岸和田城は、畿内と西国を結ぶ要衝。三好氏の海洋政権を支え、秀吉の紀州征伐では本陣となる。蛸地蔵伝説に彩られ、今は市民の誇りとして歴史を刻む。
岸和田城は、単に和泉国の一地方城郭として存在するのではない。その本質は、畿内と西国、とりわけ四国地方を結ぶ地政学的な結節点に位置し、戦国時代の権力闘争において極めて重要な戦略的役割を担った要塞であるという点にある。大阪湾の制海権と、大坂と紀伊国を結ぶ大動脈・紀州街道の陸路を同時に扼するその立地は、時代ごとの支配者たちにとって、畿内支配の安定と拡大に不可欠な拠点であった 1 。
その歴史は、時代に応じて役割を劇的に変転させてきた点に大きな特徴がある。南北朝時代の動乱期における南朝方の拠点という伝承に始まり、室町時代には守護の居城として、戦国時代には三好氏による畿内制覇の足掛かりとして、そして織田・豊臣政権下では難攻不落の紀州勢力に対する最前線基地として、常に歴史の最前線にその姿を現した。天下泰平の江戸時代に至っても、徳川御三家の一つである紀州藩を監視する幕府の「お目付役」という重要な政治的役割を担い続けたのである 4 。
本報告書は、利用者様が既にご存知の概要の範疇に留まることなく、この岸和田城の多層的な歴史を、特に「戦国時代」という激動の時代を主軸に据え、徹底的に解き明かすことを目的とする。築城の黎明期から、戦国時代の動乱、壮麗な天守を備える近世城郭への変貌、そして城と一体となって発展した城下町の形成に至るまで、あらゆる角度からその実像に迫るものである。
岸和田城の起源は、複数の伝承と断片的な史料の中にあり、その黎明期は謎に包まれている。しかし、それらの伝承を比較検討し、室町時代の和泉国における支配構造の変化を追うことで、城が歴史の表舞台に登場するまでの過程を明らかにすることができる。
岸和田城の築城に関して最も広く知られているのは、建武の新政期、建武元年(1334年)に、後醍醐天皇に仕えた南朝の忠臣・楠木正成が、麾下の一族である和田高家に命じて築かせたという伝承である 5 。当時、この地は単に「岸」と呼ばれていたが、和田氏が城を構えたことから「岸の和田殿」と称されるようになり、やがてそれが転じて「岸和田」という地名が生まれたとされている 8 。
この楠木・和田氏による築城伝説は、後世の支配者が自らの権威を高めるための物語として機能した側面が強い。日本の武家社会において、忠義の象徴として絶大な人気を誇る楠木正成の威光に自らの支配の起源を結びつけることは、その土地の領有の正統性を人々に示す上で極めて有効であった。城の戦略的価値が高まる戦国時代以降、この伝承が特に強調されるようになった可能性は高く、単なる史実の記録というよりも、城の象徴的価値を創造する「権威の物語」として理解する必要がある。
楠木・和田氏築城説が広く流布する一方で、史料上は他の築城説も存在する。応永年間(1394年-1428年)に信濃泰義が築いたとする説 13 や、豊臣秀吉の家臣・小西行長が天正13年(1585年)に築いたとする説 18 も見られるが、いずれも確証に乏しいのが現状である。
また、初期の城は現在の岸和田城から東へ約500メートルの野田町にあった「岸和田古城」であったとされ、そこから現在地へいつ、誰によって移されたのかは明らかになっていない 3 。この古城については、近年、大坂歴史博物館所蔵の絵図の中からその城郭図が発見されるなど、研究が進められており、初期の岸和田城の実像解明が期待されている 20 。
岸和田城が歴史の表舞台に明確に登場するのは、応仁の乱後の室町時代後期、和泉国守護であった細川氏の拠点としてである 19 。当時の畿内は、細川氏と畠山氏という二大勢力が覇権を争う動乱の時代であった。その渦中、明応九年(1500年)、河内守護・畠山尚順が和泉国に侵攻し、岸和田城を攻撃した。この戦いで、城を守っていた和泉上半国守護・細川元有は討死を遂げた 19 。この事件は、岸和田城が畿内の主要な政治勢力間の抗争の舞台となるほどの戦略的重要性を有していたことを示している。
