美濃岩村城は、日本三大山城の一つで「霧ヶ城」の異名を持つ。織田と武田の境目に位置し、女城主おつやの方の悲劇の舞台となった。六段壁の石垣は築城技術の変遷を物語り、今は城下町と共に歴史を伝える。
年代 |
主な出来事 |
関連人物 |
鎌倉時代 |
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文治元年 (1185) |
源頼朝の重臣・加藤景廉が遠山荘の地頭に任じられ、岩村城の基礎を築く 1 。 |
加藤景廉、源頼朝 |
戦国・安土桃山時代 |
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元亀3年 (1572) |
8月、城主・遠山景任が病没。織田信長の五男・御坊丸が養子となる 1 。 |
遠山景任、おつやの方、織田信長、御坊丸 |
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11月、武田方の秋山虎繁(信友)が岩村城を包囲。おつやの方が虎繁との婚姻を条件に開城 1 。 |
秋山虎繁、武田信玄 |
天正3年 (1575) |
5月、長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍に大勝 4 。 |
織田信長、武田勝頼 |
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11月、織田信忠が岩村城を攻略。秋山虎繁とおつやの方は降伏後、長良川河原で処刑される 1 。 |
織田信忠、河尻秀隆 |
天正10年 (1582) |
武田氏滅亡後、森蘭丸が城主となるも、本能寺の変で戦死 1 。 |
森蘭丸(成利) |
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兄の森長可が城主を継ぐ 1 。 |
森長可 |
天正12年 (1584) |
小牧・長久手の戦いで森長可が戦死。弟の森忠政が城主となる 1 。 |
森忠政 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦後、西軍に与した田丸直昌が改易。松平家乗が入封し、岩村藩が成立 1 。 |
田丸直昌、松平家乗 |
江戸時代 |
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慶長6年 (1601) |
松平家乗が山麓に藩主邸を造営し、城下町を整備 1 。 |
松平家乗 |
正保2年 (1645) |
松平氏が転封。代わって丹羽氏信が入城 1 。 |
丹羽氏信 |
元禄15年 (1702) |
丹羽氏がお家騒動で転封。大給松平氏の松平乗紀が再入封し、藩校「文武所」(後の知新館)を創立 2 。 |
松平乗紀 |
近現代 |
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明治6年 (1873) |
廃城令により建造物が解体され、石垣のみとなる 6 。 |
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明治14年 (1881) |
山麓に残されていた藩主邸が全焼 6 。 |
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平成18年 (2006) |
日本100名城に選定される 6 。 |
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美濃国東部、現在の岐阜県恵那市にその威容を今に伝える岩村城は、単なる一地方の城郭ではない。それは、日本の歴史における激動の時代を体現し、天空にそびえる石垣の一つひとつが、権力者たちの野望と、その狭間で翻弄された人々の悲劇を物語る、生きた証人である。
岩村城の特異性を語る上でまず挙げられるのが、その比類なき立地である。本丸は標高717メートルに位置し、これは江戸時代の諸藩の府城(藩庁が置かれた城)の中では最も高い標高を誇る 1 。この圧倒的な高さから、大和の高取城(奈良県)、備中の松山城(岡山県)と並び、「日本三大山城」の一つに数えられる 7 。高取城が麓からの高低差(比高)日本一、松山城が現存天守を持つ唯一の山城というそれぞれの特徴を持つのに対し、岩村城は「天空に最も近い城」としての地位を確立しているのである 10 。
