれている。 伊達晴宗が天文11年(1542年)に築城したという説が広く知られているが 7 、これは戦国期の伊達氏による大規模な改修を指すものと考えられ、城そのものの始まりはさらに古くまで遡る蓋然性が高い。 城跡周辺には鎌倉時代から室町時代初期にかけての板碑(供養塔)が数多く残存しており、この一帯が伊達氏の本格的な進出以前から、有力な在地領主(国人)の拠点であったことを強く示唆している 1

具体的な城主として、いくつかの氏族の名が伝承として残されている。 南北朝時代には、源義経の家臣として名高い佐藤継信・忠信の一族に連なる佐藤十郎左衛門盛衡という武将がこの地に居を構えたとされる 3 。 これは『小手濫觴記』などの地誌に見られる記述であるが、確固たる一次史料に乏しく、あくまで伝承の域を出ない 9 。 しかし、佐藤氏が信夫荘の荘司としてこの地域に深く根を下ろしていたことを考えれば、大森の丘陵が彼らの防衛拠点の一つであった可能性は十分に考えられる。

また、鎌倉時代から室町時代初期にかけて、この地域は須賀川を本拠地とする二階堂氏の勢力圏にあったとも言われている 1 。 二階堂氏にとって、北の伊達氏に対する前線基地として、大森の地に城館を構えることは戦略的に理に適っていた 18

これらの断片的な記録や伝承は、一つの明確な事実を浮かび上がらせる。 それは、大森城が特定の誰かによって無から築かれたのではなく、その戦略的な立地ゆえに、古くから地域の覇権を争う様々な勢力によって利用され、改修され続けてきた場所であるということだ。 福島盆地における在地領主たちの興亡の中で、大森城は常に国境の城砦として機能し、絶え間ない緊張関係の中に置かれていた。 伊達氏がこの城を手中に収めたとき、彼らは白紙の土地に城を築いたのではなく、幾世代にもわたる軍事的価値が刻み込まれた戦略拠点を継承し、そしてそれを自らの時代にふさわしい形へと昇華させたのである。

第二部:天文の乱、父子の相克と大森城

戦国時代の伊達氏の歴史を揺るがした最大の内乱、「天文の乱」(1542年~1548年)において、大森城は極めて重要な役割を演じた。 この乱は、伊達氏第14代当主・稙宗が、三男・実元を越後守護の上杉定実の養子に送り込もうとしたことに端を発する 19 。 このような過度な勢力拡大策に、嫡男の晴宗とその家臣団が強く反発し、晴宗が父・稙宗を西山城に幽閉するという挙に出たことで、南奥州全域を巻き込む6年にも及ぶ大乱へと発展した 8

この父子相克の渦中にあったのが、伊達実元その人であった。 乱が勃発すると、父・稙宗は実元に大森城を託し、自派の拠点とさせた 4 。 大森城の地理的位置は、晴宗方の勢力圏である伊達郡の南方に楔を打ち込み、稙宗を支持する相馬氏や田村氏との連絡線を確保する上で、まさに死活的に重要であった 21 。 乱の期間中、大森城は稙宗方の最前線基地として機能し、激しい攻防の舞台となった。 一時は晴宗方に城を奪われ、実元が梁川へ逃れるという事態も発生しており、この地域の戦いが如何に熾烈であったかを物語っている 19

長い戦いの末、乱は晴宗方の勝利に終わる。 稙宗は隠居を余儀なくされ、伊達氏の家督は晴宗が継承した 20 。 通常であれば、敵対した中心人物である実元も厳しい処分を受けるはずであった。 しかし、晴宗は実元を赦免し、大森城主としての地位をそのまま認めるという異例の措置を取った 10

この決断は、単なる兄弟間の温情によるものではなく、極めて高度な政治的・戦略的判断に基づいていた。 天文の乱によって伊達家の勢力は著しく衰退し、家臣団は分裂、周辺大名の発言力は増大していた 22 。 勝利者である晴宗にとって、喫緊の課題は報復ではなく、疲弊し分裂した領国の再建と安定であった。 特に、大森城が位置する信夫郡南部は、強大な蘆名氏や畠山氏と国境を接する最前線である 6 。 このような危険地帯に、能力の低い、あるいは信頼の置けない武将を配置することは、新たな侵攻を招きかねない愚策であった。

