烏城岡山城は宇喜多直家が礎を築き、秀家が豊臣系近世城郭として大改築。関ヶ原で秀家は失脚し、小早川、池田氏が統治。戦災で焼失も、市民の熱意で再建され、令和の大改修を経て歴史を伝える。
備前国、岡山平野の中心に聳える岡山城は、その漆黒の外観から「烏城(うじょう)」の異名で知られる 1 。しかし、この城が持つ名はそれだけではない。かつてその屋根を飾った金箔瓦の輝きは、「金烏城(きんうじょう)」という、より華麗な呼称をもたらした 4 。この二つの名は、単に城の姿を言い表すに留まらず、戦国乱世の最終局面において、天下人の寵愛を受け、その権勢を西国に示そうとした一人の若き大名、宇喜多秀家の野心と栄光を象徴するものであった。
本稿は、日本の戦国時代という時代区分に焦点を絞り、岡山城を多角的に分析するものである。その歴史は、宇喜多氏、小早川氏、そして池田氏という三つの大名家によって織りなされ、それぞれの時代の思惑と技術が、石垣の一つ一つ、堀の一筋一筋に刻み込まれている 7 。特に、天守閣そのものよりも、むしろ各時代の遺構が複雑に重なり合う石垣こそが、この城の歴史的価値を雄弁に物語る。本稿では、宇喜多直家による岡山の地への進出から、秀家による近世城郭への大改築、関ヶ原合戦による城主の変転、そしてそれが後の世に与えた影響までを徹底的に考察し、戦国大名たちの野望が凝縮された権力と戦略の要塞としての岡山城の全体像を明らかにする。
宇喜多秀家による壮麗な近世城郭が築かれる以前、この地には旭川下流の沖積平野に浮かぶように、「天神山」「石山」「岡山」という三つの小高い丘が連なっていた 2 。この地形が、やがて備前の歴史を大きく動かすことになる。
「戦国の梟雄」とも称される宇喜多直家は、その謀略と才覚で下剋上を成し遂げた人物として知られる 9 。彼は元亀元年(1570年)頃、当時この地を治めていた金光宗高を謀略によって滅ぼし、三つの丘の一つ「石山」にあった城(石山城)を掌握した 11 。直家がこの地を新たな本拠地として選んだ背景には、単なる軍事的な判断を超えた、卓越した戦略的慧眼があった。岡山平野は広大な穀倉地帯であり、城の傍らを流れる旭川は、物資輸送の動脈となる水運の要衝であった 9 。毛利と織田という二大勢力に挟まれた中で生き残るためには、軍事力のみならず、領国を支える強固な経済基盤が不可欠であると、直家は深く認識していたのである。
直家の先見性は、石山城を手に入れるとすぐさま城下町の整備に着手したことにも表れている。彼の最も重要な施策の一つが、当時、城の北側を通過していた西国街道(山陽道)を、城下町の南側へと大胆に引き込むルート変更であった 9 。これにより、人々の往来と物資の流れを城下町の中心部に集中させ、商業の活性化を促した。さらに、吉井川流域で繁栄していた備前福岡の商人たちを積極的に誘致し、商人町を形成させた 9 。これが現在の岡山市中心部に位置する表町商店街の原型となったのである 14 。
このように、宇喜多直家の岡山進出は、単なる軍事拠点の移転に終わらなかった。それは、山城を主体とする中世的な領国経営から、経済と流通を掌握する近世的な都市中心の領国経営へと舵を切る、画期的な転換点であった。彼の布いた礎がなければ、後の秀家による壮大な岡山城築城も、岡山の町の発展もなかったであろう。
父・直家が病没すると、その跡を継いだのはまだ若年の宇喜多秀家であった 13 。しかし、彼は天下人・豊臣秀吉の養子同様に庇護され、異例の出世を遂げる。秀吉の信頼は厚く、秀家は若くして豊臣政権の最高意思決定機関である五大老の一角を占め、備前・美作を中心に57万石を領する大大名へと成長した 1 。
その絶大な権勢にふさわしい居城を築くべく、秀家は壮大な計画に着手する。天正18年(1590年)頃、秀家は豊臣秀吉自身の指導があったとも伝えられる中で、本丸を父の時代の「石山」から、隣接する「岡山」の丘へと移転させ、大規模な築城を開始した 8 。この本丸移転は、単なる城の拡張ではない。それは、宇喜多家が備前の一地方豪族から、豊臣政権の中枢を担う中央政権の一翼へと質的に変化したことの物理的な表明であった。父の城であった石山が地方権力の象徴であるならば、秀吉の後見のもとで築かれる新たな岡山本丸は、中央政権との強固な結びつきを示す権威の象徴だったのである。
