最終更新日 2025-08-18

山口城

山口城は、戦国期大内氏の拠点「大内氏館」と詰城「高嶺城」を指し、幕末には長州藩の西洋式要塞として再建。二つの時代で異なる役割を担い、日本の歴史の転換点を見つめた重層的な城郭である。

「山口城」の歴史的実像:戦国期大内氏の拠点から幕末長州藩の要塞まで

序論:山口城という名称の多義性と本報告書の射程

「山口城」という名称は、日本の歴史、特に城郭史において、複数の異なる時代と場所に存在する城郭を指し示すため、しばしば混乱を招くことがある。利用者が当初の知識として持っていた幕末期、長州藩の藩庁として築かれた城はもちろん、その名を冠する城郭は日本各地に点在している 1 。本報告書は、この名称の多義性をまず整理し、その上で利用者の探求心に応えるべく、特に「戦国時代」という視点から、周防国山口に存在した城郭群の実態を徹底的に解明することを目的とする。

本報告書の構成は以下の通りである。まず、戦国時代に西国随一の権勢を誇った大内氏の政治的・文化的拠点であった「大内氏館」と、その詰城(つめのしろ)である「高嶺城」を、広義における「戦国期の山口城」として詳細に分析する。次に、時代を下り、幕末の動乱期に長州藩によって建設された西洋式城郭、すなわち狭義の「山口城(山口政事堂)」を、その歴史的文脈と構造的特異性から解明する。最終的に、これら二つの時代の「山口城」を比較考察することで、山口という土地が持つ重層的な歴史的価値を明らかにする。

議論の前提を明確にするため、以下に「山口」の名を冠する主要な城郭の概要を比較表として示す。

名称(所在地)

時代

主な城主/築城者

城郭の性格

現在の状況

大内氏館・高嶺城 (周防国)

室町時代~戦国時代

大内弘世、大内義長など

守護大名の居館と詰城

国指定史跡(大内氏遺跡)、龍福寺境内、山林

山口城 (周防国)

幕末

長州藩(毛利敬親)

藩庁、西洋式稜堡城郭

山口県庁敷地、旧藩庁門・水堀が現存

山口城 (武蔵国)

平安時代~南北朝時代

山口氏

中世の豪族の居館

埼玉県指定旧跡、市街地化 1

山口城 (美濃国)

鎌倉時代~戦国時代

梶原景時、古田織部など

中世・戦国の山城

岐阜県本巣市、城跡として遺構が残る 2

山口城 (山城国)

戦国時代

山口氏

郷士の居城

京都府宇治田原町、茶畑、堀・石垣跡が残る 3

この表が示す通り、本報告書が主たる対象とするのは、周防国、すなわち現在の山口県山口市に存在した二つの時代の城郭群である。

第一部:西国の覇者・大内氏と本拠「山口」の成立

第一章:大内氏の台頭と権力基盤

大内氏の起源は、周防国の国衙(こくが)において高い地位を占めた在庁官人、多々良氏に遡る 5 。平安時代、16代当主・盛房の代に、本拠地であった「大内」という地名に由来して「大内」を称するようになった 6 。源平合戦では源氏に味方するなど、着実に勢力を拡大し、鎌倉、室町時代を通じて周防国における支配的な地位を確立していった。

大内氏が地方豪族から西国を代表する守護大名へと飛躍する契機となったのは、24代当主・大内弘世の時代である。弘世は長門国の守護であった厚東氏を討ち、1363年に周防・長門両国の守護に任じられた。さらに石見国の南朝勢力を駆逐し、同国の守護職も手中に収めた 7 。この過程で、弘世は本拠地を京都盆地に酷似した地形を持つ山口に移し、大内氏の永続的な権力基盤を築き上げたのである 6

