加越国境の要衝、大聖寺城は南北朝から戦国、織豊時代を経て、関ヶ原の前哨戦の舞台となった。一国一城令で廃城となるも、良好な遺構が残り、日本の城郭史を今に伝える。
加賀国(現在の石川県)の南端、越前国との国境地帯にその威容を誇った大聖寺城は、日本の歴史の転換点において、常に重要な役割を担い続けた城郭である 1 。標高約70メートルの錦城山に築かれたこの平山城は 1 、その歴史的初見を南北朝時代の軍記物語『太平記』にまで遡ることができる 3 。以来、戦国時代の激しい動乱を経て、天下分け目の関ヶ原の戦いにおける壮絶な前哨戦の舞台となり、元和元年(1615年)の一国一城令によってその軍事的役割を終えるまで、北陸地方における政治・軍事の枢要を占め続けた。
大聖寺城が今日、歴史研究において特筆すべき価値を持つのは、その波乱に満ちた歴史だけではない。江戸時代、城跡が「お止め山」として一般人の立ち入りを厳しく禁じられた結果、戦国末期から織豊時代にかけての城郭遺構が奇跡的ともいえる良好な状態で保存されている点にある 2 。特に、織田・豊臣政権下における領主の本城としては石川県内で唯一の遺存例とされ、中世的な「土の城」から石垣を多用する近世城郭へと移行する過渡期の姿を今に伝える、学術的に極めて貴重な史跡なのである 2 。この歴史的・考古学的価値の高さが公的に認められ、近年、国の文化審議会は同城跡を国指定史跡とするよう文部科学大臣に答申するに至った 7 。本報告書は、この大聖寺城が辿った栄枯盛衰の軌跡を、各時代の背景と共に詳細に解き明かすものである。
大聖寺城の起源は鎌倉時代に遡り、狩野氏によって築城され、その居城となったと伝えられている 1 。その名が歴史の表舞台に明確に現れるのは、南北朝時代の動乱を記した軍記物語『太平記』においてである 1 。この事実は、大聖寺城が古くから加賀南部の戦略的要衝として認識されていたことを示唆している。
『太平記』には、大聖寺城を舞台とした具体的な戦闘の様子が二度にわたり記録されている。
第一の記録は、建武2年(1335年)のことである。鎌倉幕府滅亡後、北条氏の残党である名越時兼が後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻した「中先代の乱」に呼応し、北陸道で蜂起した。この時、名越軍の南下を阻止すべく、加賀国の在地武士である狩野一党が大聖寺城に籠もり、これを迎撃したと記されている 1 。これは、大聖寺城が地域の国人衆にとって重要な防衛拠点であったことを示す最初の記録である。
第二の記録は、その2年後の建武4年(1337年)に見られる。南朝方の中心人物であった新田義貞に与した敷地伊豆守や山岸新左衛門らが、当時、津葉清文が守っていた大聖寺城を攻略したとされる 1 。この記述は、城が南北朝の対立構造の中で、両勢力による争奪の対象となっていたことを物語っている。
これらの南北朝時代の記録に関して、一つの研究上の論点が存在する。それは、当時の大聖寺城が、現在の錦城山から見て背後に位置する「津葉城」であったとする説である 2 。『太平記』に登場する城主・津葉清文の名からも、この津葉城との関連性が窺える。大聖寺城と津葉城が同一の城を指す別称であったのか、あるいは錦城山と背後の丘陵にまたがる一帯の城砦群を構成し、密接に連携していたのかについては、未だ議論が続いている。しかし、いずれにせよ、この地域一帯が南北朝の動乱期において、既に軍事的に極めて重要な拠点であったことは疑いようがない。
時代が下り、戦国時代に入ると、大聖寺城の性格は大きく変貌を遂げる。「百姓の持ちたる国」と称された加賀国において、城は加賀一向一揆の重要な軍事拠点の一つとなった 8 。これにより、大聖寺城は単なる国人領主の居城から、宗教的・政治的イデオロギーを背景に持つ武装勢力の最前線基地へとその役割を変え、新たな緊張関係の中に置かれることとなる。