一方の実元は、敗れたとはいえ、乱を通じてその軍事的能力と統率力を証明していた。 何よりも彼は伊達一門の人間であり、家を思う気持ちに疑いはなかった。 晴宗は、実元を赦免し大森城を安堵することで、二つの目的を同時に達成した。 一つは、内乱で生じた一族内の亀裂を修復し、寛容さを示すこと。 もう一つは、最も危険な国境地帯に、最も有能で信頼できる司令官を配置することであった。 この瞬間、大森城の役割は劇的に転換する。 それまで伊達家内部の反乱の象徴であった城は、伊達家の領国を外部の脅威から守るための強固な盾へと生まれ変わったのである。

第三部:政宗を支えた名将たちの居城

天文の乱後、大森城は伊達政宗の時代にかけて、伊達家でも特に傑出した三人の武将が相次いで城主を務める栄誉ある城となった。 実元、成実、景綱という三代の城主の変遷は、そのまま伊達氏の戦略の進化を物語っている。

1. 伊達実元 ― 温厚にして遠略ある武将

天文の乱終結後、伊達実元は大森城主として信夫郡南部の統治にあたった 5 。 彼の治世は、乱で疲弊した領内の安定と、南方勢力に対する防衛に重点が置かれた。 墓碑銘によれば、実元の人柄は「温厚沈実にして遠略あり」と評され、温和で誠実でありながら、遠大な戦略眼を持つ人物であったと伝えられている 23 。 敗軍の将でありながら、乱の直後に城の留守居役であった遠藤隠岐を追い出して城主に復帰し、晴宗もそれを黙認したという逸話は、彼の人望と影響力の大きさを物語っている 19

永禄11年(1568年)、のちに「武の成実」と称される嫡男・成実が大森城で誕生した 3 。 天正12年(1584年)、実元は家督と大森城を成実に譲り、自身は支城である八丁目城に隠居した 6 。 そして天正15年(1587年)に61歳でその生涯を閉じ、大森城の南方に位置する陽林寺に葬られた 19 。 この陽林寺は、父・稙宗が開基となった伊達家ゆかりの寺院である 24

2. 伊達成実と片倉景綱 ― 政宗の両腕、城を継ぐ

実元から城を受け継いだ伊達成実は、従兄弟である伊達政宗の最も信頼する将の一人であった。 彼が城主であった天正12年(1584年)から天正14年(1586年)までの期間、大森城は政宗による領土拡大戦争の最前線基地として、再びその軍事的性格を強める 3 。 特に、南方の宿敵であった二本松畠山氏との戦いにおいて、大森城は成実が出撃する際の重要な拠点となった 6

天正14年(1586年)、二本松城が落城すると、政宗はその功績を賞して成実を二本松城主へと栄転させた。 そして、空いた大森城の城主として政宗が選んだのが、「智の小十郎」として知られるもう一人の腹心、片倉小十郎景綱であった 3

この城主交代は、大森城の役割が新たな段階に入ったことを示している。 景綱が城主であった天正14年(1586年)から天正19年(1591年)の間、最前線はさらに南へと移動した。 これに伴い、大森城は直接的な戦闘拠点から、政宗がより大きな戦役(例えば会津侵攻)を遂行するための後方司令部、そして兵站と統治の拠点へとその性格を変えた。 景綱は武勇よりも戦略や内政に長けた武将であり、彼はこの城から南奥州の占領地の安定化を図り、政宗の本隊を兵站面で支えた。 天正17年(1589年)の会津攻めに先立ち、葛西・大崎両氏からの援軍である鉄砲隊五百人が大森城に到着したという記録は、景綱の下でこの城が兵力集積地として機能していたことを明確に示している 3

実元から成実、そして景綱へと続く城主の系譜は、決して偶然ではない。 それは、若き日の伊達政宗が自身の戦略目標の進化に合わせて、最も適した人材を最も重要な拠点に配置した、見事な人事戦略の現れであった。 すなわち、**安定期(実元) から 攻撃期(成実) へ、そして 制覇・統治期(景綱)**へと、伊達氏の戦略が変化するのに呼応して、大森城とその城主の役割もまた、見事に変貌を遂げていったのである。

第四部:奥州制覇の策源地として ― 人取橋・摺上原の戦い

伊達政宗が奥州の覇権を確立する過程で戦った二つの決戦、人取橋の戦いと摺上原の戦いにおいて、大森城は戦略的に不可欠な策源地としての役割を果たした。

人取橋の戦い(1585年)

父・輝宗が二本松城主・畠山義継によって拉致され、非業の死を遂げた事件をきっかけに、18歳の政宗は佐竹氏を中心とする南奥諸大名の3万にも及ぶ大連合軍と対峙することになった 12 。 伊達軍の兵力はわずか7,000。 まさに伊達家の存亡を賭けた一戦であった 14