大内氏の権力構造を他の戦国大名と一線を画すものとしたのは、その卓越した経済力であった。25代当主・義弘は朝鮮との交易を開始し 5 、以後、大内氏は日明貿易(勘合貿易)や朝鮮貿易の主導権を握り、これを独占することで莫大な富を蓄積した 5 。この富は、強力な水軍を含む軍事力の維持・強化を可能にしただけでなく、後述する華やかな大内文化を開花させる源泉となった。大内氏の権力は、単なる領国支配や軍事力に留まらず、国際交易を掌握することによって得られる経済力に強く支えられていた。この経済基盤こそが、彼らを単なる一守護大名から「西国の覇者」へと押し上げ、山口を「西の京」と呼ばれるほどの文化都市へと発展させた原動力だったのである 7

第二章:「西の京」山口の都市計画

大内弘世が山口に本拠を定めた際、彼は単に政治の中心を移しただけではなかった。京の都に強い憧れを抱いていた弘世は、山口盆地の地形が京都に似ていることに着目し、意図的に京都を模倣した壮大な都市計画を実行した 6

その計画は細部にまで及んでいた。市街は碁盤の目状に区画され、その街路には「大殿大路」や「竪小路」など、京都と同じく「大路」「小路」という名称が付けられた 6 。市域の中心を流れる一の坂川は、京都の鴨川に見立てられ、景観の中心に据えられた 9 。さらに、精神的な支柱として、京都から八坂神社(祇園社)や北野天満宮(古熊神社)などを勧請し、街の鎮守とした 6 。これは、物理的な模倣に留まらず、文化や信仰の面においても京都の権威を山口に再現しようとする試みであった。

この都市基盤の上に、歴代当主は華やかな大内文化を花開かせた。25代義弘の菩提を弔うために建立された瑠璃光寺五重塔は、その優美な姿から日本三名塔の一つに数えられ、大内文化の最高傑作として国宝に指定されている 6 。また、応仁の乱で荒廃した京都を逃れた多くの公家や文化人が山口に下向し、その中には画聖・雪舟も含まれていた。雪舟は大内氏の庇護のもと、雲谷庵を拠点に創作活動を行い、常栄寺に今日まで伝わる名庭を築いたとされる 6

16世紀中頃、山口を訪れた宣教師フランシスコ・ザビエルは、その書簡の中で山口を「一万人以上の人びとが住み」「日本で最強の領主(大内義隆)がいる」と記し、その繁栄を驚きをもって伝えている 7 。この記録は、山口が国内的にだけでなく、国際的にも認知された大都市であったことを物語っている。

山口の「西の京」計画は、単なる文化的模倣ではなかった。それは、中央の権威であった室町幕府や朝廷に比肩する、あるいはそれを超える独自の政治・文化圏を西国に確立しようとする、大内氏の強い政治的意志の表明であった。特に、30代当主・義興が足利将軍を奉じて上洛し、管領代として一時的に幕政の実権を握ったことは 7 、大内氏が文化のみならず政治的にも中央に影響を及ぼす実力を持っていたことの証左である。応仁の乱以降、京都がその輝きを失う中で、山口は事実上、日本の政治と文化の最先端を担う中心地の一つとして機能していたのである。

第二部:戦国期山口における城郭群の実像

戦国期の大内氏の本拠「山口」は、単一の城によって構成されていたわけではない。平時に政務と生活の中心であった広大な居館「大内氏館」と、有事の際に最後の砦となる山城「高嶺城」という、二つの性格の異なる城郭が一体となって機能していた。

第一章:政庁にして居館「大内氏館」

大内氏館は、大内氏歴代当主が約200年にわたり政務を執り、生活した本拠地である。その築造は、大内弘世が山口に拠点を移した14世紀中期に始まるとされるが、近年の発掘調査では、空堀や土塁を備えた本格的な城館としての整備は、15世紀中期の28代当主・教弘の代に進められた可能性が指摘されている 12

