出羽の要衝、山形城は最上義光が築いた巨大な輪郭式平城。慶長出羽合戦で上杉軍を退け、最上氏の栄華を極めるも、お家騒動で改易。鳥居氏による近世改修を経て、今は霞城公園として歴史を伝える。
出羽国、現在の山形県に位置する山形城は、日本の城郭史において特筆すべき存在である。その歴史は南北朝の動乱期に始まり、戦国の世を経て近世へと至るまで、この地の政治、軍事、そして経済の中心として君臨し続けた。城は、出羽丘陵が山形盆地へと舌状に突き出した馬見ヶ崎川扇状地の扇端部に築かれている 1 。この地理的条件は、盆地全体を見渡し、交通の要衝を抑える上で極めて有利であり、山形城が長きにわたり出羽国の戦略的拠点として機能した根源的な理由の一つであった。
山形城の構造的特徴は、本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸が同心円状に広がる、全国でも有数の規模を誇る輪郭式の平城である点にある 4 。この壮大な縄張りは、一人の城主によって一度に完成されたものではない。その歴史は、大きく二つの画期的な時代を経て形成された。第一の画期は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、出羽の覇者となった最上義光が、自身の権威と広大な領国を統治するにふさわしい巨大城郭へと拡張した時代である 8 。第二の画期は、最上氏が改易された後、新たに入封した譜代大名・鳥居忠政が、石垣を多用する近世城郭へと大規模な改修を行った時代である 6 。この二つの時代が重層的に積み重なることで、今日の山形城跡に見られる威容の原型が築かれたのである。本報告書は、この出羽国の巨城が、いかにして生まれ、発展し、そして時代の変遷と共にその姿を変えていったのかを、戦国時代を主軸に据えつつ、その黎明期から現代に至るまで、多角的に詳述するものである。
山形城の歴史は、日本全土が南北朝の動乱に揺れていた14世紀中頃にその幕を開ける。室町幕府を樹立した足利尊氏の一門であり、武家の名門として知られる斯波氏。その次男であった斯波兼頼は、北朝方の武将として、幕府から羽州探題に任じられた 8 。延文元年(1356年)、兼頼は出羽国統治の拠点として山形の地に入部し、翌延文2年(1357年)に城の築城を開始したと伝えられている 8 。この兼頼の入部と築城こそが、山形城の、そして現在の山形市の歴史的起点となったのである。
この築城は、単に一個人の居館が建設されたという私的な出来事ではなかった。兼頼は幕府の公的な役職である「羽州探題」としてこの地に至っており、彼の築いた城は、当初から出羽国全体を統治するための行政的・軍事的拠点という性格を帯びていた。それまで一郷村に過ぎなかった山形の地に、初めて公的な権力の中枢が置かれたことで、人、物資、情報が集積し始め、都市としての核が形成されていった。その意味で、斯波兼頼の築城は、単なる城の建設にとどまらず、都市山形の「創生」そのものであったと言える 13 。
兼頼によって築かれた初期の山形城は、後の壮大な城郭とは異なり、領主の館を中心とした比較的簡素なものであったと推測される。兼頼の晩年に関する逸話は、当時の城の性格を物語っている。彼は58歳で仏門に入り、嫡男の直家に家督を譲ると、城内に庵を結んで静かな信仰生活を送ったという 13 。この庵が、後に山形市七日町に現存する時宗の名刹「光明寺」の始まりとされる 13 。この事実は、初期の城が単なる軍事施設ではなく、領主の生活や信仰が営まれる複合的な空間であったことを示唆している。
