最終更新日 2025-08-17

尾浦城

庄内の要衝、尾浦城は大宝寺氏の拠点として栄えるも、最上義光の謀略で義氏が自刃。上杉・最上氏の庄内争奪戦の中心となり、十五里ヶ原の戦いの舞台に。一国一城令で廃城となるも、公園として再生した。

庄内戦国史の要衝:尾浦城の興亡と変遷に関する総合的考察

序章:庄内の要衝、尾浦城

山形県鶴岡市にその痕跡を留める尾浦城は、単なる中世の城郭跡ではない。それは、出羽国庄内地方の戦国時代史を凝縮した舞台であり、在地勢力である大宝寺氏の栄光と悲劇、そして最上氏と上杉氏という二大勢力の野望が交錯した地政学的な要衝であった。今日、大山公園として市民の憩いの場となっているこの丘陵は、かつて血で血を洗う攻防が繰り広げられ、庄内地方の覇権の行方を決定づける数々の歴史的事件の震源地となったのである。

本稿は、尾浦城に関して伝わる断片的な情報を超え、その立地と構造、城主であった大宝寺氏の興亡、庄内争奪戦における中心的役割、そして近世への移行に伴う終焉と現代に至るまでの変遷を、多角的かつ徹底的に分析・考察することを目的とする。尾浦城の歴史を紐解くことは、一城郭の盛衰を追うに留まらず、戦国という激動の時代が地方の権力構造をいかに変容させ、やがて新たな秩序へと収斂させていったかの力学を解明することに繋がる。この城が物語るのは、地方国人の自立と限界、大大名による領土拡大の論理、そして天下統一という巨大な潮流の中で翻弄され、あるいはそれに適応しようとした人々のドラマそのものである。

表1:尾浦城年表

年代

主な出来事

城主・支配勢力

鎌倉時代

築城されたと伝わるが詳細は不明 1

武藤氏(大宝寺氏)

天文年間 (1532-1555)

大宝寺晴時、一族の砂越氏との抗争で大宝寺城を焼失し、居城を尾浦城へ移す 1

大宝寺氏

天正11年 (1583)

最上義光と内通した家臣・前森蔵人(東禅寺義長)の謀反により落城。17代当主・大宝寺義氏が自刃 2

(一時的に最上氏影響下)

天正15年 (1587)

最上義光が再び侵攻し、尾浦城は再度落城。大宝寺義興は自刃。庄内地方は最上氏の支配下となる 1

最上氏(城代:中山玄蕃頭)

天正16年 (1588)

十五里ヶ原の戦い。本庄繁長・大宝寺義勝親子が上杉景勝の支援を受け最上軍に勝利。庄内を奪還 1

大宝寺氏(上杉氏影響下)

天正19年 (1591)

大宝寺義勝、一揆扇動の嫌疑で改易。庄内地方は正式に上杉景勝の領地となる 1

上杉氏(城代:下吉忠など)

慶長5年 (1600)

関ヶ原の戦いに連動した慶長出羽合戦。西軍の上杉氏が敗れたため、庄内は東軍の最上氏に攻められる 1

上杉氏

慶長6年 (1601)

最上義光が庄内を再領有。尾浦城も最上氏の手に渡る 1

最上氏

慶長6年以降

城主となった下吉忠により「大山城」と改称。城池の拡張や城下町の整備が行われる 4

最上氏(城主:下吉忠など)

元和元年 (1615)

江戸幕府による一国一城令により、支城であった大山城は廃城となる 1

最上氏

元和8年 (1622)

最上氏が改易される 1

(幕府領)

寛永年間以降

酒井氏が庄内藩主となる。後年、分家の酒井忠解が大山藩を立藩するも、居館は山麓に置かれた 4

酒井氏(大山藩)

昭和初期

地元の酒造家・加藤嘉八郎有邦氏の私財により公園として整備され、「大山公園」となる 4

(公有地)

第一章:尾浦城の立地と構造

尾浦城の戦略的重要性を理解するためには、まずその地理的条件と城郭構造(縄張り)を分析する必要がある。この城は、単に堅固なだけでなく、庄内平野の政治・軍事力学を支配するために計算し尽くされた場所に築かれていた。