発掘調査の成果によれば、館の構造は時代と共に大きく変貌を遂げている 13 。初期の館は、築地塀と簡素な溝で区画された比較的開放的なものであった 12 。しかし、15世紀に入ると堀が掘られ、土塁が築かれるなど防御機能が強化され、敷地も拡張されていく。最盛期である16世紀中頃には、堀を含めると東西160m、南北170m以上の規模を誇る方形の館となり、政治的な中枢である「内郭」と、それを取り巻く「外郭」に分かれていたと考えられている 12 。この構造の変遷は、大内氏を取り巻く政治情勢の変化を如実に反映している。支配が安定していた初期から、応仁の乱への参加や尼子氏など周辺勢力との緊張が高まる戦国時代へと移行するにつれて、館がより防御性を重視した「城館」へと姿を変えていったのである。発掘調査で確認された少なくとも5回に及ぶ増改築の痕跡は 12 、この館が静的な施設ではなく、大内氏の盛衰の歴史と共に変化し続けた動的な存在であったことを物理的に物語っている。

現在、大内氏館跡は龍福寺の境内となっており、国指定史跡として整備が進められている 8 。境内では、往時の姿を偲ばせる土塁の一部や、復元された西側内門を見ることができる 8 。さらに特筆すべきは、館内に複数の庭園が存在したことである。発掘調査に基づいて復元された池泉庭園や枯山水庭園は 8 、この館が単なる軍事・政治施設ではなく、雪舟に代表される高い文化性を享受し、誇示するための洗練された空間であったことを雄弁に物語っている。

第二章:詰城「高嶺城」

高嶺城は、大内氏館の北西約2kmに位置する標高338mの鴻ノ峰(こうのみね)山頂に築かれた山城である 17 。山頂からは大内氏館をはじめ山口盆地を一望でき、平時の政庁である大内氏館に対し、有事の際の最終防衛拠点、すなわち「詰城」としての役割が期待された 12

この城の築城経緯は、大内氏の栄華の終焉を象徴する悲劇的なものである。築城が開始されたのは弘治3年(1557年)、大内氏最後の当主となった大内義長が、中国地方の覇権を賭けて侵攻してくる毛利元就の軍勢(防長経略)に備えるためであった 7 。約200年間、山口の平地に館を構え、本格的な山城を必要としなかった大内氏が、滅亡の瀬戸際に至って初めて巨大な山城の建設に着手したという事実は、それまでの文化と経済力による「見せる統治」が完全に破綻し、切羽詰まった軍事力による「籠る防御」へと移行せざるを得なかったことを示している。

高嶺城の縄張(城の設計)は、山頂の主郭を中心に、そこから四方に伸びる尾根上に曲輪群を階段状に配置した連郭式の山城である 18 。主郭の周囲には、戦国末期の築城技術を反映した野面積みの石垣が巡らされている 8 。また、尾根筋には巨大な二重堀切や畝状竪堀群といった高度な防御施設が計画されており、完成すれば相当な堅城になったと推測される 21

しかし、この移行はあまりにも遅すぎた。毛利元就の進軍は予想をはるかに超えて迅速であり、義長は未完成の高嶺城での籠城すらできずに放棄して逃亡、やがて自刃に追い込まれる 8 。大内氏最後の希望であった高嶺城は、彼らを守ることなく、その歴史に幕を閉じた。皮肉なことに、この未完成の城を完成させ、自らの支配拠点として有効活用したのは、敵である毛利氏であった 18 。高嶺城の存在そのものが、大内氏の滅亡と、新たな戦国大名毛利氏の台頭という、劇的な歴史の転換点を物語る記念碑なのである。

第三章:大内氏のその他の関連史跡

大内氏の山口における支配体制は、大内氏館と高嶺城だけで完結するものではなかった。これらの中核施設を補完する、いくつかの重要な関連史跡が存在する。

一つは、大内氏館の北側に隣接して築かれた別邸「築山館(つきやまやかた)」である。28代当主・教弘の代に造営されたとされ、主に迎賓館、すなわち重要な客人の接待や宿泊施設としての役割を担っていたと考えられている 7 。大内氏館が政治と生活の中心であったのに対し、築山館は外交儀礼の舞台として機能し、両者は一体となって大内氏の権威を内外に示していた。現在、その跡地は八坂神社の境内となっている 22

また、大内氏の菩提寺であった「凌雲寺(りょううんじ)」の跡も重要な史跡である。これらの遺跡群、すなわち大内氏館跡、築山館跡、高嶺城跡、そして凌雲寺跡は、現在「大内氏遺跡」として一括で国の史跡に指定されている 16 。このことは、山口における大内氏の支配が、単体の城や館ではなく、政治、居住、防衛、外交、信仰を担う複数の施設が有機的に連携した複合的な都市システムであったことを示しており、その歴史的価値の高さを物語っている。

