常陸小田城は、八田知家が築き、北畠親房が『神皇正統記』を執筆した南朝の拠点。戦国期には「常陸の不死鳥」小田氏治が何度も落城と奪還を繰り返し、不屈の精神を示した。今は史跡としてその歴史を伝える。
本報告書は、常陸国南部、現在の茨城県つくば市小田に位置した小田城について、その築城から廃城に至るまでの全史を、戦国時代を主軸に据えつつも、多角的な視点から徹底的に解明するものである。小田城は、単なる一地方の城郭に留まらず、鎌倉幕府の成立から戦国時代の終焉に至る約四百年間、日本の歴史の縮図を体現する極めて重要な史跡として位置づけられる 1 。
地理的に、小田城は筑波山とその支峰である宝篋山を北東に望み、広大な関東平野の東端に面する戦略的要地に築かれた 3 。この立地は、水利に恵まれ、古くからの交通路が交差する結節点でもあり、長きにわたりこの地域の政治・軍事の中心であり続けるための地理的優位性をもたらした 5 。桜川や霞ヶ浦の水運を利用した物流の拠点としての側面も持ち合わせていた可能性が指摘されている 7 。
その歴史を俯瞰すると、小田城は時代ごとに異なる、しかし常に重要な役割を担ってきた三つの顔を持つことがわかる。第一に、鎌倉幕府草創期における「東国の有力御家人の拠点にして常陸国守護所」としての威光。第二に、日本が二つに分かれた南北朝時代、南朝方の思想的支柱である北畠親房が歴史的名著『神皇正統記』を執筆した「思想的中心地」としての側面。そして第三に、数多の英雄が覇を競った戦国時代、絶え間ない攻防の末に「常陸の不死鳥」と称された城主・小田氏治の不屈の物語が繰り広げられた「熾烈な争奪戦の舞台」としての顔である。本報告書は、これら三つの時代的特徴を深く掘り下げ、考古学的知見も交えながら、小田城の歴史的価値を総合的に論じるものである。
小田城の歴史は、鎌倉幕府の成立と密接に結びついている。築城は、源頼朝による挙兵を初期から支え、その功績により「鎌倉殿の13人」の一人に数えられる有力御家人、八田知家によって文治元年(1185年)頃に行われたと伝えられている 4 。知家は下野国(現在の栃木県)を本拠とする宇都宮氏の一族であり、頼朝から常陸国守護に任じられたことで、筑波山麓のこの地に拠点を構え、小田氏を称した 4 。
当時の常陸国南部は、古くから平将門を討伐したことで知られる常陸平氏一族が強固な地盤を築いていた。しかし、鎌倉幕府の権威を背景に持つ知家は、やがてこれらの在来勢力を圧倒し、常陸国南部に一大勢力圏を確立するに至る 4 。この時期の小田城は、単なる一豪族の居館ではなく、幕府の地方統治機関である「守護所」としての政治的・軍事的機能を担っていたと考えられている 4 。これは、小田氏が鎌倉時代初期において、常陸国で比類なき家格と権勢を誇っていたことの証左である。
しかし、この栄華は永続しなかった。鎌倉時代中期以降、幕府の実権が執権・北条氏に移ると、その勢力は常陸国にも浸透し始める。北条氏は自らの一族を常陸国の要地に配置し、小田氏の勢力は次第に圧迫され、ついに守護職の地位をも失うこととなった 4 。
この鎌倉時代における栄光と挫折の経験は、後世の小田氏の行動原理に深く影響を与えたと考えられる。一族の祖が幕府創設の功臣であり、その居城が守護所であったという事実は、小田一族に強固な誇りと自負を植え付けたであろう。一方で、中央の強大な権力である北条氏によってその地位を奪われた経験は、中央権力への不信感と、失われた栄光を取り戻すことへの強い執着心を生んだ可能性がある。この複雑な感情が、後の南北朝時代において小田氏が南朝方を選択する遠因となり、さらには戦国時代の小田氏治が示した、本拠地・小田城への異常ともいえる執念に繋がっていったのではないだろうか。
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政がわずか数年で崩壊すると、日本は南朝と北朝に分かれて争う未曾有の内乱期、南北朝時代に突入する。この動乱の中、小田城は日本の思想史において不滅の光を放つ舞台となった。
