富士吉田城
甲斐富士吉田城は、甲斐・駿河・相模の国境に位置し、北条早雲や武田信虎の侵攻を受けた。小山田氏の支配下で郡内地方の防衛を担い、富士山信仰の経済的要衝でもあった。その遺構は、戦国期の国境防衛と聖地をめぐる攻防を語る。
戦国期甲斐国における富士吉田城の総合的考察
第一章:序論 ― 富士吉田城の概要と歴史的座標
富士吉田城の地理的・歴史的定義
富士吉田城は、山梨県富士吉田市新屋および上吉田にまたがる、小倉山から北に細長く伸びた丘陵の先端部に築かれた戦国時代の平山城である 1 。その標高は約874メートル、麓からの比高は約30メートルから50メートルを測る 4 。史料や文献によっては「吉田城」あるいは「小倉山砦」といった別称で呼ばれることもあり、これは城の機能や歴史的文脈における認識が、使用者や時代によって変遷した可能性を示唆している 1 。
城跡は南北二つの峰から構成され、曲輪、土塁、堀切といった中世城郭の遺構が今日まで残されている 1 。しかし、南側の郭群の一部は近現代の開発、特にホテル建設の計画によって大きく改変され、その全貌を完全に把握することは困難となっている 1 。
研究史における重要課題 ― 「吉田城」の同名異城問題
本城を研究する上で、まず解決すべき根本的な課題が存在する。それは、愛知県豊橋市に存在する近世城郭「吉田城」との混同である。両者は「吉田城」という名称を共有するため、特にデジタルデータベースを用いた情報収集において、両者の情報が頻繁に混同される傾向にある。本報告書の分析対象は、あくまで山梨県富士吉田市に所在する中世の山城であり、豊橋市の吉田城とは時代、構造、関連人物、歴史的役割のすべてにおいて全く異なる城郭である。この点を明確化するため、以下に両者の比較表を提示する。
表1:富士吉田城(山梨県)と吉田城(愛知県)の比較
項目 |
富士吉田城(山梨県) |
吉田城(愛知県) |
所在地 |
山梨県富士吉田市 |
愛知県豊橋市 |
城郭分類 |
平山城(中世城郭) |
平城(近世城郭) |
主な遺構 |
曲輪、土塁、堀切、竪堀 |
石垣、水堀、復興櫓 |
主な関連人物 |
北条早雲、武田信虎、西海氏、大石氏 |
徳川家康、酒井忠次、池田輝政 |
主要な時代背景 |
戦国時代初期~中期 |
戦国時代後期~江戸時代 |
戦略的位置づけ |
甲斐・駿河・相模の国境防衛拠点 |
東三河の支配拠点、東海道の要衝 |
この比較が示す通り、両者は全くの別物である。豊橋市の吉田城は、徳川家康の東三河支配の拠点として重要であり、池田輝政によって大規模な石垣を備えた近世城郭として整備された 7 。一方、本稿で論じる富士吉田城は、土塁と堀切を主とする素朴な構造を持ち、戦国時代初期の甲斐国境における軍事的緊張を色濃く反映した城砦である。この根本的な区別は、本城の歴史的実像を正確に理解するための不可欠な前提となる。
本報告書の目的と構成
本報告書は、これまで断片的に語られることの多かった富士吉田城について、戦国時代という時代背景を基軸に、総合的な考察を行うことを目的とする。具体的には、甲斐国東部に位置する「郡内地方」の地政学的特性を分析し、その中で本城が果たした役割を明らかにする。さらに、『妙法寺記』などの文献史料を精査し、城の興亡を時系列で再構築するとともに、現存する遺構の考古学的分析を通じて、その構造と機能、そして時代的変遷を読み解く。これらの多角的なアプローチにより、一国境城郭の歴史を超え、戦国期における国家間の角逐と地域社会の動態を浮き彫りにすることを目指す。
第二章:戦略的要衝「郡内地方」の地政学と富士吉田城
甲斐国における郡内地方の特殊性
富士吉田城の戦略的価値を理解するためには、まずその所在地である「郡内地方」が、甲斐国において極めて特殊な地域であったことを認識する必要がある。甲斐国は、御坂山地を境として、甲府盆地を中心とする「国中地方」と、東部の山間地域である「郡内地方」に大別される 9 。郡内地方は、地理的に国中地方から隔絶されている一方で、相模国(現在の神奈川県)や駿河国(現在の静岡県)との結びつきが強く、独自の政治的・文化的圏域を形成していた 10 。