大聖寺城の地政学的な位置は、その宿命を決定づけた。加賀と越前の緩衝地帯という立地は、必然的に二つの勢力が衝突する最前線となることを意味した。一向一揆が支配する加賀と、守護大名・朝倉氏が統治する越前は、体制そのものが相容れない対立関係にあり、国境に位置する大聖寺城は、その角逐の象徴的な舞台となったのである。
この対立が激しい軍事衝突として現れたのが、天文24年(1555年)の出来事である。越前の戦国大名・朝倉義景の叔父にして名将と謳われた朝倉宗滴が、一向一揆討伐のため加賀へ侵攻。その際、大聖寺城は南郷城、千束城と共に、わずか一日で陥落させられたと『朝倉始末記』は伝えている 1 。この電撃的な攻略は、朝倉氏にとって大聖寺城が加賀侵攻の足掛かりとしていかに重要であったかを示している。
さらに永禄10年(1567年)には、より複雑な攻防が繰り広げられた。朝倉氏の重臣であった堀江景忠が、一向一揆と結託して主君に謀反を企てたのである。この時、一揆勢は堀江氏救援のために軍を動かし、朝倉軍と激しく衝突した。戦いは膠着し、最終的には室町幕府の次期将軍候補であった足利義昭の斡旋により和議が結ばれる。その講和条件として、一揆方が大聖寺城など三つの城を焼き払うことが盛り込まれた 1 。この事実は、大聖寺城が単なる軍事拠点に留まらず、敵対勢力間の外交交渉における重要な駆け引きの材料としても利用されていたことを示している。
このように、大聖寺城の戦国時代における歴史は、その地理的条件によって規定されていた。一向一揆にとっては対越前の橋頭堡であり、朝倉氏にとっては加賀制圧の突破口であった。この絶え間ない争奪戦こそが、城の度重なる破壊と修復、そして支配者の頻繁な交代という、この時代の特徴を形成したのであり、城の運命は、その立地によって予め定められていたと言っても過言ではない。
天正3年(1575年)、越前朝倉氏を滅ぼし、一向一揆との石山合戦を優位に進めていた織田信長は、その勢力を北陸へと拡大する。信長の命を受けた柴田勝家は加賀国に侵攻し、江沼・能美の二郡を制圧。この時、一向一揆の拠点であった大聖寺城は修復され、織田政権の加賀支配の拠点として生まれ変わった 8 。
信長政権下で、大聖寺城の城主は目まぐるしく変わった。当初は戸次広正(簗田広正)が城代として置かれた 1 。現在も城跡に残る「戸次丸」という曲輪の名称は、彼の名に由来すると考えられている 9 。しかし、翌年に一揆が蜂起すると、その鎮圧に功のあった佐久間盛政が新たな城主となった 8 。
この時期、北陸の情勢は織田氏と越後の上杉謙信との間で緊迫していた。天正5年(1577年)の「手取川の戦い」で織田軍が上杉軍に大敗を喫すると、大聖寺城も一時的に上杉方の手に落ち、城将として藤丸勝俊が置かれた。しかし翌年、謙信が急死すると織田方は勢いを盛り返し、再び城を奪還。今度は柴田勝家の与力である拝郷家嘉が城主となるなど、大聖寺城は北陸の覇権をめぐる争いの最前線であり続けた 1 。
天正11年(1583年)、織田政権内の主導権を争う「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が羽柴秀吉に敗れ、滅亡する。これにより北陸の支配体制は一変し、大聖寺城は新たな支配者の時代を迎える。秀吉は加賀二郡を重臣の丹羽長秀に与え、その与力として溝口秀勝を4万4千石で大聖寺城に入城させた 1 。
