最終更新日 2025-08-19

宇都宮城

下野の名城・宇都宮城は、五百年にわたり宇都宮氏が治めし関東の要衝。戦国の動乱を巧みな外交と堅固な城郭で乗り越え、秀吉の「宇都宮仕置」の舞台となるも改易。近世城郭へと変貌し、今も歴史を語り継ぐ。

下野の名城・宇都宮城の興亡 ―戦国時代を中心に見たるその実像―

序章:関東の要衝、宇都宮城の歴史的意義

下野国(現在の栃木県)に位置する宇都宮城は、単に一地方の城郭に留まる存在ではない。平安時代後期の創始から近世に至るまで、関東地方の政治・軍事における中心地の一つとして、長きにわたりその戦略的重要性を保持し続けた稀有な城である。その歴史の中核を成すのは、実に五百年もの間、この城を拠点として治世を敷いた宇都宮氏の存在である。彼らの栄枯盛衰は、そのまま宇都宮城の歴史と分かち難く結びついている。

宇都宮城が「関東七名城」の一つに数えられるのは、その堅固な構造のみならず、地政学的な優位性に起因する 1 。関東平野の中央部に位置し、古来より奥州へと通じる街道の結節点であったこの地は、常に時の権力者たちにとって看過し得ない戦略的要衝であった。この地理的利点を背景に、宇都宮氏は鎌倉幕府の有力御家人としての地位を確立し、その名門としての血脈を戦国の動乱期まで繋ぐことに成功したのである 2

本報告書は、特に日本の歴史上、最も激しい変革期であった戦国時代を主軸に据え、宇都宮城が果たした役割、その構造の変遷、そして城主宇都宮氏の興亡の実像を、多角的な視点から徹底的に解き明かすことを目的とする。断片的な伝承や逸話に留まらず、考古学的知見や同時代の史料を基に、この名城の多層的な歴史を深く掘り下げていく。

第一章:宇都宮城の黎明 ―鎌倉府の重鎮、宇都宮氏の権力基盤―

宇都宮城の歴史は、その主である宇都宮氏が、いかにして関東における不動の地位を築き上げたかの物語でもある。彼らの権力は、単なる武力による支配に止まらず、地域の信仰と深く結びついた、特異かつ強固な基盤の上に成り立っていた。

第一節:築城伝承と考古学的知見

宇都宮城の築城に関しては、複数の伝承が存在する。一つは、平将門の乱を鎮定したことで知られる藤原秀郷による築城説であり、もう一つが、より広く知られている藤原宗円による築城説である 2 。宗円は、平安時代後期の武将であり、前九年の役(1051年-1062年)において源頼義・義家親子に従い奥州へ進軍した 5 。その戦功により、宇都宮大明神(現在の二荒山神社)の神事を司り、社領の支配を行う「社務職」に任じられ、神社の南方に館を構えたのが宇都宮城の始まりとされる 5

しかしながら、これらの伝承を裏付ける同時代の史料は乏しく、宗円という人物の実在性そのものについても確たる証拠はない 5 。また、現在の宇都宮城跡における発掘調査でも、平安時代中期の遺構は確認されていないのが現状である 2

一方で、考古学的な調査は、宇都宮城の実質的な始まりについて重要な手がかりを提供している。これまでの発掘調査により、平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて造営されたとみられる堀の遺構が確認されている 2 。この時期は、宇都宮氏の第三代当主とされる宇都宮朝綱(1122年-1204年)の時代と重なる。朝綱は後白河上皇を警護する「北面の武士」を務め、源頼朝から宇都宮大明神の神職の最高位である「検校職」に任じられた実在の人物である 2 。このことから、伝承上の創始とは別に、宇都宮城が城郭としての実体を備え始めたのは、鎌倉幕府成立前後の朝綱の時代であったと考えるのが妥当であろう。

第二節:武門の棟梁と神官の長 ―宇都宮氏の二元的権力―

鎌倉時代に入ると、宇都宮氏は幕府の有力な御家人として、その地位を盤石なものとした。特に六代・泰綱、七代・景綱、八代・貞綱の三代は、幕府の最高意思決定機関の一つである「評定衆」や、訴訟を扱う「引付衆」といった要職を歴任し、幕政の中枢に関与した 2 。宇都宮氏の武門としての名声は、弘安4年(1281年)の元寇(弘安の役)において、八代・貞綱が幕府軍を率いる大将軍の一人として九州筑前へ出陣したことからも窺い知ることができる 2