この地理的特性は、軍事戦略にも大きな影響を与えた。相模の後北条氏や駿河の今川氏が甲斐へ侵攻する際、郡内地方はその主要な侵攻ルートとなり、常に国境紛争の最前線に立たされた 11 。富士吉田城は、まさにこの甲斐・相模・駿河の三国が勢力を接する緩衝地帯の、甲斐側の玄関口に位置していたのである。
国衆・小山田氏の支配体制
戦国時代の郡内地方を実質的に支配していたのが、国衆の小山田氏である 10 。小山田氏は、甲斐守護・武田氏の譜代家臣という立場にありながら、郡内領において高い独立性を維持した領域権力であった 13 。彼らは都留市に本拠である谷村館を構え 14 、大月市には堅固な詰城として知られる岩殿山城を擁するなど 16 、郡内一帯に強力な支配網を築いていた。
富士吉田城の歴史を考察する際、この小山田氏の存在を抜きにしては本質を見誤る。文献記録には北条氏や今川氏、武田氏といった大大名の名が前面に現れるが、この地を恒常的に統治し、防衛の第一次的責任を負っていたのは小山田氏であった。したがって、富士吉田城は単なる「武田氏の城」ではなく、「小山田氏の領国防衛網を構成する最前線の拠点」として位置づけるのが最も実態に近い。他国勢力の侵攻という非常事態において、領主である小山田氏が、宗主である武田氏の軍事指揮下、あるいは直接的な支援を受けて防衛戦を展開した舞台、それが富士吉田城であったと考えられる。
交通の要衝としての役割
富士吉田城の戦略的重要性をさらに高めていたのが、交通路との関係である。城のすぐ南には、甲斐国府と鎌倉を結ぶ古道「鎌倉街道(御坂路)」が通過していた 1 。この街道は、軍勢の移動や物資の輸送に用いられる大動脈であり、これを押さえることは郡内地方の防衛、ひいては甲斐国全体の安全保障に直結する。富士吉田城は、南の小倉山と対をなし、この鎌倉街道を挟み込むように位置しており、街道を監視・封鎖する「関門」としての機能が意図されていたことは明らかである。
第三章:文献史料に見る富士吉田城の興亡
富士吉田城の具体的な歴史は、甲斐国富士北麓の年代記である『妙法寺記』(あるいは同系統の『勝山記』)の記述によって断片的に知ることができる 1 。これらの史料は、戦国時代初期における本城の緊迫した状況を今に伝えている。
第一節:『妙法寺記』の記録 ― 文亀元年(1501)の北条早雲の侵攻
富士吉田城が歴史の表舞台に初めて登場するのは、文亀元年(1501)のことである。『妙法寺記』には、同年九月十八日に北条早雲(伊勢盛時)が郡内へ侵攻し、「吉田城山小倉山両所ニ代ヲ致テ」と記録されている 1 。この「代を致す」という表現の解釈をめぐっては、いくつかの説が存在する。
一つは、本格的な城や砦を「築いた」とする説。二つ目は、一時的な軍事キャンプ、すなわち「陣を張った」とする説。そして三つ目は、敵の侵攻を知らせる狼煙を上げるための「烽火台を設置した」とする説である 1 。現存する遺構の構造が比較的簡素であることや、急な軍事行動であったことを考慮すると、この時点では恒久的な城郭の築城というよりは、軍事的な緊張の高まりに応じて急遽設営された陣城、あるいは情報伝達網の一部としての烽火台としての性格が強かったと推測される 4 。
この侵攻の背景には、当時の複雑な大名間の関係があった。北条早雲はまだ独立した戦国大名ではなく、駿河の今川氏に身を寄せる客将という立場であった 20 。そのため、この軍事行動は早雲個人のものではなく、今川氏が進めていた対武田氏戦略の一環として実行されたと理解すべきである。
第二節:永正十三年(1516)の攻防戦 ― 武田・今川の激突
文亀元年の出来事から15年後の永正十三年(1516)、富士吉田城は再び戦火に見舞われる。この年の戦いは、城の歴史の中でも最も激しいものであったことが『妙法寺記』の記述からうかがえる。
同記によれば、同年七月に今川勢が郡内に侵攻し、冬の十二月二十六日、「吉田ノ城」に立て籠もった駿河勢に対して武田信虎率いる武田軍が総攻撃をかけた 1 。この戦闘の熾烈さを物語るのが、記録されている戦死者の名前である。この戦いで、郡内の有力な在地豪族であった西海右近・平八の兄弟三人と、大石与五郎が討ち死にしたと記されている 1 。