この溝口秀勝の時代こそ、大聖寺城の構造にとって大きな転換期であった。現在残る城郭の縄張り(設計)の原型は、この時期に形成されたと推定されている 2 。秀勝は、織田政権の中枢を担った丹羽長秀の配下として、安土城などに代表される中央の先進的な築城技術に触れる機会があったと考えられる。彼が大聖寺城主となったことで、それまでの「土の城」としての性格が強かった城郭に、石垣やより複雑な防御思想が導入され、近世城郭へと変貌を遂げる基礎が築かれたのである。近年の発掘調査で確認された石垣や、天守に相当する複雑な櫓台の存在は 2 、この時期の改修の痕跡と見ることができる。大聖寺城は、中央の最新軍事技術が地方の拠点城郭へといかに伝播し、その土地の実情に合わせて適用されていったかを示す、生きた見本と言えるだろう。
慶長3年(1598年)、溝口秀勝が越後国新発田へ転封となると、代わって小早川秀秋の家臣であった山口宗永が6万3千石で入城した。宗永は後に秀秋のもとを離れ、豊臣秀吉の直臣となり、大聖寺城を治めた 1 。彼こそが、大聖寺城の歴史において最後の城主となり、城と運命を共にすることになる人物である。
時代 |
西暦(和暦) |
城主/支配勢力 |
所属/立場 |
石高/役職 |
主要な出来事 |
鎌倉時代 |
不詳 |
狩野氏 |
加賀国人 |
- |
築城 |
南北朝時代 |
1335年(建武2年) |
狩野一党 |
南朝方 |
国人 |
中先代の乱に呼応した名越時兼軍を迎撃 |
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1337年(建武4年) |
敷地伊豆守ら |
南朝方 |
新田義貞配下 |
津葉清文の守る城を攻略 |
戦国時代 |
不詳 |
加賀一向一揆 |
一向一揆 |
- |
一向一揆の拠点となる |
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1555年(天文24年) |
朝倉宗滴 |
越前朝倉氏 |
朝倉家一門 |
一向一揆討伐のため侵攻し、城を陥落させる |
|
1567年(永禄10年) |
加賀一向一揆 |
一向一揆 |
- |
朝倉氏との和議により城を焼き払う |
織豊時代 |
1575年(天正3年) |
戸次広正(梁田広正) |
織田氏 |
柴田勝家与力 |
信長の加賀平定後、城代となる |
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1576年(天正4年) |
佐久間盛政 |
織田氏 |
柴田勝家与力 |
一揆鎮圧後、城主となる |
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1577年(天正5年) |
藤丸勝俊 |
上杉氏 |
上杉謙信配下 |
手取川の戦いの後、上杉方が占拠 |
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1578年(天正6年) |
拝郷家嘉 |
織田氏 |
柴田勝家与力 |
謙信死後、織田方が奪還 |
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1583年(天正11年) |
溝口秀勝 |
豊臣氏 |
丹羽長秀与力 |
4万4千石 |
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1598年(慶長3年) |
山口宗永 |
豊臣氏 |
豊臣家直臣 |
6万3千石 |
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下を二分する関ヶ原の戦いへと発展する。この国家的な動乱において、大聖寺城主・山口宗永は、秀吉から受けた恩義に報いるため、迷わず西軍への加担を決意した 16 。一方、加賀百万石の領主である前田利長は、父・利家の死後、家康から謀反の嫌疑をかけられるなど微妙な立場にあったが、母・まつ(芳春院)を人質として江戸に送ることで家康への恭順の意を示し、東軍に付いた 15 。この決断により、加賀国は東西両軍の勢力が直接対峙する最前線となり、大聖寺城は北陸における関ヶ原の前哨戦の舞台となる宿命を負った。