宇都宮氏は武勇一辺倒ではなく、文化的な側面でも高い素養を誇った。特に五代・宇都宮頼綱は、出家して蓮生法師と号し、鎌倉歌壇の中心人物であった藤原定家と深い交流を持ったことで知られる 2 。この交流が、後に『小倉百人一首』が成立するきっかけになったとされ、宇都宮氏が文武両道の名門であったことを物語っている 2

宇都宮氏の長期にわたる安定した支配を解き明かす上で、最も重要な要素は、彼らが「武」の力と「神」の権威という二つの権力を掌握していた点にある。彼らは単なる軍事領主であるだけでなく、地域の信仰の中心であった宇都宮二荒山神社の最高神官(検校職)でもあった 2 。この「祭政一致」ともいえる統治体制は、他の武士団に対する絶対的な優位性と、領民に対する強固な求心力を生み出した。宇都宮城という政治・軍事拠点と、二荒山神社という宗教的権威の源泉を一体として支配下に置くことで、外部の宗教勢力に悩まされることなく、極めて円滑な領国経営を可能にしたのである。この二元的な権力構造こそが、宇都宮氏五百年の治世を支えた根幹であったと言えよう。

第二章:戦国の動乱と宇都宮城 ―内憂外患の時代―

室町時代後期から戦国時代にかけて、宇都宮氏は未曾有の試練に直面する。北には那須氏、南には小山氏、そして次第に関東へ覇権を伸ばしてくる後北条氏、さらには越後の上杉氏、甲斐の武田氏といった強大な戦国大名に四方を囲まれ、まさに内憂外患の日々が続いた。この時代、宇都宮城はその軍事的機能を飛躍的に向上させるとともに、宇都宮氏は生き残りを賭けた巧みな外交戦略を展開していく。

第一節:堅城への変貌と広域防衛網の構築

絶え間ない戦乱の脅威に対応するため、宇都宮城は大規模な改修が繰り返され、中世の館から堅固な城郭へとその姿を変貌させていった。平城であるという弱点を補うため、幾重にも堀と土塁を巡らせ、防御力を徹底的に強化したのである 2 。後年の姿からの推定ではあるが、その縄張り(城の設計)は、本丸を中心に複数の曲輪を水堀が四重に囲む「輪郭式」と呼ばれる、防御に優れた構造であったとされる 1

しかし、宇都宮氏の防衛戦略は、宇都宮城一城での籠城に依存する「点」の防衛ではなかった。彼らが構築したのは、領国全体を防衛する広域的な「面」の防衛網であった。その戦略思想を象徴するのが、宇都宮城と「多気山城」の関係である。平地にあり政治・経済の中心地として機能する宇都宮城に対し、有事の際には、より防御に優れた関東最大級の山城である多気山城へ本拠を移すという二段構えの体制を採っていた 10 。これは、平時の統治と戦時の指揮を分離した、極めて合理的な戦略であった。

さらに、この中核となる二城を支えるため、領国の要所には支城が巧みに配置された。主要な街道である奥大道や、同盟国である佐竹氏へ通じるルート上には、多功城、犬養城、飛山城といった拠点的城郭が築かれ、敵の侵攻を阻む防衛ラインを形成した 12 。これらの支城は、単なる砦ではなく、兵員を収容できる広大な郭や、兵站を支える宿の機能を備えており、相互に連携して機能する重層的な防衛ネットワークを構築していた 12 。この城郭網こそが、全方位からの侵攻に備えた宇都宮氏の高度な戦略思想の現れであり、強大な周辺勢力と渡り合うための生命線であった。

第二節:合従連衡の生存戦略 ―周辺大名との攻防―

戦国時代の宇都宮氏は、外部からの脅威だけでなく、深刻な内部の問題、すなわち「内憂」にも絶えず苦しめられた。十七代・成綱の死後、十八代・忠綱、十九代・興綱、二十代・尚綱の代にかけては家督を巡る内紛が頻発し、家臣団は分裂した 7 。ついには重臣の壬生綱房が実権を掌握し、宇都宮城を一時的に乗っ取る事態にまで発展した 13

