越中の要衝、富山城は神保氏が築き、上杉謙信と死闘。佐々成政が本拠とするも秀吉に破却された。その後、前田氏により近世城郭へと転生し、戦国の記憶を今に伝える。
越中国、現在の富山県富山市中心部に位置する富山城は、戦国時代の激動を体現する城郭である。周囲を川に囲まれ、水に浮かぶように見えたことから「浮城」の異名を持つこの城は 1 、単なる一地方の拠点に留まらず、越中の覇権、ひいては北陸全体の支配権を巡る数多の攻防の舞台となった。その歴史は、地方国人領主の台頭、地域大国の介入、そして天下人による統一事業という、戦国時代から近世への移行期における権力構造の変遷を映し出す縮図と言えよう。
富山城の地理的・戦略的本質を理解する上で、その異名「浮城」の由来を深く考察する必要がある。これは単に城が川辺にあったという事実だけを指すのではない。明治34年(1901年)に治水工事で流路が変更される以前、神通川は現在の松川の流路を通り、城のすぐ北側を幅約200メートルもの大河として蛇行していた 2 。この雄大な流れが、城の北面を守る天然の巨大な外堀として機能していたのである。さらに、城郭自体が神通川の堆積作用によって形成された自然堤防という微高地を選んで築かれており、周囲の低湿地帯から物理的にも「浮き上がって」見えたであろうことは想像に難くない 1 。この「水」との関係性こそが、富山城の防御構造の根幹を成していた。
戦略的にも、富山城は比類なき重要性を有していた。越中の中央部に位置し、日本海側を結ぶ北陸街道と、内陸の飛騨国を経て美濃・尾張へと通じる飛騨街道が交差する交通の要衝であった 2 。この地を抑えることは、越中における人、物資、情報の流通を掌握することを意味し、経済的・軍事的に不可欠な地点であった。神保氏、上杉氏、織田氏、そして豊臣氏といった時代の権力者たちが、この城を巡って熾烈な争奪戦を繰り広げた根本的な理由は、まさにこの地政学的な優位性にあった。
本報告書は、戦国時代という視点から富山城の歴史を多角的に分析するものである。その歴史は、各時代の支配者が神通川という強大な自然の力をいかにして防御に利用し、同時にその脅威である洪水をいかに制御するかという、「水の支配」を巡る闘争の歴史でもあった。神保長職による「土の城」の築城から、上杉謙信との死闘、佐々成政による領国経営、そして豊臣秀吉による破却に至るまで、富山城の興亡の軌跡を辿ることで、戦国という時代の本質に迫ることを目的とする。
西暦(和暦) |
主な出来事 |
城主/関連勢力 |
典拠 |
1543年頃(天文12) |
神保長職、富山城を築城。越中東部への拠点とする。 |
神保長職 |
4 |
1560年(永禄3) |
上杉謙信の第一次越中侵攻。富山城落城。 |
上杉謙信 |
5 |
1562年(永禄5) |
神通川の合戦。神保長職が勝利するも、謙信の再侵攻で敗北。 |
神保長職、上杉謙信 |
7 |
1572年(元亀3) |
一向一揆勢が富山城を占拠。謙信が奪還。 |
一向一揆、上杉謙信 |
8 |
1578年(天正6) |
上杉謙信死去。織田信長の勢力が越中に進出。 |
(織田信長) |
6 |
1581年(天正9) |
佐々成政、越中に入国。 |
神保長住、佐々成政 |
6 |
1582年(天正10) |
成政、越中の国主となり富山城を本拠とする。 |
佐々成政 |
10 |
1585年(天正13) |
豊臣秀吉の越中征伐(富山の役)。成政は降伏し、富山城は破却。 |
豊臣秀吉、佐々成政 |
4 |
1597年(慶長2) |
前田利長、富山城に入城。 |
前田利長 |
11 |
富山城の誕生は、天文12年(1543年)頃に遡る 4 。しかし、その築城は単なる城造りではなく、当時の越中を二分した「越中大乱」と呼ばれる大戦の最中、越中西部を支配する守護代・神保長職(じんぼうながもと)による、越中統一に向けた野心的な軍事戦略の一環であった 6 。