細川元有の戦死は、和泉国における権力構造の転換点となった。主君を失い権威が失墜した細川氏に代わり、現地の支配を担っていた守護代の松浦氏が実権を掌握し、岸和田城主として和泉国を実効支配するようになる 3 。これは、室町幕府の権威が形骸化し、実力者が旧来の権力者を凌駕していく戦国時代特有の「下剋上」の典型例であった。岸和田城は、単なる守護の拠点から、守護代が国を支配する「国盗りの拠点」へとその性格を明確に変えたのである。江戸時代末期の文献『伽李素免独語』には、この松浦氏が現在地に新たに城を築いたとの記述もあり、確証はないものの、松浦氏の時代に城の基礎が大きく固められた可能性が示唆されている 19 。
【表1】岸和田城 主要城主変遷表
時代 |
主な城主/支配勢力 |
在城期間(推定含む) |
主な出来事と城の役割 |
南北朝時代 |
和田高家(楠木氏一族) |
建武元年(1334年)~ |
築城伝説。南朝方の拠点か。 |
室町時代 |
細川氏(和泉守護) |
応永15年(1408年)~ |
和泉国統治の拠点。 |
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畠山尚順(一時占拠) |
明応9年(1500年) |
畿内の覇権争いの舞台。細川元有討死。 |
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松浦氏(守護代) |
16世紀初頭~ |
守護代による実効支配の拠点(下剋上)。 |
戦国時代 |
三好氏(十河一存、安宅冬康) |
1558年頃~ |
四国と畿内を結ぶ最重要戦略拠点。 |
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畠山高政(一時占拠) |
永禄5年(1562年) |
久米田の戦いの発端となる。 |
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織田信長勢力(松浦氏、寺田氏) |
1568年~ |
対石山本願寺、対紀州の拠点。 |
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中村一氏(豊臣氏家臣) |
天正11年(1583年)~ |
対紀州の最前線基地。岸和田合戦。 |
安土桃山時代 |
小出秀政(豊臣氏姻戚) |
天正13年(1585年)~ |
近世城郭への大改修。五層天守の創建。 |
江戸時代 |
小出氏 |
~元和5年(1619年) |
岸和田藩の成立。 |
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松平(松井)氏 |
元和5年(1619年)~ |
総構えの整備。 |
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岡部氏 |
寛永17年(1640年)~ |
紀州徳川家の監視役。城と城下町の完成。 |
16世紀半ば、三好長慶が畿内に覇を唱えると、岸和田城の戦略的価値は飛躍的に高まった。阿波・讃岐を本拠地とする三好政権にとって、岸和田城は四国と畿内を結ぶ生命線であり、その支配体制の根幹を支える心臓部とも言うべき存在となったのである。
天文18年(1549年)の江口の戦いで勝利を収め、室町幕府を傀儡として畿内の実権を掌握した三好長慶は、和泉国をその支配下に置いた 23 。長慶は国際貿易港である堺を経済・政治の重要拠点として直轄支配下に置く一方で、和泉一国の統治を担う軍事・行政の中核拠点として岸和田城を整備した 26 。これにより、岸和田城は堺の衛星都市という位置づけから脱し、和泉支配の司令塔としての地位を確立する。