両軍の兵力には、絶望的なまでの差があった。東軍として大聖寺城攻略に向かった前田利長軍が約2万5千という大軍勢であったのに対し、城に籠もる西軍・山口宗永の兵力は、諸説あるものの500名から1,200名程度に過ぎなかった 8 。まさに衆寡敵せずという状況であった。
慶長5年8月2日、大聖寺城に迫った前田軍は、まず使者を送り降伏を勧告した。しかし、山口宗永はこれを敢然と拒否 18 。戦いは避けられないものとなった。
翌8月3日の早朝、ついに戦闘の火蓋が切られた。前田軍の先鋒・山崎長鏡の部隊は、城外の南郷に布陣していた宗永の子・山口修弘の軍勢を発見。側面から巧みに回り込み、攻撃を仕掛けた。修弘軍は果敢に応戦しつつも、大軍の前に徐々に後退を余儀なくされ、城内へと撤退した 18 。
勢いに乗る前田軍は、間髪を入れず城本体への総攻撃を開始した。城内では壮絶な白兵戦が繰り広げられたと伝わる。特に「骨が谷」と呼ばれる場所は最大の激戦地となり、戦いの後には数多くの将兵の亡骸が放置されたという 8 。圧倒的な兵力差にもかかわらず、山口軍は死力を尽くして抵抗し、前田軍に多大な損害を与えた。
しかし、兵力差はいかんともしがたく、夕刻頃には城の主要部が次々と陥落。もはやこれまでと覚悟を決めた山口宗永は、嫡男・修弘と共に自刃して果てた 15 。ここに、大聖寺城は落城した。この時、城内の女中たちが本丸から身を投げて殉じた場所は、後に「局谷」と呼ばれるようになったと伝えられている 8 。
この大聖寺城の戦いは、前田家にとって極めて重要な意味を持っていた。利長にとって、東軍本隊と合流するためには、背後に存在する西軍の拠点・大聖寺城を排除することが絶対条件であった 15 。この戦いに勝利したことで、利長は家康への忠誠を明確に示し、結果として関ヶ原の戦い後も加賀百万石の広大な領地を安堵される礎を築いたのである 15 。
しかし、この勝利は意図せざる結果をもたらした。山口軍の予想を上回る激しい抵抗により、前田軍はわずか一日の戦闘で甚大な損害を被り、大きく疲弊した 16 。この消耗が響き、利長は軍の再編のために金沢への帰還を余儀なくされ、9月15日の関ヶ原における本戦には間に合わなかったのである 16 。結果として、前田家は「北陸平定」という大きな功績は挙げたものの、天下分け目の決戦における直接的な軍功を立てる機会を逸した。この事実は、戦後の徳川政権下における外様大名の雄としての前田家の微妙な立場に、間接的な影響を与えた可能性も否定できない。戦略的勝利が、必ずしも全ての望む結果をもたらすわけではないという、歴史の複雑性を示す好例と言えよう。
大聖寺城は、錦城山の自然地形を巧みに利用して築かれた平山城である。城の中心である本丸を最高所に置き、その周囲に二の丸、西の丸、東丸、鐘ヶ丸、戸次丸といった複数の曲輪を、防御機能を考慮しながら段状に配置している 1 。それぞれの曲輪は独立した区画でありながら、有機的に連携して城全体の防御網を形成していた。
大聖寺城の防御施設には、中世的な城郭の特徴と、近世城郭への過渡期を示す特徴が混在している。
城跡には、戦闘以外の歴史を物語る興味深い遺構も残されている。西の丸の南側には、今なお水を湛える「馬洗い池」があり、籠城時の貴重な水源であったと考えられる 8 。また、城山の麓には「贋金造りの洞穴」と呼ばれる洞窟が存在する 3 。これは、時代が下った幕末の明治元年(1868年)、新政府から北越戦争のための弾薬供出を命じられた大聖寺藩が、財政難を乗り切るためにこの洞窟で銀製品を溶かして偽の銀貨を製造したという逸話の舞台である 3 。城がその軍事的役割を終えた後も、その場所が地域の歴史と深く関わり続けたことを示すユニークな遺構である。