特定の個人名、それも地域に根差した豪族の名が記録されているという事実は、極めて重要である。これは、この戦いが単なる大名間の散発的な衝突ではなく、地域の国人や地侍といった武士層を根こそぎ動員した、地域の命運を賭けた総力戦であったことを示している。西海氏や大石氏は、郡内領主である小山田氏、ひいては甲斐国主である武田氏の指揮下で戦った在地領主であり、彼らの犠牲は防衛側にとって大きな打撃であったに違いない。このことから、富士吉田城が敵の侵攻を食い止めるための重要拠点として、地域の武力を結集して死守すべき城であったことがわかる。
さらに、同月二十九日には河口湖周辺を拠点とする船津館主・小林宮内丞も出陣しており 1 、富士北麓一帯の在地領主たちが連携して防衛にあたる体制が構築されていたことが推測される。この一連の戦乱は地域社会にも深刻な影響を及ぼし、周辺住民は難を逃れるために河口湖に浮かぶ鵜ノ島へと避難し、そこで年を越したと伝えられている 1 。
第三節:史料から消えた城 ― その後の変遷に関する考察
永正十三年(1516)の激しい攻防戦を最後に、富士吉田城に関する明確な文献記録は途絶える。その後、甲斐・相模・駿河の間で三国同盟が成立するなど、大名間の関係が安定期に入ると、この地域の軍事的緊張は緩和され、城の重要性も相対的に低下したためと考えられる。城は半ば放棄されたか、あるいは小規模な監視所として維持されるに留まったため、年代記に特筆されるような出来事が起こらなかったのであろう。
しかし、ここで一つの疑問が生じる。もし城が16世紀初頭に一時的に使用されただけならば、なぜ現在残る遺構は、一部の研究者から「一時的に取り立てられただけの城とは思えない」と評価されるほど良好な状態を保っているのか 1 。この、文献記録の空白と考古学的所見の間の矛盾を合理的に説明する仮説として、「天正壬午の乱における再利用・改修説」が提唱されている。
天正十年(1582)、織田信長の横死によって甲斐国が無主の状態となると、徳川家康、北条氏政・氏直、上杉景勝による旧武田領の争奪戦、すなわち「天正壬午の乱」が勃発する 21 。この時、北条氏は郡内地方から甲斐国中への侵攻を企図した 21 。この軍事行動に際し、北条軍が兵站線と進軍ルートを確保するための拠点として、戦略的に重要な位置にある既存の古城、すなわち富士吉田城を急遽改修し、防御機能を強化したのではないか、という推論である。この仮説は、①16世紀初頭の城としては比較的明瞭な遺構の存在、②1516年以降の記録の空白、③1582年の北条氏による郡内侵攻という三つの要素を、矛盾なく結びつけることができる有力な説として注目される。
表2:富士吉田城の歴史年表
西暦(和暦) |
出来事 |
関連勢力・人物 |
典拠史料 |
1501年(文亀元) |
北条早雲、郡内に侵攻し吉田城山・小倉山に「代を致す」。 |
北条早雲(伊勢盛時)、今川氏 |
『妙法寺記』 |
1516年(永正十三) |
今川勢が郡内に侵攻。武田軍が吉田城を攻撃し、西海氏・大石氏ら在地豪族が戦死。 |
武田信虎、今川氏、西海氏、大石氏、小林宮内丞 |
『妙法寺記』 |
(1517年~1581年) |
文献記録上の空白期間。城の機能は低下したと推定される。 |
- |
- |
1582年(天正十) |
天正壬午の乱。北条氏が郡内へ侵攻。この際に城が再利用・改修された可能性が指摘される(仮説)。 |
北条氏政・氏直、徳川家康 |
(状況証拠に基づく推論) |
第四章:城郭考古学から読み解く富士吉田城の構造と機能
文献史料が描き出す歴史像を補完し、より具体的に城の実態に迫るためには、現地に残された遺構、すなわち物理的な証拠の分析が不可欠である。富士吉田城の縄張(城の設計)と各遺構は、戦国時代の築城技術と思想を雄弁に物語っている。
第一節:縄張と遺構の詳細分析
富士吉田城は、南北に連なる二つの峰(ピーク)を利用して構築されている 1 。全体として、北側の峰に防御の中枢である主郭部を置き、南側の峰を副次的な郭群として機能させる構成であったと推定される。