この城はまた、「霧ヶ城」という幻想的な異名を持つ 6 。城の周辺は地理的条件から霧が発生しやすく、この自然現象が城の防御に利用されたと伝えられる 13 。伝説によれば、有事の際には城内にある「霧ヶ井」に秘蔵の蛇骨を投じることで、たちまち濃霧が城全体を覆い隠し、敵の目をくらませたとされる 15 。この霧は、物理的な障壁であると同時に、城に神秘性と難攻不落のイメージを与え、敵兵の心理に大きな影響を与えたであろうことは想像に難くない。
しかし、岩村城の歴史を決定づけた最大の要因は、その地政学的な位置にあった。美濃と信濃を結ぶ要衝にあり、尾張から東へ勢力を拡大しようとする織田信長と、京を目指し西上作戦を展開する甲斐の武田信玄、この戦国二大勢力の力が直接衝突する最前線に位置していたのである 1 。この立地こそが、岩村城を巡る壮絶な攻防戦と、後に詳述する女城主・おつやの方の悲劇を生み出す根本的な原因となった。
そして、岩村城の歴史をさらに稀有なものとしているのは、その驚異的な生命力である。文治元年(1185年)の築城から明治6年(1873年)の廃城令に至るまで、実に700年近くにわたり、城としての機能を維持し続けた 1 。これは、鎌倉幕府の成立から室町、戦国、安土桃山、そして江戸幕府の終焉まで、日本の武家政治の全期間を通じて、常に時代の中心で重要な役割を担い続けたことの証左に他ならない。岩村城の歴史を紐解くことは、日本の城郭史のみならず、中世から近世に至る日本の社会構造の変遷そのものを追体験することなのである。
岩村城が難攻不落と謳われた所以は、単に標高が高いというだけではない。その縄張りから石垣、井戸、登城路に至るまで、天然の地形を最大限に活用し、人間の知恵と技術を結集させた、緻密かつ巧妙な防御システムが構築されていた。
岩村城は、標高717メートルの城山の山頂に本丸を置き、麓からの高低差180メートルにも及ぶ急峻な地形を巧みに利用して設計されている 11 。その縄張りは、本丸を中心に、二の丸、三の丸、東曲輪、出丸といった主要な曲輪を、山の尾根や谷といった自然の地形に沿って階段状に配置する「梯郭式」と呼ばれる形式を採用している 18 。これにより、敵は下から上へと、幾重にも連なる防御ラインを突破しなければならず、攻め手は常に不利な仰角からの攻撃を強いられることになる。各曲輪は独立した防御拠点として機能しつつ、相互に連携して城全体を守る、有機的な防御網を形成していた 20 。
現在の岩村城跡で最も壮観な遺構であり、その象徴とも言えるのが、本丸北東面に築かれた「六段壁」である 5 。雛壇状に築かれたこの巨大な石垣群は、見る者を圧倒する威容を誇る。しかし、この姿は築城当初からのものではない。元々は最上部の一段のみの高石垣であったが、長い年月の中で崩落を防ぐための補強工事が繰り返され、下へ下へと石垣が継ぎ足されていった結果、幕末期には六段にも及ぶ現在の姿になったとされている 15 。
この六段壁、そして本丸埋門周辺の石垣は、岩村城の700年にわたる歴史の変遷を物理的に物語る「石垣の博物館」とも呼ぶべき様相を呈している。ここでは、時代の異なる三種類の石積み技術を一度に観察することができる 15 。
一つは、自然の石をほとんど加工せずに積み上げる「野面積み」。これは戦国時代に見られる古式の技法で、隙間が多いものの、排水性に優れ、短期間で堅固な石垣を築くことができた。次に、石の接合部をある程度加工して隙間を減らした「打込接」。これは織豊期から江戸時代初期にかけての技術で、より高く、より急勾配の石垣を築くことが可能になった。そして、石を完全に四角く加工し、隙間なく精緻に積み上げる「切込接」。これは泰平の世となった江戸時代中期以降に普及した技術で、防御機能以上に、藩主の権威を示すための美観が重視された。
一つの城郭、特に本丸の入口という中枢部において、これら三時代の技術が共存している事実は極めて重要である。それは、岩村城が単に古いだけでなく、各時代を通じて常に第一線の城として改修・増強され続けたことを示している。さらに踏み込めば、この石垣の技術的変遷は、城郭に求められる機能そのものの変化を映し出している。緊急性と防御力を最優先した戦国期の「戦うための砦」から、権威と美観を両立させた泰平の世の「統治の象徴」へ。岩村城の石垣は、戦国乱世の終焉と徳川幕府による安定した社会の到来という、日本の歴史における巨大なパラダイムシフトを、その身をもって体現する「生きた歴史資料」なのである。
山城における籠城戦の成否を分ける最大の要因は、水の確保である。岩村城には、城内に17箇所もの井戸が存在したとされ、山城でありながら水の手が極めて豊富であった 15 。これにより、長期間の包囲戦にも耐えうる継戦能力を保持していた。
