武蔵国岩付城は、沼沢地を活かした「浮城」として築かれ、扇谷上杉氏の拠点となる。太田資正が反北条の旗頭として城を死守するが、嫡男の裏切りで北条氏の支配下へ。小田原征伐で落城。
本報告書は、戦国時代の武蔵国において極めて重要な戦略拠点であった「岩付城」(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)について、その築城から落城、そして近世への変容に至るまでの全貌を、文献史学および考古学的知見に基づき詳細に解明することを目的とする。
関東平野のほぼ中央に位置する岩付は、古河公方と関東管領上杉氏という、15世紀後半の関東を二分した二大勢力の緩衝地帯、あるいは衝突の最前線というべき地理的条件にあった 1 。この地の戦略的価値を決定づけたのは、その特異な地形である。城は元荒川(当時の荒川本流)がもたらした広大な沼沢地に突き出すように形成された岩槻台地の先端に占地し、天然の要害を最大限に活用して築かれていた 1 。この沼沢地は、城に「浮城」あるいは「白鶴城」という雅名を与えるとともに、容易に大軍の接近を許さない鉄壁の防御線として機能した 4 。
享徳の乱に始まる戦国時代の動乱期、岩付城はその役割を劇的に変転させていく。当初は扇谷上杉氏による対古河公方の前線基地として誕生し、後に関東の新興勢力である後北条氏に対する抵抗の牙城となった。そして、知将・太田資正が追放された後は、その後北条氏による北関東支配の重要支城へと姿を変え、最終的には天下統一を目指す豊臣秀吉の大軍の前にその歴史を閉じることになる 1 。本報告書では、この激動の歴史を、城郭構造の変遷、城主の動向、そして城下町の発展という多角的な視点から紐解いていく。
年代(西暦/和暦) |
出来事 |
関連人物 |
備考 |
1457年(長禄元年) |
太田道真・道灌父子により築城される(太田氏説) 1 。 |
太田道灌、上杉持朝 |
享徳の乱の中、対古河公方の拠点として築かれる。 |
1478年(文明十年) |
成田正等により築城される(成田氏説) 1 。 |
成田正等 |
近年有力視される異説。後に太田氏が奪取したとされる。 |
1525年(大永五年) |
北条氏綱に攻められ、一時落城 4 。 |
太田資頼、北条氏綱 |
家臣の内応により城を奪われるが、後に奪還する。 |
1547年(天文十六年) |
太田資正が兄の死後、実力で岩付城主となる 8 。 |
太田資正 |
河越夜戦後の混乱期に家督を相続。 |
1560年(永禄三年) |
資正、上杉謙信の関東出陣に呼応し、反北条の旗幟を鮮明にする 4 。 |
太田資正、上杉謙信 |
上杉軍の先鋒として小田原城攻めに参加。 |
1564年(永禄七年) |
嫡男・氏資の謀反により、資正が城を追放される 4 。 |
太田資正、太田氏資 |
岩付城は後北条氏の支配下に入る。 |
1567年(永禄十年) |
城主・太田氏資が三船山合戦で戦死 4 。 |
太田氏資 |
太田氏の血筋が断絶する。 |
1580年頃 |
北条氏政の弟・氏房が太田氏の名跡を継ぎ、城主となる 4 。 |
北条氏房、北条氏政 |
岩付城が北条氏の直轄の支城となる。 |
1586年頃(天正十四年) |
豊臣秀吉との対決に備え、大構(惣構)などの大規模改修が行われる 4 。 |
北条氏房 |
城と城下町を一体化させた巨大要塞へと変貌。 |
1590年(天正十八年) |
小田原征伐において、浅野長吉率いる豊臣軍に攻められ落城 4 。 |
北条氏房、伊達房実、浅野長吉 |
圧倒的兵力差の前に開城。戦国時代の城としての歴史を終える。 |
1590年以降 |
徳川家康の家臣・高力清長が入城。江戸時代の岩槻藩の居城となる 2 。 |
徳川家康、高力清長 |
江戸北方の要として、譜代大名が城主を務める。 |
岩付城の起源については、現在も学術的な論争が続いており、確定には至っていない。その築城者と年代を巡る主要な二つの説は、それぞれが当時の関東における政治的・軍事的対立を色濃く反映している。