- 北峰(主郭部) : 城内で最も標高の高い地点に主郭(本丸に相当)が置かれている。主郭は一定の広さを持つ平坦地で、その直下には腰曲輪が設けられ、二段構えの構造となっている 1 。主郭の南側には、南峰との間を完全に分断するための明確で深い堀切が穿たれており、城の防御における最重要区画であったことがわかる 1 。
- 南峰 : 南峰の頂上部にも土塁で周囲を囲まれた曲輪が存在する 1 。この曲輪の南側には、敵の侵攻を阻むための堀切と、そこから斜面を降る竪堀が確認できる。しかし、南峰の大部分、特に南斜面は、前述の通りホテル用地として造成されたため、遺構の多くが破壊もしくは改変を受けている 1 。
- その他の遺構 : 城郭の斜面には、敵の移動を妨げ、防御側の兵士が展開するための帯状の小郭(帯曲輪)が数段にわたって造成されているのが確認できる 4 。
第二節:築城技術と城の性格
富士吉田城の遺構を詳細に観察すると、一見矛盾する二つの評価が共存していることに気づく。一つは、曲輪の削平が不十分であったり、堀切が浅かったりする点から指摘される「造作が甘い、急造の城」という評価である 4 。もう一つは、主郭と南峰を分断する堀切の規模や土塁の存在から、「一時的な城とは思えない」という評価である 1 。
この矛盾は、城が一度に完成されたのではなく、複数の段階を経て構築・改修されたと考えることで解消できる。すなわち、城は二つの異なる顔を持っているのである。
- 第一段階(陣城としての顔) : 文亀元年(1501)や永正十三年(1516)の軍事的緊張の中で、急いで構築された部分。削平が不十分な郭や浅い堀は、この段階の痕跡である可能性が高い。限られた時間と労力の中で、最低限の防御機能を確保することを目的とした、まさに「陣城」としての性格を反映している。
- 第二段階(拠点城郭としての顔) : より計画的で堅固な防御思想が見られる部分。主郭南の深い堀切や、南峰頂上を囲む明瞭な土塁は、後の時代、おそらくは天正壬午の乱に際して北条氏によって加えられた、より恒久的な改修の跡と推測される。
このように、富士吉田城の遺構は、初期の簡素な陣城の上に、後世のより堅固な改修が重ねられた結果、二つの時代の築城思想が混在するハイブリッドな構造となっている可能性が極めて高い。これは、第三章で論じた歴史的変遷の仮説を、考古学的側面から強力に裏付けるものである。
小倉山砦との一体的運用
『妙法寺記』が「吉田城山・小倉山両所」と併記している通り、富士吉田城は単独で機能していたのではなく、南に位置する小倉山の砦と一体となって一つの防御システムを形成していたと考えられる 1 。小倉山は、旧鎌倉街道を挟んで吉田城と対峙する位置にあり、両者で街道を挟撃し、通行を完全に遮断することが可能であった 1 。小倉山にも土塁などの遺構が存在したとの伝承があり 20 、この二つの城砦は、国境の街道を押さえるための「双子の砦」として運用されていたのであろう。
第五章:総括 ― 戦国期甲斐東部における富士吉田城の役割再考
本報告書で展開してきた多角的な分析を通じて、富士吉田城が戦国期の甲斐国東部において果たした役割は、単なる一過性の陣城に留まらない、重層的かつ多機能なものであったことが明らかになった。
軍事的機能の再評価
富士吉田城の軍事的役割は、一点を防衛する「点」としての城ではなく、小倉山砦と連携して街道を封鎖する「線」としての関門機能にあった。さらに広域的に見れば、郡内地方全体の防衛網、すなわち「縦深防御」の最前線に位置し、敵の侵攻をいち早く察知し、初期段階でこれを遅滞させる「警報装置(トリップワイヤー)」としての機能も担っていた。敵がこの城を攻略している間に、小山田氏の本隊が谷村館や岩殿山城から出撃し、迎撃する体制が整えられていたと考えられる。
聖地と経済圏の守護者
しかし、本城の役割は純粋な軍事機能に限定されるものではなかった。その立地を考慮すると、もう一つの重要な側面が浮かび上がる。城は、富士山信仰における主要な登拝道の一つである「吉田口登山道」の起点となる地域に位置している 22 。富士山は古来より信仰の対象であり、戦国時代においても多くの修験者や道者が訪れる聖地であった 24 。