地理的・戦略的優位性

尾浦城は、庄内平野の南西縁にそびえる高館山(標高約274メートル)から、平野部に向かって舌状に伸びる丘陵の先端に位置する 1 。標高は約50メートル、麓からの比高(高低差)は約40メートルであり、典型的な平山城に分類される 8 。この立地は、城にいくつかの決定的な優位性を与えていた。

第一に、卓越した視界である。丘陵上からは眼下に広がる庄内平野を一望でき、月山や鳥海山までも遠望することができた 8 。これにより、敵軍の動きを早期に察知し、迎撃態勢を整えることが可能であった。平野部における軍事行動を監視・統制する上で、この眺望は計り知れない価値を持っていた。

第二に、交通の要衝の掌握である。城の南側には、出羽国と越後国を結ぶ重要な幹線道路であった旧越後街道が通っていた 10 。この街道の出入り口を直接見下ろす位置にある尾浦城は、越後からの軍事的脅威に対する第一の防衛線であり、同時に庄内地方の物流と交通を支配する拠点でもあった。特に、越後の上杉氏との関係が複雑に変化する戦国時代において、この街道を抑えることの戦略的意味は極めて大きかった。

そして第三に、天然の要害としての防御力である。城が築かれた丘陵は、周囲を上池と下池という沼沢地に囲まれ、急峻な斜面を持つ天然の要塞であった 2 。平地にありながら、容易に大軍が取り付くことを許さない地形は、防御側にとって大きな利点となった。

興味深いのは、大宝寺氏がこの尾浦城に本拠を移す以前の居城、大宝寺城(後の鶴岡城)との対比である。大宝寺城は平城であり、領国支配の中心として平野に君臨し、権威を外に示す性格が強い城であった 9 。それに対し、平山城である尾浦城は、より防御を重視した性格を持つ。天文元年(1532年)に一族である砂越氏の攻撃によって大宝寺城を焼き払われた大宝寺晴時が、この天然の要害である尾浦城に本拠を移したという事実は、単なる居城の変更以上の意味を持つ 1 。これは、大宝寺氏の支配体制が盤石ではなく、一族内部の抗争によって深刻な脅威に晒されていたことの現れである。つまり、外への権威発信よりも、まず自らの安全確保を優先せざるを得ないという、守勢に転じた大宝寺氏の苦しい立場を象徴する戦略的決断だったのである。

城郭の構造(縄張り)

尾浦城の縄張りは、戦国時代の山城の特徴を色濃く残しており、自然地形を巧みに利用しつつ、人工的な防御施設を加えて多重的な防衛線を構築していた。現在、大山公園として整備されている城跡には、今なおその遺構が明瞭に残り、往時の姿を偲ばせている 8

城の中心となる主郭(本丸)は、丘陵の最高部に位置し、現在は三吉神社が鎮座している 2 。主郭は方形を呈し、特に防御の要となる北西側には堅固な土塁が残存しており、敵の攻撃を食い止める最後の砦としての役割を担っていたことがわかる 2 。主郭内には「嗚呼羽州大守武藤氏之碑」が建立され、この地がかつて大宝寺(武藤)氏の本拠地であったことを今に伝えている 2

主郭を取り巻くように、複数の曲輪が巧みに配置されていた。主郭から北東に伸びる尾根には、大きく二段に造成された曲輪が存在した 2 。これは、主郭への到達を困難にするための前線基地であり、段階的な防御を可能にするための設計思想が見て取れる。

一方、主郭の西側には、大規模な堀切(尾根を分断する空堀)を隔てて、西の郭(二の丸)が設けられている 2 。この堀切は非常に深く、物理的に主郭と西の郭を遮断することで、たとえ西の郭が突破されても主郭の独立性を保つための重要な防御施設であった 8 。現在、古峯神社が祀られているこの西の郭は、南端が一段高くなっており、物見や指揮の拠点として機能した最高所であったと考えられる 2 。さらにその西側にも広い曲輪が続いており、西方面からの攻撃に対して幾重にも備えていたことがうかがえる 2