この危機的状況を乗り越え、宇都宮氏を再興に導いたのが、二十一代当主・宇都宮広綱と、彼を支えた宿老・芳賀高定であった。彼らは、激動する関東の情勢を生き抜くため、巧みな外交戦略を展開する。最大の脅威であった小田原の後北条氏に対抗するため、常陸の佐竹氏との同盟強化を最優先課題とした。芳賀高定の卓越した交渉により、広綱は佐竹義昭の娘・南呂院を正室に迎え、両家の間には極めて強固な婚姻同盟が成立した 14

この佐竹氏との同盟を基盤として、宇都宮氏はさらに越後の「軍神」上杉謙信と連携し、反北条連合の一翼を担う 10 。謙信が関東に出兵する際にはこれに参陣し、永禄7年(1564年)の小田城の戦いでは、上杉・佐竹連合軍の一員として北条方の小田氏治を打ち破るなど、具体的な軍事行動で同盟関係を実効あらしめた 14

この外交戦略の真価が問われたのが、広綱の子、二十二代・国綱の時代であった。天正10年(1582年)に武田氏が滅亡し、その2年後には上杉謙信もこの世を去ると、関東におけるパワーバランスは大きく変化する。この好機を逃さず、北条氏政・氏直親子は、関東の完全制覇を目指し、天正12年(1584年)、『奥羽永慶軍記』によれば八万余ともいわれる大軍を下野へ侵攻させた 15 。北条軍の猛攻は宇都宮城下に及び、城の外郭に火が放たれるなど、宇都宮氏は絶体絶命の危機に陥った 15

この窮地に際し、国綱は伯父である佐竹義重に急使を送り、援軍を要請。これに応えた佐竹氏を中心に、常陸・下野・陸奥の反北条勢力が結集し、約二万の連合軍が組織された 15 。連合軍は宇都宮城を出陣すると、沼尻(現在の栃木市藤岡町)において北条の大軍と対峙した 16 。この「沼尻の対陣」は百日にも及ぶ長期戦となったが、決着はつかず、最終的に両軍は撤退した。しかし、宇都宮・佐竹連合軍は、北条氏の圧倒的な軍事力を食い止め、その野望を挫くことに成功したのである。これは、広綱の代から続く佐竹氏との同盟関係が、国家存亡の危機において見事に機能したことを証明するものであった。宇都宮氏の外交戦略は、単に自家の存続を保障しただけでなく、彼らが反北条の旗幟を鮮明にし続けたことで、北条氏による関東統一を阻止する「バランサー」としての役割を果たし、関東全体の歴史に大きな影響を与えたのである。


表1:宇都宮氏歴代当主と宇都宮城の主要な出来事(戦国期)

代数

当主名

在位期間(西暦)

主要な出来事

主な同盟・敵対勢力

17代

宇都宮成綱

1477年-1516年

宇都宮氏中興の祖と称される。古河公方との抗争と和睦を繰り返す。

敵対:足利成氏

18代

宇都宮忠綱

1516年-1523年

猿山の合戦で結城政朝に敗れ、家臣の謀反により追放される。

敵対:結城政朝

19代

宇都宮興綱

1523年-1536年

結城氏や家臣の傀儡として擁立されるも、後に自刃させられる。

-

20代

宇都宮尚綱

1536年-1549年

那須高資との五月女坂の戦いで敗れ、戦死する。

敵対:那須高資

21代

宇都宮広綱

1557年-1576年

芳賀高定の補佐により宇都宮城を奪還。佐竹氏と婚姻同盟を結び、上杉謙信と連携。

同盟:佐竹義昭, 上杉謙信 敵対:後北条氏

22代

宇都宮国綱

1576年-1597年

沼尻の対陣で佐竹氏と共に北条軍を防衛。豊臣秀吉に臣従するも、後に改易される。

同盟:佐竹義重, 豊臣秀吉 敵対:後北条氏

(出典:

7

第三章:天下統一の奔流と宇都宮氏の終焉

戦国時代の最終局面、日本の歴史は織田信長、そして豊臣秀吉という二人の傑出した人物によって、天下統一へと大きく舵を切る。この巨大な権力の奔流は、関東の片隅で独立を保ってきた宇都宮氏をも否応なく巻き込んでいく。宇都宮城は、一瞬の栄光の舞台となった後、その主は歴史の表舞台から姿を消すという悲劇的な結末を迎えることになる。