第三部:大内氏の滅亡と城郭群の運命

西国に200年の栄華を誇った大内氏であったが、その終焉は内部の崩壊と外部からの侵攻によって、あまりにも唐突に訪れた。それに伴い、彼らが築き上げた城郭群もまた、数奇な運命を辿ることになる。

第一章:大寧寺の変と山口の灰燼

大内氏衰退の直接的な原因は、31代当主・大内義隆の治世後期における内部対立の激化であった。義隆は天文11年(1542年)、宿敵であった出雲の尼子氏を討つべく大軍を率いて遠征するも、惨敗を喫する(第一次月山富田城の戦い)。この敗戦で養嗣子・晴持を失った義隆は、領土拡大への意欲を失い、相良武任ら文治派の側近を重用して、和歌や茶会といった文化的活動に没頭するようになった 7

しかし、この文治主義への傾倒は、歴戦の武将たちからなる武断派の家臣、特に守護代であった陶隆房(後の晴賢)との間に深刻な亀裂を生じさせた 7 。天文20年(1551年)9月、ついに隆房は謀反の兵を挙げ、義隆を急襲した。義隆は山口からの脱出を余儀なくされ、長門国の大寧寺(たいねいじ)まで逃れるも、そこで自刃に追い込まれた 10 。このクーデター、いわゆる「大寧寺の変」によって、大内氏の正統な嫡流は断絶した。

この政変は、山口の街にも壊滅的な被害をもたらした。陶軍の攻撃により、「西の京」と謳われた壮麗な市街は炎に包まれ、灰燼に帰した 25 。義隆を頼って山口に滞在していた多くの公家や文化人もこの争乱に巻き込まれて命を落とし、大内文化の担い手とその遺産の多くが失われた。政庁であった大内氏館も、この時に焼き討ちに遭うか、あるいは深刻な打撃を受けたと推測されている 25

第二章:防長経略と高嶺城の攻防

大寧寺の変の後、実権を掌握した陶晴賢は、豊後の大名・大友氏から大内義長(大友宗麟の弟)を新たな当主として迎え入れた 10 。しかし、義長は晴賢の傀儡に過ぎず、大内氏の実質的な力は大きく損なわれていた 22

この大内氏の内部崩壊を好機と捉えたのが、安芸の毛利元就であった。元就は弘治元年(1555年)、厳島の戦いにおいて、油断した陶晴賢の大軍を奇襲によって打ち破り、晴賢を討ち取った 7 。この勝利により、大内氏の軍事力は決定的に弱体化し、中国地方のパワーバランスは完全に覆った。

元就は間髪入れず、大内氏の領国である周防・長門への全面侵攻、すなわち「防長経略」を開始する 8 。追い詰められた大内義長は、最後の望みを託し、山口の防衛拠点として高嶺城の築城を急がせた。しかし、前述の通り、毛利軍の進撃はあまりにも速く、義長は未完成の城を背に、戦うことなく山口を放棄せざるを得なかった 8 。長門の長福寺(現在の功山寺)へ逃れた義長は、弘治3年(1557年)4月、ついに自刃し、ここに西国に覇を唱えた大内氏は完全に滅亡したのである 10

第三章:毛利氏支配下の城郭

大内氏の滅亡は、内部崩壊が外部からの侵攻を誘発するという、戦国時代の権力交代の典型的な力学を示している。そして、大内氏が最後に築こうとした高嶺城のその後の運命は、城が単なる建築物ではなく、その時代の勝者の戦略によって意味づけを変える「政治的資産」であることを明確に示している。

大内氏を滅ぼした毛利氏は、未完成であった高嶺城を破却することなく、むしろ自らの手で改修・完成させ、重臣の市川経好を城番として置いた 18 。以後、高嶺城は毛利氏による防長支配の重要な支城として機能した。永禄12年(1569年)、大内氏の残党である大内輝弘が豊後の大友氏の支援を受けて山口に侵攻し、反乱を起こした際には、高嶺城に籠もった毛利軍がこれを撃退する拠点となり、その戦略的価値を証明している 19