南朝方の中心人物であり、当代随一の碩学であった公卿・北畠親房は、劣勢に陥った南朝の勢力を東国で挽回すべく、延元3年・暦応元年(1338年)に義良親王(後の後村上天皇)を奉じて伊勢国から海路東国を目指した 10 。しかし一行は途中で暴風雨に見舞われ離散。親房の乗る船のみが常陸国に漂着した 11 。当時、小田氏は南朝方として活動しており、親房は当主・小田治久を頼って小田城に入城した 3 。これにより、小田城は一時的に関東における南朝方の司令塔となり、歴史の表舞台に躍り出ることになる 3 。
親房が小田城で成した最大の功績は、歴史書『神皇正統記』の執筆である。彼は北朝方の足利軍との激しい攻防の最中にある小田城内において、延元4年・暦応2年(1339年)にこの不朽の名著の初稿を書き上げた 3 。『神皇正統記』は、神代から当代に至る天皇の系譜を辿り、三種の神器を根拠として南朝こそが日本の正統な皇統であることを論証した書物である 10 。その執筆目的は、関東の武士、特に日和見的な態度をとっていた結城親朝らを説得し、南朝方に取り込むための「思想的武器」であったとされる 10 。
この出来事は、小田城の歴史的価値を単なる軍事拠点から、日本の皇統論や歴史観が形成された「思想的聖地」へと昇華させた。城を取り巻く土塁や堀は、物理的な攻撃から親房の身体を守ると同時に、後世に絶大な影響を与える知的生産活動が行われるための空間を守っていたのである。城郭の攻防という軍事的事象と、そこで行われた高度な知的生産が分かちがたく結びついている点において、小田城は他の多くの城郭とは一線を画す、多層的で深遠な価値を有している。
しかし、思想の力だけでは戦局を覆すことはできなかった。北朝方の猛将・高師冬らが率いる大軍の攻撃を受け、小田城は激戦の末、興国2年・康永元年(1341年)に陥落。親房は同じく南朝方の拠点であった関城(現在の茨城県筑西市)へと落ち延びていった 14 。
室町時代を通じて小田氏は本拠地を維持し続けたが、戦国時代に入ると、その存亡は風前の灯火となる。当時の常陸国は、北部に拠点を置く佐竹氏が「惣無事令」を掲げて南下政策を推し進め、国の統一を目指していた 15 。一方、西からは相模国の後北条氏が関東全域の制覇をもくろみ、その勢力圏を下総国から常陸国へと拡大しつつあった 5 。
小田氏は、この佐竹・後北条という二大勢力に挟撃される、地政学的に極めて危険な立場に置かれていた 16 。小田氏第15代当主・小田氏治は、この絶体絶命の状況下で、一族の存続を賭けた綱渡りのような外交戦略を展開する。当初は越後の上杉謙信と結び、佐竹氏と共に後北条氏に対抗する姿勢を見せた 2 。しかし、後に状況の変化に応じて後北条氏と同盟を結ぶなど、その外交方針は目まぐるしく変転した 5 。これは、弱小勢力が強大な隣国に囲まれながら生き残るための、必死の選択であった。
小田氏最後の当主となった氏治(天文3年(1534年)生誕)の生涯は、日本の戦国史上でも類を見ない、敗北と復活の繰り返しであった 17 。彼の戦歴は、本拠地である小田城の喪失と奪還の歴史そのものである。
その端緒となったのが、弘治2年(1556年)の 海老ヶ島の戦い である。氏治は、後北条氏と結んだ下総国の結城政勝と戦い敗北。この結果、居城である小田城を初めて失い、支城の土浦城へ逃れた 17 。しかし、彼は屈しなかった。同年8月には結城勢を追い払い、早くも小田城の奪還に成功している 17 。
氏治にとって最大の試練は、永禄7年(1564年)の 山王堂の戦い であった。関東管領職を継承した上杉謙信が、後北条氏と結んだ氏治を討伐するため、佐竹義昭ら関東の諸将を率いて大軍で小田領に侵攻。氏治はこれを迎え撃つも大敗を喫し、小田城は再び陥落、藤沢城へと敗走した 17 。だが、ここでも氏治は驚異的な粘りを見せる。翌永禄8年(1565年)、佐竹義昭の死という政情不安の隙を突き、またもや小田城の奪還を果たしたのである 17 。