中でも八幡曲輪に位置する「霧ヶ井」は、特別な存在であった 15 。前述の通り、秘蔵の蛇骨を投じることで霧を発生させ城を守ったという伝説が残るこの井戸は、単なる水源ではなく、城主専用の霊泉として神聖視されていた。その証拠に、江戸時代に描かれた城絵図では、数ある井戸の中でこの霧ヶ井だけが、雨露をしのぐための覆屋(おおいや)付きで描かれており、その重要性が際立っている 15 。
また、これらの井戸の造成方法にも特異な点が見られる。通常、井戸は地面を深く掘って作られるが、岩村城の井戸の多くは、谷を埋め立てて平坦な曲輪を造成する際に、意図的に水源部分を埋め残す形で造られた「埋め井戸」であった 22 。これは、自然の地形を巧みに利用して、効率的に水源を確保する、高度な築城技術の現れと言える。
岩村城の防御思想は、登城路の随所に施された巧妙な仕掛けにも見て取れる。山麓から本丸を目指す道のりで、最初に現れる関門が「初門」である 15 。急峻な坂道を登っていくと、登城路は突如として行く手を遮るように右に折れ、さらに大きく左へと折り返す、鋭角なヘアピンカーブとなっている 22 。これは、敵兵が一気に駆け上がる勢いを削ぎ、隊列を乱すための意図的な設計であり、近世城郭に特徴的な防御手法である。
さらに進むと、城の中枢部への入口である大手門に至る。ここには「畳橋」と呼ばれる可動式の木橋が架けられていた 15 。平時は通行のために板が敷かれているが、有事の際にはこの板をすべて取り外すことで、幅の広い空堀を出現させ、敵の突入を完全に遮断する仕組みになっていた 20 。
大手門の脇には、実質的な天守として機能したとされる三重の櫓「三重櫓」がそびえていた 20 。これは城の象徴であると同時に、城内外を見下ろす司令塔であり、強力な攻撃拠点でもあった。また、城の各門は、敵を狭い空間に誘い込んで三方から攻撃を加える「枡形虎口」という構造になっており、侵入した敵を確実に殲滅するための工夫が凝らされていた 19 。これらの仕掛けは、岩村城が単なる天険の要害であるだけでなく、人間の叡智によって磨き上げられた、計算され尽くした戦闘要塞であったことを示している。
岩村城の長い歴史の大部分は、遠山一族によって紡がれてきた。その治世は、鎌倉幕府の成立と共に始まり、戦国の動乱が本格化するまでの約4世紀にわたって続いた。
岩村城の創築は、文治元年(1185年)に遡る 1 。この年、源頼朝による全国的な守護・地頭の設置に伴い、頼朝の重臣であった加藤景廉が遠山荘の地頭に任じられたのがその起源とされる 2 。伝承によれば、景廉が城の基礎を築き、その子である景朝が城を完成させ、この地の名をとって「遠山」姓を名乗ったという 1 。これが岩村遠山氏の始まりである。
鎌倉時代から室町時代にかけて、遠山氏は美濃東部に根を張る有力な国衆として、その勢力を維持・拡大していった。南北朝時代の軍記物語『太平記』には、1337年の越前金ヶ崎城の戦いにおいて「美濃霧城遠山三郎」なる武将の名が見える 6 。これが岩村城そのものを指すかについては議論があるものの、少なくともこの時代には、遠山氏が「霧城」と称される拠点を持ち、中央の動乱にも関与するほどの存在として広く認知されていたことを示唆している。
遠山氏は、美濃国の守護であった土岐氏や、隣国信濃の諸勢力との間で、時に従属し、時に争いながら、巧みな外交と武力によって東美濃における独自の支配領域を確立していった。約388年間にわたる彼らの統治は、岩村の地に安定をもたらし、後の城郭や城下町の発展の礎を築いた 2 。しかし、戦国時代の到来と共に、この長きにわたる平穏は終わりを告げる。遠山氏と岩村城は、尾張の織田、甲斐の武田という二つの巨大な力の奔流に飲み込まれ、かつてない激動の時代へと突入していくのである。
戦国時代後期、岩村城は日本の歴史上、最も dramatic で悲劇的な舞台の一つとなる。織田信長と武田信玄という二人の巨人が覇を競う中、その最前線に立たされた岩村城と、その運命を背負った女城主・おつやの方の物語は、戦国の世の非情さと、巨大な権力に翻弄される人々の苦悩を鮮烈に描き出している。
物語の幕開けは、一つの政略結婚であった。当時、岩村城主であった遠山景任は、急速に勢力を拡大する尾張の織田信長の叔母にあたる「おつやの方」を正室として迎えた 1 。美貌で知られたおつやの方は、これが三度目あるいは四度目の結婚であったとされ、その生涯がいかに政略に左右されてきたかを物語っている 26 。この婚姻は、東の武田氏の圧力に晒されていた遠山氏が、西の織田氏との同盟を強化し、その庇護下に入ることを明確に示す、極めて重要な政治的決断であった。信長にとっても、東美濃の要衝である岩村城を勢力下に置くことは、対武田戦略上、不可欠な一手であった。