そして、この宗教的要素は、郡内領主・小山田氏の経済基盤と密接に結びついていた。小山田氏は、富士山の通行料(入山料)から莫大な利益を得ており、それが彼らの独立性を支える重要な財源の一つであったとされている 12 。
この事実を踏まえると、富士吉田城には二重の役割があったと結論づけることができる。第一に、敵の侵攻ルートとなりうる巡礼路を監視・防衛する軍事的役割。そして第二に、巡礼者や御師の安全を確保し、小山田氏の重要な経済基盤である通行料収入を守る、警察的・警備的な役割である。富士吉田城は、軍事、交通、宗教、経済という、戦国時代の社会を構成する複数の要素が交差する結節点に築かれた、多機能な戦略拠点だったのである。
歴史の中に埋もれた城が語るもの
富士吉田城には、後世の城郭が持つような壮麗な天守や巨大な石垣は存在しない。しかし、その地味な土塁と堀切、そして断片的に残された文献記録は、戦国時代の国境地帯における在地領主たちの必死の抵抗、大大名間の熾烈な勢力争い、そして聖地をめぐる攻防といった、生々しい歴史の実態を現代に伝えている。歴史の主役として語られることは少ないが、富士吉田城は、戦国という時代の複雑さと奥深さを理解するための、貴重な歴史遺産であると言えよう。
引用文献
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- 吉田城 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/015yamanashi/002yoshida/yoshida.html
- 山梨県富士吉田市のお城一覧-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/yamanashi/?c=fujiyoshida
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- 吉田城の見所と写真・全国の城好き達による評価(山梨県富士吉田市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/4113/
- 甲斐 吉田城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/kai/yoshida-jyo/
- 豊橋市指定史跡 吉田城址保存活用計画 https://toyohashi-bihaku.jp/wp-content/uploads/2023/04/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%9F%8E%E5%9D%80%E4%BF%9D%E5%AD%98%E6%B4%BB%E7%94%A8%E8%A8%88%E7%94%BB%E3%80%9012MB%E3%80%91.pdf
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- 山梨県大月市岩殿山城 | SANKYOSHA|メガネ総合商社の三共社 https://sankyosha.ne.jp/9922
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- 甲斐都留 武田氏従属的同盟者で郡内(甲斐東部)の国人領主小山田氏の本拠『谷村城』並びに後詰城の機能を有する『勝山要害城』訪問 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/10902699
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- 【山梨県・富士吉田市】北口本宮冨士浅間神社 part2 (完) | 鳥居の向こう側 https://ameblo.jp/08780873/entry-12840894585.html