この時、大森城主であった伊達成実は、伊達軍の左翼最前線に布陣した 12 。 彼の直接の出撃拠点は、二本松領との境である硫黄田や、占領したばかりの渋川城といった最前線であったが 30 、その背後にある大森城は、成実の部隊への兵員・物資の補給を担う、安全な後方基地として機能していた。 戦いは伊達軍の圧倒的不利に進み、本陣が崩壊寸前となる。 この絶体絶命の状況で、成実の部隊だけが踏みとどまり、敵の猛攻を食い止めた。 『成実記』には、味方が総崩れとなる中、「ここで討死するのが本望だ」と叫び、退却を促す家臣を叱咤して奮戦した成実の姿が描かれている 12 。 彼の獅子奮迅の働きがなければ、政宗自身も討死していた可能性が高く、まさに伊達家を滅亡の淵から救った英雄的な戦いであった 12

摺上原の戦い(1589年)

人取橋の戦いを乗り切った政宗は、次なる目標である会津の蘆名氏攻略へと乗り出す。 この奥州制覇の天王山ともいえる決戦において、大森城は最終出撃拠点という極めて重要な役割を担った。

この時の城主は片倉景綱であった。 天正17年(1589年)4月23日、政宗は本拠地である米沢城を出立し、大森城に入った 3 。 ここで全軍を集結させ、最終的な軍議を開き、会津侵攻の準備を整えた。 そして、景綱と共に土湯峠を越え、決戦の地である摺上原へと向かったのである 3

政宗の時代の伊達氏の本拠地が米沢城であったことを考えると、大森城の戦略的価値は一層際立つ。 米沢は四方を山に囲まれた盆地であり、防衛には適しているが、南方の福島盆地や会津へ大軍を迅速に展開するには地理的な制約があった 31 。 大森城は、その山々を越えた先の平野部に位置する、最初の戦略拠点であった。 つまり、政宗軍にとって大森城は、険しい山越えの後に軍を再編成し、補給を受け、敵地への最終攻撃態勢を整えるための「戦略的な着陸地点」として機能したのである。 この城なくして、摺上原での輝かしい勝利はあり得なかったかもしれない。 まさに大森城は、米沢を拠点とした政宗の南奥州制覇戦略の要石であった。

第五部:城郭の構造と縄張り ― 戦国期山城の精髄

大森城は、戦国時代の東北地方によく見られる典型的な連郭式(れんかくしき)の山城である 32 。 これは、山の尾根筋に沿って主要な曲輪(くるわ)を直線的に配置する縄張(なわばり)の形式を指す 1

主要な曲輪の配置

  • 本丸(主郭): 標高147メートルの最高地点に位置する城の中心部 1 。 山城としては約100メートル×50メートルとかなり広大な平坦地が確保されており、城主の居館や司令部が置かれていたと推測される 6 。 内部にはわずかな段差があり、公的な空間と私的な空間が区切られていた可能性が考えられる 1
  • 北館(きただて): 本丸の北側に位置する曲輪で、二の丸にあたると考えられている 5 。 現在は模擬櫓(展望台)が建てられているが、当時は城の正面口である大手口に繋がる重要な区画であった 1
  • 南館(みなみだて): 本丸の南側に位置する曲輪。 出丸(でまる)としての機能を持ち、一説には姫御殿などもあったとされる 5 。 南側からの敵の侵攻に対して、本丸とこの南館から挟撃できるような巧妙な設計がなされていた 5

防御施設

  • 空堀と土塁: 城の遺構として最も明瞭に残っているのが、本丸南側を囲む空堀と土塁である 1 。 記録によれば、堀の規模は幅6メートル、深さ4メートルに及んだとされ、本丸への直接攻撃を防ぐための主要な防御線であった 7
  • 虎口(こぐち): 城の出入り口である虎口は、大手(正面)が北東側、現在の城山観音堂がある方面から北館へ至る道筋にあったと考えられている 1 。 搦手(からめて、裏口)は西側にあったとされる 7 。 特に南館の北東部に見られる帯曲輪の入り組んだ構造は、敵の突進を阻むための枡形(ますがた)虎口のような、技巧的な門が存在したことを強く示唆している 1
  • 水堀: 丘陵の麓、北側の民家脇に残る水路は、外周を囲んでいた水堀の名残であるとされている 1