最も広く知られている説は、室町時代の軍記物である『鎌倉大草紙』を根拠とするものである 1 。これによれば、長禄元年(1457年)、享徳の乱のさなかに、扇谷上杉家の当主・上杉持朝が、家宰であった太田道真とその子・道灌に命じて築かせたとされる 1 。この築城は、江戸城や川越城のそれと並行して行われたと記されており、下総国古河を本拠とする古河公方・足利成氏に対抗するための軍事拠点ネットワーク構築の一環であったと理解されている。
この説の合理性は、岩付の地勢的な位置づけによって強く裏付けられる。岩付は、扇谷上杉氏の勢力圏から見て、敵対する古河公方の本拠地を東北方向に扼する、まさに喉元に突き付けた刃のような位置にあった 1 。この地に堅固な城を築くことは、古河公方への直接的な圧力となると同時に、自領の防衛線を大きく前進させる効果を持っていた。築城後、城主は道灌の養子であった太田資忠の系統が継承したとされ、これが後の太田氏による長期支配の源流となった 1 。
一方で、近年有力視されているのが、文明十年(1478年)に武蔵国北部の雄であり、忍城主であった成田正等が築城したとする異説である 1 。この説に従えば、当初は成田氏の城であった岩付城を、後に太田氏が何らかの経緯で奪取したということになる。
しかし、この説にはいくつかの疑問点も指摘されている。そもそも成田氏は、一貫して古河公方方に属していた武家であり、敵対する扇谷上杉氏の勢力圏を牽制・圧迫する位置に城を築く動機には乏しい 1 。また、この説の根拠とされる史料に登場する「正等」という人物が、成田正等ではなく、太田道真の法諱(仏門に入った後の名前)ではないかとする反論も提出されており、史料解釈を巡る論争が続いている 2 。
上記の二大説に加え、さらに新しい研究として、太田氏の家臣であった渋江氏が築城に関わったとする説も提起されるなど、岩付城の起源に関する議論は今なお活発である 11 。築城年代が1457年であるか1478年であるかという問題は、単なる21年の差に留まらない。それは、享徳の乱から長享の乱へと至る関東の戦乱期において、各勢力の軍事バランスや戦略思想を解釈する上で、極めて重要な意味を持つからである。
複数の有力な築城説が並立し、いずれもが決定的な証拠を欠く中で論争が続いているという事実そのものが、15世紀後半の関東において、岩付という土地がいかに重要な戦略拠点として各勢力から認識されていたかを物語っている。扇谷上杉方(太田氏)と古河公方方(成田氏)という、まさしく敵対する両陣営がそれぞれ築城者として候補に挙がる状況は、この地を抑えることが自陣営の存亡に関わる死活問題であったことを示唆している。したがって、築城を巡る論争は、単なる年代決定の問題ではなく、関東の覇権を巡る争奪戦の縮図であり、岩付がその最前線であったことを雄弁に物語る間接的な証拠と見なすことができる。
岩付城の物理的な構造、すなわち「縄張り」は、その長い歴史の中で支配者の交代と軍事技術の進化を反映し、劇的な変貌を遂げた。特に、天然の地形を活かした初期の「沼城」から、後北条氏による最新技術が投入された巨大要塞への進化は、戦国時代の城郭史における注目すべき事例である。
岩付城の最大の縄張り上の特徴は、元荒川とそれに連なる広大な沼沢地という自然地形を、防御システムの中核に据えた点にある 1 。城は、低湿地帯に島のように浮かぶ岩槻台地の先端に築かれ、三方を深い沼に囲まれていた 1 。この沼は、そのまま広大な水堀として機能し、攻城軍の自由な移動を著しく制限した。その景観から、城は水に浮かんでいるように見え、「浮城」あるいは「白鶴城」という異名で呼ばれたと伝えられる 4 。初期の城郭は、本丸、二の丸、三の丸といった主郭部が台地上に連なり、その周囲を沼が守るという、比較的単純ながらも堅固な構造であったと考えられる 3 。