時代が下り、最上氏の支配下で大山城と改称された後には、山麓部に大規模な改修が加えられた。城主となった下吉忠は、城の真下を流れる菱津川の流れを変えて外堀とし、二の丸、三の丸を設けて城下町を整備した 4 。三の丸跡には、現在も「御馬出道」「殿町」「御徒町」「足軽町」といった地名が残り、家臣団の屋敷が計画的に配置されていたことを示している 1 。これにより、尾浦城は純粋な軍事拠点から、政治・経済の中心地としての機能を併せ持つ近世的な城郭へと変貌を遂げたのである。

第二章:大宝寺氏の興亡と尾浦城

尾浦城の歴史は、その主であった大宝寺氏の歴史と不可分である。特に、天文年間に本拠を移してから天正年間に滅亡するまでの約半世紀は、大宝寺氏の栄光と没落、そして戦国武将の野心と悲劇が凝縮された時代であった。

大宝寺氏と庄内支配の確立

大宝寺氏は、本姓を武藤氏といい、鎌倉時代に源頼朝から出羽国大泉荘の地頭に任じられた武藤氏平を祖とする名門である 7 。当初は大泉氏を称したが、後に荘園の中心地であった大宝寺(現在の大宝寺町)に居城を構えたことから大宝寺氏と呼ばれるようになった 7 。彼らは羽黒山の別当職を兼務することで、宗教的権威をも手中に収め、庄内地方における支配を盤石なものとしていった 17

しかし、戦国時代に入ると、一族内部の対立が激化する。特に庶流である砂越氏との長年にわたる抗争は深刻であり、天文元年(1532年)には、当主・大宝寺晴時の居城であった大宝寺城が砂越氏維の攻撃によって焼き払われるという事態に至った 1 。この壊滅的な打撃を受け、晴時はより防御に優れた尾浦城へと本拠を移転せざるを得なくなった 1 。この決断は、大宝寺氏が平穏な領国経営の時代を終え、常に内外からの脅威に備えなければならない、過酷な戦国乱世の渦中に完全に飲み込まれたことを示している。

最盛期を築いた「悪屋形」大宝寺義氏

尾浦城を拠点とした大宝寺氏は、17代当主・大宝寺義氏の時代にその最盛期を迎える。義氏は、父・義増の代に越後の本庄氏と共に上杉氏に反旗を翻した結果、人質として越後春日山城に送られるという苦難の青年期を過ごした 18 。しかし、この経験が彼を類稀な戦略家へと成長させた。

家督を継いだ義氏は、人質時代に築いた上杉謙信との強固な関係を背景に、破竹の勢いで勢力を拡大する 19 。まず、家中での権力を脅かしていた重臣・土佐林禅棟ら反抗勢力を徹底的に討伐し、軍事力をもって家中の統制を強化した 16 。そして、田川、櫛引、遊佐の三郡を手中に収め、庄内地方の完全統一を成し遂げた 19 。その勢いは留まることを知らず、北は秋田の由利郡、東は最上郡・村山郡にまで及び、大宝寺氏の版図は史上最大となった 4 。天正7年(1579年)には、天下人である織田信長に馬や鷹を献上して誼を通じ、「屋形号」を許されるに至る 1 。尾浦城から発せられる義氏の威令は、まさに出羽国に轟いていた。

しかし、その栄光には深い影が伴っていた。度重なる外征は領民や国人衆に重い軍役負担を強いた。また、強権的な支配を維持するための重税は、人々の生活を疲弊させた 21 。その苛烈な政治姿勢から、義氏は領民に「悪屋形」と揶揄され、その治世は「義氏繁昌、土民陣労(義氏は栄えるが、民は戦で苦しむ)」と謡われるほどであった 18 。義氏が築き上げた巨大な権力は、領内の人々の不満と怨嗟という、極めて脆い土台の上に成り立っていたのである。

内なる敵:最上義光の謀略と大宝寺氏の滅亡

この大宝寺氏内部の脆弱性を見逃さなかったのが、山形城主・最上義光であった。庄内への進出を虎視眈々と狙っていた義光にとって、義氏への不満が渦巻く大宝寺家中は、絶好の標的であった。義光は、力による正面からの侵攻ではなく、謀略という刃を用いた。

天正11年(1583年)、義光は義氏の重臣である前森蔵人(後の東禅寺義長)に内応を働きかける 2 。蔵人は、砂越氏らの反乱を討伐するよう義氏から兵を預かると、一旦は出陣の構えを見せた後、突如として反転し、手薄になった本拠・尾浦城を奇襲した 2 。信頼していた家臣からの突然の裏切りに、義氏はなすすべもなく、城内で自刃して果てた 2 。享年33歳。あまりにも呆気ない最期であった。