関ヶ原の戦いの後、大聖寺城は勝利した前田家の支城となり、城代が置かれて加賀南部の抑えとしての役割を担った。しかし、その期間は長くは続かなかった。徳川幕府による支配体制が確立される中、元和元年(1615年)に発布された一国一城令により、大聖寺城はその歴史に幕を下ろし、正式に廃城となった 1 。
大聖寺城が持つ今日の顕著な考古学的価値は、この「死(廃城)」という歴史的転換点によって奇跡的にもたらされたものである。城としての軍事的役割を終えたことで、まず後の時代に大規模な改修や増築が加えられる可能性が完全に断たれた。
さらに決定的だったのは、寛永16年(1639年)に加賀藩の支藩として大聖寺藩が成立した際の処遇である。初代藩主となった前田利治は、廃城となった城跡を再利用して藩庁とすることはせず、錦城山の東麓に新たに陣屋を構えた 1 。もしこの時に城が再建・利用されていれば、江戸時代の藩庁として大きく改変され、織豊時代の遺構は失われていた可能性が高い。
そして、藩は城跡一帯を「お止め山」として、一般人の立ち入りを厳しく禁じた 2 。これにより、近世から近代にかけて、民衆による採石や開墾、建築資材の転用といった人為的な破壊から完全に守られることになった。つまり、城としての機能を「殺され」、藩庁としても「選ばれなかった」ことが、結果的に織豊時代末期の城郭の姿をタイムカプセルのように現代に伝えることに繋がったのである。城の歴史的終焉が、史跡としての永続性を担保したという事実は、歴史の皮肉であり、また幸運でもあった。
寛永16年(1639年)、加賀藩3代藩主の前田利常は、幕府との緊張関係を緩和し、広大な前田家の所領を安泰に保つための方策として、次男と三男に領地を分与し支藩を創設した。この時、三男の利治に7万石が与えられ、大聖寺藩が立藩した 1 。藩庁として城跡の麓に大聖寺陣屋が構えられ、これを中心として新たな城下町が形成されていった 1 。
城は失われたが、大聖寺の地は藩政時代を通じて独自の文化を育んだ。初代藩主・利治は文化振興に熱心で、彼の命により領内の九谷村で磁器の生産が始まったことが、世界的に有名な九谷焼の起源とされる 22 。また、歴代藩主は能楽を嗜み、江戸や金沢の能楽師との交流を通じて、地域の文化水準を高めた 26 。
一方で、藩政は常に順風満帆ではなかった。3代藩主・利直の時代には、5代将軍・徳川綱吉の寵愛を受けたが故に、幕府から中野に巨大な犬小屋を建設する御手伝普請を命じられ、藩財政は極度に悪化した 27 。また、幕末には財政がさらに窮迫し、前述の贋金製造事件を引き起こすに至った 3 。大聖寺城の終焉後も、その麓では新たな歴史が紡がれ続けたのである。
かつて数多の合戦の舞台となった大聖寺城跡は、現在、錦城山公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれている 11 。しかし、その穏やかな姿の裏には、日本の城郭史を解き明かす上で極めて重要な価値が秘められている。南北朝の動乱から戦国、織豊、そして江戸へと至る時代の大きなうねりを体現し、特に織豊系城郭の成立過程を良好な保存状態で示す稀有な史跡として、その価値は国にも認められている 7 。
大聖寺城の歴史は、城跡だけでなく、周辺に残る文化財からも偲ぶことができる。
大聖寺城は、加越国境という地政学的な宿命を背負い、時代の荒波に翻弄され続けた城であった。その歴史は、支配者の交代劇であると同時に、築城技術の変遷、そして地域支配のあり方の変化を映す鏡でもある。一国一城令によって軍事拠点としての命脈を絶たれながらも、その後の歴史の偶然が重なり、奇跡的に往時の姿を現代に留めることとなった。良好に保存された土塁や堀切、そして近年その存在が明らかになった石垣は、過去の栄枯盛衰を雄弁に物語るだけでなく、日本の城郭史研究において不可欠な一次資料として、今後も我々に多くの知見を与え続けてくれるに違いない。