第一節:栄光の頂点 ―豊臣秀吉と「宇都宮仕置」―

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は20万を超える大軍を率いて小田原城を包囲し、関東に覇を唱えた後北条氏を滅亡させた。これにより、秀吉の天下統一事業は事実上完成する。その戦後処理の舞台として秀吉が選んだのが、宇都宮城であった 17

秀吉は、かつて源頼朝が奥州藤原氏を討伐する際に宇都宮大明神に戦勝を祈願し、奥州を平定したという先例に bewusst 倣った。天下人としての自らの権威を東国の諸大名に示すため、頼朝と同じ道を辿り、宇都宮城に入城したのである 18

秀吉は宇都宮城に約20日間にわたって滞在し、この地で関東および奥州の諸大名に対する大規模な領地再編を行った。徳川家康の関東移封をはじめ、各 daimyo の所領を確定し、新たな支配体制を構築した。この一連の戦後処理は、その舞台となった城の名を取りて「宇都宮仕置」と呼ばれる 18 。この時、小田原攻めに遅参して窮地に立たされていた伊達政宗をはじめ、東国の名だたる大名たちが宇都宮城に参上し、秀吉の裁定を仰いだ 18

城主であった宇都宮国綱は、秀吉への恭順を認められ、所領を安堵されるとともに、豊臣政権の中枢を担う羽柴姓を授かるという破格の待遇を受けた 17 。宇都宮城が日本の歴史を動かす中心地となり、宇都宮氏の威光が頂点に達した瞬間であった。

第二節:突然の改易 ―名門の終焉―

しかし、その栄光は長くは続かなかった。宇都宮仕置からわずか7年後の慶長2年(1597年)、宇都宮国綱は秀吉から突如として所領18万石を没収され、改易処分を言い渡された 2 。これにより、平安時代から約五百年にわたって下野に君臨した名門・宇都宮氏は、大名としての歴史に幕を閉じたのである。

このあまりに唐突な改易の理由は、同時代の史料においても判然としない。国綱自身は「不慮の子細(思いがけない事情)」や「侫人(道理をわきまえない者の讒言)」によるものだと書き残している 21 。一方で、同盟者であった佐竹氏側は「宇都宮殿御不奉公(勤めにおける過失)」があったと見なしていた 21

後世の研究では、この改易は単一の理由ではなく、複数の政治的要因が複雑に絡み合った結果であると考えられている。その一つが、豊臣政権の中枢にいた五奉行の一人、浅野長政との確執である。長政が自身の息子と国綱との養子縁組を画策したが、国綱がこれを断ったことから長政の恨みを買い、秀吉に讒言されたという説がある 22 。また、太閤検地の際に実際の石高を少なく申告したことが露見し、秀吉の怒りを買ったという説も根強い 2

しかし、より根本的な原因は、秀吉政権の中央集権化政策にあったと見られる。秀吉は、天下統一を盤石なものとするため、各地に根を張る旧来の名門勢力を排除し、自らに忠実な家臣を配置することで、直接的な支配体制を強化しようとしていた 2 。宇都宮氏もその対象となり、浅野長政との個人的な確執や石高問題は、その政策を実行するための格好の口実として利用された可能性が高い。さらに、戦国期を通じて宇都宮氏が抱えていた家臣団統制の弱さといった「内憂」も、中央政権が介入する隙を与える一因となった 24 。宇都宮氏の終焉は、中央集権という時代の大きなうねりの中で、地方の旧勢力が淘汰されていく過程を象徴する出来事であった。

第四章:近世城郭への転生と新たな城主たち

宇都宮氏が去った後、宇都宮城は新たな時代を迎える。豊臣政権下、そして徳川幕府の世へと移る中で、城主は目まぐるしく交代し、城の役割と姿もまた大きく変貌を遂げていく。特に、徳川家康の側近であった本多正純による大改修は、宇都宮城を中世城郭から近世城郭へと生まれ変わらせる画期的な事業であった。

第一節:蒲生秀行の入城と城下町の整備

宇都宮氏の改易後、慶長3年(1598年)、宇都宮城には会津の名将・蒲生氏郷の子である蒲生秀行が18万石で入城した 13 。秀行の在城期間は関ヶ原の戦いを挟む約4年間と短かったが、この間に彼は近世城下町としての宇都宮の基礎を築いた。具体的には、日野町や紺屋町といった職人や商人が集住する町を新たに造成し、城下の商業的な整備を推し進めたのである 13 。これは、城が単なる軍事拠点から、領国経済の中心地へとその役割を拡大していく過渡期の姿を示すものであった。

