最終更新日 2025-08-22

小泉城

小泉城は上野国の平城。富岡直光が築城し、富岡氏の拠点として関東の動乱を生き抜く。大勢力の狭間で所属を変え存続。小田原征伐で落城し廃城となるも、良好な遺構が残り、戦国期平城の姿を今に伝える。

上野国 小泉城 ― 関東戦国史の奔流に翻弄された国衆の城郭

序章:忘れられた東毛の要衝、小泉城

群馬県邑楽郡大泉町。関東平野の北西端に位置するこの平坦な地に、戦国時代の記憶を今に伝える一つの城跡が存在する。それが、本報告書の主題である小泉城である。山城や丘城が数多く存在する上野国(現在の群馬県)において、標高約33メートルの台地に築かれたこの城は、典型的な「平城」として分類される 1

小泉城の歴史は、室町時代後期の延徳元年(1489年)に富岡主税介直光(とみおかちからのすけなおみつ)によって築かれたことに始まる 3 。以来、富岡氏六代、約100年にわたりその居城として東毛地域に勢力を保ったが、天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉による小田原征伐の過程で落城し、廃城という劇的な終焉を迎えた 3

その歴史は、関東の覇権をめぐり古河公方、上杉氏、武田氏、そして後北条氏といった巨大勢力が激しく衝突した、まさに関東戦国史の縮図である。城主であった富岡氏は、これら大勢力の狭間で翻弄されながらも、巧みな外交と武力によって一世紀にわたり家名を保った。小泉城の歴史を紐解くことは、すなわち戦国時代を生きた一地方領主、「国衆」のリアルな生存戦略を追体験することに他ならない。

特筆すべきは、廃城から400年以上が経過し、周辺が市街地化された現代においてなお、本丸を囲む水堀や土塁といった主要な遺構が極めて良好な状態で残存している点である 5 。この奇跡的な保存状態は、戦国時代末期の平城の構造や防御思想を研究する上で、学術的に極めて高い価値を持つ。

本報告書は、この小泉城を「戦国時代」という視点から徹底的に調査し、その誕生から終焉までの歴史、城郭としての構造的特徴、そして関東の政治・軍事史の中で果たした役割を多角的に分析・考察するものである。なお、奈良県大和郡山市にも同名の「小泉城」(別名:片桐城、小泉陣屋)が存在するが、これは江戸時代に片桐氏が築いた陣屋であり、本報告書が対象とする上野国の小泉城とは全く異なる城郭であることを、ここに明記しておく 7

第一章:小泉城の誕生 ― 富岡氏の出自と築城の背景

小泉城の歴史を理解するためには、まずその築城主である富岡氏の出自と、城が築かれた15世紀後半の関東地方の動乱に目を向けなければならない。小泉城の誕生は、単なる一豪族の拠点構築ではなく、半世紀にわたる政治的混乱の中から生まれた、必然の産物であった。

第一節:結城一族の末裔、富岡直光

小泉城の初代城主・富岡直光は、その系譜を下総国(現在の千葉県北部)の名門武家・結城氏に持つ 10 。結城氏は藤原秀郷の流れを汲む武士団であり、鎌倉時代から室町時代にかけて関東で大きな影響力を有していた。諸史料によれば、直光は結城氏朝の弟、あるいは結城久朝の子とされ、永享12年(1440年)に勃発した「結城合戦」が、その運命を大きく左右することとなる 11

結城合戦は、鎌倉公方・足利持氏の遺児を擁立した結城氏朝らが、室町幕府の大軍と戦った大規模な内乱である。この戦いで結城方は奮戦むなしく敗北し、当主の氏朝をはじめ一族の多くが討死した。直光の父とされる久朝もこの合戦で命を落とし、一族は離散の憂き目に遭う 12 。生き延びた直光は、遠く上野国甘楽郡富岡郷(現在の群馬県富岡市周辺)へと落ち延び、逼塞を余儀なくされた。彼がその地名から「富岡」を名乗るようになったのは、この時に由来すると伝えられている 10 。名門結城一族の末裔は、政治の表舞台から一時姿を消し、再起の時を待つことになったのである。

第二節:古河公方の旗下で ― 享徳の乱と築城

富岡直光が再び歴史の舞台に登場するのは、関東全域を巻き込む未曾有の大乱「享徳の乱」(1455年〜1483年)の最中であった。この内乱は、鎌倉公方であった足利成氏が、室町幕府と結託する関東管領・上杉氏を殺害したことに端を発する。成氏は幕府から追討令を受け、本拠地の鎌倉を追われるが、下総国古河を新たな本拠地として「古河公方」を称し、幕府・上杉方との徹底抗戦を続けた 13