斯波兼頼を初代とし、その子孫たちはやがて、本拠地である最上郡の地名にちなんで「最上氏」を名乗るようになる 12 。彼らは羽州探題職を世襲し、山形城を居城としたことから「山形殿」とも呼ばれ、出羽国における支配を確立していった 12 。こうして、中央の名門であった斯波氏は、土着の国人領主「最上氏」へと姿を変え、戦国の世に向けてその地歩を固めていくことになる。兼頼が蒔いた一粒の種は、約200年の時を経て、彼の11代目の子孫である最上義光の時代に、東北屈指の大輪の花を咲かせることになるのである。
最上氏第11代当主・最上義光は、「出羽の驍将」と称されるにふさわしい、智謀と武勇を兼ね備えた戦国大名であった。彼は、伊達氏からの独立を巡って父・義守と対立するという苦難を乗り越え 14 、家督を継ぐと、巧みな調略と果断な軍事行動によって領土拡大を推し進めた。天童氏や白鳥氏といった周辺の有力国人を次々と支配下に収め、出羽国の大半を統一するに至る 1 。
義光の運命を決定的に変えたのは、天下分け目の関ヶ原の戦いであった。彼は徳川家康率いる東軍に与し、時を同じくして勃発した「慶長出羽合戦」において、西軍の会津・上杉景勝の大軍を相手に自領を防衛しきった 16 。この功績により、戦後、義光は一挙に出羽57万石の大大名へと躍進する 15 。この広大な領国を統治し、その絶大な権威を内外に示すためには、父祖伝来の城郭ではもはや不十分であった。義光が山形城の未曾有の大規模拡張に乗り出したのは、彼の政治的・軍事的野心の必然的な帰結だったのである 8 。
最上義光が目指したのは、平城における防御力を最大限に高め、かつ領主の権威を象徴する巨大城郭であった。彼が採用した縄張りは、本丸を中心に、二ノ丸、三ノ丸が同心円状に三重の堀と土塁で囲む「輪郭式」と呼ばれるものであった 5 。これは、どの方向からの攻撃に対しても等しく強固な防御を発揮できる構造であり、当時の最新の築城技術が惜しみなく投入されたことを示している。
義光の山形城は、単に規模が大きいだけでなく、極めて実践的な防御思想に貫かれていた。
これらの施設は、戦国の実戦を潜り抜けてきた義光の経験と、当時の最先端の築城理論が融合した結果であり、山形城が難攻不落の要塞として設計されていたことを雄弁に物語っている。
義光の構想は、城郭の拡張だけにとどまらなかった。彼は、三ノ丸の外側に広がる城下町全体をさらに堀と土塁で囲む「総構え(そうがまえ)」を構築し、都市そのものを一つの巨大な要塞へと変貌させた 7 。城下への主要な出入り口には信頼の厚い重臣たちの屋敷を配置し、有事の際には彼らがそれぞれの持ち場で防衛の核となるよう計画されていた 23 。
しかし、この壮大な都市計画には、最上家の将来に影を落とすことになる構造的な矛盾が内包されていた。義光は、輪郭式の巨大城郭という「求心的な権力の象徴」を築き、領主の絶対的な権威を示そうとした。その一方で、城下町の防衛という重要な機能は、それぞれが独自の領地や城館を持つ有力家臣たちを町の各所に配置するという「遠心的な権力分散」に依存していたのである 23 。この構造は、最上家がもともと周辺の豪族を取り込む形で急拡大した「豪族連合体」という成り立ちを色濃く反映していた 24 。城という物理的な構造は中央集権的であったが、それを支える家臣団という組織的な構造は分散的であった。この矛盾は、義光というカリスマ的な指導者の存命中は問題とならなかったが、彼の死後、統制を失った家臣団の権力闘争を誘発し、家を滅ぼす遠因となったのである 23 。
義光は軍事面だけでなく、経済基盤の確立にも非凡な才能を発揮した。彼の最大の功績の一つが、領国の経済を支える大動脈として「最上川舟運」を整備したことである 18 。彼は、慶長6年(1601年)に57万石の大名となると間もなく、川の難所であった碁点、三ヶ瀬、隼などを開削し、舟の航行を安全にした。さらに、山形城に近い須川に船町河岸を設け、河口の酒田港も本格的に整備した 18 。これにより、内陸の山形で生産された紅花や米といった特産品が、最上川を下って酒田港へ、そして日本海を通じて京や大坂の全国市場へと流通する一大経済ルートが確立された 18 。山形城下は、この舟運の中継地として、また近江商人などが活発に活動する商業都市として、大いに繁栄したのである 18 。