連郭式の縄張は、一見すると端から順に攻め落とされやすいという弱点を持つが 32 、大森城の設計はその弱点を地形の利用によって巧みに克服していた。 南からの主攻撃路は本丸と南館からの十字砲火を浴びる死地(キルゾーン)と化し、北東の大手口は急峻な坂道を長く登らせることで敵兵の勢いを削ぎ、側面からの攻撃を容易にする構造であった。 単純な直線配置に見えながら、実際には丘陵全体の地形を武器として取り込んだ、立体的で多角的な防御システムが構築されていたのである。 これは、戦国時代後期の城郭設計思想を体現した、実践的かつ洗練された縄張りであったと言える。

ただし、現在の大森城跡は、大森城山公園としての整備によって、特に北館周辺の地形が大きく改変されている 1 。 そのため、往時の姿を完全に復元することは困難であるが、残された遺構からは戦国期山城の精髄を十分に見て取ることができる。

第六部:時代の変転と城の終焉 ― 伊達氏退去後から廃城まで

伊達政宗による奥州制覇の象徴であった大森城の運命は、天下統一という巨大な政治的潮流によって大きく左右されることになる。

天正19年(1591年)、豊臣秀吉による奥州仕置(再仕置)が断行され、伊達氏は長年支配してきた信夫郡を没収された 3 。 大森城は伊達氏の手を離れ、会津領主となった蒲生氏郷の客将・木村吉清に与えられた 3 。 これは、伊達氏と大森城との百年にわたる関係が断ち切られた瞬間であった。

城主となった木村吉清は、やがて大きな決断を下す。 彼は軍事拠点としての山城である大森城から、統治と経済の中心地としてより適した平城の杉目城へと本拠を移すことを決定した 35 。 文禄2年(1593年)頃、吉清は杉目城を大規模に改修して「福島城」と改名し、大森から城下町の機能(寺社、商人、職人)を全て移転させた 1 。 この時、大森城は一時的に廃城となり、現在の福島市の礎が築かれたのである 37

その後、蒲生氏に代わって上杉景勝が会津120万石の領主となると、大森城は再び歴史の表舞台に登場する。 慶長3年(1598年)、上杉氏は大森城を再興し、重臣の栗田国時を城代として配置した 3 。 しかし、関ヶ原の戦いの直前、国時が徳川家康への内通を企てたため誅殺されるという事件が起こる 3

関ヶ原の戦後、上杉領は米沢30万石へと大幅に減封されたが、信夫郡の支配は維持された。 大森城には新たに芋川氏が城代として入り、以後4代にわたってこの地を治めた 3

大森城の最終的な終焉は、軍事的な敗北ではなく、政治的な理由によってもたらされた。 寛文4年(1664年)、米沢藩主・上杉綱勝が跡継ぎのないまま急死した。 これに対し、江戸幕府は上杉家の断絶を避けつつも、その領地を30万石から15万石へと半減させる裁定を下した 1 。 この時、信夫郡は上杉領から没収され、幕府の直轄領(天領)となったのである。 領主を失った大森城はもはや維持する理由がなく、ここに完全に廃城となり、その長い歴史に幕を下ろした 1

大森城の衰退と廃城の過程は、日本の社会が戦国乱世から近世の中央集権体制へと移行していく大きな時代の変化そのものを象徴している。 木村氏による福島への拠点移転は、軍事優先の山城から経済・統治機能を持つ平城へと城の役割が変化したことを示している。 そして、上杉氏の減封による廃城は、個々の大名の武力ではなく、江戸幕府という中央政権の権威が地方の城の存廃を決定する時代が到来したことを明確に示している。 大森城は、平和と中央集権化の時代の到来によって、その歴史的使命を終えたのである。

第七部:城下町の形成と変遷

戦国時代、大森城の東山麓には、城と一体となった城下町が形成され、大いに繁栄した 1 。 この繁栄の最大の要因は、前述の通り、奥州街道、米沢街道、会津街道という三つの主要街道が交差する、他に類を見ない交通の要衝であったことである 1 。 16世紀の大森は、信夫・伊達両郡において最大の町であり、政治・経済・交通の中心地として賑わいを見せていた 5

城下町の構造は、現在も残る地名から窺い知ることができる。

  • 武家屋敷地: 現在の信夫公民館周辺に残る「土手内(どてうち)」や「馬場(ばば)」といった地名は、この一帯が城の土塁の内側に位置する侍屋敷の区画であったことを示している 1
  • 町人街: 県道水原線沿いの「本町(ほんまち)」と呼ばれる地域が、商人や職人が住む商業地区であったと推測される 1