しかし、この奪還劇も長くは続かなかった。永禄12年(1569年)、常陸統一を目指す佐竹義重との雌雄を決するべく挑んだ 手這坂の戦い で、小田軍は壊滅的な敗北を喫する 2 。この敗戦が氏治にとって決定的となり、これ以降、彼は生涯をかけて望みながらも、ついに本拠地・小田城を取り戻すことはできなかった 17 。
史料には、氏治がその生涯で小田城を9度落とされ、8度にわたって奪還したと記されており、この常人離れした不屈の精神から、後世「 常陸の不死鳥 」の異名で呼ばれることとなった 17 。
年代(西暦/和暦) |
主要な出来事・合戦名 |
敵対勢力 |
結果と小田城の帰属 |
1556年(弘治2年) |
海老ヶ島の戦い |
結城政勝 |
敗北。小田城を喪失するも、同年に奪還。 |
1559年(永禄2年) |
- |
佐竹義昭 |
佐竹氏の攻撃により落城。後に奪還。 |
1564年(永禄7年) |
山王堂の戦い |
上杉謙信、佐竹義昭 |
大敗。小田城を喪失。 |
1565年(永禄8年) |
- |
佐竹義廉 |
佐竹義昭の死に乗じ、小田城を奪還。 |
1566年(永禄9年) |
- |
上杉謙信 |
上杉軍の攻撃を受け、小田城を開城。上杉軍撤退後に奪還。 |
1569年(永禄12年) |
手這坂の戦い |
佐竹義重、真壁氏幹 |
決定的敗北。小田城を完全に喪失。 |
1573年(元亀4年/天正元年) |
- |
佐竹義重 |
佐竹軍の攻撃により、支城が次々陥落。 |
1583年(天正11年) |
- |
佐竹義重 |
佐竹氏に降伏。 |
1590年(天正18年) |
小田原征伐 |
佐竹義宣 |
豊臣秀吉の小田原征伐の混乱に乗じ、最後の小田城奪還を試みるも失敗。 |
(注:落城・奪還の回数については諸説あり、本表は主要なものをまとめたものである 2 。)
小田氏治は、その敗戦の多さから、しばしば「戦国最弱の武将」という不名誉な評価を受けてきた 19 。しかし、その戦歴を詳細に検討すると、この評価が表層的であることが見えてくる。
氏治の敗戦は、彼個人の軍事的才能の欠如というよりも、常に自軍の兵力をはるかに上回る大軍や連合軍を相手にせざるを得なかった、彼の置かれた地政学的宿命に起因する部分が大きい。例えば、山王堂の戦いにおける相手は、軍神・上杉謙信が率いる関東諸将の連合軍であった 17 。このような圧倒的な戦力差のある敵に対し、正面から戦って敗れたことをもって「最弱」と断じるのは早計であろう。むしろ、歴史家の乃至政彦が指摘するように、敵方が氏治を強敵とみなし、大軍を動員しなければ攻略できないと判断した結果が、これらの敗戦であったと解釈することも可能である 20 。彼の戦歴は「弱さ」の証明ではなく、強大な敵に囲まれながらも、最後まで抗い続けた「孤立した中堅勢力」の奮闘の記録と見るべきである。
では、なぜ氏治は何度も敗れながら、その都度再起し、城を奪還することができたのか。その驚異的な回復力の源泉は、軍事力以上に、彼が持つ人間的魅力に根差していたと考えられる。第一に、 家臣団の強固な結束力 である。戦国時代、主君が敗れれば家臣が離反するのは常であったが、氏治の家臣団は彼を見限ることなく、最後まで忠誠を尽くした 21 。息子の小田友治は、父の窮状を救うため、仕えていた北条氏政に働きかけて援軍を引き出すことに成功している 21 。このような家臣の支えがなければ、氏治の再起は不可能であった。
第二に、 領民からの絶大な支持 である。特筆すべきことに、小田領の民は、氏治が城を追われると新領主への年貢の納入を拒否して抵抗し、氏治が帰還すると喜んで迎え、再び年貢を納めたという逸話が残っている 23 。これは、占領軍にとって領国経営を著しく困難にさせる効果的な抵抗戦術であった。城を失っても、領民という人的基盤を失わなかったことこそが、氏治が「不死鳥」たり得た最大の要因であった。彼の敗走は、単なる無策な逃亡ではなく、人的資源を温存し、敵が領国統治に疲弊した隙を突いて内外の協力者と共に反撃に転じるための、極めて合理的な戦略的撤退であった可能性すら考えられる。肖像画に愛猫が描かれているという逸話も、彼の人間的な一面を物語っている 23 。