戦国期の関東の城郭の多くがそうであったように、岩付城も石垣を多用せず、土を盛り上げた「土塁」と、地面を掘り下げた「堀」(空堀または水堀)を主たる防御施設としていた 2 。築城者とされる太田道灌が設計に関わったと伝わる江戸城や川越城、あるいは忍城としばしば比較されるように、その縄張り思想には、曲輪を機能的に配置し、敵の動線を複雑化させる工夫が凝らされていた可能性が高い 12 。実際に、1993年に行われた二の丸跡の発掘調査では、16世紀初頭のものと見られる方形の竪穴建物跡や井戸、そして大量のかわらけ(素焼きの土器)が検出されており、戦国初期の城内における武士たちの生活実態を垣間見ることができる 13 。
岩付城の構造が最も劇的に変化したのは、後北条氏の支配下に入り、豊臣秀吉との全面対決が目前に迫った天正14年(1586年)以降のことである 4 。この時期、北条氏は領国支配下の主要な支城に対し、対豊臣戦を想定した大規模な改修を命じた。岩付城もその対象となり、最新の築城技術が惜しみなく投入された。
その最大のものが、城と城下町を一体的に防衛するために、その外周を長大な土塁と堀で囲い込む「大構(おおがまえ)」、あるいは「惣構(そうがまえ)」と呼ばれる防御施設の構築である 6 。この大構は全長約8キロメートルにも及んだとされ、城郭という「点」の防御から、城下町という経済基盤を含めた「面」の防御へと、防衛思想が大きく転換したことを示すものだった。現在、愛宕神社が鎮座する土塁が、この壮大な大構のわずかな名残である 2 。
さらに、発掘調査によって、後北条氏特有の高度な築城技術の導入も明らかになっている。城址公園として整備されている新曲輪と鍛冶曲輪の間の堀跡からは、堀の底に複数の畝(うね)状の土手を設けることで、堀を渡ろうとする敵兵の足元を覚束なくさせ、移動を阻害する「障子堀」の遺構が検出された 1 。障子堀は、北条氏の本拠である小田原城や、その最前線基地であった山中城などで確認されている防御施設であり、岩付城が北条氏の支城ネットワークにおいて、いかに重要な拠点と見なされ、最新技術で要塞化されていたかを如実に示している 3 。
このほか、新曲輪・鍛冶曲輪周辺には、高さの異なる二重の土塁(比高二重土塁)や、城の出入り口である虎口(こぐち)を防御するための独立した小曲輪である「馬出(うまだし)」などが巧みに配置されており、北条流築城術の粋を集めた、極めて防御力の高い構造へと変貌を遂げていた 12 。
岩付城の縄張り上の特徴は、同時代の武蔵国における他の主要城郭と比較することで、より鮮明になる。
岩付城の構造が、初期の沼城から後北条氏による巨大要塞へと変貌していった過程は、単なる増改築の歴史ではない。それは、戦国時代の戦闘形態が、個別の曲輪における局地的な防衛戦から、城下町という経済基盤をも含めた領域全体を防衛する総力戦へと移行していった過程を、物理的な形で示すものである。特に、豊臣秀吉という中央集権的権力がもたらす、兵站を伴った大軍による侵攻という未曾有の脅威に対し、後北条氏が領国全体で対抗しようとした国家防衛思想の現れとして、「大構」の構築は理解されるべきであろう。城郭の形態は、その時代の軍事技術と、支配者が直面した政治情勢を映す鏡なのである。
岩付城の歴史を語る上で、その名を最も強く刻んだ城主が、太田資正(おおた すけまさ)である。道灌の玄孫にあたり、「三楽斎(さんらくさい)」の号でも知られるこの知将の時代、岩付城は関東における反北条勢力の中心的な拠点として、その存在感を最大限に発揮した。
太田資正は、大永二年(1522年)、岩付城主・太田資頼の次男として生まれた 8 。当初、家督は兄の資顕が継いだが、資正は兄と不仲であり、一時は岩付城を出て舅の難波田憲重が守る松山城に身を寄せていたとされる 8 。
資正が歴史の表舞台に躍り出るのは、天文十五年(1546年)の河越夜戦で主家であった扇谷上杉氏が滅亡し、関東の勢力図が激変した後のことである。この混乱に乗じ、親北条であった兄・資顕が死去すると、資正は当主不在となった岩付城を攻め、実力で家督を相続した 8 。父祖代々の主家である上杉氏への忠義を重んじる資正にとって、新興勢力である北条氏への従属は受け入れがたい選択であった。こうして、岩付城は資正の指導の下、反北条の旗幟を鮮明に掲げることになる。