室町時代、越中は守護・畠山氏のもと、守護代として西部の射水・婦負郡を神保氏が、東部の新川郡を椎名氏が分治する体制が続いていた 13 。しかし、応仁の乱以降、守護の権威が失墜すると両者の対立は先鋭化する。永正17年(1520年)に神保慶宗が越後の長尾為景に敗れて一時衰退した神保氏であったが、長職の代になると勢力を回復 6 。彼はそれまでの本拠地であった放生津(現在の射水市)や、要害の山城である増山城(現在の砺波市)から 6 、ついに神通川を越えて東部の椎名氏領内へと侵攻を開始した。富山城は、この東進作戦における最前線拠点として、椎名氏の本拠・松倉城と対峙する位置に築かれたのである 6 。この地理的関係性は、富山城が当初から極めて攻撃的な意図を持って築かれたことを物語っている。
築城者については、神保長職が主体であったとするのが定説であるが 4 、家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)が実際の縄張りなどを担当したという伝承も根強い 10 。これは、長職が総指揮官として戦略を決定し、勝重が実務を担ったという主従の役割分担として理解するのが妥当であろう。
この富山城の築城は、単なる軍事拠点の建設以上の意味を持っていた。それまで越中の政治・軍事の中心は、守護所が置かれた放生津など西部にあった 13 。しかし、長職がこの新たな城を自らの居城とし、権力の中枢を移したことで 4 、越中の政治的・経済的重心は西部から中央部の富山平野へと恒久的に移動することになった。後の佐々成政、そして近世の富山藩主前田氏が富山城を拠点としたことからも 4 、長職が設定した「富山=越中の中心」という地理的概念が、後世の支配者にも継承されたことがわかる。富山城の誕生は、富山という都市の原点を画定する、まさに画期的な出来事だったのである。
神保氏によって築かれた戦国期の富山城は、後の前田氏による近世城郭とは全く様相を異にする、石垣を持たない「土の城」であった 5 。これは当時の日本の城郭としては標準的な形態であり、堀を掘削した際に出る土を盛り上げて土塁(どるい)とし、防御の主軸とする構造であった。
その具体的な姿を伝える貴重な史料が、江戸時代初期に成立した往来物(教科書)である『富山之記』である。同書には、城の様子として「築地(ついじ)の上には壁を塗り、外をうかがうための穴がある」との記述が見られる 17 。これは、土塁の上に粘土などを塗り固めた築地塀が建てられ、そこには敵を射撃するための狭間(さま)が設けられていたことを示唆している。誇張表現が多いとされる『富山之記』だが、こうした構造に関する記述は、中世城郭の一般的な特徴と合致しており、信憑性は高いと考えられる。
こうした文献史料の記述を考古学的に裏付けたのが、近年の発掘調査である。特に平成15年(2003年度)の調査では、現在の城址公園(本丸跡)から、戦国時代後期(16世紀後半)に属する大規模な堀跡が検出された 18 。この堀は「薬研堀(やげんぼり)」と呼ばれる、断面がV字形を呈する極めて防御性の高い構造をしていた 19 。薬研堀は、急斜面であるため敵兵が容易に這い上がることができず、当時の緊迫した軍事情勢を反映した実戦的な設計であったと言える。この発見は、神保氏時代末期から次に述べる佐々成政時代にかけての富山城が、決して脆弱な城ではなく、高度な築城技術に裏打ちされた堅固な「土の要塞」であったことを具体的に証明した点で、大きな意義を持つ 19 。
長らく文献史料や伝承に頼らざるを得なかった中世富山城の実像は、21世紀に入ってからの継続的な発掘調査によって、その輪郭を現し始めている 18 。
最大の成果は、中世富山城が現在の城址公園内に存在したことが考古学的にほぼ確実となった点である 18 。それまでは、江戸時代の城とは別の場所にあったとする説も存在したが、戦国期の堀や工房跡、陶磁器類などが現在の城址から出土したことで、神保氏以来、城の中心地は一貫してこの場所にあったことが裏付けられた。
さらに、調査では城を東西に分断する、幅約20メートルにも及ぶ大規模な南北方向の堀跡も確認されている 19 。これは、城内が複数の区画(曲輪)に分けられていたことを示しており、神保氏時代の縄張りの一端を明らかにするものである。この堀の東側が、城の最も重要な中枢部、すなわち本丸であったと推定されている 19 。これらの考古学的知見は、富山城がその創始から、神通川の自然地形を巧みに利用しつつ、複数の堀と土塁によって厳重に防御された、計画的な城郭であったことを示している。