この大改築は、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城を強く意識したものであり、高石垣と壮麗な天守を備えた「近世城郭」への変貌を遂げさせた 14 。中世以来の土作りの城から脱却し、石と瓦で構築された巨大な要塞は、秀家の権威を内外に誇示するものであった 20 。慶長2年(1597年)、8年にも及ぶ歳月をかけた工事の末に天守が完成し、近世城郭としての岡山城がここに誕生した 7 。
宇喜多秀家によって築かれた岡山城は、戦国末期の最新築城技術が結集された、極めて戦略的な要塞であった。その構造は、城主の軍事的思想と政治的背景を色濃く反映している。
岡山城の縄張り(城の設計)は、本丸を城郭の片隅に置き、その一方(西側)にのみ二の丸、三の丸といった曲輪を階段状に配置する「梯郭式」と呼ばれる形式を採用している 4 。これにより、本丸の北から東にかけては曲輪が存在せず、防御が極めて薄い構造となっている 4 。この一見すると弱点に見える構造こそが、秀家の戦略思想の核心であった。彼はこの防御の薄い東側を、後述する旭川の流路変更によって創り出した巨大な天然の外堀に守らせたのである 4 。
一方で、曲輪が集中する西側は、当時、西国に強大な勢力を誇った毛利氏を強く意識したものであった 2 。複数の堀を幾重にも巡らせ、厳重な防御体制を敷いたこの配置は、岡山城が豊臣政権における対毛利戦略の最前線拠点としての役割を担っていたことを明確に示している。
岡山城の最も際立った特徴の一つが、天守が建つ天守台、そして天守閣の一階部分の平面が、全国的にも極めて珍しい不等辺五角形をしている点である 1 。これは、築城の際に土台となった「岡山」の丘の岩盤や地形に合わせ、自然の形状を最大限に活かして設計されたためと考えられている 13 。地形に逆らわず、むしろそれを利用して防御効果を高めるという、合理的かつ巧みな築城技術の現れである。
岡山城天守は、大入母屋造りの巨大な基部の上に、上層の望楼を載せた「望楼型」と呼ばれる初期天守の様式を持つ 4 。その外壁は、黒漆で塗られた下見板で全面が覆われており、これが「烏城」という名の直接的な由来となった 2 。この黒い外観は、単なる意匠の問題ではない。それは、織田信長の安土城に始まり、豊臣秀吉の大坂城へと受け継がれた、豊臣系城郭のいわば「政治色」であった 4 。秀吉の庇護下にある秀家がこの色を採用したのは、豊臣政権への忠誠と、その一員であることの誇りを表明する政治的メッセージであった。
さらに、発掘調査によって宇喜多秀家時代の金箔瓦が出土しており、築城当時は城の要所にこの金箔瓦が葺かれ、黒い壁面との鮮やかな対比を見せていたと考えられている 5 。この金箔瓦の輝きは、黒い天守を一層引き立たせると同時に 27 、秀吉から特別に許された者のみが使用できる権威の象徴であり、秀家の豊臣政権内における高い地位と経済力を誇示するものであった。
戦災で天守が焼失した現在、岡山城の歴史を最も雄弁に物語るのは、各時代の城主によって築き上げられた石垣である 7 。岡山城の石垣は、城主の交代、技術の進歩、そして戦略目標の変化に応じて改修が重ねられた「動的な有機体」であり、その変遷は戦国末期から江戸時代への時代の移行を映し出している。
近年の発掘調査では、後の池田氏による改修の際に地中に埋められていた宇喜多時代の石垣が発見され、現在は往時の姿を見学できるよう整備されている 2 。これらの石垣群は、まさに時代の地層であり、岡山城の複雑な歴史を解き明かすための貴重な物証なのである。
時代区分 |
主要人物 |
主な築城・改修内容 |
石垣の特徴 |
縄張りの特徴・戦略的意図 |
宇喜多時代 |
宇喜多直家 |
石山城を本拠地化、初期城下町の整備(西国街道移設) |