三好政権は、阿波・讃岐・淡路という瀬戸内海東部の島々と、畿内沿岸部を一体的に支配する「海洋政権」としての性格を強く持っていた。その中で岸和田城は、四国の本拠地から兵員や物資を畿内中枢へ送り込むための「揚陸拠点」であり、政権の生命線を支える最重要拠点であった 2 。
この死活的に重要な拠点を、長慶は最も信頼する実の弟たちに委ねた。まず、その武勇から「鬼十河」と恐れられた四男の十河一存が城主となり、陸上部隊を率いて南和泉の寺社勢力、特に強大な軍事力を有する根来寺への抑えを担った 16 。一方で、三男の安宅冬康は、淡路水軍を統率する海将として岸和田城に在城し、大阪湾の制海権を掌握。四国からの海上補給路を確保するという、政権の兵站を支える極めて重要な役割を果たした 16 。
陸戦の専門家である一存と、海戦の専門家である冬康という、長慶が最も信頼する二人の弟を同時に配置した事実は、岸和田城が三好政権の「陸海共同作戦司令部」とも言うべき機能を持ち、その支配体制の根幹を支える心臓部であったことを明確に物語っている。この時期、和泉国の統治は、軍事を十河一存が、行政を旧来の支配者である松浦氏が分担するという二元的な体制が敷かれていた可能性も指摘されている 20 。
三好政権の絶頂期は、しかし長くは続かなかった。永禄4年(1561年)、岸和田城主・十河一存が病により急死する 30 。軍事の要を失ったことで三好氏の和泉支配は深刻な動揺に見舞われ、この機を逃さず、宿敵であった河内守護・畠山高政が根来衆などと結託して岸和田城に侵攻した。城は数万の軍勢に包囲され、安宅冬康が籠城を余儀なくされる 39 。
この岸和田城の危機を救うべく、長慶の次弟で阿波の本国を預かる三好実休(義賢)が援軍を率いて出陣。永禄5年(1562年)3月、岸和田城南方の久米田寺周辺に布陣したが、畠山軍の奇襲を受けて奮戦の末に討死した(久米田の戦い) 30 。この敗北により、籠城していた安宅冬康は城を放棄して一時阿波へ撤退。三好政権は、一存と実休という軍事の二本柱を相次いで失うという、回復不能な致命的打撃を受けた。
この一連の出来事は、岸和田城の戦略的価値がいかに高かったかを逆説的に証明している。三好政権が、実休という最高幹部の命を失うリスクを冒してでも城を救おうとした判断そのものが、この城の失陥が政権の崩壊に直結するほどの甚大な損失であったことを示している。久米田の戦いは、単なる野戦ではなく、「岸和田城をめぐる戦い」が生んだ悲劇であり、城郭の地政学的重要性がいかに歴史を大きく動かすかを物語る典型例と言えるだろう。
三好氏の衰退後、畿内に進出した織田信長、そして天下統一事業を継承した豊臣秀吉の時代において、岸和田城は新たな役割を担うことになる。それは、天下人の支配に最後まで抵抗した紀州の雑賀衆・根来衆に対する、最前線基地としての役割であった。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、和泉国を支配していた松浦氏も信長に服属した 2 。信長は、当時敵対していた石山本願寺への海上からの兵糧・武器の補給路を遮断するため、大阪湾岸の支配を極めて重視した。岸和田城もその戦略の一翼を担い、松浦氏配下の寺田又右衛門・松浦安大夫(宗清)兄弟らが信長の指揮下に入り、城の守りを固めた 16 。天正5年(1577年)に信長が自ら大軍を率いて行った第一次紀州攻め(雑賀攻め)においても、岸和田城は進軍や補給の拠点として機能したと考えられる 50 。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、その後継者となった羽柴秀吉は、天正11年(1583年)、家臣の中村一氏を岸和田城主として配置し、紀州勢力への「抑え」とした 10 。これに対し、当時最強の鉄砲傭兵集団として知られた雑賀衆・根来衆は、岸和田城の南に位置する現在の貝塚市域に、千石堀城をはじめとする複数の支城(付城)を築いて防衛ラインを構築。岸和田城との間で、互いの領地を焼き払うなどの小競り合いが頻発する、一触即発の緊張状態が続いた 53 。