この新たな反幕府・反上杉勢力である古河公方・足利成氏に、富岡直光は活路を見出した。結城合戦で幕府・上杉軍に敗れた富岡氏にとって、成氏は父祖の仇を討つべき主君であった。直光は成氏の麾下に馳せ参じ、その武勇をもって各地で戦功を挙げたとされる 12

その功績が認められ、直光は成氏から上野国邑楽郡小泉の地に所領を与えられた 2 。そして延徳元年(1489年)、富岡氏の新たな本拠地として、また古河公方勢力の東上野における重要拠点として、小泉城が築城されたのである 3

このように、小泉城の築城は、結城合戦という過去の敗北を乗り越え、享徳の乱という新たな動乱の中で富岡氏が政治的再起を果たした象徴的な出来事であった。それは同時に、関東を二分する大勢力の最前線に、新たな軍事拠点が生まれたことを意味していた。富岡氏と小泉城の歴史は、まさに戦乱の中から始まったのである。

第二章:城の構造と防御 ― 戦国期平城の縄張り

小泉城は、その構造において、中世から戦国時代への城郭建築技術の変遷を体現している。当初は豪族の居館としての性格が強かったものが、戦乱の激化に伴い、より実戦的な防御思想、特に戦国末期に関東を席巻した後北条氏の築城術の影響を色濃く受けて改修されたと考えられる。現存する遺構は、まさにその歴史の積層を物語る貴重な証拠である。

第一節:輪郭式平城の構造

小泉城は、山や川といった自然の要害に頼ることなく、平坦な台地上に堀と土塁を幾重にも巡らせて防御する「平城」である 1 。その縄張り(設計思想)は、本丸を中心に、二の丸、三の丸といった曲輪が同心円状に配置される「囲郭式(輪郭式)」に分類される 3 。これは平城において、全方位からの攻撃に備えるための合理的な配置であった。

城の中心である本丸(主郭)は、約100メートル四方の方形を呈しており、これが築城当初の富岡氏の居館の規模を示していると推測される 6 。この本丸の周囲に、二の丸、三の丸、そして北と西に独立した曲輪が配されていた 19 。城の正面玄関にあたる大手口は南側に開かれ、敵の直進を防ぎ、側面から攻撃を加えるための防御施設である「馬出虎口」を備えていたとされる 15

現在、本丸以外の曲輪の多くは市街地化によって失われているが、本丸を囲む内堀と土塁はほぼ完全な形で現存しており、往時の姿を偲ぶことができる 5

第二節:土と水の守り ― 後北条流築城術の影響

小泉城の防御の要は、高く、そして幅広く築かれた土塁と、水を湛えた水堀である。特に本丸の土塁は、水面からの高さが3メートル以上にも達し、塁上にも武者が活動できる十分な幅が確保されていた 6 。これは、単なる区画としての土塁ではなく、防御拠点として積極的に活用することを意図した、戦国期特有の堅固な構造である。

現在残るこれらの遺構は、15世紀末の築城当初のものではなく、16世紀後半、富岡氏が後北条氏の傘下に入った時代に大規模な改修が加えられた結果であると考えられている 1 。その痕跡は、城の細部に明確に見て取れる。

本丸の北東隅と南西隅には、周囲より一段高く土が盛られた「櫓台」の跡が確認できる 1 。伝承によれば、ここには2層から3層の隅櫓が建てられ、城の監視と防御の拠点となっていた 12 。さらに注目すべきは、本丸南西隅の構造である。ここでは土塁が意図的に外側へ「折れ」ており、城壁に接近する敵に対し、正面と側面の二方向から矢や鉄砲を射かけることを可能にする「横矢がかり」の構造が明瞭に残っている 22 。この横矢がかりは、集団戦法や鉄砲の普及に対応した高度な防御技術であり、特に関東においては後北条氏が得意とし、その支城ネットワークに広く採用したことで知られている 24

小泉城に見られる堅固な土塁、櫓台、そして横矢がかりといった構造は、富岡氏が後北条氏の軍事同盟に組み込まれる中で、その先進的な築城技術を取り入れ、城の防御力を飛躍的に向上させたことを物理的に証明している。築城当初の比較的単純な豪族居館は、戦国末期の厳しい軍事的要請に応えるべく、高度な戦闘拠点へと変貌を遂げたのである。


表1:小泉城の構造概要

構造要素

規模・形態

現存状況

推定される機能・特徴

関連する時代

本丸(主郭)