(本格的な高石垣はまだ) |
経済・物流を重視した拠点形成 |
(~1597年) |
宇喜多秀家 |
本丸を岡山へ移転、天守の創建、旭川の流路変更 |
野面積み(自然石、鈍角の隅石) |
梯郭式(対毛利を想定した西側重点防御)、天然の外堀(旭川) |
小早川時代 |
小早川秀秋 |
外堀(二十日堀)の普請、三之外曲輪の整備 |
宇喜多時代の石垣に継ぎ足し(丸みのある石材) |
城郭全体の防御力強化、城下町の拡大 |
(1600~1602年) |
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池田時代(初期) |
池田忠継/利隆 |
本丸中の段の拡張・整備、表書院の建設 |
打込接(方形の加工石、整然とした隅石) |
政庁・居館としての機能強化、平時の統治拠点への移行 |
(1603年~) |
池田忠雄 |
月見櫓の建設 |
切込接(隙間のない精巧な加工) |
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岡山城の防御体制を決定づけた最大の要因は、宇喜多秀家が断行した旭川の大規模な流路変更工事であった。当時、岡山平野を複数の流れに分かれていた旭川の流路を人工的に一本化し、城の東側を大きく回り込むように蛇行させたのである 4 。
この壮大な土木事業の第一目的は、言うまでもなく軍事的なものであった。梯郭式縄張りの弱点であった東側の防御を、この巨大な川の流れそのものを天然の外堀とすることで補い、城を難攻不落の要塞へと変貌させた 32 。この事業は、岡山という都市の「防御」という側面を確立した。
しかし、この軍事優先の思想がもたらした結果は、恩恵だけではなかった。自然の流れを不自然に屈曲させたことにより、旭川は氾濫しやすい暴れ川と化し、完成したばかりの城下町は、その後、たび重なる洪水被害に悩まされることになった 32 。秀家が創り出した強固な防御は、同時に城下町に恒常的な「脆弱性」をもたらしたのである。この治水問題は、後に入城した池田氏の藩政における最重要課題の一つとなり、最終的には巨大な放水路である「百間川」の建設という、さらなる大事業を必要とすることになる 32 。宇喜多秀家による旭川の流路変更は、戦国時代の軍事思想が自然環境に与えた長期的影響と、その帰結を示す典型的な事例と言えよう。
一方で、秀家は父・直家の事業を発展させ、城下町の拡大整備も精力的に進めた。父が南に引き込んだ西国街道を、さらに城下町の中心部を貫通するルートへと再変更し、人の流れを一層活発化させた 14 。また、武家屋敷町を新たに造成するなど、計画的な都市開発を行い、現在の岡山市中心市街地の骨格を形成した 2 。岡山城の築城と旭川の流路変更、そして城下町の整備は、一体となって「岡山」という都市を創生する巨大なプロジェクトだったのである。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦が勃発すると、岡山城主・宇喜多秀家の運命は暗転する。豊臣家への多大な恩義から西軍の主力として参陣した秀家は、一万七千と西軍中最大級の兵力を率いて奮戦した 13 。しかし、同じく豊臣一門でありながら東軍に内通していた小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、秀家は敗走を余儀なくされる 17 。
この敗戦により、秀家が築き上げた栄光は一瞬にして潰えた。逃亡の末に捕らえられた彼は、岡山城と57万石の領地を没収され、最終的に八丈島へと流罪となった 7 。同年10月24日、栄華を誇った岡山城は、新たな城主の家臣へと静かに明け渡された 40 。
その新たな城主こそ、合戦の勝敗を決定づけた小早川秀秋であった。彼は裏切りの功績として、宇喜多の旧領である備前・美作51万石を与えられ、岡山城に入城した 7 。秀秋は入城後、城郭のさらなる強化に着手し、外堀をわずか20日で完成させたという「二十日堀」の逸話が残っている 2 。