神保長職が富山城を拠点に勢力を拡大し、常願寺川以西をほぼ手中に収めると 7 、追い詰められた東越中の椎名氏は、越後の「龍」長尾景虎(後の上杉謙信)に救援を要請した 7 。これが、富山城、ひいては越中全土を巻き込む、長きにわたる上杉氏との死闘の始まりであった。
永禄3年(1560年)、椎名氏の要請に応じた謙信は、大軍を率いて越中に侵攻。その矛先は、神保方の最前線拠点である富山城に向けられた。長職は籠城して抵抗を試みるも、謙信の圧倒的な軍事力の前に敗北を喫し、富山城を放棄して西方にある本来の本拠・増山城へと敗走した 5 。この敗北により、神保氏の勢力は一時的に大きく後退し、富山城は上杉方の支配下に置かれることとなった。
しかし、戦国の雄・神保長職は一度の敗北で屈する男ではなかった。謙信が関東出兵のために越後へ帰国すると、長職は間髪を入れずに勢力を盛り返し、富山城を奪還する。この再起にあたり、長職は単独で戦うのではなく、新たな同盟者を求めた。それが、当時北陸で強大な勢力を誇っていた浄土真宗の一向一揆勢と、謙信の宿敵である甲斐の武田信玄であった 7 。
これにより、越中の地域紛争は、より大きな権力闘争の構図の中に組み込まれていく。永禄5年(1562年)9月、長職は一向一揆勢と連合し、神通川で上杉・椎名連合軍と激突(神通川の合戦)。この戦いで神保方は、椎名方の重臣らを討ち取る大勝利を収めた 7 。勢いに乗った長職は椎名氏の本拠・松倉城下まで攻め込むが、謙信が再び後詰として出兵すると戦況は一変。長職は増山城に包囲され、能登畠山氏の仲介で再び降伏を余儀なくされた 7 。
この後も、富山城を巡る情勢は安定しなかった。謙信の留守を狙って一向一揆勢が蜂起したり、椎名氏が今度は武田信玄と結んで反旗を翻したりと、富山城は上杉方、神保方、一向一揆勢の間でめまぐるしく支配者が変わる、まさに争奪の地と化した 6 。特に元亀3年(1572年)には、武田信玄の西上作戦に呼応した一向一揆勢が富山城を占拠し、謙信がこれを攻め落として奪還するという激しい攻防が繰り広げられた 8 。
この一連の攻防を俯瞰すると、富山城が単なる越中の地域紛争の舞台ではなかったことが明らかになる。神保氏と椎名氏の対立を起点としながらも、その背後には常に上杉謙信、武田信玄、そして本願寺という、当時の日本を動かす巨大な勢力の影があった。椎名氏が謙信を頼れば、神保氏は信玄や一向一揆と結ぶ。富山城の争奪戦は、いわば「上杉 vs 反上杉連合」という巨大な対立構造が、越中という地で繰り広げられた「代理戦争」の様相を呈していたのである。外部勢力の介入は、神保家中を親上杉派と反上杉派に分裂させるなど 14 、地域領主の内部統制をも揺るがした。富山城は、この時代の日本を二分する地政学的な断層の、まさに最前線に位置していたと言えよう。
天正6年(1578年)、上杉謙信の急死は、北陸の勢力図を一変させる。この好機を逃さず、天下統一を目前にした織田信長は、北陸方面軍司令官・柴田勝家を主将とする大軍を越中に派遣。越中の上杉勢力は一掃され、織田家の支配が確立される。
当初、信長は越中守護代の血筋を引く神保長住(ながずみ)を富山城主として立てた。これは、在地勢力の反発を抑えるための政略であった 26 。そして、その目付役(後見役)として越中に送り込まれたのが、信長麾下の猛将・佐々成政であった 6 。天正10年(1582年)、長住が内紛により失脚すると、成政が名実ともに越中一国の国主となり、富山城を自らの本拠と定めた 10 。これにより、富山城は神保氏の私的な拠点から、織田政権の対上杉政策を担う、北陸支配の最重要拠点へとその性格を大きく変えることになった。
佐々成政の統治は、単なる軍事支配に留まらなかった。彼は優れた領国経営者でもあり、特に治水事業にその手腕を発揮した 29 。富山平野は、急流である常願寺川や神通川がもたらす度重なる洪水に悩まされてきた地である 31 。成政は、この「暴れ川」を制御することが、領国の安定と発展、そして城の防御に不可欠であると理解していた。
彼の治績として最も有名なのが、常願寺川に築かれた「佐々堤(さっさてい)」である 33 。これは、洪水時に破堤しやすかった馬瀬口(現在の富山市大山町)に築かれた堅固な石堤であり、富山城下を水害から守る画期的なものであった 31 。さらに成政は、洪水でできた新たな流路を「いたち川」と名付け、両岸に堤防を築いて流れを安定させ、周辺の開墾や灌漑に利用したと伝えられている 33 。