この謀反に対し、他の家臣団からは「なぜもっと早く起こさなかったのか」という声すら上がったと伝えられている 21 。この逸話は、義氏の支配がいかに人心を失っていたかを雄弁に物語っている。彼の急成長と勢力拡大は、結局のところ、家臣や領民の犠牲の上に成り立った砂上の楼閣に過ぎなかった。最上義光は、大軍を動かすことなく、大宝寺氏が自ら作り出した内部の火種に点火するだけで、長年の宿敵を滅ぼすことに成功したのである。大宝寺義氏の悲劇は、戦国時代において、領国経営における内政の安定と人心の掌握が、軍事的な成功と同じく、あるいはそれ以上に重要であることを示す教訓と言えるだろう。

第三章:庄内争奪戦の中心地として

大宝寺義氏の死は、庄内地方に力の空白を生み出した。この機を逃さず、最上氏と上杉氏という二大勢力が、庄内の覇権を巡って激しく衝突する。そして、その争奪戦のまさに中心地となったのが、尾浦城であった。この城の支配権の変転は、庄内地方の運命そのものを左右する指標となった。

束の間の再興と再びの落城

義氏の死後、家臣団は弟の義興を当主に擁立し、大宝寺氏の再興を図った 4 。しかし、単独では最上氏の圧力に対抗できないと判断した義興は、越後の上杉景勝との連携を強化するため、その重臣である本庄繁長の次男・千勝丸(後の大宝寺義勝)を養子として迎えるという苦肉の策を講じた 1 。これは、事実上、大宝寺氏が上杉氏の庇護下に入ることを意味し、庄内が上杉氏の勢力圏となることを最上義光に強く警戒させる結果となった。

案の定、天正15年(1587年)、最上義光は、かつて義氏を裏切った東禅寺義長ら庄内の国人衆を再び動かし、大軍をもって庄内に侵攻した 1 。上杉氏の支援を背景にしても、大宝寺軍は最上軍の猛攻を防ぎきれず、尾浦城は再び包囲され、落城。義興は兄と同じく自刃に追い込まれ、養子の義勝は辛くも城を脱出し、実父・本庄繁長のもとへと逃げ延びた 1 。こうして庄内地方は完全に最上氏の支配下に入り、尾浦城には城代として中山玄蕃頭が置かれた 1

十五里ヶ原の戦い:庄内の運命を決した激戦

しかし、上杉氏がこの事態を座視するはずはなかった。庄内を最上氏に奪われることは、上杉領の北側面を脅かされることを意味し、断じて容認できるものではなかった。翌天正16年(1588年)8月、上杉景勝は、雪辱に燃える本庄繁長・大宝寺義勝親子に庄内奪還を厳命。上杉軍の全面的な支援を受けた本庄勢は、小国口から国境を越え、怒涛の勢いで庄内へと侵攻した 1

これに対し、最上方の東禅寺義長・勝正兄弟は、尾浦城下でこれを迎撃するべく軍を構えた。両軍が激突したのが、尾浦城と大宝寺城の中間に位置する十五里ヶ原であった 1 。この戦いは、単なる大宝寺氏の復讐戦ではなく、実質的には上杉氏と最上氏が庄内の覇権を賭けて激突する代理戦争であった。

合戦は熾烈を極めたが、百戦錬磨の将である本庄繁長の戦術が冴え渡った。繁長が事前に調略を用いていたこともあり、戦況は終始、上杉・本庄連合軍の優勢で進んだ 6 。数で劣る最上・東禅寺連合軍は奮戦するも、次々と打ち破られ、総大将の東禅寺勝正は繁長の本陣に斬り込み一太刀浴びせるも討ち死にし、兄の義長もまた敗走中に命を落とした 1

この十五里ヶ原の戦いの決定的勝利により、大宝寺義勝は尾浦城への帰還を果たし、庄内地方は再び大宝寺氏(実質的には上杉氏)の手に戻った 1 。この戦いは、庄内地方の支配者を決定づけただけでなく、最上義光の勢力拡大に一時的ながらも歯止めをかけ、伊達政宗が上杉方の勝利を祝う書状を送るなど、周辺勢力にも大きな影響を与えた 6 。尾浦城は、この地域全体の地政学的バランスを左右する、まさに「要衝」であることを改めて証明したのである。