小田城は、宝篋山の南西麓に広がる、東西約1km、南北約700mにも及ぶ広大な平城である 5 。その構造(縄張り)は、時代の要請に応じて大きく変化していった。
築城当初の鎌倉時代には、現在本丸跡とされる区画を中心とした、堀と土塁に囲まれただけの単純な方形の館(単郭方形館)であったと推定されている 5 。これは、当時の武士の居館として一般的な形態であった。
しかし、戦乱が激化する室町時代から戦国時代にかけて、小田城は大規模な改修を繰り返し、防御機能を飛躍的に向上させていく。城の領域は拡張され、主郭(本丸)の周囲に幾重にも堀と曲輪が同心円状に取り巻く、複雑な「環郭式」または「渦郭式」に近い縄張りへと発展した 25 。主郭の周囲には、敵の直進を防ぐ「馬出曲輪」や、主郭を側面から防衛する「帯曲輪」、見張りや攻撃の拠点となる「櫓台」などが次々と設けられた 4 。特に、城の南西口を守るために造られた約50メートル四方の「南西馬出曲輪」は、戦国時代の最新の築城技術を取り入れた、小田城の防御思想を象徴する遺構である 27 。
昭和10年(1935年)の国史跡指定以降、特に平成9年(1997年)から21年間にわたって行われた本格的な発掘調査により、文献史料だけでは知り得なかった小田城の具体的な姿が次々と明らかになった 3 。
調査における最も劇的な発見の一つが、 大規模な火災の痕跡 である。本丸とその北側出入口付近から、焼けた土や炭を大量に含む層が広範囲で発見された 29 。これは、前章で述べた永禄7年(1564年)の上杉謙信連合軍による攻撃の際に城が炎上したことを示す考古学的な物証と考えられており、歴史的記述を裏付ける重要な発見となった 29 。そして、この焼土層の上には、新たな防御施設が構築されていた。具体的には、城の出入口を守るために三方を土塁で囲んだ「馬出」が新設されており、小田氏が落城という手痛い経験を教訓に、城をより堅固なものへと造り替えていった過程が、地層となって記録されていたのである 29 。
堀の構造についても多くの知見が得られた。時代が下るにつれて堀の幅は拡張され、戦国末期には幅20~30メートル、深さ4~5メートルにも達する大堀となっていた 27 。さらに、堀の底は平坦ではなく、敵兵の移動を妨げるために意図的に凹凸状に掘られた「
障子堀 」と呼ばれる構造であったことも判明している 27 。また、本丸西側では、堀の内側だけでなく外側にも幅約10メートルの土塁が築かれていたことが初めて確認され、二重の土塁で防御を固めていたことが明らかになった 29 。
出土遺物もまた、当時の城内の様子を雄弁に物語る。鉄砲玉や矢じり、鎧の金具などは、この城が幾度となく激しい戦闘の舞台となったことを示している 27 。一方で、宴会で用いられたであろう大量の「かわらけ」(素焼きの使い捨て杯)や、漆塗りの椀、下駄といった生活用品の出土は、戦時だけでなく平時における城主や家臣たちの生活文化を垣間見せてくれる 4 。
これらの発掘調査の成果は、小田城が一度完成したら変わらない静的な建造物ではなく、戦況の変化や新たな脅威に対し、敗戦の教訓をフィードバックさせながら絶えず改修・強化され続けた、まさに「生きた」防衛システムであったことを物理的に証明している。城の歴史は、幾重にも積み重なった改修の地層そのものに刻まれていたのである。
永禄12年(1569年)の手這坂の戦い以降、小田城は佐竹氏の支配下に置かれた。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、小田氏治は北条方に与したと見なされ、戦後に所領を没収された 17 。これにより、鎌倉時代から続いた大名としての小田氏は滅亡した。