天正12年(1584年)、秀吉が徳川家康・織田信雄と「小牧・長久手の戦い」で対峙し、畿内の主力が手薄になった隙を突いて、雑賀・根来衆を中心とする紀州勢が数万(一説には3万)の兵力で岸和田城に大挙して押し寄せた。これが世に言う「岸和田合戦」である 6 。城主の中村一氏が率いる城兵はわずか数千(6千から8千とされる)であり、兵力差は歴然としていた 19 。
一氏は籠城を選択し、紀州勢の猛攻に耐えた。この絶体絶命の攻防戦の最中、城の堀から大蛸に乗った一人の法師と無数の蛸の軍勢が現れ、凄まじい勢いで敵兵をなぎ倒し、城を救ったという伝説が生まれた 2 。数日後、堀から矢や鉄砲玉で傷だらけになった地蔵菩薩像が発見され、あの法師はこの地蔵の化身であったとされ、以来「蛸地蔵」として篤く信仰されるようになった。この物語は、天性寺が所蔵する『蛸地蔵縁起絵巻』に詳細に描かれている 30 。
この伝説は、単なる奇譚として片付けるべきではない。圧倒的な兵力差という絶望的な状況下で、城を守り抜いた兵士や民衆の「神仏の加護を信じる」という強い精神的な一体感が、士気を支え、物理的な劣勢を覆す力となった、集合的記憶の産物と解釈することができる。
小牧・長久手の戦いが和睦で終結すると、秀吉は岸和田城を攻撃した紀州勢への報復として、天正13年(1585年)、約10万もの大軍を動員し、本格的な紀州征伐を開始した 10 。この時、秀吉は本拠地である大坂城ではなく、あえて岸和田城に自身の本陣を置いた 30 。
この行動は、単なる軍事上の利便性からだけではない。「昨年、我が家臣が貴様らの猛攻を耐え抜いたこの城から、今度は天下人である私が直々に引導を渡す」という、紀州勢に対する強烈なメッセージであり、自らの権威を最大限に誇示する高度な政治的パフォーマンスであった。岸和田城は、天下統一事業の正当性と圧倒的な力を示すための「劇場」として活用されたのである。
秀吉は岸和田城から全軍に指令を発し、まず千石堀城などの支城群をわずか一日で攻略。次いで根来寺に攻め込み、これを焼き討ちにした。最終的には、雑賀衆が籠城する太田城を水攻めによって陥落させ、紀州を完全に平定した 53 。岸和田城は、天下統一の総仕上げとも言える大事業の司令塔として、その歴史に最も輝かしい一頁を刻んだのである。
紀州平定後、岸和田城は新たな時代を迎える。豊臣秀吉の叔父にあたる小出秀政が城主となり、彼の手によって、それまでの中世的な軍事要塞から、壮麗な天守を戴く近世城郭へと大きくその姿を変貌させた。この大改修は、単なる一城郭の整備に留まらず、豊臣政権による西国支配の安定化という国家戦略の一環であった。
紀州征伐の論功行賞により、中村一氏は近江国へ加増転封となり、代わって天正13年(1585年)、秀吉の叔母・栄松院を妻に持つ小出秀政が岸和田城主として入封した 5 。秀政は豊臣一門衆という極めて信頼の厚い立場から、平定されたばかりの和泉・紀州地域の安定化と、大坂城の南方防衛という重責を担い、城郭の大規模な整備事業に着手したのである 66 。
秀政による改修の最大の功績は、天守の創建である。慶長2年(1597年)、五層の壮麗な天守が完成し、岸和田城は単なる軍事拠点から、支配者の権威を天下に示すシンボルへと昇華した 5 。この天守の建設は、大坂城を中心とする豊臣政権の「首都圏防衛構想」の重要な一部であり、潤沢な資金と最新の築城技術が投入された国家プロジェクトであったと考えられる。