しかし、秀秋の治世は長くは続かなかった。入城からわずか2年後の慶長7年(1602年)、彼は21歳という若さで急死し、小早川家は跡継ぎなく断絶する 7 。その後、岡山城には徳川家康の娘婿・池田輝政の子であり、家康の外孫にあたる池田忠継が新たな城主として入封し、以降、幕末に至るまで池田氏による治世が続くこととなる 7 。
岡山城の城主交代劇は、関ヶ原の戦いがもたらした日本の権力構造の根本的な再編を象徴している。豊臣政権の象徴であった宇喜多秀家が追放され、同じ豊臣一門でありながら徳川に寝返った小早川秀秋が一時的に支配し、最終的に徳川家の血縁につながる池田氏の手に渡る。この一連の流れは、西国の要衝であった岡山が、豊臣系の支配から完全に徳川の支配体制下へと組み込まれていく過程の縮図であった。
戦国の世が終わり、江戸時代に入ると、岡山城は池田氏のもとで藩政の中心地として完成期を迎える。軍事拠点としてだけでなく、統治の府としての機能が強化され、本丸の中の段には政務を執り行うための壮麗な表書院が建設された 2 。また、旭川を挟んだ対岸には、藩主の憩いの場として、また有事の際には城の防御拠点(出城)としても機能するよう設計された、日本三名園の一つに数えられる「後楽園」が築造された 22 。
宇喜多秀家が築いた壮麗な天守は、明治維新の動乱を乗り越え、国宝に指定される貴重な存在であったが、第二次世界大戦末期の空襲によって惜しくも焼失した 7 。戦後、市民の熱意に支えられ、昭和41年(1966年)、焼失前に作成されていた詳細な図面を基に、鉄筋コンクリート構造で外観復元天守として再建された 2 。この再建は、単なる建物の復元ではなく、戦争によって失われた岡山の景観と誇りを取り戻す、戦後復興の力強いシンボルであった 43 。
そして令和4年(2022年)11月、「令和の大改修」を終え、岡山城は新たな姿で公開された。外壁の塗り直しによって往時の漆黒の輝きを取り戻しただけでなく、展示内容も岡山市出身の歴史学者・磯田道史氏の監修のもとで全面的に刷新された 1 。新たな展示は「岡山の歴史の入口」をコンセプトに、宇喜多・小早川・池田という歴代城主の人間ドラマに焦点を当て、訪れる人々が地域の歴史とアイデンティティを次世代に伝えるための教育的・文化的な拠点としての役割を強化している 1 。
現代に聳える岡山城天守は、宇喜多秀家が築いた「戦国の城」そのものではない。それは、焼失と再建、そして改修という幾多のプロセスを経て、歴史の記憶を内包する「シンボル」である。その価値は、物理的な構造物としてだけでなく、宇喜多秀家の野心、池田氏の治政、戦災の悲劇、戦後復興の希望、そして現代における文化継承への強い意志という、幾重もの時代の記憶が堆積した文化遺産としての役割にこそ見出されるのである。
岡山城は、単なる一つの城郭ではない。それは、戦国乱世の終焉から近世社会の幕開けへと至る、日本の歴史の大きな転換点を体現する、石と土で書かれた歴史書である。
宇喜多直家が選んだその立地は、軍事力だけでなく経済と流通を重視する新たな時代の到来を予見させ、その子・秀家による近世城郭への大改築は、豊臣政権の絶大な権威と、それに連なる大名の野心を映し出した。不等辺五角形の天守台、黒漆と金箔瓦に彩られた天守、そして対毛利を想定した梯郭式の縄張りは、当時の最新技術と地政学的戦略が融合した、機能美の極致であった。
しかし、その歴史は栄光だけではない。旭川の流路変更がもたらした防御と水害という二律背反、関ヶ原合戦による城主の悲劇的な交代劇は、戦国大名の栄枯盛衰と、時代の非情な奔流を物語る。そして、池田氏の治世下での安定、戦災による焼失、そして現代における復興と再生の物語は、この城が地域の人々にとって単なる過去の遺物ではなく、アイデンティティと未来への希望を託す存在であり続けていることを示している。
宇喜多、小早川、池田。三つの時代の痕跡をその石垣に刻み込み、岡山城は今日も静かに聳え立つ。それは、戦国大名の野心、最新の築城技術、そして都市形成の原点が凝縮された、比類なき歴史遺産なのである。