これらの大規模な治水事業は、城下の民衆の生活を安定させ、農業生産力を向上させるという内政的な側面に加え、富山城の防御体制を人為的に強化・安定させるという、高度な軍事土木の側面も持ち合わせていた。神通川やいたち川の流れを制御し、城の堀として最大限に活用することで、「浮城」としての防御能力はより一層高められたのである 10 。
佐々成政は富山城の大規模な改修を行ったと一般に伝えられている 28 。しかし、その具体的な内容については、史料によって見解が分かれる。
一部の記録では、堀を深くし、土塁や石垣を高くしたとされている 38 。しかし、神保氏の時代と同様、成政の時代にも富山城に本格的な石垣は存在しなかったとする見方が有力である 17 。実際、近年の発掘調査でも、成政期に行われたとされる大規模な改修の痕跡は明確には確認されていない 26 。
この矛盾をどう解釈すべきか。成政は越中入国後、上杉勢力との戦いに明け暮れており、戦略的に多忙を極めていた 26 。また、領内の金銀山開発が不調で、資金調達が十分ではなかった可能性も指摘されている 26 。これらの状況を鑑みると、成政が金沢城に見られるような総石垣の城へと大改修する時間的・財政的余裕はなかったと考えるのが自然であろう。
したがって、成政が行った「改修」とは、石垣を築くような構造的な大改造ではなく、得意とした治水事業の技術を応用し、既存の土塁をより高く、堀をより深くするといった、土木工事を中心とした防御機能の強化であったと推察される。それは、彼の領国経営と一体化した、実戦的かつ合理的な城郭整備であったと言えるだろう。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、織田家中の権力闘争が激化する。成政は、織田家の筆頭家老であった柴田勝家方に与し、信長の実質的な後継者となった羽柴(豊臣)秀吉と対立する道を選んだ 37 。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、背後で上杉景勝が越中を窺っていたため、成政は動くことができず、勝家は秀吉に敗れ自刃する 40 。後ろ盾を失った成政は一時秀吉に恭順するも、翌天正12年(1584年)に徳川家康・織田信雄が秀吉と戦った小牧・長久手の戦いが起こると、再び反秀吉の兵を挙げ、秀吉方についた隣国の前田利家と激しく争った 40 。
戦いが膠着し、秀吉と信雄・家康の間で和議が結ばれると、成政は政治的に完全に孤立する。この窮地を打開すべく、成政は常軌を逸した行動に出る。天正12年の厳冬期、秀吉との抗戦継続を説得するため、同盟者である徳川家康のいる遠江国浜松を目指し、僅かな供回りを連れて豪雪の立山連峰(北アルプス)を踏破したのである 40 。この「さらさら越え」として知られる伝説的な行軍は、家康の説得には失敗したものの 44 、成政の不屈の闘志と秀吉への徹底抗戦の意志を象徴する出来事として、後世に語り継がれている 46 。
「さらさら越え」も空しく、政治的に孤立した佐々成政に対し、天下人・豊臣秀吉はついに最終的な討伐を決意する。天正13年(1585年)8月、紀州、四国を平定して西日本の支配を固めた秀吉は、自ら約10万とも言われる大軍を率いて越中に侵攻した 49 。これが「富山の役(越中征伐)」である。
対する成政は、越中各地の城塞から兵力を引き揚げ、約2万の兵を富山城に集中させて籠城の構えを取った 49 。しかし、その兵力差は歴然であり、戦いの帰趨は始まる前から決していたと言っても過言ではなかった。秀吉軍には、総大将格の織田信雄をはじめ、前田利家、丹羽長重、蒲生氏郷といった錚々たる武将が名を連ねていた 49 。この陣容からも、この戦いが単なる一地方大名の征伐ではなく、秀吉が天下人としての圧倒的な権威と軍事力を全国に示すための、大規模な軍事デモンストレーションであったことが窺える。
越中に入った秀吉は、富山城への力攻めを避けた。彼の戦術は、圧倒的な威光によって敵の戦意を削ぎ、降伏させるという、極めて高度な心理戦であった。秀吉は、富山城を眼下に見下ろすことができる呉羽丘陵の最高峰・白鳥城に本陣を構えた 6 。千成瓢箪の馬印が翻る丘の上から、秀吉は富山城を睥睨し、無言の圧力をかけたのである。