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が頂点に達し、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、その戦火は遠く出羽国にも飛び火した。これが後に「北の関ヶ原」とも称される「慶長出羽合戦」である 21 。東軍に与した最上義光に対し、西軍の石田三成と盟約を結んでいた会津の上杉景勝は、重臣・直江兼続を総大将とする大軍を最上領へと侵攻させた 16 。上杉軍の兵力は約2万、対する最上軍は領内の諸城に兵を分散させており、総兵力は1万強とも7千とも言われ、圧倒的に不利な状況にあった 28 。この国家存亡の危機において、山形城は最上軍の最高司令部として、そして最後の砦として、極めて重要な役割を担うことになった。
兵力で劣る最上義光が採用した戦略は、山形城を最終防衛拠点として、その前面に配置した支城ネットワークを駆使して敵の進攻を遅滞させ、その戦力を段階的に削いでいく「縦深防御」であった。これは、地理的利点を最大限に活用し、時間的猶予を稼ぎながら敵の消耗を待つという、弱者が強者に対抗するための優れた戦略であった。
義光は山形城に本陣を置き、戦況を冷静に見極めながら、各支城へ的確な指令を下した。上杉軍は、最上領の南の玄関口である畑谷城に猛攻を加え、城主・江口光清以下、城兵のほとんどが討死するという激戦の末にこれを陥落させる 15 。その後も上杉軍の破竹の勢いは止まらず、最上方の支城は次々と攻略され、あるいは放棄された 15 。戦況は最上氏にとって絶望的に見えたが、これは義光の描いた戦略の範疇であった。畑谷城などの支城は、いわば「捨て石」であり、その犠牲によって上杉軍の進軍速度を鈍らせ、兵力を消耗させることが意図されていた。そして、消耗した上杉軍主力を迎え撃つ「決戦場」として義光が設定したのが、山形城の喉元に位置する長谷堂城であった。
畑谷城を落とした直江兼続率いる上杉軍主力は、山形城までわずか7キロメートルの地点にある長谷堂城に殺到した 30 。長谷堂城は、最上領内でも屈指の堅城であり、義光はここに智将として名高い志村光安を城将として配置し、さらに援軍として猛将・鮭延秀綱を送り込んでいた 30 。
ここから、慶長出羽合戦における最大の激戦が繰り広げられる。志村光安と鮭延秀綱が率いる寡兵の最上軍は、数に勝る上杉軍の波状攻撃を十数日間にわたって驚異的な粘りで凌ぎきった 29 。この長谷堂城の英雄的な防戦が、山形城が直接攻撃を受けるという最悪の事態を防ぎ、戦局の転換点となる。長谷堂城が持ちこたえている間に、本戦である関ヶ原で東軍が勝利したとの報がもたらされ、上杉軍は全軍撤退を余儀なくされたのである 30 。長谷堂城の防衛成功は、単なる一城の奮戦ではなく、山形城を核とした領国全体の防衛システムが有機的に機能した結果であり、義光の卓越した戦略眼の勝利であった。
この合戦の最中、敵将・直江兼続が本陣から山形城を望んだところ、深い霞がかかって城の姿が全く見えなかったという逸話が残されている 6 。この伝承から、山形城は後に「霞ヶ城(かすみがじょう)」という雅な別名で呼ばれるようになった 11 。これは、籠城戦の緊迫感と、城が戦火を免れたことへの人々の安堵が、後世に伝説として語り継がれたものであろう。