上杉支配と関ヶ原への道

大宝寺氏による庄内支配は、もはや名目上のものでしかなかった。天正19年(1591年)、豊臣秀吉による奥州仕置の過程で、庄内で発生した一揆(藤島一揆)の扇動を疑われた義勝は改易され、大和国へ配流となった 1 。ここに戦国大名としての大宝寺氏は名実ともに滅亡し、庄内は正式に上杉景勝の所領として組み込まれた。尾浦城には、上杉氏の城代として下吉忠(下秀久)らが配された 4

時代は天下分け目の関ヶ原へと向かう。慶長5年(1600年)、上杉景勝は石田三成方の西軍に与し、徳川家康方の東軍に属した最上義光の領地へ侵攻を開始した(慶長出羽合戦)。この時、尾浦城主であった下吉忠も、直江兼続の指揮下で最上領深くへと攻め入った 1 。しかし、本戦である関ヶ原で西軍がわずか一日で敗北したとの報が届くと、戦況は一変する。上杉軍は撤退を余儀なくされ、戦後処理で上杉氏は会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封された。これにより、庄内地方は再び主を失い、長年にわたりこの地を狙い続けてきた最上義光の前に、無防備な形で差し出されることになったのである。

第四章:近世への移行と終焉

関ヶ原の戦いは、日本全体の権力構造を再編しただけでなく、尾浦城の運命をも決定的に変えた。戦国時代の軍事拠点としての役割を終え、近世的な統治拠点へと姿を変え、やがて徳川幕府が確立した新秩序の中でその歴史に幕を閉じることになる。

最上氏の再領有と「大山城」への改称

関ヶ原の戦いで東軍に与して勝利に貢献した最上義光は、論功行賞として大幅な加増を受け、庄内地方を含む57万石の大大名となった 4 。慶長6年(1601年)、義光は満を持して庄内を再びその手中に収め、尾浦城も三度最上氏の支配下に入った 1

義光は、かつての上杉方城将でありながら降伏して最上氏に仕えた下吉忠の功績を認め、彼に尾浦城と1万2000石の所領を与えた 4 。城主となった吉忠は、城の名を「尾浦城」から「大山城」へと改称した 4 。この改称は、単なる名称の変更ではない。慶長8年(1603年)、酒田の東禅寺城が亀ヶ崎城、大宝寺城が鶴ヶ岡城と改められたのと連動しており、庄内が完全に最上氏の統治下に入り、新たな時代が始まったことを内外に宣言する政治的な意味合いを持っていた 3

吉忠は、大山城を近世的な城郭都市へと変貌させるべく、大規模な改修に着手した。城の麓を流れる菱津川の流路を変更して広大な城池(外堀)を造成し、その内側に家臣団の屋敷や町人町を計画的に配置するなど、城下町の整備を積極的に進めた 4 。これにより、大山城は戦乱に備える軍事要塞から、領地を統治する行政拠点としての性格を強めていった。これは、戦国が終わり、安定した統治の時代が到来しつつあることを象徴する変化であった。

一国一城令と城の終焉

しかし、大山城が新たな統治拠点として発展する時間は長くはなかった。最上義光の死後、最上家では家督を巡る深刻な内紛が勃発し、家臣団は分裂した 4 。慶長19年(1614年)には、この内紛の過程で城主の下吉忠が殺害されるという事件も起きている 4

このような不穏な状況の中、元和元年(1615年)、徳川幕府は全国の大名に対し「一国一城令」を発布した。これは、大名の本城以外のすべての支城を破却させるという法令であり、地方勢力の軍事力を削ぎ、幕府への反乱の芽を摘むことを目的とした、極めて政治的な政策であった。

大山城は、最上氏の庄内における拠点ではあったが、本城である山形城の支城と見なされた。これにより、大山城は廃城を命じられ、その城郭としての機能、特に天守や櫓、城門といった軍事施設は取り壊されることになった 1 。尾浦城として数々の戦乱を潜り抜けてきた名城の歴史は、戦による落城ではなく、江戸から発せられた一枚の法令によって、その幕を閉じたのである。