さらに秀吉は、包囲網を完璧なものにするため、神通川を挟んで富山城と対峙する位置に、安田城や大峪城といった付城(つけじろ)を前田利家に命じて築かせ、あるいは整備させた 6 。東からは上杉景勝、南からは飛騨の金森長近が呼応し、富山城は陸路を完全に遮断された 51 。昼は数千の旗指物が野山を埋め、夜は篝火が天を焦がすほどの光景であったと伝えられる 51 。堅城「浮城」も、この陸と海からの完全な包囲網の前にはなすすべもなかった。秀吉は水攻めすら検討したとされ、富山城の地理的特性を熟知した上で、最も効果的な戦術を選択したのである 49 。
この圧倒的な戦力差と巧みな包囲戦術を前に、成政の抵抗も限界に達した。ついに彼は降伏を決意し、織田信雄を仲介として秀吉に恭順の意を伝えた。成政は自ら髪を剃り、僧衣をまとって呉羽丘陵の秀吉本陣に出頭したと伝えられている 39 。
秀吉は成政の降伏を受け入れ、その命を助けた。しかし、富山城に対しては非情な命令を下す。それは、城の完全な破却であった 4 。秀吉は前田利長に命じて城の土塁を崩し、堀を埋めさせ、その戦略的機能を完全に失わせた。発掘調査では、この時の破却命令の実行を裏付けるかのように、戦国期の堀が意図的に埋められた痕跡が確認されている 53 。
この破却という行為は、単なる城の破壊ではなかった。それは、秀吉に最後まで抵抗した佐々成政という反抗者の権力の象徴を、天下人の手によって地上から消し去るという、極めて政治的な意味合いを持つものであった。そして、この地に新たな支配体制、すなわち前田氏による統治が始まることを天下に宣言する儀式でもあった。この破却をもって、神保長職の築城から約40年、数々の攻防の舞台となった富山城の「戦国時代」は、完全に幕を閉じたのである。
この一連の出来事は、日本の城郭史における大きな転換点をも象徴している。戦国時代、城は武将個人の権力基盤であり、私的な財産であった。しかし、天下統一を進める秀吉は、惣無事令や城割(しろわり)政策を通じて、大名が自由に城を保有・築城することを制限し始めた。富山城の破却は、秀吉が「城の存廃は、天下人である私の意向一つで決まる」という原則を明確に示した行為であった。後の前田氏による再興や改修に幕府の許可が必要であったことからも 22 、城がもはや大名の私物ではなく、中央権力(公儀)の管理下に置かれる「公的な施設」へと、その性格を大きく変えていったことがわかる。富山城の終焉は、城郭が「私」から「公」へと移行する、時代の大きなうねりを体現していたのである。
豊臣秀吉による破却後、廃城同然であった富山城に新たな転機が訪れるのは、関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来した後のことである。加賀藩初代藩主・前田利家の嫡男であり、二代藩主となった前田利長は、慶長10年(1605年)に家督を弟の利常に譲り、隠居の地として富山城を選んだ 4 。
利長は、加賀百万石の財力を背景に、富山城の大規模な修築に着手した。この時、富山城の歴史上初めて本格的な石垣が導入され、城は戦国期の「土の城」から、近世城郭としての「石の城」へと劇的な変貌を遂げた 5 。現在も残る石垣には、城主の権威を誇示するために用いられた2メートルを超える巨大な「鏡石」や 5 、石材の調達や普請を担当した石工集団を示す多種多様な「刻印石」が確認されており 22 、大規模かつ計画的な工事であったことが窺える。
さらに、この時の城の縄張り(設計)は、豊臣秀吉が京都に築いた政庁兼邸宅である聚楽第を手本にしたと伝えられている 2 。これは、方形の本丸を中心に複数の馬出曲輪を配する先進的な設計であり、利長が当時の最新の城郭築城術を越中の地で確立しようとしたことを示している 58 。
近世城郭として生まれ変わった富山城であったが、その命運は長くは続かなかった。慶長14年(1609年)3月、城下町で発生した大火が城に飛び火し、天守こそなかったものの、完成したばかりの御殿をはじめとする主要な建造物のほとんどが焼失するという悲劇に見舞われた 13 。
この大火により、利長は富山城の再建を断念。彼は新たな隠居城を築くことを決意し、射水郡関野(現在の高岡市)の地に高岡城を築いて移り住んだ 13 。これにより、一時的に越中の政治的中心は富山から高岡へと移ることになり、焼失した富山城は再び廃城同然の状態となった。