しかし、この城下町の運命は、城のそれと完全に連動していた。 天正19年(1591年)以降、城主となった木村吉清が、より広大で強固な地盤を持つ杉目(福島)の地に新たな城下町を建設することを決定すると、大森の町は存亡の危機に立たされた 35 。 吉清は、文禄2年(1593年)頃、自身の拠点を福島城へ移すにあたり、軍事施設だけでなく、大森から寺社、家臣団、そして商人や職人に至るまで、都市機能の全てを強制的に移転させたのである 3

この大規模な都市移転は、大森の城下町にとって致命的な打撃となった。 主要街道は新都心である福島を直接経由するように付け替えられ、大森は交通の結節点としての地位を完全に失った 1 。 町は急速にその活気を失い、政治・経済の中心地から一地方の集落へとその姿を変えていった。

この出来事は、単なる拠点の移動ではない。 それは、戦国時代の為政者が、政治的・経済的合理性に基づいて地形を再編し、新たな都市を計画的に創造する力を持っていたことを示す、近世的な都市計画の先駆けであった。 大森の城下町の衰退は、まさに現在の福島市という近代都市が誕生するための、必然的な代償だったのである。

終章:現代に伝わる大森城 ― 史跡としての価値と未来

かつて南奥州の覇権を巡る攻防の舞台となった大森城は、現在「大森城山公園」として整備され、福島市民の憩いの場として親しまれている 1 。 特に春には約700本の桜が咲き誇り、福島県内でも有数の桜の名所として多くの花見客で賑わう 2

公園として整備された城跡には、今なお戦国の面影を伝える遺構が点在している。

  • 遺構: 本丸や北館、南館といった主要な曲輪の形状、本丸南側に残る壮大な空堀と土塁、そして急峻な切岸(きりぎし)などは、今でもはっきりと確認することができる 1
  • 模擬櫓と関連史跡: 北館跡には、福島盆地を一望できる展望台を兼ねた模擬二層櫓が建てられているが、これは歴史的考証に基づいた復元ではない 1 。 また、東山麓の城山観音堂には、上杉時代の城代であった芋川氏四代の墓が静かに佇んでいる 1 。 城内には7世紀頃の古墳である城山東一号墳も移築復元されているが、これは城の歴史とは直接関係のないものである 42
  • 考古学的発見: 平成5年(1993年)に展望台建設に先立って行われた発掘調査では、北館跡から16世紀の瀬戸産陶磁器が出土した 1 。 これは、伊達氏が最も活発に活動した時代にこの城が確かに使用されていたことを示す、貴重な物的証拠である。

これほどまでに豊かで重要な歴史を持ち、伊達実元・成実・片倉景綱といった著名な武将たちと深く関わっているにもかかわらず、大森城跡は国・県・市のいずれの文化財史跡にも指定されていない 1 。 これは特筆すべき点である。

この背景には、史跡としての価値と市民公園としての価値の間に存在する、ある種のジレンマが見え隠れする。 大森城が市民に愛される公園として成功したことが、結果として史跡指定の妨げになっている可能性があるのだ。 公園化に伴う地形の改変や現代的な施設の建設は、多くの人々が安全に楽しめる環境を提供した一方で、史跡指定の要件となる「遺構の保存状態」という観点からは、考古学的な完全性を損なう要因となった 1

大森城は、歴史遺産と市民の憩いの場という二つの顔を持っている。 その未来は、この二つの価値をいかに融合させていくかにかかっている。 桜の名所としての人気を活かし、より詳細な説明板の設置、デジタル技術を用いた往時の姿の再現、専門家によるガイドツアーの実施などを通じて、訪れる人々がその足元に眠る壮大な歴史をより深く理解できるような取り組みが期待される。 そうした努力が実を結んだ時、大森城は単なる公園を超え、その歴史的価値にふさわしい文化財としての正式な評価を得る道が開かれるであろう。