約100メートル四方の方形 6

ほぼ完存(城之内公園内広場)

城主の居館、最終防衛拠点。築城当初の単郭居館が原型か 5

築城当初~廃城

二の丸・三の丸

本丸を囲むように配置 21

大部分が宅地、学校、駐車場となり消滅 5

本丸の補助的防御施設、家臣団の居住区など。

築城当初~廃城

内堀

幅約10メートル 6

完存。水を湛える 5

本丸の直接的な防御。敵の侵入を物理的に阻止する。

築城当初~廃城

外堀

北側の一部が現存 5

北側の一部のみ現存。東武小泉線の線路沿い 19

城郭全体の外周防御。

築城当初~廃城

土塁

水面から3メートル以上の高さ 6

本丸周囲と外堀北側に良好な状態で現存 5

堀と一体となった防御壁。塁上は武者走りとして利用。

後期(後北条氏影響下)

隅櫓

2層から3層の櫓と推定 1

建造物はなし。櫓台跡のみ現存 1

城の四隅に設けられた監視塔兼射撃拠点。

後期(後北条氏影響下)

横矢がかり

本丸南西隅の土塁の「折れ」 22

遺構として明瞭に残存。

側面攻撃を可能にする高度な防御施設。後北条流築城術の特色 24

後期(後北条氏影響下)

馬出虎口

大手(南側)に設置と推定 15

消滅。

城門前方の空間。出撃拠点および虎口(出入口)の防御強化。

不明


第三章:激動の一世紀 ― 大勢力の狭間で揺れる城主

小泉城を拠点とした富岡氏の約100年間は、関東の覇権を巡る巨大勢力の動向に絶えず左右される、苦難と選択の連続であった。彼らの歴史は、特定の主君に絶対的に忠誠を誓うというよりは、激変する情勢の中で一族の存続を第一に考え、所属勢力を柔軟に変えていくという、戦国時代の国衆が置かれた現実を如実に示している。

第一節:「越山の龍」上杉謙信の関東出兵

16世紀中頃、かつて富岡氏が仕えた古河公方は内紛などにより著しく衰退し、関東の政治情勢は新たな局面を迎える。そこに登場したのが、「越山の龍」と恐れられた越後の長尾景虎、後の上杉謙信であった。謙信は、関東管領・上杉憲政を擁して関東の秩序回復を大義名分に掲げ、十数回にわたり関東への大規模な軍事介入を行った。

この圧倒的な軍事力を前に、上野国の国衆の多くは謙信に服属した。富岡氏も例外ではなく、この時期には上杉氏の勢力下に組み込まれていたことが確認されている 12 。当主であった富岡重朝は、謙信の指揮下で関東各地を転戦し、特に後北条方の重要拠点であった館林城への攻撃に参加するなど、上杉方の一員として軍事行動に従事した記録が残っている 4

第二節:「相模の獅子」後北条氏への臣従

しかし、上杉謙信の支配は、彼が越後へ帰還すると揺らぐという不安定なものであった。一方で、相模国小田原を本拠地とする後北条氏は、着実に関東での勢力圏を拡大していた。やがて甲斐国の武田信玄が西上野へ侵攻を開始すると、上杉氏と後北条氏は武田氏という共通の敵に対抗するため、「越相同盟」を締結する。

この政治的変動は、富岡氏の立場に大きな影響を与えた。小泉城の地理的位置は、上杉氏の越後よりも後北条氏の勢力圏に遥かに近い。同盟関係を背景に、富岡氏は上杉氏から離れ、より直接的な影響下にある後北条氏へ服属することを選択した 12 。後北条氏も東上野への進出拠点として富岡氏を重視し、その所領を安堵することで関係を強化した 4

後北条氏の傘下に入った富岡氏は、その武威を背景に、近隣のライバルであった金山城(現在の太田市)の由良氏と激しく対立し、幾度も合戦を繰り広げている 5 。また、後北条氏から上野国の拠点である厩橋城(現在の前橋城)の城番勤務を命じられるなど、大名の軍事システムに組み込まれ、様々な軍役を負担していたことが古文書からうかがえる 6 。これは、自立した領主(国衆)から、巨大な軍事組織の一員へと、その立場が変化していったことを示している。