城全体の設計である縄張りも大きく改修された。本丸を中心に、二の丸、三の丸、さらには城下町を取り込む町曲輪が同心円状に広がる「輪郭式」が採用され、城の防御能力は飛躍的に向上した 2 。この本丸と二の丸を重ねた縄張りの形状が、機織り機の縦糸を巻く「ちきり」という部品に似ていたことから、岸和田城は「千亀利(ちきり)城」という優美な別名で呼ばれるようになった 14 。
江戸時代初期の正保元年(1644年)に幕府へ提出が命じられた『和泉国岸和田城図』(正保城絵図)は、往時の岸和田城の姿を最も正確に伝える一級の史料である 22 。この絵図には、中央に聳える五層の天守閣をはじめ、城内に15棟あったとされる櫓、そして弓や鉄砲を撃つための「狭間」が合計926箇所も描かれており、岸和田城が極めて堅固な要塞であったことを物語っている 22 。
天守の構造については、絵図から、初期の望楼型天守(下見板張で武骨な外観)から、後の層塔型天守(各階を規則的に積み上げた整然とした外観)へと改修された可能性が読み取れる。小出秀政が創建した天守は複合式望楼型、その後の元和5年(1619年)に入城した松平康重による改修で複合式層塔型になったとする説が有力である 14 。
【表2】岸和田城天守の比較
項目 |
旧天守(文政10年焼失) |
現天守(昭和29年再建) |
階層 |
五層五階(または六階) |
三層三階 |
高さ |
約32.4メートル(石垣上より) |
約22メートル(石垣上より) |
構造 |
複合式望楼型または層塔型(木造) |
連結式望楼型(鉄骨鉄筋コンクリート造) |
建築時期 |
慶長2年(1597年)創建、元和5年(1619年)改修 |
昭和29年(1954年) |
建築目的 |
藩主の権威の象徴、軍事司令塔 |
市立図書館(当初)、郷土資料館、観光施設 |
史料根拠 |
『正保城絵図』等の古絵図 |
昭和期の設計図 |
外観的特徴 |
千鳥破風、唐破風などを備えた壮麗な外観(推定) |
望楼型を模しているが、規模や意匠は独自のもの |
岸和田城の石垣は、自然石をそのまま積んだ「野面積み」から、石をある程度加工して隙間なく積む「打込ハギ」へと、築城技術の変遷を示している 8 。その中でも特筆すべきは、本丸石垣の基部に設けられた「犬走り」と呼ばれる幅の広い帯状の平坦地である 2 。
この構造は、敵兵に足場を与えてしまうため、防御の観点からは非常に不利である。しかし、これは築城技術の未熟さを示すものではない。岸和田城の石垣には、この地域で産出されるものの、脆くて崩れやすい性質を持つ「和泉砂岩」が多く使用されている 8 。最新の築城理論に基づき、高く切り立った石垣を築こうとした際、この脆弱な地質という制約に直面した。その結果、石垣の安定性を確保するために基部の幅を広げるという、極めて合理的かつ創造的な解決策として「犬走り」が編み出されたのである。これは、城郭建築が常に現地の自然条件との対話の中で成立する実践的な技術であったことを示す貴重な物証と言える。
また、平成11年(1999年)の豪雨で崩れた石垣の修復工事の際には、石材の中から永正、天文、永禄といった16世紀前半から中期の年号が刻まれた墓石が多数発見された 22 。これにより、本丸の石垣が三好氏の時代以降に本格的に築かれたことが考古学的にも裏付けられた。
江戸時代に入り、岸和田城は戦乱の舞台から藩政の中心へとその役割を変える。寛永17年(1640年)に岡部氏が入封すると、城と城下町は最終的な完成期を迎え、幕藩体制下で重要な政治的役割を担うことになった。
小出氏、そして次代の松平氏の時代を通じて、城下町の整備は進められていたが 3 、その完成を見たのは岡部宣勝の時代である。宣勝は城下町を大きく拡張し、大坂と和歌山を結ぶ大動脈である紀州街道を城郭内に取り込むという、極めて大胆な都市計画を実行した 3 。