しかし、その高嶺城も永続的な存在ではなかった。関ヶ原の戦いを経て、天下は徳川氏のものとなり、毛利氏は防長二国に減封された。新たな秩序の元、慶長20年(1615年)、江戸幕府は「一国一城令」を発布する。これにより、諸大名は本城以外のすべての支城を破却することが義務付けられた。長州藩主となった毛利氏もこの命令に従い、本城である萩城を残し、岩国城などと共に高嶺城の破却を決定した。高嶺城は寛永15年(1638年)に完全に廃城となり、その軍事拠点としての役割を終えた 18

高嶺城の築城、未完成、完成、そして廃城という一連の歴史は、大内氏から毛利氏へ、そして毛利氏から徳川幕府へと、権力の中心が移行していく大きな歴史の流れそのものを象徴しているのである。

第四部:幕末に蘇る「山口城」

大内氏の滅亡と高嶺城の廃城から約230年の時を経て、「山口城」の名は全く新しい形で歴史の表舞台に再登場する。それは、日本の歴史が中世・近世から近代へと大きく転換する、幕末の動乱期であった。

第一章:長州藩庁移転の政治的背景

江戸時代を通じて、長州藩(萩藩)の藩庁は、日本海に面した萩城に置かれていた 29 。しかし、19世紀半ばになると、欧米列強の艦船が日本近海に出没し、アヘン戦争における清国の敗北などが伝わる中で、海防の重要性が急速に高まっていった。

長州藩内では、藩論が「破約攘夷」(条約を破棄し、外国勢力を実力で打ち払う)へと傾くにつれ、沿岸部に位置する萩城の地政学的な脆弱性が深刻な問題として認識されるようになった 30 。外国艦隊による艦砲射撃を受けた場合、藩庁がひとたまりもなく破壊される危険性があったのである 29

そこで、新たな藩庁の候補地として白羽の矢が立ったのが、かつて大内氏が本拠を置いた内陸の盆地、山口であった。山口は領国である周防と長門のほぼ中央に位置し、指揮を執る上で至便である上、山々に囲まれており防御に適していた 32 。文久3年(1863年)、13代藩主・毛利敬親は、この地政学的判断に基づき、藩庁を萩から山口へ移す「山口移鎮」を断行した 29 。300年の時を超え、戦国時代と同じ地政学的思考が、再び山口を歴史の中心に呼び戻したのである。

第二章:西洋式城郭としての山口城(山口政事堂)

元治元年(1864年)、現在の山口県庁が所在する地に、新たな藩庁が建設された 34 。しかし、これは単なる政務施設ではなかった。江戸幕府の警戒を招かぬよう、公式には「山口政事堂」あるいは「山口御屋形」と称されたが 36 、その実態は、来るべき戦乱に備えた最新鋭の軍事要塞であった。

その構造は、日本の伝統的な城郭とは全く異なっていた。大村益次郎らの意見を取り入れ 32 、大砲による砲撃戦を想定した西洋の稜堡式(りょうほうしき)城郭の技術が導入されていた 33 。城の南面と東面は、死角が生まれないよう多角形の稜堡(砲台)が突き出す形になっており、周囲は水堀と石垣、そして土塁で固められていた 33 。一方で、近世城郭の象徴である天守閣や高層の櫓は、砲撃の格好の的となるため一切建てられなかった 32 。これは、日本の城郭史において、近世から近代への決定的な断絶を示すものであった。仮想敵が、もはや刀や槍で戦う国内の武士ではなく、大砲を搭載した西洋列強の軍艦へと変化したことを明確に物語っている。

興味深いことに、この近代的な要塞の詰城として、かつて大内氏が築いた高嶺城跡が再び想定されていた 32 。歴史的な土地の上に、全く新しい時代の軍事思想と政治的要請によって建設された幕末の山口城は、まさに過去と未来が交錯する記念碑的な建造物であった。現在、その遺構として、旧山口藩庁門(薬医門)と水堀の一部が、山口県庁の敷地内に静かにその姿をとどめている 33