第三節:甲斐の武田氏による侵攻

富岡氏が後北条方に属したことで、小泉城は新たな脅威に晒されることになった。天正年間、上野国の支配を巡って後北条氏と激しく争っていた甲斐の武田勝頼が、東上野へ侵攻した際、小泉城はその攻撃目標の一つとなった。富岡秀朝(重朝の子)の代、武田軍によって城下町が焼き討ちに遭うという大きな被害を受けている 4 。この出来事は、小泉城が単なる富岡氏の居城ではなく、後北条氏の北関東における防衛線を構成する重要な戦略拠点として、敵方からも認識されていたことを明確に物語っている。

このように、富岡氏の歴史は、関東の地政学的な要衝に位置したが故に、常に大国のパワーゲームの最前線に立たされ続けた。彼らの所属の変遷は、日和見主義と断じるべきではなく、一族の存続を賭けた必死の生存戦略の軌跡として理解されなければならない。


表2:戦国期における富岡氏の所属勢力と主要な出来事

年代(推定)

富岡氏当主

所属勢力

関連する主要な出来事

15世紀後半~

富岡直光、秀光、秀信

古河公方

享徳の乱において足利成氏に仕える。小泉城を築城 12

1560年代

富岡秀親、重朝

上杉謙信

謙信の関東出兵に伴い服属。館林城攻めなどに参加 4

1569年頃~

富岡重朝(秀長)

後北条氏

越相同盟を機に後北条氏へ臣従。所領を安堵される 11

1570年代~

富岡重朝、秀朝

後北条氏

金山城の由良氏と抗争 11 。厩橋城番などの軍役を負担 6

天正年間

富岡秀朝

後北条氏

武田勝頼の侵攻により、城下を焼き討ちにされる 4

1590年

富岡秀朝(秀高)

後北条氏

小田原征伐で後北条方として戦うも、小泉城は落城し、富岡氏は改易 3


第四章:落城 ― 天下統一の波と富岡氏の終焉

天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎える。関白・豊臣秀吉が、天下統一の総仕上げとして、関東に君臨する後北条氏の討伐に乗り出したのである。この小田原征伐の巨大な渦は、小泉城と富岡氏の約100年の歴史に、否応なく終止符を打つこととなった。小泉城の落城は、一個の城の戦いであると同時に、大名の壮大な戦略の前に国衆がいかに無力であったかを示す悲劇でもあった。

第一節:天正十八年、小田原征伐

豊臣秀吉は、後北条氏が自身の命令である「惣無事令」に違反したとして、20万とも言われる空前の大軍を動員し、関東へ侵攻した 27 。これに対し、後北条氏は当主・氏直、大御所・氏政のもと、領国内の諸将を動員して徹底抗戦の構えを見せた。後北条氏に臣従していた小泉城主・富岡秀朝(史料により秀高、秀長とも伝わる)も、主家と運命を共にすべく、豊臣軍と対峙することになった 15

第二節:主不在の城の戦い

後北条氏が採用した基本戦略は、過去に上杉謙信や武田信玄の猛攻を幾度も退けた難攻不落の本城・小田原城に主力を集結させ、長期籠城戦に持ち込むというものであった 28 。この戦略に基づき、富岡秀朝をはじめとする多くの国衆は、自らの手勢を率いて本拠地を離れ、指定された防衛拠点へと参集した。

富岡秀朝の具体的な動向については、二つの説が伝えられている。一つは、後北条軍の中核として小田原城に籠城したという説 12 。もう一つは、北関東における防衛の要である館林城に入り、石田三成が率いる豊臣軍の別動隊と対峙したという説である 4

いずれの説が真実であったにせよ、確かなことは、本拠地である小泉城が、城主と主力部隊を欠いた「主不在」の状態に置かれたという事実である 12 。城の守りは、わずかな留守部隊に委ねられることとなり、その防御力は著しく低下していた。

この隙を、豊臣軍は見逃さなかった。秀吉は小田原城を大軍で包囲しつつ、浅野長政や前田利家といった有力武将が率いる別動隊を関東各地へ派遣し、後北条方の支城を一つずつ確実に攻略する「支城各個撃破戦略」を展開した。北関東方面へ進軍した浅野・前田軍は、やがて小泉城にも迫り、攻撃を開始した 2

城主と主力を欠いた小泉城では、いかに堅固な土塁と堀を誇ろうとも、豊臣の大軍に抗する術はなかった。城兵は奮戦したと伝えられるが、衆寡敵せず、ついに降伏・開城を余儀なくされた 3 。富岡氏百年の拠点は、こうして呆気なく陥落したのである。

第三節:廃城と富岡氏のその後

小泉城の落城からほどなくして、約3ヶ月にわたる籠城の末、小田原城も開城し、戦国大名・後北条氏は滅亡した。主家の滅亡に伴い、それに殉じた富岡氏も改易となり、先祖伝来の所領をすべて没収された 4