単独では強大な北条氏に対抗できないと判断した資正は、外部勢力との連携に活路を見出す。永禄三年(1560年)、越後の「軍神」上杉謙信が関東管領・上杉憲政を奉じて大軍を率いて関東に出兵すると、資正はこれにいち早く呼応した 4 。翌年の小田原城包囲戦では、上杉軍の先鋒を務めるなど、その軍事行動において中心的な役割を果たした 4 。
さらに資正は、常陸国(現在の茨城県)の雄・佐竹義重とも強固な同盟関係を構築した 8 。これにより、岩付城は、越後、常陸、そして自領である武蔵を結ぶ、反北条軍事同盟の要となり、資正自身も外交の取次役として重要な役割を担った。彼の知略を示す逸話として、遠隔地である武州松山城との非常時の連絡手段として、伝令犬を組織的に用いたという「三楽犬の入れ替え」が知られている 21 。この逸話は、資正が単なる勇将ではなく、合理的な思考と創意工夫に長けた指揮官であったことを示している。
しかし、資正の奮闘も空しく、岩付城は内部からの崩壊によって北条氏の手に落ちる。永禄七年(1564年)、第二次国府台合戦で資正が敗北し、城を留守にしている隙を突いて、かねてより親北条派であった嫡男の氏資が謀反を起こした 1 。氏資は父・資正を城から追放し、岩付城ごと北条氏に降伏したのである 1 。
故郷を追われた資正は、常陸の佐竹義重を頼り、その客将として迎えられた。義重から与えられた常陸国片野城(茨城県石岡市)を新たな拠点とし、資正は不屈の闘志を燃やし続けた 8 。彼は片野城にあって、中央の織田信長や豊臣秀吉とも連絡を取り、終生、岩付城の奪還を夢見続けたが、その願いが叶うことはなかった 8 。
太田資正の生涯は、一個人の英雄譚としてのみ語られるべきではない。彼の生き様は、鎌倉府以来の伝統的な権威(関東管領上杉氏)に連なる関東の在地領主たちが、実力主義と合理的な領国支配システムを武器とする新興勢力・後北条氏の前に、いかにして抗い、そして翻弄されていったかを示す象徴的な事例である。資正が頼った上杉謙信もまた、関東の旧秩序の回復を大義名分としていた。一方で、父を裏切った嫡男・氏資の行動は、旧来の主従関係よりも、目前の現実的な勢力関係を重視するという、新しい時代の価値観への適応であったと解釈できる。この父子の対立は、まさに関東における「旧秩序」と「新秩序」の価値観の衝突そのものであった。資正が外部勢力との連携に頼らざるを得なかった事実は、もはや関東の在地領主が単独では北条氏の力に対抗できなかった、当時のパワーバランスを如実に物語っている。彼の生涯は、滅びゆく秩序の中で最後まで抗った者の悲劇として捉えることができるだろう。
人物名 |
所属/立場 |
岩付城との関わり |
太田道灌 |
扇谷上杉氏 家宰 |
築城者(有力説)。関東における上杉氏の拠点網を構築。 |
太田資正(三楽斎) |
岩付城主 |
反北条の旗頭として城を死守。上杉・佐竹氏と連携。 |
太田氏資 |
岩付城主 |
資正の嫡男。父を追放し、城ごと北条氏に降伏。 |
北条氏康 |
相模国主(後北条氏三代) |
関東制覇を目指し、岩付城の攻略を画策。資正の宿敵。 |
北条氏房 |
岩付城主(北条一門) |
北条氏政の弟。太田氏の名跡を継ぎ、最後の城主となる。 |
上杉謙信 |
越後国主、関東管領 |
資正の要請で関東に出兵。資正の最も強力な同盟者。 |
佐竹義重 |
常陸国主 |
資正の同盟者。追放された資正を庇護し、片野城を与える。 |
伊達房実 |
北条氏家臣、岩付城代 |
城主・氏房不在の中、豊臣軍を相手に籠城戦を指揮。 |
浅野長吉(長政) |
豊臣氏家臣 |
小田原征伐における岩付城攻城軍の総大将。 |
太田資正の追放後、岩付城は後北条氏の支配下に入り、その性格を大きく変える。反北条の拠点から、北条氏による関東支配を支える重要支城へと転身を遂げたのである。この時代、岩付城は軍事的な要塞化が進むと同時に、北条氏の高度な領国経営システムに組み込まれていった。