この都市設計は、単に交通の便を良くするためだけのものではなかった。街道という人・モノ・情報の流れを完全に藩の管理下に置くことで、経済的な利益を最大化すると同時に、最大の監視対象である紀州藩の動向(参勤交代の行列の規模や往来する人々の様子)を常時把握するという、軍事・経済・諜報の三つの目的を同時に達成するための、高度な戦略的意図に基づいていた。城下町そのものが、巨大な情報収集・経済収奪システムとして設計されていたのである。街道沿いには商家が軒を連ね、岸和田は南泉州の経済的中心地として繁栄した 82 。
城下町は、城の南側に位置する岸城町に上級武士の屋敷が、紀州街道沿いの本町や魚屋町などに商人町が配置されるなど、身分に応じた明確なゾーニングがなされていた 8 。藩の財政は、藩の御用商人や、経済力のある大庄屋(七人庄屋など)といった町人たちの経済活動によって支えられていた 86 。
譜代大名である岡部宣勝が岸和田に入封した背景には、徳川御三家筆頭という強大な力を持つ隣国の紀州藩(藩主・徳川頼宣)の動向を監視する「お目付役」、いわゆる「紀州がため」という幕府からの特命があった 5 。
ある時、江戸城で紀州藩主・徳川頼宣から「其方が和泉にいるのは、我らを抑えるためと聞くが」と問われた宣勝は、「大身のあなた様を抑えるなどとんでもないこと。せいぜい足の裏に付いた飯粒のようなものでございましょう」と答えたという逸話が残っている 71 。足の裏の飯粒は、小さくても常に気になる不快な存在である。この返答は、小藩ながらも幕府の権威を背負う岸和田藩の気概を示すと同時に、両藩の間に横たわる緊張関係を象徴している。岸和田城は、徳川幕府の巧みな大名統制術を具現化するための、政治的・心理的な監視拠点として機能したのである。その重要性の証として、二の丸には将軍家ゆかりの伏見城から櫓が移築されたと伝えられている 7 。
江戸時代の岸和田藩および泉州地域の経済を支えたのは、温暖な気候を活かした綿花の栽培と、それを加工する綿布・綿糸の紡績業であった 89 。この伝統は近代にも受け継がれ、明治時代には旧岸和田藩士の授産事業として始まった煉瓦産業や、寺田財閥が率いる岸和田紡績株式会社の急成長によって、岸和田は日本有数の繊維産業都市として発展を遂げた 91 。
岸和田城の歴史は、戦国時代を通じて、その戦略的価値がいかに高かったか、そして時代の要請に応じてその役割をいかに変転させていったかを雄弁に物語っている。畿内と西国を結ぶ結節点として、三好氏の海洋政権の心臓部として、そして織田・豊臣政権による天下統一事業の最前線基地として、岸和田城は常に日本の歴史の転換点にその存在を刻み込んできた。
しかし、その栄光の象徴であった五層の天守は、文政10年(1827年)に落雷によって焼失。再建されることなく幕末を迎え、明治維新後には廃城令によって櫓や門も破却され、城は本丸と二の丸の石垣と堀を残すのみとなった 4 。
この喪失の時代を経て、岸和田城が再びその姿を取り戻すのは、戦後の昭和29年(1954年)のことである。往時の五層ではなく三層ではあったが、市民からの熱心な寄付と旧城主・岡部氏の子孫の要望により、鉄骨鉄筋コンクリート造の天守が再建された 8 。特筆すべきは、この復興天守が当初、市立図書館として利用されたことである 65 。これは、城がもはや権力者の象徴ではなく、市民の知識と文化を育む拠点として生まれ変わったことを示している。
今日、岸和田城は大阪府の史跡に指定され 96 、「続日本100名城」にも選定されている 98 。天守前に広がる、作庭家・重森三玲の傑作「八陣の庭」は国の名勝に指定され、その芸術的価値も高く評価されている 9 。勇壮なだんじり祭りと共に、岸和田城は戦国の記憶を今に伝え、市民の誇りであり続ける地域のシンボルとして、新たな歴史を刻み続けているのである。