小田城には、佐竹氏の家臣で太田資正の子である梶原政景や、佐竹一族の小場義宗らが城主として入った 2 。しかし、城としての命運は長くはなかった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、佐竹義宣が西軍寄りの曖昧な態度をとったため、戦後、徳川家康によって慶長7年(1602年)に出羽国秋田への転封が命じられる。これに伴い、小田城はその約四百年にわたる歴史的役割を終え、廃城となった 4 。廃城後、元和2年(1616年)からは一時的に旗本・横山氏の陣屋が置かれたこともあったが、城郭としての機能は完全に失われ、やがて田畑の中に埋もれていった 2 。
一方、城を失った小田氏治の晩年は、かつての敵であった結城氏の当主・結城秀康(徳川家康の次男)の客分として庇護を受け、慶長6年(1601年)に越前の地でその波乱の生涯を閉じた 17 。しかし、小田氏の血脈は意外な形で存続する。氏治の娘が結城秀康の側室となり、その間に生まれた子孫が、後に越前松平家の一流として前橋藩17万石の大名家となったのである 32 。戦に敗れ続けた氏治であったが、その血は形を変えて江戸時代を通じて大名として生き残るという、数奇な運命を辿った。
歴史の中に埋もれた小田城跡が再び脚光を浴びるのは、近代に入ってからである。その類まれな歴史的重要性、特に北畠親房による『神皇正統記』執筆の地であったことなどが評価され、昭和10年(1935年)6月7日、約21.5ヘクタールに及ぶ広大な城跡が国の史跡に指定された 2 。
史跡指定後も長くは田園地帯に遺構が点在する状態であったが、つくば市は平成21年(2009年)度から本格的な保存整備事業に着手。長年にわたる発掘調査の成果を基に、城の中心部である本丸跡とその周辺を、中世の城郭景観を体感できる歴史公園として復元整備した 1 。そして平成28年(2016年)4月29日、「
小田城跡歴史ひろば 」として一般に公開された 5 。
現在、歴史ひろばでは、復元された土塁や堀、池の遺構などを散策しながら、往時の城の規模を体感することができる 1 。併設された案内所では、小田城の復元ジオラマや発掘調査で出土した遺物が展示され、訪れる人々に小田氏四百年の物語を分かりやすく伝えている 1 。また、小田氏の家紋や氏治の不死鳥、愛猫をモチーフにした3種類の「御城印」の販売や 24 、年間を通じた様々な歴史イベントの開催など 38 、歴史遺産を地域の活性化や文化振興に繋げる現代的な取り組みも活発に行われている。
常陸国南部の平野に築かれた小田城の四世紀にわたる歴史は、中世日本の社会と精神の変遷を凝縮した、稀有な物語を我々に語りかける。それは、鎌倉幕府創設に貢献した武士の誇り、国家のあり方を巡って理念が激突した南北朝の動乱、そして力のみが全てを支配するかに見えた戦国の非情な現実を、一つの場所で体現した歴史の証人である。
特に、戦国時代の城主・小田氏治の生涯は、単に「戦国最弱」という表層的な評価では到底捉えきれない、深い教訓を含んでいる。彼の物語は、強大な勢力に囲まれた中小国家が、純粋な軍事力以外の要素、すなわち家臣や領民との強固な信頼関係という人的基盤を駆使して、いかにして存続を図ったかという、普遍的な生存戦略の事例として再評価されるべきである。彼の度重なる敗北は弱さの証明ではなく、むしろその後の驚異的な回復力こそが、彼の統治者としての真の力量を示している。小田氏治は「最弱」ではなく、「不屈」の象徴として記憶されるべきであろう。
現代において、長年の学術調査を経て「小田城跡歴史ひろば」として再生されたこの場所は、過去の出来事を学術的に解明するという意義に留まらない。復元された土塁の上に立ち、筑波山を望むとき、我々は北畠親房の憂国の念や、小田氏治の不屈の闘志を追体験することができる。史跡の保存と活用は、こうした歴史的教訓を現代人が体感し、未来へと継承していく上で不可欠な事業である。小田城は、もはや単なる過去の遺物ではない。それは地域のアイデンティティを形成し、訪れる者すべてに歴史の奥深さと、逆境に屈しない人間の精神力を語りかける、今なお生き続ける歴史遺産なのである。