慶長出羽合戦を乗り越え、57万石の大大名として栄華を極めた最上氏であったが、その繁栄は長くは続かなかった。カリスマ的指導者であった最上義光が元和元年(1615年)に没すると、そのわずか8年後の元和8年(1622年)、最上家は幕府から改易を命じられ、歴史の表舞台から姿を消すことになる 24 。この悲劇的な結末の根源は、義光自身が抱えていた後継者問題と、彼が築き上げた組織の構造的脆弱性にあった。
義光は、豊臣秀吉との関係を考慮して長男の義康を、徳川家康との関係を重視して次男の家親を、それぞれ人質として差し出していた 24 。豊臣政権下では義康が後継者と目されていたが、関ヶ原の戦いを経て徳川の世となると、家康の近習として仕えていた家親を後継に据えようとする動きが強まる 34 。結果、義康は謀反の疑いをかけられ、高野山へ追放される途上で暗殺されるという悲劇に見舞われた 34 。この一連の動きは、徳川幕府との関係を安定させるための政治的判断であったが、最上家中に深刻な亀裂を生む火種となった。
義光の死後、家督を継いだのは次男の家親であった。しかし、彼もまた藩主となってから数年で急死する(毒殺説も根強い) 34 。跡を継いだ三代藩主・家信(義俊)はまだ12歳の少年であり、藩内を統率する力はなかった 35 。これを機に、家臣団の内部対立は一気に表面化する。義光の四男で人望の厚かった山野辺義忠を新たな藩主として擁立しようとする派閥と、幼君・家信を支持する派閥との間で、藩を二分する激しい抗争、すなわち「最上騒動」が勃発したのである 24 。
このお家騒動は、単なる後継者争いではなかった。それは、戦国時代に急成長を遂げた組織が、平和な時代への移行期において、内部の統制を失い破綻していく典型的な過程であった。最上家は、義光の強力なリーダーシップの下で周辺豪族を糾合して成立した「豪族連合体」であり、中央集権的な統治機構が未熟なままであった 24 。戦国という「共通の敵」が存在する間は組織の結束が保たれていたが、泰平の世が訪れると、強大な力を持つ家臣たちのエネルギーは内向きの権力闘争へと転化したのである 24 。
幕府はこの騒動に対し、当初は穏便な調停案を示していた。しかし、独立心が強く、自らの利害を優先する最上家の重臣たちは、頑として幕府の裁定を拒否した 24 。これは、もはや藩主の権威が家臣団に全く及んでいない、組織としてのガバナンスが完全に崩壊していることを幕府に示す結果となった。最終的に幕府は、「家中騒動(重臣の不知)」、すなわち家臣団を統制できない藩主の責任を問い、最上家の改易という最も厳しい処分を下した 35 。出羽57万石の大名は、近江1万石の小大名(後に5千石の旗本に減封)へと転落し、山形城を去ることになったのである 24 。最上家の悲劇は、カリスマ創業者の死後、組織の制度化を怠った急成長企業が内部崩壊する現代の事例にも通じる、組織論的な必然性を伴うものであった。
元和8年(1622年)、最上氏に代わって山形城に入ったのは、徳川家譜代の重臣である鳥居忠政であった。22万石で入封した忠政は、山形城と城下町の大規模な改修事業に着手する 8 。この鳥居氏の時代こそ、山形城が中世的な土塁主体の城郭から、石垣を多用する壮麗な近世城郭へと大きく変貌を遂げた画期であった。
現在、山形城跡で見ることができる本丸や二ノ丸の高く堅固な石垣の大部分は、この鳥居氏、あるいはその後の城主によって築かれたものと考えられている 6 。また、城の防御の要である出入り口も、より複雑で堅固な内枡形に改良された 23 。これにより、山形城は最上義光時代の実戦的な要塞としての性格に加え、徳川幕府の権威を東北に示すための、壮麗なシンボルとしての性格を併せ持つようになったのである。
鳥居忠政が山形の歴史に残した最大の功績は、城郭の改修以上に、城下を長年苦しめてきた馬見ヶ崎川の治水事業であったかもしれない 23 。当時、「暴れ馬」と呼ばれた馬見ヶ崎川は、山形城のすぐ東側を流れており、たびたび大洪水を起こして城下町に甚大な被害をもたらしていた 3 。元和9年(1623年)には、城の堀が破壊されるほどの大洪水が発生した 39 。