富山城が再び歴史の表舞台に登場するのは、寛永16年(1639年)のことである。加賀藩三代藩主・前田利常は、隠居に際して次男の利次(としつぐ)に10万石を分与し、加賀藩の支藩として富山藩が成立した 13 。
初代藩主となった利次は、当初、婦負郡百塚(現在の富山市百塚)に新たな城を築く計画を立てていたが、財政難からこれを断念 13 。万治2年(1659年)、加賀藩との領地交換によって富山城周辺を自領とし、この地を正式な居城と定めた 28 。そして寛文元年(1661年)、幕府の許可を得て、富山城の大規模な改修に着手 5 。この改修によって、正方形の本丸を中心に、南に二の丸、東西に出丸を配し、それらを広大な三の丸が囲むという「梯郭式」の縄張りが完成した。石垣は隅角部を長方形の石材で固める「算木積み」で強化され、虎口(出入口)は敵の直進を阻む「枡形」が採用されるなど、泰平の世における藩庁として、また万一の備えとしての機能性を両立させた、近世城郭としての富山城の姿がここに最終的に定まったのである 5 。
時代 |
縄張り・主要曲輪 |
主要防御施設 |
備考 |
典拠 |
神保氏時代 |
不明瞭だが、現在の本丸付近が中心か。発掘調査で複数の堀を確認。 |
土塁、薬研堀(V字形の堀)、築地塀。石垣は存在しない。 |
椎名氏との抗争を目的とした、中世的な「土の城」。 |
5 |
佐々成政時代 |
神保氏の縄張りを踏襲・強化したと推定。 |
土塁・堀の増強。神通川・いたち川の治水による防御機能の安定化。 |
領国経営と一体化した防御体制の整備。石垣の有無は議論があるが、無かった可能性が高い。 |
17 |
前田利長時代 |
聚楽第を手本としたとされる近世的な縄張り。本丸・西の丸など。 |
本格的な石垣(野面積み、鏡石、刻印石)と広大な水堀を導入。 |
加賀藩の財力を背景とした「石の城」への転換。権力の象徴としての性格が強まる。 |
2 |
前田利次時代 |
本丸、二の丸、西出丸、東出丸、三の丸を配した梯郭式縄張りが完成。 |
枡形虎口、算木積みの石垣など、より洗練された近世城郭の防御技術。 |
富山藩10万石の藩庁として、機能的・政治的な中心地としての城郭が完成。 |
5 |
富山城の歴史を、特に戦国時代を中心に紐解く時、我々はその城が単なる越中一地方の城郭に留まらず、上杉、武田、織田、豊臣といった、日本全体の権力闘争と深く連動した極めて重要な戦略拠点であったことを理解する。神保氏の野望の象徴として生まれ、越後の龍との死闘の舞台となり、織田信長の尖兵の拠点として経営され、そして天下人の威光の前にその生涯を閉じた。富山城の興亡は、まさに戦国乱世そのもののダイナミズムを内包している。
度重なる大火、そして第二次世界大戦の空襲により、富山城とその城下町に関する多くの文献史料は失われてしまった 68 。これが、富山城の研究を困難にしてきた大きな要因である。しかし、残された数少ない遺構や、近年の目覚ましい発掘調査の成果は、失われた歴史の断片を繋ぎ合わせ、その価値を再構築する可能性を示している 69 。
現在、富山城址公園を訪れる人々が目にする壮麗な石垣や水堀は、主に江戸時代、前田氏によって築かれたものである 70 。神保氏や佐々成政が駆け抜けた戦国時代の「土の城」の面影は、もはや地上にはなく、その記憶は静かに地中に眠っている。我々が歴史を理解する上で、この時間的な重層性を認識することは極めて重要である。
そして、城址に聳える天守は、昭和29年(1954年)に富山産業大博覧会を記念して、戦災復興のシンボルとして建設された模擬天守である 22 。史実に基づけば、富山城に天守が存在した確証はなく 22 、その存在を歴史的価値の欠如と見なす向きもあるかもしれない 71 。しかし、この天守は、戦禍から立ち上がった富山市民の城への愛着と、歴史を未来へ継承しようとする強い意志の表れとして、独自の文化的な価値を持つ存在として評価されるべきであろう。
富山城の歴史を正しく、そして深く理解することは、単に過去の出来事を知ることに留まらない。それは、神通川の治水と共に歩んできた富山という都市の成り立ちそのものを理解することに繋がり、我々が立つこの土地の記憶を未来へと継承していく上で、不可欠な営為なのである。