落城後、小泉城が再び軍事拠点として利用されることはなく、そのまま廃城となった 5 。富岡氏の終焉は、後北条氏の籠城中心戦略が、豊臣秀吉の圧倒的な物量と巧みな支城撃破戦略の前に破綻したことを示す一つの事例である。大名の戦略に自らの運命を委ねるしかなかった国衆にとって、それは抗いようのない悲劇であった。

領地を失った富岡一族は、その後、歴史の表舞台から姿を消すが、完全に断絶したわけではない。一部は徳川家康に召し出されて江戸幕府の旗本となり、また他の一部は福井藩や高崎藩などに仕官するなど、武士としての家名を後世に伝えた者もいた 11 。かつて一城の主であった誇りを胸に、新たな時代を生き抜いていったのである。

終章:大地に刻まれた記憶 ― 城跡の歴史的価値の再評価

天正18年(1590年)の廃城から400年以上の歳月が流れた。かつて鬨の声が響き、武者たちが駆け巡った小泉城は、今、静かにその歴史を大地に刻み込んでいる。それは単なる過去の遺物ではなく、関東戦国史の動乱を物語る「大地の歴史書」として、現代に多くのことを語りかけている。

城之内公園としての現在

廃城後、軍事拠点としての役割を終えた城跡は、江戸時代には農地などに利用され、近代以降、その歴史的価値が見直される中で公園として整備されるに至った 5 。現在、城跡の中心部である本丸と二の丸の一部は「城之内公園」として市民に開放され、約300本の桜が植えられた花の名所として、また小動物園や遊具を備えた憩いの場として、多くの人々に親しまれている 5

保存状態の奇跡と史跡としての価値

小泉城跡が持つ最大の価値は、市街地の中心という立地にありながら、本丸を囲む内堀と土塁がほぼ往時の姿のまま保存されている点にある 6 。都市開発の波に飲まれることなく、これほど良好な状態で中世平城の核心部が残存している例は、全国的に見ても極めて稀であり、奇跡的とさえ言える。

この優れた保存状態により、我々は戦国時代末期の平城が持つ具体的な構造、特に後北条氏の影響を受けた高度な防御思想(横矢がかりなど)を、図面や文献だけでなく、実際の遺構を通して立体的に理解することができる。この学術的価値の高さから、城跡は昭和54年(1979年)に「小泉城跡(富岡城跡)附、城之内古墳(復元)」として大泉町の指定史跡に認定された 12

また、史跡指定の名称にもあるように、城跡内には7世紀後半に築造されたとされる「城之内古墳」が移築復元されている 1 。これは、この地が中世以前、古代から重要な場所であったことを示唆している。さらに、江戸時代に建立された百庚申塔なども残されており 17 、小泉城跡は古代から近世に至るまでの、この地域の歴史の重層性を示す複合的な文化遺産としての側面も有している。

結論的評価

小泉城の歴史は、華々しい英雄たちの物語の陰で、自らの土地と一族を守るために必死に戦った無数の国衆たちの実像を浮き彫りにする。その縄張りは、築城技術と戦術思想の変遷を刻み、城主・富岡氏の動向は、戦国という時代の冷徹な政治力学を映し出している。

結城合戦の敗北から再起し、享徳の乱の戦火の中で生まれ、上杉、武田、北条という巨大勢力の狭間で生き抜き、そして天下統一の奔流に飲み込まれて消えていった小泉城。その大地に刻まれた記憶を深く読み解くことは、戦国時代のもう一つの真実、すなわち地域に根差した武士たちの生と死のドラマに迫ることであり、我々に歴史の奥深さを改めて教えてくれるのである。

引用文献

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  2. 小泉城(群馬県邑楽郡)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/1882
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  5. 小泉城(城之内公園) - 史跡 - 妙印尼輝子 http://www.myouinniteruko.com/koizumijyou.html
  6. 小泉城 余湖 http://yogoazusa.my.coocan.jp/koizumig.htm
  7. 小泉城跡(片桐城跡):近畿エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/14486
  8. 小泉城の見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/koizumi/koizumi.html
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  13. 小泉城 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/010gunma/107koizumi/koizumi.html
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  21. 小泉城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
  22. 【上野国 小泉城】マイナー戦国武将だけど遺構は本物!!後北条氏の最前線のお城としてMVP級の活躍をしたマイナーなお城!! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=iequ8Y3wFGw
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