これを見かねた忠政は、翌年から、川の流れそのものを城下から遠ざけるという、壮大な流路変更工事を開始した 39 。盃山の一部を切り開いて新たな流路を確保し、強固な堤防を築くことで、川の流れを大きく北西方向へと変えたのである 3 。この大事業は、洪水から城と城下町を恒久的に守ることを可能にしただけでなく、山形の未来に計り知れない恩恵をもたらした。この工事の際に設けられた取水口が、後に「山形五堰」と呼ばれる用水路網の基礎となり、城の堀の水を満たすだけでなく、城下の生活用水、農業用水、さらには産業用水として利用され、近代に至るまで山形の都市発展に不可欠なインフラとなったのである 26 。
鳥居氏の後、山形城には短期間ながら、後に会津藩23万石の藩主として、また四代将軍・家綱の輔佐役として幕政を主導し、「名君」と称えられる保科正之が入城した 5 。彼は二代将軍・秀忠の庶子という出自でありながら、その生涯を徳川宗家のために捧げ、民を深く思う仁政を行ったことで知られる 41 。山形での治世は、彼がその優れた政治手腕を発揮する初期の舞台であった。
保科氏以降、明治維新に至るまでの約240年間、山形城の城主は松平氏、奥平氏、堀田氏、秋元氏、水野氏など、徳川家の譜代大名が目まぐるしく入れ替わった 5 。これは、山形城が外様大名の多い東北地方において、幕府の支配を確固たるものにするための戦略的拠点と位置づけられていたことを示している。一方で、頻繁な城主交代は、藩主と領民との結びつきを相対的に弱め、武士人口の減少も相まって、城下町における商人の力が強まる「商人優位の町」へと山形を変貌させていく一因ともなった 18 。
時代 |
主要城主(氏) |
在城期間(西暦) |
石高(主なもの) |
主要な出来事・城の変容 |
南北朝 |
斯波(最上)氏 |
1357年~ |
- |
斯波兼頼による築城(1357年) |
戦国~安土桃山 |
最上氏 |
~1622年 |
57万石(義光期) |
最上義光による城郭の大拡張、輪郭式縄張りの完成、城下町の整備、慶長出羽合戦(1600年) |
江戸前期 |
鳥居氏 |
1622年~1636年 |
22万石 |
最上氏改易後に入封。石垣の整備など近世城郭への大改修。馬見ヶ崎川の流路変更工事。 |
江戸前期 |
保科氏 |
1636年~1643年 |
20万石 |
名君・保科正之の治世。 |
江戸中期~後期 |
松平氏、奥平氏、堀田氏、秋元氏、水野氏など |
1643年~1871年 |
6~10万石程度 |
譜代大名が頻繁に入れ替わる。 |
明治維新を迎え、封建時代が終焉すると、全国の城郭は新たな時代の中でその存在意義を問われることになった。山形城も例外ではなかった。廃藩置県後、城は軍事・政治施設としての役割を終え、その広大な敷地は陸軍の駐屯地として利用されることになった 15 。城内にあった壮麗な御殿や威容を誇った櫓などの建造物は次々と取り壊され、資材として払い下げられた。さらに、城の中心であった本丸は完全に埋め立てられ、兵営の敷地へと姿を変えた 15 。これは、山形城が約500年にわたる封建領主の拠点としての歴史に幕を下ろしたことを象徴する出来事であった。
しかし、城郭としての機能が失われた一方で、山形城跡は新たな価値を見出されていく。そのきっかけとなったのは、明治39年(1906年)、日露戦争から帰還した歩兵三十二連隊の将兵たちが、凱旋を記念して城跡の土塁沿いにソメイヨシノを植樹したことであった 15 。この桜が歳月を経て見事な桜並木へと成長し、山形城跡は市内随一の桜の名所として、市民に親しまれるようになる 43 。