この出来事は、尾浦城という一個の城の終焉に留まらない。それは、地方の武士たちが自らの実力で領地を切り取り、城を拠点に覇を競い合った戦国という時代の完全な終わりと、徳川幕府による中央集権的な支配体制が確立されたことを象লাইনে示す象徴的な事件であった。城が軍事力と地方の自立性の象徴であった時代は終わり、城の存廃すらもが中央政府の意向によって決定される時代が到来したのである。

その後、最上家は内紛を収拾できず、元和8年(1622年)に幕府から改易を命じられ、57万石の広大な領地は没収された 1 。庄内には徳川譜代の名門・酒井忠勝が入部し、庄内藩が成立する。寛永24年(1647年)、忠勝の遺言により、七男の酒井忠解が1万石を分与され、大山藩が立藩されたが、その藩庁(陣屋)は旧大山城の山麓に置かれた 4 。もはや、山上の要害に拠点を構える必要はなくなっていた。この大山藩も、藩主の急死により嗣子がなく、わずか21年で断絶し、その後は幕府領として幕末を迎えた 4

終章:史跡としての尾浦城

廃城令によってその軍事的生命を絶たれた尾浦城(大山城)は、江戸時代を通じて次第に荒廃し、かつての栄華は草木に埋もれていった。しかし、その歴史的価値が人々の記憶から完全に消え去ることはなかった。近代に入り、この城跡は地域社会のアイデンティティと結びつき、新たな形でその生命を吹き込まれることになる。

公園としての再生

城跡が現代にその姿を留める上で決定的な役割を果たしたのは、一人の地元名士の郷土愛と私財であった。昭和の初め、地元大山の酒造家であった加藤嘉八郎有邦氏は、荒れ果てていた城跡を後世に残すべく、莫大な私財を投じて公園として整備することを決意した 4 。この壮大な事業は、昭和18年(1943年)に「大山公園」として結実し、かつての戦場は市民の憩いの場として生まれ変わった 27

今日、大山公園は桜の名所として知られ、春には多くの花見客で賑わう 4 。園内には遊歩道が整備され、訪れる人々は散策を楽しみながら、眼下に広がる庄内平野や、遠くに望む月山、鳥海山の雄大な景色を堪能することができる 4

この再生の物語は、単なる史跡の保存に留まらない。政府や自治体によるトップダウンの文化財保護ではなく、地域に根差した一個人の篤志によって、歴史的遺産が未来へと継承されたという点に深い意義がある。加藤氏の行動は、尾浦城とそれにまつわる歴史が、大山の地域社会にとってかけがえのない文化的アイデンティティの中核をなしていたことの証左である。戦乱の象徴であった場所が、地域住民の手によって平和とコミュニティの象徴へと昇華されたこの過程は、尾浦城の長い歴史における、最も心温まる最終章と言えるだろう。

現存する遺構と歴史の記憶

公園として整備された現在でも、城跡には戦国時代の面影が色濃く残されている。巧みに配置された曲輪の跡、主郭を守る雄大な土塁、そして尾根を断ち切る深い空堀などは保存状態が良く、訪れる者にここがかつて難攻不落の要塞であったことを力強く語りかけてくる 1

園内の各所には、その歴史を伝える石碑が点在する。主郭跡の三吉神社境内には「嗚呼羽州大守武藤氏之碑」が、そして西の鞍部には「尾浦城主武藤家遺蹟塔」が建立されており、この地で繰り広げられた大宝寺(武藤)氏の栄光と悲劇を静かに伝えている 2 。これらの石碑は、公園の美しい風景と、その下に眠る壮絶な過去とを結びつける、歴史の道標としての役割を果たしている。

総括

出羽国庄内の山城、尾浦城。その歴史は、在地勢力・大宝寺氏が時代の荒波の中で生き残りをかけて本拠を移したことに始まり、当主・義氏の強権的な支配がもたらした最盛期と、その内なる矛盾を突かれて滅亡に至る悲劇の舞台となった。その後、庄内の覇権を巡る最上氏と上杉氏の激しい争奪戦の震源地となり、特に十五里ヶ原の戦いでは地域の運命を決する決戦場となった。やがて、関ヶ原の戦いを経て最上氏の支配が確立し、近世的な城郭都市へと変貌を遂げるも、徳川幕府による一国一城令という新たな時代の秩序の前に、その城郭としての歴史に幕を閉じた。