第二節:本多正純による大改修と「徳川の城」への変貌

宇都宮城の歴史における最大の転換点となったのが、元和5年(1619年)に城主となった本多正純による大改修である。徳川家康の側近として絶大な権勢を誇った正純は、宇都宮15万5千石の領主となると、直ちに城と城下町の大規模な改造に着手した。

この大改修の最大の目的は、徳川家康を祀る日光東照宮へ将軍が社参する際の宿城として、宇都宮城を整備することにあった 27 。これは、宇都宮城の性格を、宇都宮一円を支配するための「領国の城」から、徳川幕府の国家的事業を支え、その権威を象Cする「公儀の城」へと根本的に転換させることを意味した。

改修は凄まじい規模で進められた。城の範囲は東西南北約1キロメートル四方にまで拡張され、城郭面積はそれまでの二倍以上に及んだ 27 。新たに広大な堀が穿たれ、堅固な土塁が築き上げられた。本丸の土塁上には、富士見櫓や清明台といった複数の櫓が建てられ、城の姿は一変した 27 。これにより、土塁と堀を主とした中世的な城郭は、より防御機能が高く、壮麗な近世城郭へと生まれ変わったのである。

城郭の改修と並行して、城下町も大規模な再整備が行われた。それまで城の東側を流れていた奥州街道を城下町の中心に引き込み、新たに日光街道を分岐させることで、宇都宮を二大街道が交差する交通の要衝として確立した 27 。この正純による都市計画が、現代に至る宇都宮市街地の骨格を形成したのである。この改修は、城の主目的が在地領主の防衛から、中央政権の威光を示すための装置へと変化したことを明確に示している。宇都宮城は、名実ともに「徳川の城」として再生したのだった。

第三節:伝説の真相 ―「宇都宮城釣天井事件」の虚実―

本多正純と宇都宮城を語る上で避けて通れないのが、世に名高い「宇都宮城釣天井事件」である。これは、元和8年(1622年)に二代将軍・徳川秀忠が日光社参で宇都宮城に宿泊する際、正純が寝所に釣天井の仕掛けを施し、将軍の暗殺を企てたという伝説である 30

しかし、結論から言えば、この釣天井による暗殺計画は、後世の講談などによって創作された物語であり、歴史的事実ではない 30 。当時の宇都宮城にそのような仕掛けが存在したことを示す史料や考古学的な証拠は一切発見されていない 31

ではなぜ、このようなセンセーショナルな伝説が生まれたのか。それは、正純の失脚があまりに突然かつ不可解なものであったからに他ならない。家康の側近として権勢の頂点にあった正純は、この日光社参の直後、突如として改易され、出羽国横手へ流罪という厳しい処分を受けた 32 。その公式な罪状は、①幕府に無断で城の石垣を修築したこと、②密かに鉄砲を大量に購入していたこと、③幕府から預かっていた根来同心(鉄砲組)を殺害したことなどであった 33

これらの罪状は確かに重いものではあったが、正純ほどの人物が失脚する理由としては、当時の人々にとって必ずしも納得のいくものではなかった。その背景には、幕府内における熾烈な派閥争いや、正純の剛腕なやり方に対する他の大名や旗本の反発があったとみられている 31 。あまりに劇的な正純の転落劇は、人々の想像力を掻き立て、その裏に「将軍暗殺」という巨大な陰謀があったのではないか、という物語を生み出す素地となった。「釣天井事件」の伝説は、史実ではないがゆえに、むしろ初期徳川幕府の不安定な権力構造という「時代の空気」を雄弁に物語る、文化的な産物として捉えることができるのである。

終章:史跡としての宇都宮城 ―歴史の継承―

本多正純の改易後も、宇都宮城は奥平氏、松平氏、戸田氏など譜代大名の居城として、江戸時代を通じて北関東における幕府の拠点であり続けた 7 。しかし、城郭としての宇都宮城に最後の、そして最大の破壊をもたらしたのは、戦国時代の戦乱ではなく、幕末の内乱であった。慶応4年(1868年)の戊辰戦争において、宇都宮城は新政府軍と旧幕府軍との間で繰り広げられた激しい戦闘の舞台となり、城内の建物のほとんどが砲火によって焼失してしまったのである 34