第二次世界大戦後、城跡は「霞城公園」として正式に都市公園として整備された 6 。約35.9ヘクタールにも及ぶ広大な敷地は、武士の時代から市民の時代へと移ったことを象徴する、憩いと安らぎの空間へと生まれ変わったのである 6 。そして昭和61年(1986年)、その歴史的価値が改めて評価され、本丸・二ノ丸跡と三ノ丸跡の一部が国の史跡に指定された 2 。さらに平成18年(2006年)には「日本100名城」にも選定され、山形城は地域の宝から、日本を代表する文化遺産として広く認知されるに至った 32 。
近年、山形城跡では、その往時の姿を現代に伝えるための本格的な発掘調査と復元整備事業が進められている。史実に基づき、可能な限り忠実に復元された二ノ丸東大手門は、巨大な櫓門や多聞櫓を備え、山形市の新たなランドマークとなっている 32 。また、本丸の正門であった本丸一文字門も、石垣や高麗門が復元され、かつての堅固な守りの一端を今に伝えている 20 。これらの復元事業は、市民や訪れる人々に山形城の壮大さを体感させ、地域の歴史への誇りを育む上で大きな役割を果たしている。
公園内には、明治初期の擬洋風建築の傑作である山形市郷土館(旧済生館本館)や、山形県の歴史と自然を紹介する山形県立博物館、そして最上義光に関する資料を展示する最上義光歴史館などの文化施設が集積している 11 。山形城跡は、単なる史跡公園にとどまらず、歴史学習と文化振興の拠点としても機能しているのである。
山形城跡の歩みは、その時代の社会が求める役割に応じて、その価値と姿を柔軟に変化させてきた「適応の歴史」そのものである。中世から近世にかけては「軍事・政治の中心」として、明治期には「近代的国民国家の軍事拠点」として、そして戦後は「市民の憩いの場」および「地域の歴史を学ぶ文化遺産」として、その役割を変え続けてきた。現代の復元事業は、この「文化遺産」としての価値をさらに高め、観光資源としての経済的価値をも付与しようとする試みである。山形城跡は、単一の価値を持つ静的な史跡ではなく、時代ごとの社会の要請を映し出しながら存続してきた、重層的な価値を持つ生きた遺産なのである。
本報告書は、出羽国の巨城・山形城の約650年にわたる歴史を、その多岐にわたる側面から考察してきた。南北朝の動乱期に斯波兼頼によって産声を上げた城は、戦国の驍将・最上義光の手によって全国有数の巨大城郭へと飛躍を遂げた。しかし、その栄華は義光一代で頂点を極め、彼の死後、組織の構造的矛盾からお家騒動を招き、悲劇的な改易に至る。その後、鳥居忠政ら徳川譜代の大名たちによって近世城郭へと改修され、幕府の東北支配の拠点として新たな役割を担った。そして近代以降、城郭としての役目を終えた城跡は、軍の駐屯地を経て、市民の憩いの場である「霞城公園」へと転生し、現代に至っている。
山形城の歴史は、単なる一つの城の盛衰の物語ではない。それは、山形という都市がいかにして形成され、最上川舟運によって経済的な繁栄を築き、度重なる水害を治水事業によって克服してきたかという、地域の発展史そのものである。また、最上氏の改易劇は、急成長した組織が孕む危うさという普遍的な教訓を我々に示している。
現在進められている復元事業は、失われた城の姿を物理的に取り戻すだけでなく、その背景にある人々の営みや歴史の記憶を呼び覚ます試みでもある。復元された城門の前に立つとき、我々は最上義光の野心や、慶長出羽合戦で城を守った兵士たちの緊張感、そして城下で暮らした人々の息遣いを感じることができるだろう。山形城は、過去の遺物として静かに眠っているのではない。それは、山形という都市のアイデンティティの核として、そして地域の歴史と文化を未来へと語り継ぐ生きた証人として、今なお我々に多くのことを問いかけ、示唆し続けているのである。