しかし、この同盟関係は予期せぬ形で揺らぐ。元亀3年(1572年)8月、城主の遠山景任が跡継ぎのないまま病に倒れ、この世を去ったのである 1 。この権力の空白を、信長が見過ごすはずはなかった。彼は即座に介入し、自身の五男であり、当時まだ8歳であった御坊丸(後の織田勝長)を景任の養子として岩村城に送り込み、城の実質的な支配権を確保しようと図った 1 。
幼い御坊丸が城主として政務を執れるはずもなく、その後見人として、未亡人となったおつやの方が事実上の城主として采配を振るうことになった 1 。こうして、歴史に名を残す「女城主」が誕生した。しかし、彼女の行く手には、あまりにも過酷な運命が待ち受けていた。
景任の死からわずか3ヶ月後の同年11月、甲斐の武田信玄が満を持して西上作戦を開始する。その一翼を担う猛将・秋山虎繁(信友)率いる武田軍が、岩村城に殺到した 1 。
この時、頼みの綱である織田信長は、浅井・朝倉・本願寺など四方の敵に囲まれた「信長包囲網」の渦中にあり、遠い岩村城へ十分な援軍を派遣する余裕はなかった 3 。孤立無援となった岩村城で、おつやの方は必死の籠城戦を指揮するが、武田軍の猛攻の前に落城は時間の問題であった。
絶体絶命の状況の中、秋山虎繁は一つの条件を提示する。それは、「おつやの方が自らの妻となるならば、城兵たちの命は保証する」というものであった 1 。これは、城と領民の命を天秤にかける、究極の選択であった。苦悩の末、おつやの方はこの屈辱的な条件を呑み、城門を開いた。そして、信長から送られた養子・御坊丸は、人質として武田氏の本拠地である甲府へと送られていった 1 。
この一連の出来事は、甥である信長の視点から見れば、紛れもない「裏切り」であった。血縁者である叔母が、あろうことか敵将の妻となり、自らの息子を人質として差し出したのである。信長の激怒は想像に難くない 25 。しかし、この評価はあまりに一面的である。彼女の立場は「織田信長の叔母」である以前に、「岩村城と、そこに暮らす数千の領民の命を預かる最高責任者」であった。援軍の見込みが全くない絶望的な状況で、彼女の前にあった選択肢は、玉砕して全滅するか、あるいは屈辱的な条件を呑んで民を救うかの二つしかなかった。したがって、おつやの方の決断は、信長が断じたような個人的・一族的な裏切りではなく、小国の指導者として領民の生命を最優先した、極めて合理的かつ苦渋に満ちた「政治的生存戦略」であったと解釈すべきである。この悲劇は、巨大勢力が振りかざす論理と、それに翻弄される小勢力が直面する現実との間に横たわる、埋めがたい溝を象徴している。
運命の歯車は、天正3年(1575年)に大きく回転する。この年5月の長篠の戦いで、織田・徳川連合軍は武田軍に壊滅的な打撃を与え、戦国の勢力図は一変した 4 。この好機を逃さず、信長は嫡男・信忠を総大将とする3万の大軍を岩村城へ派遣し、雪辱戦を開始した 21 。
5ヶ月にわたる徹底した兵糧攻めの末、城内は飢餓状態に陥り、武田勝頼からの援軍も間に合わなかった 6 。万策尽きた秋山虎繁は、自らと城兵の助命を条件に、城を明け渡すことを決断する 4 。信忠はこの条件を受け入れ、岩村城はついに開城した。
しかし、この和議は、後から岐阜城より本陣に入った信長によって、一方的に反故にされた。降伏の挨拶に訪れた秋山虎繁とおつやの方は捕らえられ、岐阜の長良川河原へと連行された 4 。そして信長は、実の叔母であるおつやの方に対し、逆さ磔という、前代未聞の残虐な方法で処刑を命じたのである 1 。おつやの方は、「身内である信長が和議の約束を破るのか」と嘆き、「かかる非道の振る舞い、必ずや因果の報いを受けん」と叫びながら絶命したと伝えられる 26 。
この常軌を逸した処刑は、単なる裏切りに対する個人的な怒りの発露と見るだけでは、その本質を見誤る。なぜ、単なる斬首ではなく、これほどまでに残虐な「逆さ磔」という方法が、意図的に選ばれたのか。この処刑は、衆人環視の中で行われた、高度な政治的パフォーマンスであった。その真の目的は、他の国衆や家臣たちに対する強烈な見せしめである。血縁者であろうと、一度自分を裏切った者にはいかなる慈悲もなく、想像を絶する方法で抹殺する。この恐怖のメッセージを発信することで、自らへの絶対的な忠誠を強制しようとしたのである。この事件は、天下統一へと突き進む信長が、中世的な秩序を破壊し、「恐怖による支配」という新たな統治手法を確立する上での、象徴的な一里塚であったと言えるだろう。