太田資正を追放して城主となった氏資であったが、永禄十年(1567年)の三船山合戦において討ち死にし、彼には男子がいなかった 4 。これにより、岩付太田氏の血筋は事実上断絶する。この機を捉え、後北条氏当主の北条氏政は、自身の弟である源五郎(後の氏房)に太田氏の名跡を継がせる形で岩付城主とした 4 。これは、単なる城の接収ではなく、太田氏という名跡を乗っ取ることで、在地支配の正統性を演出しようとする、北条氏の巧みな戦略であった。これにより、岩付城は名実ともに北条氏の直轄領、すなわち「支城」となり、その広大な領地は「岩付領」として再編された。
この結果、岩付城の戦略的役割は180度転換する。かつては対北条の最前線であったが、今や北関東に残る佐竹氏や宇都宮氏といった敵対勢力に対する最前線基地へと変貌を遂げたのである 6 。
城主となった北条氏房の下で、岩付領は後北条氏の領国支配システムへと急速に統合されていく。氏房が発給したとされる文書は天正十一年(1583年)から同十八年(1590年)にかけて75点も残存しており、彼が単なる軍事司令官ではなく、領国経営を担う行政官としても活発に活動していたことがわかる 28 。
その統治の特徴は、旧来の太田氏家臣であった宮城泰業らを奉行人として登用し、既存の統治機構を活用しつつ、支配を円滑に進めた点にある 28 。一方で、城の普請(土木工事)や年貢の徴収、農地の作付けに至るまで、領民に対して直接的な命令を下しており、北条氏の支配が領内の隅々にまで浸透していた様子が窺える 29 。このようにして、「岩付領」は小田原を頂点とする後北条氏の国家体制の中に、一つの支城領として完全に組み込まれていったのである。
天正年間も後半に入ると、天下統一を推し進める豊臣秀吉と、関東の独立を維持しようとする後北条氏との間の緊張が急速に高まる。来るべき決戦に備え、北条氏は小田原城をはじめとする領内の主要城郭の大規模な改修に着手した 6 。
岩付城もその例外ではなかった。第二章で詳述したように、城下町ごと防衛する「大構」の構築や、「障子堀」といった最新の防御施設の導入は、まさしくこの時期、対豊臣戦を具体的に想定して行われたものである 4 。これは、岩付城が北条氏の防衛戦略において、最後まで守り抜くべき重要拠点と位置づけられていたことの証左に他ならない。
後北条氏による岩付城の支配は、単に城を軍事的に占拠し、一門を城主として送り込んだだけではなかった。それは、北条氏が半世紀以上にわたって培ってきた、支城を中心とした先進的な領国支配システムをこの地に移植するプロセスであった。軍事面での徹底的な要塞化と、行政面での支配システムの統合が同時並行で進められたのである。岩付城は、軍事的な「点」の拠点であると同時に、周辺地域を統治する「面」の拠点でもあった。この「点」と「面」を統合した強固な支配体制こそが、後北条氏の強さの源泉であり、岩付城はその典型的な事例であったと言える。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐は、岩付城の歴史、そして戦国時代の関東そのものに終焉をもたらした。この戦いは、兵力、戦術、そして戦略思想の全てにおいて、旧来の関東の合戦とは次元の異なる「天下人の戦争」であった。
惣無事令違反を口実に、豊臣秀吉は総勢20万とも言われる空前の大軍を動員し、関東へと侵攻した 30 。その戦略は、本拠である小田原城を大軍で包囲しつつ、別働隊を派遣して関東各地に点在する北条氏の支城を各個撃破するという、兵力と兵站に絶対の自信を持つ者のみが可能なものであった。
後北条氏の城の中でも特に堅固と目されていた岩付城は、真っ先に主要な攻撃目標の一つとされた 10 。この城を攻める任を帯びたのは、豊臣子飼いの将・浅野長吉(後の長政)を総大将とし、木村重茲らを加えた約2万の軍勢であった 4 。対する守城側は、城主の北条氏房が主君・氏直とともに小田原城に籠城していたため、城代の伊達房実らが率いる約2千の兵が守るのみであり、その兵力差は実に10対1という絶望的なものであった 4 。