明治維新後、城跡は陸軍省の所管となり、その城郭としての機能は完全に失われた。しかし、宇都宮の歴史的シンボルである城を再興しようという市民の願いは、長い時を経て結実する。現在、かつての本丸跡地の一部は「宇都宮城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっている 35

公園の整備にあたっては、大規模な発掘調査と綿密な時代考証が行われた。そして平成19年(2007年)、江戸時代の絵図などを基に、本丸の土塁と堀の一部、そして本丸北西隅に位置し事実上の天守の役割を担った「清明台櫓」、南西隅にあった「富士見櫓」、さらに二つの櫓を結ぶ土塀が、伝統的な工法を用いて木造で復元された 36 。これらの復元建造物は、往時の宇都宮城の威容を現代に伝える貴重な存在となっている。

宇都宮城跡そのものは、国の史跡には指定されていない 39 。しかし、その支城であった飛山城跡が国指定史跡となっていることからも 41 、宇都宮氏が築いた城郭群の歴史的価値の高さは明らかである。平安時代末期の黎明期から、鎌倉幕府の重鎮として、戦国の動乱を生き抜く拠点として、そして豊臣政権による天下統一の画期を刻む舞台として、さらには徳川幕府の権威を象徴する城として、宇都宮城は常に時代の中心にあり続けた。その幾多の歴史を刻んだ城跡は、復元された櫓と共に、これからも下野国の、そして関東の歴史を後世に語り継いでいくであろう。

引用文献

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  2. 宇 都 宮 城 - よみがえれ!宇都宮城 https://www.utsunomiya-jo.jp/archive/materials/utsunomiya_pamph.pdf
  3. 関東七名城のひとつ!「宇都宮城」の歴史 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/utsunomiya-castle/
  4. 宇都宮城 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/009tochigi/002utsunomiya/utsunomiya.html
  5. 宇都宮城の歴史 「前 九年 の役 ・後 三年 の役 と宇都宮城 ①」 重要 ... https://utsunomiya-8story.jp/wordpress/wp-content/themes/utsunomiya/image/archive/contents08/pdf_08.pdf
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  9. 宇都宮城の歴史 https://www.city.utsunomiya.lg.jp/citypromotion/kanko/meisho/jyiousi/1007284.html
  10. 一記事でわかる戊辰戦争激戦地【宇都宮城の歴史】を総まとめ - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/utsunomiyacastle/
  11. 第6章 関連文化財群 - 宇都宮市 https://www.city.utsunomiya.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/015/667/06_6syou04.pdf
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  29. 富士見櫓 | 宇都宮城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/285/memo/1540.html
  30. 講談連続物『宇都宮釣天井』あらすじ http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji_series/01-01_utunomiya.htm
  31. 土方歳三が城攻めで涙!将軍暗殺未遂『宇都宮釣天井事件』の真相は?~【ご当地グルメも味わう】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=53Ew3osw_ks
  32. 宇都宮城釣天井事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E9%87%A3%E5%A4%A9%E4%BA%95%E4%BA%8B%E4%BB%B6
  33. 本多正純 宇都宮吊り天井の真相 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=T_hup6Yqr2s
  34. 宇都宮城跡 - とちぎいにしえの回廊|文化財の歴史 https://www.inishie.tochigi.jp/detail.html?course_id=3&id=30
  35. 宇都宮城 | ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/tg0170/
  36. 宇都宮城址公園 https://sirohoumon.secret.jp/utsunomiyajo.html
  37. 宇都宮城跡 - とちぎふるさと学習 - 栃木県 https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=33&r=160
  38. 宇都宮市城址公園 - 岩村建設 https://www.iwamura-net.com/works-22/
  39. 宇都宮市文化財保存活用地域計画 https://www.city.utsunomiya.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/040/806/chiikikeikaku.pdf
  40. 記念物 国指定 - 宇都宮の歴史と文化財 https://utsunomiya-8story.jp/search_cat/cat02-select10/
  41. 「中世の宇都宮城下を探る」に関する本 https://www.lib-utsunomiya.jp/wysiwyg/file/download/1/734