おつやの方の悲劇的な死と共に、岩村城の歴史は新たな局面を迎える。戦国乱世の終焉から江戸時代の泰平の世へと移り変わる中で、城主は目まぐるしく交代し、城そのものの役割も大きく変貌を遂げていった。
岩村城が落城した後、城主には織田家の重臣・河尻秀隆が任じられた 1 。天正10年(1582年)、織田軍が武田氏を滅ぼすと、秀隆は甲斐国へ転封となり、代わって信長の寵臣・森蘭丸(成利)がわずか18歳で城主となる 1 。しかし、その栄華は長くは続かなかった。同年6月、本能寺の変が勃発し、蘭丸は主君・信長と共にその生涯を閉じたのである。
蘭丸の死後、岩村城は兄の森長可が継承した 1 。勇猛果敢な武将として知られた長可であったが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで討死。その後は、末弟の森忠政が城主となった 1 。この森氏三代の治世において、家老の各務元正が城代として城の守りを固め、近代的な城郭への改修を進めたと伝えられている 2 。
慶長4年(1599年)、森忠政が信濃松代へ移封となると、伊勢の名門北畠氏の庶流である田丸直昌が入城する 1 。しかし、翌年に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、直昌は西軍に与したため、戦後に改易処分となった 1 。
関ヶ原の戦いで東軍に属し勝利に貢献した松平家乗が、2万石で岩村城に入封し、ここに岩村藩が成立した 1 。家乗は、戦国の山城としての性格が強かった岩村城を、近世大名の居城としてふさわしい姿へと変貌させていく。特筆すべきは、政務や日常生活には不便な山頂から、山麓へと藩主邸(御殿)を移したことである 1 。これを中心に城下町が整備され、岩村は軍事拠点から藩の政治・経済の中心地へと姿を変え始めた。
その後、正保2年(1645年)に松平氏が転封となると、代わって丹羽氏が5代約57年間にわたりこの地を治めた 1 。
元禄15年(1702年)、丹羽氏がお家騒動により越後へ転封されると、初代藩主・家乗の子孫にあたる大給松平氏の松平乗紀が信濃小諸藩から入城した 1 。乗紀は武力ではなく、学問による藩政の振興を目指した。彼は城下に藩校「文武所」(後の知新館)を設立 2 。これは全国でも三番目に古い藩校とされ、ここから幕末期に大きな影響力を持った儒学者・佐藤一斎など、多くの優れた人材が輩出された 2 。以後、明治維新に至るまで、大給松平氏による安定した統治が続いた。
この江戸時代における一連の変化は、岩村城の機能が根本的に転換したことを明確に示している。山頂から山麓への藩庁の移転、そして藩校の設立は、藩の関心が軍事力の維持から、人材育成と内政の充実へと移行したことの象徴である。戦国時代には敵の侵攻を阻むことが至上命題であった「砦」は、泰平の世において、領民を治め、文化を育む「藩庁」へとその役割を変えた。この機能転換は、徳川幕府体制下における日本の城郭全体の変化を象徴する、好個の事例と言えるだろう。
七百年にわたり、幾多の歴史の局面を見つめてきた岩村城も、明治維新という時代の大きなうねりの中で、その城としての役割を終える時が来た。しかし、物理的な建造物が失われた後も、その記憶と遺構は、形を変えて現代に受け継がれている。
明治6年(1873年)、新政府が発布した廃城令により、岩村城の天守や櫓、門といった建造物はすべて取り壊され、競売にかけられた 6 。山城の壮麗な姿は失われ、苔むした壮大な石垣のみが、かつての威容を偲ばせるものとして残された。さらに、山麓に唯一残されていた藩主邸も、明治14年(1881年)の火災によって焼失し、往時の姿を伝える建物は城域から完全に姿を消した 5 。
しかし、岩村城の記憶が完全に断絶したわけではない。廃城の際に、城内にあったいくつかの建造物が、城下の寺院などに移築され、奇跡的に現存している。例えば、土岐氏を破った戦勝記念に移築されたと伝わる「土岐門」は徳祥寺の山門として、「不明門」と「二の丸赤時門」は妙法寺の山門として、今もその姿をとどめている 6 。また、二の丸にあった弁財天社は隆崇院の境内に移されている 6 。これらの移築遺構は、岩村城のかつての建築様式を伝える、極めて貴重な歴史遺産である。