5月20日頃、浅野長吉率いる豊臣軍は岩付城への攻撃を本格的に開始した。攻城軍の一部には、後に江戸幕府を開く徳川家康の家臣団も加わっており、彼らは城の南側に位置する新曲輪口に猛攻を加えた 6 。城兵は圧倒的な兵力差にもかかわらず、激しく抗戦し、攻城側にも多くの死傷者が出たと伝えられている 6 。
しかし、衆寡敵せず、5月21日には二の丸、三の丸といった城の主要部が突破されたとの報告が、小田原にいる秀吉の本陣に届けられた 33 。この報を受けた秀吉は、当初「一人も漏らさず討ち果たし、女子供は全てこちらへ連れてくるように」という、殲滅を命じる苛烈な指示を浅野長吉に下している 33 。だが、現場の指揮官であった長吉らは、最終的に城兵の命を助けることを条件として開城交渉を進め、岩付城は降伏した。この長吉の判断に対し、秀吉は後に注意を与えつつも、結果的にはこれを追認している 33 。
難攻不落を誇った岩付城の落城に際しては、一つの伝説が伝えられている。攻城軍が元荒川の渡河に窮していたところ、どこからともなく白い着物を着た老翁が現れ、川の浅瀬を指し示した。諸将がその後を追って川を渡ると、そこから城内へ突入することができ、ついに城は落ちたという 9 。そして、その浅瀬とは、万一の際に城方が脱出するために、川底に石を敷き詰めて密かに作っておいた避難路であった、と伝説は結ばれる 9 。
この伝説の真偽は定かではないが、それが象徴するのは、圧倒的な兵力と、それを支える情報網の前には、いかに堅固な城といえども、内部の弱点を突かれれば脆くも崩れ去るという、戦の冷徹な現実であろう。岩付城の陥落は、小田原城に籠城する北条方の将兵に大きな衝撃と動揺を与え、北条氏の士気を著しく低下させた。それは、後北条氏の滅亡という、時代の大きな転換点へ向けた重要な一歩であった。
岩付城の戦いは、単なる一つの城の攻防戦ではなかった。それは、戦国時代の終焉を告げる「新しい戦争」の様相を呈していた。10対1という絶望的な兵力差、小田原の本陣から個別の戦場を遠隔で指揮する秀吉の司令系統、そして抵抗する者への恐怖(皆殺し命令)と降伏する者への寛容(助命)を巧みに使い分ける政治的戦略。これらはすべて、旧来の関東の戦争の常識を根底から覆すものであった。岩付城の運命は、戦闘が始まる前から、政治的・軍事的にほぼ決定づけられていたと言っても過言ではない。その攻防戦は、関東の諸大名に対し、秀吉への抵抗がいかに無意味であるかを示すための、壮大なデモンストレーションだったのである。
天正十八年の落城により、岩付城の軍事拠点としての歴史は幕を閉じた。しかし、それは城と城下町の完全な終焉を意味するものではなかった。むしろ、江戸という新たな時代の中で、岩付は軍事都市から、政治と交通、そして文化の中心地へとその役割を大きく変容させ、新たな繁栄の時代を迎えることになる。
戦国時代の末期、後北条氏による「大構」の構築によって、岩付城と城下町は一体化した強固な防御都市を形成していた 6 。この時代、城下町の経済活動の中心は「市宿町」であった。ここでは、戦国時代以来の伝統を持つ定期市「六斎市(ろくさいいち)」が、毎月一と六のつく日に開かれ、特産品であった岩槻木綿などが取引され、多くの人々で賑わっていた 9 。城下町は、城の軍事機能を支える兵站基地であると同時に、地域の経済センターでもあった。
後北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入封すると、岩付城には家康の譜代家臣である高力清長が二万石で入城した 2 。江戸幕府が開かれると、岩付城は江戸の北方を守る要衝と位置づけられ、代々幕府の要職を務める譜代大名が治める岩槻藩の藩庁となった 2 。
これに伴い、城下町も近世的な身分秩序に基づいて再編された。城の大手門外の一帯には藩士たちの屋敷が並ぶ「武家地」が、そして街道沿いには商工業者が住む「町人地(町家)」が明確に区画された 6 。