第三章:倒幕運動の拠点としての役割

山口に建設された新藩庁は、その後の倒幕運動において、長州藩の司令塔として極めて重要な役割を果たした。

第一次長州征討(1864年)の際には、幕府への恭順の姿勢を示すため、城の一部が破却されるという屈辱を味わった 35 。しかし、高杉晋作らの決起により藩論が再び倒幕へと転換すると、山口は再び討幕派の拠点となる。慶応2年(1866年)の第二次長州征討では、この山口城が名実ともに藩主・毛利敬親の拠点となり、四境戦争における長州藩の軍事・政治の中枢として機能した 33

また、城の周辺には藩の重臣や志士たちが集い、近隣の十朋亭(じっぽうてい)などは、桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞、村田蔵六(大村益次郎)といった、後の明治維新を担う傑物たちが密議を重ねる場となった 36 。山口の街全体が、倒幕運動の一大拠点と化したのである。

鳥羽・伏見の戦いで掲げられた錦の御旗が、この山口で製作されたという史実も 36 、この地が維新回天の策源地であったことを象徴している。戊辰戦争を経て明治維新が成就すると、山口城は山口藩庁となり、廃藩置県後は山口県庁が置かれ、近代山口県の行政の中心地としてその役割を引き継いでいった 33

結論:重層する歴史の舞台としての「山口城」

本報告書は、「山口城」という一つの名称に秘められた、二つの異なる時代の城郭群の実像を明らかにしてきた。

第一に、戦国期の「山口城」は、西国に覇を唱えた大内氏の権勢と文化を象徴する、壮麗な「館(大内氏館)」と、その支配体制が揺らいだ末に、滅亡の瀬戸際で築かれようとした悲劇の「山城(高嶺城)」の複合体であった。大内氏館の開放性と高い文化性は、交易による富と絶対的な自信に裏打ちされた統治思想を体現していた。対照的に、高嶺城の急峻な地形を利用した垂直的な防御思想は、その自信が崩壊した後の、絶望的な抵抗の意志を示している。

第二に、幕末期の「山口城」は、西洋列強と幕府という二つの脅威に直面し、藩の存亡を賭けた長州藩が、新たな時代の軍事思想に基づいて生み出した近代的「要塞(山口政事堂)」であった。天守を排し、稜堡を備えたその水平的・対砲撃的な防御思想は、日本の城郭の歴史における大きな転換点を印すものであった。

山口という土地には、中世西国の中心としての栄華、戦国動乱の悲劇、そして近代日本の黎明を告げる胎動という、日本の歴史の縮図ともいえる記憶が幾重にも刻まれている。大内氏館跡に佇み、往時の庭園に文化の香りを偲び、高嶺城跡から山口盆地を見下ろして覇者の夢の跡を想い、そして県庁に残る旧藩庁門に維新の志士たちの気概を感じる。異なる時代の「山口城」の遺構を訪れることは、この重層的な歴史を体感する貴重な機会であり、その歴史的意義は極めて大きいと言えるだろう。

引用文献

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  32. 山口城 / 13代藩主・毛利敬親が萩城より移した長州藩の新たな本拠地 ... https://kokudakamania.com/shiro-87/
  33. 山口移鎮 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%A7%BB%E9%8E%AE
  34. 関連文化財群(5) 維新策源地・山口 https://www.city.yamaguchi.lg.jp/site/rekibunshigen/124849.html
  35. 山口城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%9F%8E
  36. 長州藩の新しい政治拠点 山口 - ぬしと朝寝がしてみたい https://sinsaku.access21-co.jp/yamaguchi.html
  37. 山口城|日本全国の城をめぐる - つちやうみまる https://yamauchi-man.com/chihou/shiro_yamaguchijou.html
  38. 山口城跡(山口藩庁跡)発掘調査の成果 - 山口県ホームページ https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/soshiki/97/246080.html
  39. 山口城の見所と写真・300人城主の評価(山口県山口市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/394/