現在、岩村城跡はその壮大な石垣群が評価され、国の史跡に指定されている 7 。平成18年(2006年)には、公益財団法人日本城郭協会によって「日本100名城」の一つにも選定された 6 。焼失した藩主邸跡には岩村歴史資料館が建設され、城の歴史やゆかりの品々を展示している 6 。また、平成に入ってからは、藩主邸の一部であった太鼓櫓や表御門などが往時の絵図を基に復元され、訪れる人々に歴史の息吹を伝えている 5 。
岩村城の価値は、山上の城跡だけにとどまらない。麓に広がる城下町は、江戸時代の町割りがほぼそのまま残り、なまこ壁を持つ商家や旧家が軒を連ねる、風情豊かな景観を今に伝えている 24 。この町並みは、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、地域全体でその歴史的価値が守られている 35 。各家の軒先には、女城主・おつやの方にちなんで、その家の女将の名が記された青い暖簾がかけられ、歴史を活かしたユニークなまちづくりが行われている 5 。近年では、NHKの連続テレビ小説のロケ地にもなり、多くの観光客で賑わうなど、歴史と文化を核とした新たな活力が生まれている 24 。
天空の要塞、岩村城。その七百年にわたる歴史を辿ることは、日本の社会がいかにして形成され、変貌を遂げてきたかを追体験する旅である。
特に戦国時代、織田と武田という二大勢力の狭間で繰り広げられた悲劇は、巨大な権力闘争の奔流が、個人の意志や願い、そして生命をいかに無慈悲に飲み込んでいくかを我々に突きつける。女城主・おつやの方の生涯は、その象徴である。彼女の決断は、ある立場からは「裏切り」と断じられ、またある立場からは「民を救うための苦渋の選択」と映る。そこに絶対的な正義も悪もなく、ただそれぞれの立場における、あまりに過酷な現実が存在しただけである。岩村城の石垣は、そうした歴史の多面性と非情さを、今も静かに語りかけている。
一方で、この城の歴史は、破壊と悲劇だけを物語るものではない。戦乱の時代を生き抜き、泰平の世には統治と文教の中心地へとその役割を変え、近代化の波の中で一度は姿を消しながらも、史跡として、また歴史的な町並みとして、現代に新たな価値を見出されている。これは、時代と共に変化し、再生を繰り返してきた日本社会の強靭さそのものを体現していると言えよう。
現在、我々の目の前にある壮大な石垣と、麓に広がる美しい城下町は、単なる観光地ではない。それは過去の出来事を記憶し、未来へと語り継ぐための貴重な遺産である。岩村城の歴史から何を学び、何を次代へ継承していくのか。その問いは、歴史と向き合う我々一人ひとりに投げかけられている。
時代区分 |
城主(所属勢力) |
統治期間(目安) |
特記事項 |
鎌倉~室町 |
遠山氏 |
c. 1185 - 1572 |
約388年間にわたり東美濃を統治。 |
戦国 |
おつやの方(遠山氏/織田) |
1572 |
夫・景任の死後、事実上の女城主となる。 |
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秋山虎繁(武田) |
1572 - 1575 |
おつやの方との婚姻により入城。 |
安土桃山 |
河尻秀隆(織田) |
1575 - 1582 |
岩村城の戦い後、信長により任じられる。 |
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森蘭丸(織田) |
1582 |
武田氏滅亡後に入城するも、直後に本能寺の変で戦死。 |
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森長可 |
1582 - 1584 |
蘭丸の兄。小牧・長久手の戦いで戦死。 |
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森忠政 |
1584 - 1599 |
長可の弟。後、信濃松代へ転封。 |
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田丸直昌 |
1599 - 1600 |
関ヶ原の戦いで西軍に与し、改易。 |
江戸 |
松平家乗(徳川) |
1601 - 1638 |
岩村藩初代藩主。山麓に藩庁を移設。 |
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丹羽氏 |
1645 - 1702 |
5代にわたり統治。 |
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大給松平氏 |
1702 - 1871 |
再入封。藩校「知新館」を設立し文教を振興。明治維新まで統治。 |