そして、岩付の運命を決定づけたのが、旧来の街道が徳川将軍家の日光東照宮参詣(日光社参)のための専用道路、「日光御成道」として整備されたことである 35 。岩槻城下は、この日光御成道における4番目の宿場町「岩槻宿」としての新たな役割を担うことになった 2 。将軍が江戸から日光へ向かう際、その初日の宿泊地となるのが岩槻宿であり、本陣が置かれた 37 。これにより、岩槻は街道随一の格式と規模を誇る宿場町として、大きな繁栄を享受することになる。
日光御成道の宿場町としての繁栄は、岩付に独自の文化と経済を育んだ。現在、「人形のまち」として全国的に知られる岩槻の伝統は、この時代にその基礎が築かれたとされる。岩槻周辺が古くから桐の産地であったことから、箪笥や下駄などの桐細工が盛んであり、その工匠たちが余技として人形作りを始めたのが起源と伝えられている 9 。
江戸時代を通じて、商業活動はさらに活発化し、町家は「うなぎの寝床」と呼ばれる間口が狭く奥行きの深い区画に多くの商家が軒を連ねた 9 。現在も城下には、大正時代に建てられた旧中井銀行岩槻支店(大正館)や、明治創業の鈴木酒造など、当時の繁栄を偲ばせる歴史的建造物が点在している 40 。
江戸時代に入り、泰平の世が訪れると、岩付城の要塞としての軍事的価値は次第に低下し、藩の政庁という象徴的な存在へと変化していった。しかしその一方で、城下町は「日光御成道」という新たな国家的インフラと結びつくことで、宿場町として、また地域の経済・文化の中心として、その重要性を飛躍的に増大させた。城の役割が軍事から政治・経済へとシフトしたのである。戦国時代の軍事的な「核」がその重要性を失いつつある中で、城下町は宿場町という新たな「核」を得て、自律的な発展を遂げていった。これは、戦国から近世へと移行する時代における、日本の都市機能の変容を示す好例と言えるだろう。
項目 |
岩付城 |
鉢形城 |
忍城 |
立地/分類 |
沼沢地 / 平城(沼城) 3 |
断崖絶壁 / 平山城 15 |
沼沢地 / 平城(沼城) 19 |
築城者(説) |
太田道灌 / 成田正等 1 |
長尾景春 |
成田氏 19 |
主要城主 |
太田氏、後北条氏 4 |
長尾氏、後北条氏 |
成田氏 |
縄張りの特徴 |
大構、障子堀、天然の沼沢地 3 |
断崖、馬出、石積土塁 15 |
天然の沼沢地、水攻めに耐えた 20 |
小田原征伐時の結末 |
激戦の末、開城 4 |
約1ヶ月籠城の後、開城 43 |
水攻めに耐え、小田原開城後に降伏 42 |
岩付城は、その誕生から終焉まで、まさに関東の戦国史の動向と密接に連動し続けた城であった。享徳の乱という戦国の幕開けの中で、扇谷上杉氏の対古河公方の拠点として生まれ、関東に覇を唱えた後北条氏に対しては、知将・太田資正の下で反抗の牙城となり、そして最後はその後北条氏の北関東支配を支える巨大要塞として、その役割を変転させた。その城郭構造の変遷は、土塁と堀を主軸とした中世的な城郭から、城と城下町を一体で防衛する惣構や障子堀といった先進技術を備えた近世的な要塞へと、戦国時代の軍事技術と戦略思想の進化を見事に体現していた。
天正十八年(1590年)の落城は、戦国時代の軍事拠点としての岩付城の歴史に終止符を打った。しかし、それは完全な消滅を意味するものではなかった。徳川の世が到来すると、岩付城は江戸を中心とする新たな秩序の中で、江戸北方を守る譜代大名の居城、そして岩槻藩の政庁として再生する。さらに、城下町は日光御成道の主要な宿場町として、かつてない経済的・文化的な繁栄を遂げた。
明治維新後に廃城となり、近代化と市街地化の波の中で、本丸や二の丸を含む多くの遺構は惜しくも失われた 1 。しかし、今なお岩槻城址公園に残る壮大な土塁や深い空堀は、かつての激戦を物語り 2 、市内に移築され現存する黒門や裏門は、往時の威容を偲ばせる 5 。そして、近年の継続的な発掘調査は、地下に眠る遺構を通じて、失われた城郭の姿を少しずつ我々の前に明らかにしつつある 13 。これらの歴史の断片は、戦国期東武蔵の中心として栄え、そして散っていった名城・岩付城の激動の物語を、現代に生きる我々に静かに、しかし力強く語りかけているのである。