引用文献

  1. 大森城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E5%9F%8E
  2. 大森城山公園 - ふくしまの旅 https://www.tif.ne.jp/jp/entry/article.html?spot=4998
  3. 大森城の歴史 | 大森城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/267/memo/1845.html
  4. 大森城跡 - 南奥羽歴史散歩 https://mou-rekisan.com/archives/17554/
  5. 大森城主時代 - 伊達成実専門サイト 成実三昧 http://shigezane.info/majime/sumai/oomori-jidai.html
  6. 福島城 大鳥城 大森城 鎌田城 宮代館 本内館 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/hukusima/hukusimasi.htm
  7. 大森城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/hukushima/oomori/oomori.html
  8. 骨肉の争い 天文の乱/福島市公式ホームページ https://www.city.fukushima.fukushima.jp/soshiki/7/1032/3/1/3/1401.html
  9. 陸奥 大森城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/ohmori-jyo/
  10. 大森城(福島県) | いるかも 山城 https://jh.irukamo.com/omorijo/
  11. 伊達 - 南相馬市 https://www.city.minamisoma.lg.jp/material/files/group/43/20180718-161331.pdf
  12. 伊達成実 - 亘理町観光協会 https://www.datenawatari.jp/pages/17/
  13. 八丁目城の見所と写真・100人城主の評価(福島県福島市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1869/
  14. 人取橋の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8F%96%E6%A9%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  15. 大森城の見所と写真・100人城主の評価(福島県福島市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/267/
  16. 摺上原の戦い(1/2)伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし奥州の覇者に - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/957/
  17. 城山観音堂・大森城主芋川氏の墓 | おすすめスポット - みんカラ https://minkara.carview.co.jp/userid/688575/spot/805645/
  18. 武家家伝_二階堂氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/2kaido_k.html
  19. 伊達成実の家族 http://shigezane.info/majime/kazoku/kazoku.htm
  20. 伊達氏天文の乱 稙宗・晴宗の父子合戦 http://datenokaori.web.fc2.com/sub27.html
  21. 天文の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E3%81%AE%E4%B9%B1
  22. 伊達氏天文の乱 - 福島県伊達市公式ホームページ https://www.city.fukushima-date.lg.jp/soshiki/87/1145.html
  23. 陽林寺 伊達実元墓碑 碑文 http://shigezane.info/majime/kazoku/bohi.html
  24. 陽林寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%9E%97%E5%AF%BA
  25. 位作山 陽林寺 - 曹洞宗 位作山 陽林寺 福島市の西にある緑に囲まれた市内を一望できる 伊達家由来の古いお寺です。郵送による御朱印の受付も行っております。 https://isakusan-yourinji.com/
  26. 陽林寺 - 曹洞禅ナビー寺院検索― 曹洞宗公式 寺院ポータルサイト https://sotozen-navi.com/detail/index_70003.html
  27. 〖歴史研究編〗 片倉小十郎に迫る(2/4) - 米沢日報デジタル https://www.yonezawa-np.jp/html/feature/2015/history9_katakurakojuro/katakurakojuroi2.html
  28. 武家家伝_片倉氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/katakura.html
  29. 人取橋合戦 https://joukan.sakura.ne.jp/kosenjo/hitotoribashi/hitotoribashi.html
  30. 伊達成実と合戦 http://shigezane.info/majime/nazo/shigezanetokassen.html
  31. 1『米沢・斜平山城砦群から見えてくる伊達氏の思惑』 https://www.yonezawa-np.jp/html/takeda_history_lecture/nadarayama/takeda_history1_nadarayama.html
  32. 5分で読める!お城を楽しむための【縄張と基本パターン3つ】を解説 - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/oshiro-lesson/castle-basic-nawabari/
  33. 【お城の基礎講座】49. お城の縄張(なわばり) - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2020/09/16/180000
  34. 福島市: 大森城 - 福島県 https://www.fukutabi.net/fuku/fukusimasi/oomorisiro.html
  35. 福島市史編纂室の守谷早苗氏の講演テーマは、「吾妻町の歴史~福島盆地の屋台骨に成立した信夫郡最後の街の歴史~」でした。10月28日 開催の福島市・吾妻町合併50周年記念式典でのこと。写真は、 - 福島市議会議員 https://nikaidou.net/nikanikanoposts/4614.html
  36. 福島城下散策マップ/福島市公式ホームページ https://www.city.fukushima.fukushima.jp/soshiki/7/1032/3/2/1/1374.html
  37. 福島城の変遷/福島市公式ホームページ https://www.city.fukushima.fukushima.jp/soshiki/7/1032/3/1/4/742.html
  38. 上杉景勝|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=42
  39. 大森の歴史 - 福島市信夫地区 大森第一区 https://oomori1.com/history01/
  40. 大森城山公園さくらまつり|イベント掲示板 - 福島市 https://www.gurutto-fukushima.com/event/2939/
  41. 大森城山公園さくらまつり - ふくしまの旅 https://tif.ne.jp/jp/entry/article.html?event=6933
  42. 大森城山古墳東1号墳 https://kofun.info/kofun/3714