尾浦城の物語は、戦国時代から近世へと移行する日本の大きな歴史の縮図である。それは、地方勢力の興亡、大大名の領土的野心、そして中央集権化という不可逆的な潮流を、一つの城郭の運命を通して鮮やかに描き出している。今日、大山公園として静かに佇むその姿は、訪れる人々に、この地で生きた人々の野心、葛藤、そして夢の跡を、今なお静かに語り続けているのである。

引用文献

  1. 尾浦城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/yamagata/oura/oura.html
  2. 出羽 尾浦城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/oura-jyo/
  3. 「武士の時代 中世庄内のつわものたち」 - 酒田市 https://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten201-.files/0203.pdf
  4. 鶴岡市 尾浦城(大山城)の歴史と史跡をご紹介! - KABUOのぶらり旅 ... https://www.yamagatakabuo.online/entry/2021/12/20/%E9%B6%B4%E5%B2%A1%E5%B8%82_%E5%B0%BE%E6%B5%A6%E5%9F%8E%28%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%9F%8E%29%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E3%82%92%E3%81%94%E7%B4%B9%E4%BB%8B
  5. 十五里ヶ原古戦場 (じゅうごりがはらこせんじょう) - 山形県 https://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1612
  6. 十五里ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%94%E9%87%8C%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  7. 大宝寺氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E6%B0%8F
  8. 尾浦城の見所と写真・100人城主の評価(山形県鶴岡市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/838/
  9. 尾浦城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/493
  10. 寄稿 「鶴ケ岡城の変遷」 斎藤秀夫 - 米沢日報デジタル http://yonezawa-np.jp/html/feature/2019/history32-history-turugaokajou/tsurugaokajou.html
  11. 令和3年度第5回定例講座「武藤家末代三代」 https://ohyama-b.soln.info/2021/11/%E4%BB%A4%E5%92%8C3%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%81%AE%E7%AC%AC5%E5%9B%9E%E5%AE%9A%E4%BE%8B%E8%AC%9B%E5%BA%A7/
  12. 丸岡城 蝦夷館 小国城 高館山城 大浦城 平形城 余湖 http://yogoazusa.my.coocan.jp/yamagata/turuokasi02.htm
  13. 鶴岡公園(鶴ヶ岡城址)の紹介 https://www.city.tsuruoka.lg.jp/seibi/koen-ryokuti/koen/tsurugaokajyoushi.html
  14. 鶴ヶ岡城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/yamagata/tsurugaoka/tsurugaoka.html
  15. 尾浦城 庄内地方一帯を統治した大宝寺氏の本拠地 | 小太郎の野望 https://seagullese.jugem.jp/?eid=663
  16. 武家家伝_大宝寺氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/daiho_k.html
  17. 武家家伝_大宝寺氏 - harimaya.com http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/daiho_k.html
  18. 諸家の武将 http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/history/sonota.html
  19. 大宝寺義氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E6%B0%8F
  20. 【マイナー武将列伝】大宝寺義氏『悪屋形』の名を持つ男の物語 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=guaMFL3LZB8
  21. 大宝寺家の歴史 - ポケット戦国 攻略 wiki https://seesaawiki.jp/pokketosengoku/d/%C2%E7%CA%F5%BB%FB%B2%C8%A4%CE%CE%F2%BB%CB
  22. 尾浦城 http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/ourajo.htm
  23. 十五里ヶ原合戦 https://joukan.sakura.ne.jp/kosenjo/juugorigahara/juugorigahara.html
  24. 六十里越街道の歴史~歴史変遷・戦国時代の六十里越街道 [ 酒田河川国道事務所 ] https://www.thr.mlit.go.jp/sakata/road/60history/004.html
  25. 尾浦城跡(大山城) - 南奥羽歴史散歩 https://mou-rekisan.com/archives/20478/
  26. 鹤冈城- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E9%B6%B4%E5%B2%A1%E5%9F%8E
  27. 桜の名所 大山公園 大山観光おすすめポイント - 大山観光協会 https://www.ooyama-kankou.jp/information_oyama_park.html